「女災」とは「女性災害」の略。
男性と女性のジェンダーバイアスを原因とする、男性が女性から被る諸々の被害をこう表現します。
このブログでは女性災害に対する防災対策的論評を行っていきたいと思います。
当初、OCNで開始し、目下はニコブロ(兵頭新児の女災対策的随想)へと活動の軸足を移しているのですが、2014年11月末をもってOCNのブログサービスが終了し、このままではニコブロ以前の記事が消えてしまうことになるので、保存の意味で新たなブログを立ち上げた次第です。
こちらのブログも更新していきますが、ただし新しい記事は基本、ニコブロにupしたものを遅れてupしているものです。
後、考えるとプロフィールにメアドが記載されていませんので、こちらに。
shin_2_h☆ybb.ne.jp
何かご用の向きは上にご連絡を(☆→@)
以上、そういうわけなのでご了承ください。
■9月9日更新!!
ぱっと見だと更新したかどうかわからないので、更新した時はここに日付を書くことにしました。
まず、お報せから。
今月十日、LGBT関連のイベントを予定しています。
実はいまだ、準備ができてないんですが……。
●タイトル:しょ~と・ぴ~すの会「日本におけるLGBT(Q)問題理解のために」
●発言者 : 但馬オサム・兵頭新児・宙みつき(司会)由紀草一
●日 時 : 令和5年9月10日(日) 午後2時~6時
●場 所 : ルノアール四谷店3階会議室A
東京都新宿区四谷1-3-22 ℡.03-3351-1052
四ツ谷駅四谷口より新道通りに入ってすぐ左手
●会 費 : 1,700円(当日徴収)
●連絡先:由紀草一 luna2156@mtf.biglobe.ne.jp
* * *
さて、「弱者男性」論を続けましょう。
動画において、ぼくは「昭和の弱者男性」たるダメおやじ、「令和の弱者男性」たるずんだもんを紹介しました。
風流間唯人の女災対策的読書・第48回「ずんだもんはダメおやじである 昭和と令和の弱者男性」
さて、しかし目下公開中の劇場版『クレヨンしんちゃん』もまた、弱者男性を扱った問題作であると話題となって(炎上して)います。
そんなこんなで普段、観に行かない『クレしん』映画を観に行くことになりました。
最初に自分の感想を書いておくと、なかなか楽しめた……というか、感嘆しながら観ました。
では何故、ネットでは酷評が飛び交っているのか――まずは簡単に、プロットをご紹介しましょう。特にどんでん返しなどないので、オチまで全部書いてしまいます。
宇宙から正義と悪のエネルギーが飛来、正義のエネルギーはしんのすけに、悪のエネルギーは今回のゲスト、非理谷充(ひりや・みつる)へと照射され、それぞれ正義と悪の超能力者になるというのが導入部。
この非理谷充、もうネーミングだけで全てが理解できる、絵に描いた非リア充。ティッシュ配りのバイトをしているところをリーマンにいじめられ、また、唯一信じていたネットアイドル(?)が結婚したことに失意。超能力を得て、そのアイドルが配偶者であろう、ヤンエグっぽい茶髪といちゃついているところを見て、茶髪の外車を破壊します。
そんな充はしんのすけの幼稚園の側を通りかかり、ふと吉永先生を目にし、彼女がアイドルに似ていたがため、幼稚園に上がり込み、籠城。
しかし――何だか妙なのです。
劇中登場する、充を失意させたアイドルはそもそも、(アニメなんだからそっくりに描けばいいのに)吉永先生とさほど似ているとは思えない。そして充は幼稚園に上がり込んでも吉永先生に言い寄るでもなく、ただ園児を人質にとって立て籠もるばかり。
要するに目的がはっきりしない。吉永先生を間近で見て、アイドルとは違うと気づき、しかし今更後には引けず……ということなのかも知れませんが、そうした説明が一切、ないのです。
こうした謎の説明不足はここに留まりません。まず冒頭、(まだ普通の青年に過ぎない)充は凶悪犯と誤認されて、警官に追われることになるのですが、追いつめられたところを悪のエネルギーが照射され、そこから暴走が始まる。ところがこの、「凶悪犯との誤認」というシークエンス自体、ここ以降、一切語られないのです!
