イーダちゃんの「晴れときどき瞑想」♪

美味しい人生、というのが目標。毎日を豊かにする音楽、温泉、本なぞについて、徒然なるままに語っていきたいですねえ(^^;>

徒然その148☆歌姫の系譜(藤圭子から Billie Holiday まで)☆

2013-09-16 04:08:37 | ☆ザ・ぐれいとミュージシャン☆
                     
                     ----何もなかった、あたしの頂上(てっぺん)には何もなかった……。(藤圭子)


 藤圭子が、死んだ---。
 死に場所は新宿。投身自殺だった、と聴いた瞬間こう思いました。

----ああ、やっぱりな…。

 藤圭子は、特にファンってわけじゃありませんでした。
 なにより、世代がちがいすぎた。
 彼女の全盛期は60年代の終わりごろから70年代の初頭、つまりは万博あたりまででしょ?
 そのころ僕はまだほんの小学生でしたもん。
 テレビでやたら彼女の唄が流れてるのはそりゃあ見てましたし、そのころのトラックの運ちゃんたちが「藤圭子、命!」みたいなステッカー(?)をつけて道路を爆走していたのもよーく覚えちゃいます。
 けど、「怨歌」なんてあまり僕的には馴染めなかったし、恋愛だってかけらもキョーミなかったからね。
 当時の僕が夢中だったのは、「ウルトラセブン」であり、「アポロ計画」であり、「新幹線」やら「キーハンター」なのでありました。
 だから、藤圭子イコール完璧に「路傍のひと」であったのですよ。
 僕の生活圏外に咲く、珍しい遠くの花って感じ。
 でもね、「圭子の夢は夜ひらく」だけは例外だった。
 あれ、はじめてテレビで聴いたとき、僕は、テーブルで漫画書く手を休めて、つい見入っちゃいましたもん。

----赤く咲くのは芥子の花
  白く咲くのは百合の花
  どう咲きゃいいのさこの私
  夢は夜ひらく

  十五、十六、十七と
  あたしの人生暗かった
  過去がどんなに暗くとも
  夢は夜ひらく…

 なんとなく、カウンターにつっぷしている酔っぱらいの愚痴めいた内容ですよね、コレって?
 夢は夜ひらくっていうのは、いいなおせば、夢は夜しかひらけないってこと。
 昼の光から排除された日陰者特有の「お水」っぽい世界観が、そこはかとなく香ってもきます。
 この歌のなかの「あたし」は、夜見る夢のなかじゃないと自己実現できない自分の卑小さを自嘲してるみたいな気味もある。
 自嘲に、愚痴に、いまいった水商売、あと、酒とオトコと香水の匂いなんかもちょっとする。
 そんな酒場の愚痴っぽい歌詞の連鎖を束ねるキーワードとしての「夢は夜ひらく」---どんな文脈もこのコトバで結んで、しかも、この結び目が執拗にくりかえされるから、しまいにはこのフレーズ自体が呪詛みたいな、独特の翳りをもって聴こえてくる仕掛けとでもいうか。 
 けど、肝心なのは、そんな歌詞やからくりうんぬんじゃない、なにより肝心なのは、藤圭子そのひとの声でした。
 藤圭子の肉声!
 骨太で、ゆるぎがなくて、なんともいえないブルージーな翳りに満ちた、圧倒的な声の強靭さ。
 彼女、容姿自体が日本人形みたいに綺麗だったんで、なおさらその声の存在感は際立って聴こえました。

----こいつ、なんてふてぶてしい声で歌うんだ…!

