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----地上とは思い出ならずや?(稲垣足穂)
迫害されてるひとが好きです---。
と、こんなつぶやきを放り投げただけじゃ、いかにもマゾヒスティックな誤解を招いちゃいそうだけど、自分内部のこの根本の感情だけはどうにも欺けません。
いつだってどこだって、迫害され苦悶してるひとを見ると、イーダちゃんの心は、迫害されているひとのほうに向き、即座に彼等に感情移入してしまう。彼等の内心の立ち位置につい寄りそってしまう。
----待って。君のいってるのは、ひょっとして判官びいきのことじゃないのかな?
と、突っこまれたらにべもない、図星、これ、たぶん判官びいきなんでせうね。
あえて否定はしません。こいつばかりは理屈じゃないんです、感性なんです、だから、なおのこと始末がわるい。
以前から「トンデモ本」といった呼称には、イーダちゃんは、かすかな反感をずっともってました。
しかし、誤解なきよう、これは「トンデモ本」と呼ばれている本側にじゃなくて、「トンデモ本」というレッテルを張って新鋭のひとびとの言説をからかい、おとしめようとする、いわゆる「トンデモ本」攻撃委員会といったような人々に対しての、半ば本能的な反感であり反発なのです。
「トンデモ本」という呼び名自体、これは非常に政治的な呼称であると思いますね。
内容を否定するためというより、笑い物にするために使われている呼称のような気がします。
たしかに一般の「トンデモ本」と称される本のうちには、キテレツで、見るからに稚拙な内容のものもあります。
スキャンダラスなはし書きでもって一瞬の注目だけかき集め、あとは野となれ山となれ的立場の本も結構多い。けれど、全部が全部そうであるわけじゃない、読みながら思わず、おお! と呻いてソファーから立ちあがっちゃうような、素晴らしい内容の、説得力にあふれた本もいっぱいある。
なのに、そういった興味深い内容について吟味もせず、現行のいわゆる「科学常識」の枠に収まっていないという点だけをあげつらい、それに「トンデモ本」というからかい風味のレッテルを押しつけて、嘲笑い、さらにはおとしめる---このような動きって、ある意味、もの凄く権威的な押しつけなんじゃないでせうか。
要するに、イーダちゃん的視点から見るなら、彼等はある程度「権力サイドの走狗」として見えちゃうわけなんですよ。
そこまでいわないにしても、彼等のやっていることは、とどのつまり「思想警察」みたいな役割じゃないか、と思っちゃいますよね。なにより、この手の「トンデモ本攻撃サイド」系の本には、特定の著者のないケースが多い。いわゆる匿名の共著といったようなケースがあまりに多いんです。
匂いますよね---なんともいえない、かぐわしくて怪しい政治の薫りが。
率直にいわしてもらうなら、共著ってよくない形式だと思うんですよ。アメリカあたりでは特定の著者でない、寄せ書き形式の教科書は学校じゃ使わないっていいますもんね---著者がないと感動もないから。
しかし、いわゆる「トンデモ本攻撃サイド」系の本の大部分がこの形式をとってます。
そうして、この手の本を読んだあとの印象といえば、後味がいつもわるい。要するにまっとうな議論じゃなくて、陰口を集めてアルバムに仕立てたモノをむりやり見せられたような気になっちゃうんですね。感動はおろか、学びのかけらすらあまりない。
月刊「ムー」さんとか、こちらの代表的な書き手であるところの、サイエンス・エンターテイナーの飛鳥昭雄さんとかが、よくこの手の「トンデモ本攻撃サイド」の標的にされてますよね。飛鳥先生の場合なんかは「トンデモ本攻撃サイド」との争いがもつれにもつれ、たしか裁判までいったんじゃなかったっけ?
はて? たしかニッポンっていうのは言論の自由が保障されていた国のはずだけど…。
と、ここでそのような素朴な疑問が湧いたとするなら、貴方の勘はなかなか鋭い。
ええ、たしかに建前ではそういうことになっています。僕等はどんなことについても自由な意見を表明できるはず。ただ、実際に「大衆的良識」といったゾーンからあまりに乖離した言論を特定の個人が表明した場合、我らがニッポンはそれを封殺しようと動きだすケースがあまりに多いような気がするんですよ……。
というわけでいささか枕が長くなりましたが、コンノケンイチさんです---。
この方、自分では空間物理研究家と名乗っておられます。
この肩書きだけでもそうとうユニークなのに、前職が雀荘の親父だったというんだから、もうサイコー。
アカデミックな堅苦しい学者さんタイプとはまるきり異人種の方だっていうのが、この経歴だけで充分判ります。市井の暮らしをたくましく生き抜いてきて、世情にもよく通じた、肝の太い佇まいと度胸とが感じられるじゃないですか。
さらにはこのコンノ先生の提唱してられる2大主張っていうのが、また傑作なんですよ。
その1:アインシュタイン相対性理論の否定
その2:ビッグバン宇宙論の否定
おいおい、そんなこといっちゃっていいの? と思わずこっちの腰が引けそうになるくらい。
なんと、20世紀最大の学者といわれる、アインシュタイン、ホーキング両氏の提唱したそれぞれの2大理論を、コンノ先生は20世紀の2大虚妄としてきっぱりと退けてるわけなんですよ。
これは、はっきりいって凄いことです---アカデミズムに対して完璧弓を引いてるわけですから。
すわ。現代のドン・キ・ホーテかって感じですよね。ドン・キ・ホーテが嫌だというなら別にガリレオでもいいですけど。
ただ、権威的な視点から見るとたしかに異端っぽく見えるんですが、いざコンノ先生の論旨を聴いてみると、あれれ、案外これがまともなことをおっしゃっているんですよ。というか、最先端の量子力学の研究成果を踏まえたうえでの、非常に説得力にあふれる、科学的な論旨を展開してられるんです。
たとえばそれはこういった設問です。
----われわれが見ていないときは、空にかかる月は存在しないのでせうか? (アルバート・アインシュタイン)
こんな問いを投げられた場合、僕等のとる反応はまあ決まっています。
僕等は自分の住む世界の普遍性を常識として信じてます。自分が生まれるまえからこの世界は存続してきたのだろうし、自分の死後もその存続はつづくのだろう、と、あたりまえのように思ってる。
この考えはあまりにも僕等の頭脳深くまで染みついてしまっているため、あえて取りだしてこの考えを検討するという行為自体がかえって難しく感じられるくらいです。いうならば経験則ですね。
しかし、この経験則、量子力学の世界じゃすでに否定されているとしたら、貴方、どうします?
