兵頭新児の女災対策的読書

「女災」とは「女性災害」の略、女性がそのジェンダーを濫用することで男性が被る厄災を指します。

風流間唯人の女災対策的読書・第53回『あの子もトランスジェンダーになった SNSで伝染する性転換ブームの悲劇』(後編)

2024-01-07 19:50:13 | セクシャルマイノリティ

 第五十三回目です!

風流間唯人の女災対策的読書・第53回『あの子もトランスジェンダーになった SNSで伝染する性転換ブームの悲劇』(後編)

 KADOKAWAより出版予定の本、『あの子もトランスジェンダーになった』が出版中止となりました。これは欧米のトランス運動が過激化し、思春期の少女を仲間にしようと強引な誘導をしていることを告発した書なのですが、それがトランス側の人間にとっては殊の外、都合が悪かったようです。
 危険性を増すばかりのLGBT運動についての後編、是非ご覧ください。

 それと、もう一つ。
 昨年、惜しくも逝去されました評論家の小浜逸郎氏。
 彼は独自の視点で「男性論(男女関係論)」を語ることも多く、『中年男性論』、『中年男に恋はできるか』、『男という不安』といった好著もあるのですが、中でも初期の著作『男はどこにいるのか』(1990)はそこに真っ正面から取り組んだ、名著です。
 バブル期のフェミニズムの台頭、それと機を同じくして叫ばれていた男性の危機といった状況に果敢に取り組んだ著で、アンチフェミ、弱者男性論者はまず、抑えておくべき基本文献と言えましょう。
 ともあれそんな小浜氏の著作について、来週語りあうイベントが開かれます。
 ご興味のある方はどうぞ、おいでください!

1.タイトル:小浜逸郎「男性論」の世界
​2.レポーター:由紀草一
​3.日時:令和6年1月14日(日) 午後2時~6時
4.場所:ルノアール四谷店3階会議室A
東京都新宿区四谷1-3-22 ℡.03-3351-1052
四ツ谷駅四谷口より新道通りに入ってすぐ左手
5. 会費:1,600円(当日徴収)
詳しくは以下へ!

目次


風流間唯人の女災対策的読書・第52回『あの子もトランスジェンダーになった SNSで伝染する性転換ブームの悲劇』

2023-12-24 20:43:59 | セクシャルマイノリティ

 

 

 第五十二回目です!
風流間唯人の女災対策的読書・第52回『あの子もトランスジェンダーになった SNSで伝染する性転換ブームの悲劇』

 KADOKAWAより出版予定の本、『あの子もトランスジェンダーになった』が出版中止となりました。これは欧米のトランス運動が過激化し、思春期の少女を仲間にしようと強引な誘導をしていることを告発した書なのですが、それがトランス側の人間にとっては殊の外、都合が悪かったようです。
 
危険性を増すばかりのLGBT運動について、是非ご覧ください。


風流間唯人の女災対策的読書・第45回「オールジェンダートイレから見える狭い風景」

2023-05-27 19:10:05 | セクシャルマイノリティ

 

 第四十五回目です。

風流間唯人の女災対策的読書・第45回「オールジェンダートイレから見える狭い風景」

 LGBT法、オールジェンダートイレが話題になっています。
 ことに後者はこうも早く時代が動いていることに、行政がLGBTの走狗に成り下がったことに、驚きを禁じ得ません。
 しかしあまりにも急進的な動きの反動でしょうか、フェミニストが保守派に擦り寄る光景も見られるようになり……。
 こんな時こそ、冷静にフェミニズム、LGBT思想の悪辣さを知ることから始めましょう。


伊藤文学の問題発言についてⅡ

2022-09-11 19:04:17 | セクシャルマイノリティ

『Daily WiLL Online』様で「リケジョと呼ばないで」の動画について、記事が掲載されています。


 高校生が作った動画とされますが、そのバックの市民団体が、何だかヤバい感じで……どうぞご愛顧のほどお願いいたします!

