額縁の庭 宝泉院

2010年01月23日 | 日記

平安初期、比叡山に天台仏教を開いた最澄の高弟・円仁が唐に渡り、十余年の仏教修学を終え帰国し、叡山に密教、五会念仏等その法要儀式に用いる仏教音楽「声明」を伝えた。後、寂源が大原寺(勝林院)を創建し、法儀声明を盛んにした。平安末期、良忍が出るに及んで大原は、法儀声明の修学地(声明の里)として有名になる。当院は、大原寺(勝林院)住職の坊として平安末期頃よりの歴史を持ち、現在に至っている。

建物は室町時代文亀二年の再建といわれるが、建物等の形式からみて江戸初期頃の再建だと思われる。

額縁庭園は客殿の西方、柱と柱の空間を額に見立てて鑑賞する。竹林の間より大原の里の風情を満喫できる。庭の名は盤桓園(立ち去りがたい意)と称する。

宝泉院のパンフには上記のように記されている。

宝泉院は勝林院の坊であった事から三千院参道の奥、勝林院の横に位置しているため、参道からその建物を見る事ができない。そのためか至極残念な事ではあるが、数年前までは宝泉院の存在を知らない観光客などは、勝林院から先に足を運ばずに戻る事が多かったようである。

しかし、ここ二、三年、宝泉院を訪れる拝観客が随分と多くなった事に驚いている。

勝林院の前から横手に入ると、いかにも坊のために作られたかのような細い道がある。

声明が盛んであった当時には、多くの僧侶達がこの細い道を行き来したのであろうと思うと感慨深いものがある。

坊としての建物ゆえか山門はいかにも小さいが、反して山門の正面には近江富士を模ったといわれる大きな五葉松が構えている。この五葉松、一説には樹齢700年と伝えるが、その幹の見事さを客殿から見る事ができる。

 

 ・・・・山門・・・・

 ・・・五葉松・・・

・・・五葉松 幹・・・

客殿に足を進めると、額縁庭園で知られる盤桓園(ばんかえん)の光景が目に飛び込んでくる。盤桓園を初めて目にした時の衝撃は今でも忘れる事がない。京都には額縁庭園をもつ寺院が幾つかあるが、私の感性には宝泉院の庭園がよく合っているようである。以来、雪の盤桓園を鑑賞したく、幾度か冬に訪れたが昨年ようやく見ることができた。

  

・・・竹林・・・

盤桓園は松竹梅の構図をとっているが、初代の梅木は枯れたようで現在は二代目になるのだろうか小振りな木となっている。初代の梅木が現存しておれば、なお一層素晴らしい光景が見られたろうに惜しいことである。

大原は声明の里とされるが、拝観時に一度もその声明を聞いた記憶がない。だが、囲炉裏の部屋に録音テープがあり聞くことができた。声明独特の旋律は実に心地よいものである。声明が流れるなか、静かに盤桓園を鑑賞できるならばどれほど素晴らしい事であろうか。

さて、宝泉院からいただいたパンフに「竹林の間より大原の里の風情を満喫できる」とあるが、惜しいかな現在は竹林の間に杉の幹が混ざり、その風情を阻害している。さりとて、いまでも山並みを流れる霧を竹林越しに垣間見る事はでき、その風情をもってよしとしている。

また、少しでも手前から庭を鑑賞しようとするのが人情、赤い毛氈の上に座して動かずの状況はどの額縁庭園でも経験する事である。しかし、寺院の庭園は、基本的に床の間、本尊様の前など客人をもてなす位置から眺めるように設計、作庭されていると聞き及んだ事がある。さすれば、庭園の手前から少し離れた位置での鑑賞が庭を一番美しく鑑賞できるビューポイントとなるのだが・・・

しかしながら、拝観時間内で誰もいない額縁庭園を撮るのはなかなか難しいものである。

ところで昨年、ある方のブログを拝読して驚いたのだが、宝泉院も撮影禁止になったとの記事がアップされていた。真偽は定かでないが事実なら残念な事である。

この美しい庭園を鑑賞できる客殿の天井に、慶長5年、伏見城落城のおり鳥居元忠が自刃して果てた床板を血天井にして供養している。京都市内には源光庵、養源院、正伝寺の各寺院でも同様に供養されているが、興味本位で見るものではないと考えているためブログでは深く触れない事にしている。