イーダちゃんの「晴れときどき瞑想」♪

美味しい人生、というのが目標。毎日を豊かにする音楽、温泉、本なぞについて、徒然なるままに語っていきたいですねえ(^^;>

徒然その115☆オーケストラ・ダヴァーイのチャイコフスキー☆

2012-08-20 01:16:18 | ☆ザ・ぐれいとミュージシャン☆
                      


 Hello、エブリバディ、このマニラチックな酷暑のなか、元氣にすごしてはりますか?
 最近、どういうわけか、やったらアマチュア・オーケストラを聴く機会に恵まれはじめた、不肖イーダちゃんです。
 今回、僕は、オーケストラ・ダヴァーイというアマオケの、第6回目の公演に行ってまいりました。
 えーと、2012年の8月5日の13:30より、八王子駅前のオリンパスホールという場所での公演です。
 今回の公演のメイン・デッシュは、チャイコフスキーのあの「白鳥の湖」Op.20(バレエ曲よりの抜粋)---。
 なんと、在日ロシア大使館が後援しています。
 あと、指揮が、前回の6.30に、やはりアマオケのみずほフィルでショスタコを振った、あの森口真司先生---!
 僕、前回の公演で、森口先生のアパッショナータな指揮ぶりに、すっかりファンになっちゃってましたからねえ。
 森口先生贔屓でチャイコ好きをも兼任している私としましては、こいつは、どうあっても見すごせねえ、いわばスペシャルな公演なのでありました。
 だもんで、気のあう音キチの友人連と胸ワクワクで聴きにいってきたというわけなのサ。
 で、その結果はどうだったのか?
 その詳細を記したのが、ええ、今回のこのレポートなのでありまする---さあさ、Wwlcome、Please Come In!


                            
 

 さて、この日の第1曲目は、シチェドリンの、管弦楽のための協奏曲第一番「お茶目なチェストゥーシュカ」---。
 オケの楽器をそれぞれコミカルに紹介しながら、つむじ風みたいに駆け去っていく、「ウイット」の要素の非常に強い、技巧的かつショービジ的な曲でした。
 この曲は、僕は、知らなかった。
 オケの皆さんがまず音あわせをすませて、
 つづいて、舞台の裾から森口先生がタクト片手に、例のキビキビした動作で歩んでこられて、
 で、オケが、早口コトバみたいな独自のボキャブラで、やや前のめりに疾走しだしたとき、僕がなによりビックリしたのは、このオーケストラ・ダヴァーイの「音」に対してでした。
 たまたま僕はこのまえの6月に、おなじ森口先生の指揮で、みずほフィル(注:このオケさんもアマチュア・オーケストラなんです)のショスタコを聴いていたんですね。
 そのときの音と、あまりに音がちがっていたの。
 そりゃあオケがちがうんだから、楽器も奏者もちがうオケの音に差があるのは当然さ---といえばたしかにまあその通りなんでせうけど、そのとき僕を驚ろかしたのは、そういったようなもんじゃなかったんだよなあ。
 強いていうなら、弾いている奏者さんたちの、精神的背景の相違とでもいいますか。
 あのー 先日聴いたみずほフィルさんも、非常にうまいオケなんですよ。
 ピッチのそろった透明な音で、堅実に音楽を紡いでいくその姿勢は、僕は、非常に素敵だと思います。
 ただ、このダヴァーイさんを聴いちゃうと、その記憶の音が、やや優等生的なものとして聴こえてきちゃうんですよね。
 すなわち、ダヴァーイさんのオケの音は、なんというか、一種の自信に溢れていたんです。
 いわゆる「腕っこき」の演奏なわけ。
 ええ、どの奏者もみんな水準以上に超・うまくてね、なんか、猛者揃いの雇われの傭兵部隊が、さあ、十八番の一勢突撃を開始しました、みたいな香りを僕はつい嗅いじゃったんです。
 だって、マジ、みんなうまいんだもん。
 そして、自信たっぷり---ショーマンシップもたんまり---ちょっとね、一般的なアマチュアっぽくない演奏なわけなんですよ。
 みずほフィルの売りがが「世間知らずの深窓の令嬢の清楚さ」なら、ダヴァーイさんの売りは、「酸いも甘いも噛みわけた、レッド・バトラーみたいに自信たっぷりな、壮年期のアクの強い男性」って感じかな?
 音もね、みずほフィルさんの音は、どっちかというと女性ヴァイオリニストのそれのような、なんていうか情緒の重みにいくらかかしいだ風情の、どちらかというと全体的にベタッとした音質を僕は感じてたんですよ。
 オケのトーンを意識的に変化させていくというよりは、丁寧に清潔に紡いだ音のなかに、清楚な音に祈りを徐々にこめていく、みたいなタイプ。
 そこいくと、ダヴァーイさんの音は、ハイフェッツやミルシュタインの男性ヴァイオリニストのそれみたいに、緊密に、筋肉質に、ビシッと締まっているんですね。
 体育会系な響きというか、ま、一種ドライな風情の音なんですよ。
 器用に、意識的に、一瞬ごとに、フットワークを変えていく、俊敏なボクサーみたいなイメージ。
 一言でいって、タフで腕達者ってオーラがきらきらと照り輝いてるんですよ、このオケさんは。 
 
----ああ、だから1曲目に、オケの腕をあえて披露できる、このシチェドリンをセレクトしたわけか…。

 と思いましたね。
 ホールの音響もすっごくよかった。
 あと、ティンパニの男性のあまりのうまさに度肝を抜かれたこと、忘れないうちにここに書きたしておきませう。(あとから聴いたら、この男性---その世界で「打王」と呼ばれている、有名な方だったようです。道理で!)

 ただね、このダヴァーイさん、マジ、筋肉質な音だったんでね、うーん、こんな醒めた音でチャイコなんてやれるのかなあ? なんて頭のもう片隅でちょっと考えちゃったのもホント。
 でも、そんな僕のアタマでっかちな心配は、杞憂にすぎなかったのです。
 それが明らかになったのは、2曲目の、プロコフィエフの「石の花~ジプシー幻想曲」Op.127 でした。
 これ、序奏と4つの小曲からできている組曲なんですが、これが、なんともキュートだった。
 そう、このオケ・ダヴァーイさんは、声を張りあげて歌うフォルテだけじゃなくて、繊細なピアニシモの響きもとても充実していてよかったの。全体的な骨法をなしている音の根本が筋肉質に醒めて聴こえるのはあいかわらずですが、それに絡みついている筋肉や筋も、非常に柔軟でしなやかな動きを見せつけてくれました。
 輝かしい音を丁寧に紡いでいく金管群が素敵、それにすかさずかぶっていく絃の層の波形のシャープさが凛々しいことったら。
 特に、絃の厚い音の波間からときどき顔をだす、木管の響きは素晴らしかった。
 とりわけ僕がまいったのは、これは、次の曲の「白鳥の湖(抜粋)」にふいに飛んじゃうんですが、オーボエのパートリーダーを勤められた久野祐輔氏のソロでした。
 まえから氏の評判は聴いていたのですが、実際に体験してみると噂以上でしたね。
 もう、耳が吸いとられるのよ、彼のオーボエって---。
 独特の「濡れた」トーンで彼がソロを吹きはじめると、あのアメリカ映画の「十戒」のように、ほかの楽器群がさっと背景に遠のいて、久野氏のまわりにだけ目に見えないスポットライトが当たっているように見えるんです。
 選ばれた音楽家だけがもっている、あの「魔圏」---あのホロヴィッツの来日時に、批評家の吉田秀和氏が使ったコトバを、あえてここで再使用させてもらいます---が、氏の演奏には確実にありました。
 むろん、実演ならではの瑕は、演奏のそこかしこに見かけられるんですよ。
 ときどき音がひっくり返ったり、あるいはA音がうまく出なかったり---でも、氏の演奏を聴いているうち、そんな瑣末事はまったく気にならなくなってくる。
 それほど久野氏のオーボエの運んでくる「恍惚」って魅力的だったんですよ。
 僕は、抵抗できなかったね---。
 左前方の中空に視線をさまよわせて、ただ聴き惚れるしかなかった…。
 いくらかノスタルジックな香りのする、よく透る、繊細でやや細の音色---。
 独自のアーティキュレーションにかぶるかすかなヴィブラート、フレーズがひと息つくたびに、花びらみたいに散りこぼれてくる、大らかな詩情---。
 氏の本質は、たぶんソリストなんでせうねえ---この抒情はホンモノです---ただ、抒情って本質的にアナーキーなものでして、全体のアンサンブルに対して「否」を突きつけちゃうようなところがあるんです。
 実際、久野氏のソロがはじまると、オケ全体が、なんか協奏曲の共演オケみたいに聴こえてきて、全体的な調和が、ややなおざりになっちゃうようなきらいがちょいとある。そういった意味で、彼は、非常に扱いの難しい実力者なんじゃないか、もしかしたら、セカンドのオーボエのひととかは、興が乗ったら自由奔放に走りだしちゃう久野氏のそばにいつもいて、アンサンブルの「調和」的視点から、おいおい、翔びすぎだよー、とか、あらあら、こんなに陶酔しちゃって、とか、そのようなハラハラ心配を常日頃体験しているのかもなあ、なんて余計なことまでついつい考えちゃったりね。
 しかし、いずれにしても、このコンサートでのオーボエ吹き・久野氏の発見は、僕的に大きな収穫でした。
 聴けば、氏はまだ30代前半だとか---抒情派として、いまが旬なんじゃないかと思う---僕よりひとまわり以上年下ですが、僕は、尊敬の念をこめて、いつでも心中で氏を「久野さん」と敬称づけで呼んでます。
 あれほどのひとを呼び捨てにするなんて音楽好きとしてとてもやれない---そんな風に思わせてくれるほど、この日の久野氏のプレイは絶品だったのでありました…。

 そうして、あいだに休憩をはさんではじまった、待ちかねたメインのチャイコフスキー---。
 その全体的な出来栄えは、どうだったのか?
 いや、もう兄さん---それが、超・とってもよかったの。
 たぶん、総計1時間は超えているくらいの、長ーい演奏だったんですよ。
 でもね、僕、そのあいだ、微塵も退屈感を覚えなかったんですから。
 いくらチャイコ自身が稀有のメロディーメイカーだからといって、そればかりじゃこうはいかないよ。
 これってね、よく考えると凄いことなんですってば。
 僕は、それまで指揮の森口先生の経歴を何度かパンフで読んでいて、そのなかにオペラ指揮者としてのキャリアがあるのを「ヘーッ」なんて思いで何気に読みすごしていたんですが、そのオペラで鍛えた「造形力」の豪腕を、この日は、たっぷりと見せつけられることになりました。
 オペラって集団藝術のなかの集団藝術じゃないですか。
 オケの調子がいくらよくっても、歌手の誰それの喉具合がわるかったり---あるいは、歌手同士が喧嘩していて、愛の紡ぎあいのはずのデュエットが、なんか傷の突っつきあいみたいな尖った様相を帯びてきちゃったり---あるいは、天候のせいでホールのコンディション自体がよろしくなかったり…。
 どんなオペラ指揮者にとっても、「完璧な」上演なんてのは、およそありえない世界---。
 したがってこのようなオペラ藝術の場合、指揮者の使命は、託されたオペラの上演をとにかく終幕までやり通すことにあるんです。
 音楽的達成も、自己の色彩を出すことも、上演完了までの現場監督者としてのこの責務に比べれば、二の次、三の次。
 といったような厳しい諸般の事情から、指揮者は、音楽家全般がロマン主義者的傾向にあるなかで、ただひとり、現実主義者-リアリスト-でなくてはいけない宿命をしょわされるわけです。
 コントラバスが遅れた---それとなく指揮棒でそれを悟し、皆に慌てなくていい、いまのテンポでそのまま歩めばそれでいい、音楽はそのくらいじゃ壊れないんだよ、と伝えたり。
 フルートが気張りすぎて、音が固く、気難しく聴こえてきたら---すかさずフルートのほうを向いて、固くならなくていい、リラックスして吹けば、それなりに透る音はでるんだよ、と目くばせしてみたり。
 そのような瞬間的な超・気配りが堆積して、やがて、ひとつの音楽として彫刻されるわけ。
 このシビアで厳しい決断の連続が、僕は、指揮者の「メチエ」なんだと思う。
 前回のみずほのショスタコでは、僕には、それが見えなかった。
 でも、今回のチャイコでは、どういうわけかそれがまざまざと見えたんですね。
 僕は、そのプロフェッショナルな「メチエ」に仰天して、ああ、そういえば森口先生はオペラの指揮を結構されていたから、この造形の手腕は、オペラで鍛えられたものなのかもしれないなあ、と思いあたったという次第。 
 オペラってオケと歌手がコミの世界ですからね---アドリブの指揮棒でふいのルバートなんてとてもかけられない、そんなことをしたら歌手が歌いだしをミスしちゃうかもしれないもの---つまり、ハッタリはあまり効かせられないんです。手の内の最小限のカードをできるだけうまくやりくりして、コンパクトでシャープ、かつキューティーな音楽を創造していかなくちゃいけない。
 この一種の職人仕事がね、森口氏は、非常にうまかった。
 でも、本来の「造形」って、たぶん、このようなものですよね? 藝術上の本当の「造形」という基礎ができてないイーダちゃんとしては、ほとんど憧れのまなざしで先生の鍛えられた諸々の所作を追いつづけるしかなかった。
 見事な造形であり、コントロールだったと思います。
 祝宴の場面での「ワルツ」!---中学時から僕が偏愛していたこのチャイコのワルツでは、氏は、優雅なメロディの背後に不幸の縁取りをほんのりと施し、クライマックスではカラヤンより有機的に、レヴァインより素直にまっすぐに歌い、もー 素晴らしかったな。
 あと、「4羽の白鳥の踊り」---ファゴットの低音の歩みにあわせて次第に重層的に重ねられていく、オケの各部の色彩感がたまらなかった。
 派手にしようと思えばいくらでも派手にできるだろうに、それをあえてシックな寒色系に統一した感じがよかった。
 この木管パートでは、やっぱりオーボエの久野さんが、いい仕事をされてましたねえ。
 氏のオーボエは、いつ聴いても、媚薬みたいに胸底までまっすぐに染みてくるんです。
 超・有名な不滅のテーマ「情景」は、いわずもがな---説明不要で、あれは、泣けました。
 オーボエの久野さんの歌がまず素晴らしいし、それに団子状になってかぶってくるオケの筋肉質な音の連なりが、これまたたまらなかった。
 僕は最初からダヴァーイさんの音が「筋肉質、筋肉質」と連呼してきたけど、ひょっとしてみずほフィルさんの清楚系の音じゃ、これほどの圧倒的なクライマックスは築けなかったかもしれないなあ---と、あとになって思いあたりました。
 うまくいえないんですけど、ロシア系の音楽って、たぶん、ある程度の基礎体力が絶対要るんですよ。
 チャイコのピアノ協奏曲にしても、ラフマニノフのあの巨大な平原を舞う北風のような嘆きにしても、あの広大なスケールのデッサンを現実世界において音化させるためには、ホロヴィッツみたいな超絶的エネルギー、あるいはリヒテルみたいな弾丸オクターヴを連射するための強靭な肉体といった要素が、一種不可欠なのではないでせうか?
 そうして、オーケストラ・ダヴァーイさんは、アマチュアながらそのような要素をもっている稀有なオケのように僕には感じられました。 
 ここまでいっちゃうとやや誉めすぎかな? でも、あまりにもうますぎて、それがプロずれしたあざとさとして感じられるわずかな瞬間を除けば、ほんとに申し分のない音楽であり、チャイコフスキーだったのです。
 おかげで僕は、親しい音楽仲間たちと極上のひとときをすごすことができた。
 そのような機縁をもたらしてくれた森口先生とオーケストラ・ダヴァーイの皆さん、それから時空の彼方のチャイコフスキー氏に対して、多大な感謝の念を添えつつ、この駄文を締めさせていただきたいと思います。
 本日は最後までおつきあいいただき、ありがとうございました---。m(_ _)m


 追記:この日、仲間らと帰りにたまたま寄った居酒屋で、なんと、打ち上げの二次会にやってきていたダヴァーイのオケの皆さんと、偶然ご一緒することになり、もー イーダちゃんは2度びっくり!((((;゜Д゜))))
 あいにく贔屓の久野氏は帰っちゃっていませんでしたが、あの恐るべきティンパニの「打王」氏とは、ちょっちお話することもできました。
 あと、恐れ多くも、指揮の森口先生とも挨拶することができ、あまつさえサインまでいただくことができ、イーダちゃんはもー 舞いあがっちゃいましたねえ。
 ええ---マジでふしぎな夜だったんですよ、あの夜は!
 稲垣足穂のいうところの、あらゆるファンタジーの根元となる物質「ファンタジウム」が、鼻先すぐの空間を漂っているのがじかに感じられるような夜でした。
 いまになってみると、あれがどこまで実際に体験したことなのか、じゃっかん確信がもちづらくなってきてる。
 異次元の菓子工房でつくった綿菓子みたいなチャイコの音楽を、聴きすぎたせいかもしれません…。(^.^;>


                       

 

 
 

徒然その113☆みずほフィルハーモニーのショスタコーヴィッチ☆

2012-07-20 19:15:52 | ☆ザ・ぐれいとミュージシャン☆
                     


 2012年の6月30日、イーダちゃんは、みずほフィルハーモニーの定期演奏会にいってきました。
 前回このオケを聴きにいったときのメニューは、ベートーベンの第7とエルガーでした---指揮は、時任康文氏。
 今回のメインデッシュは、ぐっと趣が変わって、20世紀音楽であるショスタコーヴィッチ---。
 ショスタコさんはソ連邦の作曲家---あのスターリンの大粛清時代を、猜疑と密告の恐怖に怯えながら、なんとか生きのびることのできた、しかし、その代償として恐怖と不安に満ち満ちた、暗ーい生涯を送らざるをえなかった、受難と苦悩の大作曲家です。(凄え形容詞だなあw)
 たしか「収容所列島」のソルジェニーツインなんかと同世代なんじゃなかったっけ?
 ただ、僕的に正直にいわせてもらいますと、ショスタコさんっていうのは、どちらかというと苦手方面の作曲家なんでありまして、最初は「うーん」という迷いまじりのノリだったのですが、友人のオケのひとが、とにかく今回の指揮者はいい、だもんで是非きてみてくれ、というのでいってみたんですよ。
 場所は、文京シビックホール---こちらは、大江戸線「春日」駅下車徒歩2分、後楽園のすぐ隣り---25Fの展望台からスカイツリーがよく見える、超・近代的な施設です。
 そこの1Fの大ホールが、今回のみずほフィルさんの演奏会の舞台なのでありました。
 さて、そこで行われた第22回の定期演奏会では、どんな音楽が聴けたのか---?
 それが、今回のイーダちゃんのページのテーマなのであります---うまく表現しきれるかどうかは分かりませんが、当日感じたことの何分の1かでも正確な言葉に置きかえて、できるかぎりやってみたいと思います。


                   ×           ×           ×

 さあ、開演時間になりました---。
 それぞれの手に楽器をもったオケのメンバーたちが、舞台の両裾からぞろぞろと歩いてきます。
 何度体験しても、この本番まえの一瞬っていうのはワクワクしますねえ。
 オケのメンバーさんなんかも、きっとそのへんの心理はいっしょなのでせう。
 音あわせ。それから、譜面をちょっとめくってみたりの何気な動作のうちにも、各々の身中に漲っている、過剰なオーラをびんびんと熱く感じます。
 まして、僕がいたのは最前列の2列目でしたから、それらのオーラにあてられ、自然と身体が熱くなってくるのは、もう避けようがありませんでした。
 うーむ、落ちつかない、早いとこはじまらないかな、と思っていたら、おお、いいタイミングで当日の指揮者の登場です。
 舞台のむかって左の裾から---キビキビとした動作で森口真司氏がやってきました。
 観客の拍手。それから、オケのメンツの歓迎の足踏み。
 僕は、森口氏を見たのはこのときがはじめてだったのですが、見た瞬間、好感をもちました。
 なんていうか、「硬派」のカオしてるんですよ、この森口氏って。
 僕、彼を見た瞬間、

----おお、ショスタコうまそうな顔してる。こりゃ、今日は、買いだな…。

 なんて不遜にも思っちゃった。
 根拠なんてナッシング、でも、そう感じたのはホント。
 たぶん、ニンゲン、相性って想像以上に大きいんじゃないか、と思うんですよ。
 僕は、森口氏の、なんというか「鬼軍曹」的なカオが、見た瞬間から超・気に入ってしまったの。
 前回の指揮者、じゃっかんプレーボーイ的な佇まいを香らせていた時任氏よりもっとね。
 このひとのカオ、なんていうか昔気質の職人さん風なんですよ。
 音楽に対する素朴な確信に満ちた、なんとも力強い、一徹モノのいいカオをされてるの。


                  
                           上図:論より証拠、これが、森口氏だっ!

