兵頭新児の女災対策的読書

「女災」とは「女性災害」の略、女性がそのジェンダーを濫用することで男性が被る厄災を指します。

ズッコケ三人組シリーズ補遺(その四)

2015-03-27 17:48:22 | レビュー



 続きです。
 正直、ニーズがあるのかどうかわかりませんが、また五作を採り上げます。
 今回は特にどの作品が目玉、というのはないのですが、こうして見ると80年代~90年代サブカルチャーにおける少女キャラの描かれ方の変遷の記録、とも言うべきものになっていますので、軽い気持ちで読んでいただければ嬉しく思います。
 後、性質上、ミステリなどもネタは全部バラしていますので、そこはお含み置きください。

『ズッコケ山岳救助隊』
●メインヒロイン:有本真奈美、大村みゆき

 リアリティに満ちたシミュレーション物。が、おもちゃ屋のオヤジ、有本が三人組を半ば無理に山に引っ張り出して遭難させてしまう……という筋立てなので、事件後のオヤジの様子までがリアルで、読んでいて居たたまれません。そこまでやる必要はあったのか。
 この有本は最近の子供の軟弱さを憂慮しており、三人組をファミコンソフトで釣って強引に山歩きをさせるのです。最終的に毎年恒例だったこの行事は今年で取りやめ、というオチになるので、『児童会長』と同様、こうした体育会系的教育者に対するdisこそが本作のテーマだったのかも知れません(ただし三人組自体は登山に興味を持つようになった、とのオチがつきます)。
 さて、リアルと書きましたが物語後半は誘拐事件が絡んできて、三人組が拉致された少女を助け、誘拐犯が土砂崩れに巻き込まれて死にそうだったのをも救助という、非現実的な大活躍。
 ここで注目すべきは有本の娘、真奈美で彼女は「活発で、終始三人組と変わらぬ活躍を続ける少女」として描かれます。身体能力的にもハチベエのライバルと呼んでいいスペックの主で、性格的にもジェンダーレスなボーイッシュさを持っています。
 一方、誘拐された女の子、大村みゆきはいわゆるお姫さま的役割の少女です。
 丁度、戦隊シリーズのヒロインが83年の『バイオマン』で二人になったことが象徴するように、80年代のフィクションにおけるヒロイン像は「女性ジェンダー/男性ジェンダー」に揺れておりました。
 本作は90年代になって出された初の『ズッコケ』であり、そうした「ジェンダーフリー」の波が、いよいよ『ズッコケ』にまで押し寄せてきた、と言えるわけです。
 とあるブロガーさんはみゆきについて、以下のような指摘をしていました。


初期ズッコケなら、この子は歳下の男の子だったはずです。つまり、小学生が自己投影するかもしれない六年生像として、「歳下に強いところを見せる頼もしいお兄さん」よりも「女の子を助ける勇敢な男子」の方にシフトしていったということです。


 なるほど、そう考えるとこの時期は『ズッコケ』が時代の波に呑まれつつあった、ということかも知れません。何しろ本書の出版後、数年すれば『セーラームーン』が始まるという頃なのですから。