 僕の第一印象は、それ。
 不幸のなかに居直ったような彼女独自の怨念じみたたたずまいは、同時代の石田あゆみや美空ひばりなんかより、はるかに肉感的に、かつリアルに見えました。
 ええ、そのときブラウン管からふいにたちのぼってきた「藤圭子」という現象は、茶の間でだらだらとしていた僕の安逸気分をたちまちのうちにに剥ぎとって、幼年時の僕に、大人社会の残酷なまでの赤裸々な人生裏事情を、これでもかとばかりに強引に突きつけてきたのでありました…。

 あのー ひとことでいって、僕はね、この「圭子の夢は夜ひらく」って本質的には子守唄だと思うんですよ。
 いろんなことで傷ついて、昨夜も今宵も酒に逃げ、カウンターに泣きながらつっぷしている、全国各都道府県の、あらゆる酔っぱらいたちのためのララバイ…。
 心底傷ついたひとには、建前ばかりの明るいポップスなんか通用しない。
 というより、彼等の耳自体が、その手のモンは、もうおのずから本能的に忌避しちゃう。
 彼等が受け入れるのは、彼等自身が自分たち同様「こっちがわ」からの発信だと同意できるものだけ---彼等、敏感ですよ、「あっちがわ」の似非同情、高みからの綺麗事なんててんで相手にしてもらえない---要するに、自分たち同様に傷ついた「同族」の呻き以外はまあ認めてもらえないわけ。
 そのような彼等の夜毎の苦悶をなだめ、なんとか寝かしつけてくれる歌が、藤圭子のこの「圭子の夢は夜ひらく」って歌だったんですね。
 心に傷をもつそんな底辺の無数の人々が、自らの胸中の煮えたぎる苦悶を抑え、一晩の安楽な眠りを得るために、この藤圭子というシンガーの声を必要とした。
 そうした構造が、この時代の「藤圭子」という現象を支えていたんじゃないか、と僕は思います。

 さて---では、そんな底辺大衆の夢に支えられた藤圭子というのは、どんな女だったのか?

 シンガーとしていうなら、これは、もう超一流というよりないですね。
 あの異様な説得力は、誰が聴いてもすぐわかる。
 僕みたいな三文楽師(イーダちゃんはギタリストでもあります。詳しくは、youtube iidatyann で御覧あれ!)なんかじゃ、まず演奏するとき、だいたい音を置きにいっちゃうんですね。楽譜に「あわせて」、あるいは、理想とする音楽の姿かたちにあわせて、ひとつひとつの音を置きにいっちゃう。
 これ、音楽におけるいちばん陥りやすい「熟練」って罠なんですけど、これやっちゃうとダメなんです。
 自分とその理想とのあいだにどうしても紙一枚のギャップが生まれ、そこから疑惑の隙間風がぴゅーって吹きこんでくる。
 そして、それが、根本的な説得力の欠如って結果に結びつくわけ。
 ほんとにいい歌手は---天性の音楽家は---そんなことまちがってもやりません。
 藤圭子クラスの生まれながらのシンガー---注:ピアニストならホロヴィッツやコルトーみたいな面子をここで思いうかべてください---は、理想の音楽形なんて見ちゃいない---彼等がそのとき見てるのは、自分の裸の心ひとつきりなんです。
 計算なんかしちゃいない。
 そりゃあ人間だから、歌うまえはある程度の計算くらいならあるのかもしれないけど、いざ歌いはじめるとそんな俗世の損得勘定は、綺麗さっぱり見事なまでに飛んじゃうんですよ、彼等・天才族って。
 一般人の歌とは位相がちがう。
 売りあげのために、名声のために、金のために歌うんじゃない。
 じゃあ、自分のために?
 そうかもしれない、でも、たぶんそれだけじゃない。
 僕は、超一流の表現者っていうのは、基本的に「巫女」なんだと思ってる。例外なくね。
 損得じゃないんです---チヤホヤされたいがためにやってるんじゃ全然ない---彼等・彼女等は、歌いはじめると、そのような俗世の自分のキャラが全部消失するの。
 そういった人格が去ったあと、彼等のなかに現れるのは、どことも知れぬ異界との通路です。
 彼等は瞬時のうちに、そこからの伝播のための純粋な楽器と化し、憑かれたような口調で、おのおのの眼で見てきたものについて粛々と語りはじめるんです…。

----それは、何? 背後から差しこんでくるそれの名って…? 

