兵頭新児の女災対策的読書

「女災」とは「女性災害」の略、女性がそのジェンダーを濫用することで男性が被る厄災を指します。

ゴーカイジャー ゴセイジャー スーパー戦隊199ヒーロー大決戦

2011-07-28 03:51:17 | アニメ・コミック・ゲーム

「あぁ!! ぼくたちが軽はずみに『たまにはこういうのに一度任せてみるか』と思ったばかりに!! まさかこの連中がトップでいる時に、いくら何でもこんな未曾有の大災害が起ころうとは!!」
「こいつ一度握った力を手放すのが惜しくて、人の言葉には耳も傾けようとしないぞ!!」
「ダメだこいつら、災害に対応する気なんかゼロだ!! 仲間内で力を巡って同士討ちばっかりやってるぞ!!」

「ひょっとしてあのならず者たちに、俺らの側のトップがすっげー貢いでんじゃね!?」


 ――以上、『ゴーカイジャー ゴセイジャー スーパー戦隊199ヒーロー大決戦』の感想をお届けしました。
 本作はシリーズ三十五周年を記念して制作されたスーパー戦隊大集合映画。タイトルにあるように第一作『ゴレンジャー』を筆頭にヒーローが199人も集まってバトルを繰り広げるのだから、たまりません。そのボリュームたるやウルトラ、ライダー、プリキュアなど足下にも及ばないすさまじさです。
 ただ……現在放映中の『ゴーカイジャー』は、三十五周年作品としてはいささか問題を含んだ作品であるように思います。
 ご存じない方のために最低限の説明をしますと、『ゴーカイジャー』は「レンジャーキー」というアイテムを持っていて、歴代戦隊に自由に変身し、その武器や技を使って戦うことができる、というチート能力の主です。しかしそんな戦隊の時に限って、よりにもよって、どうしたことか、『ゴーカイジャー』は正義の味方とは言いにくい連中なのです。
 そもそも彼らは宇宙海賊としてお宝を探していて、その途中でたまたま地球に立ち寄っただけの豪快な奴等。しかしそんな戦隊の時に限って、よりにもよって、どうしたことか、敵は全宇宙規模の未曾有の勢力を持つ悪の帝国ザンギャック。第一話では今までの全戦隊が力をあわせて立ち向かうものの、力尽きて変身能力を失ってしまいます。
 その後を託されたのがゴーカイジャーなのですが、彼らがザンギャックと戦うのはあくまで成り行き、地球を守ろうという動機は一切持っていません。
 そもそも「レンジャーキー」とは歴代戦隊の変身能力をアイテム化したもので、劇場版では旧戦隊が変身能力を取り戻そうと、キーを返せと迫ってきます。当たり前の話です。が、海賊である彼らはレンジャーキーを元の持ち主に返そうなどとは、夢にも思いません!*


*一応、ゴーカイジャーにレンジャーキーを渡したのは第三者である、というエクスキューズはあるのですが。冒頭に書いた「ならず者たちに、俺らの側のトップが貢いだ」というのは、全ての戦隊の頂点に立つ戦士・アカレッドがゴーカイジャーにレンジャーキーを託したことを指します(このエピソード自体は劇場版ではなく、テレビ版のものですが……)



