ドクター差別(愛称:ドクさべ)も、すっかり当ブログの人気キャラになった感がありますね。「男性差別」の専門家を自称し、「女性専用車両」に乗り込むという反対運動を行っている困った方です。とは言え、実のところぼくとしては彼については語り尽くした、「もういいや」という気持ちでおりました。
しかし、ここで思わぬ伏兵が登場してきたのです。
当ブログでは初登場になる、その名は白井潤アニキ。
ドクさべ同様のいわゆる「ダンセーサベツクラスタ」であり、ドクさべの信奉者。そのためぼくのことをフェミニスト呼ばわりするなど、ずっとこちらを敵視なさっていました。
が、しばらく前、アニキはガッツある行動を起こしたのです。
ごくかいつまんでまとめると、
「とある女性に自分に気があるかな? と思い声をかけたらふられた、許せぬ」
→「これはダンセーサベツだ」
→「ついては萌え絵が表紙に描かれた雑誌を持ち歩くというデモをしてやろう」
え? 意味がわからない?
いや、ぼくだってわかりません、本当にそう言ってたんですって!
何しろ経緯を、ご自身がtogetterにまとめていらっしゃったのです。
そのまとめ自体、既に消されており、ぼくも一度ざっと見ただけでなのであまり詳しいことは言えないのですが……*1。
ともあれ、アニキの先の行動の本質は、
――俺は女が好きだ、でも女は俺に振り向いてくれない、俺は女が憎い!
というものであり、それは期せずしてフェミニストたちの切望する「ミソジニスト像」を演じ、彼女らの渇きを癒す結果となってしまっています。フェミニストの言う「ミソジニスト」というのは実のところ、彼女らの被愛妄想を前提にした「ワタシのことが好きな、しかしワタシの望むやり方でワタシを愛してくれない男」という概念に他なりませんから。彼の出現を、フェミニストは秋葉テロ事件が起きた時の反オタク派くらい喜ぶべきでしょう。
*1ここではギャグっぽく書いていますが、相手の女性の名前を明記してしまったりちょっと冗談で済まないものだったため、削除されてしまったのです。現状でアニキの言動を確認できるのは「ツイッターの統失男がヤバ過ぎるwwwwwwwwwwwww」辺りでしょうか。興味のある方は各自探してみてください。
が、アニキの言動を見ていてドクさべについて、ちょっと思い当たったことがあったのです。
ドクさべについて、ぼくは今まで何とはなしに「女に興味がないのかな」という印象を持っておりました。彼の女性専用車両乗り込み行為に、ぼくはあんまり性的な匂いを感じない。いや、ひょっとするとぼく自身もかつて「あいつ、女性専用車両に乗り込むことで興奮してるんだろm9(^Д^)」などと書いたことがあったかも知れませんが、正直あんまりそうした印象は持っていなかったのです。
ぼくが彼を見て連想するのは『モテモテ王国』の大王です。彼の中にあるのは小学生の男の子が「女ってスカートめくると泣くからおもしれーぜ」とスカートめくりはするものの、別にパンツは見ていないというような、ある種の「邪気のなさ」のように感じていたのです。
しかしこれは単純に彼の組織のホモソーシャル()な結束が、彼らをそう見せていただけのハナシかも知れません。
ぼくのうpした「ドクター差別と詰られし者たち」では、ドクさべの演説がご覧になれます。ここ(5:30辺り)で彼は「自分が女性専用車両に乗ると、女性たちにキモチワルイと言われた、恐ろしい話だ!」と(通行人に)訴えて(無視されて)いるのです。いや、それは言われたくてやってることやろ、と思うのですが……。
しかし白井アニキの行動を見ていて、ぼくはドクさべの言動もこれに近しいよな、と感じたのです*2。
それはつまり、「性犯罪冤罪を批判しようとして、何故性犯罪すれすれのことを?」という。
むろん、彼らの行動はあまりにも奇矯です。
が、その心情は何となくわかるのです。
精神分析の世界では「反復強迫」という概念があります。
フロイト先生が考えた言葉で、彼は例えば「他人との人間関係がいつも同じようなパターンで失敗する人」など、「苦痛な体験を、無意味に何度も繰り返す人」っているよな、という発見をしたのです。
フロイト先生はこれを「人間には死の欲動があり云々」と分析しました。
むろん、そんなムツカシイことを言わなくとも単に「同じやり方しか知らず、つい同じ失敗を繰り返してしまう」のだと考えた方が、話はわかりやすい。
が、やはりぼくは(フロイト先生の考えの是非はともかく)もう少しこうした傾向に、何か深い意味づけをしてしまいたい衝動に駆られる。
例えばドクさべの、白井アニキの心情を察するとして、以下のようなストーリーはいかがでしょうか。
ドクさべも、白井アニキも、かつて女に非道い目に遭った。
いえ、彼らのそうした体験を殊更に特権化する意図はありません。
この世に、「かつて女に非道い目に遭った」経験のない男など、ただの一人もいないのだから。
それは、端から見れば他愛のないことだが、二人にとっては痛恨の極みの体験だったに違いありません。
――俺は女にこんなにも貶められた、性犯罪者のように扱われた、許せぬ!!
