兵頭新児の女災対策的読書

「女災」とは「女性災害」の略、女性がそのジェンダーを濫用することで男性が被る厄災を指します。

「許せない」がやめられない坂爪真吾(最終回)

2020-08-29 13:28:28 | フェミニズム


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 さて、続きです。
 もし前回記事、動画をご覧になっていない方がいたら、そちらの方をご覧いただくことを強く推奨します。

【反フェミはこれ一本でおk!】風流間唯人の女災対策的読書・第11回『「許せない」がやめられない』(その2)【ゆっくり解説】


・第五章 弱者憎悪がやめられない

 ――さて、実際の本では第五章のタイトルは「ジェンダー依存がやめられない」。これに短い終章が続き、結論めいたことが書かれているので、まとめて論じましょう。
 今までさんざん好き勝手に罵ってきた本書ですが、先にも述べたように、ぼくはかなり最後の方まで、少々の期待と共に本書のページをめくっていました。
 本書はテーマをジェンダー関連のものに限っており、序章においてそれは、「万人が当事者性を持ち得る問題だから」と説明されます。
 これは本書でやり玉に挙がる「ツイフェミ」や「ツイクィア」には大いに当てはまりましょう。しかしそれはフェミニズムというものが最初から内包しているものです。
 先にも述べたとおり、「個人的なことは政治的なこと」というのがフェミニズムのキャッチフレーズです。男と女を雑に分け、男に悪とのレッテルを(まさに坂爪師匠がそうしているように)貼り、女性側に属する自分はいついかなる場合も正義だと言い続けてきたのがフェミニズムなのです。フェミニズムは、「ジェンダーに依存する資産、即ち女子力を持たない女性が、何とかジェンダーに依存しようとする過程」そのものでした。
 また一方、これは「ミソジニスト」とやらには当てはまらないでしょう。「男はエラい、女は下等」などと言っている「アンチフェミ」なんて、少なくともぼくはそうそう見ませんから。
 つまり、この「ジェンダー依存が止められない」というのは、どう考えても「ジェンダー強者」、「一人称強者」の女性にこそ多く当てはまることは疑い得なく、中でもフェミニズムはその最悪の形でした。となればこのタイトル自体に、フェミニズム批判が内包されているはずであり、そこに一定の期待をせずにはおれなかったわけです。
 まあ、そんな期待は無残に打ち砕かれ続けたわけなのですが……。
「当事者性の二次利用」、「怒りの万引き」といったキーワードもそうで、まさにフェミニストを斬る鋭利なワードであり、それらを不用意に振り回して、全てブーメランになって自分自身を斬り刻んでいるというのが、本書の最大の特徴です(何しろ本人もセックスワーカーでもないのに、その位置からの物言いをしているのですから)。
 いえそもそも、「男は当事者になれないジェンダーであった」→「ところが人権意識が浸透し、また何より男の立場が本当にどうにもならないほど弱くなったことで、とうとう、男もまた当事者性、一人称性を持ち始めた」というのが今、ネット上で起こっている現象なのであり、しかし坂爪師匠がそうした経緯を理解しているかははなはだ疑わしい。何しろ男がちょっと文句を言う度、本書ではそれらを全て「ミソジニー」の一言で切り捨てているのですから。
 ぼくは本書を読んでいて、「ネトウヨ」という言葉が出てこないのが、何だか不思議でした。が、この「ジェンダー依存」の章の最後でようやっと「彼ら彼女らはネット右翼と同じだ(282p・大意)」とのフレーズが登場します。ネトウヨが自分が日本人だという生まれながらにして持っている属性しか誇るものがないのと、ジェンダー依存症者は同じなんだそうな。
 まあ、いずれにせよ「当事者性」を錦の御旗にするのは「マイノリティ」の代表をもって任ずる者のお決まりの戦術です。だからそこを批判していれば、ぼくは坂爪師匠にも一定の評価を与えることができるのですが、本書では度々「ツイフェミは当事者でもないのに文句をつけた云々」といった記述が顔を見せ、要は「偽者が当事者を名乗ることは本物様に失礼なのでけしからぬ」なのか、「当事者性を特権として振り回すのは好ましくない」なのかが最後まではっきりしません。本人も、わからないまま筆を進めているのでしょう。

 佐賀県のネットやゲームを制限する案を盛り込んだ条例についても、語られます。前章では表現の自由クラスタの味方に思えた坂爪師匠です、さぞかし佐賀県の旧態依然とした偏見に塗れた見識を鋭く切ってくれるのだろうな……と期待していると、何とそれに対し、基本、賛成ムードなのです。
 例によって自らのスタンスについては曖昧なのですが、ともあれこのトピックスを「ゲーム依存は病気だ」という話につなげていき、同時に「SNS依存もまた」と言い出します。

 ジェンダー依存の背景にも、発達障害や精神疾患などが隠れていることがある。ツイフェミ及びアンチツイフェミには、「発達障害」「毒親」「メンヘラ」といった属性をプロフィールに明記しているアカウントが散見される。
(254p)


 はい、とうとう「俺の気に入らない者は精神病なのだ」とまで言い出しました。
 正直、どんなツイフェミの「男死ね」発言よりも、坂爪師匠の筆致の方が、ぼくには胸糞悪いです。
 また、ツイフェミのプロフには確かにそうした傾向がある気はしますが、アンチツイフェミの方はどうでしょうか。少なくともぼくは、そうした印象がありません。
 つまり、病気なのはツイフェミの方だけでは……?
 いえ、もちろんここには大前提として、プロフにそうしたことを書きたがるか否かのジェンダー差がまず、横たわっているのですが。
 後はお定まりの「あなたのジェンダー依存チェック」。
 ツイッターで「嘘を吐いたことがある」人は「ジェンダー依存」要注意w
 また、「togetterをまとめ(られ)たことがある」人もまた、要注意だそうです。
 そもそもtogetterは別に議論色、攻撃色の多いものばかりではないのですが、それには言及されません(当然、坂爪師匠自身がそうしたものしか見ていないからなのでしょう)。
 さらにそもそも、坂爪師匠は「ジェンダー依存」という言葉をひたすら振り回しますが、ジェンダーとは全く関係のない、例えば政治関連の議論、或いは趣味についての議論で熱くなってる連中についての言及は、全くありません(当然、坂爪師匠自身が「ジェンダー依存」であるがため、他のトピックスなど目にも入らないのでしょう)。
「そこは本書のテーマ上、省略しただけであり、文脈でわかろうから、言葉を尽くさなかっただけだ」ということなのかもしれませんが、とにもかくにも本書は全体的に説明不足。例えば本書のタイトルがずばり『ジェンダー依存』であれば、まあ、わからないでもないのですが……。
 また、この病気認定についても例えばですが、坂爪師匠が臨床医で、「最近、こういう症例が増えていて、そうした人たちはネット依存で……」といったところから話が始まるのであれば、一応傾聴に値しましょう。
 しかし端っから、最初っから、坂爪師匠は自分の気に入らない連中を扱き下ろし、とうとう病気だと言い立てだしたというだけなのです。香山リカ師匠が診察すらしていない(自分の気に入らない)有名人を勝手に「診断」して顰蹙を買ったことがありますが、坂爪師匠は「精神科医」ですらないのだから、それ以下でしょう。