 僕はね、「業(ごう)」だと思う。
 藤圭子は、声帯やテクニックや名誉欲で歌ってたんじゃない、彼女の背後にいる「業」が、理性が留守になった彼女のうつろな身体を凛と鳴らして、彼女の代わりに朗々と歌っていたんだって。
 うん、僕等は、彼女の歌声越しに、彼女の運命の無常のパノラマもひょっとして一緒に聴かされていたのかもしれない。
 ひとことでいって、一般レベルの人間じゃないのよ。
 いうならば、かの卑弥呼から綿々と継承されてきた巫女の降臨劇とでもいうか。
 彼女らは、能のワキなんです---自分を捨てて、霊を呼び覚ますわけ。
 で、降臨した霊の背後から、ごうごうと業の風が吹いてくる。
 それが、そのまま彼女の歌になる。
 だから、あんな凄味があったの。
 だから、あれほど異様な説得力でもって、聴いてる僕等の胸をぎゅっと締めつけてきたの。
 でも、これは藤圭子限定の話じゃない、ていうか、歴史に残るほどのいい歌手、歌姫ってみんなそうなんじゃないのかな? 
 たとえば、あの Billie Holiday…。
 それから、伝説のブラジルの歌姫、歌の精みたいだったエリス・レジーナ…。
 彼女らは、みーんな、人間業以上の凄味で歌うことを許された、ある種スペシャルランクな巫女巫女星人でした。
 彼女らをくくる共通頁は、「不幸」と「孤独」と「夭折」---。
 藤圭子は、飛び降り自殺。
 エリス・レジーナは、ある朝、突然ベッドで冷たくなってた。
 ビリー・ホリデイは、加度の麻薬と飲酒による衰弱死。
 まるで役目がすんだら中の命をすっと抜いて捨てられちゃう定めの、玩具の自動人形のような彼女らの死にざまに、イーダちゃんは言葉を失います。

 お。参考までに彼女らのフォトもちょっちあげておきませうか---左からビリー、右がエリス・レジーナです。


       

 エリス・リジーナ(右)は、わりと若いころの元気な写真だけど、ビリーのこれ、なんか老婆みたいでしょ?
 彼女、この写真時、まだ45よ!
 なのに、この抜け殻みたいな衰弱ぶり---てゆーか、死相がもう完璧顔面全体に兆してる。
 そうして、彼女、明らかに自分のそうした運命、悟ってはりますよね?
 でも、自身の最後の一滴まで絞りとろうと、なお生命を絞りつくして歌ってるのよ、スゴイ……。

 ここで僕が例によって川端康成をもちだしてきても、あながち牽強付会にはならんと思うのですが。
 川端さんは、いまさらここで僕なんかが解説する要もないくらい有名な、ノーベル文学賞の受賞後、栄華のさなかで謎の自殺をとげた、日本屈指の大文豪です。
 彼を紹介する場合、「雪国」やら「片腕」なんかの名作を通って川端文学への諸端とするのがオーソドックスな道のりなんでせうが、僕は、それ、案外遠回りなんじゃないか、と常々思ってる。
 彼を紹介するなら、まず、顔ですよ。
 論より証拠---まあ、覚悟決めて、この川端顔面を御覧になってください。

      

 どうっス? 「うげっ」て思ったっしょ?
 それくらいこれは放送禁止級の、ヤバ~イお顔です。
 安手のスプラッターを数ダースならべたよりはるかに怖いこのお顔…。
 個人の「業」がそのまま顔面になりかわったみたいなこんな強烈顔は、僕は、このひと以外に知りません。
 このお顔のなかに封じこまれた絶望の総量は、僕は、もう無常観なんてコトバすら越えちゃってるようにも感じます。
 あの「眠れる美女」や「散りぬるを」なんかの投げっぱなしの絶望傑作群を生んだのは、こういう顔だったのですよ。
 特に川端さんを表象してるふたつの絶望マナコにご注目あれ---これは、人相学的には「アレクサンドロスの瞳」と呼称されているタイプの瞳であって、この瞳をもったひとは、かつてこの瞳を所有した世界史の有名人・かのアレクサンダー大王のような、不幸で孤独な最後を遂げる、といわれています。
 (このヘンの情報に関してもそっと詳しく知りたい方は、僕のまえのブログ記事、 西洋占星術への誘い ☆徒然その13☆フランツ・カフカとお月さま  を参照されたし)
 川端さんは作家であり、さきほどから僕が話している藤圭子やビリー・ホリデイとは他業種の方なんですが、そうした表面的な区分けから離れて、もっと本質的な面から眺めるなら、僕は、この方、藤圭子と同種の、いわゆる「巫女系」の藝術家だったんじゃないか、と思っているんです。
 ええ、川端さんと藤圭子は、よく似てる。
 この世の栄華を極め、お金も名声も腐るほどあるのに、ちっとも幸せそうに見えず、いつも孤独で、淋しげな目をしてこの世の荒野を漠々とさすらい、最後には絶望と乾きの因果に絡みとられ、自らの生命を絶ってしまう…。