彼らの中にはそうした怨嗟の念が渦巻いています。
何故断言できるかと言えば、そうした経験のない男など、ただの一人もいないからです。
そしてだからこそ彼らは「いじめられた自分を助けて欲しくて」、「わざわざもう一度いじめっ子の輪の中に飛び込んでいっている」。今、「いじめ」と表現しましたが、女子が男子をいじめる時の手法となると、広い意味での「性犯罪冤罪」、つまり「エロい男子扱い」すること以外には、考えられません。
ドクさべも白井アニキも、「女子にいじめられたボクを助けてくれる王子さま」を待っているのです。
つまり、二人は
――王子さま見て! 女どもはボクにこんなにも非道いことをしたんだよ!!
と訴えようとして、おかしなことになってしまっているのです。
そう考えると、二人の行動、許されるものではないとは言え、何だか哀しいものに見えてくるのではないでしょうか。
あ、ゴメン、俺は王子さまになってあげられないので誰か何とかしてあげて。
*2むろん、「笑えない度」では白井アニキの方が遙かに上です。ドクさべはブログか何かで「彼の行動は支持できない」と表明すべきではないでしょうか(もし既にしてたらゴメン)。
そして。
すんません、実はここからようやっと本題です。
フェミニズムの本質も、彼らと同様なものです。
ぼくは今まで、ずっとドクさべのような「ダンセーサベツクラスタ」の振る舞いを「フェミニズムのパロディだ」と指摘してきました。それは逆に言えば、ドクさべたちの振る舞いからフェミニストたちの心理をも推し量れる、ということです。
フェミニストたちの珍奇な行動の動機は、彼ら同様「報われなかった自分を、王子さまに救済して欲しい」というもの。事実、「何度もわざと一人で人気のない道を歩いて、何度も性被害に遭ってしまう女性」というのはいるそうです(これもまた「反復強迫」の一種であることはもう、おわかりでしょう)。
彼女らもドクさべ、アニキ同様、
――王子さま見て! 男どもはワタシにこんなにも非道いことをしたのよ!!