 ――さて、ややこしいですが今回、新規記事です。
 同性愛者と幼い少年とのセックスを何十年にも渡って称揚し続けた児童への性的虐待の旗手、伊藤文学。そしてその彼をひたすら崇拝し続けるフェミニストや左派。
 ここしばらく、何度かこの問題を蒸し返しておりましたが、今回はそんな伊藤の問題発言から十年ばかり前の記事では採り零したものを、そしてまた、伊藤の後を継ぐ同人誌版『薔薇族』の情報も少し、お伝えしましょう。


薔薇を散らせはしまい―『薔薇族』と共に歩んだ22年批評社、1993。

「僕の子供がホモだとしても」

 今回ご紹介する『薔薇を散らせはしまい』は特に章立てがないコラム集なので、上のようにそれぞれのタイトルを「」に入れて見出しにすることにします。

いつか少年愛の人が訪ねてきて、自分が写した何十人もの少年の写真のコレクションを見せてくれたことがありました。どれもこれも、はだかのものなのです。こういう写真をとれるということは、相手に警戒心をおこさせない人だということです。はっきりと自分のことはいわないから、その人がどんな職業をもった人か分かりませんが、おそらく、学校の先生だと思うのです。
 自分の息子と同じくらいの子供たちが、はだかで、いろんなポーズをとっている写真を見て、ショックを受けないといえばうそになるでしょう。自分の息子がそんな写真をとられていたら、親である僕はどうするだろうか。
 まあ、そのときのことは、そのときに考えなければ、なんともいえないけれど、自分の息子がホモであったら、これは僕自身「薔薇族」を刊行し、たくさんの読者にも会って、ある程度は理解しているのだから知らなけりゃびっくりもするでしょうが、今の僕なら、べつにおどろきもしないと思うのです。そんなことでおどろくぐらいなら、自信をもって『薔薇族』を刊行し続けてはいけないでしょうから。
(58p)


 伊藤には二人の息子がおり、当時、上の子は六年生だったといいます。
 いやらしいのは「変質者が何十人もの子供を瞞し、ヌード写真を撮っている」という事案を「僕の子供がホモだとしても」との意味のない仮定にすり替えている点。
「子供がホモでも差別しまちぇ~ん」という格好のいい宣言によって「薄汚い性犯罪者」の行状をロンダリングしようとしたのでしょうが、読む側にしてみれば「子供が変質者の毒牙にかかっても構いません」と言っているかのような印象を受けます。

 僕の子供がホモだって、僕はちっともおどろきゃしません。人間が、人間を愛するんだから、男が、男を好きになったって、いいじゃないか。
(59p)


 あぁ、そうですか。

「なんとも、いまわしい本が出たものだ!」

 ジャーニー喜多川の性的虐待に関しても、ずっと擁護の立場です。
 何十年にも渡って児童への性的虐待を称揚し続けた伊藤は左派から一流文化人として崇拝され続けていますが、何十年にも渡ってそれを実際に行動に移していた者は、この国ではメディアの王として君臨し続けていました。
 日本はまさに誰もペドに逆らうことのできぬペド帝国なんですね。
 さて、上の「いまわしい本」というのは北公次『光GENJIへ』のこと。
 北は元・フォーリーブス(といっても若い方はご存じないでしょうが、大昔のジャニーズアイドルです)の一員であり、ジャーニーから受けた性的暴行についての暴露本を出し、世間から黙殺されたといったことがあったのですが、唯一、伊藤はそれに過剰反応したのです。

この本を読んで、一番嫌だったことは、同性愛が汚らしいこと、罪悪であるということを前提にして書かれているということだ。
(346p)


 何と、北はホモ差別者でけしからんと居直るのです!!
 力関係で勝てない相手に(まだ二十歳前であろう時に)性行為を強要されたことを、やっとのことで告白した者に対し、「差別だ」。
 ホモはそんなことすらもが許される方のセクシュアリティ、なのでしょうか。
 いえ、続けて伊藤は枕営業を悪いことでも何でもないと大肯定します。

 たとえ事実だとしても、世間には男と女の関係ではよくある話ではないか。新人の女性タレントを売り出すためにはプロダクションの社長、それを売り出すためにマスコミの人に抱かせるというような話はよく聞く話だ。
 それが、なぜ男と男だといけないのか? それが不思議ではある。
(347p)


 男でも女でも枕の強要はOK。男女平等ですね。
 フェミニストの皆様方が伊藤の味方となり、批判する者を恫喝するのも当然です。
 もっとも、伊藤はいついかなる場合も、強固な信念を持ってブレなく「児童への性的虐待は正義」と主張していたというわけではありません。

