goo blog サービス終了のお知らせ 

兵頭新児の女災対策的読書

「女災」とは「女性災害」の略、女性がそのジェンダーを濫用することで男性が被る厄災を指します。

【反フェミはこれ一本でおk!】風流間唯人の女災対策的読書・第9回「女子高校生に「キモイ」と言われ…髪を引っ張り暴行した疑い 35歳の県職員を逮捕」【ゆっくり解説】

2020-07-05 19:57:15 | フェミニズム
【反フェミはこれ一本でおk!】風流間唯人の女災対策的読書・第9回「キモい問題」【ゆっくり解説】





 どうも、風流間唯人の女災対策的読書、第九回です。
 今回採り挙げるのは純然たる時事ネタ。
「女子高校生に「キモイ」と言われ…髪を引っ張り暴行した疑い 35歳の県職員を逮捕」という事件についてです。
 メインとなるのはもっとも、事件そのものよりもそれについての毎度のネットの反応。
 それと、こうした「男子対女子」のバトルの処方箋として児童文学の傑作、『ぼくらはズッコケ探偵団』をご紹介しましょう。

物語の海、揺れる島(再)――NHKのデマ放送の元ネタが、デタラメ極まる件

2020-04-04 21:06:50 | フェミニズム


※この記事は、およそ9分で読めます※

 ――ここをご覧いただいている方の中で、上の書について、ご記憶の方はいらっしゃるでしょうか。
(再)と書いたように、OCNブログ時代の、もう九年前の記事です。
 記事自体は目下もこのgooブログのなかに掲載されているので、今回はこうした前書きと後書きを追記するに留め、本文自体はリンク先でご覧いただこうかと思います。
 これからよいと思ったものは、こうしてサルベージしようかと考えております。

 さて、本エントリが書かれたのは、東日本大震災の直後。この時期、フェミニストが「阪神大震災でもレイプが多発した、今度もそうなる」とウソを元にした風評を垂れ流していたのです。
 それをサルベージしたのは、本書で言及されているデマを近年、NHK『クローズアップ現代』が事実として放映したからです。
「明日へつなげよう 証言記録『埋もれた声 25年の真実〜災害時の性暴力〜』」というもので、ぼくはこれそのものは観ていないのですが、正井礼子師匠の主張をそのまま鵜呑みにして報道してしまったようです。
 ぼくもクロ現のツイッターアカウント、また本放送を肯定的に紹介していた水島宏明師匠のアカウントにリプし、またNHKにもメールを送りましたが、もちろん返答はありませんでした。番組サイトへもコメントしましたが、もちろん掲載はされませんでした。
 もうNHKの放送権を剥奪してもいいくらいの大スキャンダルだと思うのですが、もちろん誰も話題にする者はいません。
 お読みいただければ、フェミニストたちが、NHKがいかに卑劣で不誠実かがおわかりになれましょう。
 問うわけで、以下をご覧いただければ幸いです。

https://blog.goo.ne.jp/hyodoshinji/e/f77a77d0e768c37b34cdfd4c3340381b

 ――以上です。
 NHKがいかに信頼できないデマ放送局か、おわかりになったかと存じます。
 来週は上の記事の続編の再掲を行いたいと思いますので、どうぞよろしく。

【反フェミはこれ一本でおk】風流間唯人の女災対策的読書・第4回「インセル・ミソジニー批判論序説」『青識亜論の「論点整理」』【ゆっくり解説】

2020-02-23 18:45:47 | フェミニズム


風流間唯人の女災対策的読書・第4回「インセル・ミソジニー批判論序説」『青識亜論の「論点整理」』




 みんなの味方、オタクの味方、正義の味方であらせられる青識亜論のブログ記事を紹介します!
 何というか、本当に、今回はほとほと参って、いつも以上にこちらも攻撃的なことを書いてしまっていますが、もう、それもしょうがない、という感じ。
 正直、youtuberとして収入を得る、などは夢のまた夢の状況ですが、登録していただく、高評価ボタンを押していただく、コメントをつけていただくことで再生数が上がるようです。
 また、当動画で『女災』に興味を持っていただけたら、kindleでお買い求めいただければ幸いです。
 どうぞよろしくお願いいたします。

十年目の『ぼくたちの女災社会』

2019-09-29 10:38:25 | フェミニズム


※この記事は、およそ15分で読めます※

 さてみなさん、今月で拙著『ぼくたちの女災社会』出版十周年となります。
 本書を未読の方はkindleで買えますので、ご一読をお勧めします。今ツイッター界隈で囁かれている反フェミニズム論、非モテ論がいかに浅く周回遅れなものかがおわかりいただけるようになりましょう。

