兵頭新児の女災対策的読書

「女災」とは「女性災害」の略、女性がそのジェンダーを濫用することで男性が被る厄災を指します。

ネットハイ

2016-11-26 15:45:08 | レビュー


 俺らがゲームに、なりました。
 いえ、去年の今日、11月26日、丁度一年前に発売したゲームなので、正確には「なっていました」。
 それが今回ご紹介する『ネットハイ』。
 本作を一言で説明するならば、ネット文化、オタク文化を舞台にした『ダンガンロンパ』。いえ、どちらかと言えば『逆転裁判』の影響が大らしいのですが、ニコニコ生放送そのものが舞台に選ばれ、主人公と敵とのディベート中に聴衆コメントが流れる辺りはやはり、『ダンガンロンパ』的です(学級裁判でのガヤの声の演出も、ニコ動が着想の元になっていたと言います)。また、マスコットキャラの声はガチャピン、ムック(の声優さん)が担当しており、これもまたモノクマの影響が大きい。
 本作は膨大なフォロワー数を誇るリア充どもを、ド底辺な主人公が爆発させるというゲーム。「ニコ生における論戦で、ツイッターのフォロワーを競うディベートバトルゲーム」なのです。
 いえ、劇中では「ツイッター」に近しい「ツイイッター」というのが登場するのですが、面倒なので本稿では「元ネタと思しい」サービスの名前をそのまま書いていきます。ご了承ください。
 それともう一つ。
 本作はネタバレ禁止とされています。
 しかし正直ネタバレなしに本作の面白さ、深さ、素晴らしさを批評することは困難です。
 よって今回は体験版として公開されている第一話は置くとして、それ以降については、キーワードを白文字にすることで対処しました。
 ネタバレしても面白さを損なうゲームではないと思いますが、以上のような次第ですので、どうぞご了承ください。

 さて、本作におけるディベートは「ENJ(エンジョイ)バトル」と呼ばれるのですが、主人公は敢えて「爆発炎上バトル」と呼称します。というのもリア充どもを「炎上」させ、「爆発」せしめることが、このゲームにおける目的だから。そう、「オタク」という言葉を「非リア」と読み替えることで、そのバトルをある種の階級闘争に準えたのが、本ゲーム。
 何しろ国家が「ネオ・コミュニケーション法」を施行、人々にツイッターアカウントの所持を義務づけ、フォロワーの数でヒエラルキーが決まってしまう、というのが本作の世界観なのですから。フォロワーがゼロになった者はアカウントを凍結され、「Zランク」にまで落ちてしまいます。これは実質的には社会的な死。「Zランク」は俗に「ゾンビアカウント」と呼称されるのです。
 ぼくの想像なのですが、恐らくこの世界観の根底には岡田斗司夫氏の提唱する「評価経済社会」の概念があります。他者の評価が数値化され、そうした「人気」の高い者がヒエラルキーを形作る「いいね!至上主義社会」。それは既にネット上では確立しつつあり、しかしぼっちでありコミュ障なオタクにこそ厳しい社会なのではないか、という疑問。それが本作のスタート地点にある気がしてなりません*1。
 もう一つ、ネタ元を勘繰るとするならば、『ゲームウォーズ』でしょうか。以前にも採り挙げたことがあるアメリカの小説ですが、近未来、ヴァーチャルリアリティの中だけが居場所の超底辺少年が日本の巨大ロボを操り大活躍、というお話で、ここで描かれる「SNS運営によって大衆が支配される超格差、管理社会」といったディストピア的世界観は恐らく、本作の元になっている気がします。
 アマゾンのレビューに秀逸な批評がありました。

表面的にはリア充爆発というケツの穴の小さいテーマに見えますが、中身は全然違いました。


 そう、その通りなのです。
 今まで「オタクvsリア充」のバトルは「オタクという唾棄すべき存在の、やっかみ」という解釈のみが許されてきました。本田透は『電波男』で(当初は「チクショー、オタクが何したっていうんだよ!?」というボヤき芸を想定していたところを急遽、路線を変えて)「オタクは勝った!」と勝ち鬨を上げましたが、そんな危険思想がこの社会で許されるはずもなく、彼は存在そのものが「黒歴史」として葬られました。「女災」という概念を提唱した者もまた、しかりです。
 そんな絶望的状況の中、現れた第三の戦士、それが本作の主人公「俺氏」なのです。
 そう、本作は俺らのゲーム、なのです。
 繰り返しましょう。
「オタク」ネタは、どうしてもそれを嘲笑しなければならない、という社会の「お約束」の前に、苦戦を強いられてきた。『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』、『私がモテないのはどう考えてもお前らが悪い』は主人公を少女化することでそこをクリアしましたが、今やオタクネタのコンテンツは『うまるちゃん』、『私がモテてどうすんだ』とみな一様に、女性向けのものに埋め尽くされてしまいました。ガガガ
 そしてこれはむろん、「男性」全般に言える話です。ハゲは、インポは、ブサメンは、童貞は笑われなければ、なりません
 先に挙げたアマゾンのレビューは、それを表しているわけです。ただ単にオタクがリア充をやっつけるだけというお話であれば、それはケツの穴が小さい。いえ、決して小さくはないはずなのですが、世間はそう見る。
 ならば、ぼくたちはどうすればいいのか。
 その答えを、本作は完全に提示しています。
 この「俺氏」はヘタレで気の弱いオタクですが、ある日、捨て猫をきっかけに、とある心優しい少女と会話を交わします。しかし彼女のツイッターはいきなり「炎上」、フォロワーがゼロとなり、アカウントが凍結されてしまいます。そう、ネット社会では日常茶飯事ですが、「こいつは悪者だから叩いていいのだ」と決まった者を、よってたかってそいつを晒しageて、集団でフルボッコにする。そうした様子を目の当たりにして、俺氏は「こんな腐ったシステムはぶっ壊してやる」と決意するのです。




