イーダちゃんの「晴れときどき瞑想」♪

美味しい人生、というのが目標。毎日を豊かにする音楽、温泉、本なぞについて、徒然なるままに語っていきたいですねえ(^^;>

徒然その106☆ミケランジェリのショパン☆

2012-05-22 09:54:00 | ☆ザ・ぐれいとミュージシャン☆
                             


 1920年にイタリアのブレシャに生まれ、1995年にスイスのルガーノに没した、アルトゥーロ・ベネディティ=ミケランジェリは、イタリアという土地が育んだ、あのフェリツッオ・ブゾーニ以来の大ピアニストでした。
 ベネディティ=ミケランジェリというひとをよく知らないひとに---長いので以降はミケランジェリという略称で呼ぶことにします---ここでひとくち解説といきませう。
 ただ、このひとのスーパーぶりを説明しようと思ったら、どのあたりからはじめればいいのか迷ってしまう。
 だって、なんちゅーか、このひと、少女漫画から抜けだしてきたヒーローみたいなおひとなんですよ。
 まず、写真を見れば誰でも分かるような、甘いマスクのイケメンだし…それに---
 その二---出自もこれまた凄いの。このひと、北イタリアの有名な貴族の坊っちゃんなんですよ。(血統的には、ロシアの血が濃ゆいらしい)
 その三---次に、このひと、戦争中、イタリア軍のパイロットだったの。いわゆる戦闘機乗りですね。ナチスに捕まって捕虜をやってたこともあるらしい。
 その四---さらには、このひと、同時にお医者さんでもあって!(ひゅー、スーパーマン!)
 その五---さらにさらに、このひと、趣味がレース。若いころは、自分でレーシングカーを運転して、ヨーロッパの有名なレースに出場したりしてたんです。
 その六---もちろん、このひと、いうまでもなく世界の頂点に立つ、超一流のスター・ピアニストでもありまして、現代のピアノ界の頂点、マルタ・アルゲリッチとマウリツィオ・ポリーニの双方が、なんと、このひとの直接のお弟子さんなのであります。
 いわば、機能的な近代ピアニズムの父とも呼べる人物なのだ、というわけ。
 その七---さらには、このひと、さまざまな伝説に彩られた、たぶん、最期の巨匠だったんじゃないのかな?
 ミケランジェリは、自分の藝術に対して完全主義者だと、つとに有名でした。
 コンサートの直前までしゃにむに本番の練習をつづけ、今日の自分が完璧な「理想の」水準に達していないと感じたら、情け容赦なく当夜のコンサートをキャンセルしちゃう。
 それが、コンサート本番の5分前だろうが、いかなVIPが自分のコンサートを見に訪れていようとお構いなし!
 こんなプロデューサー泣かせは、いまじゃ、ちょっとありえんでせう。
 実際、ミケランジェリも、予定コンサートの突然キャンセルで、何度も裁判沙汰になってます。
 故国イタリアでは、それで財産を差し押さえられたり、はるばるやってきたニッポンでもスポンサーに訴えられ、ピアノを差し押さえられたりしています。
 しかし、彼の偉大なところは、いかに周りの人間が迷惑しようが、そのような俗世の商売上の義理に一切縛られることなく、あくまで自分の藝術に対しての貞節を貫き通した点にあったのではないか、とイーダちゃんは思っています。
 ええ、誰がなんといおうが、当夜の自分の出来がイマイチだと思えば、即、キャンセルしたのです。
 そこに迷いなんか微塵もないの。
 この決断は、誰の顔も立てたがる無難潮流が主流の現代的な見地からいえば、ただの気まぐれか、あるいはトラブルメーカーとしか映らないかもしれませんが、自己の藝術に対しての彼のこの頑なまでのサムライぶりというのは、あたかも19世紀のロマンティシズム精神からの時代を超えたアンチックな贈り物のようで、その妥協のなさ、変人と紙一重の一徹さというのが、中庸の生き方に倦みすぎた僕等の視線を、逆に、どうしようもないくらい魅きつけてしまったという---彼・ミケランジェリというのは、かいつまんでいえば、そのような立ち位置の、非常にミステリアスな巨匠であったのです…。