「少年愛の読者諸君、今こそブレーキを!」

 1989年、連続幼女誘拐殺人事件が起こっていた時期には、「子供に手を出してはならぬ」という投書を紹介しています。

『薔薇族』の編集長として、切にみなさんにお願いします。つらいかもしれないけれど、直接行動に走ることだけはやめてください。
(363p)


「少年愛って悲しいな!」

 また少年に対する事件が起きていた時期にも読者からの投書を織り交ぜ、近い主張がなされています。

“伊藤さん、少年愛の人に、とにかく自重するように呼びかけてください。よろしくお願いします”

 子供とは精神的に付き合うのが精いっぱい。からだを求めたいと思ったことは何度もあるけど、悪いことだと、いつも想像だけで、がまんしてしまう。

 少年愛の人って、本当につらいだろうと、いつも思う。精神的なもので満足感を得て、性欲は他に発散する何かを持って生きていくしかないだろう。
(404-405p)


 ちなみに上の二段が投書であり、最後の段が伊藤の意見なのですが、なるほど、ここだけ読めば彼は少年愛者に常識を説くまともな人間のように思えます。
 ところがこれらも『薔薇を散らせはしまい』、つまり先の「子供のヌード写真を収集している変質者」の記事と同じ本に載っているものなのです。
 つまり事件が起こるなどして不利な時には場当たり的に常識論を説き、しかし喉元過ぎると本音を吐露し出す、というのが彼のやり方なのです。
 伊藤を称揚するフェミニストたちは、ぼくの指摘する問題発言を頑として認めませんでしたが、上のような常識を説いている箇所については、一体全体どういうわけか実に目ざとく見つけてきて、こちらに突きつけてきました。
 しかし今回の記事、そして前回記事をお読みいただいた方はもう、確信を持つことができたことでしょう。
 伊藤文学は長きの間、児童への性的虐待を称揚し続けてきた悪魔、なのです。

 ――ところで伊藤、いまだ存命なのですが2011年に『薔薇族』編集長を「勇退」しています。
 現在でも『薔薇族』はSage/セージという若手の変臭者、否、編集者を迎え、同人誌として継続中。この人物は「この当時のホモは(今の少年愛者のように)強烈に差別されていた(2022年夏号、6p)」などと関係ない場面でも少年愛者を引きあいに出して、同性愛者以上の苦難を受けるマイノリティであるかのように語っており、「『薔薇族』の魂」を受け継いでいるとしか言いようのない御仁。
 ここ数年のものを見ても、読者投稿という形ですが畑一麦という少年愛者の書いた文章を幾度も掲載しています。
 子細に見ていくほどのものではありませんが、この畑の記事について、軽くポイントだけご説明しましょう。

「少年愛者が語る希望の未来」(2021年春号)

この感覚は、ひと昔前の同性愛者と通じるものかもしれない。
(11p)

 世界的な評判からすると、現代日本の特徴的な文化として、アニメとマンガの興隆は見逃せないだろう。作品の質量の豊かさは、必然的に「ショタコン」向けの作品の豊饒さとなっている。
(11p)


 編集長同様(そして白饅頭など左派寄りの御仁同様)「同性愛者も以前まで差別されていたのだ」といったロジックで少年愛者を正当化してみせ、オタク的「ショタ」表現を「少年愛」と同じものだと勘違いする(ことで仲間がいるのだと妄想する)のが彼の流儀のようです。

「「少年愛者」自身が読む、『「小児性愛」という病――それは、愛ではない』」(2020年秋号)

 ぼくも以前レビューした斉藤章佳師匠の著作の書評です。

春一番 日本一の認知の歪み祭り! 「小児性愛」という病――それは愛ではない
春一番 日本一の認知の歪み祭り! 「小児性愛」という病――それは愛ではない(その2)