『ズッコケTV本番中』
●メインヒロイン:池本浩美

 さすがに90年代にもなると、小学校にもハイテク(死語)の波が押し寄せます。
 今回はモーちゃんが学校の放送委員に選ばれ、番組を作るというお話です。
 そこにハチベエ、ハカセも加わりドキュメンタリーの制作をしようと奮闘……と書くと、この二人も委員になったのか? という感じですが、そうではありません。モーちゃんのトロいのに焦れ、カメラマンとしての技術を磨く特訓につきあってやっていた二人ですが、そこを放送委員側の藤井理香にバカにされてしまいます。よし、俺たちもヤツらに負けない動画を作ってやろう……というのが話の流れです。
 要するに気の強い女子が敵として出てくる、極めて基本に忠実なお話のわけですが、もう一つ『ズッコケ』の主要なモチーフに、「体制からのはぐれ者が何かをなそうとする」という点があります。ハチベエは肉体派ですがスポーツマンとして快哉を浴びる様子はなく、勉強好きのハカセは何故か成績が悪い。また、本作におけるスクールカーストの上位は中学校受験をするような連中であり、『文化祭事件』では「文化祭が卒業間際の行事のため、トップ連中が受験にかまけて積極的に参加してこないところでハチベエが行動を起こす。と、受験を終えたトップ連中がその手柄を横取り」といった事態が描かれます。
 つまりそうした体制側のムカつくヤツとして、本作では放送委員が選ばれているのですが、これがどうにもエリート意識丸出しの人間のクズども。どうも那須センセは善悪をかなりはっきりさせたがる作風のようです。
 ところが、お話は中盤から、極めて異色な方向へと転がっていきます。
 モーちゃんは放送委員の仕事の中、後輩の池本浩美に懐かれます。浩美は委員会の仕事をサボってまで三人組の動画制作に協力するのですが、ハチベエの軽口のせいでそれを委員会側に知られ、吊し上げられることに。モーちゃんは後輩を案じ、ハチベエと険悪になってしまうのです。
 そう、見る限りお話に恋愛を思わせる描写はないものの、浩美は「可愛らしい後輩」という、それこそ前作の大村みゆき的なキャラクター。
 妹萌えです。サークラ姫です。女を巡っての三人組の絆の危機です。
 ストーリーは「放火犯を捕まえるまでのドキュメンタリーの制作」をテーマに進んでいくのですが、読者の誰もがモーちゃんとハチベエのケンカに気を取られ、それどころではありません。
 結局、ドキュメンタリーも犯人の逮捕もついでのようにしか描写されないにもかかわらず、最後まで両者の和解が描かれないまま、話は終わってしまいます。
 ちなみにモーちゃんは最初こそ怒りを露わにしますが、それ以降は女々しくふてくされ続けるのみ。ハチベエも悪かったと思ってはいるものの、素直になれない。放火犯が明らかになった時、「友情の証」として真っ先にモーちゃんにそれを知らせるのですが、どうもそれでもモーちゃんの怒りは解けなかったようです。
 リアルというか、気持ちはわかるけどというか、今回ばかりはちょっとモーちゃんに苛立ちを感じずにはおれませんでした。
 こうしたエンドも余韻があり、決して悪くはないのですが、ちょっと子供にしてみるとキツいんじゃないでしょうか。野暮は承知で「仲直り」というケリをつけた方が……という感じがしました。
 一方、某ブログではハチベエ、モーちゃんのケンカと対比するように、浩美と里香たちがあっさり和解していることが指摘されていました。
『占い大百科』でもさわやかな男の友情に比べ、女子たちがドロドロとした争いの後も「表面上だけ仲よくしている」様をハチベエが気味悪がるシーンがあるのですが、その意味で那須センセとしては、「男の友情はそんなものではなく、本音をぶつけあうものだ」との思いから、敢えてこのようなラストを選んだのかも知れません。
 浩美がモーちゃんに対し、「先輩たちってケンカしていても相手のことを認めあってるんですね」と羨むシーンなど含め、その意味で本作は『占い大百科』との相互補完の関係になっています。

『ズッコケ妖怪大図鑑』
●メインヒロイン:奥田タエ子

「いろんな妖怪が出て来る」とまえがきにあるのですが(タイトル的にもそうしたものを期待させますが)、登場するのは実質的には大ダヌキのみ。まあ、中盤のクライマックスとして妖怪の百鬼夜行的な描写はあるんですが。
 お話としては、終の棲家であるボロアパートを追われたくない老人たちが妖怪と結託、という一応の社会問題を押さえてはいるものの、ドラマ性は低い。一方、妖怪の描写もストイックであるがためあまりキャラクター性を持たず、その意味でちょっと物足りません。メインは三人組が謎を解いていく展開なので、これはこれでいいのかも知れませんが。
 今回のヒロインはモーちゃんのお姉さんで、終始出ずっぱりなのですが、あんまりにもデブスに描かれており、ちょっとなあという感じ。『結婚相談所』では美人とは言えなくても、もう少しマシに描かれてたと思うのですが。