 僕はそれに射られたってわけ---で、期待に胸をぷうとふくらませたんです。
 その森口氏が大きく両手をふりあげて、ええ、緊張の一瞬、そして、冒頭の長ーい和音、つづいて角笛を模したホルンの牧歌的な歌が流れてきて、いよいよ音楽がはじまりました…。
 
 1曲目は、ウェーバーの「魔弾の射手」----
 この時点で、僕はもう結構ビックリしてました。
 だって、みずほのオケ、前回と音がまるでちがうんだもの!
 前の1月の時任氏のときは、オケは非常に中性的な---サイトウ・キネン・オーケストラみたいな、といったほうが分かりやすいでせうか?---透明な音をだしていたんですよ。(たぶん、指揮者は意識してそのような音を導いていたと思うんだけど)
 でもね、今回は、ウェーバーの1音目からもうちがっていた。
 音がね、熱かった。
 そして、ぐるぐるとうねってた。
 作曲者ウェーバーの意図しただろう、魔弾の射手の棲む、原始の深い森---その森のなかの冷気ってたぶんこんなんじゃないか、と思わせるような凛とした香りが、全体の音に混入して、音楽全体になんともいえない彩りと深みを与えていた、とでもいいますか。
 以前の演奏会のときには聴けなかった、優れた音楽だけがもっている、あの微妙な「魔」の気配が、オーケストラのかもしだすそこかしこの声部から、漏れだしてきているようでした。
 全体の音の透明度、流麗さ、綺麗さ、といった尺度では、恐らく前回の1.22のときのほうが上だったでせう。
 今回のみずほフィルの音は、あのときよりは濁って、ときどき音の縁がささくれだったりもしていたから。
 しかし、「音楽」としては、これほど生きた、説得力のある音は、そうそう出せないんじゃないかって気がしました。
 で、僕は、その音の奔流に呑まれ、軽い愕然状態に陥っちゃったわけ。
 たしか以前、敬愛する宇野先生のエッセイかなんかで、オケは指揮者によってぜんぜん音が変わっちゃうんだ、という意見を斜め読みした記憶はありましたけど、それを厳正な事実としてここまで見せつけられちゃうとね---いやー マジびっくりもんの体験でしたよ、アレは…。
 そして、オケのこのような音が最大限に発揮されたのが、

 2曲目のハチャトリアンの組曲「仮面舞踏会」だったんじゃないのかな---。
 これ、この日の演奏会の白眉だったのではないでせうか。
 もの凄くよかったもん---なんというか、このハチャトリアンってロシア派の作曲家さんの画風って、根本的にシュトラウス親子なんかのウィーン派閥とまるきり異なる風情があるじゃないですか?
 もともとの血の濃さの相違っていうか、燕尾服を着てても原始の血のたぎりはどうにも隠せない、みたいなスラブ民族独特のパトスの激烈さとでもいいますか。
 ええ、僕等がワルツと聴いてまず思い描くのは、主にウィーン派閥の、やや着崩した感じの、お午すぎのガーデンパーティーのひととき、みたいな優雅で瀟洒ななイメージじゃないかと思うんですが、このアルメニア人のハチャトリアンの場合、もそっと野蛮な要素を自分の作品内に意図的に注入している気がするんですね。
 そして、優雅の裏手にこっそりと封じこめた、この「野蛮」の気配を、あえて自身の作風の「売り」に仕立ててるってこと。
 ま、クレバーで効果的なな戦略ですわな。
 浅田真央のテーマとして有名になったあのワルツにしても、あれは、自身の作風をより光らせるために、シュトラウス派のワルツのイメージをあえて利用しちゃってる趣があるじゃないですか?
 優雅なワルツの器に、こーんな血のにおいのするタルタルステーキを盛ってみたんだけど、どうかしら? みたいな---。
 要するに、従来のワルツのイメージを、自分の引き立て役にちょちょいと利用しちゃったわけ。一種の確信犯ですよね---声部はシュトラウスの時代より断然ぶ厚くなってるし、それらの声部を重ねあわせたり、たぐり寄せたり、ときによっては片方の音の輪から片方をくぐらせてみたり、場合によってはきりきり舞いさせたり、なにをどうするのも自由自在、器量もセンスもじゅうぶんに持ちあわせた、腕達者な作曲家といった印象でせうか。
 そのようなわけで、僕は、あまりにスマートすぎて感じられる、この業師ハチャトリアンという作曲家をいままでそれほど好んではいなかったのですが、森口氏の指揮するみずほフィルの音で聴いてみると、このハチャトリアン、計算しつくされた達者さ、あざとさといった要素より、むしろ作曲者本来の血の熱さのほうがより大きく聴こえてくるの。
 これがその「仮面舞踏会」のワルツの楽譜ね---あいにくこれはオケ用のじゃなくてピアノ譜なんですけど---このほうが分かりやすいかと思うんで、ちょいと挙げておきませうか。


                       


 上記楽譜の4小節の前奏を終え、5小節目から「ミ-#ソ-ラ-シ-ド-#レ-ミー」という曲のテーマが、ヴァイオリン軍団のなかでめまぐるしい追いかけっこをはじめ、光と影の小刻みなその2重奏がだんだんに盛りあがっていき、それらの上昇ムーブメントの支流のすべてが13小節目からの「ミ・ミー#レ」という大きな吐息にはじめて結びつくところ---に、どうぞご注目ください。
 この曲のキモともいうべき最重要のこの部分で、聴いているお客にどんな種類のカタルシスを与えうるか、というのが、あらゆる指揮者とオケさんにとって最大の見せ場というか、いわゆる腕の見せどころだと思うんですが、この日のみずほフィルさんの奏でたこの部分は、とてもよかった、というか、いい意味で実にロマン派してましたねえ、この日のみずほさんは。 
 僕は、旧東ドイツの指揮者、ヘルベルト・ケーゲルの指揮するドレスデン・フィルでの演奏で、常々この曲を愛聴していたのですが、そのケーゲル氏---彼、東西ドイツ統合の後に拳銃自殺しちゃったあのケーゲルのことです---は、イコンの細密画みたいに精密に音楽を織っていくひとなんですよ。
 彼の指揮で聴くと、音楽は、自身の生命活動を一瞬停止させて、CTスキャンで輪切りにして撮ってみたんですけど、どお? といったような、ふしぎな静止映像のイメージを聴者の脳裏に届けてくれるの。
 要するに、汗のにおいがまったくしない特殊な音楽として仕立てているんですね。
 氷点下にフリーズドライされた鑑賞用の生命生花とでもいいますか---まあ、「死」のメルヘンというか、美しいけど、いくらか不自然な音楽なわけなんです。
 そこにいくと、僕の体験した6.30の森口氏は、熱かった---ええ、愚直なまでに熱かったですねえ。
 前回の指揮者・時任氏の目指した指揮が20世紀後半に流行した「客観的視座からの指揮」ならば、森口氏の指揮は、20世紀前半の、あのフルベンなんかに結びつく路線でせうか。
 とにかく熱いんですよ---そして、もの凄いリアルな生命感に満ちてるんです、オケの細かい音のひとつひとつまで。
 森口氏の指揮で聴くと、この仮面舞踏会のテーマは、行き場のないいくつもの焦燥が、逃げ場を求めてさまよっているうち、例の「ミ・ミー#レ!」になだれこんで一斉に歓喜する、みたいな---聖書のあの出エジプト記張りの、エネルギッシュなドラマとして体感されるの。
 なかんずく僕が魅せられたのは、演奏中の氏の背中の美しさでした。
 さきにも書きましたが、僕は最前列の2列目から舞台をずっと見上げてましたので、超・熱く指揮に打ちこまれている氏の背中がド迫力で間近に見えるわけ。
 その背中を眺めながら、僕がいちばんびっくりしたのは、氏の背中から「見栄」のかおりがまったく漂ってこないことでした。
 こういうのって、実は、あんまりないんですよ。
 音楽家っていったって、まあ俗世のニンゲンですからね---名人と呼ばれたい欲とか、より多くの観客を感動させ感涙させたい、といったような欲目はもっているのがフツーです。また、そいうった欲が皆無なら、競争の厳しい音楽業界のなかを、とても生き残ってはいけないでせう。
 お客をまったく意識しないというのは、音楽という客商売をやる上ではやっぱり欠点でしょうし、自分を実情以上に大きく見せたいというのも、舞台人としては、まあ当然の心理でありプライドなんだと思います。
 実際、前回の1.22のみずほの演奏会のときの指揮者・時任氏の背中は、たえず観客の存在に対してアンテナを張っているのが感じられました。
 これは、悪口じゃないんですよ---観客の反応を見ながら、音楽の装いを瞬間ごとに変えていく即興の才は、舞台人としてのむしろ必然でせう。
 森口氏にしてもそのへんは一緒---コンサート・マスターやそれぞれのオケのメンツに気を使ったり、ゲストのオケのひとをお客に紹介したりと、そのへんの手際におさおさ抜かりはありません。
 ただ、挨拶して、オケが鳴りはじめ、ひととび音楽が未知の大洋に船出すると---もう演奏ひとすじ---そのうちに夢中になって、お客のことなんてきっと忘れちゃうんでせうねえ、あれは。
 氏の指揮する背中から、見る見る世俗の垢が脱色していき、やがて現れてくるあの無心さ!---あれは、ちょっと美しかった。
 なんというか、僕は、氏の演奏する背を見つつ、「土佐の一本釣り」というむかしの日本映画を思いだしてしまった。
 ええ、大海原でカツオの一本釣りをする漁師の背中ってあんななんですよ。
 もう無我夢中---漁のまえはああしようこうしようとか色々と考えちゃいるんですが、いざ魚群に巡りあったら、もう甲板のうえは戦場ですから---ひたすら無心になって、荒海のうえで自身の竿だけを頼りに、海面下の獲物であるカツオと、一対一のタイマンで、ひたすら対峙していくしかない。
 氏の背中には、荒海上の漁師に共通する、その一種得がたい、無心の気配がたしかにありました。
 目に見えないその無心は、オケの各々のメンツに徐々に伝播していき、やがてオケの音のすべてが、森口氏始発の無心に染められて、ひとつの楽器として海鳴りのように鳴りはじめます。
 もの凄い迫力だったな、アレは…。
 僕は、オトコ・森口氏に魅了され、それからオケの強力な「鳴り」に魅了され、さらにはビオラとチェロ軍の低音のツッコミと追っかけに魅了され、総合的な絵師としてのアラム・ハチャトリアンという男の夢想にも魅了されました。
 金管も木管もよかった。
 みんな、夢中になって音楽してた。
 野性的なマズルカとギャロップがことに素敵でした。
 わりと知的でおとなしめに見えるオケの皆さんのどこからこんな野性が吹きだしてくるのかと訝ったくらい、うん、パンキーでキュートな演奏でしたよ、アレは…。
 惜しむらくは、チェロの谷口氏のソロが聴けなかったことかなあ。(前回のエルガーで、イーダちゃんは谷口氏のでしゃばらない、フルニエみたいに瑞々しいチェロのファンになっていたのでありました)
 うん、ひとことでいって、とてもアマチュア始発とは思えない、熱くて真摯でエスプレッシーヴォな音楽を聴かせてもらったわけでして、そのことに対してイーダちゃんは非常に感謝の念をもっている、と、ここで多くの方にお伝えしておきたいですね---。m(_ _)m

 で、プログラムのラストは、ショスタコーヴィッチの5番----
 だったのですけど、ここまできて察しのいい方はすでに感づいているかも分かりませんが、イーダちゃんは、ショスタコがむかしっからどうにも苦手なんですよ。
 理解しようとして何度も聴いたんですが、ブルックナーやシベリウスみたいには、どうしても夢中になれんのです。
 優れた音楽だっていうのは分かるし、繊細なうえにも繊細な機微を表した音楽だってこともまあ分かる。
 でもね---「おお、こんなとこまで音楽で表せるのか!」という音楽のひだを追っていくとさらに繊細淫靡なひだがあり、「おお、さっきより微妙で繊細な不安の表現がこんなところまで! 音楽でこんなことまでやれるのか…」と思っていたら、そのさきにもさらに超・繊細なひだがあり…。
 そーして延々とそのマトリョーシカ状態がつづいていくの。
 いくら繊細であっても、繊細針ばかりで布地をちまちまと縫いあげていくと、作品全体はシベリア平原のごとく大味になる、ということを、僕はショスタコ経由で知ったような気がします。
 やはーり、やはり彼は、ラフマニノフとおなじ純然たるロシアの作曲家だったのですよ!
 僕は、ショスタコを聴いていると、ゴンチャロフの「オブローモフ」を決まって思いだすんです。
 ペルシャのガウンを羽織ったオブローモフが、ベッドから降りてスリッパを履くまでまるまる一章もかかる、あの退屈で愛しい大小説「オブローモフ」!
 機敏で秀才、器用でなんでもできる天才ショスタコーヴィッチと、無為と退屈とを愛した、徹底的にアンチ・ロマンの、あのオブローモフ!
 表面上はまったく似ちゃあいませんが、両者の必然の共通項である「ロシア」という広大な土地の香りに、僕は非常に惹かれます。
 ショスタコはどうしても好きにはなれなくて、そのせいもあって森口氏とみずほフィルの好演にもかかわらず、第3楽章のラルゴではついついうたた寝をしてしまったことを、ここに正直に告白しておきませう。


                 ×           ×             ×

 ま、そのようなわけで、みずほフィルの第22回の公演は、とってもよかったのでありますよ。
 はじめて生のオケを聴いた同僚の女の子は、ハチャトリアンのワルツの躍動感にすっかり魅せられて、両頬を真っ赤にしていました。
 で、コンサートのあとには友人みんなで集まって、お茶飲んでおしゃべりしたりで非常に楽しい宵をすごすことができました。
 こういう時間がときどきあると、うーむ、生きるってなかなかいいもんだなあ、なんて改めて思ったりしちゃいます。
 こんな時間ばかり集めて人生を紡いでいけたらなあ、と一端は夢想したりもしたんだけど、もし、実際にそれをやったら、人生全体が平板な無為になっちゃって案外退屈かも、と思いなおし、明日以降の平板な日常に向け、「むう!」と改めて気張ってみせたりもする、公演帰りの夕映えイーダちゃんなのでありました---。
 

 あ。最後に森口氏関連の情報---いま、youtube に森口氏のリハーサル光景の映像がアップされています。
 これは買いですヨ。このフィルムのなかには、音楽に対する氏の確信、非凡なパッションなどがあますところなく表現されてると思う。
 興味ある方はご覧あれ---森口真司 youtube ですぐに到着できると思います。

 
                                    



 


 
 

徒然その107☆Rock ‘N’ Roll と生きるべし!☆

2012-06-10 23:30:03 | ☆ザ・ぐれいとミュージシャン☆
                  


 ロックンロールが好きなんです---!
 3コードと簡単なギターリフ、いなせな Vocal とベースとの絡みだけで勝負が決まっちゃうような、ロッキャンロール、超・大好き!
 冒頭からこんな風に飛ばして書いちゃうと、いままで僕の Classic 寄りのかほりに魅かれて当ページにきてくれていたひとの何人かは、あらら、ここに寄り路したのは間違いだったかな、なんていって遠くのほうへぴゅーっと逃げていっちゃうかもしれないのだけど、ゴメンナサイ、これっぱかりは変えられない、イーダちゃんはシンプルでソリッドなロックンロール、生きがよくって向こう見ずな、この不良臭ぷんぷんの12小節の音楽が、エネスコのヴァイオリンとおんなじくらい好きなんです。

----ロックンロールはサイコーだよ。ロックンロールは僕に生き方を教えてくれた。将来への不安なんか抱えて部屋のなかでウジウジしたりしてないで、ほら、こっちの通りに出てきてあのコの脚を見てごらんよ、イカスじゃないか---と目くばせして笑いかけてくれた。分かるかい? ロックンロールは希望の歌なんだ…。

 といったスカーッと発言を残してくれたのは、元ビートルズのジョン・レノンでしたが、さすがジョン、物事の根本ってのをよーく分かってますねえ。
 ええ、ロックンロールという音楽が、ブルーズの伝統を母胎にして発生したニューウェーヴな前衛だったという史実は、いまさらいわずもがなの話題かもとは思うのですが、それまで12小節の伝統的ブルーズにぐずぐずと貼りついていた愚痴とメランコリーとを一端全部どっかにほっぽっちゃって、本来のレイジーなテンポも猛烈なアップテンポにギアチェンジしまくり、人生の苦渋の歌をもっと攻撃的でパンキィッシュな、人生肯定の希望の歌に強引に進路変更させてしまったというのが、ロックンロールのロックンロールたる由縁、誰も真似のできない、超・ユニークな独自性だったのです。
 うん、この音楽、出自からして異様に個性的かつ攻撃的だったんです。
 キラキラした音楽、うっすらときらめく音楽なら、これまでにいくらでもありました。
 仕事に疲れたお父さんお母さんを慰安慰謝してくれる音楽、安楽な寝酒代わりになってくれる子守唄的音楽…。
 しかし、聴いてみれば誰でも納得してくれることと思いますが、ロックンロールはキラキラしてない、もっと悪どく強烈に「ギラギラ」してるんですよ。
 そう、ちょっとむかしのヤンキー語を使わしてもらうなら、真正面から「ガンを飛ばしている」んですね、このかすかなグリース臭のかほる、いなせで不良な音楽は。
 なにしろ、この名称のロックンロールからして、その意味は当時の黒人の俗語で、そのものズバリの「セックス」の意でせう?
 これだけの底辺条件が出揃えば、そりゃあ、この音楽が一般の保守的良識層に受け入れられるわけないよ。
 事実、ロックンロールの出生当初の社会的扱いは、それはそれはヒドいものでした。
 いまからするとちょっと信じられないかもしれませんが、

「白人の子弟らを堕落させるために黒人が生み出した下等なレイス(人種)ミュージック」だとか、
「ロックンロールは、乱暴で野蛮で、神の秩序に反している。州は、彼等のレコードをすべて焼却処分すべきだ(このレコード焼却は、実際多くの州で行われた)」だとか…
 ねっ? いまの視点からすると、理解不能なほどシュールなことを、みんな、大真面目で言ってるわけ。
 