 もちろん通常の作劇であれば、ゴーカイジャーも歴代戦隊とかかわるうち正義の心を知り、地球を守ろうとするようになる……というのがパターンだと思うのですが、本作においてそうした王道の展開は
一切ありません。即ち、正義のために戦っていた歴代戦隊が退場し、チンピラ集団が新戦隊として出現した瞬間、未曾有の強大な悪の軍団、ザンギャックが現れた……というのが今の地球の状況なのです。
 確かに、劇場版では旧戦隊とゴーカイジャーの対立、和解も描写はされます。ゴーカイジャーが旧戦隊に「お前たちの持つ使命感に興味を覚えた」と言うシーン、ゴーカイジャーが罪のない人々を身を盾にかばうのを見て、旧戦隊が彼らを認めるシーンも一応、描かれてはいます。
 しかし、だったらゴーカイジャーは最初から「口が悪いだけで本当は正義の心を持った豪快な奴等」なのかと言えば、それは疑問です。地球人が困っていても本編一話では平然と見捨てていたのだから、こんなのは「場当たり的に、ストーリーの流れとして必要だから、何か唐突に正義感を示して見せた」だけの行為です。それを見ている側が一生懸命、「ゴーカイジャーはツンデレなんだ」と各自、自主的に脳内補完して自分を納得させている、という図式です。
 そして現れた黒十字王(ゴレンジャーに倒された黒十字軍の怨念の具象化したラスボス怪人)はレンジャーキーを奪い、召喚した歴代戦隊を手先として操ります。
 いつの間にやら「与党」となったチンピラたちに、「野党」として立ち向かう歴代戦隊たち!
 そしてロクに抵抗も示せないうちに、ゴーカイジャーに次々と倒されていく歴代戦隊!!
 一体、何のいじめだ!?
 そして奇跡が起きて(?)ようやっと真の歴代戦隊が復活!!
 いよいよ歴代戦隊が正義を示す時が来たか!!
 ……が、歴代戦隊は崖に並んでゴーカイジャーに必殺武器を与えただけで、その役目を終える!!
 後のロボ戦では歴代ロボが活躍したが、声はなし。また、操られていた戦隊たちも声を発していなかったように思います。つまり、あれだけの豪華歴代キャストを呼びつけておいて、戦闘シーンにアフレコ参加したのはほとんど物語の冒頭で描かれたレジェンド大戦の時だけと言うことになります!!*
 何がしたかったんだ、一体!?


*ただし誠直也、宮内洋、大葉健二、春田純一、和田圭市……と歴代戦隊メンバー諸氏の素顔の出演はあります。


 本作のテーマは「戦わないこと」です。
 ゴーカイジャーが地球を守ることを使命としない宇宙のアウトローだと言うならそれはそれで、歴代戦隊の正義と真っ向からぶつかればよいのです。
 しかし彼らはそれをしません。歴代戦隊と和解するためであれば、場当たり的に人助けすらもしてみせるのです。
 アオレンジャー、そして『ジャッカー電撃隊』の行動隊長ビッグワンを演じた日本一のヒーロー役者、宮内洋さんは「ヒーロー作品は教育番組である」とおっしゃっています。
 では、一体『ゴーカイジャー』の「教え」とは何なのでしょうか?
 それは俺様大事で仲間内のノリだけを重んじつつも、他者と、他の世代とぶつかっては決してならない、というものなのです。
 それこそが、ぼくたちの住むこの日本における、絶対の正義なのです。
 考えない。
 逆らわない。
 空気を読んで成り行きに任せて行動する。
 自宅に引き籠もって「俺以外はみんなバカ」と言いつつも、実際に他者と出会った時は、決して対決しない。
 そう、今ここに戦隊は真の、そして
究極の教育番組、究極の正義を描いた文芸作品となったのであります。


 ――戦隊が正義の戦いを続けている最中、冷戦は終わりを迎え、現実の世界ではわかりやすい悪者が姿を消しました。
 バラエティ番組では「マジに正義の怒りを燃やす」スーパーヒーローたちの姿はこの世で一番滑稽なものとして紹介され、「会場にお集まりのフレッシュギャル」の皆さんたちの嘲笑を一身に受けました。二十年ほど前に出されたマニア向けの書籍でインタビューを受けた戦隊の監督さんが、そうした風潮に憤っていたことが思い起こされます。
 九十年代、ゼロ年代を経て、特撮やアニメはちょっと前には考えられないほどの市民権を得ました。それ自体は、大変に素晴らしいことです。
 しかしその頃には特撮もアニメも「正義」を描くメディアではなくなっていました。
 シンジ君は最後まで、「ぼくは何もしたくない」とエヴァに乗ることを拒否し続けました。
 そしてついに、正義を完全否定するという使命を持った、豪快な奴等が姿を現したのです。