 坂爪師匠は「社会運動のソシャゲ化」との説をぶち上げます(251p)。
 社会運動は青二才たちの「はしか」であったが、SNS時代にはは同志と群れ、NGOを作ることができる。ソシャゲが終わらない娯楽であるように、社会運動もまた、というわけです。が、先にも書いたように、この人の立場でそれを批判するのは、どうにも理解に苦しみます。
 以前の章でも時々見られたように、坂爪師匠は幾度も社会運動を批判してみせます。
 これは師匠の「ツイフェミ」評と構造が全く同じです。「ツイフェミ」に向けて投げたブーメランが自分を含むフェミニスト全体を完全否定しているのに、しかしご当人だけはそれに気づかず、スケープゴートをできたと胸を撫で下ろしている……この幾度も見た「ブーメランによる自死」が、「社会運動」を語る場においても展開されているのです。
 何しろ終章において、坂爪師匠はいきなり、自分はネットに溢れる「許せない!」との声を社会運動に昇華させますた、などと自慢を始めるのですから(291p~)。
 風俗関係者に給付がなされない法案(曖昧な表現ですが、恐らくコロナ関係の件でしょう)を、ネット署名で改めさせたぞとおおせなのですが……あれ、ということは碧志摩メグをネット署名で叩いたのも正義なんですかね? と慌てて読み返したら、やっぱり否定的に書いてありました。
 全くもって不可思議……と言いたいところですが、この節のタイトルは「「許せない」という怒りを「国に対する声」として昇華させる」。
 なあんだです。
「国に文句をつけるのであれば正義」が坂爪師匠の基準であるようです。
 いえ、確かにぼくも「ツイフェミ」など叩いても仕方がない、国家が男女共同参画局に莫大な予算を投じていることを批判することが先だ……と思いますが、それに坂爪師匠が同意するとも思われません。
 結局、「ミソジニー」と同じで、「社会運動」も、そして「ネット利用」も「自分がやれば正義/敵がやれば悪」ということのようです。

 最終章では(今まで変わり身の術ばかり使っていた)坂爪師匠本人が妙に前面に出てきて、饒舌に自分語りを始めます。
 自身も八年間、アンチにネット上で誹謗中傷を続けられていたそうで、それはご同情申し上げます。
 しかしそれに続いての口上が衝撃的です。「分析していて気づいた、一年間だけ、誹謗中傷の止んだ時期があった。その時期、相手はフェイスブックなどに恋人とのツーショット写真を掲げていた」。
 本当に、何というか、ため息が出ます。
 ぼくたちが自明視し、まず一番最初に言っていることに、長い長い本の最後の最後に至って、坂爪師匠も思い至ったようです。
 非モテのやっていることであると。
 言わば『非モテ論壇を斬る!』というタイトルの本の最後の最後で、「非モテブログ の運営者は非モテだった」とさも大発見のように、得意げに結論づけているようなものです。
 もちろん、この両者の揉めごとの詳細についてぼくは知らないし、興味もありません。坂爪師匠がどれほどの被害を受けたのか、或いは相手にも理があったのかなどは知ったことではありません。
 ただ、弱者の弱者性を、坂爪師匠はただ、嘲弄する対象でしかないと思っていることが、ここでも窺い知れたのです。
 フェミニズムが「男らしさ/女らしさ」の否定、男女関係の否定の思想である以上、それによって被る被害は「非モテ」と密接にかかわっているのは当然のことです。
「表現の自由クラスタ」はその結果萌えオタになった者の声を代弁すると称しているのだし、「ツイフェミ」はフェミのために婚期を逃した女性である可能性が高い。
 端的にはフェミニズムが、自分の生み出した非モテから逆襲を受けているというだけのことなのです。
 もちろん、その「逆襲」の中には不当なものもありましょう。坂爪師匠が被害を受けた事例に関してはおそらく、相手側に非があったのでしょう。しかしネット上の「アンチフェミ」の書き込みの多くは、そのようには思われません。
 本書は、その理路が理解できない筆者の、自分が何故怒られているんだろうとの、戸惑い顔の配信の記録だったのですが、最後の最後でようやっと、ことの次第に思い当たったようです。
 いや……坂爪師匠がその結果、反省してフェミニズム信仰を止める、というオチがつくわけでは、残念ながらないのですが。
 何しろ坂爪師匠は

 裁判の結果、被告の年収に匹敵する金額を和解金として支払ってもらうことで決着がついた。被告側の弁護士費用も含めれば、確実に生活が破綻するレベルの経済的打撃になったと思われる。
(299~300p)


 などと随喜の涙を迸らせながら、語っているのですから。
 本書は「ネット民けしからんですよね」と言っているだけだ、といった説明は動画でもしました。その本音が、まとめに入っていよいよ露わになっていく様子がご覧いただけたかと思います。
 しかしでは、師匠はどうしてここまでネット民に対して「許せない」がやめられずにいるのでしょうか……?
 以降はnoteでカネを取ってご説明申し上げるのですが、あ、いや、何、結論はいつも言ってるようなことです。
 もし興味がおありの場合は、以下をクリックして、どうぞnoteをご覧ください。