「必然的に観客もhimeのフォロワーの比率が多くなる
 最初から公平な戦いなんかじゃねえんだよ」
「でも、それじゃあENJバトルってなんのために……」
「そうだな……公開処刑ってところか」
「こ、公開処刑……」
「人気者に噛みついてきた無謀で愚かな人間を
 フォロワーという数の力でいたぶるんだ
 観客たちはそうやって火あぶりになってもがき苦しむ人間を
 画面の向こうで眺めて楽しんでやがるんだよ
 なにがエンジョイバトルだ
 それこそ炎上バトルじゃねぇか……!」

「ちょっとばかり失敗したヤツをフォロワーの数にまかせて
 これでもかと叩いて笑いものにする
 ツイイッターじゃめずらしくもねぇ光景だ
 だけど、俺はそういうやり方が一番気に入らねぇ
 だから言わせてもらおう
 一緒になって叩いてるヤツら! そして見て見ぬ振りを
 しているヤツら! どいつもこいつも最低のクズどもだ!

 フォロワーが四人しかいない俺氏ですが、現れた美少女型ナビゲーションAI「シル」と共に「ENJバトル」に殴り込み、圧倒的フォロワー数を誇るリア充どもへ、敢然と戦いを挑みます。


■中央が「俺氏」。右が宿敵「MC」。左がナビの「シル」。可愛いです。


 70年代、漫画やアニメの世界では、叩き上げがエリートを努力と根性でやっつけました。代表例は星飛雄馬と花形満ですね。
 80年代はそうしたドラマツルギーが徹底的に無化されました。これはフジテレビなど、リア充をも含めた全体的な流れだったのですが、そろそろリベラル君たちがこれをオタクの仕業であると歴史修正を始める気もします。
 90年代は本当の意味でのニヒリズムが蔓延し、シンジ君は戦いを拒否。
 ゼロ年代は夜神月が、そしてなろう的チート主人公が人気を得るに至りました。
 しかし10年代からは――と言っても、もう後半まで来てしまいましたが――再び「持てる者」へのカウンターが描かれる、70年代への回帰が始まるのかも知れません。
 ただ一つ違うのは、「努力と根性」という要素は相変わらずオミットされていること。それは仕方がありません。現代で「努力すれば報われる」と語っても、それはギャグにすらならないでしょうから。
 では、「俺氏」は何を武器に戦うのでしょうか。
 本作では、「愛」が敵と戦う武器に選ばれています。
 なぁんだ、と思われるでしょうか。
 この「愛」こそ80年代に空疎に振り回され、世の中をエゴイズムに染めてきた諸悪の根源である、と言いたい人がいるかも知れません。
 てか、そうした物言いは、(最近してないですが)以前、ぼくがよくしておりました*2。
 しかしまあ、待ってください。
 ここから先は更に、本作のストーリーを詳しくご紹介していく必要がありそうです。

*1 本作一話では「食べログ」が登場。飲食店を逆恨みした者が不当に貶めるレビューを書き込む様が描かれ、「これもまた飲食店版のリア充ランキングだ」と語られます。
*2 「兵頭新児の女災対策的読書・Rewrite(http://blog.goo.ne.jp/hyodoshinji/e/c3c7a2885239e41196a8f861d1cb3987)」「Rewrite(その2)(http://blog.goo.ne.jp/hyodoshinji/e/8db66092b31bb737534e59e2da49289a)」など。


