イワシの翻訳LOVE

はしくれトランスレータ「イワシ」が、翻訳への愛をつれづれなるままに記します。

ライスカレーの法則、あるいは「割にあわない」オオカミ中年

2009年06月16日 18時19分05秒 | Weblog
「ウルフ」の愛称で知られた元千代の富士の九重親方の現役時代のインタビューを読んで「へえ」と思ったことがあります。彼は自分の仕事をとても「楽」だと思っていたそうです。一日一番だけ相撲を取るだけで、お金がもらえるなんてこんなに「割のいい」仕事はない、と。傍目からみたら、その一番をとるためには日々のたゆまぬ稽古をしなければならないわけだし、負け続けたり、大けがをしたりしたら簡単に職を失うリスクもある、非常に厳しい世界に思えます。あちこち巡業にいかなければならないし、縦社会でストレスも多そうだし、対戦相手の朝潮が頭から突っ込んでくることを考えると想像しただけで背筋に悪寒が走ったりしますが、彼は「サラリーマンのほうがよっぽど大変で、自分には絶対にできない」と語っていました。

それを読んだ僕は「なるほど、すごいことをやっている人というのは、意外と自分ではそれを、割のいい仕事、あるいは楽な仕事だと感じていて、だからこそすごいことができるのかもしれない」とハタと膝を打ったのでした。

同じように、サッカーの木村和司さんが、元旦の天皇杯の決勝のテレビ中継の解説をするときに、毎年のように「正月から好きなサッカーができるなんて、選手にとってこれ以上幸せなことはないですね~」と激しく実感を込めて語っていたのですが、そのセリフを聞くたびに、「なるほど、すごい人というのは、本当にその仕事のことが好きなんだな~」とハタと膝カックンをしてみたりしたものでした。僕は、いくら好きなサッカーとはいえ、元旦から試合なんてけっこう大変じゃないのかな~、と思っていたりもしたのです。天皇杯で早く負けたらその分、オフが長くなるわけですし。だけど、木村さんはそんなことはみじんも考えていないようでした。できることなら解説席じゃなくて、ユニフォームを着てピッチに立ちたい。そういうウズウズした想いが伝わってくるようでした。サッカーが本当に好きなんですね。

つまり、他の人からみて「大変だ」と思うことを大変だと思わない。「割のいい仕事」というとなんだかいやらしいニュアンスもありますが、そう思えるかどうかが、ある仕事を続けていく上で、様々な面においてひとつの分水嶺になるのではないでしょうか。時給換算してとか、平均年収と比較してどうだとか、そういう客観的な尺度ももちろん大切です。だけど、賃金が相場より低くても、仕事がそれ以上に楽に感じられたらそれは割がよくなるのかもしれませんし、逆にいくら給料がよくても仕事があまりにきつければ、割に合わないとも感じるでしょう。ようは自分がどう感じているかが大きなポイントになるわけです。

翻訳の仕事も、案件によって難易度や作業負荷は実に様々でして、当然、「割に合うもの、合わないもの」が存在します。特に、1000ワードに満たない仕事というのは概して割に合わないと感じられるものです。たとえば「300ワードのプレスリリースの仕事」なんて、処理量からいったら1時間くらいで終わらせなくてはならない「赤子の手をひねるように簡単な仕事」ではないのかと請けるときは想像してしまいがちなのですが、現実には背景情報や専門用語、過去データなどを調べていたらあっという間に時間は過ぎ去り、赤子の手をひねるどころか、こちらが三角締めを決められたような状態になってしまって、息も絶え絶えになって何時間もかかってしまうなんてことはザラにあります。まあ、それは私の実力不足によるところが大きいわけなのですが、こういうときは「割に合わないな~」とついゴチてしまいます。時間あたりいくらの仕事だったんだろう、と後でそろばんをはじいたりして。

よく例えられることですが、カレーと同じで、一人前を作るのも五人前を作るのも、手間暇はそんなに変わりません。小さな案件は、カレーを一人前あるいは半人前ほど注文されたみたいなもので、じゃがいもを切ったり、タマネギを切ったり、ルーをコトコト煮込んだりと、時間と労力をかけて仕込みをした割には、アウトプットの量が少ない、というわけです。タクシーみたいに初乗り料金を設定するわけにもいきません。翻訳会社によってはミニマム料金を設定しているところもあり、翻訳者にもミニマムいくらからしか請けない、という方もいらっしゃいます(ただし、ものすごくミニマムな量を基準にされています)が、その基準(たとえば150ワードとか)を下回る案件というのは本当に希にしかないので、実際は有名無実な存在に限りなく近いと思います。

でも僕は、心の奥底からは、「小さい仕事は本当に割に合わない」とは感じていません。その理由はいろいろあります。まず、小さな案件は目先が変わって面白さを感じることができます。カレーに福神漬けが合うように、小さな案件が大きな案件の合間のアクセントになるわけです。言わばつまみ食い的な面白さです。それに、少々不純ではありますが、小さい仕事を請けているからこそ、大きな仕事も依頼してもらえるとも言えます。小さな仕事が割に合わないということは、依頼者の方も当然知っています。だからこそ、そこでいい仕事をすれば「小さな案件ばっかりでいつも申し訳ないので、今度大きな仕事がきたときにあの人に発注してあげよう」と思っていただけるわけです。それは僕が仕事を依頼する側だったときに、感じていたことでもあります。逆にこちらも、いつも大きな案件でお世話になっているのだから、小さな案件で依頼者の役に立てるのであれば、ぜひそうしたい、とも思います。

吉野屋ではありませんが、「上手い、早い、安い(「上手い」と「早い」は当てはまらないかもしれません)」サービスを提供できたのではないか、という喜びもあります。依頼した人に、「これだけの対価で、これだけの仕事をしてくれた。頼んでよかったな」と思われることは、仕事を通じて感じることのできる大きな喜びのひとつだと思います。まあこれは、小さな案件に限ったことではないのですが。

もちろん、常に割に合わなさを感じているようだと問題です。いつも「なんて安いんだろ」、と嘆いてばかりいたら精神衛生上よくありません。僕の場合は、ごく希にくる小さな案件で前述したような割の合わなさを少しだけ感じることがあるくらいで、基本的には「翻訳をしてお金をいただけるなんて、なんて幸せなことなんだろう」と思っています。なんだか申し訳ないとすら思ってしまいます。そしてだからこそ、その「割のよさ」「申し訳なさ」を埋めるために、もっと頑張っていい仕事を提供しよう、と感じることができるのではないかとも思うのです。どれだけ徹夜しようが、休みがなかろうが、やはり翻訳は僕にとって「割のいい」仕事ではないかと思うのです。他の仕事ができないということもありますが。

「割に合わない」仕事は、やっぱりその仕事を続けたいと思えるか、それともアホらしくてやってられないと思うか、ということを判断するためのリトマス紙なのかもしれません。そして幸いなことに、僕のリトマス紙試験の結果は、今のところ「尿酸値が高い」じゃなくて、「仕事を続けたい」とはっきりと書いてあるように思えるのです。

強いて言えば、自由業は「思っていた割には人に会えない」、というところに割の合わなさは感じます。まあこれも、出不精の自業自得なのですが。

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