兵頭新児の女災対策的読書

「女災」とは「女性災害」の略、女性がそのジェンダーを濫用することで男性が被る厄災を指します。

『現代思想 男性学の現在』(その3)

2019-04-19 19:06:49 | 男性学


 前回、(その1)を戦闘員に、(その2)を怪人に例え、そして今回は大幹部の文章をご紹介すると予告しました。
 しかし考えれば、上の比喩は「一般信者」「教祖」「ご神体」と言い換えた方がいいかもしれません。(その1)でご紹介したのは「シスヘテロ男性」の文章、すなわち「一般信者」であり、彼ら彼女らの「組織」では最下層。いえ、そもそも「男性学」自体が「組織」への勧誘のための『エヴァ』の上映会のようなものでした。
 そして(その2)では「ガイジン」や「トランス」様についての文章をご紹介しました。彼らは男性ではあれ、階級が上の人々でした。
 今回は彼らがさらに仰ぎ見ている「ご神体」をご紹介します。
 因みに今回、この『現代思想 男性学の現在』という一冊の本を指す場合は「本特集」、それぞれの記事を指す時は「本稿」、そしてこのブログ記事は「本エントリ」と表現することで区別しております。
 また、男性学の研究家を男性学者と書くと「男性の学者」を指しているみたいで紛らわしいので、「男性学」者と表記します。

○澁谷知美 金田淳子 新たなる男性身体の〈開発〉のために

 ――あ、もうタイトルだけでおなか一杯っス。
 お名前を見ただけでお察しの二人組の座談会。とはいえ、表紙を見ても何だかメインコンテンツみたいな扱いですし、ここは多少、深く突っ込んでいきましょう。
 その前にちょっと。
「男性学」の世界では「男は感情から疎外された存在であり、そこを解放すべき」といったテンプレが語られ、ぼくもそれ自体は賛成だ、といったことは何度も(その1、その2でも)語ってきました。それと同時に「男は身体性からも阻害された存在であり、そこを解放すべき」といったテンプレもあり、ぼくはそれにも賛成します。これらは言うまでもなく、拙著における「男/女は三人称/一人称的存在だ」という指摘とぴたりと重なるものですね。が、「男性学」者たちのそれは口先ばかりのものであり、信用ならんということは(その2)のVtuberについて述べた論文を読んでも明らかでしょう。
 タイトルからもわかる通り本稿もまた、この後者のテンプレを前提したロジックが展開されるわけですが、さて、どうなりますやら……。

澁谷 なぜ男が快楽を与える側であることが前提になっているのか、ということですね。
金田 そうです。私はそのアホさ加減への憤りからジェンダー研究を始めたところもあるのですけど、とはいえ本当にアホが描いているわけではないでしょうし、(中略)二〇世紀の初めごろには、セックスにおいて男がリードすべきだという盲信に、身体的に根拠があるのだということを医者や知識人たちが大真面目に言っていたわけですよね。
(163p)


 師匠たちは青春時代をバブル期に過ごしたのではないでしょうか。
 ぼくがいつも言うように、当時は雑誌やテレビで「女が強い」「女はセックスにおいても能動的になりつつある」と病人のうわごとのように繰り返されていました。そしてその根拠としてトレンディドラマの女性のセリフが、幾度も幾度も幾度も幾度もびっしりと手垢がついたまま振り回されていた、ということも、何度か指摘していますね。この頃のムードって、今となってはお伝えすることも難しいのですが、ともあれ両師匠の上のようなやり取りが、当時は滑稽ではなかったのです。
 しかし今となっては、かなりの違和感のある物言いなのではないでしょうか。女性は婚期を逃し、婚活に血道をあげるのみ。当時の論調では今頃、男の子はみんな可愛らしくなって女性に主夫として養われてそうな勢いだったんですが、ヘンですねえ。
 これ、事情は欧米でも同じようです。ぼくが時々言及する『正しいオトコのやり方』はアメリカの男性解放運動初期の名著なのですが、ここに収められているフレドリック・ヘイワード「「男の子」は「男」に」では、コンパで男子生徒に女子生徒への働きかけを禁じてみた、という実験が述べられています。そこでアプローチしてきた女子生徒は一人もいなかったという結果を得て、「これでまた一つの神話が死んだ。(195p)」と痛烈に締めくくられています(ちなみに、この実験自体がいつのことか判然としませんが、原著が出たのは1985年のことなので、その頃だと思われます)。
 もう一つ、両師匠を見ていていたたまれないのは、彼女らが腐女子であり(あ、澁谷師匠は違うのかな)、上のような文脈でBLを持ち出し、ドヤっていること。
 ぼくはキホン、腐女子の悪口は言いたくないのですが、それでも腐女子がモテる女か、能動性、男性性を獲得した女かとなると、それは……と言わざるを得ない。しかしそこについて、両師匠は驚くほどに屈託がないのです。
 2009年、「草食系男子」という言葉が流行っていた頃、便乗本で『肉食系女子の恋愛学』とかいう本が出ました。著者は桜木ピロコ師匠といういかにもな女性ライター。師匠はそこで(当然、当時としても古すぎるバブルな強い女性像が語られているのですが、その一端として)BLを紹介し、「腐女子たちは男たちを性的消費の対象にしている。女が貪欲に、肉食になっているのだ」とドヤっていました。が、腐女子というものの実態を知るぼくたちから見ると、「おいおい」と言わずにはおれない。腐女子は「私は責めに感情移入しているのだ」と自称する傾向にありますが、それも虚栄心からの嘘であろうことを、ぼくたちは直感的に知っているのですから。
 また、ピロコ師匠の本はまだそれほど腐女子という概念が人口に膾炙してない時期に、一般ピープルに向けて、騙し通せるだろうと踏んでその話題を持ち出してきていたのに対し、金田澁谷両師匠は今の時期に、当事者でありながら臆せず振り回すのだから、見ていてはらはらします。両師匠は「男の身体に興味津々の肉食系女子」とでもいった「キャラ付け」で座談会を行っていますが、上に書いたように腐女子のマジョリティは決してそうではない(し、そのことはオタク男子にはバレてしまっている)のですから。
 いくら何でも平成も終わろうという世の中でいまだ「強い女」像を、しかも一番演じちゃいけない人たちが演じているという場面を目撃して、何だか「映画本編の前にニュース映像を流している映画館がいまだある」と知った時のような驚愕を覚えずにはいられないわけです。

