本来、人間に墓などいらない、と私は思う。墓を持つということは、古代より強い権力や経済力の象徴であった。それが江戸時代になって、幕府の宗教政策としての檀家制度(寺壇制度・寺請制度)と共に平民にまで強制させられただけだ。
先祖の墓に入りたくないとは「不届きな奴」と言われるかもしれないが、どうせなら私は、海に散骨したり、樹木葬などが良いと思う。
以前、「千の風になって」が大ヒットしたが、歌詩は明らかに、墓の存在を否定している、といっても過言ではない、と思う。ということは、この考えへの賛同者は、意外と多いかもしれない。
ウメバチソウ(梅鉢草)
毎回ブログ楽しみに拝見しています。
人は死ねば意思など無い土になるのだという考えは一貫しているのに
嫁いで来た当初墓の中でまで従えるのは嫌だとの思いで
「ここの墓には入りたくない」とこぼしたら
義母に「宅急便で実家に送ってやるよ」と言われました。
今では苦い思い出ですが戒名料が浄土真宗の何倍と高い真言宗の事を思うと
宗教に疑問が湧き樹木葬が良いなと思いますね。
でも地域の目や親族の目があり出来ませんけどね。
すみません墓でなく宗教の疑問になってしまいました。
墓地と墓一式を寺に返し、お骨は散骨して・・・・
などと思うのですが、実際にはなかなか付き合いを断ち切れそうにもありません。
困ったものです。
「こんなところに入りたくない墓洗う」
とっても面白い句ですね。今の多くの人の意見を代弁している俳句ではないでしょうか。入りたくない、と思いつつ・・・、墓を洗っている、と言うのが 意地らしいですよね。
「千の風になって」はとてもいい曲でしたね。私も大好きな詩と曲です。
TV で仏教のお坊さんが、この詩はとても仏教的だ、というのを聞きました。だから、きっとそうなのでしょう。
アメリカの墓は多くは個人個人のようです。亡くなった人を埋葬してその上に墓碑銘を建てます。だから、夫婦が同じ墓に入ったり、家族が入るなんて事はありません。並んで墓を造ることはあるようですが・・・。
みんな個人の故人の墓です。それが、ごく普通のようです。
必ず遺体を埋める土葬ですので、故人の墓になります。その墓の上に埋めて墓を造るということはできません。その場所の地面の中に故人が眠っていることになります。
キリスト教のことはよく知りませんが、肉体はそこで滅んでいきますが、魂は天国に昇っていくのだと思います。だから、そこで眠る遺体はとても大切なものです。
ところが,死亡は確認されているのに、遺体が無いということがたまに起きます。例えば、海難事故とか戦争などでは遺体は見つからないことがあります。
そういう時、死亡は認定されているので、墓は造ります。しかし、遺体が無いので、遺族や恋人としては、死と言うものをなかなか受け入れることが出来ません。
風が吹けば、あの人が帰ってきたのではないか、風で木が揺れれば 恋人が帰って来たのではないか。小鳥が鳴いても、犬の遠吠えでも、故人が帰って来たのではないかと思います。
死んでいると解っていても、今すぐに帰って来るような気がするのです。
やがて、月を見たり、星を見たりすると あれがお父さんの星だ と思ったりします。死んだと言われても、自分の心の中では、死んではいなくて、心の中では生き続けているのです。
日本のように火葬が当たり前になっている國では、遺体というものの大切さが解り難いですね。遺体のない墓と言うのも理解しにくいと思います。ただ親しい人や愛する人の死と言うものは、日本人でも変わらないと思います。
9・11が起きた時、合同の葬儀が行われ、あの時にあの詩が読まれたのではなかったでしょうか。それは、遺体の無い故人が大勢出たからだと思います。
そう思って、「千の風になって」の歌詞を読めば、そういう風に亡くなった人に成り代わって、自分が詩を詠んでいるなあ、とも読めなくはないと思います。
「私のお墓の前で泣かないで下さい」とは、つまり墓はあるのです。だけど、私は其処には居ません、と言っています。
私は そんな風に聞いていましたが、これはあくまで私個人の意見ですから、間違っているかもしれません。いろんな感じ方があっていいですよね。
「こんなところに入りたくない墓洗う」 issyo さんが issa 一茶風に詠まれたのでしょうか?
思わず出た言葉のようで、とっても面白いですね。
ということで、また ヨロシク。
照れまんさんのおっしゃるように、あの歌は、確かに遺体の発見されなかった遺族への語りかけととらえるのが、最も適切な解釈かもしれませんね。
しかし、私は全ての墓を対象でも、構わないと思います。又、そうあって欲しいです。
この句は、一茶風ですか?驚きました。お誉めのお言葉として、素直に受け入れることに致します。