兵頭新児の女災対策的読書

「女災」とは「女性災害」の略、女性がそのジェンダーを濫用することで男性が被る厄災を指します。

■お知らせ■

2021-05-29 13:18:23 | お知らせ
 「女災」とは「女性災害」の略。
 男性と女性のジェンダーバイアスを原因とする、男性が女性から被る諸々の被害をこう表現します。
 このブログでは女性災害に対する防災対策的論評を行っていきたいと思います。
 当初、OCNで開始し、目下はニコブロ(兵頭新児の女災対策的随想)へと活動の軸足を移しているのですが、2014年11月末をもってOCNのブログサービスが終了し、このままではニコブロ以前の記事が消えてしまうことになるので、保存の意味で新たなブログを立ち上げた次第です。
 こちらのブログも更新していきますが、ただし新しい記事は基本、ニコブロにupしたものを遅れてupしているものです。

 後、考えるとプロフィールにメアドが記載されていませんので、こちらに。
 shin_2_h☆ybb.ne.jp
 何かご用の向きは上にご連絡を(☆→@)

 以上、そういうわけなのでご了承ください。

 ■5月29日更新!!
 ぱっと見だと更新したかどうかわからないので、更新した時はここに日付を書くことにしました。
コメント (4)

風流間唯人の女災対策的読書・第21回「車椅子に乗ったセーラー戦士(いない)」

2021-05-29 13:17:41 | 時評


 動画、第二十一回目です。

風流間唯人の女災対策的読書・第21回「車椅子に乗ったセーラー戦士(いない)」


『Daily WiLL Online』様で新しい記事を書かせていただきました。

「障害は個性」を利用する左派の欺瞞

話題の「弱者男性論」をなんとしても≪許さない≫人たち


「弱者男性」についての記事はある意味、当ブロマガのメインテーマに真っ直ぐ切り込んだもので、目下ランキング三位!! どうぞ応援をよろしくお願いいたします!!
 また、次の日曜には上の続き、「「弱者男性」を≪リベラル≫に導きたい人たち」が載る予定なので、そちらもご愛読ください!!

 ただ、今回の動画は前者に関連して「障害は個性」という考え方について考察したものです。
 伊是名夏子師匠が炎上していますが、その先輩格と言える安積遊歩師匠という人物の著作を見ても、近しい考え方や振る舞いが見られ……。
コメント

「サブカルの逆襲」と「萌えの死」(後編)

2021-05-15 19:47:14 | オタク論


 しばし更新を忘れておりましたが、続きです。
 未読の方は前回記事と、それとできれば『Daily WiLL Online』様の記事を読んでからご覧いただくことを推奨します。

・三流劇画の逆襲

 さて、問題となっている『嫌オタク流』ですが、出版は2006年。まさにオタク文化最盛期と言っていい時期に出された本です。
 その意味で同書は見事なまでにオタクに敗北を喫したサブカルの、見ていて気の毒になってくるような半狂乱の逆切れの書、と評する以外に手はありません。しかし、もし仮に同書をサブカルからのオタクへの宣戦布告の書と捉えるならば、十五年経った今となって、僅かばかり、それが実現している……とも思えるのです
『WiLL』様の記事において、ぼくは三流劇画は廃れ、世は萌え全盛であると書きました。もちろんそれはそれで一面の真実ですが、近年、ぼくはずっと「オタク衰退論」を語っています。そこには「三流劇画の逆襲」が絡んでいるのではないか……と思えるのです。
 ということで以下はぶっちゃけ、昨今のオタク界隈への不満をぶちまける内容です。或いは、自分が好ましいと思っている作品や表現を貶されたと感じることもあり得ます(基本、固有名詞は出しませんが……)申し訳ないとは思うのですが、そこをお含み置いた上でお読みいただけると幸いです。
 また、さすがに自分の身近の話題でちょっと書きづらいものもあります。その辺は「脚注」というテイにして課金コンテンツにしました。具体的な事例がないと納得できない、という方はご覧になってみてください。