 ――ちょっと、解説が必要かも知れません。
「果たして腐女子は、男の肉体に欲望を抱く、能動的なセクシュアリティの主か?」。
「BLというテキスト」を根拠に、それを肯定するような論調が一定、ある。しかし「腐女子というナマモノ」を見てみると、それは違うんじゃないかと考えざるを得ない。
 ぼくの知りあいの腐女子で、オッサンキャラにメイド服を着せるのが好きなヤツがいました。田亀源五郎先生……ほどリアルな絵を描くわけではないけれども、まあ、感じとしてはそんなのを連想していただいて結構です。しかし、では、彼女は田亀的なキャラの肉体性に「欲情」していたのかとなると、それは十中八九、そうではない。オッサンにメイド服を着せる行為自体に「男の肉体性の滑稽さを笑う」という目的が秘められていることは、否定できません。何しろ、その腐女子は一方で女性のヌードを描き、「男の裸より女の裸を描く方が楽しい」とも言っていたのですから。
 恐らくですが、オタク男子はかなりの高い比率でこれに近しい見聞をしているのでは、とぼくは思います。
 言うまでもなく腐女子はシスヘテロ女性であり、男と女で、美しいのは女の肉体だと考えている。男の娘などを例に挙げるまでもなく、二次元では「女性より美しい男性」の描画も容易ですが、それはあくまで「女性性をまとった男性」であるからこそ。だからこそそうしたものを描く腐女子が多いわけです。ひるがえって上のオッサンのメイド服を描いている腐女子はオッサンを美しいと考えているのかとなると、そうではないことが、それに続き引用した言葉からもわかる。
 金田師匠は

 異性愛ものに限らないとすれば、BLには、暴力的なものもありますが、思いやりをもって向かい合うセックスを、二人の関係性の変化を絡めつつじっくり書くものが多いですよ。
(170p)


 とおっしゃっていますが、何をまあ、よくぞここまでいけしゃあしゃあと、と言わずにはおれません。腐女子はレイプものが大好きだし、前にも書きましたがぼくは(美少女ものも描く)腐女子の「残酷なネタも女の子で描くのは可哀想だが、男の子なら描ける」という主旨の言を複数人から耳にしています。
 BLとは「全てを男に負わせる」という女性ジェンダーの行き着く果ての表現でした。もちろんフェミニストとは違い、腐女子は実際の男児への性被害についてまでは肯定しないはずですが……(リンクと本文とは一切関係がありません)。
 しかし、両師匠はそんなこちらの疑念は歯牙にもかけず、男の肉体性について嬉々と語り、「男の性を消費する女」という自己イメージをあどけなく吐露し続け、はた迷惑な男性ヌードの資料画像を挿入する。
「男の乳首について語るイベント(何だそりゃ)」に来た男女から統計を取ったら「男の乳首を舐めたことのある」女、「乳首を舐められて感じた」男が七割いたとか、もう心の底からどうでもいいハナシを延々延々延々延々延々語り続ける。
 これらは最初に書いた「男は身体性を取り戻すべき」とのテーゼから出発し、そのテーゼを解決する処方箋として、ドヤ顔で持ち出してきたものであるわけですが、しかし上の腐女子についての考察を踏まえると、やはり一種のポーズであるとしか思えないわけです。

 金田師匠は(渡辺直美など、女性の中に太っていてもいいという価値観が生まれつつあるという事例を出して)

 男性のほうも「太っていても、貧弱でも、背が低くてもいい。他人と比べなくてもいい。自分の身体は愛おしいものだ」という流れに向かうこともありえたかもしれませんね。
(173p)

 ただそれよりもまずは包茎も含めて男性が自分の身体のあり方をもっと肯定できるようになればいいなと、やはり思いますね。
(179p)


 などと世にもテキトーなことを垂れ流します。
 繰り返しますが、ぼくは「男も身体性を取り戻せ」との掛け声そのものは賛成します。しかし彼女らの言に、どれだけ価値があるのでしょうか。
 斜陽のテレビは、ただひたすら女性に媚びるだけが生き残り戦略ですから、独身のブスやデブといった弱者女性たちに「そのままでいいんですよ」と甘言を垂れ流すコンテンツを大量に送り出しています(ぼくはあんまりテレビを見ないのですが、それでも伝わってきます)。上の「太っていてもポジティブな女像」というのもそれで、一つには「単に弱者女性への甘言」であり、もう一つは視聴者の女性に優越感を持たせるための「自分よりもブス」枠なんじゃないでしょうか(渡辺直美さん、明らかにそれっぽいですよね)。

 対談は次第に、「非モテ男性論」とでも称するべきテーマへと移行していきます。
 しかしなされるのはミニマリスト(できるだけモノを持たないで生きていく主義の人)を礼賛するだけの、お気楽なもの。そう、もうぼくが無限回数繰り返している、フレンチとウナギを食いながらの「お前らは牛丼食っとけ」論ですね。
 澁谷師匠は上野千鶴子師匠の「マスターベーションをしながら死んでいただければいいと思います」発言が叩かれたことが不当であるとし、

上野さんは生身の人間とセックスをしたいという欲望には「抑圧と支配の欲望」と「コミュニケーションの欲望」の二種類があって、前者にかんしては「そんなものを社会が保証してあげなければいけないという「性的弱者の権利」なんかない」と言っており、後者にかんしては「愛し愛されるためのコミュニケーション・スキルを磨いていただくしかない」というきわめて当たり前のことを言っているにすぎない
(176p)