・終章「マインドコントロール」から「ポア」へ

「許せない」がやめられない坂爪真吾(その3)

2020-08-23 10:28:33 | セクシャルマイノリティ


※この記事は、およそ8分で読めます※

 さて、続きです。
 もし前回記事、動画をご覧になっていない方がいたら、そちらの方をご覧いただくことを強く推奨します。

【反フェミはこれ一本でおk!】風流間唯人の女災対策的読書・第10回『「許せない」がやめられない』【ゆっくり解説】


【反フェミはこれ一本でおk!】風流間唯人の女災対策的読書・第11回『「許せない」がやめられない』(その2)【ゆっくり解説】


・第三章 ツイクィアが許せない


 さて、今回やり玉に挙げられるのは「ツイクィア」です。
 もっとも、あまり耳慣れない言葉かと思います。何せ、坂爪師匠純正の造語ですから。
 詳しくは五章の項で述べますが、ぼくはずっと本書のページを、少々の期待と共にめくっていました。ここまででかなり失望させられていましたが、それでも懲りずに、微かな期待を持って、本章を読みました。
 ぼくは以前、「ホモは女の女だ」と言ったことがあります。要するに「鯛の鯛」みたいなものです。女性の聖性がさすがに減じたと感じたフェミが、「さらなるマイノリティ」として運動のダシにするために呼び込んだご神体がLGBTです。だから彼女らはホモの児童へのレイプを告発する者を恫喝するなどして、まさにLGBTの騎士たろうとします。
 その意味で、フェミにとっての「LGBT」は「政治的女性」でしかありません(だからここにはペドもSMマニアも入っていないのです)。
 そんな、ある種「絶対に立ち入ってはならぬ聖域」とも言うべきLGBTの世界に、坂爪師匠が足を踏み入れたことは大いに評価すべきかもしれません。坂爪師匠はおそらくヘテロセクシュアル男性でしょう。フェミヒエラルキーでは最下等の者が、頂点へと唾を吐こうとしているのですから、その勇気は称賛されるべきという気もします。
 さて、ではその内容は――。

 その意味で、保守派の政治家や論客による「LGBTが許せない」の正体は、「左翼が許せない」「ポリコレが許せない」であると言える。
(134p)


 はい、お疲れー。
 いじめられっ子のA君に下着泥をさせておいて、A君が女子に吊し上げられたら「弱い者いじめは止めろ」と言い出すようなものです。

 いえ、さらに読み進めると、多少毛色は変わってきます。
 節タイトルを並べると、

「ゲイが許せない」の歴史
LGBTが許せないLGBT
「T」の憎悪


 といった具合で、LGBTの内輪揉めの様子が延々と書かれます。
「あぁ、変態同士仲が悪いんだなあ。俺、関係ないから他所でやってね」と心の底から思わされます。
 まあ、「マイノリティ同士が同士討ちをする」のはよくあることではあります。ぼくが繰り返す、「オタク差別とはオタクがしていたこと」史観もそうだし、結局、その意味で「差別」という言葉はもう、耐用年数を過ぎているとしか、ぼくには思えないのですが。
 いずれにせよこの辺りは肯定的に見るならば、フラットな書かれ方をしていると表現することもできましょう。もっとも、うがった見方をすれば取り入るべき相手を定めているような印象も受けます。町にブタゴリラが引っ越してきたため、そいつがジャイアンより強いか、ジャイアンより強いならこいつに取り入らねばと品定めをしているスネ夫、といった感じです。

 と、そんなことを思いつつ読み進めると、ターフについて語られ出します。
「そら来た」ですね。
 2018年、お茶の水女子大がトランス女性の受け容れを発表した折、ツイフェミによってトランス女性の女子トイレ使用について、反発の声が上がったそうです。

 現実のトランス女性たちは、ツイッター上でこうした仮定や推論に基づく議論が行われる以前から、日常的に女性トイレあるいは多目的トイレを使っている。そして特に問題になっていない。
(162p)


 え……?
 坂爪師匠によれば、この騒動はツイッター上のごく少数のツイフェミだけが騒いだに過ぎないことだそうです(ならほっときゃええやん、と思うのですが)。
 しかし、オカマが女子トイレを使って問題を起こすことなど、今まで起こっていないはずがありません。「女装して覗きや痴漢を働いた男」の話は時々、ニュースで見聞しますよね。
 また、坂爪師匠によれば「ツイフェミ」の声は「女装した犯罪者と区別がつかない」といったものだったそうなのですが、ここには「あくまで聖なるセクシャルマイノリティとしてのトランス女性」と「女子トイレに忍び込む手段として女装する、薄汚い性犯罪者」をきっちり両断できるものといった前提があります。しかし、その辺ってボーダーレスなんじゃないでしょうか。ぼくは屁理屈をこねて正当化しつつ、下着泥を繰り返す「トランス女性」の話を聞いたことがあります。オカマの中には高確率でヘテロセクシャルがおり、オカマなら女に性犯罪を働かないわけではないんですね。
 結局この辺、実のところ「ツイフェミ」、「ターフ」とやらいう悪者扱いを受けている連中すらもが「聖なるマイノリティ」観を自明視しているように思える。となると「フラットな見方」どころではなくなります。
 いずれにせよ「トランス女性」が女子トイレを使うことを嫌がるというのは、一般的な女性心理として、理解できる。坂爪師匠はそこを丸っと無視し、「オカマは女子トイレに入れるべき」という前提を自明視しているのです。

 ぼくは実のところ、この「ターフ」問題について多くを知りません。が、「表現の自由クラスタ」が「ツイフェミはオカマを差別するから悪者だ」と主張する傾向にあるのに、きな臭いものを感じていました。
 上にも書いたように、基本、フェミニズムはLGBTの親分といってもいい。
 ひるがえって一般的な女性であればあるほど、「トランス女性が女子トイレに入ること」に抵抗感を覚えると想像できる。
 結局、こうした物言いからは、一般的な感覚を遅れたものとして一蹴したがる、エリーティズムの腐臭が、どうしたって漂ってきます。
 幾度も繰り返していることですが、小山エミ師匠は、「オカマには女湯に入る権利がある」などと主張しました*。フェミニズムはこうした空理空論に他ならず、一般的な女性には決して益しないものなのです。