 本書についてはぼくも酷評しましたが、それは斉藤師匠が重篤なフェミ信者だからであり、「ペドファイルは子供とのセックスを悪いことではないのだと盲信する傾向にある」という指摘自体は正しいものとして評価していたかと思います。
 さて、では畑の評がどんなものか。
「ヘテロセクシャル男性が女性をレイプしてもそれは個人の犯罪であり、ヘテロセクシャル男性全体の問題とはされまい。ところが著者は小児性愛者を性犯罪者と混同している(大意)」。
 これまた青識亜論など左派寄りの論者のお決まりの文句であり、もちろん、これそのものは正しい。
 しかしフェミ信者である斉藤師匠は本書において「ヘテロセクシャル男性全体を性犯罪者と混同している」のだから、批判としてピントがずれているのです。あまりちゃんと読まず、決まり文句を口にしているだけなんじゃないでしょうか。
 細かいことだと思われるかも知れませんが、斉藤は「ペドと普通のヘテロセクシャル」をいっしょくたにして断罪していますが、畑や青識もまた「ペドと普通のヘテロセクシャル」をいっしょくたにして正当化しようとしている。「合意のセックス、否、ポルノの収集という行為すらもがペドの場合、加害となる」という明白な事実を、ここで彼らは不誠実にもスルーしている。
 そしてそんな両者共が政治的スタンスは左派であるのは重要で(畑のスタンスは知りませんが、青識はそうでしょう)、要するにこんなの、子供の立場など歯牙にもかけず左翼同士が「俺の好きにさせろ」と山小屋でどつきあっているだけの話なのです。
 一応、公平を期するために書いておけば、彼も「少年愛者が語る希望の未来」において「少年への性的虐待は論外」と言ってはいます。

本来言う必要もないことだが、あらためて言葉にすると、少年への性的虐待などは私にとって論外の行為であり、少年を傷つけたいなどとは露ほども思わない。魅力を感じるものを、貶めようと思わないのは当然のことだ。
(11p)


 ここだけ読めば、彼もまた常識人のように思われます。
 しかし上の「性的虐待」とは、厳密にはどのような意味で言っているのか。斉藤の本にも書かれてている通り、ペドファイルは非常に往々にして「子供とセックスは性的虐待に当たらない」と考えているのです。そうした肝心な点で論点をぼかし、明言を避けるという戦略は伊藤もよく使っていたところ。
 もし畑が本当に「合意だろうと子供とのセックスはするべきでない」と考えているのであれば、かつての伊藤の言を批判すべきなのですが、それはなされません(当たり前と言えば当たり前ですが)。
 実のところ畑は別な記事では少年と性交渉を持ったことはないと明言しており(2020年春号、11p)、ぼくも彼をことさらに非難しようとは思いませんが、ぶっちゃけ「信用できないなあ」というのが率直なところです。

 まとめに入りましょう。
「やらないか」で一世を風靡した山川純一作品。
 近年の伊藤はこれを積極的に商売のタネにしていますが、考えてみればこのヤマジュンのタッチって当時の少女漫画のものですよね。伊藤は男性だとしていますが、そんなことから女性説も囁かれています。
 実際、ホモである編集者たちはこの絵を好まず、掲載に猛反対したのを、伊藤が強引に掲載し続けたのです。
 考えれば『薔薇族』自体、初期に表紙を描いていたのは内藤ルネという、少女画の大家で女性に人気のあった人物です。よく表紙を見れば描かれる男の瞳は少々、少女漫画的です。
 要するにヘテロセクシャルである伊藤は、同時に少女趣味めいた感性の主でもあり、『薔薇族』はそうした伊藤のシュミを推し出す場でもあった。(そんなこともあってかホモに評判の悪い)伊藤がフェミニストたちの絶大な支持を受けるのは、その辺りも理由なのかも知れません。
 そして伊藤の抜けた同人版でも、そこは受け継がれているようです。編集長のSageは誌面で実に饒舌に少女漫画に言及します。近年騒がれた大泉サロンの件(竹宮恵子と萩尾望都の確執)についても長文の記事が掲載されており、ついつい読んでしまいました。
 そして、先にも述べたような少年愛者の「ショタ」への(自分たちのための表現であると勘違いしての)言及――。

