イーダちゃんの「晴れときどき瞑想」♪

美味しい人生、というのが目標。毎日を豊かにする音楽、温泉、本なぞについて、徒然なるままに語っていきたいですねえ(^^;>

徒然その30☆古書「うんたらた」主人の内緒話☆

2010-12-02 08:28:46 | 身辺雑記
                          

 イーダちゃんの大学時代の友人で古本屋の主人をやってた奴がいるんですよ。
 大阪の藤井寺ってとこ。こちら、近鉄電車の急行も停まる、案外でっかい町でして---むかし、ここに藤井寺球場っていうのがあって、近鉄バッファローズの本拠地として栄えていたんです。スーパーの肉屋にいくと、いつも隅のほうに近鉄バッファローズのパ・リーグの無料切符がいっぱい「ご自由にお持ちください」とおざなりに置かれてあったの、覚えてますね。残念ながら、いまは球場ごとなくなっちゃいましたけど。
 で、こちらの踏切沿いすぐのところに、古書「うんたらた」って名のこじんまりしたお店があったんですよ。
 そこが、イーダちゃんのご学友のMがやっている古書店なのでした。
 しかしながら時の衰勢、不景気の促進、BOOKOFF をはじめとする大資本の介入などのマイナス要因がいろいろと重なったあげく、2年ほどまえに店を畳んでしまわざるを得なくなっちゃったのですが、総計して11年くらいは営業してたんじゃないでせうか。
 でも、この「うんたらた」って店名の響き、なかなかよいと思いませんか。
 これはMが開店するまえ、東京に遊びにきたときに池袋でふたりして考えた店名なんですね。
 30か40の店名候補を互いに挙げあいまして、しかし、なかなか決まらず、最初は面白く思っていたこの名付けのゲームもだんだん苦役となってきて、ふたりしてうんざり度合いがとうとう顔まででかかったころ、くたびれきったMが枯れかけの声で、

----じゃあ、うんたらた、なんていうのはどうや…?

 それだ! と、イーダちゃんはすかさず膝を叩いたのでありました。
 うんたらたって仏教用語なんですって。なんかの教典にそのまま登場してるって聴いたけどまだ確かめてません。
 この命名はよかったといまでも思ってます。開店前のある日にこのMから、

----まだ開店には3、4日あるんやが、近所の子供らが店ののぼりのまえで通学途中で<うんたらた~、うんたらた~>ってはやしたてて通っていくんや…。

 という手紙をもらったときは非常に嬉しかった。勝ったと思いましたね。

 最初の3年間はけっこうよかったらしいんですよ。
 月に漫画本が千冊以上売れたり、常連客の顔を50人以上覚えるのに苦心したり、漫画喫茶の業者が棚の半分を買っていってたりして、笑いのとまらないときなんかもあったそうです。
 が、しかし---
 このささやかで地道な「うんたらた」の春にも翳りがやってくるのです。忍び足で。
 Mがいうには4年目を過ぎたあたりから、売上げが急にかしぎだしたらしんですよね。不景気と大型店の近隣への進出のせいでせうか。ほんとの理由は誰にもわかりませんが、毎日最低30冊は売れていた漫画本が10冊も売れなくなり、月に2回くらいは売上げゼロの日が生じるようになり、1日の総売上げが600円でした、みたいな笑えない日が普通につづくようになる。
 こりゃあ大変、非常時だ、苦肉の策として店の一角にAVのコーナーを設けたそうです。
 その領域は日ごと拡張していき、やがて、

----…その結果は、「町の古本屋さん」ならぬ「町のエロ本屋さん」へと成り下がる始末だった。町の住民は誰もまともに本など求めてはいなかった。やってくるのは変態さんばかり。マニア御用達の如く、おそらく町で一番のHの品ぞろえの多い店だったのではないかと思う。抵抗はあったが生き残るためにはそれを主力戦力とするしかなかった…。(店主M談)

 で、まあ客層ががらんと変わっちゃったようなんですよ。
 引用、しばしつづけませう。

----…押し売り、宗教の勧誘、新聞屋、ただ話し相手が欲しいだけの一方的に喋りまくる老人、特攻服を着た中学生、子供の裸にしか興味ののない読み書きもできない精薄児、やくざであることに疲れたようなやくざ、人間離れした動き方で店を出たり入ったりしたシャブ中、人の顔を覗き込んで兄ちゃん寂しそうやからうちの姉ちゃん紹介するわとかいきなり言いだすバカみたいな男、バス代をくれという痙攣発作の中学生、歩けるくせに車椅子に乗り、それを母親に押させている知恵遅れの巨漢の西郷隆盛そっくりの男……。

 この行列は、ちょっと凄いな。
 レンズのあてかたがフェリーニのサーカスみたいだ。ただ、ちょっと、照明の光量がいくらか暗すぎるようですけど。
 ま、でも、こういう日常にかこまれていたら、気持ちがすさんでいく感覚はそりゃあ分かりますよね。
 強いられた袋小路で日が暮れて---みたいなマイナスオーラの閉塞感がゆらゆら漂ってくるような手紙文です。
 Mは手紙好きで、気がむくと僕にときどき長い手紙を送ってきてくれたんです。うーん、とイーダちゃんはおもむろに読んでいた手紙から顔をあげて、目頭付近にまとわりついた邪気を落とそうとちょい首なんかふって、