『夢のズッコケ修学旅行』
●メインヒロイン:荒井陽子

 本シリーズは全50巻。本作はその24作目で次回作の『未来報告』は25作目、つまり丁度折り返し地点です。また次回作は内容自体が「三人組の大人になった頃の話」であってある種の「最終回」的な内容。また、これは作り手たちにとっても全く予想外のことだったでしょうが、絵師の前川かずお先生が物故してしまい、この『未来報告』が最後の登板となってしまいました。
 つまり、いろんな意味で『未来報告』は擬似的な最終回、この『修学旅行』は擬似的なプレ最終回とでも称するべき位置づけになる作品なのです。
 一方、本物のプレ最終回と言うべき49作目『ズッコケ愛のプレゼント計画』は、未読ですが一言で言えば「ハチベエがモテる話」らしく、辛口レビューでは作者のエゴであると辛辣な評がなされておりました。まあ、長期シリーズにはこうしたことがありがちで、チャーリー・ブラウンが後期はモテていたり、映画ではのび太が妙に格好よくなったりするのは、作者のキャラクターへの愛情なのでしょうが、ちょっとなあ、という感想を抱かないでもありません。
 さて、本作のテーマは「ハチベエが修学旅行でガールフレンドを作ろうと誓う」というもの。つまりやはり『プレゼント作戦』と印象が被るわけなのです。
 当初は女の子になれなれしくしては嫌がられるハチベエの様子が描かれます。ところが、旅館においては、ハチベエの誘いを一度は断った女子たちが男子の部屋に遊びに行く(が、行き違いでハチベエは出会えず)といった描写、またリフトにペアで乗る時、(特に理由も描かれず)荒井陽子がハチベエと同乗するという描写がなされ、女子たちもハチベエのしつこい誘いにほだされつつあるようにも取れます。
 そして最後の最後、いささか無理矢理な、ちょっと蛇足的な感じで旅行先に人気のアクション俳優がロケに来ており、ハチベエがちょい役でそれに参加、というストーリーが描かれます。
 女子たちに頼まれ、その俳優にサインをねだりにいったハチベエがどういうわけか気に入られ、映画出演。一転してスター扱い受けるハチベエ。いささかご都合主義ではありますが、「女子にモテるために必要なイベント」としてこうした偶然を降って湧かせる辺り、やはり那須センセのニヒリズムが透徹されているようにも感じられます。
 本作、平板と言えば平板ですが充分に面白く、ブログなどでの(普段は穏健なレビュアーの)評が妙に辛辣なのが謎です。
 ただ一つ言うとゲストである若手の美人先生、せっかく眼鏡ッ娘として描かれているのに活躍の場はほとんどナシ。それはどうなんだって感じです。