 少女漫画家、そしてBL作家でも貴腐人的な世代の人は、「少年愛」という言葉を使う傾向があります。が、もちろんそれと『薔薇族』的な意味での「少年愛」とは、(畑や伊藤の切なる願いとは裏腹に)何ら関係のないもの。
 そしてまた欧米の少年愛者は自らを「BL(ボーイラバーズ)」と称するのですが、これまたもちろん腐女子の言うBL(ボーイズラブ)とは一切の関係がない。
 ジャニーズもそうで、その商品である美少年タレントは専ら女子に向けて出荷されているわけで、(ジャーニーを除く)少年愛者など歯牙にもかけていないことは自明です。
 ジャニーズやBL、ショタ文化を自分たちに近しいものだと信じたがる少年愛者たちは哀れではあるけれども、それはそうした文化が彼らの歪んだ世界観(子供とのセックスは許されるのだ)を正当化するツールに不正使用されているということでもある。
 そしてさらに、BLやショタ文化がそうした彼らに対して毅然とした態度を取ってきたのであれば、ぼくももう少しエラそうなことを言えるのですが、ぼくたちの上にいる腐女子や左派はむしろ少年愛者に、伊藤に無限の手揉みを続けて来た連中です。
(今ちょっと見てたら極左のオタク洗脳サイト「おたぽる」で『薔薇族の人びと』を採り挙げて絶賛してんのね)
 いつも言うように表現の自由クラスタなど、オタクのインフルエンサーとして振る舞っている連中は極左であり、フェミニストが大好きである。
 同時に彼らは極めてペドファイルに擁護的であり、子供とのセックスも悪いと考えていない節がある。
 フェミニストもまた腐フェミなどオタクに距離の近い者が多く、彼女らはペドファイルに擁護的である。
 これらから見えてくるのは、左派が、フェミが、共にオタクを「ペド類似物」として自分たちの政治の駒に使おうとしている姿です。
 そして――自分たちをオタクの友だちであると勘違いをしてしまっている『薔薇族』もまた、実のところ彼ら彼女らと非常に近い存在なのではないでしょうか。


『LGBTの不都合な真実』の、不都合な真実(その2)

2022-07-23 20:46:48 | セクシャルマイノリティ

 

 さて、少々遅れてしまいましたが、新記事です。
 実はツイッターが凍結され、バタバタしておりました。
 これからどうなることやら先が見えないのですが、ともあれ前回の続きです。
 参院選に出馬するとかで時の人となった松浦師匠ですが、その著作はどんなものか。投票の前にチェックしておきましょう。
 未読の方は、是非前回記事から!

 

・LGBTの不都合な素行


 本書を読んでいて、ぼくは「LGBTたちはそこまで国家や大衆に要求する前に、ちょっと考えるべきことがありすぎるんではないかなあ……」という意を、強くしました。
 例えば同性愛者の議員となると、他にも石川大我師匠という人物がいます。彼は警官に対し「俺は議員だ」と恫喝したことで炎上しました。本件について、松浦師匠は大いに石川師匠を批判します。
 もちろんそこは大変痛快なのですが、続け、師匠はこの事件の裏には新宿二丁目は常に警官に張られており、ホモがそれを「差別だ」と苦々しく思っているといった背景があるのだと指摘します。しかし何故警官が張り込んでいるかというと、「ホモがあまりに薬物汚染されているから」だと、平然と語るのです。
 まあ、そうした事実を率直に書くのは立派かも知れません。
 ただ……こうした記述を読み進めるうちに、どうにも妙な気分にさせられます。
 ホモがラブホ利用をする時、「シャワ洗」とやらが「マナー」になっているのだそうです。これはシャワーヘッドを外し、ホースを肛門に当てて洗浄することであり、(ヘッドを外すってことはアナルに突っ込むんだよなあ……)勘弁してくれとしか。
 そして仮にそれをしてもシーツに糞便を撒き散らすことが多く、嫌われるのだそうです。
 松浦師匠の記述は一応、ホモの素行の悪さを批判的に書いてはいます。上の件にしても文脈としては、「LGBT運動家はラブホがホモ出禁にしているとわめくが、ラブホにしてみれば無理もない」といったものではあります。
 が、師匠がこれらをタネに上の石川師匠のような「左派のLGBT活動家の欺瞞」を糾弾することに熱心なのとは裏腹に、読んでいるこちらとしては、「いや、ホモ全体に反省すべき点があるのでは」という感想が頭にもたげてくるのです。
 以前、近しいことを書いたことがあるのを、ご記憶でしょうか。
 当ブログで、『現代思想 男性学の現在』という下らぬ特集号を採り挙げたことがあります。