●時代がまだ、追いついていない点

 ……というわけで始めましょう。
 正直、よき結果を出せたとは言い難い、出版することでこちらも一生涯を棒に振るようなダメージを受け続けた本書、自分にとってもよい記憶と共にはなく、読み返すこともほとんどありませんでした。今回がほとんど五、六年ぶりの再読になったんじゃないでしょうか。
 で、読み返して感じたのが、ようやっと時代の方が、ちょっとだけぼくの足下くらいには到達しつつあるなという感慨。例えばですが、本書ではセクハラ(そう、既に三十年前の話題です)という舶来の概念が日本にやって来た時の騒動を形容し、

見ていくと浮かび上がってくるのは、「ひょっとして訴えられるのではないか」という差し迫った危機に怯える男性たちに対し、「ワタシの気持ちをわかって!」とお姫様の無理難題のような主張を続ける女性たち、という図式です。
(16p)


 またストーカーについても、ストーカー研究の第一人者、故・岩下久美子さんの著書『人はなぜストーカーになるのか』の、

まず大切なのは被害者の立場に立つことなのである。

その行為を受けている本人が不安や恐怖を感じた時点で、立派なストーカー行為なのである。
(197p)


 といった主張を引用し、

やはりセクハラと同じ、「女性の主観主義」とでも言うべき問題点が浮上してくるのではないでしょうか。
(同上)


 などと書かれています。
 これは目下、白饅頭発で人口に膾炙している「お気持ち案件」と全く同じですね。
 もちろん、フェミニストの手先である白饅頭*1は、それ以上の分析に立ち入ることができず、ぼくには予め、大きく水を開けられてしまう結果となっています。
 近年、気を吐いているすもも師匠も、「女性の方が遥かに恵まれている」というところにまでようやく到達しましたが、そこからの主張は「何か、ジェンダーフリーで男にもリターンをくれ」というもの。ぼくはこれ、「国家」に何やら求めるよりは好ましく思えるのですが、ジェンダーフリーを素朴に信じているというのでは、ちょっと期待できない。何しろ本書を読めば、森岡正博師匠の「草食系男子」論など、ずっと同じ論調がただ無為に繰り返され、女性が変わろうとしなかったことは明白なのですから。
 女性の持つ加害性、ネガティビティを引きずり出そうとするぼくの「女災」論の域は、彼らには期待すべくもない。ただ、近年のリョーマ氏の「負の性欲」論は女性のメンタリティに切り込んでおり、おそらく「女災」とほぼ同じことを言っているように思われこれは非常に評価できるのですが……すみません、放っておくと自画自賛ばかりを繰り返して終わってしまいそうです
 本書と今のご時世と齟齬のある部分、ある意味で「古びてしまった部分」はないかについても、ちょっと考えてみましょう。

*1 表現の自由界隈で気を吐いている青眼鏡、白饅頭共に表現規制に賛同するフェミニストの傀儡であることは、「実践するフェミニズム――【悲報】テラケイがラディカルフェミニストとお友だちだった件」、「実践するフェミニズム――【悲報】テラケイがパターナリズム支持者だった件」、「実践するフェミニズム――【悲報】テラケイが表現規制に賛成だった件」を参照。

●時代が進んでしまった点――その時、女たちは婚活していた

 改めて再読して感じたのは十年前の2009年、当時は「萌えブーム」たけなわであったのと同時に、「女が落ちぶれた」時代であったということです。
 本書については中傷者(批判などという気の利いたことのできる者は、残念ながら現れませんでした)にも『電波男』との類似を指摘されましたが、それは「そういう時代だったから」というしかない。オタクの時代が来たというある種の「オタク勝利」論が本書のバックにあり、さらに言えばその前提としての「女凋落」論がありました。
 いつも言うように、バブル期には「強い女の時代」という根拠ゼロの神話が垂れ流されておりましたが、それも当時はすっかり古くなり、覚えている者もいないような状況だったのです*2
 当時目立っていた女性にまつわる流行語は、「負け犬」女であり「婚活」ブーム。この婚活ブームの立役者である白河桃子師匠が、かつては『結婚したくてもできない男 結婚できてもしない女』、『こんな男じゃ結婚できない! 噂の「おみー君」劇場』といった本も出していたのだから、大変な落ち目っぷりです(「おみー君」とは見合い相手の奇妙な男を指す造語です)。本書でもかつては余裕があったが、今は涙目で婚活、などとギャグにさせていただきました。

 

 ただ、「婚活」という言葉そのものは、(フェミニストが、そのイデオロギーを先行させたものではあれ)当初は「見合いなどの社会のお仕着せの結婚までのルートが失われた以上、積極的自覚的に結婚に向けて活動せねばならない」という正論を前提したものではありました。しかしそれがいつの間にか、何とはなしに(女性たちが無反省に欲望を駄々洩れにさせた結果の必然として)「婚活で玉の輿を狙おう」という方向へと話が変わっていきました。
 そうそう、「草食系男子」なんて言葉もありましたね。これは(フェミニストが、そのイデオロギーを先行させたものではあれ)男性性に欠ける男性を肯定しようという言葉だったはずが、何とはなしに(女性たちが無反省に欲望を駄々洩れにさせた結果の必然として)「今の男はだらしない」に代わって行きました。
 ある意味で、女性が虚栄心を捨て、自分の欲望と謙虚に向きあうチャンスがこの「負け犬」ブームだったはずが、彼女らはまたしてもそのチャンスを棒に振り、見栄を張ってしまったのです。「デレ」ること敵わず、「ツン」を通す愚を犯してしまったわけですね。