 などと平然と口にします。まさにフェミニズムが男への憎悪だけを根拠にした思想であることが明瞭に示された名文です。
 確かに、「コミュニケーション・スキルを磨くしかない」は正論かもしれません。しかし両師匠はこれ以降、「男どもは自助をせず助けろ助けろとほざきみっともない(大意・176p)」と腐しますが(ではフェミが莫大な国家予算をぶんどっているのは何だ)、そもそも恋愛においてコミュニケーション・スキルが要求されるのは専ら男ですよね。それは上野師匠自身が以前に言っていたことすら、あります*1。また仮に、もし両師匠が夢想するように女性が積極的になっているのなら、そうしたバイアスはなくなっているはずなのだけれども、実際にはなくなっていない。
 結局、自分たちは「女は強い、女は強い」と根拠の怪しい妄想を振り回し、しかし男女格差(女尊男卑と言っても、ぼくの嫌いな言葉ですが男性差別と言ってもいいのですが)はひたすらに無視して男の(女が強くなっていないからこそ出てきた)主張をねじ曲げ、荷を背負わせたまま、みっともない、不当な要求をしているのだとインネンをつけているだけなのです。


*1 チェリーボーイの味方・上野千鶴子の“恋愛講座”


 両師匠はまた、「メディアが幸福な独身男性像を発信していない(ことが悪いのだ)」などとも言います。「四〇代以上の異性愛男性が恋人も妻もいないけれど充実した毎日を送っているというような作品(177p)」というのが全く思いつかないそうなのですが、それはフェミニズムの成果として、「必ず、女を出さなければならなくなったから」でしょう。そう、横山光輝とかその時代の漫画を見ると、本当に女は全く出てこないのが普通だったり(下手すっとBL的に、「少年」が一般的な「女性」の性役割を果たしていたり)します。そこを女性の社会進出が絶対正義なので、男性向けの漫画にも女性がいっぱい出るお約束になったと、ただそれだけのことです。昔の作品をリメイクした時、よくぶっ込まれますよね、新しい女性キャラが(一方で女性性が「相対化」され「紅一点」の図式が崩れ出したことも時々指摘していますが、冗長になるので今回は置きます)。
 一方、何でも「幸福な独身女性像」を描いたコンテンツというのはいくらもあるのだそうな(176p)。まあ、女流漫画家などにはフェミが多いから、そうした女性像(何か、独身でも男を蹴落としてバリバリやってるキャリアウーマンの漫画とか)が多いのは事実でしょう。しかし、圧倒的多数は男にモテることを楽しむ漫画でしょう。藤本由香里師匠の漫画論とかもそうですが、この人たちって膨大なテキストから自分のお気に入りのものだけを取り出してさあどうだとドヤっているだけなので、何とでも言ってしまえるんですね。
 結局、本稿は専ら「男を貶める」という目的のためにロジックが展開されていきますが、それを分析していくと、根拠がないのは言うまでもないとしても、「フェミニズムは結婚制度、恋愛そのものを否定することで弱者女性をも追いつめているのだ」ということがつまびらかになっていくばかりなのです。これはこれで極めてエキサイティングな対談と、言わねばなりませんがw
 最近も漫画家の松山せいじさんがツイッターで「女性のひきこもり」が「家事手伝い」という名前の後ろに隠れ、可視化されていないので親の死と共に大問題になってくるだろう、との指摘をしていました。そう、女性が秘めている問題というのは一つにフェミニズムが自分にとって都合が悪い故に隠蔽し、二つ目には女性本人の虚栄心、三つ目に男性の女性への遠慮という心理が働くため、表に出てこないんですね。例えば「高齢処女」というのは「高齢童貞」よりも闇が深いと言われますが、ならば「高齢処女」の調査をお前がやれ、取材とかしろと言われても、気後れしてちょっとできませんよね。そうした事情が「女は元気でモテるので、非モテ問題など抱えていない」という耳に快い空論にすり替えられていっているのです。
 フェミニストたちはそうした女性こそを救うべきだと思うのですが、まあ、それができればフェミニズムとは言えません。結婚もセックスも全否定するのがフェミなのですから。

 さて、言わばミニマリズムに相対する概念としての、インセル(的なるもの)も話題に上ります。

金田 「女を手に入れることだけを考えて三〇年、四〇年生きてきたのに、いまさらそんなことを言われても取り返しがつかないんだよ!」ということ?
澁谷 そうです。(以下略)
(175p)

金田 そのことに関連して、ネットなどでよく目にする「非モテがつらい」言説などを見ていて私が思うのは、もちろん女性でも非モテがつらい、恋人がほしいと思っている人はいるのですが、それで「私を選んでくれない男のせいだ!」といって男を憎みだす人というのをほぼ一度も見たことがないんです。ところが男性の場合「俺が非モテで選ばれないのは女がわがままだからだ」と言う人がすごく目立つ。
(175p)


 奇遇です。ぼくも「私を選んでくれない女のせいだ!」といって女を憎みだす人というのをほぼ一度も見たことがないんですが。
 いつも繰り返している通り、これは「女は主夫など養わない、ならば女に主婦に収まってもらった方がいい」というネット世論が彼女らの目を透過したがため、情緒によるノイズが混じりこんで歪められてしまったものでしょう。
 そもそもそこまで男が女にがっついてれば、男性向けの恋愛マニュアル誌って今も毎週出てますよね。一方、女性向けの結婚情報誌って驚くほどに分厚いんですが。ここからは逆説的にむしろ、「男のそういうところだけを執拗に執拗に探し出し、ガン見している被愛妄想者のストーカーぶり」が立ち現れています。「男たちが私を求めている、求めている!!」と彼女らが叫ぶ度、どっちがどっちを求めているのかが、いよいよ露になるという、フェミニストおなじみのの自爆芸です。
 一方、「男を憎む女性がいない」という物言いも、当ブログをお読みのみなさんにしてみれば、失笑をもって迎える以外、手のないものかと思われます。ここ三十年来、あれだけ「いい男がいない」と女の喚き声が聞こえてきたのは幻聴だったんでしょうか。「草食系男子」という言葉からして、そうした罵倒語として解釈されることの方が、むしろ多いですよね。
 要するに、「高齢処女」の話題の時に挙げた女性の虚栄心、男性の遠慮がフェミニズムを肥え太らせ、マジョリティ女性を苦しめているのです。それは「テレビのブス向けコンテンツ」を鑑みても、そしてこの両師匠の振る舞いを見ても、明らかです。
 そして、彼女らの物言いとは裏腹に、ネット上ではおびただしい「男を憎む女」たちが惨憺たる有様を見せています。いえ、確かにそういう女たちは「モテないから男を許せない」とは明言せず、「女性差別」、「男の性犯罪」を批判するというテイを取っています(もちろん、それを言えば「モテないから女を許せない」と明言している男性も、先に書いたように見かけないのですが)。しかし、フェミニストのそれと同様、彼女らの糾弾する対象には非常に往々にして実態がない。ならば彼女らが本当に憎んでいるものが何かはもう、お察しなのではないでしょうか。
 両師匠は「結婚したい男たち」、「女が手に入らないが故に女を憎む男たち」というトピックスについて極めて饒舌に語り続けますが、裏腹に女性の婚活ブーム、専業主婦願望についてはついぞ語ろうとしません。当たり前です、語ったら自説が崩れてしまうのですから。