 これは、取りもなおさず、ロックンロール上陸時の世相のショックを、シンボリックに表象した逸話なのではないのかな?
 僕は、60年代中期の生まれなんで、当時の世相のショックというのは想像することしかできないんですが、恐らく、それが上陸したときの世間の驚愕というのは、ラップやパンクの上陸時よりも、はるかに凄まじいものがあったんじゃないか、と思います。
 だって、ラップって超・政治的な音楽じゃないですか。
 僕は、まえにNY帰りの友人からシスターなんたらのCDを借り受けたことがありますが、その内容は凄まじいものでした。
 ひとことでいうなら、「白人たちは私たちをアフリカから連れてきて、奴隷にして働かせ、富を強奪して、いまに至るまでそれを続けている…うんたらかんたら(対訳不能)…白人どもを殺せ!」
 ねえ、こういうの、貴方、どう思います?
 音楽というより、政治的扇動のシュプレヒコールといったほうが、もう適当なんじゃないのかな。
 僕は、ラップの大まかな本質は、結局は「政治」なんだと思うんですよ。
 ストリートのダンスにしても50’S のストリート文化であるドゥーワップなんかと被る部分があるでしょ?
 活きのいい、底辺から勃興してきたブラックの文化であるという点で、両者は結構近似してる。
 しかし---ここで疑問符がつくんですわ---ラップはあまりにも政治的でありすぎているんじゃないか、と。
 政治がイカンといってるんじゃない、政治に関わるのは大切なことですから。
 ですけど、政治によりかかりすぎているというのは、これは別問題、僕は、音楽として問題だと思う。
 一時期流行ったプロテスト・ソングなんかは僕も非常に好きだったんですが、あれがさらにエスカレートして、たとえばジョン・レノンの「サムタイム・イン・ニューヨークシティ」みたいになっちゃった場合、僕等はその音楽とどう対峙すればいいのか?
 これは、考えるべき価値のある設問だと思うんですけど。
 僕的にいうなら「サムタイム」はどうもダメでした。ジョンは中学当時から大好きでしたけど、「サムタイム」のなかのなかまで、結局、僕は入りこむことはできなかった。
 アイリッシュ問題も、ニクソンも、ジョン・シンクレアも、僕にとって、まったく異邦の、見ず知らずの他人でしかなかったからです。
 むろん、狂的なジョンのファンでしたから、当時の社会情勢を勉強して、ジョンのいわんとしてることを理解しようとしてはみました。そして、ある程度、その理解には成功できたと思います。
 
----ああ、なるほど、ジョンのいってることは正しそうだな。そういわれてみれば、イギリスの対アイリッシュ政策っていうのは、まちがっているのかもしれない…。

 でもね、いうまでもないですけど、楽しくないんですわ、こんな聴きかたじゃ。
 まったくもって、全然、楽しくないっ!
 アタマ経由の道理で説得されて、なんの音楽ですか。
 それじゃあ堅苦しい演説を聴いてるのとなんも変わらない、音楽独自の、理屈も、言語差も飛び越えた、あの奇跡の伝播力はどこいった?
 パンクにしても事情は同様かもしんない。
 ピストルズが入ってきたのは僕の中学時代でしたけど、音楽に階級闘争的なスキルを持ちこんだような、このブリテッシュ始発のムーヴメントに、僕は、なんとなく「商売」のにおいを感じずにはいれませんでした。
 パンク全体が、音楽ベストテンを狙えるようなスタンスにいなかった、というのも今思えばややクサイですね?
 パンクはいわゆる「売れ線」であるヒットチャートとは無縁の、中央の通りとはちがう道筋で店開きをして、一般のチャートに集まるお客とべつの階層に狙いを定めていたわけなんです。
 うん、世の中には、おっそろしくアタマがよくて、はしこい仕掛け人がいるもんだなあ、というのが、僕のピストルズ売り出しへの第一印象。
 ジョニー・ロットン、シド・ヴィシャス---ワイルドな彼等のキャラとシンプルなシャウトはそれなりに魅力的でしたけど、たぶん、ロックンロール登場時の世相の衝撃度には及んではいまいって気がやっぱりしました。
 だって、ラップもパンクも「売り」のなかに、なにやら理屈が入ってるじゃないですか?
 ラップならアメリカ黒人の階級闘争、パンクなら英国という階級社会最貧層の怒り、というか、憤懣というか…。
 ま、商品なんですから、ホントはどんな売り方したっていいんですよ。
 ただ、僕的な見地からいわせてもらうなら、そのテーマに理屈が介入した時点で、その商品は一歩出遅れちゃうんです。
 ロックンロールは、そこいくと非常にシンプルでした。
 ロックンロールがまず売ろうとしたのは、ロックシンガーのいなせな気合であり、挑発であり、色気であり、流し目なのでありました。
 あと、リズム---踊るようなシャフルのリズムに、強気の口上---それと、リバーブの効いた強力なギターリフ。
 ええ、政治じゃないんです、そんな煙みたいなモノには目もくれない、ロックンロールの標的は、常に具象であり、現実なのでありました。
 たとえば、好きな女の子、むかつく野郎や愛車のこと、あるいは、金、もしくは、くどき文句をそのまま歌にしちゃったり…。
 歌詞の内容が政治に触れることもたまにはありましたが、50’Sの音楽は60’Sの音楽のように、そこまで成熟してはいませんでした。偶然、政治に触れることがあったにしても、本来の的は政治じゃない、政治を腐すことによって自らの意気をあげ、世間ごと笑い飛ぼそうとするのが、ロックンロールの基本スタンスであり精神だったのです。
 そして、その無欲で無邪気な姿勢が、もの凄いエネルギーでもって、かつてないくらいに聴衆をゆさぶったのです。
 僕は、ロックンロールの生誕は、20世紀において、あのボルシェビキを超えるほどの革命だったと思ってるんですけど。
 とにかく、ロックンロールはカッコよかった。
 光ってた。
 どんな嘘もキャッチコピーも盛れないほどシンプルなのが超・信頼できた。
 というわけで「ロックンロールの詩人」とジョンが呼んでいた、あの偉大なるチャック・ベリーのロックンロール・スタンダード「トゥー・マッチ・モンキー・ビジネス」の訳詞を何節か(対訳:イーダちゃん)、ちょっちいってみませうか。

----オイル臭い工場で一日駆けまわってる
  辛い仕事さ 受け取り明細をもらったら必死にそれに目をこらして…
  はっ! この世はイカサマ大流行り
  この世はイカサマ大流行り---明けても暮れてもイカサマばかりさ

  毎日おんなじことの繰りかえし
  毎朝起きて学校へ---いい加減ウンザリだ
  誰かさんの不平不満をたっぷり聞かされて、でも、オイラの不満なんて誰も聞いちゃくれない
  あー この世はイカサマ大流行り
  この世はイカサマ大流行り---明けても暮れてもイカサマばかりさ

  販売員が話しかけてきていうことにゃ
  これを試しつづけてください、いい商品ですよ
  なに、支払いは来週からでもできますし…
  はっ! この世はイカサマ大流行り
  この世はイカサマ大流行り---明けても暮れてもイカサマまみれさ

  朝鮮戦争でヨコハマにいってたことがある
  戦地は商売が大流行りさ---軍用寝袋、軍用食料、軍用衣類、軍用車両ってね
  あー この世はイカサマ大流行り
  この世はイカサマ大流行り---うん、なんとかこの地獄からエスケープしたいと思っちゃいるんだけどね…
                                                            (チャック・ベリー「トゥー・マッチ・モンキービジネス」より)

 いかがです、この怒涛のシンプルさ?
 しかも、これほどストレートな口語体でありながら、恐ろしく筋の通ったことを歌ってるんですよ、彼は。
 だから、ねっ、いってることがすんなり腑に落ちる感じでせう?
 これは、正しい世の中を望む、多くの正直な心が必ず体験するにちがいない、葛藤の歌であり、たぶん、苦悩の歌でもあると僕は解釈しているの。
 この歌の主人公のナイーヴな心は、正しくてまっすぐなものを求めているのですが、いざ世間に出てみると、それと反対の欺瞞ばかりを見せつけられすぎて、心中がくさくさと窒息寸前になっているのです。  
 そう、彼は、清い、キレイなものが見たいだけなんですよ。
 なのに、連日視野に入ってくるものといえば、自分の懐だけ満たしたがる、エゴイズム命の商売人の、いじましい損得計算ばっかりで…。
 で、彼は、その事実に単純に憤ってる。

 なんともいいオトコじゃないですか---こういう愚直な一本気って、僕は嫌いじゃないですねえ。

 チャック・ベリーはそのような精神の尖りを言語化できた稀有の「ロックンロールの詩人」でしたが、あえて言語化できなくとも、その精神をまるごと体現化しちゃったような一種の怪物たちが、この超・初期のロックンローラーのなかには何人かいたのです。
 有名どころでは、僕が当ページのトップにUPした、あのエルヴィス・プレスリー…。
 エルヴィスは、一見色男系のスマートな白人男子なのに、いざ歌いはじめてみると、完璧無比の絶妙ブラック・シンガーになりきっちゃう、という荒業がいつでも自由に繰りだせた天才でした。
 徴兵にも素直に応じたり、喋れば親孝行についてしみじみ語ったり、プライヴェートの素顔はおよそロックンローラーっぽくなかったエルヴィスですが、TVで歌えば、無意識に腰をふりまくり世間を超・挑発しちゃうし---彼は初期のころ、エルヴィス・ペルディス(骨盤エルヴィス)なんて風にも呼ばれていたんです!---バラードを歌えば、その不遜な、放送禁止級の流し目で、またもや世間を挑発し、怒らせまくるという---その人間の本質自体が、言葉以前にすでにロックンロールしていたという、おっとろしい矛盾まみれのスーパー・スターなのでありました。
 このひと、完璧にノリがブラックですしね、ほんと、なんでだろう?
 ほとんど理性的制御の感じられない破廉恥なヴォイス、野生動物みたいにしなやかな、抜群のノリと超絶のリズム感。
 ま、突然変異としかいいようのない、エルヴィスのこんな天才ぶりは、誰でも彼の Vocal を聴けば一目瞭然かと思いますので、彼のことはまあ置いておいて、次のゲストの紹介といきませう---。


           


 えー、左端から、ブルーカラーのヒーロー、ジーン・ヴィンセント!
 彼、オランダ系のプアー・ホワイトでして、十代のころ、バイク事故で片足失くしてるんですね。
 でも、そんなハンデをまったく感じさせず、ステージの上じゃ平気でジャンプしたりしてました。
 60年代のロック市場の変化についていけず、ロックンロール・ツアーのドサ回りの果てにアル中で死んでます。
 ヒット曲は、あの超スタンダート曲“Be-pop-a-Lula”---このほのかなグリース臭の香る、淫猥でカッコつけのナンセンス・ソングが、結局、彼・生涯の名刺代わりのナンバーとなりました。
 だって、もー この曲だきゃあ、震えがくるくらいにカッコいいんだもの…。
 後年、ジョンもこれをカヴァーしてますけど、あの名シンガーのジョンでさえ、この本家のジーンのハイ・テンションには、残念ながら達しきれておりません。
 うん、この曲を歌うには、淫靡さ、ナルシズム、ブルーカラー、バイク、見栄、勇気、捨て身、極上の声、女たちの嬌声、アルコール、香水の甘ったるい移り香……といったような諸々のブツが、すべからく要り用なんですよ。
 それらを全部もちあわせていて、極上のドライヴをかませたのが、結局、このジーン・ヴィンセトという稀有のシンガーだったんですね。
 下卑てて嫌い、というひともかなーり多いけど、僕はこのひと大好き。
 全集までもってます。
 あ。ちなみに、このひとは水瓶座生まれなんでありました。(^0^;/

 中央写真は、リズム&ブルーズの大御所にして、和田アキ子のアイドル---御大、レイ・チャールズさん!---天秤座生まれ。
 いまさら解説不要のビック・ネームとは思いますが、知らないのひとのため、ま、一応は解説っぽいこともやっておきませう。
 このひと、全盲のピアニストとしてキャリアをスタートさせたんですよ、人種差別がまかり通ってた当時の南部アメリカで。
 これだけでも心あるひとなら、このひとがどんなに凄いひとか分かるでせう?
 なのに、このひとときたらどんな歌も自由自在に書いちゃうし、歌えば超・ソウルフルな涙モンの絶唱ぶり---のちのスティーヴィー・ワンダーなんかの指針となったひとですね。
 お薦めは、50年代にアトランタから出した“What'd I Say?”
 これは、渋いナンバーです。特に後半、アトランタのブラック・ウーマン・コーラスがレイの Vocal にユニゾンで絡んでくるあたりは、ゾクゾクするような興奮をいまだ感じます。
 この録音に封じこめられた当時のブラック・ミュージックの熱気っていうのは、まったくもって凄いもんですよ。
 映画「ブラックレイン」のなかで松田優作に殺されちゃう米人の刑事も、たしか、クラブでコレを歌ってました。
 誰が歌ってもそこそこカッコいいのよ、名曲だから。 
 それっくらいの超スタンダード、これ知らないのはモグリじゃないのかな、なーんてね。
 とにかくお薦め---これを聴かずして死ぬのは、うーん、やはり人生の損なんじゃなかろうか。

 で、ラスト右端---これは、残念ながら知らんひとのほうが多いかと思います。
 知るひとぞ知る、ロックンロールのブラック・デュオ、“Don & Dewey”!
 彼等、50’S の実力派ロッカーなんですけど、ああ、知ってるー! と反応してくれるひとに出会ったことが、これまでにほとんどありません。
 うーむ、「Justine」とか「Leavin' It All Up To You」とか、有名な佳曲はいっぱいあるんだけどな。(特に後者は、ちがうアーティストのカバーで全米ナンバーワンになってます)
 僕が思うに、彼等こそ、ロックンロール史上最強のデュオだったんじゃないのかなあ。
 リトル・リチャードよりもっとはっちゃけてるし、なにより、彼等、アナーキーなんですよ。
 それは、彼等の名刺曲、この「Justine」を聴けば、一撃でもう分かっちゃう。
 あまりにも活きがよすぎて、ほとんど喜劇的な域にまで達しちゃったロックンロールというのは、僕は、この曲のほかには知りません。
 いいっすよー、“Don & Dewey”---!
 リトル・リチャードよりハチャメチャで、レイ・チャールズよりブラック、サルサよりどーんとハッピーで、ラテン・ミュージックみたいな胸キュン的淋しさもちゃんと宿してる。
 そうそう、イーダちゃんは彼等好きさのあまり、自分のブログ、徒然その48のなかで、彼等の特集をすでに一度組んじゃっていたのでありました。
 興味ありげの方は、そちらにも是非お立ち寄りください。

 最後にひとつだけ---じゃあ、おまえのいうロックンロールってなんなのさ? と聴かれた場合どう答えればいいか---。

 うーんとね、僕はね、非常に単純に、うそをつかず、まっすぐ正直に進むのが、いわゆるロックンロール道なんだと勝手に解釈してるんですよ。
 これが、どれほどの難事なのかは、世間に出て、生きのびているひとなら誰にでもすぐに了解可能でせう。
 うそをつかずに生きようとすれば、既得利益を守りたがる誰かさんと、いつか必ず、この世のどこかでブツかるはめになるんですから。
 で、そのとき、貴方はどうするのか?
 大人らしく笑って、いままでのド正直な主張をうやむやにして、場の論理に従い、長いモノに巻かれはじめるのか?
 それとも、既得利権を守りたがる誰かさんの目線にぎゅっとメンチを切り、真正面からの喧嘩立ち体勢で応じるのか?
 実際にそんな場面に遭遇してみるまで、自分の処し方がどうなるかなんて、実は、誰にも読めないし、分からないと思う。
 ただひとつだけいえること---それは、未来のその瞬間、貴方の胸のなかで鳴りはじめる、ワイルドなその音楽こそが、混じりっけなしの本物の、貴方だけのロックンロールだということです。
 そのとき、貴方は、どんな音が聴けそうですか?
 風通しのいい音は聴けそうですか?
 最近、魂が窮屈じゃないですか?
 いい生き方、してますか?
 今回の僕の話は以上です---センキュー!(^o-〆☆
  
 

 

 

徒然その106☆ミケランジェリのショパン☆

2012-05-22 09:54:00 | ☆ザ・ぐれいとミュージシャン☆
                             


 1920年にイタリアのブレシャに生まれ、1995年にスイスのルガーノに没した、アルトゥーロ・ベネディティ=ミケランジェリは、イタリアという土地が育んだ、あのフェリツッオ・ブゾーニ以来の大ピアニストでした。
 ベネディティ=ミケランジェリというひとをよく知らないひとに---長いので以降はミケランジェリという略称で呼ぶことにします---ここでひとくち解説といきませう。
 ただ、このひとのスーパーぶりを説明しようと思ったら、どのあたりからはじめればいいのか迷ってしまう。
 だって、なんちゅーか、このひと、少女漫画から抜けだしてきたヒーローみたいなおひとなんですよ。
 まず、写真を見れば誰でも分かるような、甘いマスクのイケメンだし…それに---
 その二---出自もこれまた凄いの。このひと、北イタリアの有名な貴族の坊っちゃんなんですよ。(血統的には、ロシアの血が濃ゆいらしい)
 その三---次に、このひと、戦争中、イタリア軍のパイロットだったの。いわゆる戦闘機乗りですね。ナチスに捕まって捕虜をやってたこともあるらしい。
 その四---さらには、このひと、同時にお医者さんでもあって!(ひゅー、スーパーマン!)
 その五---さらにさらに、このひと、趣味がレース。若いころは、自分でレーシングカーを運転して、ヨーロッパの有名なレースに出場したりしてたんです。
 その六---もちろん、このひと、いうまでもなく世界の頂点に立つ、超一流のスター・ピアニストでもありまして、現代のピアノ界の頂点、マルタ・アルゲリッチとマウリツィオ・ポリーニの双方が、なんと、このひとの直接のお弟子さんなのであります。
 いわば、機能的な近代ピアニズムの父とも呼べる人物なのだ、というわけ。
 その七---さらには、このひと、さまざまな伝説に彩られた、たぶん、最期の巨匠だったんじゃないのかな?
 ミケランジェリは、自分の藝術に対して完全主義者だと、つとに有名でした。
 コンサートの直前までしゃにむに本番の練習をつづけ、今日の自分が完璧な「理想の」水準に達していないと感じたら、情け容赦なく当夜のコンサートをキャンセルしちゃう。
 それが、コンサート本番の5分前だろうが、いかなVIPが自分のコンサートを見に訪れていようとお構いなし!
 こんなプロデューサー泣かせは、いまじゃ、ちょっとありえんでせう。
 実際、ミケランジェリも、予定コンサートの突然キャンセルで、何度も裁判沙汰になってます。
 故国イタリアでは、それで財産を差し押さえられたり、はるばるやってきたニッポンでもスポンサーに訴えられ、ピアノを差し押さえられたりしています。
 しかし、彼の偉大なところは、いかに周りの人間が迷惑しようが、そのような俗世の商売上の義理に一切縛られることなく、あくまで自分の藝術に対しての貞節を貫き通した点にあったのではないか、とイーダちゃんは思っています。
 ええ、誰がなんといおうが、当夜の自分の出来がイマイチだと思えば、即、キャンセルしたのです。
 そこに迷いなんか微塵もないの。
 この決断は、誰の顔も立てたがる無難潮流が主流の現代的な見地からいえば、ただの気まぐれか、あるいはトラブルメーカーとしか映らないかもしれませんが、自己の藝術に対しての彼のこの頑なまでのサムライぶりというのは、あたかも19世紀のロマンティシズム精神からの時代を超えたアンチックな贈り物のようで、その妥協のなさ、変人と紙一重の一徹さというのが、中庸の生き方に倦みすぎた僕等の視線を、逆に、どうしようもないくらい魅きつけてしまったという---彼・ミケランジェリというのは、かいつまんでいえば、そのような立ち位置の、非常にミステリアスな巨匠であったのです…。