*2 「『現代思想 男性学の現在』(その3)」などを読むと、年代によってはその当時の世界観を今もあどけなくキープしていらっしゃるかのようにも見えますが……。

 では、今は?
 女性の状況は好転するどころか悪化するばかりのはずなのですが、一時期の「女性たちが結婚したくてテンパっている」的なムードはあまり感じられなくなりました。そもそも上に書いた「負け犬」的な、女性の今を象徴する流行語なども今一、思い浮かびません。
 本書では「かつて、華々しく輝かしい女性像がメディアに溢れていたが、今はそれがない」ことの象徴として「負け犬」、「婚活」といったワードを挙げたのですが、もはやそんな「落ち目の女性像」すらも、メディアには見られません。
 この状況を読み解くカギは(一つにはマスコミの影響力というものが失われたことでしょうが)、メディアに「ブスコンテンツ」が充実しだしたことではないか……とぼくは考えます。そもそもテレビなどほとんど観ないので漠然としたイメージしかないのですが、ブスがイケメンと絡む類のドラマやCMなどが出て来たのはここ十年くらいではないでしょうか。
 乏しい知識を並べ立てれば、平成『ライダー』でも『シン・ゴジラ』でも美人と言い難い女性が出てきますし、戦隊シリーズでも『トッキュウジャー』には悪の組織にフリフリのフリルを着て日髙のり子の声でしゃべるという、しかしグロテスク極まりない姿をした女モンスターが登場しました。これがイケメン(こちらは人間の役者が顔出して演じていました)の悪の王子と恋愛を演じ、女性ファンがそのモンスターを「可愛い」ともてはやすのが、申し訳ないですが気持ち悪くてなりませんでした。
 他にも、これはぼくのお気に入りキャラですが、『ダンガンロンパ』シリーズには「腐川冬子」というあからさまにブスという設定を与えられたキャラが登場していましたよね*3。
 十年前に流行していた「オタクそのものをネタにしたオタクコンテンツ」もすっかり、女向けのもの特化になってしまいましたが、これもまた「ブスコンテンツ」のバリアントであることはおわかりでしょう。言ってしまえばオタクコンテンツ、本田透的なロジックが、女性がモテないまま自己を肯定するためのコンテンツに、彼女らの方に利するものに化けてしまったわけです。
 もっとも、これは実のところフェミニストが共産主義的体制、言ってみれば国家に男性の役割を果たしてもらう体制を求めていたことと、それほど変わりはありません。マスコミが女性をただひたすらにちやほやする状況は当時からあり、本書ではそれが「ホスト資本主義」と呼ばれておりましたが、ただ、女性がより以上にブスになったのでホストがブスにもおべんちゃらを使うようになったと、ただそれだけのことです。

*3「これからは喪女がモテる? 『ダンガンロンパ』の先進性に学べ!

●時代が進んでしまった点――その時、オタクたちは勝っていた

 一方、当時、勢いがあったのがオタク文化です。
 言うまでもなく「オタク」は「弱者男性」と「≒」で結んでしまってもいい存在です。そんな弱き者が、当時は力を持ち、世間に対するある種のカウンターの声を上げていたわけです。
 当時は「ツンデレ」という(オタク用語の中でもかなり理解しにくい)言葉を世間が曲解し、女性誌で「ツンデレで男子にモテる!」といった勘違いな特集が組まれ、オタクにからかわれるといったことが常態化していました。本書においても、「ムカつくバカ女のバカ本の文章をツンデレ風に言い換えると萌える」などという企画をやっており、隔世の感という感じです。
 むろん、それは文化的にそれなりに力を持ちつつあったというだけのことで、オタク自身がモテていたわけでは、全くありません。しかし、当時のオタク(≒弱者男性)側は「我々は二次元があれば充足していられる!」との主張をしていたのです。繰り返すように『電波男』に端を発する主張ですね。
 この主張の真意がどこにあるかは、本当に非常にデリケートに扱うべきことだと思うのですが、当時のぼくは基本、本田氏に準じた評価をしておりました。

端的に表現するならば、現代の全ナオンは「メイドさん」という職に就き損ねた「メイドカフェ難民」なのです。
(101p)

もうあなたではなく幻想の女しか抱いてはもらえないのです。
(同上)