 ちょっと前、古いエロ漫画家さんの単行本を見かけました。
 多分90年代初期から活躍していた人ではないでしょうか。
 当時は「萌え漫画」全盛期。いえ、当然当時に萌えという言葉はありません。いわゆるアニメタッチのオタク世代によるニューウェーブ(というのもまた、80年代の匂いのする恥ずかしい言葉だ!)のエロ漫画、当時はロリコン漫画と呼ばれていたのですが、ともあれ、そうした当時の業界で活躍していた人物です。
 ところが、その人の絵は当時は当然、アニメ的な(今でいう)萌え絵だったはずなのですが、近年出たと思しきその単行本に描かれていた女性は、何というんでしょうか……申し訳ありませんが、本当に比喩でも何でもなく化け物のようにしか見えないもの。顔もおっぱいもただ、醜悪奇怪な、嫌悪感のみを催させることを目的として描かれているとしか、どうしても思えないものだったのです。もしこのおねーちゃんに迫ってこられたら、ぼくは腰を抜かして失禁することでしょう。
 70年代のエロ漫画はこうした絵で描かれる、いわゆる「三流劇画」というものがメインであり、80年以降、「ロリコン漫画」に駆逐されたのですが、この漫画家さん、考えると本来はその三流劇画畑の人だったのかもしれません。そして三十年間、生活のために忸怩たる思いでオタク向けの漫画を描き続け、そしてようやく雌伏の時を経て今、本来自分が描きたかった漫画を描き始めた……のでしょうか。
 敵ながらあっぱれというか、開いた口が塞がらなというか。
 で、ですが、こういう絵が、最近増えています。ぼくは普段、エロゲのシナリオライターをやっているのですが、本当に「え?」と我が目を疑うような絵が増えました*1
 これらの中には顔だけは何とか「萌え絵」だけど、身体の描き方の方法論は(方法論なんて高尚なものがあちらさんにあるのかは知りませんが)三流劇画に近い、といったものもあります。実際、常軌を逸して巨乳とかデブとかのエロ絵、最近多いですよね。
「萌え絵」というのは言ってみれば、三次元の女という生き物とは全く別個な価値を持つ存在を、二次元世界に新たに作り上げたものなのですが、「三流劇画」はあくまで「参照すべき三次元の女体」を想起させる触媒として、そこにある。おそらく「萌えオタ」は「萌え絵」に直接に欲望を抱いているが、三流劇画的な描画法で描かれた絵は、直接に欲望の対象となってはいない。バランスを逸した極端な「巨乳」を描くことで、「参照すべき三次元の巨乳」を「想起」させるというのが、その方法論だと思われます。前回、谷岡ヤスジの名前を挙げましたが、言ってみればそれとそれほど変わらないのです。
 絵のタッチだけでなく描画法についても同じことが言えましょう。近年の流行である「アヘ顔」、「ひょっとこフェラ」(もう、こう書くだけで脳が穢れると感じるほどに、大嫌いなのですが)も、おそらくオタク側から出てきた表現ではない。「萌え絵」を読み解くだけのリテラシーがない(細かい表情の違いなどわからない)者に向けた、過剰で極端なだけの表現なのではないかと思います。
「絵だけは一応、萌え絵」だけどストーリーが、世界観がもう勘弁、といった作品も増えています。やれ和服を着た未亡人だの中年男性とパパ活をやっている女子高生だの、もう頼むので許してくれとしか*2
 いえ、逆に言えば「和服の未亡人」の登場する「萌え」作品もあり得るとは思います。例えば『めぞん一刻』。高橋留美子が「萌え」かとなると微妙ですが、ともあれオタク文化黎明期に登場したこの作品は、言わば「未亡人下宿」という古典的ポルノ的設定のパロディとも言えました。そうした従来の性愛感から一歩引いてみせる振る舞いにこそ「萌え」が宿るのであって、そうした感性が、上に挙げたような作品にはない。要するにそうしたモノを作っている連中は、絵師だけ萌え絵師だが、他の、例えばシナリオなどを作っている連中のセンスは非オタなわけです。
「エロゲ」でのお約束とも言えたオタクネタギャグなど、もう五年くらい書いていません。正直、ユーザー層がどんな人たちなのかさっぱりわからないけれど、そんなものに笑ってくれる人たちでないことだけは明白だからです。
 いえ、今年の初め、本当にちょっとだけお手伝いしたゲームは最初からオタクネタ全開のものだったので、こっちも久し振りにそうしたネタをぶっこむことができて、本当に書いていてほっとしました。願わくば、そういう作品ばかり書いて食っていければ言うことはないんですが……。

