兵頭新児の女災対策的読書

「女災」とは「女性災害」の略、女性がそのジェンダーを濫用することで男性が被る厄災を指します。

十年目の『ぼくたちの女災社会』

2019-09-29 10:38:25 | フェミニズム


※この記事は、およそ15分で読めます※

 さてみなさん、今月で拙著『ぼくたちの女災社会』出版十周年となります。
 本書を未読の方はkindleで買えますので、ご一読をお勧めします。今ツイッター界隈で囁かれている反フェミニズム論、非モテ論がいかに浅く周回遅れなものかがおわかりいただけるようになりましょう。

●時代がまだ、追いついていない点

 ……というわけで始めましょう。
 正直、よき結果を出せたとは言い難い、出版することでこちらも一生涯を棒に振るようなダメージを受け続けた本書、自分にとってもよい記憶と共にはなく、読み返すこともほとんどありませんでした。今回がほとんど五、六年ぶりの再読になったんじゃないでしょうか。
 で、読み返して感じたのが、ようやっと時代の方が、ちょっとだけぼくの足下くらいには到達しつつあるなという感慨。例えばですが、本書ではセクハラ(そう、既に三十年前の話題です)という舶来の概念が日本にやって来た時の騒動を形容し、

見ていくと浮かび上がってくるのは、「ひょっとして訴えられるのではないか」という差し迫った危機に怯える男性たちに対し、「ワタシの気持ちをわかって!」とお姫様の無理難題のような主張を続ける女性たち、という図式です。
(16p)


 またストーカーについても、ストーカー研究の第一人者、故・岩下久美子さんの著書『人はなぜストーカーになるのか』の、

まず大切なのは被害者の立場に立つことなのである。

その行為を受けている本人が不安や恐怖を感じた時点で、立派なストーカー行為なのである。
(197p)


 といった主張を引用し、

やはりセクハラと同じ、「女性の主観主義」とでも言うべき問題点が浮上してくるのではないでしょうか。
(同上)


 などと書かれています。
 これは目下、白饅頭発で人口に膾炙している「お気持ち案件」と全く同じですね。
 もちろん、フェミニストの手先である白饅頭*1は、それ以上の分析に立ち入ることができず、ぼくには予め、大きく水を開けられてしまう結果となっています。
 近年、気を吐いているすもも師匠も、「女性の方が遥かに恵まれている」というところにまでようやく到達しましたが、そこからの主張は「何か、ジェンダーフリーで男にもリターンをくれ」というもの。ぼくはこれ、「国家」に何やら求めるよりは好ましく思えるのですが、ジェンダーフリーを素朴に信じているというのでは、ちょっと期待できない。何しろ本書を読めば、森岡正博師匠の「草食系男子」論など、ずっと同じ論調がただ無為に繰り返され、女性が変わろうとしなかったことは明白なのですから。
 女性の持つ加害性、ネガティビティを引きずり出そうとするぼくの「女災」論の域は、彼らには期待すべくもない。ただ、近年のリョーマ氏の「負の性欲」論は女性のメンタリティに切り込んでおり、おそらく「女災」とほぼ同じことを言っているように思われこれは非常に評価できるのですが……すみません、放っておくと自画自賛ばかりを繰り返して終わってしまいそうです
 本書と今のご時世と齟齬のある部分、ある意味で「古びてしまった部分」はないかについても、ちょっと考えてみましょう。

*1 表現の自由界隈で気を吐いている青眼鏡、白饅頭共に表現規制に賛同するフェミニストの傀儡であることは、「実践するフェミニズム――【悲報】テラケイがラディカルフェミニストとお友だちだった件」、「実践するフェミニズム――【悲報】テラケイがパターナリズム支持者だった件」、「実践するフェミニズム――【悲報】テラケイが表現規制に賛成だった件」を参照。

