赤玉神教丸

2017年12月11日 | 日記

さてさて、湖北から湖東まで結構な距離ですが、高月から小谷山を経由し戦国大名浅井の城下町を通りました。

近江を制する者天下を制するといわれた戦国ですから、信長に反旗を掲げた浅井に小谷山の真向かいになる虎御前山に織田軍の精鋭が陣を張り圧力をかけたようです。

後に浅井三姉妹に絡む秀吉軍も虎御前山に陣を張っておりました。

小谷落城はよくドラマ化されますが、小谷山とは意外と近い距離にあります。

落城後城下の地名の殆どが長浜で使われたようですが、ご存知のように長浜は秀吉の城下町ですので、この地名変遷も何となく頷けるところもあります。

このような訳なのか、小谷は当時の城下町らしき面影は殆ど残していないようです。

 

話を戻しまして、湖東へは長浜サイドを通り彦根を抜け西明寺までのルートです。

滅多にない機会ですので国道を使わずに、醒ヶ井から中仙道に入り旧街道を行くことにしました。

中仙道は、お江戸日本橋から木曽路を通り京都三条までの街道ですが、今回はそのほんの一部、醒ヶ井、番場、鳥居本の3宿場を通り国道から多賀町へと抜けます。

 

中仙道の途中で、珍しい老舗を見つけました。

赤玉神教丸の製造元です。

 

私の田舎の昭和の前期は、現在のように街中に薬局があるような状況ではありませんでした。

当時都会といわれた、大きな町以外は殆ど同じ状況ではなかったかと思います。

そこで、当時は富山の薬問屋からの行商人が、置き薬として家々を回っていました。

その置き薬の中に「赤玉」がありました。

当時は、お腹の薬として、腹の調子がよくないといえば、親がよくこの赤玉を出して飲まされたものです。

 

富山の行商人もここからの仕入れと今回伺いました。

地元の方は、ご存知なのでしょうが、現在も健在で商売を商っているようです。

 

明治天皇が鳥居本への行幸の際、休憩所にもなったとの事です。

それにしても、懐かしい薬を思い出しました。

赤玉は土産に数箱買い求め持ち帰りとなりました。

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