それと、これ以降の悪事を悪のエネルギーの仕業と解釈するならば、実は充は何も悪いことをしていないとも言えるんですね。
純粋に物語作りが下手という気がしないでもないですが……いえ、ここでは別な解釈をとりましょう。
というのもこれは、ぼくには「罠」であり、「批評」であると読めたからなのです。
近年の「弱者男性」論は「弱者男性」を「非モテ」と読み替えることで成り立っています。クリッツァー師匠や藤田直哉師匠のそうした卑劣なトリックに、小山晃弘氏が怒りを表明していたのは記憶に新しいところです*1。
それら流れを鑑みると、ぼくにはこの作りは、藤田師匠たちのトリックに対し、「あ、非モテ問題はこの辺で」と華麗にスルーして見せたように見えたのです。
そう、作り手は「あなた方、弱者男性というと非モテを持ち出すけど、その辺のこと、関係ねーし」とでも言いたげなのです。
だからこそ、充は「(悪人と誤認されただけで)実は落ち度がない」と描写された。
さらに言うと、充の執着していたアイドルは、何だか知らないけど充とプライベートで仲のよかったらしい(ツーショット写真などを多く撮っている)描写があり、ここで「商売でやっているアイドルに、狂った男が勘違いした愛情を抱き、ストーキングした」という世間の咀嚼しやすい解釈に歯止めをかけている。
作り手は「充、悪くねーよ」と念押ししているように見えるのです。
*1 わかり手小山氏と藤田直哉氏の弱者男性を巡る議論「黒人については、それがいけないことだというコンセンサスがあるが“弱者男性”はそうではない」
ともあれ、しんのすけも超能力に開眼、充を撃退。そんな彼の前に超能力研究所的な組織の博士とお姉さんが現れ、以降、行動を共にします。
一方、充もカルト的テロ組織に身を寄せることに。その組織は廃墟と化した遊園地をアジトにし(無残に老朽化した観覧車などはまさに、日本の凋落の象徴であると共に、大人になれなかったぼくたちのカリカチュアです)、まるで漫画喫茶のブースのように仕切られた部屋に恵まれない若者を集めています。ブース内は子供部屋風になっており、若者たちは引きこもったまま、ルサンチマンを精神エネルギーに変えて供給。
そう、そのエネルギーによって政府を転覆するのが、このカルトの計画なのです。
この廃墟と化した遊園地で、しんのすけが操るカンタムロボ(『クレしん』内におけるアニメのロボットを模したもので、彼の念力で動く)と、充が変化した(?)怪物との戦いが開始されます。
しんのすけは怪物に呑み込まれ、その体内で「幼児期の充」と出会います。
幼い日の充とテレビで『カンタムロボ』を観ながら意気投合。
しかし充は(この精神世界内で)年をとっていき、幾度もいじめっ子にいじめられる描写が続きます。
幼稚園児のままのしんのすけと既に中高生であろう充は、同様に中高生であろういじめっ子に立ち向かい、勝利します。
ここで秘密兵器として登場するのが、(外界から父ちゃんの投げた)父ちゃんの靴下。
父ちゃんの靴下はすごい匂いがする、というのはベタな下ネタのギャグであると同時に「家族のために働く父親」の象徴でもあり、『クレしん』映画の中でも名作と名高い『オトナ帝国』でも「家族の絆」の象徴として描かれています。
本作はそれへのリスペクトとして、靴下を勝利の鍵としてみせたのです。
確かに、映画としてはあまり整っていないかとは思います。
まず、タイトルになっている「手巻き寿司」。