 川端さんは、晩年、しきりに藤圭子に会いたい、とおっしゃっていたそうです。
 週刊誌の記事でそれを読んで、ああ、そうだったんだろうな、と納得しました。
 川端さんは、藤圭子の歌声に、まちがいなく同種のにほいを嗅ぎつけていたんですよ。
 いわれてみれば、僕が冒頭に挙げた藤圭子のフォトの瞳にも、川端さんの瞳ほどの濃さではないにせよ、それとまったく同種の「翳り」が秘められているのを見ることできるように感じます。
 
----ああ、そうか…。藤圭子もあの「アレクサンドロスの瞳」の持ち主だったのか。じゃあ、あんな死にかたをするのも仕方なかったのかもしれないな…。

 荒野---藤圭子やビリー・ホリデイの瞳は、この世を寄る辺ない荒野として見ていたんですね、きっと。
 信じられるモノなんてなにもない、生きることへの根拠も、動機も、愛着も、なんにもない、でも、仕方ない、こうして産まれてきちまった以上は、なんとかやりくりして死ぬまで生きていくことにするか。
 しかし、虚しいなあ、この世って。
 淋しいなあ、背骨のあたりが今日もすうすう寒いなあ。
 死ぬまで生きていきたいけど、最後までこの道を歩きつづける自信は正直ないんだよなあ…。

 彼等、「巫女族」の作りだす藝術は、非常に特異です。
 でも、なんだろう、あの異様な説得力は? 
 藤圭子の絶唱も、ビリー・ホリデイの「Don't Explain」も、なんともいえない迫真力で、いつも僕を打ちのめします。
 彼等の藝術にはてんで「救い」がない、けれども、生と死の狭間で唄われた彼等の「白鳥の歌」のなんという美しさ!
 この美しさばかりは、どうにも否定のしようがないですね。
 どんなに建設的な藝術も、彼等「巫女族」の無常の声にあてられたら、瞬時にその輝きを掠めとられてしまう。
 なぜ?
 僕は、絶望自体を美しいとは、まったく思ってはおりません。
 絶望なんて単なる物理現象で、美醜を論じること自体ナンセンスだと思ってる。
 しかし、絶望を歌いきる彼等「巫女族」の歌声と表情は、たとえようもなく美しい…。

 そう、肝心なのは、ニンゲンのその心性なんです---ニンゲンの心自体がそう作られてるっていうか---「善」よりは「悪」のほうが、そして、「愛」よりも「絶望」のほうが、どういうわけか舞台映えするんです。