と訴えようとして、おかしなことになってしまっているのです。
これはまあ、「フェミはブスのひがみ」という俗論といっしょですが、いずれにせよそう考えると許容はできないまでも哀れにはなって来ます。
しかし、結局はフェミニズムも「ダンセーサベツクラスタ」も自身の怨念を「一番まずい落としどころ」へとまっしぐらに落とし込もうとしており、だから「ダメだ」という評価にしかなり得ないわけですね。
ぼくは度々、「今の社会は男が女をレイプし放題の無法地帯を逆転させたものだ」と言ってきました。しかし男女のセクシュアリティの非対称性()のため、これはいささかわかりにくいリクツであったかと思います。
ですがドクさべやアニキとフェミニストたちを対応させてみれば、それがおわかりになるのではないでしょうか。
「女たちの性犯罪冤罪を訴え出ようとして、性犯罪すれすれの挙動に出てしまった」のがドクさべとアニキだとするならば、「男たちの性犯罪を訴え出ようとして、性犯罪冤罪すれすれの挙動に出てしまった」のがフェミニストです。
――さて、長い長い前振りが終わりました。
以上のことを、今回、そして次回の二回に渡って牟田和恵師匠の著作、『部長、その恋愛はセクハラです!』を分析することで、再確認することにしましょう。
まず、まえがきから、牟田師匠はこんなことをおっしゃいます。
それに、(引用者註・恋愛というものは)当事者の男女にとっても、どう感じていたか、どう受け止めたかは、タイミングや時期によっても変わるのです。(p15)
いや、一般論として言っていることはわかりますが、「その時は合意だったのが、後からやっぱりイヤだったのだ」と後づけされては敵いません。その辺り、果たして師匠はどう思っていらっしゃるのか……ビクビクオドオドしながら、ページをめくりましょう。
師匠は厚労省の「心理的負荷による精神障害の認定基準について」という通達の中の「セクシュアルハラスメント事案の留意事項」という項を引用します。
①セクシュアルハラスメントを受けた者(以下「被害者」という。)は、勤務を継続したいとか、セクシュアルハラスメントを行った者(以下「行為者」という。)からのセクシュアルハラスメントの被害をできるだけ軽くしたいとの心理などから、やむを得ず行為者に迎合するようなメール等を送ることや、行為者の誘いを受け入れることがあるが、これらの事実がセクシュアルハラスメントを受けたことを単純に否定する理由にはならないこと。
これを師匠は、以下のように噛み砕きます。
これをわかりやすく言い換えれば、女性が喜んでいるように見えてもセクハラであり得る、困っているように見えなくとも実はセクハラでショックを受けている場合もある、ということ。(p31)
言いたいことは、わかります。
いじめられている側がいじめている側に迎合すると言うことは、大いにあり得ます。例えば、殴られたくなくていじめられている側が「お金をあげるから許して」と言うなど。
しかしここで問題となるのは「職場での恋愛関係」です。
いじめの場合、「暴行」も「恐喝」も立派な犯罪ですが、「思う仕事や役職が与えられない」ことも、「性交渉が行われる」こともそれ自体はそれだけでは不当と言えないはずです。
そこへ持ってきて、見ていて眩暈がするのは、師匠の想定するケースが専ら「課長と女の部下が普通にベッドイン、後で女がセクハラだと訴えた事例」みたいな、つまり女性の被害者性が疑わしいケースばかりであることです。
そんな場合でも男性の方がエラいから女性は逆らえない、仕事上断りにくいがため、女性が喜んでいるように見えてもセクハラなのだ、というのが師匠の考えなのですが、そこには「女が後づけや虚偽の訴えをする」可能性に対する想像が、完全に欠落しています。
上のような事例も当然、考えられはするものの、逆に女性が積極的に自分の身体を武器にすることもあり得、それは「マクラ営業」など軽んじられる行為です。フェミニズムとは行為のそうした両義性を、完全にスルーした上でようやっと成立する、危うげな楼閣なのです。
節タイトルを見ただけでも、
「見かけは喜んでいるように見せかける(p96)」
「しみついたサービス精神――女にノーはない(p108)」
「女性はイヤでもにっこりするもの。(p125)」
と我が目を疑うものが目白押し。師匠はみんな大好きキャサリン・マッキノンを引用し、女性は相手への気配りを求められる、相手に逆らわないのが習い性になっている、だから「イエス」に見えてもそれは本当ではないのだと繰り返します。随分と古い、女性に対しての偏見に満ちた差別的意見だと思います。
お互い合意だった……、向こうから近付いてきた……、向こうだって楽しんでいた……。「事実は違うんだ」と、男性は反論しますが、相手の女性が語る過去の事実は男性の記憶とは大きく違います。
(中略)
どんな判断が下されるかはもちろんケースの事情によりますが、男性の側の主張が一〇〇パーセント通ることは難しく、男性にとっては納得できない、不本意な結論となることも大いにあります。(p67。強調原文ママ)
「voluntary(自発的)であってもunwelcome(望まない)ならセクハラ」と題された項ではOLが上司に嫌々ながらつきあい、公園でキスをした場合、
もしそのとき、公園を通りかかって二人を見かけた「目撃者」がいたとしても「モメている様子はありませんでしたよ、ラブラブなカップルだと思いました」と証言することでしょう。(p39)
しかし、それでもセクハラ足り得るのだ、との自説が繰り広げられます。
第三者の客観的視点でセクハラに見えなくても、それはセクハラだ、というわけです。
いえ、まだまだこれは序の口です。
牟田師匠は「いったいセクハラなのか違うのか、女性自身がよくわからない、ということでもあります。(p59)」と言い、『朝日新聞』での上野千鶴子師匠の人生相談の例を引き、
この相談に上野さんは、それはセクハラだときっぱりと答えてくれています。この女性は「頼れる上司を失う怖れ」があるために、イヤなことをイヤだと感じないよう感覚を遮断している、そこに問題の深い根がある、と。(p60)
女性の気持ちとしては、本当に「セクハラかどうかわからない」のです。(p60)
……って本人もわからないんじゃあダメじゃん!!