これは本作では「家庭団欒」の象徴として描かれ、しんのすけ一家が手巻き寿司を楽しむ描写もあり、正義の博士もその相伴に預かりつつ、充もこうした温かな経験があれば悪には堕ちなかったかも知れない……とも言います。
実のところ充の家庭は、両親が離婚しており、精神世界内でもその様子が描かれるのですが、それが(しんのすけを活躍させる都合でか)「いじめっ子とのバトル」へと話がすり替わってしまっているわけですね。
また、ここで別れる両親が充と共に最後の晩餐として手巻き寿司を食べるというシーンが入るのですが、それじゃあ充にとっては手巻き寿司が嫌な思い出の象徴になっているんじゃないでしょうか。
また、そこでしんのすけが充をいきなり「仲間」と呼び、我が身を省みず助けようとするのはいかにも唐突です。例えばですがぼくならば「冒頭の幼稚園でのバトルの時に、充お兄さんがカンタム好きであることを知って、しんのすけが彼のことを気に入っていた」とするでしょう。
この種の「精神世界で幼児期のトラウマを再現し、そこを癒やす」というのは、よくあるパターンだと思うのですが、そこでセラピストの役割を担うしんのすけもまた、「現在の充(の、まだ悪ではない善なる部分)に触れて、彼のことを好きになったからこそ、助けてやろうとしたのだ」とすれば、きれいな円環になるのではと。
また、最終兵器となる父ちゃんの靴下ですが、これもしんのすけと充が靴下を握りしめ、いじめっ子の顔面に押しつけて攻撃するというヘンな絵面。『オトナ帝国』をオマージュしようとして失敗、という感じがしないでもありません(これは丁度、『シン仮面ライダー』のラスボスとのどつきあいが、『クウガ』最終回の下手な真似に見えるのに近い……と言えるでしょうか)。
その一方、幼稚園を占拠した充は子供たちの「しょうらいのゆめ」の絵を踏みにじり、「お前らに未来はない」と言っています。
先の「子供部屋」を集めたかのようなカルトのアジトで、ボスも同様のことを語ります。「少子高齢化、エネルギーの奪いあい、社会保障の崩壊、この国に未来はない。ならば自分たちで破壊してしまおう」。この「少子高齢化」については本当にセリフとして出てきたか記憶にないのですが、YouTuberで言っていた人がいるので、恐らく言及されていたはず。
つまり本作においては「弱者男性」の生じた原因としての、「日本のシビアな現状」が前提されているわけです。それはまるで、「男の自己責任だ」と泣き叫ぶ藤田師匠やクリッツァー師匠を、嘲笑うかのごとく。
ただ、それに対して本作が誠実な回答を提示し得たかとなると、それは疑問です。確かに本作は「家庭(の崩壊)」、「日本の未来(の貧困)」、「弱者男性(の非モテ)」など、様々な密接したテーマを扱いながら、いずれもが上手くまとめられないまま、空中分解したかのような、そんな印象も持ちます。
何よりネット界隈で糾弾されているのは、最後の最後、野原ひろしたちが充へと「がんばれ」の声援を繰り返すこと。
つまりまず、野原ひろしはバブル期の勝ち組の象徴としてまずそこにおり、それが令和の若者にただ「がんばれ」と精神論をぶつけるのではどうしようもない、というわけです。
もう一つ、本作の監督・脚本の大根仁は『モテキ』の映像化を手がけた人物。そんなことからも大根氏自身を非リアの敵と位置づけ、敵愾心を燃やすYouTuberなども目につきました。
しかし、とは言え、そうは言っても、充の問題はしんのすけという「仲間」を得ることで一応の解決を見てもいるのです。
