Dr. WAKASAGI at HEI-RIVER(閉伊川ワカサギ博士)

森川海をつなぐ学び合いの活動を紹介します

なぜ芭蕉はみちのくを目指したのか

2021-01-17 | コロナ対策

江戸深川にある芭蕉の庵をたずねて 

コロナ禍中,特に東京都民はできるだけ都外に出ないよう奨励されている。私も,今年度はできるだけ地元を離れず粛々と生活をするように心がけた。しかしながら,動物である。動物の宿命は動いてなんぼの世界。植物はその場に腰を下ろして何千年とじっとこらえて恵みをもたらす。ブナやナラの大木が動き回ったら大変である。また,動物が動かなくなったらこれも大変だ。動き回るようにできている。

どうしても動きたい。近所の深川周辺を探索した。深川で生活し10年目を迎えるが意外にも知らないことがたくさんある。一番実感することは,江戸時代文化人が多く住んでいたことだ。日本の国土の地図を作成した伊能忠敬,読本(よみほん)作家の滝沢馬琴,樺太が陸続きでないことを発見した間宮林蔵,吉田松陰をはじめ橋本左内、坂本龍馬など幕末の志士たちに影響を与えた佐久間象山,そして奥の細道を書き表した松尾芭蕉。

山形県出身の作家藤沢周平も深川の魅力について次のように語っている。深川の魅力は,「その土地を縦横に走る掘割である。」とした上で、「町を縫う水路、物をはこび、人をはこぶ舟の行き来は、深川の町々に水辺の町といった一種独特の風情をつけ加えていたに違いない。春の草花が咲き茨の蔓がはう岸辺には、柳なども植えられたかも知れず、河岸の荷揚げ場や、船宿の舟着き場はしじゅうにぎわい、そのそばを時には燕が飛びすぎたろうし、また油堀の一直線の水路は、日暮れには江戸の町の向こうに落ちる日に赤々と染まったかもしれない。」(『深川江戸散歩』所収)

深川は,隅田川の河口にあり,江戸城の東側,今の江東区の門前仲町駅周辺である。それ以前,隅田川は暴れ川で洪水が多く発生していた。徳川家康の命を受け,徳川家四代にわたる大事業「利根川東遷事業」にょって発達した街である。当時,交通手段として船が発達しており町民にとって暮らしやすい場所であり,風情のある場所だったのだろう。そうした自由でのびのびとした空間の中に,自然と文化が創造されたのは想像に難くない。文化は,時自由な空間の中での探究によって生まれる。