 俺氏は「リア充、爆発しろ!」「特定完了!」の決めゼリフと共にリア充どもの「正体」を暴いていきます。
 本作における「ENJバトル」、基本は相手のゴシップを集め、その正体を暴露するという、かなりゲスなものです。とは言え、まず最初に俺氏はこのシステムそのものを否定しており、「そうした手法を使わざるを得ない矛盾に苦悩しつつも、それによりシステムそのものを否定しよう」とするところにこそ、本作の醍醐味があるわけなのです。
 例えば、第一の敵、「Mrエリート」。
「超一流」のブルジョワである彼は、90年代あかほりアニメのライバル役でよくいたような、何だかちょっとカマっぽいスネ夫キャラです。彼はまさにリア充のお約束の行動として、ディナーをツイッターにうpします。高級フレンチを食べたとドヤ顔なのですが……ん? よくよく見ると何だかコラ画像のような……ENJバトルで、彼が本当に食べていたのは牛丼であったと暴露されます。まさかこれ、内田樹師匠と古市憲寿師匠が元ネタになっていたり……しないよなあ?
 案の定、Mrエリートの正体は単なる牛丼屋のバイトでした。イケメンのアバター(?)とは裏腹に、本人はデブなキモオタ。
 しかし、本作の秀逸なのはここからです。Mrエリートは牛丼をバカにされ、本人の「牛丼愛」故にそれを看過できず、正体を現してしまう。俺氏はそんな彼の牛丼愛を讃えるのです。
 何となれば、俺氏は愛を武器に、戦うのですから。
 とあるブログで「俺氏は相手に同情も、ましてや嘲りもしない、敬意を持って臨むのだ」と評していた人がいました。まさに「それな」です。
 以降も次々と現れるリア充どもの正体を暴くことで、俺氏はバトルを勝ち進むのですが――ここで更なるネタバレをしておくと、本作のもう一つのすごさは、その女性観のシビアさにあります。
 Mrエリート自身は男性ですが、彼のパートナー「部下子」は「意識高い系OL」。
 彼女は俺氏がMrエリートにとって不利な客観的事実をツイートすると、猛然と噛みついてきて「ツイートを消せ」「訴える」「弁護士と相談している」と恫喝を始めます。
 本作は俺らの、ゲーム化です。
 本作は「推理ゲーム」をフォーマットにしてはいるものの、あくまで「民意誘導」こそがその目的(何しろシステムの中に「民意先導スピーチ」というものがあります)。論理の整合性に重きが置かれているわけではありません。だからこそ女性対戦者は「女子力」をもって戦いを挑んできます。彼女らはみな一様に被害者ぶり、或いは色仕掛け、「私のことが好きなの?」と主人公に問うことでバトルを乗り切っていくのです。
 第二話の対戦者himeが「誰かhimeを守って!」「himeを守ってくれる王子様はどこ?」と続け、俺氏に対して「ひょっとしてあなたが王子様?」と迫る展開は、敵ながらあっぱれです。
 ちなみに第二話のタイトルは「ウソつきは姫の始まり」。もうこれだけで「はは~ん」となる人がいるのではないでしょうか。このhimeは日本のオタク文化を愛し、ユーチューバーとしての知名度を誇るブリュンヒルデ王国から来たお姫様。「クールジャパンを愛する異国の姫」というのが既にオタク心をくすぐる設定で(そんなの、宇宙からやってきたぼくのことを溺愛してくれる美少女、といっしょですもんね)、当初は「少女の憧れである魔法少女アニメが好き」と語っていたところを「魔法少女は少女のためだけのものではない」と反論され、「深夜の、ちょっとエッチな魔法少女アニメ」も好きであると語ることで支持を挽回する下りは見事です。そう、俺氏が指摘するようにぼくたちは「アニメには夢がある」など一遍通りなことを言う「にわか」を何よりも憎みますが、そこを「あなたたちの愛する、欲にまみれた深夜アニメをも、受け容れる」と言われたら、「あぁ、本当に俺たちのことをわかってくれるんだ」となって、一発でメロメロになっちゃいますよね。
 そして彼女は最後に「姫は姫でもオタサーの姫
」という正体を現します。
 彼女の取り巻きである「騎士くん」は彼女を守ると称して(彼女に不快感を与えた者へと過剰な報復行動に出るなど)暴走を続けていました。俺氏は「仮にそれが姫の命じた行為ではないにせよ、男たちの歓心を買い、彼らを操縦していたことで責任は免れない」と憤ります。そんな彼女が「どうしてみんな仲よくできないの?」を連発することで俺氏の戦意を削ぐ戦術を使っていた(口先では平和を謳いつつ相手の攻撃を続けていた)ことがまた、見事。ここでは「女性性」、即ち「受動性というジェンダーが持つ攻撃性」が十全に描かれているのです。
 最終的に、彼女はアバターを暴かれ、本来の姿を現します(アバターを剥ぎ取り、相手の正体を「特定完了」することが本作のクライマックスです)。王冠を被り錫杖を手にした異国の金髪の姫が、「姫と呼ばれたかったーーー!!」と絶叫しながら、ネコ耳に魔法少女ステッキを手にした、ルックスも微妙でボディラインもたるんだ「いまいち萌えない」正体を現す様は悲惨でもあると同時に、しかしその「残念さ」に萌えてもしまいます。結果、彼女は少数のサークルの中でファンに囲まれながら、オタサーの姫に戻るのです。

 第三の敵はボカロ。とは言え、本丸の敵はこのボカロを操るプロデューサーであり、俺氏は彼と、オタク文化の尊厳を懸けた戦いを繰り広げます。ここで語られるのは、「愛もないくせに、金の匂いを嗅ぎつけ、外から俺らの業界に入ってきたものへの違和」。



 まさか、こんなテーマを語ることが許されていようとは、ぼくは夢にも思いませんでした。何しろ現実のオタク世界を支配する「運営」は、オタクたちがそんなことに疑問を持つことを厳に禁じています。思想犯は矯正されるか、アカウントを凍結されるしかありません。しかし俺氏はオタク文化に愛のない者へと、果敢に噛みつくのです。
 本作は俺らの理想を描いた、ゲームです。
 もっとも、このボカロもまた、「いろいろあって、リア充界から都落ちしてオタク文化にすがるようになった」切ない正体を現すのですが……。
 第四の敵は「ギャル」です。「スウィーツ()」とか「携帯小説」といった表現はさすがに古いからか表には出ませんでしたが、要するにそういう感じの人物。「オンナのコわ、もっとワガママでいいと思う」という彼女の「恋愛脳」から発せられるワードはその理解不能さで俺氏陣営を苦しめ、一方、彼女の著作に感化された女性たちは「モンスター女子」としてネットにもリアルにも夥しい被害をもたらしています。ツイッター上で萌えキャラが叩かれる描写も(ちょっと抑えたものですが)あり、これが実際のいかなる事件をモデルにしているかは明らかです。

「女子はか弱い。女子は守られなければいけない
 そんな考えがどんどん過激にエスカレートしていって
 ついには男子が女子のために尽くすのは当たり前
 女子のために尽くすことが男子の幸せだ――
 そんな思想を持って男子を虐げるようになってしまったんだ
 今や女子たちはモンスターそのものだよ




 本作は俺らのゲームです。
 このギャルのもう一つの決めゼリフである「愛があれば、言葉なんてなくたって気持ちは通じる」に対して、殊更に俺氏は批判的で、男女のディスコミにおける女性の「ムードでわかれ」圧力が、オタクにとっては極めてムチャ振りであることが、ここでは十全に描かれるわけです。
 さて、ではこの「ギャル」がどうなるかというと――みなさん、そろそろおわかりになってきたかと思います。
 対戦相手の正体は例外もあれど、ぶっちゃけてしまえば、みな「非リア」でした。だからこそ正体を現した相手と俺氏とは和解し、友情を育んでいく。作品として非常に後味のいいものになっているのです。
 このギャルの彼氏は非実在であり、そして彼女の正体は――あぁ、やっぱり腐女子だったか! そんな「脱オタ」しようとしていた彼女がオタクとしての生き方を取り戻すことが、本話のテーマだったのです。
 また、彼女のケータイ小説は映画化などがされるにつれ、スポンサーの意向に振り回されるようになったと描写され、そのスポンサーである企業こそが悪ではないかとも暗示もなされ、「ラスボス」への伏線を張ります。