* 詳しくは以下を参照。
「オカマ」は女湯には入れるのか?
「オカマ」は女湯には入れるのか?Ⅱ



 その一方、千田有紀師匠がターフ問題に意見を述べ、オカマに攻撃された件については「千田師匠は、オカマを理解しているのに、攻撃的な一部のオカマに不当に叩かれたのだ」としています。千田師匠は「ターフ」などという造語はいたずらに対立を煽るだけだと、この言葉の使用自体に疑念を呈し、それがまたオカマの怒りを買ったのだそうです(164p・大意)。
 ぼくは問題となった千田師匠の論文も呼んでいないので、どちらに分があるかはわかりません(し、興味もありません)。
 しかし、坂爪師匠は「ターフ」という言葉は「フェミに憎悪を燃やすオカマ」「オカマから攻撃されたフェミ」以外はほとんど使わない言葉だとしています。また、このターフという言葉を「不在によって存在している」とも評します。
 これはつまり、「被差別者」の位置に安住したいオカマが「敵」を捏造するために作った言葉だ、ということのようです。
 確かに、「マイノリティ」がありもしない「差別」を見て取る傾向は大いにあり、そこを鋭く描写する様には、ぼくも賛意を示したい衝動に駆られます。
 しかし既に述べたように、(坂爪師匠の主観では許されるべき)オカマの女子トイレ利用に文句を言った一派が存在し、ならばそれは(坂爪師匠の主観を前提視するならば)まぎれもない「ターフ」と呼ぶべき存在であり、ちゃんと実在しているのではないか。
 もう、ページをめくる毎に主張が二転、三転、四転し、各々の矛盾を一切気にしないのが、坂爪師匠のすごいところです。
 しかし、その真意は明らかです。要するに「フェミニストは間違ったことは言わないのだ、この騒動は似非フェミである一部の過激派が騒いでいるだけだ/LGBTは間違ったことは言わないのだ、この騒動は似非LGBTである一部の過激派が騒いでいるだけだ」としたいのでしょう。
 ところが、そうした「真のフェミニストとは似て非なるツイフェミ」の主張は「オカマが女子トイレに入るのは抵抗がある」という、一般的女性の感覚に近いもの。
 結局、坂爪師匠は一般的な人間の感覚を否定し、エリーティズムに酔っているだけなのです。
 後、そもそも、上の「被差別者」の位置に安住したい者が「敵」を捏造するために作った言葉という評って、「ツイフェミ」や「ミソジニー」にこそ当てはまることであり、「不在によって存在している」というのは「真のフェミ」にこそ当てはまることですよね。
 読み進めると案の定、坂爪師匠は「ツイクィア」などと言い出します。
「クィア」というのは元は「オカマ」とでも訳すべき、ある種の侮蔑用語だったのですが、90年代、よきものに転化していこうというクィア・ムーブメントというのが起きたのです。意味あいとしてはLGBTと同じ、セクシャルマイノリティという言葉の言い換えですが、ここには同性愛者に限らないあらゆるセクシャルマイノリティと連帯していこう、といったニュアンスが込められていた印象があります。
 実のところ、坂爪師匠はクィアスタディーズ自体を「オカマがルサンチマンを晴らすために学問の体系を僭称することで正当化しようとしたもの(168p・大意)」とまで言っており、クィアムーブメント自体にあまりいい感情を持っていないようです。
 しかし、この「ツイクィアスタディーズ」という(醜悪奇怪な)造語が出て来るに至って、その本音はいよいよ露わになります。
 師匠はある時には「(ツイ)フェミ」が悪いとし、ある時は「(ツイ)オカマ」が悪いとする。論点が整理されていないので支離滅裂な主張をしているようにしか見えませんが、要するに師匠は常に「ツイ」がついている方が悪いのだ、と言っているだけなのです。
 周縁にいるツイフェミ、ツイオカマは偽物だ。(千田師匠を持ち上げていることからもわかるように)中央にいる我ら権威者こそが正義であるぞ
 坂爪師匠はただひたすら、そう言い続けているのです。
 本書では「(ツイ)フェミがパターナリズムに堕してしまい云々」と嘆く箇所がありますが、何より権威側となり、従わぬ弱者を圧殺するぞとわめいているのは、どこまで行っても坂爪師匠の方なのです。

 ――というわけで、続きはまた来週。
「まだ続くのかよ」とお思いでしょうが、本書は「ネット世論」へのマスコミ側からの「返歌」であり、これ以降、マスコミ側の「アリバイ」として機能するはずの書。
 どうしても、丁寧に反論しておく必要があります。
 さすがに次回が最終回なので、どうぞご覧ください。

「許せない」がやめられない坂爪真吾(その2)

2020-08-16 14:56:29 | フェミニズム



※この記事は、およそ11分で読めます※


 さて、続きです。
 もし前回記事、動画をご覧になっていない方がいたら、そちらの方をご覧いただくことを強く推奨します。



 さて、今回採り挙げるのは第二章と第四章。前回、これらの章タイトルが、

第二章 男が許せない
第四章 性表現(規制)が許せない


 とされているが、実際には


第二章 ツイフェミが許せない
第四章 エロ規制が許せない


 とすべき、と指摘したように、実質的にこれらは両方とも「ツイフェミ叩き」章だからです。
 というわけで、少々長くなりましたが、道のりはまだ長い。
 ガンバって書いたので、ガンバって読んでいただけると幸いです。

