「女災」とは「女性災害」の略。
男性と女性のジェンダーバイアスを原因とする、男性が女性から被る諸々の被害をこう表現します。
このブログでは女性災害に対する防災対策的論評を行っていきたいと思います。
当初、OCNで開始し、目下はニコブロ(兵頭新児の女災対策的随想)へと活動の軸足を移しているのですが、2014年11月末をもってOCNのブログサービスが終了し、このままではニコブロ以前の記事が消えてしまうことになるので、保存の意味で新たなブログを立ち上げた次第です。
こちらのブログも更新していきますが、ただし新しい記事は基本、ニコブロにupしたものを遅れてupしているものです。
後、考えるとプロフィールにメアドが記載されていませんので、こちらに。
shin_2_h☆juno.ocn.ne.jp
何かご用の向きは上にご連絡を(☆→@)
以上、そういうわけなのでご了承ください。
■9月8日更新!!
ぱっと見だと更新したかどうかわからないので、更新した時はここに日付を書くことにしました。
第六十一回目です!
パリ五輪をきっかけに――なのかは知りませんが、またぞろ小山田圭吾擁護の大合唱。確かにパリ五輪の開会式に勝つには小山田様に演出していただくくらいしか手がないかも知れません。
てなわけで小山田様のいじめがどれほどDEI(多様性、公平性、包括性)に敵ったものであったかをご紹介。
文中のかつての小山田批判動画は以下を!
風流間唯人の女災対策的読書・第50回「橘玲のバカと無知で世界はなぜ地獄になるのか フェミと左派の“これから”」
相も変わらず『ぼくたちの女災社会』[増補改訂版]刊行記念の記事再録です。
是非、増補版をお買い求めの上で記事をお楽しみください。
さて、今回の再録記事の初出は2019年11月29日。
発刊十周年で書いてはいたものの、正直、この辺になると時事ネタと強引に絡めて自己宣伝という性質が強いです。
リョーマ氏発の「負の性欲」というワードがあまりに見事で、何とか便乗しようという正々堂々とした下心が、記事からは横溢していますね。
そんなこんなで最後にちょっとだけ「五年後の補遺」を設けました。
一度読んだ方も、そこだけでも読んでいただければ幸いです。
では、そういうことで。
* * *
今年は拙著『ぼくたちの女災社会』出版十周年の年です。そんなわけで本書については、(以下略)。
が、期せずしてシンボリックな事件が起きたがため、それにちょい便乗させてもらおう(以下略)。
今までも天才予言者であるワタクシ、兵頭新児が数々の予言を成就させてきた(以下略)。
あ、それと本書を未読の方はkindleで買えますので、ご一読をお勧めします。目下ツイッター界隈で囁かれている反フェミニズム論、非モテ論がいかに浅く周回遅れなものかがおわかりいただけるようになりましょう。
●負の性欲とは?
――さて、ツイッターで今月28日、「負の性欲」という言葉がトレンド入りするという珍事が起こりました。いえ、この概念そのものは以前から結構評価されていたものであり、当然、当noteでも折に触れ、扱って参りました*1。
が、当然というか何というか、ツイッターではフェミニストが聞きつけ、脊髄反射で拒否反応を起こしている場面、どう見ても語幹から適当に想像して勝手なことを言っているだけという場面などが散見され、まあ、しょうがないとはいえ何だかなあな状況を呈しています。
こうした図が出回ったりもしていますが、何というか、全然違いますね。
まずはぼくのnoteなんかよりリョーマ氏のブログ*2を見るべきなのですが(全否定かよ)、まあここはポイントだけをご説明すると共に、ぼくの側の解釈を最後に述べることにしましょう。
*1「ショウジョマンガガガ」の「●歩く完全負のポルノ図鑑」など。
*2「女性専用化社会 負の性欲」