 いや、「ネットカフェ難民」って言葉も聞かなくなりましたね。また、二段目のフレーズは宮台真司の奥さんである速水由紀子師匠の『もうあなたは幻想の女しか抱けない』という、本のタイトルをもじったもの。こういうの解説しなきゃいけない辺り、やっぱり昔の本だなあと思ってしまいますね。
 とは言え、「メイドカフェ」ブームは外界へと流出したオタク文化の一つといえました。オタクのどれだけが現実のメイドカフェに行ったかは大いに疑問ですが、この頃の女性は「メイドさん」という「女性ジェンダー」の体現者に大いに憧れ、「オタク文化=虚構性」というクッションを安全弁として、それを享受しようとしていたのです。
 それは、例えて言えば「ピンク」を大いに憎む『トクサツガガガ』*4の仲村さんが、「文化祭だから」というエクスキューズを得て、メイドさんのコスプレをしているところを想像していただければわかるのではないでしょうか。
 結局、ある種オタクの在り方を一種のハンスト的に捉え、一方、「女性ジェンダー」を美化して描くことで、言わばオタク文化が女性側の意識の革新を促し得るのではないか……というのがこの時期のぼくの考えであったかと思います
 事実、当時は例えばアイドル声優さんがオタク文化に親和的な発言をするなどの光景があちこちで見られ、「ひょっとしてオタク的価値観が世界を覆うのでは」といった希望的観測も、それなりに故のあったことだったように思えます。

*4『トクサツガガガ』は「女性ジェンダーについての自意識をこじらせてしまった女性が、単にそれへの愚痴を吐く口実として私は特撮オタクであると自称する」という、まさに本田透の死体を貪り食っているかのような、そんな漫画でありました。
フェミナチガガガ
フェミナチガガガ(その2)
フェミナチガガガ(その3)


 しかし、『電波男』は、あっという間に左派につぶされてしまいました。オタクたちが「俺たちは二次元の世界に旅立った」と言っていたのを、左派が「なるほど、JPGだけで満足なんだな、一生独り身で何の不満もないんだな」などと言い出したのですから*5。正直、左派の残忍さ、冷酷さをあまりにも甘く見ていたように思います。
 そんなこともあり、今のぼくはやや論調を変えています。しかしこれは別に主張の大本を変えたわけではない。左派の非人道性に舌を巻き、オタク側も不満がないわけではないのだ、と主張せざる得なくなっただけのことです。別に二次元美少女が現実の女の代替物というわけではないけれども、いまだアニメやゲームの世界にダイブするノウハウがない以上、ぼくたちは別に充足しているわけではない。ぼくたちはアニメやゲームの世界観、愛のある世界、乱暴に言えばジェンダーが温存された世界にこそ心酔しているわけなのだから、仮に現実の女の子が「盛る」ことでアニメキャラのようになったからと言って納得するわけではないし、メイドロボを押しつけられればそれで満足するわけでもありません。
 そもそも「オタク勝利」論がちょうど本書の出版時期と前後して、「日本のアニメや漫画は世界中で落ち目だ」といったカウンターにより否定されるようになっていきました。根拠が酷薄な上、言っているのが『朝日新聞』とかその辺ばかりで、果たしてどれだけ正しかったのかは、今となっては疑問ですが。

*5 これはずっとぼくが繰り返ししている(そして、誰からも同意されない)して気なのですが、「敵の死体を兵器利用するなんて、ゾンビマスターみたいで格好いいね!」など。

 もちろん、一方ではこの十年、オタクの反フェミ意識はもう、かつてからは想像もできないほどに高まりました。ここ十年、ツイッター上でのフェミニストの大暴れが、フェミニズムの危険性を可視化させたのです。これそのものは、危機意識を持つことができるようになったという意味では、よかったことかもしれません。
 しかし、これこそが大変皮肉なことに、表現の自由クラスタが活発化し、彼らに「真のフェミ」を持ち上げさせる結果ともなりました。彼らの言動を追っていけば、この十年はフェミニストに文句をつけられつつ、何とか水際でフェミニズムの実態を外部の者に知られまいとそのネガティビティをツイフェミに押しつけ、しかしとうとう上野千鶴子師匠までが悪質な人物であることまでがバレてしまった……という、見るも無残な振る舞いの連続でした。
 しかし、どうにも、彼らにはそんな自分たちの醜態に対する自覚があるようには思えない。
 どうにも、彼らのフェミニストへの忠誠は、白饅頭や青眼鏡を見ればわかる通り、いささかなりとも揺らいだようには思えない。
 これらの流れは、大きな目で見れば結局「ツイフェミをスケープゴートにして、フェミニズムがより頑強になる過程」だったのかな……との失意を感じずにはおれないのです。
 それはまた、オタク界の左派勢力がいよいよ強くなってきたことを示す十年でもありました。

