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分倍河原古戦場

2022年11月26日 | 歴史

 分倍河原(ぶばいがわら)駅前の新田義貞像


隠岐島から脱出した後醍醐天皇は、新田義貞に倒幕の命を下す。
元弘3年(1333年)5月8日、新田義貞は新田荘(現・群馬県太田市新田市)で鎌倉幕府打倒の兵を150騎ばかりで挙げた。鎌倉幕府軍を打ち破りながら南下。






5月15日、新田軍1万は府中の分倍河原の幕府軍への総攻撃を開始。
だが15万の幕府軍に迎撃され全滅状態になり、幕府軍の横腹を突いて血路を開き辛うじて脱出した。もし幕府軍が追撃していたら、義貞の運命も極まっていたともいわれる。

鎌倉幕府に不満を持った武士たちが次々と集まり、5月16日、分倍河原で北条泰家率いる幕府軍を下し一気に鎌倉に攻め込んだ。

5月22日、北条高時以下一族が東勝寺で自刃し、鎌倉幕府は滅亡した。 

5月8日の旗揚げから倒幕まで、実に2週間で決着がついた戦だった。



      稲村ヶ崎古戦場


分倍河原古戦場跡は、京王線・JR線「分倍河原駅」から徒歩約15分。ビール工場見学前に見学してきた。



      鎌倉幕府滅亡から室町幕府誕生まで   << もどる <

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8 コメント

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分倍河原の戦い (らいちゃん)
2022-11-26 10:00:41
大河ドラマ「鎌倉殿の十三人」はあと4回で終わるようです。
このドラマを観ていると、鎌倉幕府を開いた源頼朝以外はダメですね。
2代頼家、3代実朝と次第に鎌倉衰退の道を歩んでいます。
御家人の権力争いが絶えないことからいずれ滅亡するものと思っていましたが、それが分倍河原の戦いだったのですね。

>高安は、解説者も褒めていますが、肝心なところで負けて、優勝を逃しています。
鷹揚な雰囲気が好もしいです。
3場所続けて平幕優勝でもいいので、高安に優勝させてやりたいですね。
(らいちゃん) へ (iina)
2022-11-26 11:13:47
陵墓にいけにえを捧げるのを埴輪に代えたというのは、慈悲深いことですね。

日本に限らず生け贄を求める考えは、残酷なことです。
秦始皇帝の陵には、兵馬俑を置いています。
         https://blog.goo.ne.jp/iinna/e/1a1d90495882ff84ce707c6d4e5d9a69


大相撲九州場所、13日目を高安が2敗で単独首位ですから、優勝させてあげたいです。

Unknown (ムツゴロウ)
2022-11-26 17:29:30
新田義貞は、後醍醐天皇から
倒幕の印璽を得、わずか2週間で【一味散々】と、1333年に鎌倉幕府を倒したのですね。
分倍河原 (原村)
2022-11-27 09:15:00
おはようございます。
今日は天気も良く行楽地は混みそうですが、紅葉も良い時期かと。
何処かに出掛けたいです。

分倍河原は自分の生活導線とは異なるために乙津れる事がなかなかなかったです。
今回の大河ドラマではありませんが、色々と歴史の勉強になりました。

同じく美味しいビールも頂けましたし。

素敵な秋を!
(ムツゴロウ) さん へ (iina)
2022-11-27 09:27:49
1333年に新田義貞が鎌倉幕府を倒したのに、最終的には足利尊氏が室町幕府を立ち上げてしまいます。

鎌倉幕府滅亡後、後醍醐天皇がトップに立ち、天皇を中心とした建武の新政が始まります。
ところが、鎌倉幕府以上の不満が渦巻き、足利尊氏は鎌倉を拠点とした武家政権を誕生させようとします。
再び、新田義貞に足利尊氏の討伐を命令し、紆余曲折し1336年の湊川の戦いに新田義貞と楠木正成が破れ、更に追われて義貞も戦死しました。

後醍醐天皇は、アチコチに印璽をバラまいてます。

(原村) さん へ (iina)
2022-11-27 11:46:16
新しい港みらい地区から空中散歩したりと、中華街までの ぶらり でした。

コロナ禍下であり、ずいぶんと横浜へは出歩いていません。
iinaからは、帆を張った日本丸をお届けします。
https://blog.goo.ne.jp/iinna/e/4e9064bcfc273cccb53d58e215f9ee7c

鎌倉時代の横浜は、まだまだ陽が当たっていません。

Unknown (よたろう)
2022-11-27 17:09:43
後醍醐天皇から倒幕の命を受けたのは、足利尊氏ではなく新田義貞の方でしたか。

どこでどう間違えたんですかね ?
(よたろう) さん へ (iina)
2022-11-28 08:51:28
新田義貞よりも足利尊氏の方が身分は上で、後醍醐天皇は鎌倉幕府滅亡後に尊氏を評価したのに、武士政治を志向しました。

天皇を中心とした政治に戻したかった後醍醐天皇は、再び新田義貞に尊氏追討の印璽を発令します。

九州で勢力を拡大した尊氏は、1336年の湊川の戦いで新田義貞と楠木正成の軍を相手に戦い、尊氏が勝利。

後醍醐天皇は、足利尊氏と和平を結ぼうとするなどして、義貞を裏切ってますから、運がなかったということでしょう。
越前へ逃れた新田義貞は、藤島の戦いで致命傷を受け自害しました。

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