●時代が進んでしまった点――その時、女たちは婚活していた

 改めて再読して感じたのは十年前の2009年、当時は「萌えブーム」たけなわであったのと同時に、「女が落ちぶれた」時代であったということです。
 本書については中傷者(批判などという気の利いたことのできる者は、残念ながら現れませんでした)にも『電波男』との類似を指摘されましたが、それは「そういう時代だったから」というしかない。オタクの時代が来たというある種の「オタク勝利」論が本書のバックにあり、さらに言えばその前提としての「女凋落」論がありました。
 いつも言うように、バブル期には「強い女の時代」という根拠ゼロの神話が垂れ流されておりましたが、それも当時はすっかり古くなり、覚えている者もいないような状況だったのです*2
 当時目立っていた女性にまつわる流行語は、「負け犬」女であり「婚活」ブーム。この婚活ブームの立役者である白河桃子師匠が、かつては『結婚したくてもできない男 結婚できてもしない女』、『こんな男じゃ結婚できない! 噂の「おみー君」劇場』といった本も出していたのだから、大変な落ち目っぷりです(「おみー君」とは見合い相手の奇妙な男を指す造語です)。本書でもかつては余裕があったが、今は涙目で婚活、などとギャグにさせていただきました。

 

 ただ、「婚活」という言葉そのものは、(フェミニストが、そのイデオロギーを先行させたものではあれ)当初は「見合いなどの社会のお仕着せの結婚までのルートが失われた以上、積極的自覚的に結婚に向けて活動せねばならない」という正論を前提したものではありました。しかしそれがいつの間にか、何とはなしに(女性たちが無反省に欲望を駄々洩れにさせた結果の必然として)「婚活で玉の輿を狙おう」という方向へと話が変わっていきました。
 そうそう、「草食系男子」なんて言葉もありましたね。これは(フェミニストが、そのイデオロギーを先行させたものではあれ)男性性に欠ける男性を肯定しようという言葉だったはずが、何とはなしに(女性たちが無反省に欲望を駄々洩れにさせた結果の必然として)「今の男はだらしない」に代わって行きました。
 ある意味で、女性が虚栄心を捨て、自分の欲望と謙虚に向きあうチャンスがこの「負け犬」ブームだったはずが、彼女らはまたしてもそのチャンスを棒に振り、見栄を張ってしまったのです。「デレ」ること敵わず、「ツン」を通す愚を犯してしまったわけですね。

*2 「『現代思想 男性学の現在』(その3)」などを読むと、年代によってはその当時の世界観を今もあどけなくキープしていらっしゃるかのようにも見えますが……。

 では、今は?
 女性の状況は好転するどころか悪化するばかりのはずなのですが、一時期の「女性たちが結婚したくてテンパっている」的なムードはあまり感じられなくなりました。そもそも上に書いた「負け犬」的な、女性の今を象徴する流行語なども今一、思い浮かびません。
 本書では「かつて、華々しく輝かしい女性像がメディアに溢れていたが、今はそれがない」ことの象徴として「負け犬」、「婚活」といったワードを挙げたのですが、もはやそんな「落ち目の女性像」すらも、メディアには見られません。
 この状況を読み解くカギは(一つにはマスコミの影響力というものが失われたことでしょうが)、メディアに「ブスコンテンツ」が充実しだしたことではないか……とぼくは考えます。そもそもテレビなどほとんど観ないので漠然としたイメージしかないのですが、ブスがイケメンと絡む類のドラマやCMなどが出て来たのはここ十年くらいではないでしょうか。
 乏しい知識を並べ立てれば、平成『ライダー』でも『シン・ゴジラ』でも美人と言い難い女性が出てきますし、戦隊シリーズでも『トッキュウジャー』には悪の組織にフリフリのフリルを着て日髙のり子の声でしゃべるという、しかしグロテスク極まりない姿をした女モンスターが登場しました。これがイケメン(こちらは人間の役者が顔出して演じていました)の悪の王子と恋愛を演じ、女性ファンがそのモンスターを「可愛い」ともてはやすのが、申し訳ないですが気持ち悪くてなりませんでした。
 他にも、これはぼくのお気に入りキャラですが、『ダンガンロンパ』シリーズには「腐川冬子」というあからさまにブスという設定を与えられたキャラが登場していましたよね*3。
 十年前に流行していた「オタクそのものをネタにしたオタクコンテンツ」もすっかり、女向けのもの特化になってしまいましたが、これもまた「ブスコンテンツ」のバリアントであることはおわかりでしょう。言ってしまえばオタクコンテンツ、本田透的なロジックが、女性がモテないまま自己を肯定するためのコンテンツに、彼女らの方に利するものに化けてしまったわけです。
 もっとも、これは実のところフェミニストが共産主義的体制、言ってみれば国家に男性の役割を果たしてもらう体制を求めていたことと、それほど変わりはありません。マスコミが女性をただひたすらにちやほやする状況は当時からあり、本書ではそれが「ホスト資本主義」と呼ばれておりましたが、ただ、女性がより以上にブスになったのでホストがブスにもおべんちゃらを使うようになったと、ただそれだけのことです。

*3「これからは喪女がモテる? 『ダンガンロンパ』の先進性に学べ!