 こうして、前回も今回も、とにもかくにもフェミ、男性学側の主張には理がなく、一方で彼ら彼女らが理がないとしている反フェミの主張には、理がある、そして反フェミが提示している主張の根拠すら、フェミ側が隠蔽しているようにしか思えない、そんな惨状ばかりが映し出される結果になってしまいました。
 しかし……彼女らの物言いは驚くほどに上から目線であることに加え、何だか自己陶酔的です。先の上野師匠の問題発言を擁護した上で、澁谷師匠は続けます。

恋愛やセックスにかんして「自分(たち)で解決せよ」と言われた際に男たちが見せるヒステリックな反応は研究に値すると思います。
(176p)


 続いて金田師匠も。

たしかに「なぜ女がケアをしてくれないんだ」という不満がありそうですね。
(176p)


 彼女らは口では脱恋愛、脱結婚を語っているが、情緒のレベルでは、実はそうではない。
 フェミニズムの本質は「性犯罪冤罪」である、そして「女災」とは「性犯罪冤罪」を広義に解釈した概念である、とはぼくが常に述べていることですが、さらに言えばこの「女災」の本質は上にも述べた「被愛妄想」です。彼女らは現実を歪めることで、「男たちに求められる」というポルノ的幻想を体感している。だからこそ彼女らは楽しそうであり、また恐らくその脳裏には「幼い、駄々っ子のような男を癒す、女神のような女性」としての自己イメージが結ばれているのではないでしょうか。それは

そうですね。私が『平成オトコ塾』の包茎の章で伝えたかったのもまさに「自分の体を愛してあげよう」ということだったんです。
(179p)


 などという澁谷師匠のお言葉からも明らかです。
 では、お二人は(言っていることの妥当性は置くとして)悪意のない善人なのでしょうか。
 いえ、自分が悪意を持っているということの自覚ができずにいる、とでも表現するのが正しいのではないかと思われます。
 澁谷師匠は包茎手術の失敗でペニスがズタズタになった男性を著作で笑いものにしている包茎手術マニア。一方金田師匠がどんな方かは、当ブログの愛読者の方はご承知の通り(リンクと本文とは一切関係がありません)。男性への悪意がないと言われても、信じろという方が無茶です。もっとも、「男性学」者たちやリベラル様たちはどういうわけかあどけなく彼女らを「女神」であると信じていらっしゃるご様子ですが。
 この女神のように慈悲深いワタシという自意識、それを盲信する男性支持者、そして、しかし実際に彼ら彼女らの胸に秘められているのは悪魔のような憎悪、という三点セットは、そもそもフェミニズムの一番の特徴であり、また「終末カルト」と全く同じ構造を持っていることは、以前にも指摘しました*2。


*2 トンデモ本の世界F


 ――というわけで今回は何とまあ、お二人の対談だけで終わってしまいました。
 仕方ありません、次回こそを最後にしますので、もう少々おつきあいください。

■補遺

 今回のトップ画像に「?」と思われた方も多いと思います。
 これは『伊集院光深夜の馬鹿力』のコーナー、「クワバタオハラのうちらに任せてや」をイメージしたもの。あくまで伊集院のラジオのコーナーであり、実際にある番組ではありません。今回のテーマにまさにふさわしいと思い、選びました。とは言うものの、ちゃんとした説明には時間がかかるので、よければ聞いてみてください。




『現代思想 男性学の現在』(その2)

2019-04-13 01:54:01 | 男性学
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 まずはお知らせです。
 青眼鏡、白饅頭たちによるラディカルフェミニスト礼賛がステキな動画になりました。




野原ひろし リベラルの流儀 第1話 真のフェミでガッツリ!


 みんなで見よう!!
 ……というわけで、さて、続きです。
 初めての方は前回記事から読まれることを推奨します。
「男性学」については今までも幾度も述べてきましたが、このタイトルを見ては採り挙げざるを得ない……ということで始まりました本エントリ。前回は伊藤公雄師匠、田中俊之師匠などこの業界の大物(……?)たちの、読む前からお察しな千年一日の文章をご紹介しました。まあ、「基本編」といった感じですね。 今回は変化球というか、「男性学」にとっては「やや周縁」、「やや異端」な人たちの文章を集めて批評してみよう、という趣向です。
 因みに今回、この『現代思想 男性学の現在』という一冊の本を指す場合は「本特集」、それぞれの記事を指す時は「本稿」、そしてこのブログ記事は「本エントリ」と表現することで区別しております。
 また、(これは前回も同様で、その時にお断りしておくべきでしたが)男性学の研究家を男性学者と書くと「男性の学者」を指しているみたいで紛らわしいので、「男性学」者と表記します。

○フランシス・デュピュイ=デリ 男らしさの危機、あるいは危機の言説?