・萌え・イズ・デッド

 ――そう、今のそうしたエロゲをプレイしているのはオタクではない。上に「ユーザーがどんな人なのかさっぱりわからない」と書きましたが、やっぱり年寄りなんじゃないでしょうかね*3。頼むからAVを観ててくれ……と思うのですが、やっぱりかつては三流劇画が好きだったような人がやってるんでしょうね。
 以上はかなり憶測を含むし、「萌えの衰退」の原因はただ「三流劇画の侵略」に一元化できるものではないでしょうが、ここでポイントをまとめてみましょう。
 一つは、萌えの先代、つまり三流劇画が復権してきたこと。
 二つ目は、三流劇画とはカウンターカルチャーであるということ。
 そう考えるならば、今の状況は「サブカルの逆襲」とまとめられるのではないでしょうか。
 もう少し話を広げれば、これにはもう一つ、「左派的価値観」が浸透することで、オタクが殺された、という側面もあるように思います。
『ネットハイ』動画で述べましたが、にサブカル、ないし左派寄りのオタク業界人はとにもかくにもオタクに対して「閉鎖的だ、閉鎖的だ」と病人のうわ言のように繰り返していました*4

風流間唯人の女災対策的読書・第19回『ネットハイ』


 彼らはオタクたちが自分たちの政治理念、価値観を受け継ぎ、SEALD'Sのようになることを望んでいるのです。
 閉鎖的でけしからんというお説教は、その意味でオタク界のトランプが作った塀の破壊運動でした。彼らはオタクのA.T.フィールドを打ち破ってやったぞとドヤ顔でしたが、結果、『ドラえもん』も『エヴァ』もマイルドヤンキー向けになり、萌えは破壊されることになった*5
『嫌オタク流』はおそらく、『電波男』のヒットに脅威を感じて出された本でした。『電波男』は「萌え」を愛を復興するための表現である、と説く本であり、今や女性ジェンダーを素直に描いているのが萌え表現くらいしかないことを考えてみれば、まさに正鵠を射ていたという他はありません。
 しかし、暴力と憎悪を標榜する左派は、絶対に「萌え」を許すことができなかった。
 フェミやサブカルがオタクを叩いたのはそれ故であり、そして事実、彼ら彼女らの願いは叶いつつある。
 まさに今、彼ら彼女らは勝利しつつあるのです。

*5 『ドラえもん』については「『STAND BY ME ドラえもん2』――ドラえもん謀殺!そして男性否定妄想へ」を参照。『エヴァ』については動画「ミソジニーとミサンドリー――呉座氏に差別されたと主張するフェミが心酔する男性根絶協会とは?」でちょっとだけ触れました。

風流間唯人の女災対策的読書・第20回「ミソジニーとミサンドリー」


 ――さて、というわけで以下は「脚注」というテイでの、気に入らん表現への罵倒大会となります。
 興味のある方は(https://note.com/hyodoshinji/n/n93047f50325f#KLqkA)へ飛んで、課金していただければご覧になれます。
 今も萌えキャラは街に溢れていますが、しかしエロに関しては結構おかしなことになっているのではないでしょうか……。
コメント

「サブカルの逆襲」と「萌えの死」(前編)