・第二章 ツイフェミが許せない

 ――さて、第一章ではさんざん「ミソジニスト」(とやらいう、この世に存在しているかも疑わしい存在)への罵倒が並べられた本書ですが、第二章においては「ツイフェミ」(とやらいう、この世に存在しているかも疑わしい存在)への怒りが綴られます。
 これを聞いて、「お? 期待できるか?」と思った方も結構いるのではないでしょうか。
 しかし、対象はあくまで「ツイフェミ」であり、「フェミ」ではない。
 近年、ぼくが「ツイフェミ」に同情的な物言いをするのを聞いた方もいらっしゃるかと思います。「ツイフェミ」と「フェミニスト」の差異などこの世には存在せず、「ツイフェミ」という言葉そのものが、ただフェミニスト様が恋しくて恋しくてならぬ者によって、「真のフェミ」を免責するスケープゴートをでっち上げるために作られた言葉だからだ――ぼくがこの言葉が作られた時からずっと言ってきたことを、本章は実証するものとなっているのです。
 呆れたことに本章では、東京医大の不正入試の件に「ツイフェミ」が怒ったことでさえ、「怒りの全体化」だと否定されます。上野千鶴子師匠だって怒りを表明していたわけで、そうなると上野師匠もツイフェミなのか、と思ったのですが、どうもそれは違うようです。
 フェミニズムのキャッチフレーズに「個人的なことは政治的なこと」というのがあります。坂爪師匠もこれを引用し、しかしこれは一歩間違えると「私怨」を「社会的」に燃え立たせる口実になるぞ、と腐します。
 正論だと思いますが、そうなると「ツイフェミ」が悪いのではなく、そもそもの「フェミニズム」が最初っから間違っていたとするのが、正しいのではないでしょうか。
 また、何をもって私怨を社会化しているとすべきか、その判断基準は極めて曖昧です。上の件についても「上野師匠の文句はこれこれの意味で正当である、しかしツイフェミはこれこれの理由で不当だ」と一言あってしかるべきでしょう。しかしこの問題について、坂爪師匠はそもそも上野師匠の名前を挙げることすらないままに、話題を次へと移していきます(坂爪師匠は上野師匠に薫陶を受けており、彼女に逆らえるはずもないのです)。
 もっとも、これには補足が必要でしょう。本章で採り挙げられるのは岡村の炎上の件など、イデオロギーを置いても(フェミニズムが100%正しいと仮定しても)行きすぎだと言わざるを得ないケースが多い。坂爪師匠の主張はそうした過剰な個人攻撃への批判という、そこだけすくい取れば、納得せざるを得ないものです。
 しかし、だからこそこの二章は本書の思想的ダメさを大いに示しているといえます。
 上野師匠こそ暴言女王といってもいいような人物。いえ、フェミというのは(ツイフェミのみならず)基本、相手を口汚く罵るものです。そもそもフェミそのものが「差別されてきた者の逆襲」という「復讐史観」から成り立っており、それをよいこととして認める傾向にあるのです。
 ツイフェミとフェミニストに一切の差はないと、ぼくが常日頃から言っているのはそのためです。
 それでも敢えて「ツイフェミ」の問題点を挙げるとするならば、やはり「一人に対して大挙すること」でしょう。しかしこれとて個人個人がやっていること。主観では、「群れなし襲っている」感覚は(ネットではなおさらのこと)希薄であり、デモをやって喜ぶ「オフフェミ」よりマシだといえなくもない。
 これを否定するとなると、ネットという誰もが情報の発信者になることのできるシステムの全否定ともいえ、また突き詰めると「大衆はモノを言うな」といった主張にもなりかねない。
「みんなでマナーを守ろう」くらいしか、言えることはないのです。

 何しろ、坂爪師匠は北原みのり師匠をもツイフェミ扱いします(そう明言する箇所はありませんが、流れからは同一視しているとしか、考えようがありません)。
 北原師匠は矯風会をリスペクトしており、矯風会は「かつてから存在していたツイフェミ的なるもの」なのだそうです。坂爪師匠はホワイトハンズというセックスワーカー問題に取り組むNGOの代表を務めており、矯風会がお嫌いなのでしょうが、こうなるとツイフェミの定義すらもメチャクチャです。
 北原師匠、言うまでもなく(学術的な地位はないものの)いくつも著作があり、本書の記述にもあるように、『日本のフェミニズム』という、フェミ的にかなり重要な書を編んでもいるんですけどね。それに上野師匠とも交友関係があるし、上野師匠だって売春はなくすべきと言っているんですが……。
 石川優実師匠もツイフェミです(これ自体は四章で言及されることですが)。
 確かに石川師匠はネットで大いに暴れている方ですが、まずあの人の著作や主張は、編集者など、ブレーンとなる人物、つまり出版社側の意向が強いと想像でき、また「クソリプ」を捏造するなど、その論調はある意味、ネットを悪だとする坂爪師匠と近しいもの(師匠自身もここを認識し、ツイッターで言い訳めいたことを言っていました)。
 結局、「自分にとって都合の悪いフェミ」を、切り捨てようとしているだけなのです。

 さらに驚くべきことには、坂爪師匠は「ツイフェミの最大の憎悪の対象はフェミニズムそのものだ」と主張するのですから。著名なフェミニストの記事などがよくツイフェミによって炎上するのだそうです(ぼくにはあんまりそういう印象がないんですが)。
 まあ、フェミなんて内輪もめばっかりやってる連中なんだから、そうかもなあとしか思えませんが、さらにさらに呆れたことに師匠はツイフェミは「主流派になれなかった中高年のフェミニスト」が多いと言います。成功できなかった者の怨念がツイフェミを動かしているのだそうです。


 ツイフェミ化した中高年女性のアカウントの中には、フェミニズムや社会運動の世界で主流派になれなかった人が少なくない。修士課程や博士課程で中退・挫折した人、アカデミックポストを得られなかった人、社会活動や労働組合、当事者団体への運営に失敗したと公言している人が散見される。
(111p)



 いっそさわやかなまでの、弱者への憎悪が光ります。
 以前も松山せいじ師匠の言葉として、近しい説を紹介しました(その時は「行き遅れ」といった側面が強調されていましたが)。そしておそらくこれらは、正しい。しかしだからこそそれを嘲笑うかのような坂爪師匠の筆致には、背筋が凍るのを感じずにはおれません。
 さらに呆れ果てたことに、師匠は「ヒステリックなわめき」でしかなかった女の声を言語化したのが上野師匠を始めとしたフェミニストだったのだとまで主張します。
 左派とは、「大衆を憎む選民主義者」であり、左派がフェミニストに思慕を募らせるのはフェミニストを「エリート女性」だと勘違いしているからなのですが、そこをここまであどけなく吐露した文章を、ぼくは初めて読みました。 
 本書を読んでもミソジニストの定義は書かれていませんが、一つだけはっきりしていることがあります。
 ミソジニストとは、坂爪師匠(に代表される、左派)のことです
 本章の批判対象が、もし「フェミニズム」そのものであったなら、ぼくは師匠を大いに褒めたでしょう。
 しかし師匠は「ツイフェミ」と「フェミニスト」を「分断」しながら、しかしその両者のどこが根本的に違うのかを語らない(ないし、語ろうとして失敗している)。
 北原師匠や石川師匠までが「ツイフェミ」なら、もう誰が「真のフェミ」なのかわからない。
 これはぼくたちが、「表現の自由クラスタ」の言動として、非常に見慣れたものではないでしょうか。