●時代が進んでしまった点――その時、オタクたちは勝っていた

 一方、当時、勢いがあったのがオタク文化です。
 言うまでもなく「オタク」は「弱者男性」と「≒」で結んでしまってもいい存在です。そんな弱き者が、当時は力を持ち、世間に対するある種のカウンターの声を上げていたわけです。
 当時は「ツンデレ」という(オタク用語の中でもかなり理解しにくい)言葉を世間が曲解し、女性誌で「ツンデレで男子にモテる!」といった勘違いな特集が組まれ、オタクにからかわれるといったことが常態化していました。本書においても、「ムカつくバカ女のバカ本の文章をツンデレ風に言い換えると萌える」などという企画をやっており、隔世の感という感じです。
 むろん、それは文化的にそれなりに力を持ちつつあったというだけのことで、オタク自身がモテていたわけでは、全くありません。しかし、当時のオタク(≒弱者男性)側は「我々は二次元があれば充足していられる!」との主張をしていたのです。繰り返すように『電波男』に端を発する主張ですね。
 この主張の真意がどこにあるかは、本当に非常にデリケートに扱うべきことだと思うのですが、当時のぼくは基本、本田氏に準じた評価をしておりました。

端的に表現するならば、現代の全ナオンは「メイドさん」という職に就き損ねた「メイドカフェ難民」なのです。
(101p)

もうあなたではなく幻想の女しか抱いてはもらえないのです。
(同上)


 いや、「ネットカフェ難民」って言葉も聞かなくなりましたね。また、二段目のフレーズは宮台真司の奥さんである速水由紀子師匠の『もうあなたは幻想の女しか抱けない』という、本のタイトルをもじったもの。こういうの解説しなきゃいけない辺り、やっぱり昔の本だなあと思ってしまいますね。
 とは言え、「メイドカフェ」ブームは外界へと流出したオタク文化の一つといえました。オタクのどれだけが現実のメイドカフェに行ったかは大いに疑問ですが、この頃の女性は「メイドさん」という「女性ジェンダー」の体現者に大いに憧れ、「オタク文化=虚構性」というクッションを安全弁として、それを享受しようとしていたのです。
 それは、例えて言えば「ピンク」を大いに憎む『トクサツガガガ』*4の仲村さんが、「文化祭だから」というエクスキューズを得て、メイドさんのコスプレをしているところを想像していただければわかるのではないでしょうか。
 結局、ある種オタクの在り方を一種のハンスト的に捉え、一方、「女性ジェンダー」を美化して描くことで、言わばオタク文化が女性側の意識の革新を促し得るのではないか……というのがこの時期のぼくの考えであったかと思います
 事実、当時は例えばアイドル声優さんがオタク文化に親和的な発言をするなどの光景があちこちで見られ、「ひょっとしてオタク的価値観が世界を覆うのでは」といった希望的観測も、それなりに故のあったことだったように思えます。

*4『トクサツガガガ』は「女性ジェンダーについての自意識をこじらせてしまった女性が、単にそれへの愚痴を吐く口実として私は特撮オタクであると自称する」という、まさに本田透の死体を貪り食っているかのような、そんな漫画でありました。
フェミナチガガガ
フェミナチガガガ(その2)
フェミナチガガガ(その3)