 僕の心も、もちろんそっち仕様で作られています。
 闇、罪、醜聞、自殺---そういったスキャンダラスには、人並み以上に惹きつけられちゃう口でして。
 でもね、僕が藤圭子族の芸術家にやたら惹きつけられるのは、彼等が単に絶望してたからじゃなく、その絶望のなかでなんとかもっとマシに生きたいと希求してたからじゃないか、と思うんですよ。
 彼等は、あがきにあがいた---最後がたまたま自死に終わったにしても、あがきつづけたのは厳正な事実。
 そこに彼等のニンゲンとしての、誠実かつ赤裸々なドラマがあったわけ。
 大事なのは、あくまでそっちがわ。
 暗闇のなかであがきつづけた、彼等の生の苦闘の記録そのものです。
 絶望のなかでその種のドラマがよりくっきりと見えやすくなるからといって、絶望や死自体に、ニンゲンの心を惹きつける特別な魔力がある、なんて必要以上に美化したり買いかぶったりするのはまちがいだと思うな。
 絶望、自死---そんなのはただの現象であり舞台背景であって、なんでもない。
 そこに至る道のとちゅうで、どれだけそのひとが真剣に苦闘したか、思いきり悪あがきしてみせたか---僕が知りたいのは、ただその一点です。
 藤圭子の歌は---最後には負けちゃったかもしれないけど、そういったニンゲンの暗黒面への落下に対するプロテストでありブルーズであった、と僕は考えます。
 ビリー・ホリデイにしても同様---境遇と運命に対し、彼女は彼女なりに懸命に抗ったのです。
 川端さんにしてもことはおなじ。あれだけ聡明なひとが、絶望や死自体を美化するなんて風の安手のトリックに騙されるはずがない。
 彼等はたまたま有名な藝術家だったから、彼等自身の生の苦闘が、僕等の見えやすい位置にあったわけであって。
 また、彼等の場合、「アレクサンドロスの瞳」に表象される、特異な業と運命的歪みといったものがあったから、一般の市井のニンゲンとくらべて、苦闘のドラマがよりドラマチックなものになり、その見栄えのよさゆえ一層喧伝されることなった、といったようなこともいえそうです。

 けどね、市井の無名の庶民のなかにだって、ひとの数の分だけ、人生の苦闘のドラマは当然あるんです。
 つまり、僕等はひとりびとり、みーんなブルースマンなんですよ。
 イエス、僕等はみんなブルーズマン!
 日常の生活で、僕等は、みーんなある種のプロテストソングを歌っているの---楽器と喉を使わない、もっと別種の歌いかたでもって。
 僕は、苦闘からの解脱、みたいな新興宗教めいた方向性には一向に惹かれるものを感じません。
 というより、癒しも安逸も平和も、この血みどろの苦闘のなかにしかない、と思ってる。
 ですから、闘いませう、苦闘しませう、皆さん! 
 その抗いの血脈こそが、ニンゲンの生活であり、詩であり、歌なんだ、とイーダちゃんはこのごろ漠然と思いはじめているのでいるのでおじゃります…。

 なんか、だんだん、手前勝手な青臭い哲学もどきになってきちゃったんで、野暮に陥るまえに、ここらで筆を置きたい、と思います。
 藤圭子の弔いのつもりで編んだこんなわがままいっぱいのいい気な記事が、藤圭子一歩手前の誰かさんの目にとまり、なんらかの心の触媒にでもなってくれれば幸甚です---。<(_ _)>


 

 
 
 

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10 コメント

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Unknown (広告掲載の依頼につきまして)
2013-09-21 12:38:31
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Unknown (サード・アイ)
2013-10-19 19:52:24
 藤圭子の背後にある『業』の大きな力が大きく作用して巫女である彼女の歌の中に波動として表現されて放たれているという見解に、なるほどと思いました。

 この歌手は、いわば昔の古い時代から日本の古層に流れている流浪する芸能の民の末しょうの女性であり、本当に昔の巫女や遊女の歌う歌謡が、いったいどのようなものであったのかということを、藤圭子の歌がそのまま顕しているのでしょう。

 これは戦後の学校教育の中で作られた感性ではなく学校教育ではない土着的なもともとの日本人の血筋の中から生まれてきているものであると思います。

 ですから、このような日本の古い古層の世界から、この藤圭子という現象を理解することは大変重要なことに思われてなりません。

 でも、藤圭子の背後にあった『業』の力とは、いったい何であったのでしょうか。巫女が非業の死を遂げるという現象は、民俗学の中ではよく話されていることですが・・・・
サード・アイさんへ (イーダちゃん)
2013-10-20 20:10:40
サード・アイさん、嬉しいコメ、ありがとうございます。
僕が自分的にいちばん力を入れてるのはこっち系の記事なんですが、やっぱ、人気的にはイマイチの感じなんで、サード・アイさんのような、専門の知識のある方のご意見は、非常に刺激になり、マジ、励みにもなります。

うーん、そうっすねえ---なんでせう、「業」ってね?