『ズッコケ三人組の未来報告』
●メインヒロイン:荒井陽子

 先に書いた通り、本作は25作目。
 お話の冒頭では卒業間際の三人組がタイムカプセルに入れる作文を書いており、そこから舞台が二十年後の未来、そこでの同窓会に飛びます。
 話はカプセルの消失、若くして死亡した長嶋崇(クラスメイトですが、今まで目立った活躍のなかったキャラです)、そして世界的ミュージシャン、ジョン・スパイダーがミドリ市(三人組の住む町)でコンサートを開くことにまつわる謎解きに絞られます。
 単純な「未来の三人組」の話にしないところが那須センセの味でしょうが、三人組が揃って活躍するのは最後の最後のみで(成人してよりはバラバラな彼らが同窓会で久し振りに再会したにもかかわらず)ちょっと寂しい気がします。
 何しろ謎解きという性質上、活躍するのはハカセばかりです。本シリーズは常に「ハカセ無双」となる傾向にあるのですが、この種の特別編でまでそうなのはいかがなものでしょう。
 最後の大冒険はいかにもですが(アニメ版『のび太の結婚前夜』でものび太たちがバチェラーパーティの当日、「ガキの頃みたいに、久し振りに」冒険するエピソードがあり、それ的な痛快さです)、その時ですら所帯を持ったハチベエは危険を冒すことを怖れ、しかし独身のハカセは「君も歳を取ったな」と彼以上に大胆です。この辺り、ちょっと『劇画・オバQ』のハカセ的でもありますね。
 そうそう、『劇画・オバQ』ではハカセが報われない大人であったのに対し、本作は「ハカセリア充編」といった趣もあります。前作がある種、「ハチベエリア充編」であったのに対し、今回はハカセが荒井陽子とフラグを立てるのみならず、他のクラスの「売れ残り」女子勢にやたらとモテているのですから。
 本書が出版されたのは92年。舞台はその二十年後とされており、劇中、彼らは三十を超えた辺り。2010年代にはこの歳で独身が普通だとは、さすがの那須センセも読み切れなかったらしく、独身女性勢はみな焦っております(ただし、もうちょっと経てばこの読みも、現実化しそうな気はしますけれども)。
 他に小ネタを拾うなら、劇中では『カラテマン』というヒーローのカードにプレミアがついていると語られます。有名アーティストの新人時代の作だったとされており、現代を予見していたと見るべきか、「アニメ作家がアニメ作家として名を挙げている」現代からすると外れていると見るべきか。
 またクラスメイトの一人は大学で(マンガの描き方のノウハウではなく、学問としての)「マンガ学」を教えているとあります。これもこの時期の未来予知としてはどうなのか。
 すみません、浅学なぼくではちょっとこの辺、論評しかねます。
 しかし何より強烈なのはミュージシャン・スパイダーのキャラでしょうか。
 死者の霊と交信して曲を作るスピリチュアルなロッカー(?)として描かれ、その格好も何だか「昭和の子供漫画に出て来る怪盗」みたいなあんまりなもの。これもまた那須センセの望む未来観(死者崇拝的宗教観がナウい文化と併合して延命しているという)なのでしょう。

お知らせ

2015-03-15 20:10:41 | お知らせ
ネットマガジン『ASREAD』様での連載、第五弾。
ドクター非モテの非モテ教室(その五)」が掲載されました。テーマは伊集院光と童貞、及び今までの伏線回収!!
 
 
 フェミニズム批判であると同時に、今絶対必要とされているが、誰も言い出さない「男性論」足り得ていると自負するものであります。
 他にも硬軟取り混ぜて興味深い記事がいろいろと書かれておりますので、ご一読いただければ幸いです。
 後、動画はもうちょっと待って。

ズッコケ三人組シリーズ補遺(その三)

2015-03-06 08:18:38 | 男性差別


 続きです。
 正直、ニーズがあるのかどうかわかりませんが、また五作を採り上げます。
 今回採り上げる『占い大百科』は、ファンの間では女性の恐ろしさを描いた傑作と言われているのですが……あんまりそういう感じの感想になりませんでした。
 後、性質上、ミステリなどもネタは全部バラしていますので、そこはお含み置きください。

『謎のズッコケ海賊島』
●メインヒロイン:なし

 とにかく息もつかせぬ面白さの、宝探し話。しかし本当に純粋な活劇であり、ドラマとしては残るものはありません。『ズッコケ』は一作ごとのテイストの落差が激しく、そこも魅力ではあります。

『ズッコケ文化祭事件』
●メインヒロイン:荒井陽子、榎本由美子、安藤圭子

 文化祭で発表する舞台劇の台本を、近所に住む童話作家、新谷敬三に書いてもらおうというハチベエの思いつきから、話は始まります。
 新谷は童話作家としてデビューしながら、児童文学の大手出版社から一冊本を出した後は泣かず飛ばずの四十絡みの男。物語の前半はこの新谷の屈折と、それ故に過去の栄光を振りかざすというキャラクター描写が前面に出ています。
 彼は快く執筆を引き受けますが、いざ出来上がってきたものに対するクラス内での評判は今一つ――というか、「古い」「幼稚園児向けのようだ」と酷評の嵐。
 ついには台本をアレンジしようという話が出て、プロットは以下のように。