 しかし、『電波男』は、あっという間に左派につぶされてしまいました。オタクたちが「俺たちは二次元の世界に旅立った」と言っていたのを、左派が「なるほど、JPGだけで満足なんだな、一生独り身で何の不満もないんだな」などと言い出したのですから*5。正直、左派の残忍さ、冷酷さをあまりにも甘く見ていたように思います。
 そんなこともあり、今のぼくはやや論調を変えています。しかしこれは別に主張の大本を変えたわけではない。左派の非人道性に舌を巻き、オタク側も不満がないわけではないのだ、と主張せざる得なくなっただけのことです。別に二次元美少女が現実の女の代替物というわけではないけれども、いまだアニメやゲームの世界にダイブするノウハウがない以上、ぼくたちは別に充足しているわけではない。ぼくたちはアニメやゲームの世界観、愛のある世界、乱暴に言えばジェンダーが温存された世界にこそ心酔しているわけなのだから、仮に現実の女の子が「盛る」ことでアニメキャラのようになったからと言って納得するわけではないし、メイドロボを押しつけられればそれで満足するわけでもありません。
 そもそも「オタク勝利」論がちょうど本書の出版時期と前後して、「日本のアニメや漫画は世界中で落ち目だ」といったカウンターにより否定されるようになっていきました。根拠が酷薄な上、言っているのが『朝日新聞』とかその辺ばかりで、果たしてどれだけ正しかったのかは、今となっては疑問ですが。

*5 これはずっとぼくが繰り返ししている(そして、誰からも同意されない)して気なのですが、「敵の死体を兵器利用するなんて、ゾンビマスターみたいで格好いいね!」など。

 もちろん、一方ではこの十年、オタクの反フェミ意識はもう、かつてからは想像もできないほどに高まりました。ここ十年、ツイッター上でのフェミニストの大暴れが、フェミニズムの危険性を可視化させたのです。これそのものは、危機意識を持つことができるようになったという意味では、よかったことかもしれません。
 しかし、これこそが大変皮肉なことに、表現の自由クラスタが活発化し、彼らに「真のフェミ」を持ち上げさせる結果ともなりました。彼らの言動を追っていけば、この十年はフェミニストに文句をつけられつつ、何とか水際でフェミニズムの実態を外部の者に知られまいとそのネガティビティをツイフェミに押しつけ、しかしとうとう上野千鶴子師匠までが悪質な人物であることまでがバレてしまった……という、見るも無残な振る舞いの連続でした。
 しかし、どうにも、彼らにはそんな自分たちの醜態に対する自覚があるようには思えない。
 どうにも、彼らのフェミニストへの忠誠は、白饅頭や青眼鏡を見ればわかる通り、いささかなりとも揺らいだようには思えない。
 これらの流れは、大きな目で見れば結局「ツイフェミをスケープゴートにして、フェミニズムがより頑強になる過程」だったのかな……との失意を感じずにはおれないのです。
 それはまた、オタク界の左派勢力がいよいよ強くなってきたことを示す十年でもありました。

●五年後、『女災』が再評価されそうな点

 いや、まあ、最後に希望めいたことを書いておかないとまとめようがない気がして、無理矢理にこういうタイトルをでっち上げましたが……。
 2009年の時点では女性専用車両に対する男性の反発が頂点に達しており、また『女災』がメインテーマにしていた「性犯罪冤罪」に対する危機意識も高まっておりました。本書もそれなりに売れる目があったことは、間違いがなかったはずです。
 実は以前、とある編集者に指摘されたのですが、この2009年は政権交代の年でした。もちろん、本書(が売れなかったこと)と直接の関係はありませんが、何か、世間の潮目が変わった、その変わり目に本書が出てしまった、数か月早ければまた評価が違ったのではないか、ということは言えます。
 例えば、本田氏の主張は(当時はフェミニストなどもお追従を言っておりましたが)、恐らくこの頃から「何か、悪しき思想」ということにされてしまった。「ミソジニー」という思考停止ワード、本書的に言えば「攻撃呪文」が立ち現れ、とにもかくにも女性様に疑問を持つことは禁止、という風潮が強まったのです。
 そんなこんなで結局、上に書いたような「左派のマッチポンプバトル」によって、フェミニズムへの疑問は圧殺される時代と相成ったわけです。
 が、近年、またちょっとだけ希望が出て来たのではということを、ぼくは感じ始めています。
 というのは実のところゼロ年代に一度盛り上がっていた「非モテ」論の、再びの復権が見られるからです。これはもちろん、インセルだのミグタウだの海外発信の情報がきっかけなのですが、いずれにせよ日本においてもいよいよこれが話題になっていくことは間違いがないでしょう。
 前回記事でもわかるように、もちろんメディア側のこの問題に対する意識は薄っぺらとしか言いようがないものですが、実はちょっと、ネット上の「オタ論壇」とでも称するべきものに変化がみられるのでは、といった気が、ぼくにはしているのです。
 そして、このきっかけは意外なことですが白饅頭であろうと、ぼくは思います。
 彼の商業出版では、男性の惨状が極めて強調して書かれていました。これは「表現の自由クラスタ」的な、(形ばかりとは言え)アンチフェミ的な言説を封じられたがため、相対的にそのような内容が浮かび上がってきた、ということではなかったでしょうか。
 これにすもも師匠、rei氏辺りの言説が続いたことが、ネット上での「非モテ」論を活発化させた、という印象をぼくは持ちます。
 この「非モテ」論について、ぼくが「自分をオタクだと思い込んでいる一般リベ」と揶揄するような、オタク界のインテリ層はほぼ、切り込むだけの力を持っていません。
 例えばですが、町山智浩師匠がそうであるように、彼らは専ら「非モテ」を惨殺することしかできない*6
 となるともう、オタクの多くは彼らについていけなくなるのではないでしょうか。
 今まで八百長を続けていたオタク左派ですが、それが「非モテ」論という「また、別な角度」から見られることで、いよいよ八百長がバレる時が来るのです。