本作を酷評したねとらぼの「こんな野原ひろしは見たくなかった 「しん次元!クレヨンしんちゃんTHE MOVIE」のあまりに間違った社会的弱者への「がんばれ!」」によれば、野原ひろしは充に対し、「誰かを幸せにすれば自分も幸せになれるんだ。がんばれ!」と激励したと言います。
評者は怒り狂っているのですが、これは(ぼく自身、不覚にも記憶から欠落させていたのですが)なかなかいいセリフなのではないでしょうか。
充は今まで、誰からも認められることなく生きてきた。
しかしながら、しんのすけによって認められることで、「闇落ち」から回復することができた。
それならば、次は「誰かを幸せにする番」なのではないでしょうか。
それはあの靴下の主である、野原ひろしの口から言わせる必要が、どうしてもあったのです。
小山氏と左派論者たちの「弱者男性」論に戻りましょう。
ここで問題とされたのは左派がことを「非モテ」論に矮小化していることであり、本作はそれへの見事な「論破」になっていると、先に述べました。
ただ、幾度か指摘するように、ゼロ年代には「非モテ論壇」というものがちょっとだけ流行り、言うならそれこそがゼロ年代の弱者男性論である、といった捉え方は、そこまで外したものではないように思います。
また、そもそも左派の主張も、単に彼らが教祖であるフェミ様の色眼鏡を通してしか弱者男性を見ていないから、という程度のことのようにぼくには思われるのですが、いや、それは彼らに対する過小評価であり、彼らがもっと深い計算の上で発言をしているとしたら、いかがでしょうか。
つまり、確かに十年前までは弱者男性の抱える問題は「非モテ」であった。
しかしこの十年で日本の衰退にはいよいよ拍車がかかり、もはやそれどころではない。弱者男性の抱える問題はまず職が、住が、食がないといったレベルのことになりつつある。
しかし左派にしてみれば、それだけは認めるわけにはいかない。彼らには例えば「女性様」のような「真の弱者」に寄り添うことで利を得るルートができていますし、もし弱者男性を救おうとしたら、その利権を徹底的に破壊せねばならないことは自明です。
つまり彼らは確信犯で、「見えない、見えない」と泣き叫びながら、現実を否定し続ける他ないのだと考えては、どうでしょうか。
しかるに非理谷充はよりにもよって国民的コンテンツの中で、そうした「弱者男性」のリアルを暴き立ててしまった。
今回、YouTuberでも本作を酷評し、「自民党推薦アニメではないか」などと評していた方がいました(政治関連ではなく普通の映画評をしている方です)。
確かにその通りです。もし本作が共産推薦、民主推薦アニメであったなら、充はただ「死ね!」と罵られて終わったことでしょうから。
左派によれば「弱者男性」とはただ単に、自らの下駄を履かされた境遇も理解できず、真の弱者である女性様に対してテロを企てるミソジニストのことでしかないのだから、開幕のアイドルに失意しているシーンで既に、充は徹底的に断罪されて話は終わっていたことでしょう。
そのYouTuberは本作を「保守的な価値観に貫かれている」とも評していました。
それもまた、その通りでしょう。本作で描かれたのは充を救うことができるのがホモソーシャル的な少年同士の友情であり、そして父ちゃんの靴下――温かな家庭、そしてそれを背負う男の覚悟であると明らかにしてしまったのですから。
父ちゃんの「誰かを幸せにすれば自分も幸せになれるんだ。がんばれ!」というセリフは何のことはない、「結婚して嫁を養え」ということです。