 第五話は、中でも一番、女性へと辛辣な話でしょう。
 対戦相手はイケメンアイドルなのですが、ここでは実際の事件をモデルにした「バンビーナ事件」というものが描かれます。「バンビーナ」とはこのアイドルのファンである女性を総称する言葉なのですが、かつてこのアイドルの(正確には彼がかつて所属していたグループの)ライブが急遽中止になり、地方から上京してきたバンビーナたちがコンビニや行政に食事や宿泊場所を無償で提供せよと主張、またバンビーナを狙う性犯罪者がいるなどのデマまでをも流してしまう、といった事件が起きていたのです(彼女らが「か弱いバンビーナを守れ!」と自ら発信していたというのがまた、見事)。それ以降、バンビーナたちはタチのよくないファンとして暴走することになってしまったのです。
 本作は俺らの住む現実世界の、ゲーム化です。
 また、このアイドルは同時に俺氏の幼なじみでもありました。
 俺氏の非リア、コミュ障は、元を辿れば小学生時代の金魚殺しの冤罪を着せられた過去に起因します。
 証拠もなく俺氏を犯人として糾弾するクラスの一同。その吊し上げ、糾弾会の様を、俺氏は「今思えばネットの炎上に似ていた」と述懐します。



 が、そこをただ一人、幼なじみは俺氏をかばってくれました。二人の友情はそれをきっかけとしたものでしたが――ENJバトルの場で、衝撃的な真実が明らかになります。実は金魚殺しの真犯人は、この幼なじみでした。「俺がこいつの味方をしてやったら、女どもは俺のことを優しいと言うのだ。証拠もなく犯人と決めつけた相手に『死ね』と罵詈雑言の限りを尽くしたその口でな!」。

「傑作だろ! オマエに「しね!」と言った口で
 今度はオレに「好き」だとかぬかしやがるんだからな!」

「今世紀最高のイケメン、オンナたちバンビーナと呼び
 数え切れないオンナを抱いた肉食獣!
 だが、本当の肉食獣はそのバンビーナたちだった!」




 本作は俺らの、ゲーム化です。
 ここではイケメンアイドルの女性への失望がイヤというほど描かれます。
 彼は虚飾の世界に疲れ果てたアイドルという「正体」を晒し、退場していきます。いえ、現実の世界では「女性を罵るイケメン」はミソジニストと呼ばれることも決してなく、充分に需要があることでしょうが……。
 アイドルの明かした過去の事実には、女性性のリアルがこれでもかというくらいに描破されています。
「『死ね』と言ったその口でイケメンのことは『優しい』と言う」。
 残念なことに近い事例は世間のあちこちで見ることができますが、これを分析するならば、「判断を強者に委ねた者」「観客であることを許された者」故の無責任さである、とまとめてしまうことができます。
 そうした匿名性、受動性は女性ジェンダーのネガティビティでもありますが、同時にネットの特性でもあります。
 本作は何よりもそうした匿名性をこそ、受動性をこそ「悪」であると厳しく告発しているのことが、おわかりになるでしょう(考えれば『絶対絶望少女』のテーマもまさにこれでした)。
 この五話を最後に、本作は以降、最終編へと突入していき、「女災」的テーマからはいったん、距離を置きます。しかしラスボス戦においてすら、俺氏はこの「リア充至上主義社会」、否、実のところフォロワーたちのリアクションが、「いいね!」を押す者が主導権を握っている……えぇと、ポピュリズム社会、みたいな形容でいいのかなあ、ともかくそうしたものの裏を掻く「邪道」で勝利を収めるのです。

 そして、もう一つ。
 先にぼくは「俺氏」は愛を武器に戦うと述べました。
 しかしその愛は、「リア充」の言う愛ではない。
 オタクが愛と言う時、オタク文化への愛を指すことが多く、そのニュアンスに独特のものがあることにお気づきでしょうか。それは「自己愛(ナルシシズム)」と言い換えてもいいでしょうし、「ライナスの安心毛布的なものへの愛」と言い変えてもいいでしょう。ぼくは時々、オタク文化を「裸の男性性」と形容しますが、要するにオタクのキャラやコンテンツへの愛情は、自らの内面への愛情だとも言い得るわけです。
 自分を愛することをタブーとし、女性に全ての愛を捧げよと命じられた男性が、フェミニズムによる社会動乱に乗じて、とうとう自分自身を愛するガジェットとして、萌えというものを発明した――それが、オタクの言う「愛」の実体です。
 先に「俺氏は敵に敬意を持って臨む」との意見を引用しましたが、Mrエリートが牛丼を愛しているからこそ俺氏は彼と友になり、またhimeが「オタどもを搾取するオタサー姫」である点については厳しく糾弾しますが、オタク女子として愛する作品がある一面に対しては、リスペクトもします。
 俺氏は「いいね!至上主義社会」を基本的に否定していますが、オタクの愛を信じることで、民意を自分側に向けさせもするのです。オタク文化をバカにしたMrエリートを批判することで流れを変える展開など、その好例ですね。



