イーダちゃんの「晴れときどき瞑想」♪

美味しい人生、というのが目標。毎日を豊かにする音楽、温泉、本なぞについて、徒然なるままに語っていきたいですねえ(^^;>

徒然その32☆ホロヴィッツのクライスレリアーナ☆

2010-12-06 00:00:06 | ☆ザ・ぐれいとミュージシャン☆
                            

 特別なCDって誰にでもあると思うんですが、全盛期のホロヴィッツが69年に弾いたこの「クライスレリアーナ」なんて僕にとってさしずめそのような1枚ですね。
 シューマンの音楽の第一印象は決してよいものではなかったのですが。
 小学校の音楽鑑賞のとき聴かされた「子供の情景」が僕はたぶんシューマンとの最初の出逢いだったように思うのですが、子供心になにか凄い拒否反応があったのを覚えてますね。
 ほかの音楽鑑賞の時間はそうじゃなかったんですよ。
 ほかのときは単調なオーケストラ演奏が退屈で僕は大抵眠がってました。したがって記憶もほとんど残ってない。
 でも、「子供の情景」を聴かされたときは、うわー 厭だ、とすぐ思いました。こんなニブイ音楽は大嫌いだって。
 そのときの教壇の色や窓枠からさしていた光の加減までよく覚えてます。よっぽど厭だったんでせうね。それだけの拒否反応を誘発させるだけのパワーを音楽自体が内包していた、と読むのがこの小事件の恐らくいちばん正しい解釈なんでせうけど、この自分の過去の記憶を思いおこしますと、あのショパンがシューマンの「謝肉祭」を聴いたとき、いきなり発作的に立ちあがって、

----僕は、こんな音楽は大嫌いだ!

 と吐き捨てたエピソードなんかがつい連想されたりもしますね。
 シューマンの音楽ってそういう資質があるような気がします。なんとなく田舎芝居というか、子供じみてるっていうか、ほら、それ以上はしゃいだら滑稽になっちゃうって歓喜の坂を、平気でタッ、タッ、ターッって熱狂的に駆けあがっていっちゃうとこがあるじゃないですか。
 ショパンは決してやらないと思うんですよ、そういう美学的にみっともないことは。
 ええ、ショパンはダンディーでエゴイストですから。舞台のうえで笑われるなんてことにはとても耐えられない。
 でも、シューマンはちがう。内面の熱狂に押されたら、たとえば音楽がピアノの88鍵の鍵盤をこえて駆けあがっていくことを要求している場合、ほんとにその架空の音階を弾こうとして、身体をのばしすぎてピアノの椅子から身体ごと転がり落ちるとこまでいっちゃう。
 要するに子供なんですよ、バランスなんて崩れてもいいの、エクスタシーを隠さないんです。
 パトロン夫人のその日の眉の角度にあわせて装飾音の色あいを変えていかざるを得ないような音楽をやっていたショパンなんかからすると、許せなかったでせうねえ、こんな天真爛漫で気ままな音楽は。
 ショパンがあれほど感情的にシューマンの音楽に反応しちゃったってことには以上のような理由があったのでは、とイーダちゃんは推察します。
 ショパンにはシューマンのこの無心の歓びの身ぶりがどうしても許せなかった。
 そこにはいささかの嫉妬の念も、ひょっとしたらまじっていたかもしれません。
 そう、たしかにシューマンの音楽には聴くひとの評価を大きく二つに分けるような、なにか極端で過剰なところがあります。
 それを滑稽ととるか、高貴ととるかはたぶん聴く人の耳次第---。
 だから、躁鬱気質の激しいスキゾな音楽だなんていわれて、いまだに評価が分かれがちなんだと思います。

 こういう夢想家気質まるだしの特別な音楽は、当然弾くひとを選びます。
 いくら完璧無比のメカニックがあったって、このはなはだしくシューマニテスティックな、痛々しいくらいに無垢な「童心」をキャッチできなきゃアウトです。
 というわけで天才ウラディミール・ホロヴィッツの登場です---。
 このひとはシューマンの「子供の情景」の楽譜を手に入れた少年時、喜びのあまりベッドの枕のしたに楽譜を入れて眠った、という経歴の持ち主です。
 シューマン弾きっていうのはこうでなきゃいけません。ホロヴィッツがピアノ演奏史上指折りのメカニックの持ち主であることは周知の事実ですが、実はその事実とおなじくらい少年時のこの「子供の情景の楽譜を枕の下に入れて眠った事件」は重要なエピソードではないでせうか。
 ホロヴィッツは2度ともどれないロシア時代の自分の遠い過去を愛無するかのように、「子供の情景」を弾いていますね。(注:ホロヴィッツはソビエト連邦からの亡命ロシア人でした)
 テンポ・ルバートをごく控えめに用いつつ、全体的に非常にスマート、隠し味としてのビターな苦悩も奥のほうに注意深く微量に混ぜこまれてて、きりりとした、実に端正な名品に仕上がってます。
 これに匹敵する「子供の情景」はというと、僕にはコルトーのレコーディングぐらいしか思いつかないなあ。
 これは、陶酔しながら歌舞伎の見栄を切るような、いくぶん大時代な演奏ですけど、ホール最後尾の席まで思いがきっちり届くのは、なんといってもこちらがわの演奏なのではないかしら? やっぱり、ポリーニやアシュケナージみたいな安全主義の音楽の器じゃ、シューマンのあの過剰なロマンテックを盛れっこないですよ。
 失礼。いささか「子供の情景」のほうに寄り道しすぎちゃいました。「子供の情景」もいい作品ですけど、実は、イーダちゃんがより語りたく思っていたのは、シューマンがそのひとつあとに書いたエキセントリックな傑作「クライスレリアーナ」のほうなのでありました。