 昔々あるところに住んでいた三兄弟が魔法使いに母親をさらわれ、それを助けるべく冒険に――。
 →
 現代の花山町(三人組の住む町)に住む三姉妹が地上げ屋に父親をさらわれ、それを助けるべく暴力団と大バトル――。

 まるっきり変わっちゃったわけですね。
 いえ、外装を変えただけで根っこは変わっていないとも言えますが。
 しかしハチベエたち三人組を含め、子供たちは先生のお仕着せでなく、自らの手で劇を作り上げる喜びに目覚めて大奮闘。児童劇団に所属していた徳大寺という男子を中心に、クラス一同が団結して劇に取り組む様が本当に楽しそうに描かれます――読んでいる方は新谷という爆弾を抱えていることが気がかりで気がかりで、居たたまれないのですが――。
 劇はめでたく大盛況ですが、見に来ていた新谷は案の定、激おこぷんぷん。担任の宅和先生に嚙みつきます。
 宅和先生と言えば、劇のクライマックスに暴力団組長に消火器を浴びせてやっつけるという演出がなされるのですが、これについても「後々校長などにキツい処分を食らうだろう」と覚悟しながらも、子供たちの好きにやらせてやりたいと看過した人物。この文化祭は卒業式間際のものとされ、子供たちに最後の想い出として好きにやらせてやりたいというのが、彼の願いだったのです。
 宅和先生が新谷に詫びを入れに行き、大喧嘩に発展する――というのがクライマックスです。
 新谷は純粋な、しかし独善的な人物であり、それ故、今の子供の心を掴めない童話作家として描かれます。そんな新谷に、宅和先生が「あなたは自分の頭の中の子供像を守りたいだけなのだ」と一喝するのが見せ場なわけですね。
 実のところ、ぼくは初読の時このクライマックスが非常に頭に残り、嫌な印象を持ちました。
 宅和先生に作者の言いたいことを言わせてるだけじゃんと。
 まさにこの作品それ自体が「子供のためを思って子供の前でマスターベーションをする新谷」そのものじゃんと。
 が、再読してみると非常に面白く感じました。
 読み直してみると先生と新谷の議論の描写は思ったよりもあっさりしており、膨大な他の描写が、既に上に書いた通りそれを補ってあまりあるほどに面白すぎるのです。いや、そうは言っても子供を廃した大人同士のやり取りに物語の重心があることは、やはりどうかとは思うのですが。