2021-04-24 21:51:21 | 弱者男性


 みな様、『Daily WiLL Online』の記事はご覧いただけたでしょうか。
 今月は以下の二つの記事を書かせていただきました。

・むしろ女性に横暴?「男性フェミ」のダブスタを検証する
・呉座勇一氏「炎上」:人の感情まで糾弾する「ミソジニー」(女性嫌悪)論の矛盾

 上は『映画秘宝』の例の問題に絡めて、サブカルとフェミニズムの関係について。
 下は呉座氏に差別的な扱いを受けたと称する北村紗衣師匠が心酔する「男性根絶協会SCUM」について書いています。
 より以上の応援をよろしくお願いいたします。
 さて、この上の記事を書くに当たり、久し振りに『嫌オタク流』を読み返す機会に恵まれたので(恵まれたというか、魂への拷問を受けたのですが)、今回はもうちょっとその辺り、つまり、サブカルというものの本質について、書いておこうと思い立ちました。

・『映画秘宝』の逆襲

 さて、『Daily WiLL Online』の記事において、『映画秘宝』のライターたちの異常性をご紹介しました。素行は女性に対して横暴なものであるのにもかかわらず、彼ら自身はフェミニズムの信奉者であり、恥ずかしげもなくフェミニズムという棍棒でオタクへと殴りかかってくる。全くもって理解に苦しみます。
 同記事を書くに当たり、ぼくははてなの「『映画秘宝』の記憶」一連の記事を参考にしました(『映画秘宝』の記憶(5) など)。ここでは『映画秘宝』の「ホモソーシャリティ」が執拗に語られます。何でも高橋ヨシキが本誌の前面に出るようになってから、「女子供から映画を取り戻せ!」というスローガンも誌面に踊るようになった、とのことで(もっとも、ウィキペディアによれば町山師匠自身も創刊の動機としてほぼ同義の理由を語っているのですが)、まあ、そんなのが「オタクは女性差別主義者だ」などと泣きわめいていたのだから、開いた口が塞がりません。
 が、いつも言うようにぼくは「ホモソーシャリティ」そのものが悪いとは思いません。同じくウィキによると同誌の売りは「「中学生男子」感覚を爆発させた編集方針」だそうで、これもまたぼくとしては否定すべきではない、愛おしむべきものだと考えます。
 上のはてなの一連の記事は大変興味深く読んだのですが、とにもかくにも町山師匠たちの言動に対して「女性差別!」「ホモ差別!」「ホモソーシャル!」と声を荒げるという感じで、その点についてはいささか辟易ともします。問題の(岩田元編集長に被害を受けたとされる)女性のツイートからして、『映画秘宝』のホモソーシャリティを批判するものだそうで、こうなるとそもそも編集方針がそうなんだから、読むなとも言いたくなります。
 おわかりかと思いますが、ぼくの本意はそうした彼ら――これは大島薫師匠の出演した妙なAV含め――の言動を批判することにはありません。記事でも少々同情的なことを書いたのはそれで、編集長のメールの件、謝罪文を女性ライターにアップさせた件、いずれも仮に不当なことをしたのだとしても、それを「女性差別」と直結させるのはまさに森元会長や呉座氏などが受けたのと同じ、「女性という棍棒を使った冤罪」でしょう。ぼくは、しかしそんな「女性という棍棒」を、彼らもまた敵に対して振るっていたことをこそ、批判しているわけです。
 彼らの本質は極めてDQN的です。それはまさに高橋の「切り株映画」に対する心酔ぶりが顕しているでしょう。岡田斗司夫は『映画秘宝』を「童貞の強がり」と評しましたが、彼らはDQNに憧れ、DQNを装って「オタク君、女を抱けよ」とイキっている童貞であり、そこにこそ、彼らのようなサブカルとどこかおぼっちゃん、のび太的で自己韜晦的なオタクとの差異があると言えます。

・エログロの逆襲

 しかし、ならば、では、彼らのその粗暴さは何に端を発するのでしょうか?
『WiLL』でも述べたように、70年代のカウンターカルチャーは「性の解放」と称し、レイプ描写を(まさに「切り株映画」のように)何だか「人間の真実」を描くものだと勘違いして、得意げに振り回していました。
 当時のそうしたムードを象徴する作品に、『ヤスジのポルノラマ やっちまえ!!』があります。これは71年に映画公開された「ポルノアニメ」。ヤスジとは谷岡ヤスジのことで、言うまでもなく「萌え」とは一兆億光年くらいは遠く隔たった絵(ご存じない方は検索してみてください)。そのストーリーはというと、非モテが女をレイプしたり惨殺したり、幼女姦したり獣姦したりするといったもので、最後は日本刀で割腹自殺するという三島事件を想起させる内容。パンフレットには製作者の「声明文」が掲載されていたのですが、それが以下のようなもの(安藤健二『封印作品の憂鬱』より一部抜粋)。