・第四章 エロ規制が許せない

 ツイフェミ叩き、第二回戦です。
 本章では『宇崎ちゃん』問題や、それ以前の萌え絵を中心とした炎上事件が総花的に語られます(オタクとは関係のない会田誠の絵画展が「全ての発端」として仰々しく挙げられているのは、何か笑っちゃいますが)。
 ここでは「表現の自由クラスタ」のことを「ツイッターバーサーカー」と称し、「ツイッターアマゾネスvsツイッターバーサーカー」といった節タイトルがあったり(前者はツイフェミのことですね)、またフェミニスト側の「女性差別」という言い分と表現の自由クラスタの「表現の自由」という言い分が噛みあってないと指摘するなど、一見中立っぽく見えるのですが、やはり基本は「表現の自由クラスタ」に親和的。
 その意味で、他の章に比べて比較的、頷ける主張もなされます。
「規制派」がクレームによってポスターを撤去させるなどの「成功体験」から図に乗ったのだなど、「社会運動」の負の側面が指摘されている部分もなかなかいいのですが、しかしNGOの代表がそれを言うのはどうなんだとの疑問が、またしても頭をもたげます。
 また、「オタクの立場が弱いので叩きやすいのだ」といった指摘もあり、山口貴士、ろくでなし子、柴田英里各師匠といった「お察し」な面々の名を(この人の文章は全編に渡って本人のスタンスが曖昧模糊としていて理解しづらいのですが、恐らく)肯定的に採り挙げたりもしています。

 ただ、肝心の「萌えキャラ、ないしエロは女性差別だ」とのフェミニズムの第一義に対する坂爪師匠のスタンスは、明示されません。
 ツイフェミや表現の自由クラスタの言い分を延々と並べ、その陰に隠れて折に触れて「ツイフェミ」を攻撃しつつ、問題の根本についてはついぞ立場を明確にしない……というのが本章における坂爪師匠のスタイルです。
 フェミニズムを正しいとするならば、当然、「ツイフェミ」の「萌えキャラバッシング」を支持しなければならない。その矛盾から身をかわし、第三者面をし続ける。
 もちろん言うまでもなく、ここは青識亜論を代表とする表現の自由クラスタにも共通した点で、ぼくが彼ら彼女らを信頼できないとする、一番大きな理由でもあります。

 ――しかし、ともあれ、坂爪師匠はオタクの味方とは言えるんじゃないか。

 う~ん、そこがどうも微妙なんですね。
 何しろここでは、「オタクは右派と親和性がある」とのお約束の物言いがなされています(203p)。その理由として出されるのが、「オタクはロボットアニメなどバトル物が好きだから」という、もう、数十年ぶりに聞いたような、バッカみたいなもの。
 いえ、それだけではなく、フィクションを楽しむ、言わば全てを「ネタ」とする相対主義は、「教条的な」リベラルと親和性が低く、また「歴史修正主義」である右派との親和性が高いとの、トンデモない主張もなされます(204p~)。
 スゴすぎます。
 まあ、「右派は歴史修正主義者である」というのは、この人にとっては絶対に動かせない「真理」なのでしょうから、そこは置きましょう。しかし普通に考えて、「価値相対主義」は本来、リベラルの武器だったはずだし、仮に右派が歴史を修正したとしても、修正後の歴史は絶対視されるというのが坂爪師匠の言い分のはず。全くリクツにあっていないのです。
 また、ここで師匠は国家そのものが幻想である以上、歴史もまたある種のフィクションであるとし、以下のように言います。


 こうした保守派のスタンスに対して、「実証性が欠如している」「歴史修正主義だ」という批判をしたところで、あまり意味はない。左派の得意技であるファクトチェックに基づく批判が効かないのだ。
(203p)


 さすがにここにはひっくり返りました。
 頭に一本も毛が残ってないヤツが「俺はハゲじゃない」と言い張ってるようなものです。一体全体、何を食べて育てばここまでも輝かしい自己イメージを保ち続けることができるのか。
 また、オタクはオカマとも親和性があるとも書かれます。その理由は……はい、ご想像通り、女装コスプレや男の娘ですw
 リアルな女装者が「男の娘」を自称するのをオタクが苦々しく思っているなど、常識なのですが、表のメディアには決して伝わりません。それは、言うまでもなく表のメディアでは「オカマ絶対正義論」が揺らがぬ真理と捉えられており、オタクも世間のコンセンサスに沿った言説を吐かざるを得ないからです。
 この二点(「オタク右派論」、「オタクはオカマが好き論」)は挿話的に語られるのみで、正直、全体的に解釈に苦しむ部分の多い本書の中でも特に意味不明なのですが(そしてまた、普通に考えればこの二つの主張にはあまり親和性がないのですが)、前者は本音をポロリと漏らしたもの、後者は取り敢えずPCに則った発言をしてみたものと想像できます。
 つまり、「オタク右派(というか、ノンポリ)」は、坂爪師匠の中の位置づけとしては、「ツイフェミ」と同じであるように思われるのです。
 師匠は実のところ女性やフェミニストの中でも地位の低い者たちを深く憎悪軽蔑しつつ、政治的理由からフェミを持ち上げている。それと同様、大衆としてのオタクは深く憎悪軽蔑しつつ、業界に近いオタク、つまり「表現の自由クラスタ」のことは政治的な理由から擁護している。
 それが、この文章から仄見えているのではないでしょうか。