                  

 自己の藝術に対する異様なまでの「厳しさ」---というのは、彼のピアノ演奏を聴けば、誰にでもすぐ分かる。
 息がつまるほどの緊張とストイシズムが、傍目にも分かるほど音楽に彫刻されてるのですから。
 たとえば、分かりやすいところで、僕がページ冒頭にあげた、彼の71年の grammophon のショパン録音---僕がはじめてこの録音をある知り合いに聴かせたとき、彼は絶句して、いくらかうろたえ気味にこういいました。

----これが、ショパンなんか…? こんなんが…? まいった、ぜんぜんそうは聴こえへん…。

 彼のうろたえぶりは、しかし、案外正確な計量だったと思います。
 実際、ミケランジェリの弾くショパンって、ほとんどショパンに聴こえんのですよ。
 聴いたことのない、ぜんぜん別の音楽みたいに聴こえるの。
 たとえば、仏蘭西のエキセントリック・ピアニスト、サンソン・フランソワの弾くショパンなんかが、僕は、一時代を代表するショパンのイメージをよく表している、と、ときどき思うわけ。
 フランソワの弾くショパンは、憂鬱で、詩人肌のショパンですよね---気まぐれな感興にあわせ、テンポはときに長くなったり、あるいはせっついたようにいきなり駆けだしてみたり---でも、根本のところでは、必ず「歌う」んですよ---うん、とってもよく歌う---いわゆる、プリマ・ドンナとしての大ぶりで華のあるショパンなんです。
 ところが、ミケランジェリのショパンときたら皆目歌わない。
 歌うというより、思索するんです、彼の場合のショパンは。
 彼は、暗い目でじーっと、自分の深いところからショパンのポエジーが湧きだしてくるのを見てる。
 そして、それが湧きだしてきたら、素早い手つきでそれを拾いあげ、そのポエジーの枝葉を瞬時のうちに刈り取り、抒情のしずくだけきゅっと拭きとって、己が鍵盤のうえに整然と並べたててみせる。
 だけど、彼の場合、もっともユニークなのは、そうやって完成された彼流のショパンを聴いてみて、いちばんよく聴こえてくるのは、ショパンそのひとの素朴な詩情というより、彼・ミケランジェリの思索の深さであるという一点なんです。
 そう、ショパンそのひとの歌唱より、この巨匠がショパンという芸術家を見つめていたであろう、長い孤独な時間、その濃密な思索の気配がじかにびんびん聴こえてくるの。
 ある意味、それは、非常に近代的な、批評を宿したアカデミックな精神だ、ということもできるでせう。
 しかし、彼のピアノから素朴なショパンの歌唱を期待していた聴き手は、ここで否応なしに彼の演奏から振りおとされ、己が不満をかこつはめになる。

----なんだよ、これは…? こんな愉悦のない、硬すぎる音楽は、ショパンじゃないよ…。

 かくして、アンチ・ミケランジェリ派の聴き手が、またしてもここに誕生するというわけ。
 実際、アンチ・ミケランジェリ派って、結構多かったんじゃないかな? 有名な批評家でも、自分は断じてこれほど偏ったピアノ藝術を認めることはできない、なんて公言してたひとも、ひとりやふたりじゃなかったような気がする。
 要するに、彼のピアノは、聴くひとを凪ぎさせないんですよ。
 安心なんかさせてくれないの---架空の試験管を両手にもった、このむっつり教官は、気難しいうえに、さらに気難しくて。
 そう、彼のピアノは、聴くひとを超・選ぶのですよ。
 その敷居はめっちゃ高い---僕も、最初に買った彼のショパン・アルバムのよさが分からなくて、翌日にはもう売っちゃってた口でしたねえ---でも、一端このテンションの高いピアノに取りつかれたら、もう逃げ道はありません。

----しかもそのラフマニノフの演奏は、ロシアン・ピアノスクールのピアニストたちの多くが発散する土臭さ暖かさあるいは鈍重さとは一味も二味も違っていた。桁外れな巨きさを感じさせる構成感、透明で感情の抑制のよくきいた完璧な指。それだけならば洗練されて知的でクールな演奏ということになろうが、彼の音質殊に強音での低音の響きには聴いているこちらの心臓がどきんと跳ねあがるような衝撃的なものがあって、それが直接感情をゆさぶった。それは恐ろしいほどこちらのテンションを要求する演奏だった。こんな演奏にひとたびとり憑かれたら、身を誤ってしまうだろう…。
                                                         (中村紘子「ピアニストという蛮族がいる」文春文庫より)

 うーん、うまいなあ…。(^.^;>
 これ、ピアニストの中村紘子さんのエッセイからの引用なんですけど、彼女もそうとうミケさま---これ、ミケランジェリの愛称です---がお好きで、毎日のように入れこんでいた時期がどうもあったようなんですね。(しかし、彼女、もう一方の雄、グルダのことは嫌いなご様子。なんで? あの独特の、やや尊大風のアーテイキュレーションが駄目なのかなあ)
 しかし、ミケランジェリのピアノの低音部の響きに、非常に衝撃的・激情的なものを感じる、という彼女の読みは卓見だと思います。
 うん、ミケランジェリって、たしかにそういうところがあるもの。
 といっても、あのホロヴィッツのように激情にまかせて、ピアノの鍵盤上にたちまちナイアガラ瀑布を創造しちゃう、なんて野蛮なサーカスめいたことはやらない。
 ミケランジェリの音楽は、彼の端正な風貌と同様、一見したところは静かに落ちついています。
 けれど、いくら秘めようとしても、血のなかに脈打つ激情家の面影までは消せやしません。
 僕は、彼が作品を扱うときの、あの超・冷酷なまなざしのうちに、彼本来の激情家の横顔を透かし見ることができる、と思っているんです。
 そう、彼は、俗にいうマッド・サイエンティストの手つきで、彼独自の白衣とピンセットでもって、ショパンやラベル、あるいはガレッピやリストの作品を取り扱うんですよ。
 分析して、思索して、作品の響きを隅から隅まで精密に計量しきって、さらにそれらの結果を何度も追試して、統計をとって……ようやく、それから燕尾服を着てコンサートホールの舞台上に現れてくるわけなんですんね、この特別なマエストロは。
 もう、あんまり多くのことを本番前にやりすぎちゃったんで、いざコンサートの本番のときにはすっかり憔悴しきってしまっていて、一般的なやる気なんてものは、そのときにはほとんど身中に残っていやしないんです。
 だから、観客からの花束を踏み潰したり、舞台上でふいの神経の発作に駆られたりして---新聞ネタになるようなこともときどきやってしまう。
 でも、僕は、それらの彼の奇行の数々は、彼の誠実さの逆の表れだ、といった風に読みたいんですよ。
 ええ---その通り---イーダちゃんは、この風変わりでヘンチクリンなヴィルトゥオーソ、ベネディティ=ミケランジェリのピアノが大好きなんですよ…。


                        ×          ×           ×

 では、そんなミケランジェリの数あるディスクのうち、どれをここで推薦しますかねえ?
 必要不可欠な3枚の1枚目として、このページ冒頭にUPしたショパン・アルバムをまずは挙げておきませうか。
 このディスクには、ミケランジェリが厳選したショパンのマズルカが10曲と、あと、あんま有名じゃないプレリュードが1曲、さらにはスケルツォの2番とバラードの1番とが弾かれています。
 どれも凄い演奏なんだけど、特に僕が押したいのは、ここに収められたマズルカの演奏。
 マズルカってそもそもショパンの故国のポーランドの農民の民謡で、その意味からすると本来大変に土臭い舞曲のはずなんですけど、ミケランジェリが弾くこのマズルカ群には、そんな郷土色の片鱗もない。
 なんというか、これ、ぎりぎりの、崖っぷちのショパンなんですよ。
 ニンゲンの携わるショパン演奏の、ある意味、究極をいくひとつのかたちだと思う。
 超・尖鋭的---人知の極をいくショパン---したがって、通常のショパンらしさみたいな、いわゆる慰安風の、抒情のよろめき的要素は、徹底的に排除されてます。
 
----音楽から抒情性を剥ぎとったあとも、ショパンの音楽は、まだ音楽として成立していられるのだろうか?

 ここでのミケランジェリは、あたかもそんなことを問いかけながら、ピアノと対話する、隠遁中の孤独な錬金術師のようです。
 タロット・カードでいえば9番目の「隠者」あたり?
 しかめっツラのうえにもしかめっツラ---安易な感情流失の身ぶりを徹底的に禁じられたこの斬新なショパンは、最初はえらい窮屈な風に聴こえます。
 うーん、もうちょっとくらいくつろいだり流したりしてもいいのにさ…。
 音楽のどこにも隙がなさすぎる。くつろげないよ、こんなショパンじゃさ…。
 とかなんとか自分内部の俗物軍団がブーブーいったりしてるのも、ま、聴こえてこないわけじゃない。
 このミケランジェリ独特の厳しすぎる世界が最初は耐えがたくて、思わず退廃詩人のフランソワだとか、セピア色にノスタルジックなコルトーのショパンとかに逃避したくなってもきたのですが、しばらく聴いているうち、ありきたりの色彩感覚を徹底的に排除しつくした、彼独自のこの孤高のショパンの引力圏に、だんだんに引きこまれていく自分が強烈に意識されてきたんです。
 ええ、それくらい、このミケランジェリのショパンの放つ磁力には、凄まじいものがある。
 すべてのものを自分内部の「美」のフィルターをくぐらせて透過蒸留させるという彼のやりかたは、自分自身の生理や体調、あるいは運動神経や思想といった要素でさえ、この審美の基準に隷属させるということになるわけで、ある意味、人間の「意志」を極限まで追及した藝術と呼んじゃっていいのかもしれません。
 うん、彼のこのショパンは「魔力」といってもいい、ほとんど黒魔術的な力を獲得している気がします。
 だって、僕、ほとんどコレにとり憑かれちゃいましたから---彼のラフマニノフの4番にかつてとり憑かれたことのある、あの中村紘子女史のように。
 一時期は、ほんと、コレばっかり聴いてましたもん、それこそ、朝から晩まで。
 ミケランジェリのピアノは、徹底的な「人治」の藝術だということができるでせう。
 ただ、この世界的高峰の尾根をずーっと歩いていくと、空に近いあるところで「神」の気配が急速に遠のいていくんですね。
 なんというか、藝術の使徒であるところのこのピアニスト自身が非常に孤独な姿に見えてきて、研ぎ澄まされた彼の音楽の隅々からも、それとおなじざらざらした無神論の気配がすーっとしてくるの。
 敬虔なクリスチャンであったミケランジェリ---彼はときどき周期的に僧院にこもることがありました---の藝術から、なぜに、そのような涜神の香りがしてくるのか?
 それは、分からない…。
 でも、あの吉田秀和氏もたしか似たようなことをどこかでいってられましたね---知的な追及は、必然的に暗さを帯びる、なぜだかは分からないけれどって---。
 ま、それの是非はともかくとして、こいつは傑作ですよ。
 それはたしか---決して、聴きのがしちゃいけません。
 特に、嬰ハ単調の作品45番のプレリュードは、唖然とするほどの出来に仕上がってる…。
 極限までコントロールされた弱音のパレットが、音楽の作りうる世界の限界領域まで、聴き手を導いていってくれる。
 ええ、音楽藝術が辿りついた最高峰のひとつ、彼のベストに数えられる演奏だと思います…。


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 そのマエストロ・ミケランジェリの代表作を、いい機会ですので、ここでもう2点ばかり紹介させていただきませうか。
 1枚目は、ロンドン・フィルと演った、57年のラベル・コン(下左)---これは、あのソビエトのリヒテルが、皮肉まじりに、でも、確実に激賞していた録音なんです。
 実際、このラベルのピアノ協奏曲は、ミケランジェリの最高傑作かもしれません。
 僕は、いまだ、これ以上のラベコンを聴いたことがないんだもの。
 音色も、構成も、アイーティキュレーションも、ペダルも、魔法のようなタッチも、なにもかもあまりにもレベルが高すぎて、曲のすべてが桃源郷---特に2楽章のアダージョ・アッサイでは、完璧な異世界が実現しちゃってます。
 ミケランジェリ37才のときの全盛の記録ですね、これは。
 後世に残すべき録音ではないでせうか---後年にチャエリビダッケと演った録音もなかなかいいけど、この曲の決定版となるのは、やはりこの57年の録音でせう---むろん、必聴---。


                   

 で、次に推薦したいのは、フォト右上のブラームス・アルバム---。
 これ、81年の録音なんですけど、僕が薦めたく思っているのは、メインのブラームスじゃなくて、このアルバムに同時に収められている、71年のベートーベンの録音のほうなんですよ。
 ええ、ベートーベンのかなり初期の、青春期ばりばり! 4番のグランド・ソナタ。
 僕は、ミケランジュエリっていうのは、稀有のベートーベン弾きだったんじゃないか、と、まあ個人的に思っているんです。
 あの大ホロヴィッツは、残念ながら病的すぎて、純然たるベートーベン弾きとはとても呼べないタイプでしょ?
 リヒテルも、なんというか、微妙にちがう---彼は、ベートーベンをナポレオンみたいな英雄に「創り」あげすぎちゃう。
 しかし、ミケさまのベートーベンは、その点、ちがうんですよ。
 折り目正しく、誠実で潔癖、背筋がぴんとのびて姿勢のいい、瑞々しい瞳をした、青年ベートーベンの爽やかな「ポエジー」が、鍵盤上の空間に、いつのまにかきりりと立ちあがってくるんです。
 ミケランジェリのベートーベンというと、みんな、突き放しすぎた、酷薄無情なベートーベンを予測するかもしれないけど、ぜんぜんそんな風にはならないの。
 むしろ、瑞々しさという点においては、あのグルダと競うほどのレベルのベートーベンが出来上がるっているんですよ---あの仏頂面からどういうわけか…。
 こういう成果を見せられちゃうと、もうこっちは唸るしかない。
 超・厳格な規則のむすぼれのむこうから、なんで、こんな気持ちいい緑のにおいがしてくるのかしら?
 ふしぎですね---でも、聴いているうちに、そんなことはまったく気にならなくなってくる。
 このソナタには、「恋する乙女」なんて俗称もあるんですよね、ええ、そのくらい皆から親しまれている曲なんです、これは。
 正直にいえば、こっそり秘密にしておきたいくらい素敵なヴァージョンなんですけど、それをやっちゃうと、これは人類への罪として死後のカルマに計上されるんじゃないか、と、いささか怖くなりまして…。
 そのようなわけで、皆さん、イーダちゃんは、芳しい春の日向のかおりのする、ミケランジェリのベートーベン4番のこのスペシャルなソナタを、ここに推薦してみようと思いたったのでありました---。(^.^;>
 

 

 
 

徒然その96☆みずほフィルハーモニーのベートーベン☆

2012-01-30 01:39:57 | ☆ザ・ぐれいとミュージシャン☆
                       


 2012年の1月22日、イーダちゃんは、みずほフィルハーモニーの第21回目の定期演奏会にいってきました。
 場所は、神奈川のパルテノン多摩の大ホール。
 開演時間は、午後の2時。
 友人が管楽器のセクションにおりまして、その応援みたいな感じでいった会だったんですよ。
 オケ自体はあくまでアマチュアのオケでありまして、客演の指揮者には、小澤征爾のアシを勤めたこともある時任康文氏というセレクト---。
 ま、ぶっちゃけていうなら、つきあい3分・好奇心7分みたいな感じで訪れたコンサートだったのですが、案に反して、この演奏会、音楽的にとってもよかったの。
 僕、演奏のとちゅうで1回、泣きましたから---。
 内田光子のシューベルトでも、アリシア・デ・ラローチャのモーツァルトでも、イーヴォ・ポゴレリッチのショパンでも泣いたことなんかないんですが、みずほフィルのベートーベンでは、ええ、恥ずかしながら泣いちゃったのでありますよ。
 ふむ、それくらい印象深い、とってもいい演奏会だったんですよ---。
 ただし、誰かから、

----へえ、でもさ、その演奏のどこが、どんな風によかったの?

 と素朴に問われれば、なんとなく立ちどまってしまいそう。
 そういうことってたまにありません?
 自分的にはしごく自明なことなんですよ---自分内での「好き好き度数」も、それが自分内でどのくらい重要部門に位置するのかも分かりすぎるくらいに分かってるくせに、それを、いざ見ず知らずのひとに説明してみようとすると、これが案外難しいってことにふと気づく---みたいなね。
 ひとにモノを伝えるって、ねえ、実はこれ、けっこう難しいことなのかもしれません。
 けどね、当ページの今回の目標ってそれなワケ---あの日のみずほフィルの演奏はどうしてああもみずみずしく、魅力的に響いたのか?
 それを、このささやかなページでもって、これから検証していきたいイーダちゃんなのでありますが、まあこの件についていささかなりとも興味のおありの方がおられたら、それなりに肩の力をぬいて、最後までお付きあいいただけたら嬉しいなあ、なんて風にいま思っています---。


                     


 さて、こちらの会場であるパルテノン多摩っていうのは、新興都市・多摩センター駅から徒歩5分のところにある、市民のための多目的ホールでした。
 思ってたよりそうとう大きいの。
 全席自由席ということになっていたので、なるたけいい席に陣取ろうと、僕は、開演前から大ホールのガラス戸まえに並んでいたんだけど、その際否応なし気づかされたのが、このコンサートにきているお客全般の客層のよさでしたね。
 お客さんのひとりびとりが、実に凪いだ、柔らかい表情をされているんですよ。品がよくって、ひそやかで。
 服装はもう、いわずもがな---ひとことでいって、さすが天下の「みずほ」関係者! といったような風情をおちこちからかもしだしておられるんですよ。
 イーダちゃんの出自は残念ながらそれほどいいほうじゃないんで、こういうハイソな香りは、じゃっかん階級的コンプレックスを刺激されます。ほんのりジェラスと邪の香り、とでもいいますか。矢沢栄吉のライブにいって、絶対に道を譲らない偏屈な男たちと鼻を突きあわせて「あ”~!」と呻りつつ睨みあう、なんてガラのわるさが、逆に懐かしく思いだされちゃったり。
 ま、クラッシックのコンサートってわが国ではだいたいこのような漂白室的イメージなんですが、客層の清潔感になんとなくあてられて、もくもくと不健全なことを考えはじめていたら、幸い、いいタイミングで待ちあわせていた女友達が現れてくれまして、「おお」と挨拶とかしてたら、じき会場入りでした(笑)。
 前から5列目の中央の席に、僕等3人で陣取りまして、パンフを見ながら、オーケストラの入りを待ちました。
 開演前のちょっとたまんない時間ですよね---何度経験してもこの時間帯の芳しさは格別---やがて舞台の両袖からオーケストラのメンバーがそれぞれ楽器をもって入場されまして---拍手---編成は舞台の向かって左に第一、第二のヴァイオリンがならび、右の袖にチェロ、ヴィオラなんかがならぶ、いわゆる「アメリカン・スタイル」の配置です---で、指揮者の登場---しばしのチューニングのあと、さあ、いよいよ演奏の開始です!