                  

 自己の藝術に対する異様なまでの「厳しさ」---というのは、彼のピアノ演奏を聴けば、誰にでもすぐ分かる。
 息がつまるほどの緊張とストイシズムが、傍目にも分かるほど音楽に彫刻されてるのですから。
 たとえば、分かりやすいところで、僕がページ冒頭にあげた、彼の71年の grammophon のショパン録音---僕がはじめてこの録音をある知り合いに聴かせたとき、彼は絶句して、いくらかうろたえ気味にこういいました。

----これが、ショパンなんか…? こんなんが…? まいった、ぜんぜんそうは聴こえへん…。

 彼のうろたえぶりは、しかし、案外正確な計量だったと思います。
 実際、ミケランジェリの弾くショパンって、ほとんどショパンに聴こえんのですよ。
 聴いたことのない、ぜんぜん別の音楽みたいに聴こえるの。
 たとえば、仏蘭西のエキセントリック・ピアニスト、サンソン・フランソワの弾くショパンなんかが、僕は、一時代を代表するショパンのイメージをよく表している、と、ときどき思うわけ。
 フランソワの弾くショパンは、憂鬱で、詩人肌のショパンですよね---気まぐれな感興にあわせ、テンポはときに長くなったり、あるいはせっついたようにいきなり駆けだしてみたり---でも、根本のところでは、必ず「歌う」んですよ---うん、とってもよく歌う---いわゆる、プリマ・ドンナとしての大ぶりで華のあるショパンなんです。
 ところが、ミケランジェリのショパンときたら皆目歌わない。
 歌うというより、思索するんです、彼の場合のショパンは。
 彼は、暗い目でじーっと、自分の深いところからショパンのポエジーが湧きだしてくるのを見てる。
 そして、それが湧きだしてきたら、素早い手つきでそれを拾いあげ、そのポエジーの枝葉を瞬時のうちに刈り取り、抒情のしずくだけきゅっと拭きとって、己が鍵盤のうえに整然と並べたててみせる。
 だけど、彼の場合、もっともユニークなのは、そうやって完成された彼流のショパンを聴いてみて、いちばんよく聴こえてくるのは、ショパンそのひとの素朴な詩情というより、彼・ミケランジェリの思索の深さであるという一点なんです。
 そう、ショパンそのひとの歌唱より、この巨匠がショパンという芸術家を見つめていたであろう、長い孤独な時間、その濃密な思索の気配がじかにびんびん聴こえてくるの。
 ある意味、それは、非常に近代的な、批評を宿したアカデミックな精神だ、ということもできるでせう。
 しかし、彼のピアノから素朴なショパンの歌唱を期待していた聴き手は、ここで否応なしに彼の演奏から振りおとされ、己が不満をかこつはめになる。

----なんだよ、これは…? こんな愉悦のない、硬すぎる音楽は、ショパンじゃないよ…。

 かくして、アンチ・ミケランジェリ派の聴き手が、またしてもここに誕生するというわけ。
 実際、アンチ・ミケランジェリ派って、結構多かったんじゃないかな? 有名な批評家でも、自分は断じてこれほど偏ったピアノ藝術を認めることはできない、なんて公言してたひとも、ひとりやふたりじゃなかったような気がする。
 要するに、彼のピアノは、聴くひとを凪ぎさせないんですよ。
 安心なんかさせてくれないの---架空の試験管を両手にもった、このむっつり教官は、気難しいうえに、さらに気難しくて。
 そう、彼のピアノは、聴くひとを超・選ぶのですよ。
 その敷居はめっちゃ高い---僕も、最初に買った彼のショパン・アルバムのよさが分からなくて、翌日にはもう売っちゃってた口でしたねえ---でも、一端このテンションの高いピアノに取りつかれたら、もう逃げ道はありません。