●提唱者の、定義
まず、記事の冒頭には
とあります。
何というか、上の図では「負の性欲」というのは誰にでもある、性のネガティブな発露。みんなでマナーを守り、楽しい社会を。とでもいった、薄っぺらなどうでもいい世界観が開陳されておりますが、リョーマ氏の記事の冒頭の痛烈な描写を見て感じるのは、「この女の過剰さって、何なの?」というものです。
――いや待て。男だってすることだろ。
いえ、しません。
否、そりゃするヤツもいるだろうけど、女の苛烈さと普遍性とは比べるべくもない。
ここに何か、女性独自の精神的必然が働いてんじゃねーの? というのがリョーマ氏の疑問なのではないかと、ぼくは考えます。
しかしそこを無視し、上の図は「お互いさま」とでも結論できるような、当たり障りのないものになってしまっている。
白饅頭の著作で知ったのですが()、「世界公平信念」という言葉があります。これは「ずっとついてなかったんだから、そろそろツキが回ってくる」といった世界が公平にできているとの、整合性はないがついぼくたちが陥ってしまいがちな観念を指し、特にジェンダーフリー論者じゃなくとも、人は何とはなしに男と女を対称的なものだとの観念に引きずられてしまうものなのでしょう。
しかし、あくまでこれは女性特有の、女性のセクシュアリティに紐づいた、特殊な欲望なのです。
ブログを読み進めましょう。
そう、「男には負の性欲は(ほぼ)ない」というのがリョーマ氏の考えだとわかります。
とのフレーズもあり、これもぼくの指摘とほぼ、一致しますね。
既に消されてしまっているけれども、恐らくリョーマ氏が広くこの概念を訴えたのは、棘のまとめで、ぼくが「ブスイキリ漫画」と称したような作品を例に挙げてのことだったはず。
そう、何かエラそうな女が男に一喝して、男が反論できずたじろぐ。そうした漫画ってありますよね。あれこそがまさに「負のポルノ」だ、というのが彼の主張だったんじゃないかなあと、記憶しています。
驚きました。
何しろ「フェミニズムとはポルノだ」との指摘は、ぼくが以前からしているもので、「あ、俺以外にも言ってくれる人がいたんだ」というのがぼくの率直な感想です。
●『女災』も実は同じことを言っていたとか、そういうことを言いたい
しかし、敢えて、ここで一つだけマウントするならば、リョーマ氏の指摘ではこの「ポルノ」というのはこの段階ではある種、「比喩」と思えなくもないこと。
ブログの見出しには「男から求められ、その男を性的優位な立場からボコる快感」ともあり、これは「暴力を振るう快感」と取れなくもない。が、その解釈に留まるならば、この「負の性欲」という概念のポテンシャルを、三割ほどしか発揮していないことになります(リョーマ氏がそうだというのではなく、ツイッター上の解釈が、そこに留まっているのではないかというのが、ぼくの危惧です)。
ならばどういうことか……ということで、もうちょっとだけこの概念を深掘りしましょう。
ぼくは『女災社会』において(以下の引用、実は前回記事と全く同じなのですが)、
と表現しました(強調原文ママ)。
そう、前回記事では石川優実師匠の言動を批評するために引用したこれらフレーズは、全く「負の性欲」と重なるのではないでしょうか。
女性の性欲というものは、そもそも自分自身に向かうという方向性があります。男性が自分の肉体性に惹きつけられていることを確認することで、女性の性欲は満たされるのですから。
だから、男性が自分に求愛し、しかし肘鉄を食らい、無残に滅びていくことで、彼女らは「エクスタる」のです。
フェミニズムとはまさにそうしたエクスタる過程そのものであり、性犯罪冤罪もまた、というのが実のところ「女災」理論の根幹なのです。
「女災」とは「負の性欲」の暴走で起こる厄災そのものなのです。
●ちょっとだけ、独自解釈?
