イワシの翻訳LOVE

はしくれトランスレータ「イワシ」が、翻訳への愛をつれづれなるままに記します。

彼の魂魄

2009年01月05日 14時38分12秒 | ちょっとシリアス
元旦に断食をして少々意識が朦朧としていたとき、ふと、小学校時代の同級生で、同じ中学校に通っていたときに命を失ってしまった友人のことを思い出した。

大人しくて、ひょうきんで、誰からも好かれていて、僕ともとてもウマがあった。中学に入ったらクラスが別れてしまったので、あまり話す機会もなくなってしまったのだけど、廊下ですれ違ったときは目と目を合わせて軽く挨拶し、お互いの存在を確認し合った。夏休みのある日、彼が海水浴にいって溺死してしまった知らせを友人から聞かされた。

当時の僕は、人の死を上手く受け入れることができなかった。信じられないという気持だけが頭の中をグルグルと渦巻いていた。涙は流れなかった。しばらくして小学校時代の友人たちと彼の家に行き、仏壇に飾られた遺影に手を合わせた。友人のひとりが遺影に向かって話しかけると、彼の母親が崩れるようにして嗚咽した。

僕は高校二年の春に父親の都合で他県に転校した。夏休みに、5年間を過ごしたその街を訪れた。友人たちと久しぶりに会い、楽しい時を過ごした。白状するけど、そのときはかなりお酒を飲んだ。酔いがまわってきたころ、突然、亡くなった彼のことが脳裏をよぎり、胸が締めつけられるような悲しみに襲われた。涙が溢れてとまらず、地面に突っ伏して言葉を叫んだ。泣き続け、帰る時間になっても動けず、友達に抱きかかえられるようにして前に進んだ。あれほど泣いたことは、自分の人生の中でも片手で数えられるほどしかない。

彼のことは今でもときどき思い出す。今頃、天国で何をしているのだろうか。あの夏の日から何十年も経った今でも、僕はまだこうして生きている。彼の分まで生きることも、残された僕たちの使命だとは思う。だけど、どれだけ僕が必死に頑張ったところで、彼が戻ってくることはない。天国にいる彼と、まだこの世にいる僕。彼がもう五感で感じることができない世界を僕は生きている。決して止まることのない時間という尺度に支配された現実のなかにいる。

死はいずれ僕の下へも訪れる。僕にできることは、最後の日が来るまで、苦楽を味わいながら生き続けることだ。以前よくつきまとわれていた、自らの命を失うことに対する漠然とした不安は、最近あまり感じなくなった。僕にはまだ人生でやり残したことがあり、それを成し遂げるまでは、生きることの方が死を恐れることよりも大切だと考えるようになったからだと思う。誰かに大切な何かを渡すまでは、走り続けなければならないのだし、あきらめずに走り続けたい。そんな心の声が聴こえる。

彼のことを想ったのは、僕の心の作用にすぎない。とはいえ、彼が久しぶりに僕の目の前に現れたのは、きっと何かのメッセージを伝えようとしてくれていたからに違いない。一言で言えば、それは「生きろ」なのかもしれない。そうだ。生きよう。懐かしく、温かい気持ちに包まれながら、そんなことを考える。友よ、安らかに眠れ。