 ロベルト・シューマンが28才のときに作曲したこの<Kreisleriaana Op.16>---これは、彼が世に送りだした数々の名作のなかでも5本の指に入るくらい、シューマニステックに痛んだ作品です。
 この曲の題名は、当時音楽批評もやっていた有名作家のホフマン---ほら、あの「砂男」の作者ですよ---彼の小説「牡猫ムルの人生観(未読です、失礼)」に登場する、楽長クライスラーに由来するそうです。
 こちら、8曲の小曲が組みあわされたかたちの、シューマンお得意の、ファンタスティックな組曲の形式をとってます。
 短調と長調の曲が、シューマン内面のファンタジー世界の架空の住人「フロレスタンス(光の住人、シューマンのポジティヴ部分)とオイゼビウス(闇の住人、シューマンのシャドウ)」の対話のように、ときには仲睦まじく調和したまなざしを交わしあいながら、ときにはいがみあった憎悪と絶望の視線でお互いを突き刺すように睨みながら、クライマックスの終曲にむかってぐんぐん突き進んでいくわけなんですが、ロマンチックな憧れに身体を焦がしながら進みゆくその夢想の歩みようは、まさにロマン派音楽のひとつの頂点といってもいいほどの、豪奢でゾクゾクする味わいです。
 作者であるシューマンがいうには、この曲はすべて彼の妻であるクララ・シューマンに捧げたものなのだとか。

----…この曲はあなたへの思いが結晶したものです。この曲はあなたに、あなただけに捧げます。あなたはこの曲のなかに、多分、あなた自身の姿を見出し、微笑むことでしょう。(R・シューマンから妻クララ・シューマンへの手紙より)

 手紙にこうやって書いたときにはシューマンもそのつもりだったと思うんですが、でも、最終的にはシューマンはこの曲を盟友のショパンに献呈しちゃってるんですね。そのへんがいかにも矛盾だらけの人生を生きたシューマンらしいといえばらしいんですが、ほんと、このひとだきゃあ、よく分かりませんよね。純粋なのか功利的なのか、ロマンティックなのか実利的なのか---音楽雑誌の編集長をしたり、後輩音楽家のブラームスを発掘なんかもしてるから、社会的にみてもそうとう腕っこきの人物だったはずなんですが、音楽を聴くとぶきっちょの極みみたいに聴こえるときなんかも多いし---うーむ、謎ですね…。
 このページを作成するにあたり、イーダちゃんはさまざまな「クライスレリアーナ」を聴きなおしてみました。
 たとえば1983年のアルゲリッチのもの(左下)、あるいはぐっと遡って1935年のコルトーのものとか(右下)---

            