*6 この辺は次回にご説明しますので、もう少々お待ちください。

京アニ放火犯はヤマカンを呼ぶ

2019-09-07 04:50:00 | オタク論


※この記事は、およそ12分で読めます※

 どうも、お読みいただきまして、ありがとうございます。
 当ブログ、基本的にニコブロ「兵頭新児の女災対策的随想」とNoteで発表しているエントリを遅れて発表することにしておりました(ちょっとした付記や改稿をすることもあるので、ある意味ではこのブログの文章こそが最終稿と言えなくもないですが……)。
 さて、それらブログで、今回から課金制を試みようとしました。
 自分にとって多少、大っぴらには書きにくい部分があったことと(傍から見ればどうということのないものなのですが……)、正直、少しでもリターンがないと書き続けていくことが難しくなりつつあると感じて、記事の最後だけちょっと、有料にしようとしたのです。兵頭新児の文章に何らかの価値がある、と考える方は少々の援助をお願いしたいと思ったのです。そんなわけで、Noteでは一部課金となったエントリがupされているのですが……。
 まず、当ブログでは課金することができないようです。
 ニコブロの方も課金制にするため運営に書類を申請したのですが、一週間という時間をムダにした挙げ句、「お前にカネを取らせる気はない。またそのNGの理由を告げる気もない」とのありがたいお答えをいただきました。(課金制にすることを思い立った、今回のエントリを)発表する前のことなので、要は「今回の記事に問題があった、というわけではない。とにかくお前にはカネを稼がせたくないのだ、あきらめろ」というわけです。
 こうして社会に害毒をばらまくフェミニズムは莫大な予算を得続け、それに抵抗する勢力は日干しにされ続けるのでしょう。
 まあ、グチっていても始まりません。
 こちらでは無料部分だけを公開することにします(それだけでも一応、完結しているんで……)。
 志をお持ちの方は、noteに飛んで、それ以降は課金の上、お楽しみいただければ幸いです。
 もう、Noteをホームグラウンドにしたい、という気持ちもあるんですが、あっちはあっちで、色替えもサイズ替えもできない仕様が今一なんだよなあ。