 § 1曲目は、ヴェルディの歌劇「ナブッコ」序曲

 実は、僕、この段階で結構びっくりしちゃったの。
 うまいんです、このオケ、音が綺麗---濁らない、透明感のある、なんともいい音をだすんですよ。
 といってもヴィブラートばりばりの肉汁たんまり、いわゆるイタリアン歌姫タイプの美音じゃない。
 清潔感のある、押しつけがましくない、どちらかといえば秀才タイプの抜けのいい音なんですけど、この種のオケによくある、杓子定規にせかせかしているようないじましいところはぜんぜんなくて。
 うん、会場の音響自体もとってもよかったですね。
 1曲目にこんな派手めのイタリアものを持ってくるあたり、たぶんオケとしての美味しいとこをコンパクトに見せつけるつもりの、一種のデモンストレーションとして選ばれた曲なんだろう、とあらかじめ予測してはいたのですが、そのこっち予測を軽々と超える上出来レベルの演奏に、音楽グルメとしてのイーダちゃんの頬は、もうほくほくと自然にゆるんじゃってましたね。
 わけてもピアノからピアニシモに至るまでのこのオケの弱音レンジの広さには、のけぞりました。
 このあたりで僕は当日の指揮者---時任康文氏の力量にもう敬服してました。
 フツー、こうまで音量のコントロールに気を使っていたら、神経質で意地悪なかたちに音楽の相が寄っていきがちになっちゃうものなのに、このひとの場合、そうはなっていないんです。
 神経質と精緻とのあいだの尾根の細道を、音楽が実にいいバランスをとって、インテンポですたすたと歩いていくの。
 うーむ、カッコよし。(ト呻る)
 カルロス・クライバーみたいな天才型のパッション音楽とは出自も風貌もちがってるんですが、この時任シェフの先導するみずほフィルハーモニー鍛冶軍団の整然たる職人的な仕事ぶりには、魅了されました。
 曲のあらゆる部分にわたって、非常に清潔で、ていねいな音出しが心がけられてました。
 どんな部分でも決して流さないのね---フォルテはちゃんと譜面通りの長さをきっちし出しきって、しかも、なんら慌てることなしに、音楽全体の呼吸のテンポをあくまで保持した上で、譜面の次の新たな流れに「生きた」音楽を紡いでいくの。
 とてもよかった---ヴェルディにしてはやや几帳面で、オリーヴオイルがいくらか少なめかなあ、とも思ったけど。(笑)
 あ。あと、このオケさん、ファゴットと金管の音がめちゃ柔らかかった---忘れないうち、この事実も追記しときませう。


 § 2曲目:エルガーのエニグマ変奏曲

 私見によれば、エルガーのこちらの曲、この日サイコーの出来栄えだったんじゃないでせうか。
 僕はそれまで、この曲がこんなに素直で抒情的なものだとは、まったく思ってなかったんです。
 もっとはっきりいわせてもらうなら、うーむ、完璧な駄曲だと思ってた。
 そのせっかちな決めつけ先入観が、お蔭でくつがえりました。その件についちゃ、お礼を申しあげなくちゃ。
 そもそもこのエルガーってひとは、僕は、デュ・プレのチェロコンではじめて知ったような、遅い出逢いの作曲家だったんですが、まあそれなりにわるくはないけど、飛び抜けた、凄い作曲家だって認識はぜんぜんなかった。
 いまもって、そのような認識はまったくありません。
 だいたい、このひと、ドヴォルザークみたいに達者なメロディメイカーでもぜんぜんないしね、オーケストラレーションのなかに胸中深くから滲みでた、自身のメロディを織りこんでいく筆使いにしても、いちいち地味っぽくて華がないんですよ。なんか、イングランドの荒野みたいな田舎道で、うすら寒い冬の朝、陰気な顔をして曇り空を見上げている地元のお百姓といったような、どこか運命論者じみたペシミステックな風情が、曲のそこかしこから感じらるんですわ。
 スマートさ、機知の輝き、情熱のたぎり---といったような語彙は、このひとの辞書にはありません。
 このひとの体内時計は、たぶん、対人間社会用にあわせて細々と微調整されてはいないんです。
 このひとの時計は、むしろ長期的なスパンでもって、大いなる自然と対峙したときにだけ、秒針が進むように調整されているんでせうね。
 こうなると必然的に、このひとの顔は世捨て人の相貌を帯びてくることになる。
 実際、音楽のキャンパスからも、その種の翳りめいた暗褐色が多用されていることは、誰にでも気取れるのではないのかな?
 ええ、ひとことでいうなら、僕は、このひとの本質っていうのは風景画家だと思ってるんですよ。
 当時、流行を極めていたストラヴィンスキー、あるいは興隆のさなかにあった前衛的な無調音楽なんかの風潮にくるりと背を向けて、ひっこんだ田舎の土地で、音による素朴なデッサンをひたすら描きためていった、寡黙な音楽職人・エルガー---。
 このような武骨なひとの音楽を演奏するのに、みずほフィルハーモニーというのは、ひょっとして理想的な楽器なのかもしれない、と演奏のあいだじゅう僕は感心させられっぱなしでした。
 日本人の心象に、エルガーってなんか合ってるんですよ。
 ジャスト・フィット---馬があうっていうのかな? ジョークじゃないよ、マジですよ、ためしに両者の共通項をアトランダムに挙げてみませうか。
 寡黙で自己表現が下手、全体的にぶきっちょなところ---。
 いくら熱くなって歌っていても、その最高潮の歌の峰においてもどことなく謙虚でシャイな香りを切り放せないところ---。
 論理より情を重んじ、自然に対してもひとに対しても細やかな気配りを忘れないところ---。
 ほらねっ、エルガーと日本人とのあいだの心理的な距離って、そうとう近いものがありそうでせう?
 ま、相性がよさというのもたしかにこの極上演奏の一因だったんでせうけど、みずほフィルがこの午後に描きだしたエルガーの心象風景が、それくらい僕の心をとらえたというのはまぎれもない事実なのでありました。
 特に、第9変奏の変ホ調のアダージョ、あと、チェロが全編にわたって抒情的な哀歌を奏でつづける第12変奏、ト単調のアンダンテは、絶品でしたねえ。(チェロの谷口氏が実にいいソロを奏でてくれました。でしゃばらず、矩を踏みこえることもない、実にささやかで控えめな演奏なのに、説得力が凄いの。心の隙から静かに染み入ってくるようなあの独特のアーティキュレーションは、あ、もうちょい長いこと聴いていたいのにな、と思ったほどでした)
 あのとき、僕の瞳には、イングランドの夕暮れの情景がはっきりと映っていたんですよ。
 なんか会場の椅子の座り心地がわるいなあ、とその午後はずっと気にしていたイーダちゃんなのですが、その瞬間には、椅子のことなんか綺麗さっぱり忘れ果てていましたもん。
 コンサートでああいう忘我の瞬間をもてるというのは、僕にとって僥倖であり、なによりの喜びなんです。
 そういう意味でみずほフィルの皆さんには、いまもって大変感謝してるんですね、僕は---。


 §3曲目:ベートーベン 第7交響曲

 しかししかし、この日のメインディシュはエルガーじゃない、ベートーベンだったのです。
 しかも、ワグナーが「舞踏の聖化」と呼んだ、あの第7交響曲---。
 オケに、この曲において重大な役割を演じる、新たなオーボエの面子が舞台の裾から登場してきます。
 うーん、どんな音楽を聴かせてくれるのかなあ? とステージと観客のあいだに、やや緊張の気配が走ります。
 やっぱ、そのあたりがベートーベンなんですよね---エルガーとはちがう種類の音楽なんだなあ、と今更ながら実感。
 時任マエストロが指揮棒をひゅっと振りあげて、それを中空で一瞬ためて---
 沈黙---。
 それから、ひと呼吸おいて導入部のAの総和音!
 つづいて、第1オーボエが曲の動機を高らかに歌いあげ---さあ、いよいよ音楽のはじまりです。
 ベートーベンの第7は、知っての通り、長ーい、しつこい序奏がついてるんですよね。
 それを、時任シェフとみずほフィルのメンバーは、ほんと、ていねいに、1音1音を大事に紡いでいきました。
 ただ、ていねいはていねいなんだけど、そこに思い入れが乗りすぎないように、非常に注意されてましたね。序奏の段階で音楽が熱くなりすぎないよう、重くなりすぎないよう、全体的なバランスにとても気を使ってられた。
 ここまでていねいな仕事ぶりを見せられちゃうと、聴くがわの僕等の心境も、ふむふむ、それで? と、いやがおうにも舞台に引きつけられるってなもんです。
 で、181小節から、いよいよ8分の6拍子の、あのテーマがはじまるの。
 ちょいとドタバタした田舎っぽいドイツのワルツって感じなんですけど、ここ、曲全体でも非常にいい部分なんですよね。
 うんうん、と僕は楽譜を思いだしつつ、目をとじて聴いていたんですが、テーマの演奏がフルートから第ヴァイオリンに受けわたされるあたりで、「あれ!?」っと思ったの。
 音がね、急に変わったんです。
 練習して、美学的に磨かれきったすべすべの額縁から、いきなり「生のままの感情」が多量にあふれでてきた感じ。
 僕はびっくりして、

----あっ、破れた…! と、とっさに思いました。 

 はっとなって舞台を見直すと、なんか、いままで椅子にゆったりと深めに座っていたオケの面々が、みんな、さっきより心持ち前のめりになって楽器を弾いてられるんですよ。
 ええ、それは、整然としたインテンポを守っていたオケが、それまでの歩みの圧力に耐えきれなくなって、いきなりダッシュをかけて駆けだしたみたいな印象でした。
 僕のやや下世話な表現を許してもらえるなら、エルガーまではこのオケ、

----これが、我々の思うところのエルガーです。この寂寥と哀愁、慈愛と郷愁の繊細な香りを、ぜひ嗅ぎわけてみてください…。

 といったような感じだったんですよ…。
 いわば、限りなくプロフェッショナルに近い、冷静で、沈着な演奏だったわけ。
 それが、ベートーベンの主題提示部がはじまると、たちまちバリバリ前ノリの、別人のような演奏集団になっちゃったんですよ。

----誰がなんといったって、僕ちゃんは自分が思う通りのベートーベンを弾くんだい! そうして、ベートーベンっていうのは、こーゆー音楽なんだい…!

 思わずたじろぐアチチ演奏!
 全員の精神年齢が20くらい若返っちゃった感じ---でも、僕的にはこの野蛮リターン、厭じゃなかったですよ---というより、このひとたち、こんなにベートーベンが好きなんだ---きっと小学生のころからレコードなんかもたっぷり聴きこんで、大人になってオケの団員になったら是非にも自分なりのベートーベンを弾いてやろうと思っていたにちがいない。そして、その機会が「いま」訪れたんだ、と思いましたね。
 うん、まったくもってはじけてました---ただ、この爆発は、舞台で見てないと分からない種類の爆発だったと思う、録音じゃ恐らく伝わらないんじゃないのかな?
 この時点では、僕は音楽に圧倒されてました。
 第1楽章の中途、音楽が徐々に短調に翳っていくあの部分で、つい涙をこぼしたりしてしまったのがその証拠です。
 あそこのジワジワ翳っていく音楽の表情は、あまり好きになれないベートーベンの音楽のなかでもわりかし好きな部分です。
 常々、シューリヒトの演奏で愛聴してたあそこの部分は、ええ、生で聴いてもなかなかよろしゅうございました。
 ただ、2楽章をすぎて、3、4楽章もその調子で音楽が運ばれるとね---なんというか音楽からちょっと振り落される---みたいな事態にだんだんなってきちゃったんですね、心理的に。
 ステージの熱狂がいくらか遠く感じられはじめた、というのかなあ?
 とっても熱い、気持ちの入ったいい演奏なのに、心がこころもち観客席のほうにとどまってしまって、ステージまで届かない引いた状態っていうか---。
 それを考えると、生演奏っていうのは、ほんと、難しいものですね。
 ひとりだけ熱狂すればいいってモノじゃない、醒めすぎてても興醒めだし、型にとらわれすぎると今度は窮屈だ…。
 うーむ、まるで漱石じゃないですか、これは---。(笑)
 
 いっしょにいったピアノのうまい女友達は演奏後、

----ベートーベン、しっつこーい…。3楽章も4楽章も、これでもか、これでもかとくり返すもんだから、くたびれちゃった…。

----うん、あの勝ち誇りかたって、やっぱりかなり凄いよね。あれは、つくづく体力だよなあ…。毎日、肉喰ってる人種じゃないと、あそこまでは勝ち誇れないんじゃないのかな…?

----肉ぅ? 肉かあ、なるほどねぇ…。

----そういう意味でいうと、やっぱり2曲目のエルガーがオケにいちばんフィットしてたって印象だよねえ。あのペシミズム風情が、ニッポン人の根暗部分に共鳴して、互いによく共振しあったっていうか…。

----うん、そうそう、あのエルガー、よかったねえ…。

----うん、よかった。あとラストのアンコールにエルガーの「威風堂々」をやったじゃない? あの整然とした淡泊さが、もしかしたらこのオケのいちばんの持ち味じゃないか、なんて風にちょっと思ったな…。

----あ。あたしもあたしも…。あたしはアレがいちばんよかった…。

 ああ、でもね、誤解なきよう---ラストのベートーベンにはたまたま振りおとされちゃったけど、演奏会としては、とってもいい演奏会だったんですよ。
 オーケストラ、アマチュアとは思えないくらいうまかったし---。
 なによりプロずれしてない、素直な表現には、心を打たれるものがありました。
 下手だったら、第一、僕、泣きませんよ…。
 演奏会後、菅楽器のセクションにいた奏者のコと待ちあわせて、少し飲みました。
 みんなで乾杯して、ワイン飲んで、音楽についてしばし語らって……結果、とっても有意義で、愉しい時間をすごさせていただくことができました。
 こういう時間って、人生で味わいうるいちばんの贅沢じゃないかしら?
 というわけで、そういった素敵な機縁を惜しげもなく振りまいてくれた「みずほフィルハーモニー」の皆さんに対して、僕は、エルガーの部分でもいったけど、いまもって多大な感謝の気持ちを持ちつづけているんですよ。
 6月末にやるショスタコの5番にも時間があけば行ってみたいもんだなあ、その際には是非また Good Music をよろしくお願いしまーす、なんて厚かましくも思っているわがままイーダちゃんなのでありました…。m(_ _)m
 
 



 

  

  

徒然その90☆モーツァルトの白い顔が透かし見える夜は…☆

2011-12-09 12:37:04 | ☆ザ・ぐれいとミュージシャン☆
                                 
                   ----ほかのどの音楽より好きだ。彼はナンバーワンだ!(ウラディミール・ホロヴィッツ)


 個人的な話で恐縮なんですが、先日、某老人施設で音楽仲間とモーツァルトのトリオ演奏をやる機会がありまして---ちなみに僕は、ギターでビオラのパートの担当でした---最初はこれ、難度が高くて演る方も聴く方も大変じゃないか、なんて杞憂していたのですが、いざ演ってみると心配ご無用、モーツァルトの快活な音楽力が、すべてを解決してくれました。
 端的にいいますと、ええ、とっても受けたんですよ、これが。
 演奏が進むにつれ、聴いてるひとの顔が徐々にほころんでいくのがよーく分かったの。
 モーツァルトの音楽って非常にふしぎなシロモノでしてね、なんでだろう?---演奏してて超・愉しいんです。
 弾いてて、これほど愉しい音楽ってほかにないんじゃないか、と思えるくらい。
 プレーヤーがこうなら、この愉しい気持ちは当然聴き手にも伝染していくわけでして。
 モーツァルトが楽譜のなかに封じこめたミューズ菌にまず奏者の僕等が感染しまして---つづいて、最前列で聴いていたお年寄り群がこれに2次感染、さらにはその後列が…といった具合に次々と音楽感染者はあいつぎ、やがて、施設のなかはモーツァルトの音楽で満ち満ちて、もー ゆるやかなパンデミック!
 午の陽差しのなか、なんか、みーんな柔和な笑顔になっちゃって---ちょっとした手品みたいでした---施設のホールのなかを悪戯っぽい笑声をあげて駆け抜けていくモーツァルトの後ろ姿がほの見えるような、それは素敵な午後となったのでした…。
 

                           ×          ×          ×


 それが契機になって、ひさびさモーツァルトの音楽に対する関心が呼びさまされたんですね。
 このごろではどっちかというとPCに貼りついて調べものをしたり、動画を見たりするのが主だった習慣になってしまっていて、CDなんてほとんど聴くこともなくなっていたんですが、とりあえず懐かしのCD棚に手を伸ばしてみました。
 そしたらね、あっというまに虜になっちゃった---モーツァルトの音楽の魅力に。
 過去ブログで僕は川端康成への傾注について、あるいはホロヴィッツ藝術への愛についてしつこく語ったりしましたが、実は、本当の意味でイーダちゃんがなにより魂を捧げたく思っているのは、モーツァルトの音楽に対してなんです。
 モーツァルト、大好き---!
 ページ冒頭に掲げたホロヴィッツのセリフじゃないですけどね、僕は、人類藝術の最高峰はこのモーツァルトじゃないか、とひそかに思っているんですよ。
 いや、より正直にいうなら、ほとんどそう確信しているんです。
 確信したままそろそろ25年! てなところでせうか。
 そういえば、武道家&運動学者でもあるところのかの高岡英夫氏も、たしかそのようなことをいっておられましたっけね?
 氏のディレクト・システム理論に批判者が多いというのは周知の事実でありますが---だって、あれ、結局のところ、科学的証明のできない一元論ですからね---しかし、少なくともあのモーツァルトに関する分析だけは、なかなかうがっていて的確なんじゃないのかな?
 氏もベラボーにモーツァルトを高く評価しておられるおひとりです。
 なんでも、あれだけ際立った宇宙的な「センター」をもった人間は、人類史上唯一無二なんだとか。
 氏の理論的根拠はさておき、モーツァルトを超・高く評価しているという点において、僕は氏に非常に共鳴しちゃうわけなんですよ。
 おっと、話が飛んじゃったい、話題をもとにもどしませう。 
 で、演奏会の余熱の冷めやらぬイーダちゃんが帰宅後の夜、自室で耳を傾けたモーツァルトはなんだったのか?
 それは、僕等が演奏したのとおなじ室内楽---弦楽四重奏の、いわゆる「ハイドンセット」なのでありました。
 モーツァルトが敬愛する先輩ハイドンに捧げた野心的実験作「ハイドンセット」---イーダちゃんは二十歳ごろこの四重奏曲に非常に傾注してまして、一時期は日がな一日こればっか聴いていたこともあったくらいなんです。ここ何年か聴いてなかったそれを、ひさびさに聴いてみたら---
 そしたらね、瞬間、胸中を涼風がさあっと駆け抜けていったのよ。
 ああ、気持ちいい…。
 その感覚には覚えがありました。
 それは、僕がはじめて「ハイドンセット」を聴いたとき、音楽が僕のなかを通りぬけていったのとまったくおんなじ足取りでした。
 なんという新鮮さだろう---セピア色に錆びついた部分なんてひとつもなくて。
 「ハイドンセット」の1曲目---K.361のト長調は、そのような恐るべき瑞々しさでもって、僕のなかを走りぬけていったんです。
 思わず、声を失いました。
 中年のややくたびれかけた現在のイーダちゃんが、青春期の多感で純粋なイーダちゃんと、なんの脈絡もなく、正面からいきなりリンクさせられちゃったわけですから---時空と歳月との風化法則をまったく踏みこえた、この奇跡のセッティングには僕ももう唖然---絶対的な新鮮さを帯びたこの音楽のしなやかな歩みように、声もなく、ほとんど茫然と、ただ見とれているよりありませんでした…。