もし本作が「革新的な価値観に貫かれてい」たとしたら、「結婚を望むなどとはけしからぬ、結婚や経済的成功を幸福だと思うな」などと充を罵って終わっていたでしょう。
そのYouTuberは「がんばれと言うべきは上の世代のおじさんたち、政治家たちだろう」とも言っていました。しかしそれは充が身を寄せたテロ組織のボスの発想ですよね。彼らは弱者男性による日本の転覆を企んでいたのですから。
ところが充自身が怪物化して暴走を始めた時点でこのテロ組織のボスは命からがら逃げ出してきます。他にもアジトに大勢いたはずの弱者男性がどうなったかは描かれず、考えてみればここが一番、この映画の非道いところなのですが、それは措くとして何だか思い出さないでしょうか。
そう、杉田俊介師匠は『男がつらい!』においてテロを礼賛、非モテに「インセルレフト(大爆笑)になれ」などと煽っていました*2。どう考えてもこのテロ組織のボスは杉田師匠がモデルだとしか思えないのです。
*2 風流間唯人の女災対策的読書・第39回『男がつらい!』
風流間唯人の女災対策的読書・第39回『男がつらい!』
もちろん、本作に酷評を与えた人はひろしの「誰かを幸せにすれば自分も幸せになれる」との言葉に、「その嫁を養うカネは、職はどっから湧いてくるのだ」と言いたかったことでしょう。
それは確かにそうなのですが、左派は今まで弱者男性にただ「ミソジニスト」とのレッテルを貼り、自らの政治的野望の捨て駒にしようという、本作のテロ組織のボスのような振る舞いを続けて来ました。そこを、本作は「実は、アイドルとも仲よくしていたので、一方的に裏切られていたとの身勝手な妄想を抱いているとも言い難い」、「しかも女にばかりかまけているわけではなく、まずまともな職にもありつけないことが問題である」と弱者男性の真実を暴いてしまいました。(確かに悪役ではあるが、同時に)純然たる被害者である充に、思わず声援を送らずにおれないような作りにしてしまったのです。
今回、「頑張れとは何ごと」と憤った人たちの中で、左派的なスタンスに立っている人たちへは、その声がブーメランとなって自分へと跳ね返ってくる仕掛けが、この映画は施されていた。
そう、藤田、クリッツァー、杉田各師匠を斬首する目的を持って、この映画は最初から、作られていたのです。
第四十八回目です。
風流間唯人の女災対策的読書・第48回「ずんだもんはダメおやじである 昭和と令和の弱者男性」
相も変わらず「弱者男性」論喧しいですが、ちょっと政治論争を離れ、創作の世界では「弱者男性」がどう扱われているかについて,見てみましょう。
動画中で挙げられたフェミニストたちの「弱者男性」論は以下を。
また、動画中で「発表中」と言っている『クレヨンしんちゃん』の記事は以下を。
しん次元! クレヨンしんちゃん THE MOVIE 超能力大決戦 ~とべとべ手巻き寿司~
それと今月十日、LGBT関連のイベントを予定しています。
実はいまだ、準備ができてないんですが……。
●タイトル:しょ~と・ぴ~すの会「日本におけるLGBT(Q)問題理解のために」
●発言者 :但馬オサム・兵頭新児・宙みつき(司会)由紀草一
●日 時 :令和5年9月10日(日) 午後2時~6時
●場 所 :ルノアール四谷店3階会議室A
東京都新宿区四谷1-3-22 ℡.03-3351-1052
四ツ谷駅四谷口より新道通りに入ってすぐ左手
●会 費 : 1,700円(当日徴収)
●連絡先:由紀草一 luna2156@mtf.biglobe.ne.jp
皆さまのご参加をお待ちしております!