 今まで貼ってきた画像をご覧いただければわかるように、本作のキャラクターデザインは「島本和彦」系です。実際、ファンの中にはデザイナーさんを『グレンラガン』の人だと信じ切っている人が結構いるようです。
 島本和彦先生と言えば、もう彼自身を語るのに別な記事を五つも六つも書く必要が生じてしまう作家なのですが……要は「男性性というものが否定されてしまう状況下で、一度、男性性を笑いのめし、しかしその中から立ち上がっていこうという実験をした作家」と定義することができましょうか。
 本作もまたその魂を受け継いでいます。
 ぼくは以前、オタクの内部指向を「格好は悪いけど、ぼくは自分のニーズに没頭する」、「対外的には自虐しつつ、自らの欲求を吐露する、スタイル」と表現しました*3。
 本作では島本先生の「熱血→ギャグ」という流れを「オタクの自虐」に読み替えました。
「男の魂」を笑いのめし、しかし感動に持っていくという島本先生の荒技に倣い、本作はオタクの愛の全肯定という荒技を敢行した作品である、と言えるのです。
 ――ぼくは一ヶ月ほど前、本当に何気なく本作を手に取り、そして毎話、感動と驚愕に震え上がりながら、終えてしまうのが惜しいと感じつつ、プレイをし終えました。
 が、大変残念なことに本作、一般的な知名度はそこまで高いとは言えません。
 興味を持っていただけた方は、まず体験版を――と思ったのですが、プレステストアを見てもどこから体験版をDLできるのかわかりません。ニコ動ででも見て気に入った方は購入していただけたら……と思います。

*3 サブカルがまたオタクを攻撃してきた件  ――その2 オタク差別、男性差別許すまじ! でも…?(http://asread.info/archives/3673)

秋祭りだよ! 石坂啓

2016-11-18 00:03:08 | 男性学




 ゲンロンデンパ3 THE END OF フェミヶ丘学園 絶望編

 ――俺の名は絵炉川湖南(えろかわこなん・声:高山みなみ)。
 超高校級の???の持ち主。記憶喪失で、自分の才能すらもわからない男だ。
 入学した者が将来を約束されるという、フェミヶ丘学園の門を叩いた俺だったが……しかしどういうわけか南海の孤島へとワープして、ミサンドリアイ修学旅行を強要されてしまった。
 学園長を名乗るのは、右と左で雄と雌に別れたあしゅら男爵のようなぬいぐるみ、フェミクマ(声:TARAKO)。
 そんな絶望的な状況の中、フェミニズムの反社会性を身を持って知っていった俺たちだったが、超高校級の女流エロ漫画家・小左右田手似非良子(こそだてえせいこ・声:茅野愛衣)はフェミニストの児童虐待を擁護し出した――。
フェミクマ「それじゃあ今回のフェミ裁判のテーマは『石坂啓は児童を虐待したか』だよ!」

 フェミ裁判開廷!!
 テーマ『石坂啓は児童を虐待したか』
 議論開始!!


小左右田手「ふええぇぇぇ……フェミニズムは全ての弱者の味方ですぅ! そんなことするわけないじゃないですかあぁぁぁ~~~~!!」
絵炉川「初っ端からだけど、それは違うぞ! 俺が指摘したのは石坂啓の『赤ちゃんが来た』。石坂は雑誌『週刊金曜日』の編集委員や、ピースボート水先案内人を務める他、フェミニズム雑誌にも寄稿するフェミニスト漫画家。本書は彼女が出産を機に1993年に出版した育児エッセイなんだけど、ここには明らかに彼女が乳児を虐待したと記述されている!」
小左右田手「そ……そんなわけないですよぉぉぉぉ~~~~!!」
 しかし、小左右田手は何を聞かれても泣き叫ぶばかり。
絵炉川「これを見ろ、本人が自分の手でそう書いているんだよ! 問題の箇所は185p「ちびチンコ」といういかにもなタイトルの項。彼女が男の子のいる従妹と話していた時のことだ」

「チンコがちびっちゃくてかわいいんだよね」
 と言うと、彼女は、
「そうでしょう。私なんかカラダ中ぜーんぶ、なめまわしたもん」
 と言う。えっ、……と一瞬目が点になった。かわいくてかわいくてフッと気づくと、チンコをしゃぶってたりする……のだそうだ。私は絶句してしまった。それってアリだったのか!
 ナーンダ、やってもよかったのか!
 もちろん私だって、あとに続きました。一回だけだけどね。一口大のちびチンコって、極上ですよ。グミキャンディーでつくってみたら、絶対ヒットすると思います。


???「素晴らしいよ!!」
 口を開いたのは超高校級のリベラリスト・田陽瀬水戸目郎(たようせみとめろう・声:緒方恵美)。狂った独自の価値観で常にフェミ裁判を引っ掻き回す存在だ。
田陽瀬「生々しい描写がドキドキするね! 子供との性行為をも是とする真のリベラリスト、石坂先生はぼくたちオタクの味方、児ポの味方だよ!」
???「ねぇ、田陽瀬くん……悪いんだけど黙っててくれるかな?」
田陽瀬「………………」
 超高校級のオタク・芸夢真丹亜子(げいむまにあこ・声:花澤香織)のツッコミに、田陽瀬は押し黙る。
絵炉川「とにかく、本人が自著で書いているんだ、彼女が自らの息子である男児を性的に虐待したのは事実なんだよ!」
小左右田手「そ……そんなことないですよお! ほら、同じ本の84pを見てください。「性を卑しめる行為」という節で、石坂先生は当時起こった女子高生コンクリート詰め殺人事件について、心を痛めていらっしゃるんです!」

 女のコが死んだのが赤ん坊を産んだのと同じ、二年前の一月四日だったことをあとから知って、私は泣いてしまった*。
 女のコがかわいそうでたまらなかった。
(中略)
 おそらくこれから、私は息子の誕生日を祝うたびに、彼女のことを思い出すだろう。彼女の魂を抱きよせて、慰めてやりたいと思うだろう。