                           


 で、そのとき僕が聴いたのが上記フォトのアルバム---Amadeus Quartette の63~66年の Grammophon への録音集---古楽形態じゃない、吉田秀和先生のいうところの「ほんのり薄化粧した」現代ヴァイオリンでの、いわば肉厚な演奏です。
 さまざまな音の香を空間に漂わすような古楽の美学とはちがう、いわゆる「歌う」ことを第一に心がけた、ベルカントな演奏とでもいうんでせうか。
 そういった意味で彼等アマデウス・カルテットの演奏は、古楽全盛の90年代には「なに、あの時代考証をまるきり無視した演歌みたいなこぶしまわしは?」とか眉をひそめていわれたりして、僕もずいぶん肩身の狭い思いをさせられたもんですが、古楽一辺倒の流行が遠のくにしたがって、またまた息を吹きかえしてきた気味がありますね?
 ですけど、この復権はある意味当然ですよ、もともと彼等、ウィーンフィルの実力者ライナー・キュッヒルの折り紙つきの、実力派カルテットなんですから。
 彼等、なんというか非常に「腰」の入った音をだすんです---特に第一ヴァイオリンのノーバート・ブレインの、一瞬だけタメの入ったようなアーティキュレーションが、なんとも骨っぽく感じられて僕はとっても好きでした。
 今風の美学からするとこういうのはお洒落じゃないのかもしれないけど、ボクシングなんかと一緒で、腰の入ってない「音」っていうのは武道的見地から見てもやっぱりダメなんじゃないかなあ。
 ほどよく「丹田」の効いたノーバート・ブレインの、やや職人的ながらほのかに芸術家魂の香るヴァイオリンが導く、彼等の四重奏は、とてもようございました。
 ほんと、曲の隅々までとことん胸にしみたんですわ。
 ここのところ、モーツァルトから離れていた不毛の期間が長かったせいもあったのかもしれないけど、それにしてもなんたる音楽なんでせうね! これほどまでに微妙で繊細を極めた---影と光が次々と色取りとニュアンスを変え、交錯しながら過ぎ去っていく音楽ってほかにないんじゃないかな?
 うん、明らかにショパンより繊細の度合いは上ではないのかな。
 ショパンの世界の基本は、単声のアリアじゃないか、と僕は思うんですよ。
 ショパンは非凡なメロディーメイカーでしたから、ピアノの鍵盤の上で、いくらでも「歌う」ことができました。それは空前の絶唱で、見事な「歌」であり、実際、歴史にも残ったわけですしね。
 しかるにモーツァルトの場合、空前絶後の歌を歌うのは、主旋律のプリマ・ドンナだけじゃないんですよね。
 モーツァルトの世界においては、プリマ・ドンナのアリアが休符でとまったら、すかさず入れかわりにバックのヴィオラが歌うんです。
 あるいは、そのヴィオラにチェロが、絶妙なタイミングと色彩でもって絡んできたりするんです---そうして、これがいちばん肝心なとこなんですが、そうやって途切れめなく歌うどの歌もとびっきりの名唄であって、完璧な絶唱になりきってるんですよ。
 うむ、ちょっと人間業を超えちゃってるんですけどね、彼の形成する音楽空間においては、このようなミラクルは日常茶飯に起こるんです。というより、もう起きまくるんです。
 ヴィオラがふっとため息をもらして、音楽が急にうつむいていくときの翳りの色合いは、ひょっとしたらもあのシューマンの曲の描く「無明」よりも暗くて深いかもわからない---でも、それでいて音楽の骨格は、非常に健康なんですね。
 健康で快活で---けれども、日常の奥底にひそむ「無明」の闇の暗さもじゅうぶんに知っている…。
 いうなれば高僧の霊力と陸上選手の身軽さを同時に備えた、美しい十代の少年といった役どころ。
 これは、いささかできすぎてますよね? 僕もそう思う。
 ですから、ときどき、聴きながら自分から、

----誰、君? ひょっとして天使さん?

 と呼びかけてみたりもするのですが、むろんのこと、返事なんてありません。
 それにしてもなんちゅーユニークさでせう---こーんな音楽に勝てる音楽なんてありっこないですったら!
  
 ええ、アマデウス・カルテットが奏でるK.361のト長調は、それくらい僕を茫然とさせたのです。
 あんまりコレが凄かったんで、それほど聴きこんでないおなじセットの18番---K.464のイ長調もつづけて聴いてみたんですけど。
 そしたら、コレもまた凄いったらないの……


                         


 楽譜を見てもらえば分かるかと思うんですが、この18番のテーマは4分の3拍子のワルツなんですね。
 あんまり息の長いメロディーじゃない、どちらかといえば幾何学的というか、やや乾いた、硬質の---いわゆる「モーツァルトの半音階」が多用された、あまり歌わない下降のメロディーで曲そのものは開始されるんです。
 ハイドンセットの曲はみんな実験的な色彩が強くて、ほかのモーツァルトの曲より「歌わない」曲が多いんですが、とりわけこの18番は「歌わない」要素が強調されている感じなんですよ。
 ですが、17小節の後半、第二ヴァイオリンのメロディーがこのテーマに微妙にかぶってくると、曲の様相ががらっと変わっちゃうんだなあ。
 そう、怖いほど変わっちゃう。
 微妙な影が、音楽の背後から不幸の隈どりをちょっとづつ、ちょっとづつしていくの。
 そうして、その隈どりがね、言葉で追っつかないほど美しくって、凄い深みを感じさせるんですよ---それはもう、聴いてて怖くなるくらい。
 冒頭のテーマは17小節足らずで終る短いものでして、その変形のヴァリエーションが、第二ヴァイオリンやヴィオラによってつぎつぎと紡がれていくんですが、その即興的な影の隈どりの仕方、光の翳らせるときのとっさのゆらめき加減ときたら、これはもう空前絶後としかいいようがない。
 要するに、この曲においては、テーマは一種の「撒き餌」なんですね。
 そうして、この「撒き餌」の裏部分での展開が、むしろ曲の本筋だ、みたいなとこがある。
 曲のテーマが単純で乾いているぶんだけ、背後の音楽世界の綾に満ちた豊穣さがより大きく映しだされる仕掛け、とでもいいますかねえ。
 えーい、論より証拠だい---実際の楽譜より引用いきませう。
 ちなみに上段のいちばん右側が17小節目。ここで第一ヴァイオリンのテーマが終わり、第二ヴァイオリンとヴィオラとが、第一ヴァイオリンの提示したテーマ(というか主題)を追っかけるの。
 でも、これは、なんたる追いかけかたなんでせう。
 第二ヴァイオリンが第一ヴァイオリンのテーマを微妙に翳らせながら走っていって、それにヴィオラが駆け足で絡んでくる20小節あたり、僕はいつでも正体不明の寂寥に覆われる自分を意識してしまう。
 胸がね、ふいの淋しさの訪れにきゅっとよじれるの。
 モーツァルトの音楽の最大の魅力のひとつである「甘味なまでの切なさ」が、ここで早くも現れてくるわけ。
 整然と歩む第一テーマのすぐ背後で、いかに多くの光と影の明滅が生起しはじめているのか---歌の背後でヴィオラが小さく息継ぎするごとに、音楽そのものの奥行きがいかに深く彫りこまれていくのか---そのあたりの機微にもぜひ注目願いたいと思います。

 
                          


 ベートーベンは、モーツァルトのハイドンセットの曲中、この18番をもっとも愛し、研究したという逸話が残ってますけど、そういう話を聴くと、ああ、なるほどなあ、といった気持ちにどうしてもなりますね。
 いわれてみれば、うん、これはまったく彼のための曲ですよ。
 ベートーベンは---自分でも認めていますけど---メロディーメイカー・タイプの作曲家ではぜんぜんありませんでした。
 尽きせぬメロディーの泉だったのは、モーツァルトとかシューベルトのほう。
 生前のベートーベンは、彼等の天性を羨んでいたような節もうかがえます。
 彼が秀いでていたのは、あくまで主題の変奏と、驚異的な音楽の構成力のほうでした。
 この能力が必要以上に発揮されたのが、あの「運命」シンフォニーとかああいった類いの音楽建築なんであって。
 ベートーベンっていうのは、甘味なメロディーが書けない音楽家でも音楽家として大成できるんだ、ということを自らの身の上で立証した最初の音楽家だったんじゃないのかな。
 正直にいうなら、僕は、彼の音楽はいまだに苦手で、自分から聴くことはめったにないですねえ。
 どうしてもサディステックな、しかめっつらの構成意識のほうが先走りして聴こえてきて、音楽自体があんま楽しめないんだもの。
 ま、あれだけの構成力は、たしかに非凡だと思うし、超・アタマのいい男だったとは認めるけど、のちの西洋クラッシック音楽全般が、彼の敷いた路線のうえを辿ってきざるをえなかったという事実は、やっぱり幸福なことではなく、むしろ不幸寄りの出来事だったんじゃないか、と思います。
 音楽は、やっぱり愉しくなければ---。
 ええ、そう思いますね。
 先日、某老人施設での合奏で僕が体験したのも、まさにそのようなことでした。
 音楽の愉しさというのは、ばらばらなひとの心を繋ぎとめる魔法のような力があるのです。
 険しくて厳しい「音楽道」を修行僧のごとく邁進する行き方も、それはそれでありなんでせうが、そういった糞真面目を皆に強制しちゃあイカンですな。
 そうするといずれ「現代音楽」みたいな抽象の袋小路に突きあたっちゃう。
 僕は、アタマが先行するインテリ音楽はどうもダメ、よく「歌う」音楽が、やっぱりいちばん好きですね。
 よく「歌い」、それから、なにより「翔べる」こと---僕が音楽に求めるものは、究極的にいえば、このふたつきりなんです。
 だって、翔べなきゃあ、いったいなんのための音楽ですか?
 そういった僕的な願望を最大限に満たしてくれるのが、モーツァルトの音楽なんですよ。
 ですから、イーダちゃんは、モーツァルトの音楽を全力で愛します。
 今日はK.464、明日はK.595、あさってはK.361、しあさっては…。
 
----天使たちが、神をほめ讃えるお勤めの時間に奏でる音楽は、もっぱらバッハだろうが、休憩時間にみんなで奏でるのは、ぜったいモーツァルトだと思う。(カール・バルト)

 うん、僕もそう思うな。
 モーツァルトはマジ素敵ですもん。ひとりぼっちの人間が孤独な長い人生を歩んでいくうえで、これより上等な友はおよそ考えられません。
 いま、スピーカーからアマデウス・カルテットのK.464のメヌエットが流れてます。
 流麗で、かすかな憂いと苦みに満ちた音楽の歩みようが、なんかたまんない。
 黄金色のエクスタシーが、窓辺のカーテンを静かにゆらしています。
 音楽の流れの背後に、モーツァルトの白い顔が透かし見えるようなこんな夕べ、ああ、あの娘もモーツァルトを好きになってくれたらいいのになあ、とイーダちゃんはひとり揺り椅子にもたれながら、暗い窓にこころもち顔を寄せてみるのでありました---。(^o-ζ



  
 

 


                         
                        
    
                      


                      





                       


                       


 


徒然その79☆グレン・グールド物語☆

2011-08-29 20:16:46 | ☆ザ・ぐれいとミュージシャン☆
                        


◆エデンの園が禁じられて以来、地上は人間の生き残りのための、せめぎあいの煉獄と化した。あらゆる藝術はそれらの葛藤の上に咲く花であり、苦痛と辛吟とを故郷にしている。しかし、グールドだけがそうではない。彼の音楽のうちには、あの失われたエデンの清澄な香気が封印されている。琥珀の中に密閉された恐竜時代の太古の空気のように。純潔だったユートピアの遠い記憶。我々がどうしようもなく彼の藝術に魅かれ、いいようのない郷愁を感じるのは、そのためだ。

◆グールドは自宅のレコーディング・スタジオを「わが僧院」と呼んでいました。これは、グレン・グールドという現象の謎を解くための、もっとも重要な証言のひとつだと思います。

◆グールドの音楽は風化しない。音盤から取りだして聴ける音符の1音1音が、腕のいいガラス職人にたったいま磨きだされたばかりのような色艶でもって、夜空の星々のようにきらめいている。いと清らかに。ピアニスト本人は1982年に死んでいるというのに、彼の紡ぎだした音楽の糸はいま活躍中のどのピアニストよりも新しいのだ。50年前の音源が昨日聴いたコンサート・ホールの音楽より新鮮に響くというこのふしぎ。さらに驚かされることには、このような彼の音楽に、地上的な欲望のいかなる片鱗も見出せないことだ。このような純粋さを抱えたまま職業的音楽家を続けてこれたというのは、まさに驚異だ。あらゆる地上的な意志が、グールドにはあのノアの洪水のように、巨大な残酷さを伴なって感じられたに違いない。

◆グールドはひとつの結晶体ではないか。どこでちぎっても、どこで切断しても、凡てのかけらは同じかたちに分断されている。この結晶化の工程を取りしきったのは誰か? 神だろうね。それ以外に考えようがないから。

◆それまで全然クラッシックなんて興味のなかった女子にグールドのバッハを勧めたことがあるんですよ。最初は彼女、「え~」なんて迷惑そうな顔をしてましたが、翌朝には嬉々としていままで聴いたどの音楽よりよかった、と報告のメールをくれました。なんでも、聴きはじめの最初の10秒足らずで魂まで貫かれた気がした、とのことです。

◆友人ピアニストの言葉---Beatlesの初期の音ってさ、Beatles後期の音より、なんか新しく聴こえるんだよ。ずっとあとに録音された70年代の4人のソロの音もそう、Beatlesの初期音源の音より古びた、セピア色の音楽として聴こえる。あらゆる音楽が風化というこの巨大な現象に抗えないのに、初期Beatlesだけがこの流れから勇ましく屹立している。あ。あとグレン・グールドにもそれと同種の匂いを感じるな、と彼は最後にそっと言い添えました。

◆世界ピアニストの最高峰はあのロシア出身の Vladimir Horowitz だったのではないかと思われるのですが、グールドだけはちょっとそういったピアニストの通常枠ではくくりにくい気がしますね。もっと大きな音楽家という枠を新設しても、ひょっとしてそれにも収まりきれないかもしれない。彼の音楽はそれくらい、あらゆる地上の絆から屹立したものなのです。

◆天使グールド、修行僧グールド、恍惚として歌う巡礼者グールド!

◆宮崎駿の映画「天空の城 ラピュタ」で有名になったスフィストの伝説としてのあのラピュタなんですが、あれ、飛鳥昭雄的にいわせると、どうやら実在するものだというんですよ。先生のいう、その実在するかもしれない「ラピュタ」について考えていたら、ふいにグレン・グールドのピアノを思いだしました。ラピュタとグールド。どう考えてもなんの関連性も見出しにくい両者なのですが、実はどちらにも共通しているところがあったのです。共通項はひとり---ひとりでも奇妙に満ち足りていて、静かな誇りの香気を燐紛のように振り撒きながら、孤独な彗星として、永遠の自転運動をつづけているところ…。

◆グールドって不遜なくらいなんにでも合うのよねえ…。ほら、こんな罪深い姿のいまの私たちにだってしっかり似合ってる……。身体にぴたりと貼りついた本革のボディースーツ、両足には先の尖ったピンヒールを履き、右手でゆっくりと大きく鞭を振りあげて、含み笑いしながらボクの女王サマは言った…。

◆今朝、聖書でマリアの処女受胎の部分を読んでいたら、唐突に頭のなかにグールドの音楽が鳴りわたった。ゴルトベルクの第二変奏のあの駆けだし部分。驚いて聖書を閉じたのだけど、午前中いっぱいグールドのピアノは頭のなかで鳴りつづけた。午すぎのいまも、ほら、まだ少うしだけ鳴っている。

◆グールドの音楽でいちばん好きなのはシベリウスかな?---あのちっちゃなソナチネの第一番。特に三楽章の、窓枠に雪つぶてがカタカタぶつかってくるあたりの部分は何度聴いてもたまらない。あの首筋に少し心地よいような、涼しげな空気のリアルな質感ときたら…。グールドはグリークの血縁だったから、北欧の音楽に親近性があったんじゃないかしら? ああ、あとね、あの片輪走行のせっかちモーツァルトもけっこう好き。

◆グールドの愛犬の名は「ベートーベン」でした。で、愛読書は漱石の「草枕」でした---うーむ、ヘンテコリンでカッコよし。

◆稲垣足穂とグールドは似てると思う。前者は山羊座生まれ、後者は天秤座生まれで、あんまり互いに親和性はないはずなんだけど、どうにも似てる。うそだと思うんなら、ためしにあの「一千一秒物語」を読みながら、BGMにグールドの弾く「ゴルトベルグ」を流してごらん---僕のいうこともあながちホラじゃないよなあ、とあなたも絶対納得できるはず…。

◆1977年に発射された2機のボイジャーには、地球中の音楽を封印したゴールデン・レコードが2枚積まれていました。そのレコード内に、モーツアルトの魔笛の「夜の女王のアリア」なんかとならんで、我等がグールドの奏でる Gouldberg Variations も収められています。この2機の宇宙船が最も地球近くの恒星圏に到着するのは4万年後。4万年のち、このレコードを再生して、グールドのピアノに感銘を受ける最初の異星人は誰でせうか?

◆グールドのあのスーパー・インテリクチャルな文章を真似て、こーんな気取ったページを編んではみたのだけど、あんまり恥ずかしいんで、このページは案外すぐ消しちゃうかもしれません。でも、そうやってこれが幻のページになっちゃえば、かえってグールドっぽいんじゃないかって思えてもくるんですよね---なぜだろう?