さらにもう少々、マウントを続けましょう。
リョーマ氏は以下のように指摘します。
ちょっとこれは違っていて、言うまでもなく女性向けのポルノというのはレディースコミックという形で、無限にあります(まあ、前にも書いたように女性週刊誌の誰それが浮気したの離婚したのという記事こそが彼女らにとってのポルノだろうけれども)。
そこにはレイプ描写が溢れており、レディコミ全盛期にはフェミが必死になって言い訳に奔走していたというのが実情なのだけれども、BLもまたレイプ描写の山であり、女性はレイプ描写が大好きだという事実は揺らぎません。
実はこれは、藤本由香里師匠が(いや、フェミニストという立場で大丈夫なんですかと言いたくなるほどにあけっぴろげに)分析していて*3、要するにレイプものとは責を男に預けたまま、自分は気持ちよくなれるというサイコーに負の性欲を満たしてくれる表現なのですな。「私はイヤなのに」というわけです。
女性の描く「ショタ漫画」というのももちろん、ほとんどは成人男性が小学生男子をレイプするものなのですが、ぼくの知人の女流エロ漫画家さんはこれにも同じ評を与えていました。つまり、「責は男に押しつけて快だけ得るので安易である」と。責任逃れの度の強さは、何しろ子供で、しかも性別をも男性に押しつけているわけだから、最強なのですね。
*3 快楽電流
本書には「好みの男にされるレイプはレイプじゃない」と言っているとしか思えぬ個所もあり、「フェミとは思えぬ極めて率直な自己分析と鋭い自己洞察」と、「痛すぎるフェミの大変なことになってしまっている部分」とが同居しており、何というか、驚きの著作という感じがします。
恐らく、リョーマ氏自身も(仮に無意識裡にでも)上のようなことを感じており、だからこそ「性欲」と名づけたのでしょう(「負の」というのは「性欲を感じていない」という意味ではないはずです)。
ただ、ここは強調しておかないと、先にも書いたような、結局「男女ともに負の性欲があってお互い様だよね」みたいな曲解された通説が広まるのでは……というのがぼくの危惧です。こういうの、大メディアに採り挙げられると、とたんにそういうわかりやすい方向に持っていかれ、棘を抜かれちゃうんですよね。
実はリョーマ氏のツイッターアカウントは復活しており、これからも積極的に発言してくれることを期待します。その上で、少しでもこの概念が深化されていけばいいな……とぼくは今、考えています。
●五年後の、短い補遺
――加筆部分です。
振り返ると「負の性欲」、他にも「マ●コ二毛作」といった優れたタームを生み出した熱血系アンチフェミ、リョーマ氏も活動を休止しています。
この「マ●コ二毛作」とは以下のような意味です。
これも今となってはネット上でその実例がリアルタイムで余すところなく晒されるようになり、少なくとも男女論界隈では半ば「常識」化した概念です。
女災、即ち「有毒な女性性」による被害は確実に周知されつつあるのだと、ひとまずはそのことを、喜んでおきましょう。
しばらく続けている、『ぼくたちの女災社会』[増補改訂版]刊行記念の記事再録です。
是非、増補版をお買い求めの上で記事をお楽しみください。
それと昨日、新動画をうpしました。
こちらの方もどうぞよろしく!
第六十一回「小山田圭吾擁護の「嘘」――サブカルの「いじめ」はいかにつくられたか」
さて、今回の再録記事の初出は五年前、2019年9月28日。丁度『女災』発刊十周年の頃。
わりと真っ当にに当時の女災状況について分析がなされているかと思います。
そんなこんなで最後にちょっとだけ「五年後の補遺」を設けました。
一度読んだ方も、そこだけでも読んでいただければ幸いです。
では、そういうことで。
* * *
さてみなさん、今月で拙著『ぼくたちの女災社会』出版十周年となります。
本書を未読の方はkindleで買えますので、ご一読をお勧めします。今ツイッター界隈で囁かれている反フェミニズム論、非モテ論がいかに浅く周回遅れなものかがおわかりいただけるようになりましょう。
●時代がまだ、追いついていない点
……というわけで始めましょう。
正直、よき結果を出せたとは言い難い、出版することでこちらも一生涯を棒に振るようなダメージを受け続けた本書、自分にとってもよい記憶と共にはなく、読み返すこともほとんどありませんでした。今回がほとんど五、六年ぶりの再読になったんじゃないでしょうか。
で、読み返して感じたのが、ようやっと時代の方が、ちょっとだけぼくの足下くらいには到達しつつあるなという感慨。例えばですが、本書ではセクハラ(そう、既に三十年前の話題です)という舶来の概念が日本にやって来た時の騒動を形容し、