●五年後、『女災』が再評価されそうな点

 いや、まあ、最後に希望めいたことを書いておかないとまとめようがない気がして、無理矢理にこういうタイトルをでっち上げましたが……。
 2009年の時点では女性専用車両に対する男性の反発が頂点に達しており、また『女災』がメインテーマにしていた「性犯罪冤罪」に対する危機意識も高まっておりました。本書もそれなりに売れる目があったことは、間違いがなかったはずです。
 実は以前、とある編集者に指摘されたのですが、この2009年は政権交代の年でした。もちろん、本書(が売れなかったこと)と直接の関係はありませんが、何か、世間の潮目が変わった、その変わり目に本書が出てしまった、数か月早ければまた評価が違ったのではないか、ということは言えます。
 例えば、本田氏の主張は(当時はフェミニストなどもお追従を言っておりましたが)、恐らくこの頃から「何か、悪しき思想」ということにされてしまった。「ミソジニー」という思考停止ワード、本書的に言えば「攻撃呪文」が立ち現れ、とにもかくにも女性様に疑問を持つことは禁止、という風潮が強まったのです。
 そんなこんなで結局、上に書いたような「左派のマッチポンプバトル」によって、フェミニズムへの疑問は圧殺される時代と相成ったわけです。
 が、近年、またちょっとだけ希望が出て来たのではということを、ぼくは感じ始めています。
 というのは実のところゼロ年代に一度盛り上がっていた「非モテ」論の、再びの復権が見られるからです。これはもちろん、インセルだのミグタウだの海外発信の情報がきっかけなのですが、いずれにせよ日本においてもいよいよこれが話題になっていくことは間違いがないでしょう。
 前回記事でもわかるように、もちろんメディア側のこの問題に対する意識は薄っぺらとしか言いようがないものですが、実はちょっと、ネット上の「オタ論壇」とでも称するべきものに変化がみられるのでは、といった気が、ぼくにはしているのです。
 そして、このきっかけは意外なことですが白饅頭であろうと、ぼくは思います。
 彼の商業出版では、男性の惨状が極めて強調して書かれていました。これは「表現の自由クラスタ」的な、(形ばかりとは言え)アンチフェミ的な言説を封じられたがため、相対的にそのような内容が浮かび上がってきた、ということではなかったでしょうか。
 これにすもも師匠、rei氏辺りの言説が続いたことが、ネット上での「非モテ」論を活発化させた、という印象をぼくは持ちます。
 この「非モテ」論について、ぼくが「自分をオタクだと思い込んでいる一般リベ」と揶揄するような、オタク界のインテリ層はほぼ、切り込むだけの力を持っていません。
 例えばですが、町山智浩師匠がそうであるように、彼らは専ら「非モテ」を惨殺することしかできない*6
 となるともう、オタクの多くは彼らについていけなくなるのではないでしょうか。
 今まで八百長を続けていたオタク左派ですが、それが「非モテ」論という「また、別な角度」から見られることで、いよいよ八百長がバレる時が来るのです。

*6 この辺は次回にご説明しますので、もう少々お待ちください。

実践するフェミニズム――【悲報】テラケイがパターナリズム支持者だった件

2018-12-07 06:56:40 | フェミニズム


 テラケイ師匠の擁護をなさっていたみなさん、渡辺真由子師匠叩きは順調でしょうか。てか、前者、甲斐あってもう鎮火したっぽいスね。
 というわけでテラケイ師匠ご推薦のフェミ本読書会、今回は中盤を採り挙げます。
 前回をご覧になっていない方は、そちらから読んでいただくことを、強く推奨します。
 また、前回も書いたようにnoteにも同じ記事をうpしております。もし当記事がお気に召しましたら、そちらに「スキ」をつけていただけると幸いです。
 さて、本書の中盤ではレイプなど「性暴力」が話題にされているのですが、まあ、基本は前回の「セクハラ」といっしょ。なので今回は軽く済ませることにします。
 さて、この問題を語るにおいて、牟田師匠はノン・ストレンジャー・レイプという言葉を乱発します(86p-)。要は(一般的にレイプは見知らぬ者からなされるとの神話があるが、そうではなく)知りあいからなされるレイプのことであり、知人間でのそうした揉めごとはなかなか性犯罪であると認識されない、だからこそそちらの方がより深刻である、ということですね。もちろんそれ自体は正論ですが、それはボーダーライン上に置かれてきたものを性犯罪化せよとの告発でもあります(師匠が「女性がその時はそう思わなくとも、後からレイプと思ったら、レイプだ」などと真顔で書いている人物であることを、みなさんゆめゆめお忘れなきよう*1)。
 何しろ師匠はこんなことまで言い出すのですから。

 セクハラ事件では、(中略)セクハラを訴えられた加害者による被害者への逆告訴がしばしばなされている。
(中略)
 しかし「逆告訴」の手口は、勇気を奮い起こして告発した被害者に対するきわめて悪質な恫喝だ。
(106p)