                                                                                     ----おしまい.(^.-/☆






徒然その75☆ジョン・レノンの変拍子☆

2011-08-13 22:15:55 | ☆ザ・ぐれいとミュージシャン☆
                                   

 ポール・マッカートニーって超一流の家具職人みたいだ---と、いつも思っておりました。
 家具なんていうといささか語弊があるかもしれませんが、どんな注文にもすぐさま応じられる、惚れ惚れするくらいの匠の技をもっている、というくらいのニュアンスで解釈しておいてください---だって、Mattha My Dear と Helter Skelter を同時に作っちゃうようなおひとですからね。
 上流階級仕立てがお望みなら、うん、じゃあいまから2階の木工部屋にいって、テーブル部分にエリザベス朝の木彫りを掘ってくるから、ちょっくらそこで待っときな---とパイプをくわえたまま豪快に笑い、
 あるいは、なに? 潮風のたっぷり染みこんだ、リバプールの港町風仕立てがお望みだって? それなら、よし、なるたけシンプルな組立で、木目もそれなりに荒めに仕上げとくが、ま、納品のとき、トゲにあたらないように気をつけてな---とか、もう変幻自在の腕の冴え!
 いずれにしても、ただ者じゃありませんや。
 こうした、ある意味あざといくらいの器用さを持ちあわせているのが、あの太宰さんとおんなじ双子座生まれのせいなのかどうか、むろん、断言なんてできないんですが、ミスター・マッカートニーのそのような才能が、ビートルズのもう片翼、あのジョン・レノンのものとまるでちがったかたちをしていたというのは、これは、衆目の一致したとこと思います。
 ええ、ちょっと聴いてみただけでも、この巨星ふたりの芸風のちがいは充分に聴き分け可能でせう。
 ポールの作品って、常におしゃれで、コンパクトにまとまってるんです。
 きりりとした佇まい---そして、どこをとっても非常にスマート---おしゃれな気配が曲の隅々まで行きわたってる。
 通常の16小節に1小節足りない Yesterday なら、1小節足りない「あれっ?」の部分が、なんともスマートなんですよ。
 いついかなるときにも趣味のよさっていうか、これ以上のラインを踏みはずさないっていう、古典的な英国紳士の横顔を拝ませてくれるっていうか。
 つまるとこ僕は、ポール・マッカートニーというのは、イギリス版のサン・サーンスみたいな存在じゃないかって、まあ思ってるわけなんですよ---。 

 けれど、ジョン・レノンとなると、これがまるきりちがってる…。
 おなじ秤はまったく使えません。ポールが第四コーナーで華麗なターンを決めて、見事なコーナーリングですさーっと駆けていくF1だとすれば、ジョンのクルマを運転してるのはプロじゃない、命知らずのキ○ガイドライバーですね。無茶なスピードで曲がりきれず観客席にクルマごと突っこんで、逃げまどう観客を何人かふっ飛ばしながら、ガギギギギーッとカーヴする Super Big jeep って感じです。
 僕にいわせると、ジョン・レノンっていうのは、とにかくパフォーマーなんですよ。
 根っからのパフォーマー---というかシンガーのなかのシンガー。
 ポールの本質がコンポーザーなら、恐らくジョンは生まれながらのロック・シンガーと分類できると思います。
 だって、努力、いりませんもん---あの声さえあったら……ロイ・オービンソンと井上揚水を足してからさらに5を掛けたような、あの極上のベルベット・ヴォイス---一度聴いたら誰もが忘れられなくなる、あの剃刀みたいな、向こうっ気の強い、鳴りのいい声さえあったなら、ほかになにがいるでせう…?
 その気になってロングトーンのおたけびをあげさえしたら、世界は即レノン色一色に染まって、自分の足元にひざまずいてくるんですから---。
 ジョン・レノンっていうのは、そのような奇跡の声をもっている稀なひとでした。
 ポールからしてみると、「ズルイ」「そりゃあないよ、ジョン」の連続だったと思います。
 歯がゆかったと思うし、造化の神は不公平だ、とずいぶんと悔しい気持ちを味わったろうとも思います。
 でも、そりゃあそうですよ、ジョン・レノンってお客の目線から曲、発想してませんもん。
 自分のいい声をより気持ちよく鳴らしきるために、「曲」という額縁がたまたま必要だったって感じでせうか。
 そう、ここが肝心---声が「主」で、「曲」が従なんです。
 ジョンは詩人としての横顔も有名ですが、その肝心のポエジー世界がかすんじゃうほど、ジョンの声はイカシてる。
 そういった意味で、サッチモやジミ・ヘン(ジミ・ヘンのあのノイジーなギター音を、僕は、彼の「肉声」だと解釈してますので)、オーティスやレディ・デイなんかと共通項をもつひとだったのかもしれない。
 ジョン・レノンのカヴァー曲が、誰に歌われても、いまいちピンとこない感じが常につきまとうのは、そのためです。
 彼の曲を歌いこなすためには、あのとんでもなく「抜け」のいい、きらめきまくる、艶のある声が、どうしても要るのです。
 というわけで僕的にいうならば、ジョン・レノンとは何より「声」のひとなのですが、それにつづく、ジョン・レノンをジョン・レノンたらしめている、第二の不可欠要素といえばなんでせう?
 「Love & Piece」? それとも「Rock and Roll」?
 うん、どっちもたしかにジョン・レノンを構築してる重要な要素だと思いますけど、僕はそういった通り一編の概念的な特徴より、もっと本能的な特徴を選びたいんだなあ。
 僕は、ジョンをジョンたらしめている絶対不可欠な要素とは、さっきから連呼しているように、まず「声」---そして、それにつづいてはジョン独自の、あのファニーな「変拍子」だと思うんですよ。

 「変拍子」? イエス、「変拍子」です。
 一般的に「変拍子」というと、貴方は、なにを連想されます?
 ストラヴィンスキー?
 それとも、バリ島のケチャ?
 あるいは、中東のウード音楽の8分の10拍子「ジョルジーナ」とか?
 ストラヴィンスキーを連想したひとは、たぶん、「アタマ」始発の青白きインテリ・タイプ---小節の息苦しい規制から自由になるために試みたストラヴィンスキーの変拍子に、管理社会の重圧からの脱出という自身のテーマを何気に重ねあわてしまう、いわばひっそり型隠れロマンティスト---。
 バリの民族音楽ケチャを連想したひとは、ゴーギャンみたいに積極的に「ゲンダイ文明」を否定したい、いわば脱・現代志向派---タヒチやバリ鳥がほんとにユートピアかどうかは分からないけど、とにかく、そういった憧れの土地に強引な自分の夢を押し重ねてでも、窮屈な小節のくびきから脱出したいひと。
 中東の変拍子「ジョルジーナ」なんてのを連想したひとは---まあ、これはどうでもいいや(笑)。
 ま、「変拍子」と一言で申しましても、かようなまでにいろいろとあるわけですが、ジョン・レノンの用いる「変拍子」は、これらのどれともちがっている気がします。
 どっちかというとバリ鳥のケチャなんかに発生経路は近いかもね?
 とにかくストラヴィンスキー的な、意図的な西欧離脱みたいな路線じゃないことは確実でせう。
 なにより、楽譜を書けなかったジョンからすると、自分が演奏してるリズムが「変拍子」だということすら、なにか意識してなかったみたいなんですよ。
 だから、ジョンの「変拍子」には、ストラヴィンスキーみたいな頭脳始発の「人工臭」がほとんどないの。
 流れ的にも非情に自然で、聴いてて一瞬「ん?」とかは思うけど、そのまま違和感なく聴きすごしちゃうケースが圧倒的に多いんですよ。
 分かりやすいとこで具体例いきませうか---。

 僕がいちばんインパクト受けるのは、あの究極の変拍子曲「Good Morninng,Good Morninng」とかじゃなくて---この曲はむろんのこと凄いんですが---意外や意外、Let it be のなかの名バラード Across The Universe の地味ーな変拍子なんです。
 音楽やってるひとでも、あれ、あんま気づいてないひとが多いんじゃないのかな?
 あの歌のなかで、実は、一箇所だけ変拍子が混入してるんです。
 歌でいうと一番の中途部分、ちょっと歌詞を抜き書きしてみませうか。

----Words are flowing out like endless rain into a paper cup,
They slihter while,they pass,they slip away across the Universe…

 ここ! 上の赤部分の歌詞の語尾が、小節線を完璧オーバーしちゃってるんです。
 したがって、この小節部分だけ4分の5拍子の変拍子になってる。
 たぶん、歌詞が4分の4で歌いきれなかったんで、なんとなく伸ばしてプレイしちゃったんでせうけど、その「なんとなく」がなんとも凄い。結果として、企まざる「?」の小さな波立ちが生まれて、その不規則な一瞬の水のほとばしりが、実に美しい、自然な水の流れみたいな滔々とした風情を曲中に生じさせてる。
 しかも、この曲の変拍子は、1番のここ一箇所オンリー!
 あとの2番3番のこの部分は、みんな通常の4分の4の枠内に、まるーく収まっているんですよ。
 ジョンの変拍子の基本って、まさにこれだと思いますね。 
 秀才的音楽家からすると「変拍子」って一種の高等テクなんですが、ジョンはちがう、自分の使うリズムが「変拍子」だと思ってもいないし、たぶん、あまり意識してもいないのよ---ただ、頭のなかの曲のイメージを追っかけていったら、たまたまリズムが通常とはちがう字余りな感じになった、でも、面白いからコレでいこうか、みたいな奔放な「自由さ」をなにより感じます。
 考えてみれば、ジョンの曲中に「変拍子」の曲ってとっても多いんですよ。
 いま思いつくだけでも「She said She said」「Strawberry Fields Forever」「Don't Let Me Down」「Mean MR.Musterd」「Meat City」「I Don't Want To Be A Solder」「Revolution」「Being For The Benefit of MR.Kite」「Mother」「I'm So Tired」「Yer Blues!」なんかがそうですよねえ。
 あと、「Help!」ラストのアカペラっぽいブレイク部なんかもそうだ。
 ちょっとこの多さは凄いですよね? 大抵の変拍子の舞台裏には作曲家のえっへん顔がひそんでるもんなんですが、ジョンの変拍子には、まるきりそうした作為の跡がない。誇示臭も皆無。自然にやってたら、なんか、こうなっちゃったんだよー、といったような悠々たる懐の広さみたいなモノがかえって感じられるんですよ---いささかモーツァルトチックな野生児風味といいますか---しかも、その過程で生まれた変拍子の切れてること切れてること!---ホント、個人的には、ミスター・変拍子って呼びたいくらいのおひとなんですよ…。
 さて、そんな変拍子の達人ジョン・レノンの曲中で、僕がいちばん敬服してるのが、超名曲「All You Need is Love」のなかの、あの変拍子なんですわ。
 これ、ちょっと重要だと思うんで、手製の楽譜にしてみました---まずは御覧あれ---。

                      
                          (注:最初の2小節を3回繰り返して、3小節以降に進む)

 最初にこれ聴いたとき、僕は中学生だったんですが、もの凄い違和感ありましたねえ---。
 だって、曲が滔々と流れず、フレーズごとにガクッ、ガクッ、と前にのめっていくんですもん。
 そう、それによって曲中に、なんともいえないスリルとスピード感とが生まれてくるんです---いかにもジョンならではの鋭角的な。
 全部通常の4分の4拍子で演奏したら、やってみたらすぐ分かると思うけど、これ、たぶん、それほどの「名曲」じゃなくなっちゃいますよ。
 魔法は消え失せ、ダラーンとした、どこにでもある、ただのありふれ曲のひとつに色褪せちゃう。
 そうした意味でこの曲に生命感を与えているのは、やっぱり、各フレーズ終わりの、のめるような4分の3拍子の---ジョン特有の変拍子なんじゃないか、と思います。
 
 しかし、僕が凄いなと思うのは、レトリックとしての「変拍子」じゃなくて、心の底から湧きでてくる「音楽」をかたちにしていたら、たまたまそれが小節という「矩」を超えてしまった、というジョン・レノンの音楽のもってる根源的なパワーなんですよね、やっぱ。
 現代音楽から枯渇した「生命力」を蘇らせるために「変拍子」という小技を使ってみたのじゃなくて、自らの「音楽」を追っていたらたまたま小節の枠を超えてしまったという、その奔放極まる、ジョンの生命力のきらめき自体!---その眩しさにいつだって魅せられてしまうってこと…。

 さて、そうしたジョンの変拍子作品のとどめともいえる作品が、いまさっきちょっと述べた、あのサージェント・ペパーのなかの「Good Morninng,Good Morning」なのでありますよ。
 僕的にいわせていただけるなら、これ、一曲さえあれば、サージェント・ペパーのアルバムなんかもういらんスよ…。
 これ一曲だけで、サージェント・ペパーのすべての曲を代弁しちゃってる、といってもいいかもしれない。
 それくらい、これ、カッ飛んだ曲なんですわ---。
 僕は過去のマイ・ブログで、ジョンの「I Feel Fine」を絶賛しましたけど、ほとんどそれに迫るくらいの、これは、名曲でせう。
 初めて聴いたとき、曲のどの部分も自分の予想を超えて、きらめきながらザクザクと過激に進むんで---そのあまりの原色の連鎖爆発加減に、びっくりするよりさきに茫然としちゃったことをよく覚えています。
 だって、メロディーを覚えるのが困難なほど、過激ぴちぴちの変拍子ぎっしりの曲なんですもの。
 しかも、こうした曲に常につきまとっている「アタマでっかち感」は、まったくないの。
 次々と目前で繰り拡げられる、音楽の絢爛たるサーカスぶりに視線をすっかりさらわれて、気がついたら魂がどっかに抜かれちゃって茫然自失みたいな、そんな感触……。
 こんな、覚えることも困難みたいな、変拍子の極みみたいな曲を、よくもまあケロッグのCMなんか見ながら、楽々と鼻歌まじりに書いちゃってくれたよなあ、と、なんかその才能のあんまりな異能ぶりが悔しくなってもきたり。
 ホント、ため息がもれるほど、過激で、極彩色で、シュールで異次元なナンバーなんですって。
 手書き楽譜の第二弾として、これの譜面もいってみませうか---ほい。

                          

 これは、もう…なんていっていいのやら……。
 凄いというより、これは、もはやカオスの限界領域にかろうじて踏みとどまってる、鋭敏な感受性の氾濫ですよ。
 ひとことでいうなら、たぶん、「異次元」---ええ、まえからときどき思っていたんだすけど、ジョンの変拍子って、いつもそこはかとなく「異次元」の香りがしてるんですよ。
 「I Feel Fine」然り、この「Good Morning, Good Morning」も然り。
 なんかね、歌の上空のまぶしい青空のなかを、たったいま天狗が横切っていった、みたいな---そんな感じ。
 うん、そう---天狗っていうのがピタリだな---この世ならざるものが、視界のはしをかすめていったわけなんです。
 それで、その目撃体験のあとでも、アタマと心とがクラクラするわけ---。

----えっ、マジ? あの天狗…エエッ! 天狗なんて実在するんだっけ? エエッ…!
 
 ひとことでいって、もう超えちゃってるんですよ---なにを超えちゃってるのかというのは、どうも定かじゃないんですが。
 うん、限定できない。でも、この「超えちゃってる感」は、確実にジョンの音楽のなかに偏在してますね。
 無心になってじーっと聴いてたら、この「超えちゃってる感」は誰でも味わえると思う。
 ジョンの音楽って、それっくらい高度でパワフルなんですよ。
 どことも知れないまぶしい高所から吹いてくる、異界の風のひとっ吹き---なんて中学生みたいに大仰な表現を使うと笑われちゃうかもしれないけど---ジョン・レノンの究極的なイメージって、僕には、いつでもそんな風なんですよね。

----仕事に行く、行きたくない、気分はローダウン
  家に帰りがけにぶらぶらして、ふと気づくと君は町のなか
  なんにもやってないことはみんな知ってる
  どこもかしこも廃墟みたいにみんな閉まってる
  見かけるひとはみんな半分眠ってる
  そして、君はひとりぼっちで道端にぽつんと立っている……
             (Beatles「Good Morning,Good Morning」より)

 ジョン・レノンは、法律に違反することなく味わえる、最上級のドラッグです。
 適用量はひとによってさまざまだけど、それによるトリップの上質さはもう保障付き---まばたきするあいだに世界を七周半巡ることだって可能です。
 こんな嘘と欺瞞まみれのからくり世の中に食傷されてるナイーヴな貴方なぞは、ぜひにもお試しください。
 運がよければ、この世の領域外の異界の青空をいままさに高速で闊歩中の、天狗の後ろ姿を拝むことができるやもしれません…。(^.^;>
 
 
 

徒然その48☆素晴らしき50'S Black Rock‘N’Roll !☆

2011-02-05 19:19:06 | ☆ザ・ぐれいとミュージシャン☆
                           

 最初に断っておきませうか?---今回のは非常に趣味的で、マニアックなページです。
 よっぽどの音楽マニアじゃないと、分からんようなB級ブラック・ミュージック特集をやろうと思うんですよ。
 ですから、なんだ、あんま興味ないなあ、と感じられた方は早々に退出されたほうがよろしいかと存じます。
 僕は、ことあるごとにいっているように、超・重度のホロヴィッツ・マニアでありまして、クラッシックでもほかにコルトーとかクナとかシューリヒトとかが大好きなんですが、実をいうと、それとおんなじくらいブラック系の音楽も大好きなんですね。
 J・B、ブルーズ、パーカー、レゲエ、ジャンプ……それこそ手あたり次第になんでも聴きます。
 なんというか、周期的にクラッシックとブラック・ミュージックのあいだを往復旅行してる感じなんですよ。
 で、これは、最近発見したんですが、どうもブラック・ミュージックに入れこんでいるときのイーダちゃんのほうが、クラッシックを聴きこんでいるときのイーダちゃんより、なぜか社会的な評判がいいんです。
 ええ、おかしな話なんですが、皆、その周期の僕のほうが、そうでないときの僕よりも人間的に「いいひと」だ、と、まあ口をそろえていうわけなんですよ。

----えー、なにいってんだよ、アホくさー…。(鼻を鳴らして)

 なんて最初のうちは鼻で笑っていたのですが、あんまり皆がいうし、それに、よくよく考えてみたら心当たりがないでもないんです。
 たしかに! 会社の上層部とモメてやったらぶつかっていたころのイーダちゃんは、クラッシック聴きの周期にあたっていたんですよ。
 クラッシックに凝っていると、どうも内省癖というのか、ひとと会うのが億劫になってくるんですよ。
 で、ニートのごとく、個別な自閉空間にやたらこもりたがるの---なんでだろう? 巣ごもりに誘うような郷愁ホルモンみたいなのが、おのずから発汗でもされてるんでせうかね?
 ですが社会で暮らしていると、そんな自閉空間ばっかり閉じこもってるわけにはいきません。当然、会社にいかなくちゃいけないし、会社のなかでは同僚や上役なんかと協調していかなきゃいけません。
 ところがですね---クラッシックを聴いてばかりいると、このあたりの協調回路が、どうも接触不良になるようなんですよ。

----俺は静かに内省していたいのに、この野郎はいちいち馴れ馴れしく話しかけてきやがって(怒)…。

 と、これはまあ反応飛びすぎなんですが、リアクションがマイナスサイドの湿り気を帯びるのは、どうやらクラッシック熱中期の必然的傾向のようですね。
 残念ながら、これは僕の体験なんでして---。
 で、その結果、イーダちゃんが編みだした教訓はね、「クラッシックは平和によくない」というものでした。
 あの、フレーズだけいうと笑っちゃうギャグみたいなんですけど、僕的にはこれ、案外まじめな発言のつもりです。
 西洋クラッシック音楽の、シューベルトのリートとか、心のリアクションがタッチから敏感に感じとれるピアノ音楽とかはべつですよ---しかし、西洋音楽の中核をなしている、オーケストラによる抽象化されたシンフォニーとかの場合はね、僕はこれ、あんま身体と精神衛生によくないと思う。
 オーケストラ音楽って近代西洋文明の象徴といってもいいくらいの、素晴らしいものだと理解してはいるんですが。
 100人以上の、あれだけの大組織で音楽をやるっていう発想は、まさに近代西洋ならではで、ほかの文明圏ではあれほどの規模の集団ミュージックっていうのは生まれようがなかった、と思うんですよ。あれをやるには、楽譜の発明、楽器においてのピッチの統一、それに、音階においての平均律の発明といった要素が不可欠です。
 ほかの文明圏では音楽ってもうちょっとゆるいものでしてね、ここまで大人数のスペクタクル音楽にこだわったというのは、やはり、近代西洋文明のなかにあらかじめそうした要素が内包されていた、ということなんでせう。
 歴史上はじめて国民皆兵を組織したナポレオンじゃないですけど、僕は、西洋のオーケストラ音楽にどうしても戦争のにおいを嗅いじゃうんですよ。
 こんなこといって、オーケストラ音楽が好きなひとが傷ついちゃったらスミマセン。<(_ _)>
 でも、これ、あながち妄言とは思わないんですけど。オーケストラの指揮者ってなににいちばん似てるかといえば、やっぱりあれは将軍とかそういった感じじゃないですか---指揮棒でもって部隊に指示して、塹壕を掘らせたり、迫撃砲を撃たせたり、場面によっては退却、突撃を叫びながら煽ったり…。
 もしかしたら、これはあくまでイーダちゃんの偏見の範疇内の意見であって、一般性、まるきりないのかもしれませんけど。
 ですが、ベートーベンにはじまりワーグナーで完成に至った西洋オーケストラの音楽は、実際の話、西洋文明の世界征服の歩みとともに、ここまで進化してきたわけでありまして…。
 あのね、基本的にオーケストラ音楽って、まず「整然とした行進」だと思うんですよ。 
 ジャワのガムランとか、ほかの文明圏にもオーケストラっぽい音楽形態はないじゃないんですが、やっぱり、西洋オーケストラ音楽ほど整然とした、組織としての音楽をやるって集団は、結局どこにもないんですよね。ガムランもむろん揃っているといえば揃ってるんですが、基本的にユニゾンですし、クラッシックの合奏感覚から行くと、心もちいくらかバラけてますよ。
 だから、この比類なき合奏集団がその気になって演奏したら、その威力は、言語道断に凄いものがあります。
 もう圧倒されて口もきけなくなっちゃう…。
 けどね、イーダちゃん的には、この「集団で誘う至福状態」は、ときとして息苦しくなるときがあるんです。
 もっとバラけててもいいから、等身大の、ゆるゆるの夢が見たいってときが、人間ってやっぱあるじゃないですか。
 レストランのフルコースより屋台の焼きそば--。
 高級なスコッチよりも隣りのひとと肩をすりあわせつつあおる焼酎がいい、みたいな---。
 そんなとき、イーダちゃん内の全細胞は、ブラック・ミュージックを求めるんです…。