日本の古層、伝統芸というと、僕なんかはやっぱり河原乞食なんてコトバが浮かんできちゃいますね。

クマソやアイヌなんて単語もひらめいてきます。

征服者の大和朝廷によって虐げられてきた、原ニッポン人の怨みと嘆き。
なんて大仰なことを考えてみたくもなります。

なんといっても巫女というのは、そういった大衆に選ばれ、祀られ、使役され、でも最後にはいつも打ち壊される陶器のような存在なのですから。

気高くて神々しく、でも、その神々しさの分だけ儚くて、孤独で華奢で、地上的にはいつも不幸な運命を担わされたかわいそうな巫女…。

僕らがそのような巫女的存在に惹かれてしまうるのは、自分のなかにもやはり非常に巫女的な局面を宿していることを感づいているためでせう。

古層の呪術と体制の近代管理教育とのあいだのゲージで常に揺れつづけているのが、現代の大衆である「我々」のデッサンなのではないでせうか。

いうなれば巫女とは、神社の鳥居のようなモノなんだと思うな。
僕等は、鳥居の向こうのあっちからきたの。
あっちが僕等の「故郷」なんです。
とても芳しくて懐かしいけど、あっちへは還れない。鳥居の道は一本通行でいったんくぐったら、もうこっちの現世には二度と戻れないから。

そのようなわけで、僕等は、現世の現実順応側の極と、無意識の巫女的郷愁の極とに引き裂かれながら存在してるように思います。

「業」についての考察は、また、後ほど---m(_ _)m



イーダちゃんへ (サード・アイ)
2013-10-22 11:18:49
 コメントありがどうございます。実は、私がこの巫女の流れを汲む歌手に関心を持ち始めたのは、先日の自殺の報道があった後のことで、それ以前は、名前は知っていましたが、特に関心がなかった存在なのです。

 しかし、ここ一ヶ月の間、始めて歌を聴いて、彼女の出自やそのバックグランドを知って、この人普通の人でないと感じ、だれもが感じる事なのでしょうが、彼女が現代の巫女であるということは、誰もが納得することであると思います。そしてこの女性を民俗学的視点から捉えなおしてみるといろいろと不思議にシンクロしてくることがあまり多すぎるのです。

 さきほど業の話をされていましたが、今回いろいろとこの人を巡って、巷ではアングラのトンデモ論が出ています。特にその出自について信じられないことを書いている人もいるのです。そしてその内容があまりにひどいので、バッシングを受けています。

 しかし、よくよくその何の裏付けをされていないトンデモ情報を反対に肯定してみると、反対にそこから見えてくるものがあるということです。どうしてこの巫女のような人が精神病となってしまったのか、もしその人が自分の出自について、ある日突然に知ってしまったとしたら、それはその人のアイデンティティーの崩壊を意味すると思われます。つまり、反対にそれを肯定すると、それは精神の病にならないほうがおかしいでしょうと。

 そしてその業の件ですが、それは、これは私の推測ですが、戦後の日本の社会体制がアメリカに行った『人身御供』の犠牲者ではなかったのかという問いかけなのです。だからこの問題は、日本の社会体制は、絶対に封印する必要性があるということです。証拠となるものは残さないと。

 日本の古い神話の中には、巫女と蛇神のことについて書かれているものがあります。この蛇神によって巫女は死んしまうのですが、この蛇神を定規とコンパスのシンボルで顕す団体と考えれば、実は古代の神話の実体が、戦後の日本の社会体制の中に顕されたこととなるのです。これは想像を絶する悲しい出来事がこの中に封印されているのです。

 普通このようなトンデモ論を信じて肯定して考えてみるということは、普通に絶対にないと思うのですが、実はあるブログの中で、ウタダ・ヒカルのシングルコレクションの中にそのシンボルマークが描き込まれていることを発見した人がいたのです。普通、裏付けのないトンデモ論は信じらないけれど、でもなんでこのシンボルがウタダ・ヒカルにあるのか・・・・これがあるということは何を意味するのか・・・

