イワシの翻訳LOVE

はしくれトランスレータ「イワシ」が、翻訳への愛をつれづれなるままに記します。

フリーランス翻訳者殺人事件 2

2009年01月28日 21時25分27秒 | 連載企画
そこにいたのは、ペリカンでもクロネコでもなかった。身長2メートルはあろうかという体躯のいい、青い眼をしたロシア人格闘家でもなかった。それは、若き日のジョン・リスゴーを彷彿とさせる、背の高い真面目そうな青年だった。

「NHKの者ですが」と彼は言った。

それがY新聞だったり、得体のしれない団体だったり、百科事典のセールスだったりすれば、わたしは迷わず例の如く「すみませんが、結構です」と言って扉を閉めただろう。そうやって冷たく扉を閉めるときは、ちょっとだけ相手に対して申し訳ない気持にもなる。だが、いちいち付き合ってはいられない。わたしにだって、やるべき仕事があるのだ。やるべき仕事をしていないときでも、あるいはやるべき仕事がないときでも、答えは同じだ。突然他人の家を訪問して、何かを売りつけたり、勧誘したりする。それはわたしの好む行為ではない。誰かに何かをアピールしたいのであれば、もっと正々堂々と、そして相手のパーソナルな領域に入り込まない形でやるべきだ。そのために、世の中には広告宣伝という媒体があるのだ。消費者は、欲しいものがあれば自分でそれを探して手に入れる。それが資本主義のルールだ。売り込みは構わない。だが、突然他人の家を訪問するのは、一線を越えている。土足で家の中に入り込むのと同じことだ。

だが、もし翻訳会社のコーディネーターや、出版社の編集者が突然訪ねてきてくれて、「この仕事、やってくれませんか」と言ってくれるのなら話は別だ。もちろん大歓迎する。そんな僥倖に恵まれた日には、玄関先で話を終わらせることなど決してない。リビングに招きいれ、コーヒーを淹れ、お茶菓子を出して、精一杯もてなして、話を聞く。仕事場を見てもらい、ついでに寝室も見てもらい、ベランダから景色を眺めてもらう。長居ができそうであれば、料理だってふるまう。夕方であれば、ワインとビールを買い出しに行く。デザートとつまみも買う。そして、仕事の話を終えた後も、つきることのない翻訳話を楽しむのだ。本棚を眺めてもらい、彼/彼女が手に取った一冊をネタにして、いつまでも語り合う。翻訳について、本について、お互いの人生について。

NHKの人が来たのはいつ以来だろう。わたしの家には、テレビがない。同居人が半年前にこの家を出ていくことになったとき、持って行ってもらったのだ。持っていってもらえるものは、すべて持っていってもらえばいい。そう思っていたということもあるし、特にテレビは、会社を辞めフリーランスになる直前だったわたしにとって、仕事の邪魔になるのではないかという懸念を感じさせるものだったため、少々無理をいって引き取ってもらった。会社にいかなくてもいいわたしは、何時に目覚めようと誰にもとがめられなくなる。昼間に起きて、『笑っていいとも』を見る。見るともなしに、ワイドショーを見る。あるいは、深夜までダラダラと過ごし、スポーツニュースやお笑い番組をはしごする――そんな自堕落な生活だけは避けたいとおもったのだ。わたしは自分が相当に自堕落な人間だと知っている。だからこそ、自堕落になることは意識的に避けるべきなのだ。

仕事が軌道に乗るまでは、テレビを持たない。なりゆきでそうなった部分は多いとはいえ、そのわたしの決断は、ある程度は妥当なものだったと思う。この半年、わたしはテレビ番組を一切見ていない。それはわたしに自己管理能力があったからではない。単に、家にテレビがなかったからだ。テレビがない生活も、慣れてしまえば悪くない。時間は増えるし、活字に対する親近感も増す。もちろん、わたしは頑迷なテレビ否定論者などではない。テレビは大好きだ。わたしがテレビを見ているのではなく、テレビがわたしを見ているのではないかと思ってしまうほど、わたしはテレビを見てしまう。だが、わたしの仕事は翻訳だ。わたしが相手にしなければならないのは、映像ではなく、言葉なのだ。テレビを3時間見ている暇があったら、1冊でも多くの書物を読んだ方がいい。明治の文豪だって、テレビがない時代だからこそ、あれほどまでに言葉を磨きあげ、言葉と格闘することができたに違いない。彼らは、強迫観念的に毎日『ニュースステーション』を見なければならないと思わなくてもよかったのだ。

彼は何を求めてこの扉を叩いたのか。テレビのないこのわたしに、何を求めているのか。実は、わたしはテレビがなくなった今でも、NHKの受信料を支払っている。引き落としの手続きを変更するのが面倒だからだ。いつかまたテレビのある生活に戻るかもしれない。きっとまたそんな余裕と潤いのある暮らしが始まるだろう。そんな淡い期待もあって、もったいないなとは思いつつ、NHKにお金を支払い続けている。NNKにとっては、こんなにいい客はいないはずだ。テレビを見ていないのに、受信料を支払ってくれる。吉野家でいったら、牛丼を食べないのに、お金だけを支払ってくれる客のようなものだ。自分でいうものなんだが、日本の映像文化の振興にこれほど純粋な形で貢献している人も珍しいだろう。わたしは、日本放送協会に賽銭を投げているのだ。『篤姫』の話題に、まったくついていけないこのわたしが。

というわけで、わたしには彼に対して後ろめたいところはまったくなかった。受信料はきちんと支払っている。テレビがないのに払っている。嘘偽りはまったくない。わたしは、彼の眼を見た。煮るなり焼くなり好きにすればいい。どこからでもかかってこい。わたしは白だ。わたしはクリーンだ。わたしは潔白だ。わたしはやってない。

「テレビは持っていません。でも受信料は支払っています」わたしは彼にその旨を伝えた。まるで自分がいっぱしの慈善家でもあるかのように。

彼は少々意表をつかれたようだった。だが、驚いたとことに、彼のわたしに対する疑念は、消えることはなかった。それはこの1月のどんよりとした曇り空のように、どこまでも暗く、重たいものだったのだ(続く)。