 ブラック・ミュージックはいいですよー!
 なにがいいって音楽を聴いてて身体にくる場所がクラッシックとちがう、ブラック・ミュージックは「肚」にくるんです。
 ええ、東洋伝統武術でいうところの、下腹にあるいわゆる「丹田」ですね。
 ここの「丹田」、これこそがブラック・ミュージックのキモにあたります。
 ここの部位に、後ノリのあの気持ちいい、ゆるゆるのリズムがだんだんに響いてくるわけ。
 クラッシックよりずいぶん雑然とバラけてて、人肌の香りが濃く漂う、ある意味のんきで気分屋な音楽なんですけど、この人懐っこくてほこりっぽい歩みようって、なんだか基本的にハッピーなんですよ。
 武術とヨガに詳しい知人にいわせますと、ヨーロッパ系の白人の身体意識って、だいたいアタマから首の付け根あたりまでしかないそうなんです。まれに胸までを身体として「感じてる」ひともいるけど、だいたいにおいてはそこまで止まり。彼らにとっての身体というのは、まず「理性」の宿るアタマであり、下腹部とか脚とかはあくまでそれに付随する二次的なものでしかないんですって。
 このあくまで「理性」中心の階級意識って、なんだか凄いものがありますよね。
 牛肉を食べる部位によって社会的階級が決定されるって説は社会科学の本で見受けたことがありますが、身体の各位にまで階級意識が貼りついてるっていうのは、これはユニークですよ。
 しかも、アタマや思想でこしらえた「理性」主義じゃなくって、身体始発の感覚指導の歩みなんですから、この傾向は半ば本能的なものといってしまっていいのかもしれません。
 面白いですよ---本能的傾向でもって「理性」を優遇して「本能」を排斥するなんてね---。
 ブラック・ミュージックには、そんなややこしい構造はありません。
 ホワイト・オーケストラ・ミュージックほどの洗練と統一はないかもしれないけど、彼らは「本能」を排斥したりはしません。
 というより、ブラック・ミュージックでいちばん大事な要素は、乗るってことなんですよ。
 いわゆる「ノリ」ね---生きて動いてる現在のリズムを「感じる」こと---第一義はそこにあるんです。
 ええ、標準はあくまで「現在」なんです---未来でも過去でも理性でも理想でもない---かけがいのない「現在-いま-」を、身体をゆらしつつ感じ、愉しむこと---。
 これ、ひととしてとても正しい歩みようだと思うんですけど、どうでせう?

 というわけで大変理屈っぽい持論をついだらだらとやっちゃいましたが、Don&Deweyです。
 ドン・シュガーケイン・ハリスとデューイ・テリーの爆弾ブラック・ディオ---。
 リトル・リチャードやレイ・チャールズに比べると、彼ら、ぜんぜん無名ですけど、いわゆる50'Sのロックンロール・ディオとしては、僕は、世界最高峰なんじゃないかと思ってます。
 リトル・リチャードのシャウトはたしかに凄いものがありますけど、僕的にいうなら、ドン&デューイの爆裂ダブル・シャウトはそれ以上のパワーを内包してますね。シャウト自体の質がね、明るくて、下品で、とにかくハチャメチャ。
 なんというか、あまりにも天真爛漫にはっちゃけすぎてるんで、元気のよすぎる狼の子が2匹、もの凄いスピードで追いかけっこしてるのをあれよあれよと見てるみたいな感覚なんですよ。
 運動性と色気とアナーキーすぎる疾走感と---なにもかもが過剰でうるさくて、もう、聴いててクラクラしちゃう。
 初めて彼らのヴァージョンで「ジャスティン」を聴いたとき、完璧吹っとびましたもん、僕は…。
 日本のブルーズ・ギタリストの山岸さんが、彼らと会ったときのことをちょっと書いてられますんで、2、3行引用させていただきませう。

 シュギー「知ってると思うけど、ドン&デューイのデューイ・テリー!」
 オレ「ゲロ、ゲロ! オレ、レコード持っとるヨ。“ジャスティン”や“ココジョー”の入っとるやつ!」
 オッサン「そう、そう、それワシが演ったんや!!」
 オレ「ところで、ドン“シュガーケイン”ハリスはどうしてんの?」
 オッサン「あ~、あいつ今ム所に入っとるわ! 又、出てきたら一緒に演ろうと思っとるけど、それまでは、他のドンで間に合わせとる、ウン」
                                                            (山岸潤史「ドン&デューイ CD解説」より抜粋)

 いいなあ、この大ざっぱな感触…。(ため息して)
 ただ、彼ら、ハチャメチャだけじゃなくてむろん音楽性だって相当なものでして、ジョー・リギンスのカヴァー「ピンク・シャンペン」なんかでは、まだ50'Sなのにエレクトリック・ヴァイオリンなんて使ってたりね、超・翔んでて侮れないんスよ。あとでたしかフリージャズのオーネット・コールマンなんかとも共演していたんじゃなかったのかな?
 いずれにしてもこの不況続きのたそがれニッポンで、たくましく生きぬいていこうと思ったら、まず座右に聴くべきなのは、こういうアチチの音楽なのではないでせうか。
 猥雑なまでの原色の生命感。野蛮さとキュートさの絶妙なブレンド具合が、それはもうたまらんの。
 僕なんか最近の筋トレのBGMには、ほとんどコレですもんね。
 ドン&デューイ---ブラック・ミュージック好きには超・必聴の1枚、聴きのがすのは、おーい、絶対ソンだと思いますよーッ---!(^o^)/  


       (P.S.50'SのB級ブラック・ロッカー、ジョン・レノンがカヴァーしたラリー・ウイリアムズもゆるゆるでいいヨ!)
                                                       

徒然その45☆ Blues でしたたかに横歩き…☆

2011-01-26 21:16:10 | ☆ザ・ぐれいとミュージシャン☆
                              


 前々回の☆徒然その42☆では太宰さん特集なんていう線の細いページをやっちゃったんで、今回はそれとは逆路線の、たくましくってふてぶてしい、人間臭さぷんぷんの、ブルーズ特集ってやつをやってみたいと思います。
 現代ポピュラー・ミュージックのすべてのルーツといってもいい音楽---ブルーズ。
 ほんとはこのページの代わりに 60'S ロックの特集を組もうかと最初は思っていたんですよ。キース・ムーンの写真なんかもちゃんと用意してね。
 でも、書くまえの参考にって you tube の動画をいろいろ見てたら、途中からブルースマンの動画に脇見したあげくハマっちゃって、とうとう抜けだせなくなりました。
 ただ1本のギターの弾き語りでしかないくせに、ビッグバンドみたいに自在に、豪華絢爛と鳴り響く、Rev.Gary Davis の神業ギター…。
 (見たい方がおられたら、Dailymotion Rev. Gary Davis Feel Like Goin' Home で検索されてみて下さい。超絶品プレイが拝めます)
 そんなに複雑なテクは使ってないのに、どうしてこんなに力強く、ふてぶてしいノリが生みだせるのかいつもながら首をひねるしかない、テキサス魔人 Lighnin' Hopkinns の超したたか・粘り腰のミュージック…。(こちらは youtube ですぐ検索できまする)
 ついつい魅了され、1時間弱があっというまにすぎちゃいました。
 結論---やっぱ、ブルーズって凄いです。
 なにより、ふてぶてしくって明るい点が、僕的にはちょっとたまんない。
 もっとも、明るさだけを特別視して、暗さをおとしめるつもりはありません。たしかに、笑おうとしても笑えないシチエーションっていっぱいあると思うんですよ、人間って。
 ブルーズにしても、もともとは米国南部にむりやり連れてこられた黒人奴隷の音楽じゃないですか。
 公民権法なんてはるか未来の夢物語---職業選択の自由も移動の自由も恋愛の自由もなく、定められた土地のプランテーションで綿の収穫に携わってるだけの、重労働の、くりかえしばかりの毎日で。
 うさ晴らしといえば、許可された祭りのハレの日の、酒か博打か踊りか、あるいは派手な色恋沙汰か、もしくはやけっぱちの、ナイフをふりかざしての命がけの喧嘩とか…。
 考えられるのは、まあその程度。文無しとかいう以前にもう奴隷なんですから。所有権すらない。所有物といえばせいぜい、ごろんと寝っころがったときに見える、だだっぴろい青空ぐらい---。
 未来の展望も財産も家族もない、宙ぶらりんのからっけつ状態ってやつ。
 その瞬間の彼等の胸をひらいてみたら、恐らく、不安と臆病とがいっぱいにつまってるのが見つけられるでせう。
 なのに、明るいんです、連中、ブルーズマンときたら。
 女に逃げられて酒びたりになって泣いていたとしても、涙と同時に顔をくしゃくしゃにして笑ってるんです。
 むろん、完璧な笑いにはなりきってないし、笑いのかたちにしてもちょっと歪んでる。
 しかし、唇の両端をきゅっともちあげて、少なくとも笑おうとはしてる。
 こんなに何重にもねじくれたどん底の逆境なのに…。
 純粋に凄い、と感じます。
 どん底で笑える精神って凄い、こういうのが真の意味の「高貴」なんじゃないか、とイーダちゃんは思います。

    いつも一緒にいたい…
    だけど そんな楽しい時はもう終ったのさ
    いまはちょっとツイてないけど 諦めやしない
    俺は歩きつづける
    なに 別れなんて出会いのはじまりなんだから
    時がすべてを変えてくれる
    そうさ だから Don't Kid Me…
                  (Brownie McGhee「Don't Kid Me」より)

 ちょっとクサいといえばクサいんですがね、そういうブルーカラー的ないいまわしの一種のよどみや、語り口のクセをいったん歌の表面から全部取っぱらって、純粋な精神として対峙したなら、このいささか苦めのオプティミズムは素晴らしい、と僕は感じます。
 それは、もうひとつ別口の視点から見たら、こういうことかもしれない。

----安楽なくらしをしているときには、絶望の詩を作り、ひしがれたくらしをしているときは、生の喜びを書きつづる。(太宰治「晩年」より)

 いささか大正文学的な「衒い」が行間に入ってますけど、ブルーズの精神ってたしかにこのなかに脈打ってますよね? 
 ええ、いつも猫背気味の太宰さんが、このセリフのときだけは珍しく背筋をしゃんとさせて、まっすぐ遠くの山々の稜線を眺めてる。この香り、明らかにブルーズ的なものですよ。あ。ゴスペルもちょい入ってるかもしれません…。
 
 そうそう、冒頭でちょっとだけ取りあげた Rev. Gary Davis のフォト、忘れないうちにUPしておきませう。

                             

 これが、ギターの神サマ、レヴェレンド・ゲーリー・デイヴィスです。超カッチョいいっしょ!(^o^)/
 彼、1896年の牡牛座生まれのアメリカ人。まだ3才のときに、目薬が原因で失明してます。
 見た目、チンピラがかったちょいワル親父って感じなんですが、どうしてどうして、彼、実は本職は牧師さんなのでありまして、名前の頭にある Reverend っていうのは、聖職者に対する敬称なんですよ。
 20世紀初期のディープ・サウス(南部)では、ブルーズはどうも悪魔の音楽なんて呼ばれていたらしいんです。
 なぜ? 清教徒的世界観に収まりきれない、生きのよすぎる音楽だから?
 あるいは、ドロドロの恋愛について歌ったりもするし、なによりセクシーだし、白人の歌みたいに教養がなくて下品だから?
 まあ、理由なんておおかたそんなところでせう。
 B.B.キングもときどきそんなことをいっていたような気がしますし、あと、そのころの南部関連の著作なんて読んでいても、そのようなフレーズにはときどき出会えます。
 だもんで、その時期、聖職者をやっていたこのひとも、当然ブルーズはやらない---やれない?---んです。
 ブルーズを歌うかわりに、いわゆるゴスペルを思いっきりがなりたてるわけですよ。
 ギター一本で超絶ラグタイムをスキップさせながら、1度聴いたら忘れられない、あの吐き捨てるみたいな、超・野太い胴間声でもって、

----Say No To The Devil, Say No…! (Rev. Gary Davis「bluesvilli」より)

 と、勢いよくぶわーっと、かぶせてくるわけ…。
 この迫力、マジのけぞりますって。
 ゲイリー・デイヴィスのブルーズって、リアル志向のブルーズマンのなかでもとりわけリアルな感触なんです。
 あんまり正直に、朴訥に、真正面からやってくるから、聴き手にまったく逃げ場がない。 
 ジョン・レノンのページでもちょっと述べたと思うんですが、あんまり正直なものって、なんか逃げたり何気にやりすごしたり、やりにくいところがありません? 狡猾なもの、たくらみっぽい香りをさせてるものならまだしも対処できるのに。
 なんででせう? 人間心理の妙っていうんでせうかねえ。
 ゲーリー・デイヴィスのブルーズを聴いていると---厳密にはさっきもいったようにブルーズじゃなくてゴスペルなんですが---自分がいかにひとの道から外れた生きかたをしているか、金稼ぎと現状維持だけの毎日に追われ、いかに大事なことを置き去りにしてきてしまったか、なんてことがふいに思いだされ、とても気になってくるんです。
 特に体調のいいときの晴れた日曜なんかにひとりで彼を聴いてると、自分がなんだかいつのまにか年端のいかぬ子供に帰っちゃって、どっかのお午すぎのうららかな町角で、近所の悪童連といっしょになってわいわいと彼を囲んでる、なんて幻想が脳裏にうかんでくることがままありますね。

----ねえねえ、おっちゃん、次は…次のは、なんの歌…!?

----そうさなあ…次のは、坊主はどんなのが聴きたい?

----俺はね! 俺は…銀行強盗の歌が聴きたい!

----なら、そっちの坊主、おまえはどんなのが好みだい…?

----俺は! 俺はさ! ガンマンの歌がいい! ガンマンの決闘の……

----こら、袖を引っぱるんじゃねえ!…ガンマンに銀行強盗か。ちょい、むずかしいな…じゃあな、若いときに銀行強盗をやって…馬車で逃げるときに保安官を撃ち殺して、そのままうまく逃げおおせて、長いこと過去を隠して裕福なくらしをしてたんだけど……20年たったある晩……ふいにむかしのことを思いだしちまって---罪の意識にかられて---泣きながら悔いあらためる…「年老いた男が悔い改めた晩のブルーズ」だ……いいかい、いくぞ……。
 (で、鳴りはじめるギターと凄いヴォーカル)

 なんちゃって---(プライベート幻想失礼)---。(^.^;>

 ええ、やっぱり、金があるから、地位が高いから、セレブだから「高貴」ってわけじゃないんですよね---本来の人間っていうのは。
 どんな分野でも高貴なひとと下卑たひととの両端っていうのは、やっぱりあるのではないかしら。
 たとえば、それがどこかの国の皇族といったようなロイヤル・ファミリーであったとしても、その気になって探せば、性根の卑しいかたは恐らくいくらでも見つけられることでせう。
 そう、作家の村松友視氏がいっていたように、「職業、ジャンルに貴賤なし。されど、それぞれの職業内、ジャンル内においては貴賤あり」というアレですよ。
 むかしの映画なんか見てると、「あれは偉い奴だ」なんてセリフがときどき聴けるんですね。成功者でも金持ちでもない貧乏な若者にむかって「偉い奴だ」と。いまでは、そんな流れ自体をどの分野でもめっきり見かけなくなりました。僕は、21世紀のニッポンが失ってしまったのは、この「偉い」と「偉くない」とを見分けるための、計量の秤なのだと思います。
 自分で感じて、自分で苦労して考えないと、この計量はちょっとできない。
 周りのみんながいってるから、といったような理由だけで、まわりの秤の計量に従い、なんも考えず、それぞれが自分の日々の欲望を満たすためだけに生きていったら---これは寓話めかして書いてるけど、あくまで「現代」のデッサンのつもりです---この社会はいつか地獄そのものになる、いや、もう、そうなっちゃっているかもしれません…。
 「いま」ってそういう人間の内面に目をこらすような態度をダサイと蔑むような時代ですが、はっきりいって僕は、このような時代のありかたって根本的にまちがっている、と思うんですよ。
 たしかに、ブルーズは生々しくって、汗臭くて、みじめです。
 恋の歌だってあるけど、それより陰々滅滅とした失恋ソングのほうがはるかに多い。
 人間、暗いものはなるたけ見たくないって生き物ですから、小金持ちになったなら、そんなみじめで忌わしい過去の呪縛は振りきって、毎夜にぎやかなパーティーづくしでドンチャン生きていきたい気持ちも分からないじゃない。
 でも、悲しみや失恋のみじめさ---孤独や愛されない切なさって---これは、人間の故郷ですからね。
 そうして、ブルーズって音楽は、そのような人間の業のデッサンなんですから。
 土から引きぬかれた野菜が乾いて死ぬように、こうしたブルーズ的土壌から切りはなされた人間も、やがては乾いて、狂って死んでいくんじゃないか、とイーダちゃんは思います。

 あらら。明るいブルーズ讃歌で終らせるつもりが、えらいハードでプロテストな内容になっちゃったぞ…。
 しかしまあ、ブルーズはほんと、いいですよ。
 今回セレクトした Rev. Gary Davis なんて、僕、聴くたびにビビりますもん、マジで。
 毎朝、起きがけに聴く音楽としたらたしかにハードで、あまりに人間臭すぎるきらいもあるけど、これがまったくない世界というのは、僕にはちょっと想像できかねます。
 ブルーズは僕の芯棒であり、僕の世界の芯棒でもあるんです。
 このページにこめたメッセージにしても、種明かしをすれば実は超単純なんですよ---ブルーズを捨ててはなら~ぬ!(「風の谷のナウシカ」の大ババさまの声で)---そんだけ。
 どうやらまた語りすぎてしまったようです---しんしんと冷える睦月の夜を今日はシンプルに締めませう---お休みなさい。<(_ _)>