「われわれの製作意図は既成の歪んだエロティシズム、つまり、支配者が目論んだ性の管理統制だ」
(中略)
「東京テレビ映画は、常に未来にむかって前進しています。エロス革命の戦士として活躍するヤングウーマンを控えて、未来にむかってとどまることをしらない会社―は、きっと若者の真の解放を達成することでしょう」
(73p)


 何が何やらわかりませんが、当時は「解放」とか言いながらエログロをやれば格好がよかったのだなあ、ということは伝わってきます。レイプと体制への反抗が、ここではパラレルに語られているのですね。
 後、細かいことですが「われわれの製作意図は~性の管理統制だ」というのは「性の管理統制の破壊だ」とかの間違いではないでしょうか。まあ、プロットを見る限り、まさにこの映画こそが「歪んだエロティシズム」を描いているように思えるので、これで正しいのかもしれませんが。
「エロス革命の戦士として活躍するヤングウーマンを控えて」というのも意味不明ですが、アニメーターの若い女性たちは女性器マークの頻繁に出てくる本作にかかわり、恥ずかしかったそうです。製作者はその時、自分の奥さんを上司に差し出してご満悦の高橋ヨシキみたいな笑顔を浮かべていたのだろうなあと思うと、ムカムカ来ますねw
 事実、この当時、学生運動の盛んであった60年代から70年代にかけては、驚くほどにレイプや殺人の多い時代でもありました。そうした「時代精神」をありがたがっている人々が呆気に取られるほど温厚で事件を起こさない現代の、しかも一番おとなしい存在であろうオタクを狂ったように罵っている姿は、大変に滑稽であるというしかありまぜんね。
 何せ本作、近年DVDになったのですが、Amazonでコメントを寄せている連中が見事に『映画秘宝』関連で、お察しという感じでした。

 ――待て兵頭、それを言うならオタクだって厨二ではないのか。

 はい、ぼくもそれを否定するものではありませんが、むしろオタクはさらに幼い小三病とでもいった部分がある。実はこれについてはやはり岡田氏が「上のヤツらの若者文化がどうにもウザいので、敢えて幼児文化に留まった」と表現していました。
 同書においてオタクは(まさに当時全盛期を迎えていたkeyのゲームを根拠に)幼さ、ピュアさを持つ存在であると認識されています。著者の一人、中原昌也は「ゴリラに萌えキャラのスーツを着せて街にはなったら面白い(大意)」など、世にも下らないことを実に嬉しげに繰り返し続けており、どうもこれは、萌えキャラを貶めてオタクを悔しがらせたいとの情念に根拠づけられているようです。
 が、例えばですが『ときメモ』の美少女キャラを『北斗の拳』風のキャラにする同人誌など、オタク界ではもう何十年も前から存在しているわけで、それに比べ中原の発想はもう、残念ながら見ていて気の毒になるくらいセンスが悪く、周回遅れです。
 藤子・F・不二雄の作品は夢溢れるものながら、同時にその夢の裏面をも見据える理性を持ったものであり、とあるマニアはF氏を「冷めた夢想家」と評しましたが、オタクもまた幼さと、その幼さに自覚的な老成ぶりを共有している面があり、同様の評価ができるように思えます。上に「自己韜晦」と書いたのは、まさにオタクのこうした部分を指したものです。
 しかしサブカル側は(まさに自分たちが認めるように)中学生レベルに留まり、驚くほど生硬に頑迷に古臭い正義を振り回すとともに、それとは180度真逆の不良キャラで暴力を称揚し、園田ブスタに気づかずにい続ける。同書はそんな彼らの幼さを実証するものになっているように思えます。
 これは同時に、「政治の時代」が「オワコン化」した80年代にオタク文化が黎明期を迎えたことと密接に関連しており、サブカルのオタクへの飽くなき憎悪は、弟分になってくれなかった者への、ストーカー的感情だったわけです*1