第四十七回目です。
相変わらずジャニー喜多川の少年への性的虐待について、騒がれています。
フェミニズム、LGBT思想が小児性愛と親和性が高いことは今までもお伝えしてきましたが、今回はそれとオタク文化との関係、そして差異について。
それと『WiLL Online』様でも本件についてのデヴィ夫人の炎上騒動をテーマに書かせていただいています。
目下第一位! 関連の深いものなのでどうぞそちらもご覧ください。
サブカルがオタクへと影響を与え続けてきた歴史については以下を。
風流間唯人の女災対策的読書・第37回「オタク差別最終解答」
同性愛者や少年愛者の危険性については以下を。
風流間唯人の女災対策的読書・第36回「モー○ー幻魔大戦」
『WiLL Online』様の記事、「LGBT・ポリコレ勢が名作ゲームの世界観を破壊」は←のリンクを。
さて、今回は漫画のレビュー。
上の写真にはありませんが、帯には「悪魔のフェミニスト編」と大書されており、まあ、「そういうヤツ」なわけです。
ネットで話題になっているのを見て、尼でポチっちゃったんですが……こういうの、業者の量産した粗悪な時事系動画みたいなもので、ひとまず話題のトピックスに飛びついただけのことが多いんですよね。ぼくもあまり期待せずに読んだし、結論を先に書いておくならば、その予想を大きく外すものではなかったんですが……まあせっかく読んだので、軽くレビューしましょう。
まず、本書は復讐屋を営むチームの活躍を描く、言うなら現代版仕事人。元締めの美女、頭脳役の男性に次ぐ、実働部隊的な三番手がオタクキャラ。これが眼鏡で長髪、パンツインネルシャツにリュック、ドライバーグローブという90年代のテレビドラマに出てくるようなデザイン(読者からも言われているのか、他のキャラに「昭和のオタクか」と突っ込ませているのがおかしい)。この人、どういうわけかやたらと妙なポーズを取って語尾に「~チュ」とつけてしゃべるというキャラで、「オタクのフリークス性」を頑張って表現しようとしてこうなったのかも知れません。ただ、そこまでイラつくキャラのクセして、能力的には有能なチームの重要人物として描かれているのは、嬉しくもあるのですが。
四番手のマスコット的美少女もコスプレっぽい格好で、いわゆる「オタク受けしそうなタイプ」として造形されたキャラ。もっとも言うまでもなく画のタッチは萌えと180度違い、こんなふうに「よそ様に萌えやオタクをシミュレートされ、それを提示される」というのは、どうにもいたたまれないというか、ホモサウナに間違って入ってしまったような居心地の悪さを覚えます。
まあ、それはともかく、内容ですね。
まず、本話の悪役は売れないグラドル、蜜箱かりん。
タレントとしての失速の原因はイケメン男優との交際を報じられたことであり、(これ自体は自業自得とも言えるのですが、それを)所属事務所の大物のスキャンダルをマスコミに沈黙してもらうためのスケープゴートとしてさし出された形。
事務所にもほぼ干され、枕営業をすると申し出るも(口が軽いからと)断られてしまう。本人の実力や性格にも問題があるのでしょうが、何とも気の毒なキャラとしてまず登場してきます。
ところがそうした不遇を「世の男どもの見る目のなさ」のせいにしてルサンチマンを募らせているおり、ふと、アニメ専門学校の萌えポスターを見て、彼女の中に火がつきます。
性的搾取だ何だとツイートをすることでそれがバズり、実際にポスターが撤去されてしまい、「私のツブヤキが世界を変えた」快感を感じるかりん。そこで「ジュワ~~~」という描き文字が入るのですが、これはあれですかね、『えの素』でいうところの「ジュン」「ジュナー」「ジュネスト」の状態なんですかね。
ともあれ、ポスターを描いた萌え漫画家が炎上し、コミックスを有害指定されそうになり、先に挙げたオタクキャラもことあるごとに憤るなど、身のつまされる展開が続きます。
このかりんにディアブロ8号と名乗る怪しい女が接近してきて、社団法人を立ち上げるよう、入れ知恵します。
つまり、かりんはキャラとしては石川優実師匠と仁藤夢乃師匠との合体であり、凡百の評であれば「よく調べている」と絶賛する箇所かも知れません(いや、以下にも並べますが確かに「よく調べている」のです)。
社団法人立ち上げの記者会見の場、マスコミ側は彼女が過去に際どいグラビアの仕事をしていたこと、そしてイケメン男優とのスキャンダルの件をつつきます。前者はまさに石川師匠のネタを拾ってきた形ですが、マスコミがそこを擦るのは描写として疑問、むしろ徹底して隠蔽することでしょう。
しかしこのマスコミの質問に対し、彼女は「ジャニー的枕営業的なものであり、断れなかった」と言い出すのです! フェミの特殊能力、「過去改変」の炸裂です!