----しかもそのラフマニノフの演奏は、ロシアン・ピアノスクールのピアニストたちの多くが発散する土臭さ暖かさあるいは鈍重さとは一味も二味も違っていた。桁外れな巨きさを感じさせる構成感、透明で感情の抑制のよくきいた完璧な指。それだけならば洗練されて知的でクールな演奏ということになろうが、彼の音質殊に強音での低音の響きには聴いているこちらの心臓がどきんと跳ねあがるような衝撃的なものがあって、それが直接感情をゆさぶった。それは恐ろしいほどこちらのテンションを要求する演奏だった。こんな演奏にひとたびとり憑かれたら、身を誤ってしまうだろう…。
                                                         (中村紘子「ピアニストという蛮族がいる」文春文庫より)

 うーん、うまいなあ…。(^.^;>
 これ、ピアニストの中村紘子さんのエッセイからの引用なんですけど、彼女もそうとうミケさま---これ、ミケランジェリの愛称です---がお好きで、毎日のように入れこんでいた時期がどうもあったようなんですね。(しかし、彼女、もう一方の雄、グルダのことは嫌いなご様子。なんで? あの独特の、やや尊大風のアーテイキュレーションが駄目なのかなあ)
 しかし、ミケランジェリのピアノの低音部の響きに、非常に衝撃的・激情的なものを感じる、という彼女の読みは卓見だと思います。
 うん、ミケランジェリって、たしかにそういうところがあるもの。
 といっても、あのホロヴィッツのように激情にまかせて、ピアノの鍵盤上にたちまちナイアガラ瀑布を創造しちゃう、なんて野蛮なサーカスめいたことはやらない。
 ミケランジェリの音楽は、彼の端正な風貌と同様、一見したところは静かに落ちついています。
 けれど、いくら秘めようとしても、血のなかに脈打つ激情家の面影までは消せやしません。
 僕は、彼が作品を扱うときの、あの超・冷酷なまなざしのうちに、彼本来の激情家の横顔を透かし見ることができる、と思っているんです。
 そう、彼は、俗にいうマッド・サイエンティストの手つきで、彼独自の白衣とピンセットでもって、ショパンやラベル、あるいはガレッピやリストの作品を取り扱うんですよ。
 分析して、思索して、作品の響きを隅から隅まで精密に計量しきって、さらにそれらの結果を何度も追試して、統計をとって……ようやく、それから燕尾服を着てコンサートホールの舞台上に現れてくるわけなんですんね、この特別なマエストロは。
 もう、あんまり多くのことを本番前にやりすぎちゃったんで、いざコンサートの本番のときにはすっかり憔悴しきってしまっていて、一般的なやる気なんてものは、そのときにはほとんど身中に残っていやしないんです。
 だから、観客からの花束を踏み潰したり、舞台上でふいの神経の発作に駆られたりして---新聞ネタになるようなこともときどきやってしまう。
 でも、僕は、それらの彼の奇行の数々は、彼の誠実さの逆の表れだ、といった風に読みたいんですよ。
 ええ---その通り---イーダちゃんは、この風変わりでヘンチクリンなヴィルトゥオーソ、ベネディティ=ミケランジェリのピアノが大好きなんですよ…。