 ……すみません、勢いに任せて書き飛ばしてしまいました。
 実は今回は、前回に引き続き、『Rewrite』について書くつもりで、『ゴーカイジャー』はその前振りくらいのつもりでした。
『Rewrite』はひょっとしたら『ゴーカイジャー』を超えるのではないか。
 ギャルゲーはヒーロー物を超えて「正義」になるのではないか。
 そして「正義」を語るギャルゲーだけが、「女災」に対抗しうる最終兵器になり得るのではないか。
 そんなことを書くつもりでいたのです。
 しかし考えると、それ以前の前提として、こうしたここ三十年ばかりの「世界の、正義の状況」について語っておくことは必須でした。
 というわけで続きは次回、今回はこんなところで……。


ブログランキング【くつろぐ】 

にほんブログ村 本ブログへ 

人気ブログランキングへ


Rewrite

2011-07-21 00:39:50 | アニメ・コミック・ゲーム

 

 諸事情ありまして、お知らせするのがすっかり遅くなってしまいましたが、『サイゾー』7月号において拙著『ぼくたちの女災社会』が紹介されました。
「タブーな本」特集の一環と言うことで、三浦俊彦教授の挙げる「エログロ変態本」の一冊としての紹介なのですが、教授ご自身、拙著を大変面白く読んで下さったとのことで、嬉しく思っております。
 まだ書店に行けば見ることができると思いますので、よろしければご一読ください。

 


 さて、今回ご紹介するのはPCゲーム、『Rewrite』です。
 Keyの新作です。
 ご存じの方はご存じでしょうが、Keyとは極めて作家性の強いゲームメーカーで、オタク界ではカリスマ的な、独特なポジションにあります。
 詳しく説明しようとすると、時間がいくらあっても足りません。ここでは必要な情報だけを掻い摘んでご紹介することにします。
 そのため、
 ・ネタバレを平気で行う。
 ・あくまで当ブログの趣旨(女災対策)に準じた、偏った作品の「読み」をする。
 ・作品の全体ではなく一部を、恣意的に採り上げる。
 ・膨大なテキスト量の作品であり、全クリしたぼく自身、その全てを記憶しているわけではないので、重大な見落としのある可能性が大である
 といったことにどうしてもなってしまっています。あらかじめ、そこをご了承ください。

 


 さて。
 極めてスケールの大きな本作、どうご説明していいか迷うのですが、本作の一番のキモ、「ガイア」「ガーディアン」という二大勢力の設定をまず、ご紹介しましょう。
 本作の中では、この両者は有史以前からずっと全世界規模で対立してきた超国家的な勢力であると説明されます。
 ガイアは急進的なナチュラリストの組織です。科学的環境保護団体を装っているが、一皮?けば自然を神と崇める宗教的な組織で、地球を守るためには人類は滅ぶべきと考えている、極めて反社会的なカルト集団。
 それに対してガーディアンはガイアを滅ぼすための組織です。
 作中では「鍵」と呼ばれる少女が登場します。彼女は人類を査定し、希望が持てないと判断すれば絶滅させるという使命を帯びた、言わば地球の化身です。ガイアはこの「鍵」を手に入れることで人類を滅ぼそうと、ガーディアンは「鍵」を抹殺することで人類を救おうとしており、両者の争奪戦が全編に渡って描かれるのです。
 このゲームの舞台は風祭市という緑化都市であり、共通ルート(導入部)では緑が豊かでエコロジーに気を遣った、素晴らしい理想的な都市として描かれています。が、実は風祭市はガイアのお膝元であり、個別ルート(起承転結の「転結」部分)に入ると、そこでガイア対ガーディアンの戦いが開始されるわけです。
 さて、ここで注目すべきはガイアのスタンスです。
「人類は悪しき存在だから滅ぼす」。
 これはここ二十年、アニメや特撮で繰り返し繰り返し描かれてきた「悪」の主張です。
 極言してしまえばこの二十年、アニメのヒーローたちはただひたすらそうした主張をする「上位存在」、ぶっちゃけ「神」のような存在と戦い、討ち滅ぼしてきました。
 それ対し、ガイアはあくまで人間の立ち上げた結社であるというのが独特です。ここにはフィクションが冷戦終了後に行ってきた、「上位存在は、我々より強い/エラい存在であり、それ故にワルモノなのだ」という幼稚な図式を打ち崩すだけの批評性があるように思います。
 劇中では、理想に燃えているように見えるガイアのメンバーが、実は現実の社会に適応できず、現世に深いルサンチマンを持ち、ガイアにしか居場所のないはぐれ者であることが丹念に描かれます。ガイアのトップは「聖女」と呼ばれる老婆・加島桜。彼女は人類どころか「生命」そのものを悪だとして、この地球のみならず全時空の生命全てを滅ぼすことに執念を燃やす狂気の存在です。
 見た目は「地球に優しい」、善をなすことを目的とした組織。
 しかしその動機として隠れているのはどす黒いルサンチマンであり、「地球」という絶対正義に自らを依拠し、他の者は滅びてしまえという独善と反社会性を秘めている。
 言わばガイアは女性原理的東洋文明的ニート的組織であると言えます。
(それに比べ、ガーディアンはある種、自然に立ち向かう男性原理的西洋文明的DQN的組織です)