 さて、では前回の続きです。
 誰も気づかなかったと思いますが、前回記事のタイトル、「誰が京アニ放火犯に笑ったか」は、『ルパン』1stシリーズの「誰が最後に笑ったか」のもじりでした。で、今回は悩んだ挙げ句、同じく『ルパン』の「狼は狼を呼ぶ」をもじることにしたわけです。
 いや、そんなタイトルでお遊びをするような、軽く扱っていい話題でもないのですが、しかし元ネタを明かすことで、この「放火犯」と「ヤマカン」とを=で結べるということを示したくて、敢えて申し上げました。
 そう、この京アニの火災が報じられた当初、まさかここまで悲惨な事件となるとわかっていなかった頃、「犯人はヤマカンでは」といったジョークが囁かれました。もちろん、その時点でも不謹慎極まりないものではあったのですが、しかし「ある意味、それは正しかったよな」といった辺りが、本エントリの主旨となります。
 ぼくはよく知らないのですがヤマカン、つまり山本寛師匠、『らき☆すた』の監督を降ろされた方ですよね。で、それを怨んで(かどうかは存じ上げませんが)ことあるごとにオタクへの憎悪を吐露していた方です。
 そんなわけで、師匠はブログで本件についての記事、「僕と京都アニメと、「夢と狂気の12年」と「ぼくたちの失敗」」を発表、炎上しました。そこでは以下のような主張がなされています。

京アニは2007年、匿名掲示板の「狂気」と結託し、僕をアニメ制作の最前線から引きずり降ろした。
ここで言いたいのは、僕を引きずり降ろしたことへの恨み事ではなく、彼らが「狂気」と結託した、という事実である。

ここから彼らとネットの「狂気」との共犯関係、そして僕とネットとの飽くなき戦いが始まる。



 正直観念的で意味が取りにくい記事です。ネットで揶揄気味に言われる表現を使うならば、「ポエム」ですよね(この「狂気」とか「結託」について、具体的に語られた個所は文中にはありません。まあ、言えない事情もあるのでしょうが)。

「オタクがアニメを壊す」、そう僕は言い続けてきた。
ご丁寧に、事件の約2週間前に「カタストロフ」の予言までしていた。
僕の予言は、こんな最悪の形で、的中したのだ。



 オタクがもしいなければ、そもそも壊す前にアニメがここまでの発展したのか……については、可哀想なので問わないでおいてあげましょう
 まあ、本記事は最後までこんな調子。小金井のストーカー事件に言及するなど、その筆致は基本、純丘師匠と同じであり、基本的には前回の純丘評がほぼ100%、山本師匠にも当てはまると言って差し支えなさそうです。
 これ以降もブログでは本件について綴られていくのですが、「「被害者側」か「加害者側」か」においては以下のように宣っています。

僕は最初の一週間、嘆く術すら解らず、茫然としていた。
しかし、ある違和感に気付く。

どうもオタクたちが皆、ネットでさえ自己慰撫や相互憐憫に馴れ合っているのだ。
……あれ?

ひょっとして、お前ら被害者ヅラ?


 どうもオタクは本件について、青葉と連帯責任を負わねばならないようです
 性犯罪は全て男の連帯責任! と絶叫するフェミ何とかいう思想みたいですね(にもかかわらず、師匠はこの記事に対する罵倒として自分が「犯罪者予備軍」と呼ばれたことに怒っています。自分はオタクを犯罪者呼ばわりしておいてです)。
これは戦争である。」においては

これは事件ではない。「戦争」なのだ。
僕はそう確信する。
「オタクというテロリズム」との戦争だ。


 そう、まさに青葉が「アニメ」を恨んだように、師匠は「オタク」を怨み、両者を対立概念として捉え、敵を滅ぼそうとしています。オタクとアニメは表裏一体となってここまで歩んできた「同志」であろうに、青葉も師匠も相手を敵と認識し、殲滅せよと絶叫しているのです。この両者の世界観に、一切の違いはありません
 その次にupされたエントリである「オタクという「病」:症状・改(今こそ再掲)」は400字くらいしかないような短い記事なのですが、ここでちょっとだけ師匠の価値観が明らかになります。
 師匠は「ネットで暴れている、ムカつくヤツら」を列挙し、それにこう付け加えるのです。

