好奇 高齢者 の呟き

地場産業や蒲原の風景 山 山野草 良寛歌碑、 史跡 旧北国街道を訪ねる、 また聞いたり話した、方言を紹介したい、 

維謦尼(いきょうに)宛書簡詩碑NO1

2007-03-02 23:48:55 | Weblog
NO3
正月十六日夜
春夜二三更  春夜(しゅんや)二三更(こう)
等間出柴門  等間(とうかん)に柴門(さいもん)よりいず
微雪覆松杉  微雪松杉しょうさんを覆(おお)い
弧月上層巒  弧月層巒(そうらん)に上(のぼ)る
思人山河遠  人を思えば山河遠し
含思萬端翰  翰(ふで)を含(ふく)んで思い萬端 (ばんたん)
与板大阪屋
維謦老尼  良寛

この詩は,徳昌寺の古範和尚が購入した大蔵経の淨財を
求めに,江戸の赴いた維謦尼の、その心情が、美しい月
と清らかな雪に劣らぬと、良寛が思慕と激励をこめて筆
とった。
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良寛書翰と徳充院書翰  NO2

2007-03-02 23:38:09 | Weblog
NO4 
中山より        太郎兵衛様   徳充院
三輪         御細書拝見いたし候
徳充院老良寛     けふはむしあつさにて
御病気如何      なをたへかたく
御座候や随分     御ふたり様いよいよ
心身を調ふる     御たっしゃに御座なされ候
よふにあそば     由蒙り悦上候扨
さるべく候      させる御返し下され    
油一とくり      たしかにうけとり
たま候はる可     上候私事何の
十月八日       障なくおり候  以上
             二十六日
徳充院は大阪屋三輪長高の娘 きしである。
山田杢左エ門に嫁したが、夫の死後有髪のまま
徳充院と称した、その後徳昌寺26世お古範の弟子となり
維聲尼と称した。
(中山)出雲崎の中山の西照坊のこと 良寛は文化4年
十月此処に住庵、
右の書簡は
徳充院が父の山田太郎兵衛重記に宛てた
自筆の唯一のもの。

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