 何だか、ガイアとそっくりなイデオロギーを持つ人々を、ぼくたちは既に見知っている気がしますw
 いえ、むろん「ガイアはフェミニストのパロディである」とするのは、いくら何でもフライングが過ぎるでしょう。
 とは言え、この組織には共産主義崩れがカルト的UFO団体を立ち上げたり、ニューエイジ運動にハマったりしていたという70年代頃に顕著だった現象が、恐らくイメージされているはずです。
 ゲームの美少女キャラのひとり、千里朱音はこの加島桜の後継として選ばれた存在で、普段(共通ルート)は学園の一室に引き籠もりのように籠城し、優雅な暮らしを満喫しています。それが、ガイアという巨大引き籠もり組織の性質を象徴しています。
 そんな彼女は(ある種、オタクがそうであるように)全てを達観したかのような醒めた視線で、主人公や他の美少女キャラクターたちのドタバタを静観している立場にあります。が、そんな彼女が「個別ルート」に入るや実は加島桜に取り立てられたガイアの次期聖女候補であることが語られ、ついにはルサンチマンを吐露し、人類を絶滅寸前にまで追い込む大災害を引き起こしてしまうわけです。

 


 ……ただ、(これはこのゲームが根本的にはらんだ問題点なのですが)「個別ルート」に入るとあまりにも壮大な世界観そのものを語ることに注力されるようになり、視点が朱音個人よりもマクロな世界そのものへと移ってしまい、朱音個人の抱えたルサンチマンがいかなるものかは、今一つ見えにくい感があり、完成度には疑問が残ります。
 これは「朱音ルート」そのものよりも「ちはやルート」で人類絶滅計画が頓挫するエピソードの方が、むしろ完成度が高いように思われます*1。ここでは計画に失敗した朱音が、ちはやに「本当は仲間とわいわい楽しくやりたかったんでしょう?」と説かれるシーンが描かれ、どちらかと言えばこちらの方がきれいにまとまっているように思います。
 事実、「ちはやルート」では何とかガイアの計画を阻止することに成功するのですが、他のルートでは大災害が巻き起こり、人類は絶滅に近い打撃を受けてしまいます(本作は震災の影響で発売が遅れたのですが……恐らく、表現にもかなりの変更が余儀なくされていることと思います)。
 この「人類の絶滅が不可避」という世界観は全編を貫くものであり、ここに、作り手たちのペシミスティックな視点を感じずにはおれません。が、「朱音ルート」終盤で描かれる「絶滅後の世界」がどうにも楽しげなものであることが、ぼくには少し引っかかりました。
 全地球規模の災害に見舞われた主人公・瑚太朗たちは、亜空間へと逃げ込みます。ガイアは魔術的なテクノロジーによって「人工来世」という人工的な亜空間をあらかじめ作っており、そこをシェルターとして延命する心づもりでいたのです。瑚太朗は生き残った人々をそこへと誘導し、新しい生活を始めるわけです。
 そこで人々(と言っても風祭市の僅かな生き残り)は文明の恩恵の少ない、前近代的な生活を営み始めます。その生活は妙に理想的で好ましいものとして描写されており、作り手はこの破滅後の世界をこそ密かに理想だと考えているのでは、とすら思えるのです。
 一体、どうしたことでしょうか。
 この崩壊後の世界の市長は町内会のご隠居みたいな、口癖が「江戸風でいい」という人物であると描写されます。随分とまた薄っぺらな江戸礼賛、前近代礼賛だと思います。
 この世界で瑚太朗は、「俺はかつてコミュニケーションに勢いや過剰なギャグが必要だと思っていたが、それは必要なかったんだ」などと言って、現世では喧嘩ばかりしていたライバルキャラとも妙に仲良くつきあっています(このライバルキャラ、吉野と二人して「ロック」的生き方をも否定してしまう下りまであります。これでは何だか、オタク文化やkeyそのものまでも否定し兼ねない気がします)。
 そもそもこのルートでは他の美少女キャラクターたちは一切登場せずで、破滅後の世界で生きているのかどうかすら描かれません*2。
 