 前回では本特集を評して、ネット世論などの「本来、相対すべき主張」に反論しようとしていない、と述べ続けてきました。そんな中の数少ない例外が本稿です。
 え~と、この人、何者か知らんのですが、フランシスっていうところ見るとフランス人ですかね?
 あ、違う?
 とにかく「英語圏以外の欧州の人」っぽいところが何とはなしにありがたみを感じさせますが、とにかくわざわざ外国からお呼びしたこの人の主張がまあ、何というか、非道いもの。要するに「ネット世論」に対して抗するべき言葉を持たない「男性学」者たちが泣きながらガイジン様に泣きついたものの、そのガイジン様の口から出てくる言葉も無残の一語……とまあ、ぼくの目からはそんな風に評する以外、どうしようもないものなのです。
 表題はこのフランシス師匠の著作のタイトルで、本稿はその一章を抜き出してきたものだそうですが、内容としては昨今「男らしさが危機を迎えている」との言説がはびこっているとの認識を前提して、それについて反論していくもの。何でもアメリカなどではこの種の「男らしさの危機」について書かれた本が何冊も出ているとのこと。
 しかし師匠の反論は、その種の本は「文学的テクスト群に示されているもの(78p)」が根拠になっていることが多いのでダメ、「しばしば映画を参照する(79p)」のでダメといったもの。つまり敵の主張は根拠が小説や映画だからダメだ、というのがこのフランス人(とは限らんって)の子供めいた主張なのです。それじゃあ小説を読みながら腐女子がBL妄想をこじらせてるだけの『男たちの絆』なんて全否定なんでしょうなあ。
 面白いのは上のような「男らしさの危機」本では、日本の「草食男子」にも言及がなされているということです。それに対してのこのフランス人の反論は、日本の政治や経済の重要なポストに女がおらず、またこの種の本は「資産、住居所有権、家事や育児における異性間の配分に関して少しの詳細も提供しない(80p)」からダメだという、バッカみたいなもの。イヤミ君、日本では(国際的には例外的に)主婦が家計を握っているって、知ってます?
 あ、すみません、わかりにくかったと思いますが、今のは「フランシス」師匠をフランス人だと決めつけ、しかもフランス人だから「イヤミ」だと思い込んでいる、というギャグです。
 何にせよ、「男が虐げられてるなんて嘘だも~ん」という言い訳は、今まで「男性学」者によってなされ続けてきました。それらは「男がどれだけ過労死しようとも、ホームレスの圧倒的多数が男であろうとも、エラい人が男である以上、男のエラさは揺らがない(キリッ」という幼稚園児のような理論でした。それではネットの弱者男性による世論に抗しきれず、イヤミ君に理論武装を外注してみたものの、別段、言うことは変わらなかったというのが、本稿のおそ松なオチです。そしてイヤミ君は「アリバイ証明は終わった」とばかりに、後は延々「男らしさの危機は主観にすぎない」と繰り返すばかりです。
 しかし、主観性をよしとしてきたのは何よりフェミニズムだろうというツッコミはおくとして、上にホームレスなどの例を挙げたように、実際のところ、その「主観」は全て「客観的事実」に基づいているものであることは、自明なのです。本稿は先行する書籍への反論という体裁をとっており、ぼくもそれらの本を読んでいないので断言はできませんが、それらにそうしたデータが挙げられていないというのはちょっと、考えにくいのです。
 そもそも、根本的なことですが、本稿では繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返しこの「男らしさの危機」という言葉が繰り返されるのですが、その内実は、ふわっとしていて、判然としません。以前、ぼくは日本のフェミニストたちが「女をあてがえ論」という「存在しない主張」を仮想して、男性側を攻撃していたことを指摘しましたが*1、この「男らしさの危機」という概念もまたそれと同様に、このイヤミ君の目に映るふわっとした「政敵」の像にすぎず、本来の論者の姿を正確に捉えたものではないのでは、との疑いを禁じ得ません。
 以降もイヤミ君のうわごとは一行一行がフェミニズムへの鋭い批判になっており、抱腹絶倒。

 単なる言説が問題となっているからといって、男らしさの危機についての主張が現実に対して効果を持たないというわけではない。コミュニケーションの専門家たちは、政治的社会的な勢力が、自分たちに有利な資源の流用を促進するために、危機の言説にしばしば依拠することを喚起している。
(82p)

危機についての一言説は、たとえ本物の騒動がなくとも、たとえシステムが本当に揺り動かされたり脅かされたりしていなくとも、信じるに足るものと思われることができる。
(82p)


 まさにmetoo運動、性犯罪冤罪への鋭い批判ですね。

 われわれ――男性たち――が危機に瀕していると宣言することは、われわれについての注意を喚起し、諸処の権力機関がわれわれによりいっそうのサービスと資源を割いてくれるように、それら機関に圧力をかけるという効果を持ちうる。
(82p)


 そう、フェミニズムはそうした手法により、ぼくたちから軍事費に勝る予算を剥奪しました。 とにかく「男らしさの危機」の言説が現実に影響を及ぼしているぞ、及ぼしているぞと繰り返しているのですが、その前の、「男らしさの危機」に根拠がないとする言説が極めて薄弱。当たり前です、「男らしさの危機」はあるのだから。だからイヤミ君はふわっとした観念論をもてあそぶしかないわけです。

 加えて、男らしさの危機の言説は、たとえ社会において男性たちがいまだにあまりにも明白に支配的であるとしても、フェミニズムと解放された女性たちが体現する脅威に抗して男たち(さらに潜在的にはいくらかの女性たちも)を動員するための道具である。(84p)

 男らしさの危機の言説はしたがって、至上主義者の論理に属するのであり、それゆえに一九七〇年代にフェミニストたちによって提起された「男性優位」や「男性至上主義者」といった表現や、クー・スラックス・クランのようなグループの白人至上主義に反応したアメリカの反レイシストたちを再び取り上げるのは、適切なように思われる。(中略)最後に、男性至上主義は概して女性に対して、そしてとりわけフェミニストに対して、軽蔑と憎悪を助長する傾向もある。
(84p)