* あとがきによると彼女が子供を産んだのは91年、事件が88年でどうも計算があわないのですが……。


小左右田手「こんなにもお優しい石坂先生が、児童虐待、しかも自分の息子の性的虐待なんて、なさるはずがないですぅぅぅ~~~~!」
 か……完全に事実を認識する能力を失っているのかと思えば、自分にとって都合のいい箇所は目ざとく見つけ出してくる。一体どうなってるんだ……?
絵炉川「そんなバカな! 石坂がこんなキレイゴトを書いたその100p後で、悪びれもせず児童虐待のカムアウトをしているのは事実なんだ!」
小左右田手「そ……そんなわけないですよぉぉ! 絵炉川さんはそんなに私をクロにしたいんですかぁ?」
絵炉川「え? そ……そういうわけじゃ……」
小左右田手「え……絵炉川さんは、そんなにも私のことが嫌いだったんですねぇぇ~~~!!!」
A山A夫「だ……だよなあ、フェミニストがそんなことをするわけないよなあ」
B川B子「よねえ、フェミニストはリベラルだから間違ったことはしないわよねえ」
 泣き叫ぶ小左右田手に、周囲のみんなも同調し出した。
 誰も俺の言葉に耳を傾けてくれない!
 まるで『スーパーダンガンロンパ2』の三章で罪木蜜柑の泣き落としに、みんなが引っかかった時のように!
 まるで『ネットハイ』での女性対戦者が泣き落としで民意を操る時のように!
フェミクマ「ひゃっはー! 議論は打ち止めのようですなあ! では、投票タイムに行きましょうか! ま、誰がクロになるかは想像つくけどね。うぷぷぷぷぷ……!」
絵炉川「こんなバカな……! 明らかな証拠が目の前に提出されているのに、誰もそれを認めようとしないとは……!!」
芸夢「フェミニストの特徴だね……フェミニストと話した者にとって、彼ら彼女らが自分にとって都合の悪い客観的事実を受け容れることほど、驚くべきことはないんだよ」
小左右田手「フェミニスト様が……女性や子供といった弱者と寄り添うフェミニスト様が子供をいじめるわけがないじゃないですかぁぁ~~~~~!!」
芸夢「ちょっと待って。小左右田手さんの言っていることには、明らかな間違いがあるよ」
小左右田手「そ……そんなはずは……」
芸夢「確かに弱者に寄り添う、というのはフェミニズムの看板だよね。でも、実際にはどうかな。鳥越俊太郎氏の女子大生への淫行疑惑を報じられた時も、ビル・クリントンの不倫疑惑の際も、フェミニストたちは一様に彼らを擁護したよね。その他にも児童虐待を指摘した者を恫喝するなど、彼女らが性的加害者の味方をした例は、枚挙に暇がないよ」
小左右田手「そ……それが今回のお話と、どうつながりがあるんですかぁ?」
芸夢「じゃあ、他の例を挙げようか。1980年代のアメリカでは、記憶戦争というのが巻き起こったんだ。フェミニストたちが多くの女性たちが幼児期に虐待を受けていながら、その記憶を封印していたと主張したんだよ」
小左右田手「そ……そうですよぉ! フェミニスト様は誰よりも、児童虐待を憎んでいるんです!!」
芸夢「ところが……その“思い出された記憶”というのは非常にいい加減なものだったんだ。カウンセリングを受けに来た女性たちに、フェミニストカウンセラーが誘導して捏造した記憶を植えつけ、何万という家庭を破壊した――それが、実態だったんだよ」
小左右田手「そ……それが今回のお話と、どうつながりがあるんですかぁ?」
芸夢「フェミニストたちの過ちは、自分たちは聖なる被害者に属しているという傲慢な過信、そして男性たちを悪しき加害者だと決めつける硬直した正義感にあったんだよ――そしてそれはこの石坂啓にも完全に当てはまる……と思うよ」
小左右田手「どこが当てはまるって言うんですかあぁぁ~~~?」
絵炉川「証明できるかも知れない……『赤ちゃんが来た』の37pを見てくれ。「マザコン教育」という気持ちの悪い節タイトルの箇所だ。ここではさんざん「息子をマザコンに育ててやる」と繰り返した末に(当時の女流漫画家の育児本は、この種の発言が実に多く、柴門ふみも確かそう書いていたんだけれど)彼女はこう続けている」

 よォし、どうせなら立派なマザコンにしちゃえ。女はママだけでいいよネーと言い聞かせながら、乳を押しつける。世間に出さなきゃ人にも迷惑かけないわけだから、自立させないで手元に置いておこう。
(中略)
そうだ、十二歳くらいで去勢させてもいいな。息子の第二次性徴など見たくない。「ママなしでは生きていけない!」なんてまとわりつく軟弱な息子を想像しては、ああステキ……と私はにんまりした。


田陽瀬「素晴らしいよ!! ステキなポルノ脳だね。石坂先生は真のリベラリスト、オタクの味方だよ」
芸夢「ねぇ、田陽瀬くん……悪いんだけど黙っててくれるかな?」
田陽瀬「………………」
小左右田手「そ……そのエッセイが、どうしたっていうんです?」
絵炉川「実際の性的虐待に及んでいる時点で明らかにアウトだけれど、彼女は理念の上でもそれを肯定してしまっているんだ!」
小左右田手「そ……そんなこと関係ないですよぉ! ホントに去勢したんならともかくぅぅ!!」
絵炉川「じゃあ、本書の最後に掲載されたエッセイを見てみよう。「女の時代」と題され、2030年12月に書かれたというあくまで仮想の、自分の娘のエピソードとして書かれたものだ――この娘は夫と別姓・別居結婚をしており、社会はタイトル通りまさに“女の時代”になったと描写されている」