こういう症状が三つ以上顕れた人達がいたら、まず逃げましょう。
そしてこう叫びましょう。

「僕はアニメファンです!あんなオタクじゃありません!」

私の作品は「再定義した意味」での「オタク」と呼ばれる、非常に非社会的な害悪的存在に観せるために制作している訳ではございません。


 何だか、非常に懐かしい気分に囚われました。
 そう、かつて「オタク」は「オタク業界内」の差別用語でした。
 80年代、オタクコンテンツと言えるものはアニメ(と、美少女コミック)のみでした。そのため、当時は今でいう「オタク」は「アニメファン」と呼ばれ(ないし自称し)、その中で、悪質な(ないし自分が悪質と認識した)者を峻別、排除するために「オタク」と呼んでいたのです。
 この「オタク」という言葉、当初は中森明夫師匠が差別用語として持ち出し、大塚英志氏が「そうした造語で仲間を分断するのはよくない」と腐したのですが、まさに中森師匠の思惑通り、「業界内差別用語」として流通するようになった……というのが経緯です。
 今では、「オタクは宮崎事件などをきっかけにした言わば“冤罪”をマスゴミに仕掛けられ、不当に差別されてきたのだ」といった史観が定着しつつありますが、これは歴史修正に近い。実際には「オタク差別」というものはオタク内差別、オタク業界の中でヒエラルキーが上の者が下の者をゴミクズのように扱っていたことこそが、その本質だったのです。
 前回エントリでは「サブカルしぐさ」という言葉を繰り返しましたが、実のところ、80年代のオタク界内部で専ら行われていたのが、この「サブカルしぐさ」であったのです*1
 しかし、では、何故そこまでオタク同士というのは、仲が悪かったのでしょうか。
 オタク文化というのは基本、男の欲望をストレートに表現し、それを肯定するものです。「萌え」などまさにそうですね。
 こういうことを書くと、「女性向けのものを無視するのか!?」「オタク文化は本来、女性が!!」と言いたがる人が出てきますが、今に至るまで女性向けのオタクコンテンツが、少なくとも公の場で否定的に扱われるのを、ぼくは見たことがありません。
 そう、現代においては男性性は全て悪、女性性は全て善、という恐ろしく薄っぺらで単純極まる価値観が、絶対のものとして広く深く信仰されています。ぼくは時おり、オタク文化を「裸の男性性」と形容しますが、男とは、裸になった瞬間、断罪される存在なのです。男とは、即ち悪そのものなのですから。
 つまり、「サブカルしぐさ」とは当初、オタクコンテンツという「悪しきもの」に耽溺している自分を誤魔化すため、「自分以外のオタクども」に「ケガレ」を負わせるためのテクニックであった。しかしオタクコンテンツが世に認められてよりは、その望ましい部分を手中に収めつつ、望ましくない部分(女性差別的とされる部分や、彼らにとってウザい下っ端のオタクたち)はツイフェミと同様にに切り捨て、見下し、否定するためのノウハウへと変わっていったのです。
 前回のエントリでは、純丘師匠は京アニを評価し、また自身もアニメファンであると強調していることをご紹介しました。そしてもちろん、それに嘘はないことでしょう。しかし彼の過剰な自意識は、「アニメなどという男の欲望に直結した、低劣な表現」をただ諸手を挙げて称揚することに耐えられませんでした。だから、持って回った『らき☆すた』の評価をし、「自分だけは他のオタクどもとは違うぞ」と強調せずにはおれなかったのです。そして、その時に援用されるロジックは、例外なく、フェミニズムなどをベースにした、ゾンビにも等しいリベラル的価値観です。男は、悪なのですから。それは宇野とも、『エヴァ』の時のサブカル君たちとも、*1に挙げたダニエル師匠とも「完全に一致」した振る舞いでした。

*1 今となっては、このことを覚えている人は少なかろうと思いますが、例えば「コミケの中心でオタク憎悪を叫んだ馬鹿者――『間違いだらけの論客選び』余話+『30年目の「10万人の宮崎勤」』」をご覧いただければその一端がおわかりになろうかと存じます。
 ここでは宮崎事件直後、コミケに取材に来た週刊誌の「差別的」なインタビュアーにサークル関係者が同調し、「オタク」に対して苦々しげに罵倒したり、また現在コミケスタッフを務めている兼光ダニエル真師匠らが「消費者」としてのオタクを侮蔑し、馬鹿にした商売をする作家たちを称揚するという実に奇妙な記述に行き当たります。
 この同人誌は「オタク外の悪者が、オタクを差別していたのだ」と実証しようとして、図らずも「オタク内の悪者が、オタクを差別していたのだ」と実証してしまったのだ、と言えましょう。