 師匠は逆告訴を、事実の歪曲や保身が目的であると全否定します。どうも男性は告訴してはならないようです。女性からのスラップ訴訟はおkなんでしょうが。
 何しろ師匠は性犯罪において、女性側を責める「風潮」に激おこです。といっても、それは変質者に追われた女性に母親が「だから早く帰ってくればいいのよ」と言ったり、性犯罪を見聞して「だから女の一人暮らしは危ないのよね」と言ったりすることも含まれます。

気持ちの良い夜風に吹かれ夜のとばりをひとり楽しむこと、一人旅の冒険のよろこびとそれがもたらす人間としての成長、そうした可能性を女性たちは想像もしないうちに奪われている。性暴力犯罪は、そして性暴力にあった被害者を責める意識は、そのよろこびとチャンスも奪っていることに私たちは気づかねばならない。
(119p)

「強姦神話」を支えてきた、男性中心主義的な貞操観念には、「女は嘘をつく」、セックスに関して女の話は信用できない……、そんな思いが詰まっている。合意でセックスしたのに、あとで心変わりする女。自分も楽しんだくせに罪悪感にかられて「無理矢理された」と申し開きする女。そんな女の嘘で男が陥れられることがあってはならない……、こんな、心の奥深く潜む猜疑が、「抵抗するに困難なほどの暴行や脅迫」があったことが証明されなくては強姦罪にはあたらない、とする法解釈を支えてきたのはまちがいない。
(120p)


 そんなこと言ったって、裁判って「疑う場」なんだから、猜疑的になるのは当たり前、そうじゃなきゃ困るでしょう。
 ちなみに本書、白饅頭師匠が大絶賛してます
 そもそも「女は嘘をつく」ものなのかは知りませんが(「女のレイプの訴えの六割は嘘」「DV冤罪には大変に虚偽が多い」「バーで女性の酒に睡眠薬を入れてレイプするドリンクスパイキングにあったとの女性の被害の訴えはほぼ、虚偽である」といったデータ*2はひとまず、出さないであげるとしても)まず師匠自身が上のような「申し開き」を続けてきた女であるのは間違いのないところです。
 上に続き、師匠は「女はNOと口にしないことを規範とされてきた(大意)」と称します。もっとも、それでは「YESの時もNOと言う」ことを強いられているも同然で、「男たちに深層心理学を学ぶことでも要求しなくてはならないのか。(121p)」とも言っており、ここはなかなかいいと思いました。問題は結局師匠自身が、本書の中で既に、それに近しい、いやそれ以上の要求を男性に幾度も幾度もしていることなのですが……。
 いえ、それでは足りないでしょう。師匠はそもそも「女にNOという言葉はない(大意)」とまで言い出すのですから。痴漢などの現場において女性が「やめてください」と訴えても、そんな言葉は「お願い」であり「NO」ではないのだそうな。これは、「女性はNOと言っているわけではない」との意味ではなく、「女言葉」には最初から「NO」を意味する言葉が用意されていない、と師匠は言っているのです。で、もし女が「やめろ!」と(男のように)怒鳴ったら、被害者として案じられるより「非常識な女」だと思われるのだそうですよ。
 また、師匠は女言葉というのは近代社会において生まれてきたものだと言っており、あれ、ということは中世以前だとレイプはなかったんですかね。
 そしてまたこれ以降、師匠の言は男女ジェンダーの持つ厄介さとでも称するべきものに話題を移します。女性がセクハラと感じても、それを行っていた男性が、女性側の気持ちにはなかなか思い至れない。それをマッキノン師匠の主張を引用し、強調します。
 さて、では、男側に悪気がないのであれば、どのようにすればいいのか。

それを(引用者註・相手の女性が嫌がっているのだと)わからないのが「鈍感だ」と責めても問題解決には近づかないだろう。
(124p)


 まさにその通り!!
 まさに至言。ぼくはフェミニストの著作で、こうした相手側の立場に立った発言を、初めて目にしました。では、どうすればいいのか。
「ジェンダー規範を認識しよう(大意)」。
 あ、もういいです。
 結局「ジェンダー規範を認識しよう」って「女を慮れ」ってことですよね。そして師匠の言う慮り方は、繰り返しますが「女性がその時はそう思わなくとも、後から思った以上、レイプであった」とか、そういうレベルのことです。
 ちなみに本書、御田寺圭師匠が大絶賛してます。

*1「部長、その恋愛はセクハラです!(接触編)」、「部長、その恋愛はセクハラです!(発動編)
*2 レイプについては「男性権力の神話 《男性差別》の可視化と撤廃のための学問」を、DVについては米国のキャンベル国務次官補がDVから逃れてアメリカから帰国する日本人の元妻らがいるが、「実際に暴力があった事例はほとんど見つからない。相当な誤認だ」と語ったということから、ドリンクスパイキングについては『女性専用車両の社会学』を参照。


