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好奇 高齢者 の呟き

地場産業や蒲原の風景 山 山野草 良寛歌碑、 史跡 旧北国街道を訪ねる、 また聞いたり話した、方言を紹介したい、 

寺泊 郷本の良寛空庵跡

2006-11-30 18:25:12 | Weblog
良寛は寛政8年、39歳の頃、備中国(岡山県)玉島円通寺での長い
修行を終えて 越後に帰ったが、出雲崎の生家前素通りして、
ここ郷本海岸の空庵にわらじを脱いだ、半年間土鍋ひとつの生活を送った
空庵は現在国道より10メートルの海中の地点であると伝えられて居る、

寛政8年1月中旬 円通時を旅たち 京都の香(4男)のもとに立ち寄り
中山道(なかせんどう) から洗馬宿(せばじゅく)~善光寺街道~
篠ノ井で北国街道~善光寺~脇街道で糸魚川街道(千国街道)へ
わざわざ遠回りしたのか そして糸魚川で病に3月に北陸街道北上して
ふるさとに。善光寺から北国街道を通り高田 直江津に向かいば早くに
帰れたのに、
ふるさとがちかくなって迷えながらの心の軌跡が 途方にくれる己の心を
そして病 そして己の心に活をいれたのでは、 高橋庄次著者
手毬を突く良寛より

傭作(ようさく)詩碑 の詩はここでの作と言われている、後日調べてブログに

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日本海の荒波でもないが、

2006-11-29 18:04:39 | Weblog
夕ぐれの日本海
曇りで夕日なし どんより波が少し高いが
荒海はこれからが本番で 堤防には近づけない波に
釣り人が2~3人いたが 釣れていない、
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寺泊 愛宕神社初君の歌碑 no4

2006-11-29 17:55:12 | Weblog
滝の隣に石仏が
良く解からないが大分古いようだが
興味がある方 はそんな山道でも無いから
拝んできたら。
珍しい石仏かも知れませんよ?
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寺泊 愛宕神社初君の歌碑 no3

2006-11-29 17:50:55 | Weblog
愛宕神社裏に小さな滝がある
こんな所に滝があるととは
寺泊あたりなら良く知っている積りだったが。

(冷泉為兼は佐渡へ流されてから5年で 召還。)

(1271年 日蓮佐渡に のち4年にしてゆるされる)
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寺泊 愛宕神社初君の歌碑 no2

2006-11-29 17:46:24 | Weblog
寺泊の町中通り ずい道の川端に碑の説明があり山側へ
初めてだが歴史が感じられる小さな神社
境内から日本海がよく見える高台に


寺泊は700年以前から遊郭があったようだし
明治のころにも公娼に 昭和6年で5軒あった
歴史のある町で北前船の海の交通の拠点として
栄えた所だから人の往来も多く 日本海側の三国街道の起点
地蔵堂から与板 長岡 三国方面へ
北国街道、野積~寺泊 山田 郷本 出雲崎に 
北陸から 長野から

十返舎一九の滑稽旅がらす やひこのまちをうちすぎて、
なみうちぎわを たどりたどり3りばかりよきて てらどまりいふ
しゆくにつく(寺泊 山田)
井原西鶴の好色一代男にも 出雲崎いう所に渡り日和を待って明け暮れただも居られず船宿の主を招きこの所のなぐさみ女は
と尋ねれば  いかに北国のはてなればとて 寺泊といふところに傾城町
有りいざ見せもうさばや
(好色一代男巻3)より



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寺泊 愛宕神社初君の歌碑 no1

2006-11-29 17:05:54 | Weblog
寺泊 愛宕神社 遊女 初君の歌碑
1298年(永仁6年)佐渡配流の歌人 藤原為兼が大町の
五十嵐邸(聚感園のあるところ)北越の豪族 (此処にも歌碑有り)
古くてもう文字が読め無い100年くらいの歌碑もある
38日間風待ちをされた時、朝夕奉仕して旅情を慰めたのはこの地の
遊女初君でした
この間に,都の貴人と郭(ひな)の遊女は和歌を通じて心が通い
相互の愛情が芽生えたのであるそして、船出の時別れを惜しんで初君は
和歌を詠みました、