【反フェミはこれ一本でおk!】風流間唯人の女災対策的読書・第11回『「許せない」がやめられない』(その2)【ゆっくり解説】

2020-08-08 22:22:57 | フェミニズム
【反フェミはこれ一本でおk!】風流間唯人の女災対策的読書・第11回『「許せない」がやめられない』(その2)【ゆっくり解説】


 風流間唯人の女災対策的読書、第十一回。
 前回の解説では著者の「ミソジニスト」(とやらいう、実在が疑わしいもの)への怒りをご紹介しましたが、今回は著者の「ツイフェミ」(とやらいう、実在が疑わしいもの)への怒りをご紹介します。
 当ブログでも前後して、さらに詳しく本書の悪質さを分析していますので、そちらも併せてごらんください。


「許せない」がやめられない坂爪真吾

2020-08-01 19:26:28 | 弱者男性


【お詫びと訂正のお知らせ】

弊社刊の坂爪真吾著『「許せない」がやめられない SNSで蔓延する「#怒りの快楽」依存症』の目次において大幅な誤りがございましたので、訂正させていただくとともに深くお詫び申し上げます。

誤)
第一章 女が許せない
第二章 男が許せない
第三章 LGBTが許せない
第四章 性表現(規制)が許せない
第五章 「ジェンダー依存」がやめられない

正)
第一章 ミソジニストが許せない
第二章 ツイフェミが許せない
第三章 ツイクィアが許せない
第四章 エロ規制が許せない
第五章 「弱者憎悪」がやめられない

今後このような誤りを冒さないよう、またこのような著作を刊行しないよう、真摯に取り組んでまいります。

徳間書房


 ――と、あからさまななりすましからスタートしました本稿。
 本書については既に動画の方で第一章の解説をしていますが、ブログ記事としても多少、細かく突っ込んでいきたいと思います。
 本書はせっかく描いた自分たちの世界観が間違っていたことが露わになり、自分たちが作った利権を得るルートが断たれてしまうことに怯えた左派が、自分たちを脅かす弱者を何とか抹殺せんと腐心する、仲間たちへの作戦指令書、という意味あいを持っていました。
 というわけで、上の「真のタイトル」毎に、本書のレビューをしていきましょう。
 ただ、その前に、もし動画の方を未視聴の方がいらっしゃいましたら、まずはそちらの方からご覧になっていただきたいのですが……。






・第一章 ミソジニストが許せない

「ミソジニー」が何の中身もない空疎な罵倒句に過ぎないのに加え、坂爪師匠はその「ミソジニスト」とやらの主張に一切反論すること敵わず(というか、賢くも反論が不可能であると理解して)、ただレッテルを貼って切り捨てるのみ……という本章のありさまは、既に動画でも述べました。
 師匠は「ミソジニストたちはただ、ヒステリックに女性を罵っているだけだ」ということにしたいようなのですが、そのような「アンチフェミ」というのはあまり思い至れず、フェミ側の口汚さと比肩するべくもない。
「ミソジニスト」の論調は「女には穴があり、自分の身体を資産に食っていけて得だ、ずるい」という論調が多いというのが坂爪師匠の言い分だけれども(21p・大意)、ぼく自身はそうした声はあまり多いとも思えない。
 これは師匠に限らず、ミソジニスト批判の定番の物言いであり、「敵はこんなことを言っているぞ」と主張する場面でばかり見る論調であること、「女を宛がえ論」と同じではないかという気がします*1
 また、既に動画で述べたことですが、坂爪師匠は「ミソジニスト」の主張をそれなりに的確にまとめています。そしてそこだけを見ると「ミソジニスト」の言い分が正しいように思えるにもかかわらず、

 彼らの主張を、統計的・学問的な事実を提示して否定することは、きわめて容易である。
(19p)

 こうしたミソジニストたちによる主張を、統計的・学問的事実を基に論破することはきわめて容易である。
(26p)



 と豪語している、そして豪語しているにもかかわらず、そうした「統計的・学問的事実」を一切、提示することがないという、全くもって理解に苦しむデタラメぶりです*2。この点についてはさすがに呆れ、ツイでリプを送って指摘したのですが、言うまでもなく無視されました。
 他に、論拠らしきものを示した箇所はもう一つあるのですが、これがまた、極めて奇怪なもの。師匠は(ミソジニストたちはフェミのダブルスタンダードを批判するが、ダブルスタンダード批判などに意味はない、と一蹴した次の行で、自分の書いていたことなどすっかり忘れて)、「彼らの一番のダブルスタンダードは、自分の母親を批判しないことだ(55p・大意)」などと泣きわめくのです。
 意味わかります?
「そんなに女が嫌いならお前のかーちゃんの悪口も言え」と幼稚園児のようなことを言ってガッツポーズを取っているわけなのですが、世代的に古い、子供まで育てている、つまりはそこまで女性ジェンダーに対しての屈折があるとも思えない女性が、批判の対象にならないのは当たり前なのではないでしょうか。
 本当に「ミソジニスト」とやらが母親を批判することが少ないのかどうか、判断しかねますが(いや、確かにそうした場面はあまり見ませんが)、もう一つ理由として考えられるのは、男性は基本、私ごとを饒舌に語る傾向にないという点でしょう(これと同主旨のことをぼくが著作で述べていることは、本書でも紹介されているのですが)。
 実はふたばちゃんねるだかどこだかのこの種のスレ(アンチフェミスレか、女流漫画家批判スレか……)において、女性と思しき人物が近しいことを言っていて首を捻ったことがあります。「女に文句言うわりに、おまいら、カーチャンが大好きだよな」と。
 いわゆるネットキャラとしての「カーチャンJ( 'ー`)し」に人気が集まっていることを、例外のないネット男性の総意だと考えているのか、それとも、或いは今回の坂爪師匠の言とあわせて考えるに、フェミニスト界隈にだけ、何かの加減で、こうした「ミソジニスト」像ができ上っているのか……。

*1 この問題については以下の冒頭にまとめられています。
男性問題から見る現代日本社会
*2 厳密には第一章の一番最初のページに以下のようにあります。

男女間の収入格差、家庭内における女性の家事・育児負担率の高さ、管理職・国会議員の女性比率の低さなどを見ても、現代の日本社会が男性優位社会であることは、火を見るより明らかだ。
(18p)