 はい、また本音が漏れました。ただ単に「フェミに逆らうからムカつく」と言っているだけです。「男性学」は「フェミ言い訳学」と言い改められるべきでしょう。
 ともあれ、この稚拙な論文は八田師匠の「インセルはトランプ支持者だ、そうじゃなきゃ嫌だ!!」とのファビョり*2と「完全に一致」していると言わざるを得ません。 ちなみに、引用中、アンダーライン部は原典では傍点です(以下同)。この「至上主義」の意味は今一わかりませんが、文脈からするに「(男性)優越主義者」みたいな、もっとどぎつい意味あいが込められているのではないでしょうか。
 もっとも最後の節においては、一応、もうちょっと具体的な反論が試みられています。『男性の終焉』という本を著したハンナ・ロージンは「いまだエラい人は男が多いが、それは時差であり、それよりジェンダーにおける華々しい変化があったことが重要だ(大意)」と言っているそうです(85p)。この女性がどういう人物かは知りませんが、何だかフェミニストが言いそうなセリフって感じもしますね。要するに「(男性の方がトクをしているというフェミニズムの世界観を仮に正しいとして、その上で)仮に男女平等が達成できていないにしても、フェミによるパラダイムシフトが男性を脅かしていることは事実だ」とでもいった主張を、彼女はしているのです。しかしイヤミ君は相も変わらず、それに対して「でもまだ男の方がエラいんだ、エラいんだ」と泣きじゃくるばかり。
 もう一つ、ダニエル・ワルツァー・ラングという社会学者、当初はフェミだったのが転向した人物だそうですが、この人は「男性には輝かしいモデル、イメージがなくなっている(大意)」とのまっとうな主張をしています(86p)。これに対してもイヤミ君はオウムのように同じ反論を繰り返すばかり。「現状を見るに女性の社会進出が成就するまで千年はかかろう」などともおっしゃっていて、どうも皮肉のおつもりらしいのですが、それは単純にフェミの「理念」か「方法論」かどちらか(あるいは両方)が間違っていた、ということではないでしょうか。
 ちな、このラング氏はセクハラで訴えられ、証拠不充分で釈放されていると言います。そりゃ、状況からみてどう考えてもやってるということなのかもしれませんが、釈放された者に対してこういうことを得意げに書くってどうなのかなあ。表現の自由クラスタも自分の意に反するフェミに対しては、保守寄りの団体で講演したの何のと大はしゃぎで書き散らしますが、それを連想します。
 とにもかくにもイヤミ君は馬鹿の一つ覚えで「エラい人の女性比率が少ない」と指摘し、「こっちは数字を挙げているぞ、相手は感覚でものを言っているだけだ」と泣きわめくだけ。そして「男らしさの危機」論者は「男性のパニックをあおるために……。(87p)」それをしているのだ、とまで言い募ります。いくら何でも卑劣すぎるのではないでしょうか。

 彼の滑り坂論法の主張に従うなら、男らしさの危機の言説とはそれゆえ一つの「新しい代案」、時宜を得ないフェイクニュースである。「男性たちが現在抱える不安」は、幽霊への恐怖に似ている。人々は存在しない何ものかについてパニックを起こしているのだが、ぺてん師たちや布教者たちは、われわれがパニックになるだけの理由を持っていると証明したがっているのである。
(87p)


 まさに全てがフェミへのブーメランです。
 この「滑り坂論法」というのは「男らしさの危機」論者の主張で、先にも述べた、「フェミニズムのもたらした変化により社会は不可逆の流れを持った、それこそが男らしさの危機だ」というものらしく、正論としか思えないんですが、イヤミ君は自分を差し置いて相手をペテン師だとまで口汚く罵るばかり。 てか「男らしさの危機」が幽霊であるなら、そもそも「男性学」って必要ないんじゃないでしょうか。

 客観的事実(物質主義)と主観的知覚(観念主義)との間では、もしそのおかげで人々が擁護し売り出そうと努めるまことしやかな主張を正当化できるなら、第二のものを選ぶほうが良いらしい……。
(87-88p)


 この無残極まる論文の最後の一文です。 一つだけわかったのは、この地上で一度たりとも客観性を保証したことのないフェミニズムという学問、否、カルトの信者は、「我こそは客観主義なり」と泣き叫んでいる滑稽な人々である、ということでしょうか。
 シェ~~~~ッッ!!(最後に無理矢理入れてみました)

*1 男性問題から見る現代日本社会
*2 八田真行「凶悪犯罪続発!アメリカを蝕む「非モテの過激化」という大問題」を読む

○海妻径子 CSMM(男性[性]批判研究)とフェミニズム


 これまた、日本の研究者ではありますが、話題は海外事情についてです。
 まず北米の「男性学」誕生の経緯について述べて、当初はフェミの傀儡から始まったが、抵抗勢力としてファレルなど反フェミ的な層が出てきたのだとしています。そして、そうした勢力は「いわゆるオルタナ右翼の一部を構成しているとも考えられるが(94p)」。
 あっ、はい。
 この種の運動は「(New)Male Studies」と呼ばれ、「"I feel(私は…と思う)"の多用、言い換えればある種の「感情の共同体」の構築が試みられることが指摘されている。(94p)」と、海妻師匠は指摘します。イヤミ君の主張と全く同様ですね。しかし『男性権力の神話』の名を挙げながら「主観だ、主観だ」と繰り返すのだから、イヤミ君よりも悪質と言えるのではないでしょうか。
 ちな、Hernという人物の言葉として、以下のようなフレーズが引用されています。

もはや男性それ自体がジェンダー化された存在と認識されるだけではなく、彼らあるいはその一部が、福祉システムが対応あるいは何らかの理由で対応しないジェンダー化された社会問題であることも、次第に認識されるようになってきた。暴力、犯罪、ドラッグ、売春、事故(を起こすこと)、(暴走)運転、そしてまさにそれらを性暴力として認めるのを拒むこと。
(97p)


 またHearn(上のHernとは別人なんですかね)は、「「男性」を「ジェンダー・システムにより構築された社会的カテゴリーであると同時に、集合的・個人的な社会実践の支配的エージェント」と定義(98p)」しているそうです。 もう、これぞフェミニズムという憎悪と破壊と死と呪いの思想の本領発揮の無残さ、陰惨さですが、考えると森岡正博師匠も似たことを言ってましたね*3。或いは上のをマネしているのかもしれません。