 そしてそれ以降、牟田師匠は一度した上の主張に続いて、しかし性暴力を憎むあまり女性を性から遠ざけると、家父長制に近づく云々みたいな物言いを始めます。
 また、フェミニズムの言説自体がある種、女性の受動性を前提としているのが問題だとも言い出します。つまり、女性をもっと能動的な存在として捉えよ、と。しかし、女性が(ことに恋愛の場において)受動的であることが程度普遍的である以上、そりゃあ前提にする以外仕方ないだろ、と思います。大体、「女はノーと言えないんだから慮れ」と言っていたその舌でこういうことを言うんだから、もうメチャクチャとしかいいようがありません。
 ちょっと煩雑になりすぎるので、前回は採り挙げなかったのですが、実は前半の「セクハラ」について書かれたページでも、近い主張がなされています。
 そこではアメリカのフェミニストの警句が紹介されていました。セクハラ対策は、場合によっては女性の自由な性を規制する、女性へ貞淑を求める方向、即ちパターナリズムにも進み得るぞと(68p-)。
 同時に、セクハラという言葉が軽く扱われることで、重篤な性犯罪までが軽い印象を持たれるといった危惧も、再三書かれていました(7pなど)。新語には常について回るジレンマではあるのですが、あらゆる性にまつわるものごとを女性差別として断罪してきたお前が言うな、という感じです。
 つまり、上のパターナリズム批判はそれと同じ、「放火魔が自宅にまで延焼させてしまいブチ切れている」だけのことだったのです。こういうのはマッチポンプ、否、自分で火は点けたけれども他人に消させるのですから、差し詰め「マッチ&駄々」でしょうか。
 リベラル君が、こうした箇所をこそ「抜きどころ」にしていることは想像に難くないのですが、どうして彼らはこうした「マッチ&駄々」の「駄々」の面だけを恣意的にすくい取り、そこに「勇ましい女傑」というトンデモない妄想で脚色を施してまで、彼女らに「欲情」を続けるのでしょう*3
 結局、フェミニズムとは「女性よ、強くあれ」との口先だけのマニュフェストであり、そうした「戦闘美少女-(美少)」に欲情する者を、日本語では「リベラル」と呼ぶのですね。


*3 以前、ピル神がぼくの批判に対して「発言の一つだけを採り挙げて批判するとは何ごとだ」とわけのわからない言い訳をしていたことがあるのですが、どうもこの人たちは「自分たちの主張は自分たちにとって好ましいところだけを恣意的にすくい上げ、自分たちの都合のいいように解釈されて当然だ」と素で思っているのではないでしょうか。


 さて、本書では章と章の間にいくつか、軽めのコラムが挿入されているのですが、この中盤では「Suck My Dick――『GIジェーン』の楽しみ方」といったものが挟まれています。面白すぎるので、これの紹介を今回の締めにしましょう。
 てか、『GIジェーン』、ぼくは未見なのですが、まあ『GIジョー』のパロディなのでしょう。言ってみればフェミが「教育目的」で作った『桃太郎』ならぬ『桃子ちゃん』の童話のようなもので、タイトルだけでおなかいっぱいです。
 ここでは女性軍人が男性軍人から苛め抜かれる様が描かれるそうです。それこそ久米泰介師匠の本で扱われそうなミサンドリームービーですね。
 日本の似非アンチフェミは「欧米のフェミは軍隊に入りたがって、エラい」などと言います。牟田師匠もここでは戦争という「男のせいで起こる悪(に、フェミニストには見える)」に女性が加担するのはどうかなどと迷う素振りは見せるものの、

 しかし、しかし、である。この映画の中でデミ・ムーアは、かなりかっこよくもあるのだ。(中略)あまたある戦争映画やアクション映画でヒーローたちがかっこいいと思ったことはあまりないが、GIジェーンはかっこいいのだ。
(109p)