 しかし師匠は「ミソジニスト」が、女性は社会に出ること、主婦に収まることの二種の選択が用意され、またそもそも男性は社会で働くことが期待されると同時に、その生命や健康が著しく軽んじられていることを指摘している点にも、言及しています。
 つまり、師匠は自分のロジックを論破する主張を紹介しつつ、自分自身でそれに気づけにいるのです。



 もう一つ、驚き呆れたのは、共同親権推進派にも同じく「ミソジニスト」のレッテルを貼り、切り捨てていることです(45p~)。
 妻が子供を連れてフェミニストの息のかかったシェルターへと逃げ、そのままDV冤罪を着せられ全てを失った父親というのは決して少なくなく、実のところ「女災」の中でも一番にラディカルなものといっていい。これはぼくが著作で「予言」した「幼児虐待冤罪」に近く、師匠自身もぼくの本の紹介という形で言及しているのですが、しかし、これに文句を言うのは許されざるミソジニストの振る舞いである、というのが師匠のお考えであるらしい。

 推進派にも反対派にも、意見の異なる相手に対する人格攻撃や誹謗中傷を繰り返している悪質なアカウントが散見されるが、なかでも「離婚ビジネスを営む悪徳弁護士と裁判所が子ども拉致」などといった極端な主張を掲げる推進派の意見には、これまで分析してきたミソジニストの主張と重なるものが非常に多い。
(47p)


 極端な主張も何も、単なる事実だと思いますが。師匠が「これまで分析してきた」ミソジニストとやらの意見がどう見ても理があり、師匠がそれに何ら反論できていないように。
 しかし、配偶者に裏切られ、最愛の子供をも失った父親すらもここまで平然と罵倒できるメンタリティは一体、どうなっているのでしょう。
 それに、このページのちょっと前では「ミソジニストどもは女とつきあったことがないヤツがほとんどだ(33p・大意)」と嬉し気に絶叫していたのですが、まあ、本書の矛盾をいちいち採り挙げていたら、この地球が太陽に飲み込まれてしまいます

 本書にはいろいろな専門用語が多々登場し、それらに対しての説明は一切ない(恣意的に貼られるレッテルとしてのみ機能している)のですが、これはレッテルのみならず、好意的に扱われる概念にも当てはまります。
「マスキュリスト」、「メンズリブ」、「男性学」。
 これらワードは本書では好意的に捉えられているようなのですが、まともな定義がなく、「何とはなしに」使われ続けます(いえ、ご当人は明確に使い分けている様子なのに、その説明がないので、読んでいて混乱します)。
 が、敢えて分類するならば「メンズリブ」は90年代初期に興った、伊藤公雄師匠の流れ。「皆さん、フェミニズムに平身低頭し、男に生まれた罪を一生かかって懺悔し続けましょう」というのがその教義です。「男性学」はそれらを根拠づける理念、ガクモンとしてのそれという感じでしょうか(日本で「男性学」を興したのは渡辺恒夫ですが、後から出てきた伊藤師匠が乗っ取り、自分が一番乗りであるかのように振る舞っていることは、繰り返し述べていますね*3)。
「マスキュリズム」は近年に興った、日本では久米泰介師匠がリーダーシップを執る、フェミニズムに敵対的ではあるがジェンダーフリーには親和的な一派、という感じでしょうか。
(久米師匠が共同親権推進派であることを考えると、ミソジニストではないとするのはこれまた奇妙なのですが、本書の矛盾をいちいち気にしていたら、この宇宙の歴史が終わってしまいます
 坂爪師匠は「男性内部での差異を無視した上で、「立場は違っても男はみんな生きづらいのだ」という側面を誇張してアンチフェミニズムへと走る(56p)」者がミソジニストやインセルだという奇怪な定義をしており、これを信ずるなら、マスキュリズムは「男性内部の差異」を無視しない者たち、要するに「強者男性」を「ラスボス」にする思想、ということになりそうです。
 赤木智弘師匠など、近年の「フェミ回帰組」に見られがちな、「でも一番の悪者、ラスボスは男なんだ、ママごめんなさい」理論です。
 となると(実態がどうかは置くとしても坂爪師匠の中では)結局、マスキュリズムもまた「フェミニズムに平身低頭する思想」でしかないのでしょう。


*3 例えば、以下を参照。
夏休み男性学祭り(その1:『男性学入門』)


 本書ではぼくの著作も、それなりに的確なまとめがなされています。
 もちろん、だからといって肯定的に扱われているわけではなく、ここでも「批判」はせずただ「否定」するという手法が使われています。動画にもあるように坂爪師匠はぼくの著作を(何ら根拠なく)「ミソジニストのバイブル」としているのですが、こうレッテル貼りした時点で、師匠的には自分の大勝利なのでしょう。
 ただ、ちょっと奇妙なのは、ぼくの「メンズリブ批判」を拾っていること。
 これはメンズリブが「男が主体として、一人称で語る運動たり得なかった」というもので、師匠はこの部分を肯定も否定もしていないものの、(この人の文章は曖昧模糊としていて、本人の意図を読み取ることが極めて困難です)メンズリブ自体が「外れ」だったとは感じているようで、そこに共感を示したのかもしれません。
 もっとも、目下のツイッターにおけるアンチフェミの言動はそうした「男性が一人称性を取り戻したことそのもの」であり、師匠はそれを全否定しているのですから、内容までも正確に理解したというよりは、「自分でもよくわからぬままに何とはなしに採り挙げてみた」といった辺りが、実情である気がしますが……。

 ――さて、というわけで今回はここまで。
 次回また続きについて述べますので、どうぞご覧ください。
 先にも書いたように、本書はこれからフェミ側の「アリバイ」として機能する本のはずですから……。


【お詫びと訂正のお知らせ】

当ブログのタイトルに誤りがございましたので、訂正させていただくとともに深くお詫び申し上げます。

誤)
『許せないがやめられない坂爪真吾』

正)
坂爪真吾『許せないがやめられない』

の過ちでした。著者名やカッコを入れる位置が間違っていたがため、「本当に許せないがやめられずにいるのは坂爪を始めとする左派だ」との、本書への的確な批評を含んだタイトルのように見えてしまったことについて、深くお詫び申し上げます。