 AMSA(引用者註・全米男性協会)が大会のキーノート・キースピーカーに非白人、外国人やゲイ、そして「女性」を意図的に選ぶようにしてきたのは、「自らの経験を専有しない」「自らの経験に対する自らの意味付けを疑い続ける」、いわば脱構築的当事者主義とでも呼ぶべき実践だと捉えることができる。
(100p)


 本稿の最後の節にある一文です。「脱構築的当事者主義」とはまた、千両なコトバではありませんか。これは「絶対に当事者になってはいけません主義」とでも言い換えられるべき言葉でしょう。
 この愚かしい選択の裏には「男はずっと当事者として威張り続けてきた」という前提がありましょう。しかしファレルが指摘するように「男性は彼ら自身の司令官になったことは一度もなかった*4。少なくとも情緒のレベルにおいての当事者は常に女性でした。フィクションで女性が被害者になるのはそれ故です。悲しむ権利を持っているのは女性だけなのだから、男性が悲しんだところで観客の共感を得られないから、です。
 本特集に登場した「男性学」者たちが「男も感情を発露すべき」といった主張をしているのだから、そこには一応、上のような考えが前提されているはずなのですが、しかしいざ男が感情を発露させようとする度、「女性様のお気持ちを慮れ、慮れ」という圧力がそれをもぐら叩きのように叩き潰す。その一連のマッチポンプの過程こそが「男性学」の本質だったのです。

*3 拙著で採り挙げたのですが、読み返すと森岡師匠が直接言っているわけではありませんでした。師匠が最終チェックを行い、また師匠のブログで大々的な紹介がなされている大阪府立大学大学院の人間社会学研究科の「女性専用車両の学際的研究 性暴力としての痴漢犯罪とアクセス権の保障」というレポート、恐らく師匠が指導したと想像できるものの記述です。「フェミニズムは男性の性欲を批判してきた云々」といった文章の脚注として、

また、ここでの「男性」とは、性差別(社会的男性の優位性・女性の劣位性)の存在する社会において、男性として身体的に範疇化されていることからその優位性を当然のこととし、それを根拠に(またそのような社会体制を維持するために)女性を搾取する集団を指す。


 などと書いている非道いものです。
*4 男性権力の神話 《男性差別》の可視化と撤廃のための学問(その2)

○藤高和輝 とり乱しを引き受けること

 あ、この人は日本人で多分、ヘテロセクシャル男性。では何故今回ご紹介したのか。後で述べますので一応、そこを念頭に置きながらお読みください。

それ(引用者註・男性学やメンズリブ)はフェミニズム運動に対して、「男もしんどいんだ」と不平不満を吐き散らし、同情を乞い求める実践ではない。それはむしろフェミニズムとともにあるような運動であるだろうし、そうであるべきである。それは男性側からのフェミニスト的応答であり、したがってフェミニズムと断絶した試みではなく、その連帯を模索する試みであるはずだろう。
(127-128p)


 あっ、はい。

私はいまでも、フェミニズムとはじめて出会ったときの喜びを鮮明に覚えている。それは私が普段抱えていたジェンダーという謎にはじめて応えてくれた知であり、そして「あなたは男らしくある必要はないのだ」というメッセージを与えてくれた。ベル・フックスの「フェミニズムはみんなのもの」という主張に、私はどれだけ勇気づけられただろう。私の〈違和〉はフェミニズムとの出会いをもたらしてくれたのであり、フェミニズムは私をエンパワメントしてくれた。
(134p)