もの思い こしぢの浦の 白浪も 立ちかへるならひ
  ありとこそきけ

この歌は後に勅撰の「玉葉和歌集)に載せられた。

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白鳥

2006-11-29 00:07:41 | Weblog
小池工場団地から116方面へ途中の田んぼの多くの白鳥が
今ごろは田んぼの落穂か2番に延びた稲穂でも食べに来ているのか
前から近くで見られる あまり珍しくも無くなったが朝来て日暮れには
帰るんだが ここらだと佐潟からくるのか、グループがあるらしく
ところ所の離れたところに3~4グループに別れている、10羽から
30羽くらいの集団だ  佐潟まで毎日往復か これくらいなら
丁度良い運動の距離かも。
確かに人がえさを与えたりしないでも彼らは子供連れてきてえさの見つけ方や
危険を教えたりしているのか、 今年初めての子白鳥も 色がグレイ系が子供だ一緒に
遊んでいるようだし、我々は遠くから訪ねてくれることを楽しみにして
今はもう危害を加える人もいないと思うが、
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燕の地名 燕郷 口碑と伝説より

2006-11-28 00:24:05 | Weblog
口碑によれば、大昔、燕はススキゾネ 川柳(かわやなぎ)などと呼んだとのことであります、

室町時代に白河庄の支配者水原憲家が 嫡子景家に支配地の権利を譲る文章に
一所 新恩津波目(つばめ)分 右所領者為又三郎景家名代譲渡処実証也
不可有他妨、仍譲与状如件
明応6年丁己12月13日 憲家花押  水原又三郎 殿
(注) 難しい文字で読めませんので読めたら教えてください

津波目の文字が約480年まえに初めて文書に 当時の新恩津波目は
蒲原地帯一円と思われる
その後の正保越後絵図(約330年前)燕村の文字が見られ
つばめ 津葉目 燕 津羽目など時代の移り代わるたびに文書に
見られる  燕の地名がいつ頃生まれたか不詳だが

伝説として大川の氾濫の時燕の数羽とまった神棚を川原でひろい
燕の地名がうまれ 神棚の中に戸隠のお符が 信州戸隠神社より
勧請し鎮守に、 
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小高 庄屋の門 「代官代理の黒門」

2006-11-27 23:32:52 | Weblog
300年前の庄屋の門
燕し小高土田家は永正年間(1504年)約470年前小高を
開拓草創した家筋
門が建てられたころはの開拓も進み、洪水の危険もおさまり
小高地区が 寛文年間高田藩領になったころ 藩主から土田家の
武具を検分したいとのご沙汰があった と代官から通知があり
土田家では武具百人ぶんのを数台の大八車に積んで代官所へ運び
その後、数日たってもお沙汰はありませんでしたので 恐る恐る
代官所に伺いました 「今の時世に、武具百人分を備えておくとは
感心な心がけじゃ、
もう武具の必要も様も有るまい。土田家が中之口川の治水工事に
尽くした功績に報い代官代理を命ずる」 代官からの達しで土田家に
家屋敷の周りに堀と黒い大門を建てることを命ぜられた。
大門は茅葺で屋根で太い門柱の副柱の扉を取り付けた四柱四ッ足の格式の高い
棟門 武装した騎馬が二頭並んで通過できる大門二町二反歩の屋敷にふさわしいもの
でありました、(現在は瓦屋根に)

燕郷 口碑と伝説 (布施仁作)著 より

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健康 家族 友人 感謝

2006-11-25 00:59:00 | Weblog
今年の誕生日で古希 人と事と思っていたが 古来稀なりだ

21日は人間ドッグで これは1年に1回健康診断しておかないと
万一気が付かないでいたら困るし どうも余り病気らしいところは
今の所ないが 余り過信もと 友人に病院に入院している人もいるし、
健康で飛び回っている事を喜ばなければ 家族みんな一度も入院したことが
無いいつも当たり前のつもりで 感謝しないと、
取りあえづ今の所は 何も無いようだが後日再検査をとの事もあるから

11月22日は いい夫婦の日  語呂合わせ
友人夫婦3組で 皆主人が同年の11月の誕生日なので誕生会で
そろつて会食に 中国も屋久島も一緒に旅行した 好きな事が
言いえるし いつも良く行く弥彦で ワイワイ ガヤガヤ賑やかに
家内たちの招待だそうだ、 今度奥様方の招待は高く付きそうだ
まあ 健康でいつまでか解からないが 揃って皆でそんな会食が
出来る事がストレス解消になれば、