またストーカーについても、ストーカー研究の第一人者、故・岩下久美子さんの著書『人はなぜストーカーになるのか』の、
といった主張を引用し、
などと書かれています。
これは目下、白饅頭発で人口に膾炙している「お気持ち案件」と全く同じですね。
もちろん、フェミニストの手先である白饅頭*1は、それ以上の分析に立ち入ることができず、ぼくには予め、大きく水を開けられてしまう結果となっています。
近年、気を吐いているすもも師匠も、「女性の方が遥かに恵まれている」というところにまでようやく到達しましたが、そこからの主張は「何か、ジェンダーフリーで男にもリターンをくれ」というもの。ぼくはこれ、「国家」に何やら求めるよりは好ましく思えるのですが、ジェンダーフリーを素朴に信じているというのでは、ちょっと期待できない。何しろ本書を読めば、森岡正博師匠の「草食系男子」論など、ずっと同じ論調がただ無為に繰り返され、女性が変わろうとしなかったことは明白なのですから。
女性の持つ加害性、ネガティビティを引きずり出そうとするぼくの「女災」論の域は、彼らには期待すべくもない。ただ、近年のリョーマ氏の「負の性欲」論は女性のメンタリティに切り込んでおり、おそらく「女災」とほぼ同じことを言っているように思われこれは非常に評価できるのですが……すみません、放っておくと自画自賛ばかりを繰り返して終わってしまいそうです。
本書と今のご時世と齟齬のある部分、ある意味で「古びてしまった部分」はないかについても、ちょっと考えてみましょう。
*1 表現の自由界隈で気を吐いている青眼鏡、白饅頭共に表現規制に賛同するフェミニストの傀儡であることは、以下を参照。
「実践するフェミニズム――【悲報】テラケイがラディカルフェミニストとお友だちだった件」
「実践するフェミニズム――【悲報】テラケイがパターナリズム支持者だった件」
「実践するフェミニズム――【悲報】テラケイが表現規制に賛成だった件」
●時代が進んでしまった点――その時、女たちは婚活していた
改めて再読して感じたのは十年前の2009年、当時は「萌えブーム」たけなわであったのと同時に、「女が落ちぶれた」時代であったということです。
本書については中傷者(批判などという気の利いたことのできる者は、残念ながら現れませんでした)にも『電波男』との類似を指摘されましたが、それは「そういう時代だったから」というしかない。オタクの時代が来たというある種の「オタク勝利」論が本書のバックにあり、さらに言えばその前提としての「女凋落」論がありました。
いつも言うように、バブル期には「強い女の時代」という根拠ゼロの神話が垂れ流されておりましたが、それも当時はすっかり古くなり、覚えている者もいないような状況だったのです*2。
当時目立っていた女性にまつわる流行語は、「負け犬」女であり「婚活」ブーム。この婚活ブームの立役者である白河桃子師匠が、かつては『結婚したくてもできない男 結婚できてもしない女』、『こんな男じゃ結婚できない! 噂の「おみー君」劇場』といった本も出していたのだから、大変な落ち目っぷりです(「おみー君」とは見合い相手の奇妙な男を指す造語です)。本書でもかつては余裕があったが、今は涙目で婚活、などとギャグにさせていただきました。きました。
ただ、「婚活」という言葉そのものは、(フェミニストが、そのイデオロギーを先行させたものではあれ)当初は「見合いなどの社会のお仕着せの結婚までのルートが失われた以上、積極的自覚的に結婚に向けて活動せねばならない」という正論を前提したものではありました。しかしそれがいつの間にか、何とはなしに(女性たちが無反省に欲望を駄々洩れにさせた結果の必然として)「婚活で玉の輿を狙おう」という方向へと話が変わっていきました。
そうそう、「草食系男子」なんて言葉もありましたね。これは(フェミニストが、そのイデオロギーを先行させたものではあれ)男性性に欠ける男性を肯定しようという言葉だったはずが、何とはなしに(女性たちが無反省に欲望を駄々洩れにさせた結果の必然として)「今の男はだらしない」に代わって行きました。
ある意味で、女性が虚栄心を捨て、自分の欲望と謙虚に向きあうチャンスがこの「負け犬」ブームだったはずが、彼女らはまたしてもそのチャンスを棒に振り、見栄を張ってしまったのです。「デレ」ること敵わず、「ツン」を通す愚を犯してしまったわけですね。
*2 「『現代思想 男性学の現在』(その3)」などを読むと、年代によってはその当時の世界観を今もあどけなくキープしていらっしゃるかのようにも見えますが……。
では、今は?