 作り手たちの真意を汲み取ることは困難ですが、恐らく彼らの心中には、人類の絶滅を是とする厭世観も、あったことと思います。
「こんなイヤな世の中、滅びてしまえ」という気持ちは、誰の心の中にだってあることでしょう。
 あくまで想像ですが、作り手たちは「朱音ルート」において、そうした自分たちの中のペシミズムを自覚した上で、敢えて解放したのだと思います。
 しかし同時に、それが欺瞞に満ちた考えであることをも、彼らは知っていました。
 事実、「鍵」の少女自身、最終的には「仮に母たる地球を捨てて宇宙へ移民してでも、人類に生き残って欲しい」との本音を漏らしています。
 自分の中にある弱さを理解した上で、作り手はそれを敢えて「快楽に満ちたバッドエンド」として、描いて見せたのではないでしょうか。いろんな「ルート」を提示した上で、「ちはやルート」こそが真のルートになることを、心の中のどこかで期待しつつ。
 劇中ではガーディアンも必ずしも「正義の味方」ではなく裏面を持つ組織として描かれてはいます。しかしそれでも、だからと言ってガイアに与することはできません。
 別に男性が全ての点で正しいわけではないけれど、しかしフェミニズムに与すれば、ぼくたちに未来がないというのと、それは全く同じに。
 ぼくたちの持つ厭世観、男性的攻撃性を忌避する傾向。
 それらをkeyのスタッフたちは充分に共有した上で、「しかしそればかりではいけない」と、本作において語ってみたのでは、ないでしょうか。

 


*1ギャルゲーに詳しくない方には説明しにくいのですが、ギャルゲーでは「個別ルート」に入るや、主人公は美少女キャラクターの中の特定の誰かと恋仲になるのです。
 そんなわけで、「個別ルート」は美少女キャラの数だけあり、「朱音ルート」も「ちはやルート」もそれぞれが「個別ルート」のひとつになるわけです。

「朱音ルート」では主人公は朱音と恋仲になり、彼女の人類絶滅に荷担してしまうのですが、「ちはやルート」ではガーディアンのメンバーである少女ちはやと恋仲になり、逆に朱音の計画を阻止する、という展開になるわけです。
*2「静流ルート」では世界が滅ぶ瞬間、キャラクターたちが粒子になって消えていく描写が入ります。そうした描写のなかった「朱音ルート」は考えれば考えるほど、欺瞞に満ちています。


ブログランキング【くつろぐ】 

にほんブログ村 本ブログへ 

人気ブログランキングへ


友達がいないということ

2011-07-07 02:33:34 | ホモソーシャル

 