 もっともこの時代、男たちはすっかりおとなしくなってしまった。
(中略)
 プラトニックラブストーリーがもてはやされ、ゲイやインポの男たちがひっぱりだこ。
(中略)
 息子は将来の世界のことを考えて、十二歳くらいで去勢させようと夫と話している。去勢はこのところちょっとした流行(はやり)だ。「地球にやさしい」ってやつである


絵炉川「この醜悪奇怪なエッセイが、本書のトリを取っていることの意味は、大きいとしか言いようがない。ここで表現されているのは、男を雑に悪者扱いし、その去勢を何ら迷うことのない正義として描く、石坂の男性に対する徹底的な侮蔑と憎悪だ!!」
小左右田手「わ……わかりませぇん! な……何にもわからないですぅぅ……!!」
芸夢「小左右田手さんがわかろうとわかるまいと、石坂の中に度を超した男性への嫌悪と憎悪があったことは疑いのない事実だよね。そしてそれは、見逃すわけにはいかない重大なポイントを孕んでいる……当たり前のことだけど、石坂啓が自分の息子を性的に虐待したからと言って、全てのフェミニストがそれを唱和してるわけじゃないとは思う(表立って批判した人は、見たことがないけど……)。でも、フェミニズム特有の男性への憎悪が、この性的虐待に結びついていないと考えることも、やっぱり困難だよ」
小左右田手「そ……そんなわけないじゃないですかぁ! こんなに息子さんを可愛がっているのに……!!」
絵炉川「確かに、表現は間違っていたとしても、彼女が息子を溺愛していることは、本書の行間から滲み出ている……しかし114p「アブナイ愛」という項を見てくれ。これは「ママとリクオの疑似恋愛」という薄ら気持ち悪いタイトルの章の中に収められた項だ。ここで石坂は「女の子が欲しかった」という怨み節に続き、こう言っている」

 それにひきかえ、家の中に夫以外の男が増えるなんて想像できない。むさくるしい気がする。
(中略。面倒なので略しますが男の子へのネガティブな雑言が延々続きます)
やだやだ!! 男のコだったら中学卒業と同時に働かせて家を出てもらおう。そして私は今までどおり、夫とふたりで静かに暮らすのだ。


 石坂が男性憎悪の主であることは明らかだ。何しろ彼女は『男嫌い』なんて題されたエッセイ集もモノしている。
 もっとも、この論調は男児の出産と共に一変しているわけではあるけれどな。同じページで彼女は、以下のように言っている」

乳をやったりオムツを替えたり抱っこしたりするうちに、私は母と息子のアブナイ愛に目覚めてしまったのだ。文字どおり、「若い男」ができたような気分になってしまった。一日中イチャイチャ乳くりあったり飽きずに寝顔を眺めたり、はるか昔の恋愛時代がよみがえったようなトキメキである。


田陽瀬「すごいよ!! 息子との恋愛をも否定しないフリーダムさ。石坂先生は真のリベラリストだよ
芸夢「ねぇ、田陽瀬くん……悪いんだけど黙っててくれるかな?」
田陽瀬「………………」
絵炉川「先のおぞましいエッセイに「女の時代」というタイトルがついていたのは示唆的だ。90年代初期は均等法の影響か、世を挙げて女性を持ち上げまくることが流行したんだ。女性が一様に小金を持ち、しかも生活費は男性や親に依存したまま収入は遊びに投じてくれるんだから、各種産業は笑いが止まらなかっただろう。そしてあらゆるメディアに“仕事でもプライベートでも男を圧倒する格好いい女性”のヴァーチャルなイメージが氾濫した。たった一つのテレビドラマを根拠に、“積極的になった女が、男を能動的にセックスに誘うようになった”などといった勘違いな雑誌記事が馬に食わせるほどに量産された……」
芸夢「それがフェミニズムの後押しになったことは、疑いようがないよね。でも、女性は男性を養うようにもならなかったし、セックスに積極的にもならなかった……」
小左右田手「そ……それが、この件と何の関係があるんですかねえ……?」
絵炉川「関係あるさ。俺は“原因”について語っているんだ。フェミニズムの反社会的な主張が、世間から見逃されてきた理由――それは“強い女”“女の時代”というイメージを、社会の側が必要としていたからだ!」
芸夢「今でも、バブルの夢から覚めないフェミニストは大勢いるよ。社会的地位をバックに男性にパワハラを働いてドヤ顔だったり……それもこれもフェミニストたちが自らの力を振るうことに対する責任を一切、自覚していなかったからかも知れないね」
小左右田手「ど……どういうことですか?」
芸夢「自分たちは被害者だ、弱者だと繰り返すばかりの思想では、勝った後のことが何にも考えられないってことだよ。それが、目の前に児童虐待の動かぬ証拠を提出されても、現実が認められない小左右田手さんの態度を生んだと言えるんじゃないかな」
絵炉川「石坂はまさに子供を出産したこの時期、『マネームーン』という漫画を描いている。この作品はカネを対価にセックスすることに迷いのない女性、金城月子が性風俗産業に従事し、更には逆転の発想で男性モデルのAV、男性出張デリヘルなどの商売を始め、金を稼ぐ様が描かれる」
田陽瀬「素晴らしいよ! 女性だって自由な性を謳歌する権利があるものね!」

論破!!