 あっ、はい。
 ちな、「エンパワメント」というのは偏ったイデオロギーの主以外にはあまり耳慣れない言葉だと思うので付言しておきますが、「力づける」といった意味です。
『仮面ライダー龍騎』には仮面ライダー王蛇というキャラクターが登場します。悪のライダーで、無抵抗の弱者であろうと陰惨に殺すことを楽しむシリアルマーダーなのですが、ある時獲物を呼び寄せる囮として少女を利用したところ、その少女が王蛇を自分を救ったと思い込んで慕い、ついて回るというエピソードがありました。 想像するに、彼らもまた、同じなのではないでしょうか。
 全世界への、専ら憎悪のみに満ちた思想であるフェミニズムを、信奉者(の、男性)は一体全体どういうわけか「この世界がすべての人にとって優しい世界になることを目指すための運動」などと理解しています*5
 大体においてインテリというのはひ弱なもので、小中学生の男子のヒエラルキーの中ではいじめられていた。彼の中にはその時の復讐を果たしたいという怨念が渦巻いている。ここで「ジェンダーが何たらかんたらなので男はワルモノ」と言ってしまえば自分をいじめた男たちに復讐ができる。
 それが彼らの中にある共通のモチーフなのではないでしょうか。いや、彼らのターゲットはどういうわけか、彼らをいじめたわけでもない、彼らよりもさらに弱い男性に限られるのですが。
 そして話は何か「アイデンティティの超克など考えてはならず、男性性を引き受け、女性様に謝罪と賠償を未来永劫大江健三郎くらいに繰り返そう」と続いています。いや、ワタシの脚色がかなり施された要約ですが、大体そんな感じです(128-129p辺り)。
 重要なのは上の「アイデンティティの超克など考えてはならない」という部分で、要するに藤高師匠は「シスヘテロ男性*6としての自分というスタンスから逃げるな」と言っているのです。
 ここだけならば、これは正しいと言わずにはおれない。ぼく自身が常に繰り返している、ぼく自身のスタンスでもあります。「ジェンダーフリー」などという呪文を唱えて、敵の目を誤魔化すのではなく、自分の立ち位置から逃げるなと。
 そして藤高師匠はこれ以降、森岡正博師匠の主張を引用し(本特集は「森岡萌え特集」と呼んでいいくらいに、とにもかくにも森岡フェチたちが一堂に会しています)、第二次性徴期の変化への違和という、「ちょっとセンシティブな男性ならば共通の体験」を吐露します。そこまでは結構な話です。
 しかし、上にもあるように、師匠は男を生まれながらの罪人だと考えている。どう理論が展開するのかと思えば、師匠はこれ以降「ボクちん、ジェンダーレスなカッコちてるのでトランス様に共感ちまちゅ(129p)」みたいなことを言い出すのです。あ~あ。
 これはちょっと余談になりますが、師匠はDSMではまだ性別違和が精神疾患とされているが、WHOでは今年になってそれが外されたことを説明(132p)、脚注では「健常者だが保険がきいていい」みたいなことが書いてあるんですね。こりゃ杉田水脈氏も騒ぐわとしか。
 さらに師匠は何たら言う学者の「違和連続体」という言葉を持ち出して、例えば森岡師匠の記述を鑑みるに「シスジェンダー」すらこの「違和連続体」の主であると考えることもできる、などと言い出します。正直「違和連続体」という言葉の意味は今一よく理解できんのですが、要するに師匠は「シスヘテロ男性」だって自分の性に違和を感じるぞ、性に悩んでいるぞ、と言っているのです。
 あ、まんざらでもないかな、と思っていると、「こうすることでトランスジェンダー」を脱病理化することができる、などと続くのだからたまりません。つまり師匠は、「ノーマル」とされる「シスヘテロ男性」の性の悩みを「アブノーマル」とされるトランス様を救うためのダシにいたしましょう、とおっしゃっているのです。「男性というマジョリティに生まれた罪をそそぐため、マイノリティ様に平身低頭せよ。そのためには自らの中にある違和連続体を鑑みることだ」と言っているだけなのです。 そうじゃないだろ、としか言いようがありません。 ぼくたちが男の娘に萌えるのは、「男の娘が萌えるから」であって、「無垢で清浄で高潔なるトランスジェンダーというマイノリティ様に共感するため」ではないのです。
 藤高師匠のしているのは「俺もマイノリティというトップエリートの仲間に入れろ」との要請であると共に、「しかし俺以外の愚民どもは仲間に入れてやらん」との偏狭な選民意識の発露でもあります。これはサブカルのオタク批判、また自分をオタクだと思い込んでいる一般リベのしがちな「オタクは男の娘とかを好むのでジェンダーセンシティブだ」発言と、「完全に一致」しており、これらは全てみな吐き気を催すような腐臭に満ちています。 藤高師匠は森岡師匠を「男性性」に留まった者として描写し、「私は森岡のように男性性を肯定できなかった」と繰り返します(133-134p)。つまりは、森岡師匠を踏み台にしておいて、「でも俺の方が」と抜け駆けしようとしているのですね。
 しかし以前も描写したように*7、森岡師匠もまた「ボクこそは目下話題の草食系男子です、女子のみなさん、つきあってー!!」と哀願している人。何というか、両者とも、とにかくママに許してもらおうと顔を鼻水でパックして、自分の脇にいる者がいかに「シスジェンダー」に留まっているものかを指摘して、蹴落とそうとしている者たちであるとしか、言いようがありません。まさに「男性学」者特有の競争意識、すさまじいまでのマチズモでもって、彼らは血で血を洗うライダーバトルを今日も続けているのです。
 まさにこの世の地獄ですが、そこで「捕食すべき対象」として否応なくバトルに参加させられているのがオタクなのだからもう、はた迷惑としか言いようがありません。

*5 トンデモ本の世界F
まあ、しかし、考えてみればオウム真理教も彼ら主観ではそうした運動だったのでしょうし、まんざら間違っていないとは言えます。
*6 ちなみに「シスヘテロ男性」とは(正確には「シスジェンダー」といったかと思いますが)端的には「ジェンダー的にも男性であり、異性愛者である、いわゆるフツーの男」という意味あい。マイノリティ商売がマジョリティを絞り込んで絞り込んで、圧迫せんとしていることを象徴するフレーズです。
*7 最後の恋は草食系男子が持ってくる

○黒木萬代 少女になること

 そして、本稿も論調を上と全く同じにしています。 本稿で語られるのは(疲れたので簡単に済ませますが)、「Vtuberなどに象徴されるようにオッサンの間で少女化願望が増えてるよ~ん」というトピックス。白饅頭も何か大騒ぎしてましたが、ぼくたちにとっては四十年前からなじんでいるハナシですよね。 黒木師匠は萌えキャラとして振る舞うVtuberを評し、

かくして世界は私を祝福し、私も自分自身を祝福し、世界は充足した私自身によってどこまでも満たされていくことになるだろう
(221p)


 という森岡師匠の著作を引用します。まさにため息の出るような、ある意味ではぼくたちの中にあるコンセンサスの言語化、ちょっと『電波男』的な匂いすらする名文です。 しかし師匠はさらに森岡師匠の「だからといって女性差別ダーーーーーー!!!」というファビョりを引用し、「女性の被差別者としてのネガティビティを忘れるな」と腐すのを忘れません。
 一体に、フェミニズムはセクシャルマイノリティに色目を使うなど、「男性性(という悪しきもの)を捨てた男」を英雄視します。しかし、本音では男に女性性を享受されるのも、困る。女性性は損であり、デメリットしかないという自分たちのロジックの破綻がバレてしまうからです。ぼくがよく言及する渡辺恒夫はトランスを研究し、「女になりたがっている男が増えている、男は大変だからだ」と指摘、フェミニストにタコ殴りにされ、「男性学」を伊藤師匠に横取りされました。
 師匠のVtuberに対する歯切れも悪さも、それと「完全に一致」していると言わねばなりません。
 ――今回は「ガイジン」関連の論文が二本、「トランス」にすり寄ってみせた論文が二本という構成でした。前者は海外の状況が日本と同じであることの証明、後者は「男性学」とは「男性惨殺学」であることの証明となっているかと思います。前回挙げた論者たちは迷える男性たちに声をかける、オウムで言えば『エヴァ』の上映会をやる係、大学で「世のためになる活動をしたくありませんか」と学生を勧誘する係といえましょう。
 今回の記事で、のこのこ彼ら彼女らについて行った者がどうなるかが明らかになりました。そう、武器を取らされ、この世を構成する者を弱い者から順に殺害していく手伝いをやらされるのです。
 前回の論者を「戦闘員」、今回の論者を「怪人」とするならば、次回は「大幹部」クラスの人々の文章をご紹介したいと思っておりますので、どうぞよろしく。