 しかし、不思議なことですが純丘師匠に比べて、ぼくは山本師匠を憎む気にあまりなれません。それは一つには純丘師匠が何とかオタクのネガティビティを表現しようとして、宇野辺りのロジックを援用しているのに対し、山本師匠はあまりに感情的で非論理的、その分、師匠の中のオタクへの憎悪がストレートに表現されており、それがある種、懐かしさ、言い換えれば親しみのようなものを感じさせるからです。
 純丘師匠が上からオタク資産を剥奪(それは『エヴァ』の時のサブカルのように)しようとしているのに対し、山本師匠はオタクと同じ位置に立ち、自分だけは何とか上に這い上がろうとして藻掻いている気の毒な人として、ぼくの目には映るからです。
 師匠が、例えばですが「俺、オタクアニメとかキョーミねーし。ジブリくらいのクオリティなら評価するけどね」とでも言っていれば、ぼくは素直に師匠を憎めたでしょう。「関係ないおっさんがエラそうにくちばしを突っ込んでくるな」と言っていれば済む話です。しかし、彼はアニメの中でもオタク的感性に特化した京アニの出身です。『らき☆すた』の監督です。これはオタク少女がオタクライフを満喫する日常を描くことをテーマとする作品。ぼくは未見なので、山本師匠がどんなふうにかかわったのかを存じ上げませんが、それこそEDでキャラクターたちが特撮ソングやアニメソングを歌う趣向それ自体が、或いは師匠によるものだったのかもしれません。
 もう一つ、(知識が偏っていて恐縮ですが)師匠はアマチュア時代、戦隊パロディ作品『怨念戦隊ルサンチマン』という作品を作っておりました。いや、これも未見なんですが、今で言えばリア充なり陽キャなりを仮想敵にした作品。
 つまり、師匠はオタクとして、明らかにぼくたちと極めて近しいところにいた人物なのです。
 そう、彼もまたオタクであり非リアであり陰キャだからこそ、近親憎悪でオタクを憎んだ。痛ましいけれども、ぼくたちも師匠もそこまで追い詰められた者同士です。
 クラスのガキ大将にいじめられる、スクールカーストの最下位から二番目だからこそ、師匠は最下位であるぼくたちを泣きながら猫パンチで殴っているのです。
 それは、実のところ青葉の振る舞いと非常に似ています(違いは、一応青葉がその攻撃衝動を自分よりも持てる者へと向けたということだけでしょう)。
 今回、アニメ評論家である氷川竜介氏がツイッターで積極的に発言していたのですが、そんな中に、「この件でいろいろ取材を受けたが、取材する側にも京アニのファンがいたりして、心強く思うと共に、随分と時代が変わったとの感慨も受けた」といった主旨のものがありました。
 しかしその氷川氏も京アニファンの取材者も山本師匠も、いえ、青葉でさえも、「京アニ」によってつながった、言ってみれば「友だち」でした。例えばですが、十年ほど前のネットの匿名掲示板で、ぼくたちもひょっとすると、好きなアニメの話題で彼ら彼女らと語りあったことが、或いは、あったかもしれないのです。
 しかし、いつからか青葉と山本師匠は道をたがえてしまった。
「オタク」という言葉に、自分の中にもあるネガティビティを封じ込め、他者へと擦りつけるという性犯罪冤罪にも似た卑劣な振る舞いは、既に破綻しています。山本師匠はそのやり方がまだ「アリ」だと思い込んでいる、時代に取り残された哀れな人間なのです。
 それと全く逆方向に位置にするのが、取材者がファンと知り、力づけられたという氷川氏のエピソードです。ぼくにはこのエピソードが、まさに「初めてボーナスをもらったと喜んでいた、本件で殺されたスタッフ」に重なって見えます。
 本来は、そうした格差はあれど、ぼくたちは友だちであった。
 しかし、自分たちの利益のためにそれを分断した者がいる。
 青葉は、山本師匠は分断された、見捨てられた側であった。
 ぼくが前回、純丘師匠や宇野をこの事件の「真の黒幕」と形容したのは、彼らが分断した側、見捨てた側であったからです。
 そうした黒幕たちの振る舞いについて、ぼくたちは敏感であらねばならないのです。

※以降、その「黒幕」についてちょっとだけ詳述します。noteで課金の上、お楽しみください。何かこう繰り返すとかえってがめつく感じるなー。たった\100なのに……。