 ここでは森山至貴師匠という同性愛者が「ベアバッキング」について言及していました。これはセックスの時、「ときにはHIVウィルスが感染するのも厭わず、むしろその危険性にこそ快楽を感じ、またえり好みせずに他者の精液を受容しようとさえする(122p)」というもの。ぼく自身もたまに聞くハナシだったけど、正直、ホモヘイターによるデマの可能性を疑っていたところ、当事者に邪気なく実際にあるのだと吐露されてたまげた、といったことを書いていました。何しろデータとしてもエイズの拡大は圧倒的にホモによるところが大きいわけなのですから。
 しかし森山師匠はそこを省みるでもなく、「ベアバッキングは“挑発的”だからいいと思ったのに、やってるヤツらは愛国主義者だった、許せぬ」などと言うのみ(本当に、何を言っているのかぼくもよくわからんのですが、気になる方は以前の記事を読むなり、原典に当たるなりしてみてください)。
 これと、松浦師匠の記述はそっくりではないでしょうか。
 いえ、何しろこの「ベアバッキング」、本書でもまえがきで言及されているのです。
 文筆家の木澤佐登志師匠とやらいう御仁からの引用ですが、「日本でもポジ種専門(?)のベアバッキングを実践している会員制サウナが大阪の某地区に存在しています。(4p)」とのことで、普通に読むとサウナの運営側がことを率先していると思われます。
 ここでも師匠の筆致はこの行為に批判的ではあれ、どこか呑気さを感じずにはおれないもの。
 ぼくは前々回、「ゴリラゲイ雨」に「差別」を見て取る言説を批判しました。
 批判しつつ、そこにごく僅かな差別性を認めもしました。
 そこでも書いたようにちょっと前までは「お前ホモかよ、キモいな」的な漫画はどこにでもあったわけで、「ゴリラゲイ雨」に対するホモのナイーブさもそうした「トラウマ」によるものもあるかもと、同情しなくもないのですが……同時に「世間がここまでホモに寛容になったのに、お前らの方は進歩ないの?」とも言いたくなってくるわけです。
 松浦師匠の「敢えて」、「非難されるかも知れないが」といった覚悟がどうにも感じられないまま、身内の恥部をあけすけに書くその筆致が、どうにも奇妙なのです。
 正直、「アフターUFO=タテマエとしてはホモ差別がならんという社会」であるがため、油断しきってるんじゃないかなあと。

・LGBTの不都合な嗜好


 ――さて。
 ここまででおなかいっぱいだと思いますが、ここからいよいよ本書最大の欺瞞について述べていきたいと思います。
 先に松浦師匠がホモの素行の悪さに対して、あまりに無防備であると述べました。
 更に、動画では「オタクを無理からにセクシュアルマイノリティの仲間入りさせようという政治的な動機があるんじゃないか」といった推測を述べました。



 それらの政治的意図は読むうちに、一つの節に結実します。
 そう、本書は一節を費やして、「少年愛者」を擁護しているのです。
 NAMBLAという組織について、詳しくは『WiLL』様の記事で述べていますので、以降は是非、それを読んだ上で読んでいただきたいのですが……松浦師匠は同組織を大擁護します
 まずは国際レズビアン・ゲイ協会ILGAがNAMBLAを切り捨てた件に激おこ(実はそもそもNAMBLA自体がILGAの下部組織だったようで、それだけでも相当ですが、少なくとも切り捨てるのは当たり前としか)。

ペドフィリアのほとんどは性犯罪をしないことがデータからわかっています。
(215p)


 とも言いますが、何かそういうデータあるんですか。
 そこが示されていないので、信じるか信じないかという次元の話にしかなりませんが、これ、子供への性犯罪が教師や親など身近なものからなされる率が高いというデータを曲解してるんじゃないかなあ。
 また、いきなり「そうした性的な漫画も規制して、ペドフィリアから奪うのか」と言うなどどうにもその口調は、表現の自由クラスタのものとそっくりです(以上、216p)。
 そもそも、リアル児童に欲情するペドフィリアを問題としている時に、それと全然意味あいの違う漫画などフィクションを持ち出すこと自体、こちらからするとぶっちゃけ迷惑なのですが、これ、表現の自由クラスタもよくする物言いですしね。
 ついでですが、上野千鶴子師匠についても、その著作『おんな嫌い』を持ち出し「上野は少年愛者には批判的だが、表現の自由は守ると称している(大意)」などと説明。同書で売買春が全否定されていることには頬被りと、ここも表現の自由クラスタと北朝鮮のダンスのごとく歩調をあわせています(216~217p)。
 ところが上野師匠のペドフィリアを性犯罪者予備軍とする意見に対しては否定的。

なぜなら彼らは、自らの欲望をいかにコントロールすればいいか悩んでいる人たちだからです。
(217p)