女性の状況は好転するどころか悪化するばかりのはずなのですが、一時期の「女性たちが結婚したくてテンパっている」的なムードはあまり感じられなくなりました。そもそも上に書いた「負け犬」的な、女性の今を象徴する流行語なども今一、思い浮かびません。
本書では「かつて、華々しく輝かしい女性像がメディアに溢れていたが、今はそれがない」ことの象徴として「負け犬」、「婚活」といったワードを挙げたのですが、もはやそんな「落ち目の女性像」すらも、メディアには見られません。
この状況を読み解くカギは(一つにはマスコミの影響力というものが失われたことでしょうが)、メディアに「ブスコンテンツ」が充実しだしたことではないか……とぼくは考えます。そもそもテレビなどほとんど観ないので漠然としたイメージしかないのですが、ブスがイケメンと絡む類のドラマやCMなどが出て来たのはここ十年くらいではないでしょうか。
乏しい知識を並べ立てれば、平成『ライダー』でも『シン・ゴジラ』でも美人と言い難い女性が出てきますし、戦隊シリーズでも『トッキュウジャー』には悪の組織にフリフリのフリルを着て日髙のり子の声でしゃべるという、しかしグロテスク極まりない姿をした女モンスターが登場しました。これがイケメン(こちらは人間の役者が顔出して演じていました)の悪の王子と恋愛を演じ、女性ファンがそのモンスターを「可愛い」ともてはやすのが、申し訳ないですが気持ち悪くてなりませんでした。
他にも、これはぼくのお気に入りキャラですが、『ダンガンロンパ』シリーズには「腐川冬子」というあからさまにブスという設定を与えられたキャラが登場していましたよね*3。
十年前に流行していた「オタクそのものをネタにしたオタクコンテンツ」もすっかり、女向けのもの特化になってしまいましたが、これもまた「ブスコンテンツ」のバリアントであることはおわかりでしょう。言ってしまえばオタクコンテンツ、本田透的なロジックが、女性がモテないまま自己を肯定するためのコンテンツに、彼女らの方に利するものに化けてしまったわけです。
もっとも、これは実のところフェミニストが共産主義的体制、言ってみれば国家に男性の役割を果たしてもらう体制を求めていたことと、それほど変わりはありません。マスコミが女性をただひたすらにちやほやする状況は当時からあり、本書ではそれが「ホスト資本主義」と呼ばれておりましたが、ただ、女性がより以上にブスになったのでホストがブスにもおべんちゃらを使うようになったと、ただそれだけのことです。
*3「これからは喪女がモテる? 『ダンガンロンパ』の先進性に学べ!」
●時代が進んでしまった点――その時、オタクたちは勝っていた
一方、当時、勢いがあったのがオタク文化です。
言うまでもなく「オタク」は「弱者男性」と「≒」で結んでしまってもいい存在です。そんな弱き者が、当時は力を持ち、世間に対するある種のカウンターの声を上げていたわけです。
当時は「ツンデレ」という(オタク用語の中でもかなり理解しにくい)言葉を世間が曲解し、女性誌で「ツンデレで男子にモテる!」といった勘違いな特集が組まれ、オタクにからかわれるといったことが常態化していました。本書においても、「ムカつくバカ女のバカ本の文章をツンデレ風に言い換えると萌える」などという企画をやっており、隔世の感という感じです。
むろん、それは文化的にそれなりに力を持ちつつあったというだけのことで、オタク自身がモテていたわけでは、全くありません。しかし、当時のオタク(≒弱者男性)側は「我々は二次元があれば充足していられる!」との主張をしていたのです。繰り返すように『電波男』に端を発する主張ですね。
この主張の真意がどこにあるかは、本当に非常にデリケートに扱うべきことだと思うのですが、当時のぼくは基本、本田氏に準じた評価をしておりました。
いや、「ネットカフェ難民」って言葉も聞かなくなりましたね。また、二段目のフレーズは宮台真司の奥さんである速水由紀子師匠の『あなたはもう幻想の女しか抱けない』という本のタイトルをもじったもの。こういうの解説しなきゃいけない辺り、やっぱり昔の本だなあと思ってしまいますね。
とは言え、「メイドカフェ」ブームは外界へと流出したオタク文化の一つといえました。オタクのどれだけが現実のメイドカフェに行ったかは大いに疑問ですが、この頃の女性は「メイドさん」という「女性ジェンダー」の体現者に大いに憧れ、「オタク文化=虚構性」というクッションを安全弁として、それを享受しようとしていたのです。