 いったいここから何か推測されるのか・・・もしそれを肯定したとしたら、この人が内面に秘めていた苦しみは、とてもとても普通の常識的世界の中に生きている私達にとっては、共有化できない神話的な日本のカルマの世界なのだと思います。これがこの一ヶ月間の私が行ったこの出来事に対する分析なのです。そしてこれが私達の住んでいる日本という国の実は正体なんだと。
Unknown (サード・アイ)
2013-10-24 11:00:49
 そのようなことで、この1ヶ月間は、いろいろと調べてみましたが、たとえば、この歌手が新宿歌舞伎町の25時間のキャンペーン活動の出発点となった新宿の西向天神社には、新宿の女の歌碑が残されていますが、この神社には実は、巨大な富士塚があるのです。

 これは富士信仰のあった名残りですが、かなり大きなものがあるのです。また有名な新宿芸能花園神社には、夢は夜開くの歌碑がありますが、こちらの神社には、富士浅間芸能神社があって、そこに歌碑があるのですが、こちらの神社も富士浅間神社ですから、富士山の石が祀られている処なのです。

 実際に現地を訪れて、この歌手の歌碑がこの富士山に縁のある神社に作られて、そこには巨大な富士塚があるとなると、何かそこに歌碑を作らなければならなかったのか、今になるとその深い気持ちや思いが何故か自然と伝わってくるのです。

 何故なら、この歌手の遺骨は散骨されてしまって、世間一般的なお墓がないのですから・・・この富士山に縁のある二つの神社、一方には富士浅間の石が祀られて一方には、巨大な富士塚がある神社であり、そこに彼女の歌碑が建てられて、実質的にこの新宿の二つの神社が彼女の墓標となってしまっているのです。

 歌の巫女であるが故に、この二つの神社がこの巫女の墓標であるということは、本当に宿命的なものを感じるのですが、しかし、その姿を現地に行って見つめてみると、この二つの歌碑をあえてこの富士に深い縁のある神社に作らせた人の、深い悲しい思いのようなものを感じざるを得ないのです。彼女が歌の巫女である証拠は、この二つの神社にその墓標が残されているということがその証となっているのです。

 しかし、実はもう一つの彼女の墓標となっている神社が歌舞伎町の中にはあるのです。実は、この事件があってから、25時間キャンペーンを行い、この地に縁のある歌手であるが故に、この歌舞伎町の故事来歴を江戸時代まで遡ってみると、実はこの歌舞伎町は湿地帯であり、歌舞伎町には実は大きな池があって、この地域一帯は、水商売と深い繋がりがある素地があるような水に縁の深い地域であったのです。

 そしてその名残りが歌舞伎町1丁目に現在残されている『歌舞伎町弁財天』の姿なのです。この弁財天社は、もともとここにあった大きな池の麓に祀られていた弁財天であって、それが現在まで残されているのです。

 そして歌舞伎町の弁財天社には、神社の庭に、一体のブロンズで作られた小さな弁財天が琵琶を持って祀られているのです。私は先日この弁財天社を確認に行って、その琵琶を持つ小さな弁財天の姿を見た時に、そこに白いギターを持って、西向天神社から歌を歌う活動を始めたこの女性の姿が、その一体の弁財天の中に顕れているように感じられたのです。

 この巫女である歌手は、散骨されてしまって何も墓標は残っていないけれども、実は歌舞伎町の三つの神社の中に歌碑や富士塚、そして弁財天の姿を持って、その墓標が人知れず、神社の中に残されていたのです。巫女である業の証拠として、この人の墓標は神社の中にのみ、それが残されていた・・・・そのように思うと私はこの歌碑を神社にあえて残さなければならなかった人の思いがどうしても伝わってきてしまうのです。 
Unknown (サード・アイ)
2013-10-24 11:46:47
 上記のように、いろいろと表裏のトンデモ論の情報と現実に行われた事の成り行きの現実的な処理手順そして今回の出来事に対するメディアの扱いや一般的な人としての感情のあり方を含めても、やはりどこかおかしい自然な感情が判断してくるもので、それでどこがおかしいのかは、具体的に判断できないのですが、やはりあのシンボル・マークがあるということは、普通ではないことが、隠されていると思わざるを得ないのです。

