「婆佐羅と号して、専ら過差を好み、綾羅錦繍・精好銀剣・風流服飾、目を驚かさざるなし、頗る物狂 」といわれた。
婆沙羅の慶次郎は前田家の長男に養子入りし前田家を継ぐ筈だったが、信長が弟の利家に家督を継がせたため、当主になれなかった不運の漢でもあった。
前田家を出奔するのに、叔父にあたる前田利家を水風呂に馳走した。
秀吉の面前でも傾いてみせた。
御前に平伏した。真横に束ねられた髷は秀吉に正対しているが、頭はそっぽを向いている、という人を食った挨拶をした。機嫌を損ねると首が飛ぶ。
秀吉は大笑いして、前代未聞の「傾奇御免状」を与えた。( 可観小説 )
晩年の慶次郎が上杉家に仕えたとき、「大ぶへん者」の旗指物をさしていた。家中の者が「大武辺者」とは思い上がりが過ぎると厭味をいった。
すると、慶次郎は笑って答えた。
「俺は妻もなく独り身を長く続けている。不便で仕方がない、だから『大不便者」なのだ。」
何ともとぼけている。しかし、どことなく愛嬌があって憎めない。
命がけで傾いた反骨の猛者の異形の甲冑 (米沢の宮坂考古館) 戦人としての面子
関ケ原合戦の翌慶長6年、京から上杉景勝・直江兼続の主従を慕って米沢に向かった。
その道中の様子を記した慶次郎自筆と伝わる「前田慶次郎道中日記」が残っている。和漢の古典を引用・言及しており、慶長の文人としての嗜好がうかがえる。
源氏物語の講釈が得意だったと諸記録にあり、文武両道だった。
上杉家の直江兼続に惚れ込む 慶次郎が彫った能面 愛用の瓢箪 遺髪
城下には住まわず、堂森に「無苦庵」を結び、花鳥風月を友に気ままに生きた。
月見した月見平、茶を点てる水を汲んだ「慶次清水」が残る。近くの堂森善光寺の境内に前田慶次の供養塔が立っている。
「歴史街道SELECT 前田慶次郎」より
加賀100万石は誕生していなかったかもしれませんね。
それどころか、前田家が存続していたかどうかでしょうね。
>いまはといえば、未曽有のコロナに振りまわされて終息さえみえません。
日本も世界もコロナで一変しました。
発生源は中国の化学兵器の研究だったとも言われています。
だからワクチンも並行的に準備されていたということです。
中国の責任は重大です。
> 黄河上流には激流が連なった竜門と呼ばれる難所があり、そこを登り切った魚は竜になるという伝説です。
古い歴史の中国に学ぶことが多かったのに、最近の中国は自国の歴史を まったく学ばないようです。
> 前田慶次郎が前田家を継いでいたら、前田家はどのようにになっていたでしょうね。
あるいは、バサラの慶次郎が継いでいたら前田家は残ってなかったかも分かりませんね。
歴史に名をとどめるということは、ある種の運命がからみそうです。
生きざまが、おもしろいですね。
後の戦国時代における下克上の風潮の萌芽にもなったとあります。
源氏物語の講釈などをする知識人で、北の関ヶ原とされる戦いで直江兼続が窮地に陥った時、捨て身の戦いを挑んで
兼続を救った剛の者ですから、文武両道に優れた人物だったようです。
利家が乗ってきた「松風号」に飛び乗って去ったとか・・・。
ミン吉さんのブログアドレスをコメント上に置きました。
主役は誰が演じると似合うでしょうか・・・❔
「一夢庵風流記」は、原作者の隆慶一郎がエンタープライズに仕上げてます。
原哲夫の『花の慶次』は、隆慶一郎が原に請われて漫画のために別バージョンに書き下ろしたのだそうです。
(だんぞう)さんのブログアドレスをコメント上に置きました。
小野川の田んぼアートも見ましたょ。
https://blog.goo.ne.jp/iinna/e/039b66436aaa11c7722fd44ac391b5e4
晩年は、上杉家につかえて米沢で暮らしたのですから、田んぼアートの題材になるはずです。
* やまがたの四季と暮らしさんのブログアドレスをコメント上に置きました。
しかし、米沢の考古館に異形の甲冑が残っているとは!、かなりリアリティを感じます。
自筆の「前田慶次郎道中日記」、読んでみたいです。
20号線を走って、この猿橋の傍を幾度か通りましたが、一度も寄ったことがありません。
見ると、なかなかに面白い構造です。^^
次に訪ねたら、ついでに蕎麦も食べてみたいです・・・。
忠治が猿橋から傘をさして飛び降りたとは、必死に逃げていたのですね。
> 前田慶次郎には興味を持っていましたが、どこまでが実像で、どこからが伝説・虚像か、よく分からないでいました。
米沢の堂森善光寺に、慶次郎の村人との逸話が残っていました。
https://blog.goo.ne.jp/iinna/e/3adc44b9da03bbc94dbecc23fdd543b8