それは、例えて言えば「ピンク」を大いに憎む『トクサツガガガ』*4の仲村さんが、「文化祭だから」というエクスキューズを得て、メイドさんのコスプレをしているところを想像していただければわかるのではないでしょうか。
結局、ある種オタクの在り方を一種のハンスト的に捉え、一方、「女性ジェンダー」を美化して描くことで、言わばオタク文化が女性側の意識の革新を促し得るのではないか……というのがこの時期のぼくの考えであったかと思います。
事実、当時は例えばアイドル声優さんがオタク文化に親和的な発言をするなどの光景があちこちで見られ、「ひょっとしてオタク的価値観が世界を覆うのでは」といった希望的観測も、それなりに故のあったことだったように思えます。
*4『トクサツガガガ』は「女性ジェンダーについての自意識をこじらせてしまった女性が、単にそれへの愚痴を吐く口実として私は特撮オタクであると自称する」という、まさに本田透の死体を貪り食っているかのような、そんな漫画でありました。
「フェミナチガガガ」
「フェミナチガガガ(その2)」
「フェミナチガガガ(その3)」
しかし、『電波男』は、あっという間に左派につぶされてしまいました。オタクたちが「俺たちは二次元の世界に旅立った」と言っていたのを、左派が「なるほど、JPGだけで満足なんだな、一生独り身で何の不満もないんだな」などと言い出したのですから*5。正直、左派の残忍さ、冷酷さをあまりにも甘く見ていたように思います。
そんなこともあり、今のぼくはやや論調を変えています。しかしこれは別に主張の大本を変えたわけではない。左派の非人道性に舌を巻き、オタク側も不満がないわけではないのだ、と主張せざる得なくなっただけのことです。別に二次元美少女が現実の女の代替物というわけではないけれども、いまだアニメやゲームの世界にダイブするノウハウがない以上、ぼくたちは別に充足しているわけではない。ぼくたちはアニメやゲームの世界観、愛のある世界、乱暴に言えばジェンダーが温存された世界にこそ心酔しているわけなのだから、仮に現実の女の子が「盛る」ことでアニメキャラのようになったからと言って納得するわけではないし、メイドロボを押しつけられればそれで満足するわけでもありません。
そもそも「オタク勝利」論がちょうど本書の出版時期と前後して、「日本のアニメや漫画は世界中で落ち目だ」といったカウンターにより否定されるようになっていきました。根拠が酷薄な上、言っているのが『朝日新聞』とかその辺ばかりで、果たしてどれだけ正しかったのかは、今となっては疑問ですが。
*5 これはずっとぼくが繰り返ししている(そして、誰からも同意されない)して気なのですが、「敵の死体を兵器利用するなんて、ゾンビマスターみたいで格好いいね!」など。
もちろん、一方ではこの十年、オタクの反フェミ意識はもう、かつてからは想像もできないほどに高まりました。ここ十年、ツイッター上でのフェミニストの大暴れが、フェミニズムの危険性を可視化させたのです。これそのものは、危機意識を持つことができるようになったという意味では、よかったことかもしれません。
しかし、これこそが大変皮肉なことに、表現の自由クラスタが活発化し、彼らに「真のフェミ」を持ち上げさせる結果ともなりました。彼らの言動を追っていけば、この十年はフェミニストに文句をつけられつつ、何とか水際でフェミニズムの実態を外部の者に知られまいとそのネガティビティをツイフェミに押しつけ、しかしとうとう上野千鶴子師匠までが悪質な人物であることまでがバレてしまった……という、見るも無残な振る舞いの連続でした。
しかし、どうにも、彼らにはそんな自分たちの醜態に対する自覚があるようには思えない。
どうにも、彼らのフェミニストへの忠誠は、白饅頭や青眼鏡を見ればわかる通り、いささかなりとも揺らいだようには思えない。
これらの流れは、大きな目で見れば結局「ツイフェミをスケープゴートにして、フェミニズムがより頑強になる過程」だったのかな……との失意を感じずにはおれないのです。
それはまた、オタク界の左派勢力がいよいよ強くなってきたことを示す十年でもありました。
●五年後、『女災』が再評価されそうな点
いや、まあ、最後に希望めいたことを書いておかないとまとめようがない気がして、無理矢理にこういうタイトルをでっち上げましたが……。