 そんなことで、ある人は、富士山が噴火するとか、トンデモ論を述べていましたが、いろいろと浅く表面的に解釈したり、深く情報を探ったり、いろいろと見てゆくと、やはりこの国の為政者達に対する大きな審判がいずれ起きるような気がします。この国の為政者は、この国の自然を反対に冒涜している人々であり、悪人の集まりなのでしょうから。

 この巫女である歌手の出来事は、一つの予兆と見る見方は、けしてトンデモ論ではなく戦後の日本の社会体制があまりにひどいので、世界遺産に登録された日本の富士のシンボルに対する冒涜を行ってきたのは、実は戦後の日本の社会体制そのものであったと言うことを、今回のこの歌手の一つの出来事がそのまま実証してしまい、この出来事が、カウント・ダウンのスイッチを押してしまったとも言えるのではないでしょうか。これはとても神話的解釈にすぎませんが・・・
サード・アイさんへ (イーダちゃん)
2013-11-02 10:14:39
力のこもった、内容いっぱいのコメ、ありがとうございます!
裁判とかでごたごとしてて返事遅れました。許されたし。
サード・アイさんのコメ、非常に面白いのですが、肝心のその「トンデモ論」がなんなのか分からないと、全体の論旨がイマイチ掴みかねます。
なんスか、それは?
ネタ? もしくは、あっち系の血が入ってる、とか?
伏字にせず、それ公にしてほしいな、と思います。
でないと、何がなにやら、分からない。
たしかに上掲ネタには中傷的ニュアンスがあり、わるい使い方をされる例がとっても多い。
でも、ヘンに良識ぶって、タブーをタブー扱いしたままじゃあ、これ、まるで未開社会ですよ。
優等生のいいコじゃ、真相は追えません。


僕は、呪術の血脈こそ日本の深層だってずっと思ってる。
天皇なんて、それの最適例ですし。

ですので、できたら伏字のマナーを外してくださいませんか。

そうしたら、より堅牢で凄味のある仮説が提示できるような気がします。
業のルーツ (藍色)
2016-11-18 21:30:58
その歌手の背負っていた業とは、その人の親の世代の人たち。
すなわちゴゼといわれた歌い手たちの想いを背負っていたのではないだろうか…。
藍色さんへ (イーダちゃん)
2016-11-21 19:31:55
藍色さん、レスありがとうございます。

ゴゼ…そうかもしれませんね…。

「夢は夜ひらく」についていろいろ調べていたら、
あれ、実は、原曲は、
少刑なんかで歌われてた自主発生的な歌だったらしい。
歌詞なんかももっと直接的で下品でね、
とても歌謡曲のマーケットに出せるようなものじゃなかったらしい。
それを材料にプロがまとめて洗練させて、Yシャツ姿に仕立てたもののがアレのようなのです。

いわば、ブルーズ・スタンダードの確立とよく似てる。

実際、同時代のほかの歌手も歌ったりしてます。

ただ、やっぱりアレを歌うのは藤圭子じゃなくちゃいけなかった。
藤圭子という肉体を通して出産させるために、彼女のスタッフたちは超・奮戦したのです。
だからこそ、あれ、最初に「圭子の」という所有格がつくんですよ。

ゴゼ。
被差別と低層と恨みと憧れと。
万葉集じゃないけど、歌っていうのはいつでも敗者の土壇場での絶句なんじゃないか、と最近僕はよく思います。

恋愛でも、かなった恋は歌になんない。
それは、やがてただの生活になり、歴史のなかに埋没してしまう。
叶わなかった悲恋のみが、歴史の傷となり、千年のちの世にも歌い継がれるとは、これ如何に?

傷ですね。ブルーズです。
人間はブルーズが好きな生き物なんだと思います。
ひとも恋も夢も地位も、みんな滅びるのですから。
生きるってことは、ひょっとしたら鎮魂にとても似ているのかもしれません…。

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