確かに「よく調べている」と思います。
先のディアブロは要するに悪の組織の手先であり、彼女の指示で、社団法人は貧困女子を集めるように。ここもColaboを「よく調べている」のですが、ディアブロが「馬鹿な女は金のなる木」「私達がさらにステップアップするための捨て駒」などと言い出すのです。この辺りから、どうにもきな臭い感じがしてきましたが……さて、どうなるかと思っていると案の定、彼女らはシェルターに女性を匿い出します。
タコ部屋フルなシェアハウスにぶっ込まれ、精神科医にデタラメな診断で重度の心の病を抱えているとされ、生活保護申請し、そのカネを法人で管理。
これらもみなさんご承知の通り、実に「よく調べ」られています。
ここに、先にも挙げた怨み屋本舗の萌えっぽい()娘がシェルターに潜入捜査を開始します。
ここでかりんが彼女に「男性経験はないの、いい男性紹介しようか」などと言うのですが、これもまた、え? という感じ。
もう一人、シェルターに匿われる女性が登場しますが、ホスト狂いで彼氏にDVを受けており、DVはともあれ本人も無反省な馬鹿女として描写されます。
一方、かりんは過去の自分に似ているとの近親憎悪から貧困女子を憎んでおり、何と匿った女性に「男に身体を売れ、ここを追い出されたらホームレスに輪姦されるだけだぞ」と言い出します。
買春相手は議員の醜い親父。社団法人は彼と癒着することで、さらなる利権に預かろうとしているのです。
潜入捜査している萌え美少女がコンドームを渡されるという描写もあり、これもColaboの支援物資にそれがあったことを「よく調べ」た結果であり、おそらくそうした事実からこの買春という描写も思いついたのでしょうが……しかしこうなるとさすがに、実在の人物を露骨にモデルにしたにしては、フライングと称するべき描写だと思います。
事実と異なるからけしからぬ、と言っているのではありません。単純にあり得ない(例えるなら粗暴犯が急にすごい知能犯的な詐欺を働くような)描写を、単にキャラをわかりやすいワルモノに仕立て上げるため、やってしまうのが安易なのです。
当noteの愛読者の方には言わずもがなですが、フェミニズムの本質は男性憎悪であり(その憎悪がツンデレ的感情の発露であり、彼女らほど男性からの愛を求めている存在はないのは、本作の蜜箱かりんと同様とは言え)、このような描写は非現実的に過ぎるでしょう。
なまじっかなことではバズらなくなったかりん、ついには先のDV彼氏から逃げてきた女性に対し、DV彼氏の仕業と偽装し、硫酸をかけます! そして彼女の整形手術の費用と称し、また募金を募るのです。これはアシッドアタックと呼ばれ、日本では聞きませんがインドなどではよくある事例だそうで、その辺から引っ張ってきてるかなあ。
もっともさすがに彼女らの悪事もここらがクライマックス、怨み屋本舗がさんざん証拠を掴み、それを公表することで陰謀は全て露見というオチ。
主人公(みなさんお忘れかも知れませんが主人公は「怨み屋本舗」の元締めの美女です)にはかりんに一喝。

いただきました!!
似非フェミニストいただきました!!
だああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁいてえええええええええええええぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ッッッッッッッッッッッッッッッッ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
ぼくもバカではないので(いや、少しバカなのでしょう)主人公がクライマックスで「似非フェミ」と一喝するってのは事前に想像していました。
しかしこの大駒を見て、やはり失意を隠せませんでした。
先にディアブロという悪役の存在について描きました。
この存在に、ぼくはちょっと期待してしまったんですね。
彼女は先にも述べたように悪の組織の一員として、超越的な立ち位置を保っている。まさに「ディアブロ(悪魔)」として、人間を悪に引きずり込む存在として描くことができる。
普通に考えれば……というか、もうちょっとお上品なコンテンツの普通の考え方で行くなら、このディアブロにそそのかされたかりんだが、最後は「報われなかった過去の自分を救おうとしての、歪んだ正義感の発露としてこのようなことをしていた」といった描写がなされるところでしょう。別に「同情すべき悪としての描写がなされるべきだ」と言っているわけではありません。同情されようとされまいと、彼女なりの歪んだ正義があったことを描写すべきで、「わかりやすいワルモノ描写」に落とし込む(ために売春の強要をさせる、政治家と癒着させる)のは安易だ、と言っているのです。
ひるがえってディアブロは「男性への、家庭への憎悪の凝り固まった存在」つまりはフェミニズムそのものの擬人化として描くことで、ある程度の批評性、文学性を獲得することができたはずです。
もちろん、作者は(読者も)そんなことを求めてはいなかったのだから仕方ない、のですが……。
冒頭にも書きましたが、こうした漫画は本当に俗に徹した、文学性芸術性批評性など期待すべくもない時事系量産型業者動画と、質の低い転生漫画と、ソシャゲと同様のものです。
「時事ネタ」を丁寧に丁寧に拾って、大衆の満足する落としどころへと持って行ってあげるのが彼らのお仕事です。
しかし、それにしても、ここまで「よく調べ」た上、後半で大幅な「創作」をぶっ込んで、後は(大したものでもないので細かくは言いませんが)バイオレンスなオチをつけて読者の溜飲を下げさせるというのは、まあ、何というかがっかりです。
例えるならば、岸田総理についてさんざん「よく調べて」おいて、最後に「岸田は悪い宇宙人の手先だった」とオチのつく政治漫画みたいなものでしょうか。
「ワルモノは悪者であって欲しい」。
「ワルモノは最後に惨めにぶっ殺されて終わって、スカッとしたい」。
そりゃそうでしょう、わかります。
でも、ならばここまで時事を入念にトレースしなくてもいいでしょう。
本作、社団法人がシェルター事業をやり出す下りでは主人公たちが「貧困ビジネスだ」と一席ぶちます(その他にも漫画の前半ではグラフが出てきたりで、そういうちょっとおベンキョになる路線も狙ってるのかと思いきや、中盤以降そうした要素はなくなります)。
それはまさにそうで、そこはいいのですが、フェミニストがシェルター事業をやりたがるのは女性を家族から引き離したいからであり、そこには深い家族や男性への憎悪が潜んでいるのです。
Colaboも同様であり、フェミニストたちは今までもDV冤罪、幼児虐待冤罪で家庭そのものを破壊してきた――それは拙著でも書きましたし、Colaboの件でも「WiLL Online」様で書いています(自分としてはかなり優れたものだと思うのですが、残念ながら反応はいつもより今一でした)。
「彼女らは利権のためにやっているのではない」とまでは言わないけれども、利権以上に歪んだ正義感が彼女らを動かしており、そこを一切理解できない人たちの姿が、ぼくには非常に奇矯なものに見えます。
何でこの人たち、フェミニズムのフェの字も、フェの子音のFの字も、エフの字のそのまた頭文字のエの字も知らないのに、こうまで饒舌にフェミについて語っているのだろうと。
そうした人たちはこの漫画を「絶賛」していることでしょうが、それはつまり、この漫画の作品としてのクオリティは、そのまま、その人たちの脳のクオリティであり、何というか、いくら何でも、もうちょっとあんたら……と思ってしまいます。
念のために言っておきますが、これは別に特定の人物を指して言っているわけではありませんし、そもそもぼくはまだそうした「絶賛」評を見てもいません(これから目にするのが怖くもありますが……)。
また、この漫画家を責めようというのでもありません。
既にかなり責めたようなことを書いた気もしますが、そこは取り消しておきます。
先のような指摘はフェミニズムについて批判したければ常識であり、外してはならないものと思いますが、これを指摘している者はおそらくぼく以外にはほとんどいません(小山晃弘氏がちょっとしているくらいか)。
本当に「よく調べ」ろと憤るべきは、漫画に対してではなく、そんな見識すら持てずにいる評論家もどきに対して、なのでしょう。