                        ×          ×           ×

 では、そんなミケランジェリの数あるディスクのうち、どれをここで推薦しますかねえ?
 必要不可欠な3枚の1枚目として、このページ冒頭にUPしたショパン・アルバムをまずは挙げておきませうか。
 このディスクには、ミケランジェリが厳選したショパンのマズルカが10曲と、あと、あんま有名じゃないプレリュードが1曲、さらにはスケルツォの2番とバラードの1番とが弾かれています。
 どれも凄い演奏なんだけど、特に僕が押したいのは、ここに収められたマズルカの演奏。
 マズルカってそもそもショパンの故国のポーランドの農民の民謡で、その意味からすると本来大変に土臭い舞曲のはずなんですけど、ミケランジェリが弾くこのマズルカ群には、そんな郷土色の片鱗もない。
 なんというか、これ、ぎりぎりの、崖っぷちのショパンなんですよ。
 ニンゲンの携わるショパン演奏の、ある意味、究極をいくひとつのかたちだと思う。
 超・尖鋭的---人知の極をいくショパン---したがって、通常のショパンらしさみたいな、いわゆる慰安風の、抒情のよろめき的要素は、徹底的に排除されてます。
 
----音楽から抒情性を剥ぎとったあとも、ショパンの音楽は、まだ音楽として成立していられるのだろうか?

 ここでのミケランジェリは、あたかもそんなことを問いかけながら、ピアノと対話する、隠遁中の孤独な錬金術師のようです。
 タロット・カードでいえば9番目の「隠者」あたり?
 しかめっツラのうえにもしかめっツラ---安易な感情流失の身ぶりを徹底的に禁じられたこの斬新なショパンは、最初はえらい窮屈な風に聴こえます。
 うーん、もうちょっとくらいくつろいだり流したりしてもいいのにさ…。
 音楽のどこにも隙がなさすぎる。くつろげないよ、こんなショパンじゃさ…。
 とかなんとか自分内部の俗物軍団がブーブーいったりしてるのも、ま、聴こえてこないわけじゃない。
 このミケランジェリ独特の厳しすぎる世界が最初は耐えがたくて、思わず退廃詩人のフランソワだとか、セピア色にノスタルジックなコルトーのショパンとかに逃避したくなってもきたのですが、しばらく聴いているうち、ありきたりの色彩感覚を徹底的に排除しつくした、彼独自のこの孤高のショパンの引力圏に、だんだんに引きこまれていく自分が強烈に意識されてきたんです。
 ええ、それくらい、このミケランジェリのショパンの放つ磁力には、凄まじいものがある。
 すべてのものを自分内部の「美」のフィルターをくぐらせて透過蒸留させるという彼のやりかたは、自分自身の生理や体調、あるいは運動神経や思想といった要素でさえ、この審美の基準に隷属させるということになるわけで、ある意味、人間の「意志」を極限まで追及した藝術と呼んじゃっていいのかもしれません。
 うん、彼のこのショパンは「魔力」といってもいい、ほとんど黒魔術的な力を獲得している気がします。
 だって、僕、ほとんどコレにとり憑かれちゃいましたから---彼のラフマニノフの4番にかつてとり憑かれたことのある、あの中村紘子女史のように。
 一時期は、ほんと、コレばっかり聴いてましたもん、それこそ、朝から晩まで。
 ミケランジェリのピアノは、徹底的な「人治」の藝術だということができるでせう。
 ただ、この世界的高峰の尾根をずーっと歩いていくと、空に近いあるところで「神」の気配が急速に遠のいていくんですね。
 なんというか、藝術の使徒であるところのこのピアニスト自身が非常に孤独な姿に見えてきて、研ぎ澄まされた彼の音楽の隅々からも、それとおなじざらざらした無神論の気配がすーっとしてくるの。
 敬虔なクリスチャンであったミケランジェリ---彼はときどき周期的に僧院にこもることがありました---の藝術から、なぜに、そのような涜神の香りがしてくるのか?
 それは、分からない…。
 でも、あの吉田秀和氏もたしか似たようなことをどこかでいってられましたね---知的な追及は、必然的に暗さを帯びる、なぜだかは分からないけれどって---。
 ま、それの是非はともかくとして、こいつは傑作ですよ。
 それはたしか---決して、聴きのがしちゃいけません。
 特に、嬰ハ単調の作品45番のプレリュードは、唖然とするほどの出来に仕上がってる…。
 極限までコントロールされた弱音のパレットが、音楽の作りうる世界の限界領域まで、聴き手を導いていってくれる。
 ええ、音楽藝術が辿りついた最高峰のひとつ、彼のベストに数えられる演奏だと思います…。