 小谷野敦博士というのは、ぼくにとって不思議な立ち位置の人です。
もてない男』の著者であり、言ってみれば『電波男』のご先祖様のような人。フェミニズムにも辛辣な批評を加えており、その意味でぼくも基本的には「俺らの味方!」という親しみを感じています。
 が、正直著書についてはちょっと……という印象を持つことがあるのです。上の『もてない男』からして(すみません、発刊当時に読んだ記憶で書きますが)要は「前近代では恋愛なんてそんな普遍的なモンじゃなかったんだから、恋愛至上主義なんて間違ってんじゃん」みたいな、何かそんな内容でした。
 でも、そんなこと言われたところで、モテたいと思っていた男がはたと膝を打って「そうか! ボクは近代的恋愛至上主義に洗脳されていて、モテたいと思うこと自体が間違いだったんだ!!」などと納得するとはとても思えません。
 翻って『電波男』の本田透さんは「恋愛資本主義」という、言わば女性優位の恋愛を批判、真の恋愛は二次元にこそあるのだと主張したという点で、小谷野博士とは立場が決定的に異なります。
 逆に小谷野博士の方も『帰ってきたもてない男』では本田さんを批判して「恋愛の呪縛に囚われたままだ」などとおっしゃっていました。事実、博士は『もてない男』の後に出された『恋愛の超克』においては、「恋愛結婚はもう古い、これからは友愛結婚だ(大意)」などと主張していたのです。しかし、その肝心の「友愛結婚」とは具体的にどういうものなのか、ということについてはちゃんとした説明があったとは言い難かったように記憶しています。
 こういう「○○は近代になって体制に作られた歴史の浅いものなのだから、否定してしまってよい」という論法に、ぼくは随分前からうさんくさいものを感じていました。そんなの、ジジイが「ワシの若い頃にはネットなんてものはなかった」と言っているのと同じ。「でも今は必需品じゃん」と思うだけのことです(本当にネットの害悪を説きたいのであれば、昔のことなど引きあいに出さずに批判すればいいのです)。
 てか、そうした論法に対しては小谷野博士ご自身も石原千秋さんが「つくられた系」と揶揄していることを引用して、批判なさっていたはずなのですが。

 

 さて、いささか前置きが長すぎました。
 今回は小谷野博士の新刊、『友達がいないということ』について、です。
 一冊の新書の、一部だけを採り上げてのレビューになってしまい恐縮なのですが、第三章「友達関係はホモソーシャル」を読んで、ぼくはどうにも奇妙な印象を持ちました。
 上に「フェミニズムを批判」と書いたくらいですから、小谷野博士がホモソーシャルに言及したら、いかにフェミニストたちをやっつけてくれるか、どうしたって期待してしまいます。ところが本書で書かれた「ホモソーシャル論」はと言えば、

 

 セジウィックは、フェミニズムの立場から、ホモセクシャル(男女問わず)はいいもの、ホモソーシャルは悪いもの、として記述しようとしている。ところが、『男同士の絆』は、ディケンズなど英文学の論文集なのだが、次第に、ホモソーシャルとホモセクシャルというのは、そんなにはっきり区別できるものなのか、曖昧になっていき、何より、ホモセクシャルの男には、女性嫌悪者が多いという事実が明らかになってきて、結局、ホモソーシャルとホモセクシャルというのは、そうはっきり区別できるものではない、ということになった。

 

 

 と言ったものです。
 何だか、後半の文章がものすごくヘンです。
「ホモソーシャルとホモセクシャルというのは、そんなにはっきり区別できるものなのか/ではない」と一文の中で繰り返されているのは、きっと博士の中
ものすごく大事なことなのでついつい二度言っちゃったのでしょうが、「ホモに女嫌いが多いと言うこと」と、「ホモソーシャルとホモセクシャルというのは、そんなにはっきり区別できるものではない」の間には何ら論理的なつながりはありません。
(もし、小谷野博士がフェミニストの「ヘテロ男性はみな女嫌いである」との説を心の底から受け容れて、支持しているのであればつながるのですが、或いはそうなのでしょうか?)
 この後も文章は「フェミニストが同性愛者解放運動と手を組もうとしたが、ホモは歴史的に認められてきたことが多く、レズは貶められてきたことが多いこと、またホモには女嫌いが多いことがわかって、その企ては頓挫した(大意)」などと続きます……ってまた大事なことを二度言ってるやん!