 劇のプロット、外装を今風に変えただけと書きましたが、新谷にとってはそれがお気に召さない。「暴力団」が登場するのは小学校の劇としてどうかという意見は、この新谷のみならず親たちの口からも出され、この頃はまだ「子供を縛る大人」VS「それに逆らう子供」といった図式が生きていたのだなと感じさせます(議論においても宅和先生が「子供たちの自主性を……」と言うと新谷が「無責任な大人の大好きな言葉だ」とやり返す場面があります)。
 本シリーズ、新書版では、どこのどなた様とも知れぬお歴々の「解説」が入るのですが、この「解説」がまあ、揃いも揃って激痛イタタタの助(やや古いアレンジ)なモノであり、そのうち扱ってみたいと思っているのですが、それらは口を揃えて「保守的な児童文学業界で『ズッコケ』シリーズがいじめられていること」「しかし小説の要は何より面白さであり、それを追求した本シリーズはエラい」みたいなことを言っているのです。
 つまり、本作は児童文壇(?)にいじめられ続けた作者の意趣返しという側面が濃厚にあるわけです。
 新谷の作品がどうにも啓蒙的で、彼を追い越して人気作家となったライバルの作品のタイトルが『ハッスル夢子のビックリ新学期』というある意味では『ズッコケ』的なノリのものであるなど、そうした描写がふんだんに立ち現れます。
 しかし、むろん、それはそれで痛快に感じるモノの、ぶっちゃけ子供が「暴力団の話」を喜ぶというのはどうなのでしょうか。
 本作の出版は1988年。実はこの作品の前作(『海賊島』)において、本シリーズで初のファミコンで遊ぶ描写が登場します。
 新谷のシナリオを見て、「魔法使いは古い」とする子供のセリフがあるのですが、しかしこの時代の子供にとって「大蛇に化ける魔法使い」って結構ぐっと来るキャラクターだったのでは?
 翻って「暴力団」はちょっと、いかにも「大人にわざわざ眉をひそめさせるため(だけ)」に持ち出してきたようなモチーフで、この時期の子供が喜んだのかなあ? という気がしないでもありません。
『オバQ』でも学芸会で(よい子のよっちゃんが『白雪姫』をやろうとするところを)オバQや正ちゃんがチャンバラやスパイ物をやりたがるシーンが出て来ますが、これは要するに「テレビ文化」なのですな(実際、作中でこの暴力団の劇は何度も「テレビふう」「テレビまがい」と形容されます)。それも、ごく初期の「大人が観る番組を子供が一緒になって見ていた」時期にこそ、こうした傾向は顕著だったのではないでしょうか。
 本シリーズが「保守的な大人どもをねじ伏せ、子供たちに寄り添った良質な娯楽作品」という側面があることは論を待ちませんが、同時にそうは言っても、ぼく自身も当時から「でもちょっと古いな」と思いながら読んでいたところもある。
 それをこうして数十年経って省みてみれば、「右から左から大人たちが涎を垂らしながら子供たちの下へ大挙して、先を争って靴を舐めている姿」にも、少し見えなくもない。で、まあ少子化が叫ばれて久しい昨今ではそれに代わってオタク業界が……(以下自粛)。
 本作のラストでは一皮剥けた新谷が新作の童話を書き、そしてそれこそがこの『ズッコケ文化祭事件』なのではないかというメタ構造で話を終わらせているのですが――大変皮肉なことに、テーマ性までがメタ構造を持って、ぼくたちの前に迫ってくるのです。
 つまり――「時代は一周していて、実は劇中で子供たちのやった劇こそ時代遅れやったやんけ」と――。

『驚異のズッコケ大時震』
 ●メインヒロイン:ヒメノミコト

 三人組が「時震」、即ちタイムスリップを繰り返す話です。
 関ヶ原の合戦、江戸初期、幕末と目まぐるしく舞台が変わりますが、タイムスリップの描写がなくいつの間にか時間移動しているので、子供は「小早川秀秋と水戸黄門と坂本龍馬って同じ時代の人物だったんだ」って思っちゃうんじゃないかなあ。
 ラストは邪馬台国と、後、本当にサービス程度に恐竜時代へもタイムスリップ。
 上のヒメノミコトは卑弥呼の日本での名前であり、三人組がタイムトリッパーであると看破、元の時代に戻る方法を教示しますが、それは実はタイムパトロール隊員のテレパシー装置に操られてのこと。つまり、『山賊修行中』の土ぐも様のような超常的存在としては、捉えられていないようです。

『ズッコケ三人組の推理教室』
 ●メインヒロイン:荒井陽子

 シャーロック・ホームーズにハマった三人組が探偵を志し、飼い猫の誘拐事件を捜査する……というジュブナイルの見本のようなプロット。
 しかし本作が当ブログ的に一つのランドマーク足り得ると思うのは、本作がシリーズ中初めて、ヒロインが「三人組と終始行動を共にする」話として書かれたこと。
『株式会社』では美少女トリオがクライマックスでようやっと「あちらから、こちら側へと入って来てくれる」ヒロインとして描かれましたが、本作では陽子が愛猫が事件に巻き込まれたため、当初はクライアントとして登場するも、すぐに三人と行動を共にするようになり、「四人組」と呼んでもいいくらいの活躍ぶりを見せます。
 ドラマとしての深みはほとんどなく、猫を盗んでいたのが元ペットショップ経営者であり、金持ちの猫ばかり狙ったのはそうした連中が憎かったのでは、とハカセが僅かに語る程度。つまり、「俺はオタクが憎い……俺を受け容れなかったオタク界に復讐してやる!!」とばかりに同人誌の海賊版を売りさばくとか、例えばそんな話だったわけですが、そうしたテーマ性は最後に暗示される程度に留まっているわけです。
 後、今回は珍しくモーちゃんが自己主張し、また犯人逮捕でも活躍するのが特徴的です。それはそれで面白いのですが、女の子の登場含め、ドル箱と化した本シリーズに、いろいろと出版社の思惑が絡み出したのかな……といった感想も、ついつい抱いてしまいたくはなります。