                      ×          ×            ×


 そのマエストロ・ミケランジェリの代表作を、いい機会ですので、ここでもう2点ばかり紹介させていただきませうか。
 1枚目は、ロンドン・フィルと演った、57年のラベル・コン(下左)---これは、あのソビエトのリヒテルが、皮肉まじりに、でも、確実に激賞していた録音なんです。
 実際、このラベルのピアノ協奏曲は、ミケランジェリの最高傑作かもしれません。
 僕は、いまだ、これ以上のラベコンを聴いたことがないんだもの。
 音色も、構成も、アイーティキュレーションも、ペダルも、魔法のようなタッチも、なにもかもあまりにもレベルが高すぎて、曲のすべてが桃源郷---特に2楽章のアダージョ・アッサイでは、完璧な異世界が実現しちゃってます。
 ミケランジェリ37才のときの全盛の記録ですね、これは。
 後世に残すべき録音ではないでせうか---後年にチャエリビダッケと演った録音もなかなかいいけど、この曲の決定版となるのは、やはりこの57年の録音でせう---むろん、必聴---。


                   

 で、次に推薦したいのは、フォト右上のブラームス・アルバム---。
 これ、81年の録音なんですけど、僕が薦めたく思っているのは、メインのブラームスじゃなくて、このアルバムに同時に収められている、71年のベートーベンの録音のほうなんですよ。
 ええ、ベートーベンのかなり初期の、青春期ばりばり! 4番のグランド・ソナタ。
 僕は、ミケランジュエリっていうのは、稀有のベートーベン弾きだったんじゃないか、と、まあ個人的に思っているんです。
 あの大ホロヴィッツは、残念ながら病的すぎて、純然たるベートーベン弾きとはとても呼べないタイプでしょ?
 リヒテルも、なんというか、微妙にちがう---彼は、ベートーベンをナポレオンみたいな英雄に「創り」あげすぎちゃう。
 しかし、ミケさまのベートーベンは、その点、ちがうんですよ。
 折り目正しく、誠実で潔癖、背筋がぴんとのびて姿勢のいい、瑞々しい瞳をした、青年ベートーベンの爽やかな「ポエジー」が、鍵盤上の空間に、いつのまにかきりりと立ちあがってくるんです。
 ミケランジェリのベートーベンというと、みんな、突き放しすぎた、酷薄無情なベートーベンを予測するかもしれないけど、ぜんぜんそんな風にはならないの。
 むしろ、瑞々しさという点においては、あのグルダと競うほどのレベルのベートーベンが出来上がるっているんですよ---あの仏頂面からどういうわけか…。
 こういう成果を見せられちゃうと、もうこっちは唸るしかない。
 超・厳格な規則のむすぼれのむこうから、なんで、こんな気持ちいい緑のにおいがしてくるのかしら?
 ふしぎですね---でも、聴いているうちに、そんなことはまったく気にならなくなってくる。
 このソナタには、「恋する乙女」なんて俗称もあるんですよね、ええ、そのくらい皆から親しまれている曲なんです、これは。
 正直にいえば、こっそり秘密にしておきたいくらい素敵なヴァージョンなんですけど、それをやっちゃうと、これは人類への罪として死後のカルマに計上されるんじゃないか、と、いささか怖くなりまして…。
 そのようなわけで、皆さん、イーダちゃんは、芳しい春の日向のかおりのする、ミケランジェリのベートーベン4番のこのスペシャルなソナタを、ここに推薦してみようと思いたったのでありました---。(^.^;>
 

 

 
 


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。