実をいうなら、先端科学の分野では、もうとっくに唯物論は「科学的に」否定され切っちゃってるんです。
しかも、幾度にもわたる実験と追試のおかげで、その事実が証明までされちゃってるんですよ。
唯物論は否定され、古-いにしえ-の唯心論がみるみる息を吹きかえしてきたというわけ。
ですから、量子力学的視点で、さきほどのアインシュタインの問いに答えるとこうなるのです。
----貴方の意識が、夜空にかかる月を創造しているのです…。
えーっ!? と思いますよねえ。
僕もそうです、まったくの話、経験則じゃあこの理屈は絶対に理解できない。
けれども、これは思考実験なんかじゃなくて、れっきとした最先端科学の、すでに証明済みの結論なんですよ。
うーん、僕がこれ以上言葉を連ねても、五里霧中の度合いが深まるだけと思えますので、そろそろコンノ本から引用いきませう。
----「シュレディンガーの猫」のパラドックスに見るように、観察するという意識と行為がなければ、「この世」は存在しないと考えることを余儀なくされるからである。科学者が研究して観察するという行為そのものが、本当は自然を究明しているのではなく、想念によって客観的な存在を造り出しているというわけである。
まことに呆然とすべき幻想的な結論ではあるが、いまだかつて量子力学の予言は外れたことはない。これまでの量子力学の統計的予測に基づいた実験検証は常に的を射ており、したがってこれはまさに正しい結論だといえる。この世はバーチャル・コンピュータとホログラムが合体した幻覚的リアリズムの世界という考え方を受け入れなければ、量子力学は科学として適用できなくなるのである。
いま最先端科学が認識つつあることは、古典科学では考えられなかった人間の精神力(主観)というものが、エネルギーとして深く潜在しているということだ。
「この世」の実体は、我々の意識とは無関係に形成されているのではなく、人間の精神と自覚そのものが「存在」を創り上げていたことになる。こうした意味で量子力学は、まさに「悟りの哲学」である仏教と区別できなくなってきているのである……。(徳間書店「死後の世界を突きとめた量子力学」より)
どうしてどうして……「トンデモ本」なんてトンデモない、立派な、いい内容の本ではないですか。
たしかにいくらか気ち○いじみてるきらいはあるけど、最先端の科学が市民的常識から乖離していく傾向なんて、ほとんどもう常識でせうから、いまさらそれに声を荒げる理由がいまいち飲みこめませんねえ。
アインシュタイン---否定されたってべつにいいじゃないですか---相対性理論だって所詮は仮説なわけですし。
仮説は「眼鏡」---いわば、この世を認識するための覗きからくりではないですか。
「眼鏡」が現実に合わなくなってきたなら、新しい「眼鏡」を新調すればいいのです。
ビッグバンにしたって、いま欧米で「ゴー・トゥー・ヘル・ビッグバン」というのが最先端科学の合言葉になってきていることくらい、そっち系のアカデミズムに興味のあるひとなら誰でも知ってます。
なぜ、「眼鏡」の新調をそうまでして渋るのか。
というより、なんだって「眼鏡」自体をそこまで聖化しちゃうのか。
所詮は「眼鏡」、世界を覗くための人間のからくり道具にすぎないものなんですよ。
イーダちゃん的視点からいくと、いちばん分からないのは、異端的とされる言説にむやみやたらと噛みついていく、貴方たちの狭量で凶暴な精神構造のほうだよ、とまずはいいたいですね。
どうしてあれほどコンノ言説をヒステリックに叩かなくちゃいけないのか。
コンノ理論を否定して、相対論の権威の城中に閉じこもることでなにか利点でもあるんですかね。
ちょっと嫌味ないいかたになっちゃいましたけど、「眼鏡」のブランドにこだわってヒステリックに吠えたてる貴方たちの態度ってあまり科学的ではないと思います。
ま、ほんとに科学通の方から、じゃあ、お前は相対論を理解しているのか? 理解しているなら説明してみろ。
といわれたら僕も弱っちゃうんですけど…。(^.^;>
しかしながら、コンノケンイチ氏の本は実際面白いですよ。
それに、量子力学のいってることって、晩年の三島由紀夫がよくいっていた「唯識」仏教の啓示する世界観に、なぜだかとてもよく似てるんですね。
うーむ、ふしぎ。むかしのひとのほうが聡明だったんでせうかねえ……。
そのへんはちょっと分かりかねますが、巷にいう「トンデモ本」の代表選手であるところのコンノ氏の著作を、正月向けの推薦図書として是非にも押したいなあ、と目論んだりもしている師走の町のイーダちゃんなのです。(^.-)v