『大当たりズッコケ占い百科』
●メインヒロイン:市原弘子

 以前、『(秘)大作戦』について語った時、とあるブログが那須センセを女性嫌悪の主、と評していたことを紹介しました。そのブログが「那須正幹の女性不信作品群の頂点に位置する作品」として挙げていたのが本作です(作品群と言うほどあるんかい!!)。他のブログを見ても「女性のドロドロとした心理が云々」との評が並んでおり、ワクテカしながらようやっと読んだのですが……期待値が上がりすぎたためか、そんなでもないというのが感想でした。
 クラスで占いが流行するという導入部。ハチベエまでが女子に手相占いをし出すのですが、それがクラスメイトの市原弘子に「レイコンさん」の名人である不登校の少女、桐生寿美子を紹介されるに至って、話が一挙にオカルトめいてきます。
 この「レイコンさん」というのは恐らく「こっくりさん」という名称の方がポピュラーだと思うのですが、女子小学生、女子中学生が好んでやる、百円玉を使った降霊術。クラスの女子、幸子はなくしたペンダントの在処を聞くのですが、同じクラスの絵美が持っているとの答えを得ます。ハチベエが絵美の鞄を開いて見ると、そこには果たしてペンダントが。
 絵美には泥棒の疑いがかけられ、更には幸子と絵美がかねてより一人の男子を巡っての三角関係にあり、ペンダントはその男子からのプレゼント――といった事実が明らかになり、教室はドロドロとした噂話の徘徊する空間となります。
 ハチベエ、そして幸子の机には「呪いの人形」が置かれ、さすがのハチベエも大いに恐れおののきます。犯人は絵美だ、いや自分を絵美の被害者に仕立て上げることを狙った幸子の自作自演だ……と更にドロドロがヒートアップするのですが――真犯人は、(要所要所で顔を出しつつも、目立たない存在であった)弘子でした。
 彼女はシャーマン然とした寿美子を裏で操り、愉快犯的にクラスを引っ掻き回していたのです。
 クライマックスで神がかって怯える寿美子(ちなみに彼女は中一で、一同より年上です)を小柄な弘子が抱きしめて「大丈夫よ」と言ってやっている様など、ゾクゾクする怖さ――と言いたいところですが、ちょっと展開が唐突すぎて感情がついていきませんでした(弘子が真犯人と確定する下りを、ハカセの名推理が見事と評するブログもありましたが、ぼくにはここも唐突に感じられました)。
 弘子が幸子や絵美を陥れた理由が面白半分というもので、今一共感が得られないものであったからかも知れません。もっとも、「弘子はモテる女子を妬んでいたのだ」といった深読みも不可能ではありませんが、それと暗示する描写もありませんし。
 ちなみにこの絵美、弘子、そして寿美子は共に「栄光塾」というスパルタ塾に通っている(た)ということが途中で明らかになります。そこは成績の優劣によって生徒間にあからさまなヒエラルキーを設定し、生徒たちもぎすぎすして悪質な嫌がらせ行為が横行する悪夢のような塾として描かれます。寿美子、そして弘子の病理もその塾のせいとされ、「痛烈な教育批判」とするブログもありましたが、この塾は直接に描写されることもなく、正直「取り敢えず悪者が悪者になった理由づけとして、塾を出した」以上の印象を抱けませんでした。
 最後は、女子がちょっと怖くなったハチベエがバースディパーティに女子を招待するのを止め(招待すれば来てくれるんかい、と尋ねたいところですが)いつもの三人で変わらぬ友情を祝うところで終わっています。
 さわやかではあるモノの、意識の高い人が見たら「ホモソーシャルガーーーーーーーーーーー!!!!」と発狂確実でしょうなあ。