いや、むろん「わからない」ならばひとまず訴えられる可能性は低い、とは思われます。が、この文章の要諦はそこにはなく、「その時は『わからない』だったとしても、後からセクハラだと考え直し、訴えられる」可能性を示唆するところにあるのです。
つまりそれは「後からセクハラだと思ったらセクハラ」という無茶ぶりの正当化であり、それでは「女が合意かどうかは知ったことか、お前が悪い」と言っているも同然でしょう。
師匠はまた、セクハラの現場で男は男の、女は女の肩を持ちがちだと言います。「女は女の痛みがよくわかるからだ」と。ここはまあそうだろうとは思います。しかし多くの場合ハラッサー(本書では「加害者」を「ハラッサー」と呼んでいます。間抜けな響きですが、本稿も一応、それに倣います)は地位があるので、男は処世術としてそれに逆らわない、だが女はそれをしない、何故なら、
もともとほとんどの女性は組織の中で出世することなど想定外ですから、上司に取り入る意味もないからでしょう。(p168)
というのはいくら何でも無茶でしょう。
フェミニズムのイデオロギーを無理に盛りすぎです。
そもそも、そこまで女性社員が会社社会で仲間外れの存在であるならば、「昇進などをエサにセクハラ」という師匠の妄想の根拠が完全に崩れ去ってしまうことになるのですが。
また、男と女がもめていれば、多くの場合、男性は女性に味方するのではないでしょうか。
以下、論法は「男たちはハラッサーを正当化しようとしてストーリーを捏造しがちだ」などと続きます。そういうことも大いに起こり得るとは思うのですが、では女たちが被害者を正当化しようとしてストーリーの捏造をすることはないのでしょうか。本書は徹底して、女性側は常に無辜の被害者、との大前提に貫かれています。
上の記述がある七章は「周囲の方々、担当者へ」と題されているのですが、その内容はあれをしろこれをしろ、事態の監督不行届でハラッサーの上司までが処分されることもあるぞ、女性から相談を受けたら真摯に対応して欲しい、だからといってちょっとした相談に過剰に反応してことを荒立てるのも困ると、正直、読んでいるだけでウンザリしてきます。
ぼくは「フェミニズムとはポルノである」と言い続けてきました。
言い換えるのならば、フェミニズムとは「自分のどんなワガママでも叶えてくれる王子さまがいつか現れる」という妄夢をテーマとした、「乙女ゲー」だったのです。
何だかもこっちが乙女ゲーをプレイしながら、画面のイケメンにぶつくさ文句を言っている光景をつい、想像してしまいます。
先に書いた「今の社会は男が女をレイプし放題の無法地帯を逆転させたものだ」という言葉の意味、わかってきたのではないでしょうか。
師匠の主張は「通りすがりの女にいきなり襲いかかり、レイプした男が『女が俺を誘惑したのだ!』と言っている」状況をそのまま逆転させた図、に他ならないのです。
白井アニキの振る舞いは確かに愚かであり、悪質です。
しかしフェミニストたちは、それに対して笑ったり、憤ったりする資格があるのでしょうか……?
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