 などと大はしゃぎ。GIジェーンはいびり……というより、あからさまな暴力の限りを受けるのですが、そこで彼女は上官に「Suck My Dick!(おれのチンポコをしゃぶりやがれ!)」と絶叫するのです。
 この場面に師匠は大喜び。男性性を模するのは愚かしくもあると留保しつつも、「それでもやっぱりかっこいいんだなあ。スカッとするんだなあ!(110p)」と小躍りを始めます。
『テルマ&ルイーズ』*4にも言及し、「でも、そんな暴力願望があってどこが悪いの、って気もする。(111p)」などと居直り、(あくまで想像の中のことだ、と言い訳しておいて、その後で)「ステレオタイプのジェンダー幻想に足を取られず、創造的に平和を守るにはやっぱり女も力をつけなくっちゃ。(111p)」との能天気な言葉で、コラムを終えます。
 どうなってるんでしょう。
 ぼくは上の映画、未見(だし、心の底から見たくない)なので、よくわからないのですが、師匠のコラムを読む限りは「Suck My Dick!」がクライマックスのよう。これ、上官にさらなる暴行を加えられるだけなんじゃないでしょうかね、この後、どうなって話が終わるんでしょう? 例えばこの後、ジェーンが上官をブッ殺すのであれば、むしろそこに言及するでしょうし、これ以上の描写があるとも思えません。
 結局、この種のしょせんフィクションで、女性が格好よく振る舞うだけで拍手喝采できる感受性が、ぼくにはさっぱりわかりません。プリキュアと現実の女性は全然違うのに、彼女らはそれがわかっていないのではないでしょうか。
 てか、ジェーンはペニスを持っていない以上、フェラをさせることは原理的に不可能。それでも立場が逆転した時にそう言ってみせるのであれば、見せ場としてそれなりに映えるシーンになるでしょうが、ピンチの時にただ言ってみせただけって、何じゃそりゃとしか思えません(或いは映画ではそう言われただけで、軍人たちが思わぬ女からの逆襲に恐れおののき、彼女にひれ伏すのかなあ?)。
 時々書くことですが、バブル期はトレンディードラマの中で女性から男性へと「セックスしよう」と誘ったというたった一つだけのケースを根拠に、犬も杓子も「女性が性に積極的になっているのだ」と絶叫を続けておりました。
 そしてまた、これは腐女子が「心にチンコがある」「○○君、犯したい!!」と「詐称」することをも連想させます。基本、BLとは受けを、つまり女性役を美少年に演じさせることで自らの感情移入を容易にする、「シスヘテロ女性」のためのポルノです。しかし、彼女らは「自分のプライドを守るため」、私は責めに感情移入しているのだ、と強弁する傾向にあります。
 いや、まあ、腐女子の言は罪のないものですが、それにもぼくはいささかばかりの苛立ちを覚える。それはまさに「男性ジェンダー」を安全地帯から形ばかり模して、そして本当に、ただそれだけで自分が偉業でも成し遂げたかのような顔をしていることに対してのもの、ということが言えましょう。
 ここでの師匠の言も、それとまるきり同じであり、そしてまたそれを「フェミニズム」というイデオロギーで装甲している時点で、腐女子の何千、何万倍も非道いわけです。
 ちなみに本書、「お気持ち案件」の批判者が大絶賛してます
 そう、リベラル君の牟田師匠への「欲情」ぶりは、師匠の『GIジェーン』への「欲情」ぶりと、「完全に一致」していると、これを読むとよくわかりますね。
 いつも書くことですが、ネット上の左派寄りのオタク、漫画やアニメの表現規制について活動している、ぼくが「表現の自由クラスタ」と呼ぶような人々は近年、フェミニストによるエロの規制に非常な勢いで噛みつく傾向にあります。しかし彼らはフェミニズムについての根本的な知識が欠落しており、また同じリベラル仲間ということでフェミニストのことを心の底では深く深く、深く深く深く深く深く深く深く深く愛しています。近年のいささか度を越したフェミ攻撃は、むしろストーカー的逆切れであると言えます。
 そして、彼らの持つフェミニスト像はこの、『GIジェーン』的なものなのです。
 ぼくはリベラル君たちからぞっとするような「ミソジニー」を感じることがあります。彼らのフェミニストへの「欲情」は丁度それの逆で、仮初めの「男性ジェンダーを有した女性」への「欲情」であると思えるのです。フェミニストがミソジニーの権化であり、フェミニズムが「男性ジェンダーを有した女性であるワタシ」という嘘まみれのマニフェストであることはもう、指摘するまでもないでしょう。
 結局テラケイ師匠の牟田師匠への妄讃は本書の中から、そうした『GIジェーン』的な箇所を恣意的に抜き出した、本書を脳内でニコニコ動画に上げられている「セーラー戦士エロシーン集」的なものへと「編集」した上でのものだった、ということがいえようかと思います。
 結局、フェミニズムは(もう何十回となく書いていることでしょうが)男性ジェンダーのネガティビティは全てオミットし、そのメリットだけは無批判、無反省、無制限にモノにしたいという運動でした。
 リベラルとは、暴力性、攻撃性、憎悪、弱者への侮蔑といった自らの中に渦巻いている人間の闇の部分の発露を、フェミニストという「怪獣兵器」に代行させ、その怪獣兵器が暴れ回る様を眺めつつ、マスターベーションをする者のことでした。
 テラケイ師匠が、青識師匠が、借金玉が、本書にいたく「欲情」していたのは、そここそが理由でした。
 彼ら彼女らを総称する、ステキな呼び名をここでご提案したいと思います。
「パターナリスト」です。

*4 何かもう、ご説明するのも大儀なのですが、要はアメリカンニューシネマを女性が「パロって」みせた映画、と言えばおわかりになるでしょうか。ごく普通の女性二人組がドライブに出かけるのですが、何か、モノの弾みで銀行強盗とか殺人(男)をしでかし、男へのフェミニズム的怨嗟を吐きつつ、自滅していくロードムービーで、当時フェミニストは本作に大はしゃぎして上映会など開いていたそうです。バッカじゃねーの。