 ほかには72年グラモフォンに録音したケンプのもの、64年RCAのルービンシュタイン、92年アファナシエフ、52年のソフロニツキー……。
 どれも超一流ピアニストの演奏ですからわるいわけがない、皆、聴きほれるべき美点があり、また、聴かせのツボを憎いくらいに心得ている、プロフェッショナルな演奏ばかりです。
 ただ、あくまで「シューマニスティックに」という視点を入れて切りこんでいくと、やっぱり資質的に落ちていく演奏がぽつぽつ出はじめてきたんですね。
 具体的にいうなら、影のなさ、闇の少なさ、あまりにも健康的すぎるということで、まずルービンシュタインが脱落しました。
 とてもいい演奏なんですけど、あまりに健やかな、満ち足りた演奏は、シューマニスティックな見地から見てどうかと思います。
 あと、新劇の芝居めいたアファナシエフが落ちました---凄く面白いんだけど、演奏の決定的な素直さに欠けてるって点で。
 つづいて、ケンプ---僕はケンプのシューマンって案外好きなんですど、このクライスレリアーナにかぎっては、ケンプは守備範囲外って感じ、ちょっとしました。特に終曲の2曲でのテクニック的な面で。
 アルゲリッチ---普通にいったら素晴らしいんでせうけど、なんというか、躊躇とか屈折といった面が物足りないようにやや感じられてしまった。シューマンって主情だけでバーッといっちゃうような音楽とはちょっとちがうと思うんですよ。ある部分では不自然に急停車みたいに立ちどまったり、それから、泡喰って慌てて飛びだしていくような---非常にぶきっちょな、ある意味での「クサさ」「みっともなさ」みたいな特質が絶対必要だと思う。逆に、そういった部分がないと、演奏のほかの部分も生きてこない。彼女の演奏はそういった意味で1元論的な演奏になっちゃってる気がします。ラフマニノフならそれでいいかもしれないけど、あくまでこれはシューマンですから。だもんで残念ながらアルゲリッチ女史も失格。
 で、残るのは、コルトー、ソフロニツキー、ホロヴィッツの3人なんですが---。
 ソフロニツキーは、凄いです、このひと。
 天性の叙事詩人として、このひと、たぶん、かの大ホロヴィッツと張れるだけの器量をもってます---が、あまりにも録音わるすぎ。これじゃあねえ…。
 コルトー---この方もホロヴィッツと方向性はちがえど大天才ですからね。
 見事に、ロマンティックな、夢想家肌の、彼なりのシューマンを作りだしてます---しかし、終曲、あーん、指がついていってない!
 それでも、僕は素晴らしいと思うんですけど。ただ、やっぱ、次点ってことになりそうですねえ。

 というわけでホロヴィッツです。「クライスレリアーナ」の栄冠は、やはりこのひとのものでせう。
 唯一の弱点としては、第1曲の譜面で第2版を弾いてるくせに、第5曲のエンディングでは第1版のものを用いていること。要するに版の混乱がじゃっかん見られるあたりでせうか。
 けど、それ除いたら、この69年CBSソニーの録音は、つくづく無敵だとイーダちゃんは思います。
 聴いていて胸苦しくなるほどの音楽というのはいくつかあるんですが、僕にとって、ホロヴィッツの弾くこの「クライスレリアーナ」はその最右翼ですね。
 20代のころは全盛期の陽水のヴォーカルだとか、シト・ヴィシャスの「マイ・ウェイ」、あるいはパーカーのサヴォイ録音なんかを聴いて、「わあ、スゲー。これぞ究極の痛い音楽だろう」なんてひとりで悦に入ったりしていたのですが、いちど、ホロヴィッツのこれを聴いちゃうと、もういけない、ほかのじゃてんでいけなくなりました。
 てゆーか、これほど内部に禍々しい「魔」が飛びかっている音楽って、寡聞にして、僕はほかに知りません。
 特に終曲---シューマン独自の8分の6拍子の、不気味わるい騎馬風のリズムの音形から、いきなり過去の熱情が吹きこんでくるところ---74小説目の Con tutta forza (全力をこめて) の部分からの悲壮なロマンティケルの怪しい輝きときたら、音楽のできる最大限のことをあそこで凡てやりつくしちゃったって感じです。
 あそこの部分を弾き終えて、ばったり倒れてそのままピアニストが死んじゃってもちっともおかしくないです、あれは。 
 むしろ、あれほどの「魔界」を鍵盤の上であんな風に立ちあげちゃって、なんで貴方その後フツーに生きていられるの? といったような感じですか。
 そうですね、異常な演奏家による異常な演奏だと思います。
 あれほどの無明の闇を呼びこむためには、どれほどの狂気を必要とするのか、考えただけで恐ろしくなります。
 ええ、ホロヴィッツはまちがいなくある種の狂人でせう。老年期のDVDのインタヴューなんか見ただけでも、そのへんの事情は皆さんもすぐに了解してくれることと思います。だって、このひと、モロですから…。

 それにしても、このひとのが鍵盤上に展開する、絢爛たる魔界の崖から見上げたときの、遠い彼岸の夕空のあの美しさ!---それは、もう言葉にできないくらいの憧れと望郷の念でいっぱいに満ちているんですよねえ…。
 なるほど、色合いはいささか血生臭すぎるかもしれない、しかし、絶美なんです。見てるだけで胸がいっぱいになって自然に泣けてくる。淋しくて、けど、同時になぜか懐かしくって。こんな風景はたぶん死んでからじゃないととても見られないと思う。
 だから、イーダちゃんは2、3ケ月にいっぺん、CD棚からホロヴィツツのこのCDをこわごわ取りだして、CDプレーヤーに乗っけてみるわけなんですよね。
 現実のざらついたマンネリ攻撃からしばし逃れ---夢見るために。
 そのためには、これ、最上のアイテムだと思います。
 ちなみにこの録音はホロヴィッツが65才のとき、1969年の2月5日と14日にわけて、NYの30番街のスタジオで録音されたものだそうです---。(^.^;>
  
 
  


 
  

                                             


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