----だいぶ、きてるなあ… と思いました。

 敏感な方ならもう察知できるかと思いますが、Mの文章ってなんとなく「ぬめる」んですよ。
 いってることはわかるんだけど、あまりにも自分地点からの視点にかじりつきすぎてて、それ以外に目を向けないための閉塞性、幼児性、みたいなかたくなな要素がかえって多く感じられるというか。M自身のキャラにもそういう甘えん坊まじりの、実は傲慢資質みたいな要素が翳るときはままありました。むろん、いい奴はいい奴なんですが。
 ま、僕にしても他人様にどうこういえるキャラじゃないから、ええい、このへんでこの話題は口チャック。
 ただ、こうした一身上の問題にはアドバイスも糞もない、自分で解決するよりほかないものですからね。
 だから、この時期、僕は彼のことを静観してました。2008年の冬に熊野への温泉旅行にいくとき、いちど彼の店に顔をだしたときくらいしか接触していないように記憶しています。
  
 で、MもMの店のことも忘れて、有給とって山陰の温泉巡りをしてたんですよ。
 あれは、2008年の夏のことでした。島根の温泉津温泉から山陰本線を乗り継いで、山口の長門湯元温泉にむかうとちゅう、がらがらに空いた車両のなかでイーダちゃんは車窓に思いきり頬杖をついてね、いい気持ちできらきらする夏の日本海をぼんやり眺めていたんですよ。そしたら、そのときマイ携帯がちりりと鳴ったんです。
 うん? と思ってフォルダをあけると、主人Mからのメールでした。
 あけてみる。すると、それ、歌なんですよ。
 店の末期と自らの袋小路を歌ったパンキーな歌軍団が白い画面にならんでる。
 ちょっとひいた。ただ、どういうわけか、そのとき、この歌がひっかかりなく胸中にすうっと入ってきたんです。

----百円のコンビニ漫画叩きつけ立ち読み小僧駆け抜ける春
 
 いいなあ、と思った。
 ひょっとして背景がよかったのかもしれない。この場合のイーダちゃんの背景は、輝くばかりの山陰の午どきの日本海です。
 この夏の海の光がうまい具合に作用して、ふだんMの歌のそこここに張りついている、僕の苦手としてるかさぶた部分をべっきり削りおとしちゃったのかもしれない、と思ったりもしました。
 歌自体としては、これ、出来的にまとまりすぎてる気がします。表現があまりにスムーズに磨かれすぎてて、心にひっかかるよりさきになにか滑っていっちゃうような印象っていうか。
 でも、とってもスピーディー。それに生活臭もよくでてるんじゃないかなあ。
 そうして、この歌、夕陽の香りがかすかにしてますよ。コレが起こった時刻はひょっとして夕方じゃなくて真昼間だったかもしれない、けど、夕陽と店のワゴンのなかの古本のすえた紙のにおい、たしかにしています。
 たそがれの下町の古本屋ファンタジーかあ、よいなあ。(ややうっとりして)
 あと何点か、追加紹介しておきますか。

----いつまでも淋しさばかりうず高くプレイボーイの表紙が嗤う

----背の高い女乞食が陽を浴びてワゴンの中身蹴散らしてゆく

----正午からおやつの時間過ぎてなおグラビアめくり突っ立っている

----腰曲げてグラビア雑誌漁る餓鬼薄い尻肉突き出している

----新学期ちんぽちんぽとよろこんだ中坊の顔みるみる老ける

 なんか、古本屋に出入りする面々の体臭まで匂ってきそうなリアルさじゃないですか。
 さすが、店主! 人生の袋小路の鬱屈具合っていうのが、多方面からよく書けてると思います。
 ささくれた詩情がグーですね。傑作、だとは思わないけど、これだけ近距離に僕らじゃレンズをフツーすえつけられませんもん。
 もっとも、イーダちゃんにしてもこのMの袋小路を一方的に下に見くだして、クールに観察だけ決めこんでいるってわけじゃないですよ。そんなにイーダちゃんが偉いわけがない、というかより深い意味でいうなら、この古書「うんたらた」主人の鬱屈は、たぶん、僕自身の鬱屈でもあると思うんですよ。
 ええ、まったくもって他人事じゃない、ひょっとしたらこの鬱屈は、貴方の、もしくは貴方の配偶者の、さらにはご友人の鬱屈ですらあるかもしれない。
 歩く鬱屈、駆ける鬱屈、立ち読み小僧の鬱屈、あるいは立ち読まれ店主がわの鬱屈、通勤の満員電車のなかでの鬱屈、イヤな上司に合わせなきゃいけない鬱屈、付きあいの鬱屈、けじめのない攻撃的ギャグに対する気弱びとの鬱屈、リストラの噂の陰気な鬱屈、「えっ、あの子がマジでそんなこと?」給湯室で耳にした思わぬ自分の悪口につい立ちどまる鬱屈……まこと、この世は痛ましい鬱屈の巣窟であるようで---。
 でも、しようがない、なんといっても生まれてきちゃったんですから。
 生まれてきちゃった以上はせいぜいがんばって、これらの鬱屈と押しあいへしあいしながら---ときにはメゲそうになりつつも---けなげに、着実に、毎日毎日に小さな自分なりの喜びを発見しながら、なんとか生きていきませうよ、と、かつての青春ドラマの金八先生のように呼びかけてみたくもなる、11月晩秋の、夕映え中年イーダちゃんなのでありました。(^.^;>


        § 今回のページ作成にあたって、快く古書店「うんたらた」の店名使用を認めてくれ、あまつさえ
          自作の短歌の使用さえ許可してくれた友人のM氏に感謝します。マジ、ありがとう。m(_ _)m 
          いろいろあるけどお互いがんばんべ---。