2009年の時点では女性専用車両に対する男性の反発が頂点に達しており、また『女災』がメインテーマにしていた「性犯罪冤罪」に対する危機意識も高まっておりました。本書もそれなりに売れる目があったことは、間違いがなかったはずです。
実は以前、とある編集者に指摘されたのですが、この2009年は政権交代の年でした。もちろん、本書(が売れなかったこと)と直接の関係はありませんが、何か、世間の潮目が変わった、その変わり目に本書が出てしまった、数ヶ月早ければまた評価が違ったのではないか、ということは言えます。
例えば、本田氏の主張は(当時はフェミニストなどもお追従を言っておりましたが)、恐らくこの頃から「何か、悪しき思想」ということにされてしまった。「ミソジニー」という思考停止ワード、本書的に言えば「攻撃呪文」が立ち現れ、とにもかくにも女性様に疑問を持つことは禁止、という風潮が強まったのです。
そんなこんなで結局、上に書いたような「左派のマッチポンプバトル」によって、フェミニズムへの疑問は圧殺される時代と相成ったわけです。
が、近年、またちょっとだけ希望が出て来たのではということを、ぼくは感じ始めています。
というのは実のところゼロ年代に一度盛り上がっていた「非モテ」論の、再びの復権が見られるからです。これはもちろん、インセルだのミグタウだの海外発信の情報がきっかけなのですが、いずれにせよ日本においてもいよいよこれが話題になっていくことは間違いがないでしょう。
前回記事でもわかるように、もちろんメディア側のこの問題に対する意識は薄っぺらとしか言いようがないものですが、実はちょっと、ネット上の「オタ論壇」とでも称するべきものに変化がみられるのでは、といった気が、ぼくにはしているのです。
そして、このきっかけは意外なことですが白饅頭であろうと、ぼくは思います。
彼の商業出版では、男性の惨状が極めて強調して書かれていました。これは「表現の自由クラスタ」的な、(形ばかりとは言え)アンチフェミ的な言説を封じられたがため、相対的にそのような内容が浮かび上がってきた、ということではなかったでしょうか。
これにすもも師匠、rei氏辺りの言説が続いたことが、ネット上での「非モテ」論を活発化させた、という印象をぼくは持ちます。
この「非モテ」論について、ぼくが「自分をオタクだと思い込んでいる一般リベ」と揶揄するようなオタク界のインテリ層はほぼ、切り込むだけの力を持っていません。
例えばですが、町山智浩師匠がそうであるように、彼らは専ら「非モテ」を惨殺することしかできない*6。
となるともう、オタクの多くは彼らについていけなくなるのではないでしょうか。
今まで八百長を続けていたオタク左派ですが、それが「非モテ」論という「また、別な角度」から見られることで、いよいよ八百長がバレる時が来るのです。
*6 この辺は前回記事「「インセルの思想と歴史について実はメディアは全く語らない」を読む 」を参照してください。
●五年後の、短い補遺
――加筆部分です。
読み返すともっぱら自分の仕事を誇り、手柄を読者に押しつけており、笑ってしまいますが、それもこれもツイッター界隈に「アンチフェミ的機運」は広がるものの、実際にはフェミを延命しようという連中が上で音頭を取っている……という状況に苛立っていたためかと思います。
一方、しかし「五年後」について予測めいたことをしているけれども、これは結構当たっているかなと。
ある程度ちゃんとしたアンチフェミ的言説が広がり、フェミは思想的には敗北を迎えつつある。
もっともそれはツイッター論壇界隈のこと。これからはおそらく大手メディア側がアンチフェミを懐柔しようと手を伸ばしてくることが窺えます。
それに騙されぬタメにも、当noteのご愛顧を、よろしくお願いします!
どうも、ニコニコが復活しました。
……え? 知ってる?
まあ、それはそうかも知れませんが。
実のところ「ニコ動」が復活した後も「ニコブロ」についてはアナウンスもなく、どうなることかと思っておりました。
いや、「ニコブロ」ってのはニコニコのブログサービスで、このnoteも本来はそっちでやってたのが先なんですね。
で、何か急に復活していたので取り敢えず今回はそれのお報せ。
正直、向こうの遅れをどうやって取り戻すかはまだ考えてないんですが、ニコ動については動画も少しずつうpしていたので、そっちの方も観てみてください。