 え……?
 白饅頭の物言いそっくりですが、何かそういうデータあるんですか?
 児ポ法以前は大量の児童ポルノが出回っていたわけで、そういう人たちが「自らの欲望をいかにコントロールすればいいか悩んでいる人たちだ」と言われても。
 そもそもベアバッキングとかシャワ洗を考えた時、ホモ全体が……(以降五兆文字略)。
 しかし大変に残念なことですが、これら姑息な詭弁も、まだまだ序の口なのです。

いまNAMBLAがどのような活動をしているのかネットで検索しても詳しくはわかりませんが、刑務所で刑に服しているペドフィリアたちへの支援を細々と行っているようです。
(219p)


 はい、とうとうここまでのデタラメを並べ立て始めました。
『WiLL』様でも書きましたが、今もNAMBLAの公式HPには彼らの理念、目的が明言されています。つまり子供とのセックスを合法化しようというものが。
 そもそも「今どんな活動をしているかわからん」という言い方そのものは確かにウソをついてはいませんが、逆に言えば「かつての活動」、「目的と理念」についてスルーしていると、暗に言っているも同然なわけです(当然、それらに対する記述は、どこにもありません)。

 また、同節では「ジャニーズJr.」についても云々されますが、ページをめくって別な節を読み進めると、草彅剛がオカマを演じた映画や、香取慎吾の「お母さん食堂」の話題が出てきます。要はLGBT活動家が「オカマが不幸になるストーリーだから許せぬ」「オカマでもない者がオカマを演じるとはけしからぬ」と噛みついたことを腐しているわけで、これまた非常に頷ける内容なのですが、ぶっちゃけここまで少年愛者を擁護しておいて、ジャニーズの名を挙げる時、逡巡はなかったのか、と感じます。
 また、動画にも引用したようにBLについて擁護的な内容も基本、頷けるのですが、その(ポルノに擁護的な)主張がなされる箇所で、師匠は森奈津子、鈴折のご意見を引用しています。
 よりにもよってこの二人かよ、としか言いようがありません。
 ここで引用される両者の主張そのものは「差別よくありませ~ん」という凡百の、誰でも言っているようなものであり、ことさらに否定するモノではありません。が、ペドフィリアに親和的な論者を持ち出したことは、何か意図があってのことではないかと考えざるを得ません。

・『LGBTの不都合な真実』の、不都合な真実


 さて、ぼくは動画においても師匠がバ美肉などを「フィクトセクシュアル」であると強弁することを批判しました。青識亜論が同じことを言っていて、両者ともが歩調をあわせ、オタクをLGBTの傘下に統合しようと企てているかのようにも見えます。
 本書においてもいわゆるオタク系の(否、オタクを自軍に取り込もうとしている表現の自由クラスタ系の)論者の名前が頻出します。
 内容としてはミスコンの現状(女性差別と言われたり、出場者の性別が自由になったりしていること)についての批判などで頷けるものなのですが、そこで言及されるのが柴田英理(原文ママ)師匠やろくでなし子師匠の発言について。
(「ミスコンのどこが悪い」という主張は頷けるのですが、そうなるとろくでなし師匠の「女性器を手足と同じにしたい」との理念とは相容れないんですが、この人たちは一切、気にしません)

 近い読後感は、坂爪真吾『「許せない」が辞められない』の時にもありました。
 ぼくが「表現の自由クラスタ」と呼ぶような、オタクを自称する「ネトリベ」たちの(場合によっては保守を自称し)「左派寄りの思想(多くはフェミ)への批判」を口にしながら、しかし実際にはその批判対象とどこが違うのかがどうにもわからない……というパターン。坂爪師匠の出現はそうした論調がオタク界隈を越え、マスコミ界隈の連中にも広がってきたことの証拠とも言えました。
 松浦師匠も同様なのではないか、と思います。
 本書を読んでわかったのは、その論調、「自分をツイフェミとは違う真のフェミだと思い込んでいる、ツイフェミと何ら変わることのない一般フェミ」がさらなる広がりを見せつつある現状であったと言えましょう。
本稿を書き終えた後、参院選を控え、ぼくはあちこちで松浦師匠が「親オタク候補」として持ち上げられているのを見ました。
 師匠とオタク(利権)とを結びつけたのが誰か、もちろんぼくにはわかりませんが、ともあれ師匠に票を投じようとしている方は今一度、よく考えていただく必要がありそうです。