絵炉川「それは違うぞ!」
田陽瀬「え……?」
絵炉川「この漫画は、リベラルであるお前にとっても、素晴らしいとは言えないぞ。だってここで、石坂は女性キャラクターに「使われている側である限りは搾取され続ける」と語らせて、それが作品全体を貫く価値観となっているんだから。それを見る限り、石坂は売買春を悪と考えているとしか、思えない」
田陽瀬「………………」
絵炉川「それを踏まえ、月子は女性向け風俗を始めるんだが、困ったことにそれが“男性の身勝手さを描くための風刺意図で配した設定”なのか、“あるべき姿と考え、描いた”のかがわからない」
田陽瀬「それの……どこに問題が?」
絵炉川「漫画作品に対し、それだけを理由にケシカラン作品だ、と文句をつけるつもりはない。しかしこの作品のあり方はフェミニズムの身勝手さを、見事に反映させてしまっているんだよ。“今まで男性がこうだったのだから、女性もこうあるべき”なのか、“女性にとって好ましくないのだから、男性はこれこれを止めよ”なのか判然としない」
芸夢「それが、フェミニストたちの、男性のセクハラ、パワハラを批判しつつ自らはそれを平然と行うダブルスタンダードと一致している……と言えるかも知れないね」
絵炉川「しかも、ホストクラブなど、石坂が本作を描く以前からあったはずだ。一方、石坂が描いたような男女を反転させただけの風俗は、今に至って実現していない(丁度当時、BLが商業的に膨張しつつあったことは、象徴的と言っていいかも知れない)。結局、フェミニストの主張する“専ら男が女を買う、男尊女卑社会”そのものが、非実在な妄想に過ぎなかったんだよ!」
芸夢「実在するものは頑なに無視し、ありもしないものばかりをやり玉に挙げて男性を批判する……それは今のフェミニストの振るまいそのものだね」
小左右田手「そ……そんなにフェミニストが嫌いなんですか!?」
絵炉川「だ……だから、好きとか嫌いとかの問題じゃ……」
小左右田手「結局そうやって私ばかりいじめるんですね! どうしてなんです!? みんなずるいですよ!! 自分のことはすぐに許しちゃうクセに私のことはどうして許してくれないんです!?」
芸夢「これは……お話にならないね……」
小左右田手「どうしてどうしてどうして!! 許して許して許して!!」
 ――と、今まで黙っていたフェミクマが、いきなり立ち上がった。
フェミクマ「はぁい! そろそろ投票タイムです!!」
絵炉川「え……? い……いきなり?」
フェミクマ「いきなりも何も、もう小左右田手さんは議論はできないでしょ?」
絵炉川「そ……そうは言っても……」
フェミクマ「うぷ↑ぷ↑ぷ↑ぷ↑ぷ↑ぷ↑ぷ↑ 果たして『石坂啓は児童を虐待したか』? オマエラ、お手元のスイッチで投票してください!」

 投票開始

フェミクマ「はい、投票の結果、『石坂啓は児童を虐待したか』は非という結果になっちゃいましたぁ」
絵炉川「ど……どうして……!? みんな、本の記述を読んだはずだろ……!?」
フェミクマ「というわけでこれから、間違った主張をした芸夢さんのおしおきを行います!」
絵炉川「バカな……!!」
フェミクマ「さあ、アニメ絶望編の十話のように、サイコポップをどこかに置き忘れた、一線を越えた、ただひたすらに凄惨で無惨で陰惨で不快なだけのおしおきを実行します。絶望的ィ!!」

 ――芸夢真丹亜子、死亡

フェミクマ「えくすとりーむ! アドレナリンが染み渡る!」

 フェミクマは一人、はしゃいでいる。
 それはまるでファンを置き去りにしたまま、過度な描写をして喜ぶスタッフたちのように。
 俺たちが目の当たりにしたもの……それは絶望。
 これをそう呼ばずして、何と呼べばいいのだろう。
 みんなはフェミクマに洗脳され、あっさりと人の心も思考力も、全てを捨ててしまったのだ。
 最終回で復活するだろうが、だからといってファンは誰も喜ぶまい。
 俺は、絶望するしかなかった――。

お知らせ

2016-11-08 22:40:51 | お知らせ

 ネットマガジン『ASREAD』様でちょっと書かせていただきました。
『君の名は。』は女の子向け『シン・ゴジラ』である。」です。
『君の名は。』が何故ここまで人気になったのか……がテーマですが、マニアックすぎて記事に組み込まなかったことを少しここに記しておけば、『君の名は。』は『トリプルファイター』である、とも言えるのでは、というのがぼくの考えです。
『トリプルファイター』は1972年に放映された変身ヒーロー番組。
 三人の兄弟、グリーンファイター、レッドファイター、オレンジファイターが合体変身し、トリプルファイターとなって敵をやっつける物語ですが、各々がそれぞれ頭脳、力、そして心を司るとされます。
 心を司るオレンジは紅一点であり、同時期の『魔神ハンターミツルギ』でも、また『ウルトラマンA』、『アイゼンボーグ』でも男女合体変身の際、女性が愛や心を司るのがお約束となっておりました。
「男女が協力することで初めて完全体となる」的な発想は、普遍的な感覚と言えるわけです。
『トリプル――』は低予算の10分番組であり、正直大した作品ではありません。ちょっとカネのかかった『レッドマン』レベル。
 しかし、だからこそ逆説的に本作では「戦いの渦中に身を置く非人間的な運命を嘆く三兄弟」というドラマ性が(ほんの少し)生まれ、また、そのドラマ部分、言わば「人間性」は専らオレンジファイターが担当することになったのです。オレンジが戦いの中で同年代の女性と友人になるが、彼女を危険に晒さないために身を引くエピソードなどは、その好例です。
「男に心はない。悲しみ、喜び、怒り、楽しむケンリを持っているのは女性だけだ」。
『トリプル――』は、ぼくたちの社会の見事な戯画でした。
 そしてまた、『君の名は。』も。
 そのこと自体を、ぼくは必ずしも否定しようとは思えません。
 しかしならばこそ、ぼくたちが選び取るべき道はアトミズムなどではない、と考える他はないのではないでしょうか。
 ともあれご一読いただければ幸いです。

 後、ちょっとオマケ。
 動画をうpしました。
ヒラリーの絵本ワロスwwww


 こちらも見ていただけると幸いです。