 

 ともあれ、博士の指摘にはフェミニストの教条主義への、極めて重要な批判が込められています。
 フェミニストはホモと連帯しようと、とにもかくにもホモを素晴らしい高貴なものであるとして称揚する傾向にあります。
 ここでフェミニストたちが「公共の図書館にBL本を置かないのはホモへの差別である」と言い募った、例の事件を思い出してみるべきかも知れません。彼女らにとってホモは政治闘争のための「兵器」なのです。
 しかしそれだけではありません。彼女らのホモのいやらしい持ち上げぶりの裏には、ホモへの「上から目線」が、当然あります。
 まだBLというものが市民権を得ていなかった頃の少女漫画には、ホモネタを振りつつ女性キャラに「オエッ」とえずかせるといったシーンが登場したりしたものです。

 また、少女漫画には(むろん、「美しいオカマ」も登場しますが、その一方で)往々にして「醜いオカマ」が登場します。川原泉先生(ぼくも大好きな漫画家さんなのですが)の『メイプル戦記』は、「女ばかりの野球チーム」のお話なのですが、キャッチャーだけはオカマが担当しています。劇中に彼が「醜いオカマ」である己を嘆くシーンがあるのですが、描き手には悪意がなくとも、ここには「健常者が障害者を"哀れむ"」的な無邪気な傲慢さがつきまとうように思うわけです。
 ホモやオカマはフェミニストにとっての「人権兵器」であると同時に、ブスにとっての「自分よりも更にブスな、しかし荷物持ちやボディーガードとして重宝する、有能な子分」でもあるのですね。
 いささか余談めきますが、更に言えばフェミニストたちは「女同士の絆」を「シスターフッド」「レズビアン連続体」などといって神聖視します。何で男同士の友情は「ホモソーシャル」という悪しきものであるのに女同士の友情は大絶賛なのかさっぱりわかりませんが、女性性なるものは全て善だというのが彼女たちの大前提なのですから、そこは考えても仕方のないことなのでしょう。レズビアン連続体とは「性的な関係だけでなく、母娘関係、女同士の友情、さらに政治的連帯まで含む、広い意味での女同士の親密な関係を指す」ものだそうで(『ラディカルに語れば…―上野千鶴子対談集』)、普通に友情と呼べばいいものをどうしてわざわざレズ呼ばわりなのか、全く理解ができません。

 

 小谷野博士はそれに対して「ホモは正義、ヘテロ男性は悪だなんてあんまりにも単純な善悪二元論じゃないか」とツッコミを加えているわけですね。ホモを「我々女性と同様、性的弱者だからイイモノだ」とするフェミニストたちの短絡を批判している点については、大いに頷けます。
 更に博士の言は「ホモには女嫌いが多いのに、ヘテロ男性だけを女嫌い扱いかよ、勝手じゃねえか」と続いているわけです。
 ただ、傍から見ているとホモに女嫌いが多いことなんて、最初っからわかりきったことじゃん、と思ってしまいます。本当に博士の書いたような経緯があったのでしょうか。想像するに、フェミニスト村、ジェンダー村で象徴的な事件があったのでしょうが……。
(博士はこの後、上野千鶴子キョージュの件について言及していますが、キョージュはフェミニズムの中でも例外的なホモ嫌いですし)

 

 しかし、そうしたフェミニストたちの「ホモの政治利用」に釘を刺しておきながら、小谷野博士は何故か、一体どうしたことかこれ以降、古典に描かれた男性同士の友情をピックアップしては「この関係は同性愛的」と称するという、それこそセジウィックの『男同士の絆』と同じようなことを始めてしまうのです。
 例えば「世界の文学は同性愛から始まった」という節タイトルがあるので読んでみると、文学に描かれる友情を「同性愛的だ」とか言っているだけだったりします。そんなの、「兵頭新児はキムタクである」という節タイトルで引っ張っておいて、本文を読んでみると「兵頭新児もキムタクも目玉が二つあるところが共通点だ」と書いてあった、みたいなモンです。
 いえ、「俺はキムタクだ」と主張することは兵頭新児にとっては益があり、それ自体は(正しくなくとも)犯行の動機は明白です。しかし「友情」と「ホモ」とを同列にして一体、博士に何の益があるのか、それがさっぱりわからないのです。そうまでして古典に描かれた男性同士の友情を「ホモである」と強弁して、はて、それで博士が何をしたいのか、困ったことにぼくにはそれが少しも見えてこないのです。