2日続けて社交ダンス 初心者は何回も何回も繰り返し身体で
覚えるより仕方がない 運動神経も脳細胞も衰えているんだろうが
身体を動かしていれば これも健康の為の運動と割り切って、
でもまだやりたい事が沢山有るんだ 。

年を重ねても 新しい知識や経験を受け入れ続ければ
それが 豊かな人生を歩む事となる どなたの言葉か分からないが
 そう有りたいね、




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国上山 林道国上長崎線

2006-11-23 00:55:04 | Weblog
此処が一番私の好きな眺めだ

駐車スペースもある 写真の時間帯は今いちだが 時間帯により
弥彦山 多宝山 角田山 山々の紅葉が 
少し下りに入り そこから 蒲原平野が眺められるし此処が燕市内とは
今の時期は綺麗に刈れ取られた田んぼが
此処からの粟ケ岳 守門の山々 もう白く化粧した山頂が 


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国上山 林道国上長崎線

2006-11-23 00:38:50 | Weblog
国上寺 五合庵にお出掛けにお奨め
今が紅葉の盛り 一方通行で朝日山駐車場からてまりの湯の裏てまで
距離は短いが 道路は舗装された所も多いし途中がなかなかの眺めの所も
此処を私は国上ミニスカイラインと呼び楽しんでいる、

今はもみじも散りはじめ 美しいころです、

生き死にの境 離れて 住む身にも避らぬ別れ あるぞ 悲しき 
                貞心         

御返し
裏を見せ 表を見せて 散るもみじ 師 ( 良寛)

此は御自らのにはあらねど、時に取りあひ のたまうふ。いといと尊し

     貞心のはちすの露より 


良寛さんの句とばかり思っていたが 誰の句か?



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西福寺の信像黒柿の奇瑞 (燕市水道町)

2006-11-20 22:02:37 | Weblog
延宝年間(約300年前)若い夫婦の托鉢僧が西福寺の玄関に立ち
1夜の宿をお願いした快く招き入れ 夜の更けるのを忘れて
法話に花を咲かせました、再会を約し 何処か托鉢に旅に
国境に白い物が見える頃 再び訪れ 慈悲深さに感動して居着き
寺に重宝され檀家にも村人にも敬慕され 鐘楼の脇に
庵を 私たちは仏道は敵を探す便法でありましたが御住職の徳の高さに
父の敵を断念した 罪を憎んで人を憎まずと身も心もさっぱりとお礼を、
それから夫は不図した病で床につき 死期の迫った夫は子供が無く
ご恩返しができず 残念ですがいつか何らかの形でお報いたします
黄泉の客に 妻女は悲しみの余り 夫の後を追って間もなく世を去り
境内に2人を一緒に土葬 目印に柿木を植えて供養した、

それから150年後歳月境内の整理にあたり墓地に移し
柿の木を切りました ところが不思議にも 切り口に夫の侍姿が判然と映り
反対側には妻女の姿 仏縁の不思議にお堂に安置し 寺宝とし厨子に納め
安置しました、黒柿の板面に現れた信像 。

燕郷 口碑と伝説  から 子供のころから近所でもあるので
祖母から伝い聞きしていました、


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西福寺の紅葉

2006-11-20 20:58:06 | Weblog
西福寺の紅葉
白い土蔵の壁と対照的に今が一番綺麗だ
此処も子供もころからの遊び場だ まだ保育園が無い時で
農繁期だけの短期の保育に 結んで開いて ボートを漕ぎましょう
とか遊戯をした、

今でも直ぐおとなりさんだが 何年先か此処にお世話になる
んだろう 20年くらい待ってもらうか、
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宇佐八幡宮 銀杏

2006-11-20 20:33:09 | Weblog
宇佐八幡宮
子供のころは良く境内で遊んだものだが
今は子供が遊んでいるのを見たことがない
夏場の朝や夕方におじいさんと蝉捕りに時々見かけるくらい
 
野球までした その頃はひろく感じたが5月4日の祭礼も
楽しみだった お店も沢山出て賑やかで
 
村にお嫁にきた人が最初の祭礼には盛装して親と御参拝に
私の家内も本家の案内でこの村に嫁いだ挨拶に参拝した、

村の青年団の奉納演芸大会が そして他市町村に嫁いだ人が
集まり楽しい会食が。

銀杏の黄色の葉も半分くらいに 奥が我が家です、
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