 そもそも小谷野博士のご専門は日本古典であり、無知なぼくにとってはそこが取っつきにくいところなのですが、もはやこうなると博士のやっていることはフェミニストたち、そして腐女子たちと同じです。
 いや。
 しつこく「わからないわからない」と繰り返してきましたが、ちょっと白々しかったかも知れませんね。
 オタクにとって、ある意味で小谷野博士の振る舞いは身につまされる部分もあるのではないでしょうか。
 オタク男子というのはオタク女子とおしゃべりしていて、ついついリップサービスで彼女らのBL談義に乗ってしまったりします。何とか共通の話題を見つけようと、ついつい「原作版『仮面ライダー』の本郷猛と一文字隼人って妖しいよね」とか「満賀道雄と才野茂って妖しいよね」とか、言ってしまったりします。むろん、そのカップリングでは腐女子も喜びませんが。
 そしてまた言ってしまった後、「あぁ、俺は女に媚びようと何てことを」と内心忸怩たる思いに囚われたりします。
 そう考えると博士のBLトークの本質も見えてきそうです。
 つまりそれと全く同様な、リップサービス、ということです。
 言い過ぎでしょうか?
 しかし同性愛を友情の上位概念であると位置づけているのは、何も腐女子ばかりではありません。上にも書いた通り、昨今のインテリ層はフェミニズムを真に受けて、「同性愛は友情の上位概念である」との意味不明な妄想を抱いているのです。
 当たり前ですが、友情と同性愛は全く別物です。ただ、「同性愛」で頭がいっぱいのフェミニストや腐女子が「友情」を目撃すると、それを「同性愛」と誤認してしまうという、ただそれだけのことです。
 男の友情というものに性的、ホモ的要素が潜在していること自体は、多くの男性も殊更異論のないところだと思います。しかし「友情」と「同性愛」の違いである相手の肉体への欲望の有無というものが極めて大きなものであるため、ぼくたち男性にとって両者の差異はあまりにも自明です。
 しかし自分自身の感受性や思考よりもご本に書いてある「正しいこと」を優先させるインテリたちには、それがわかりません。

 彼らは往々にして「ゲイを差別するどころか、ゲイに寄り添い、その感性を理解できる最先端な自分」を押し売りしようと、得意げにホモトークをしたがるのです。それはまるで、腐女子に媚びようとしているオタク男子の如くに。
 もちろん、小谷野博士は上に「俺らの味方」と書いた通り、決してフェミニズムに親和的な考え方を持っている方ではありません。ですから、「ホモを持ち上げることで利を得よう」などという政治的な計算を彼がしているというのは、大変に考えにくいことです。
 しかし、それでも、ついつい、(ぼくが想像するに半ば無意識に)博士もインテリ層にとってお約束となっている言説のテンプレートに、陥ってしまった。
 それは丁度、博士が「つくられた系」を批判しつつ、『もてない男』ではそれと同じ論調に陥ってしまったのと、同様に。
 それが真相ではないでしょうか。
 学問の本質は思考停止です。
「ホモソーシャル」などという(無意味な)「学術用語」を一つでっち上げただけで、何となく何かがわかった気になって、そこで考えることを止めてしまう。
 理系の学問の場合は定理だ法則だといったところで幾度も追試がなされたりするのですが、文系の学問の場合、言い切っちゃったらそれまでの世界だったりします。
 そうした学問の罠に小谷野博士もまた、引っかかってしまった、ということではないでしょうか。


ブログランキング【くつろぐ】 

にほんブログ村 本ブログへ 

人気ブログランキングへ