*1 これについては「「サブカルvsオタク」の争いは岡田斗司夫が悪いことにしないと、すごく怒られる件」も参照のこと。

・『嫌オタク流』の逆襲

 上にも書いたように、『嫌オタク流』は本当に品のない罵詈雑言集という他はありません。サブカルというのが力もセンスもなく、クラスのボス格のパシリをしながらオタクを見下している連中であることが、よくわかりますね。
『WiLL』様の記事でも述べた通り、高橋は同書で美少女ゲーム『ONE』を「知恵遅れを搾取するゲーム」などと罵りました。他にも同作のみさき先輩(盲人の美少女キャラ)にいたくご立腹で、以下のようなうわ言をほざいておいでです。

高橋 でも、そのゲームの売り上げが盲学校に寄付されるわけじゃないんでしょ?
海猫沢 あ! ……それはオレも今初めて気付いた。
高橋 本当に目が見えなくて困っている人のことはどうでもいいんだ。さっきから可哀想な話だって言ってるけど、要は盲人をダシにして儲けてるやつがいて、それにオタクたちが無自覚に乗ってるということだよ。それは最低だ!
中原 それこそ盲人たちが怒るべきですよ。杖を武器に大挙して押し掛けるべきだ!
海猫沢 そこはもう、「オレたちオタクはそういうもので楽しんでいる人でなしなんだよ!」って開き直れる強さを持つしかないですね。
(84p)


 もう、何が何だかさっぱりわからない、真面目に反論するのも馬鹿らしい言いがかりですね。
 悪意でオタク文化を貶めるため確信犯で詭弁を弄しているのであれば、まだわからなくもないのですが、海猫沢が(こんな信じられないほどに頭の悪い指摘を)「あ、気づかなかった」とさも大発見でもしたかのように素で感嘆している辺り、この人たちは徹頭徹尾天然なのでは……との疑念が頭をかすめます。
 このリクツであれば彼らは『ハイジ』のスタッフである高畑勲、宮崎駿、富野由悠季は悪魔だ、と糾弾すべきなのですが、それはしない(……などと書いても、若い方はわからないかもしれません。『ハイジ』の後半は車椅子の少女、クララが立ち上がれるようになるまでを感動的に描いているのです)。
 何故か。
 それはもちろん、彼らの矛先は絶対に弱者にしか、向けられないからなのでしょう。同書中で一同は「オタクは体制に従順だ、従順だ」と(根拠なく)繰り返しておいでなのですが。
 もう一つ、同書の著者に名を連ねていないのが不思議なくらいオタクへのヘイトスピーチを繰り返している人物に、宇野常寛がいます*2。宇野もまた、自著(『ゼロ年代の想像力』)において、

 批評の世界における東浩紀の出現とその劣化コピーの大量発生は、弱めの肉食恐竜たちが(実際には肉食以外に興味がないにもかかわらず)矮小なパフォーマンスで「僕らは草食恐竜です」と宣伝しながら、自分よりさらに弱い少女たち(白痴、病弱、強化人間など)の死肉を貪っているような奇妙な言論空間をサブ・カルチャー批評の世界に醸成した。
(211p)


 などと泣きわめいています。この「白痴」は『AIR』に登場する少女、神尾観鈴を指しており、同ゲームは『ONE』と同様に麻枝准氏によって製作されたもの。もちろんこの「白痴」は「天然キャラ」をそう強弁しているだけなのですが、ともあれ、この主張は高橋や更科とそっくりで、その統制ぶりは共産圏のダンスのようです。彼らのコネクションについては知りませんし、知ったことでもありませんが、彼らは恐らくお友だち同士で「願望」を語りあううちに、それを「共有」して「現実」と混同するという悪癖を持っているのではないでしょうか(考えるとフェミニストと全く同じ特徴ですね)。
 いえ、それよりも不思議なのは、あれほどまでにレイプをこよなく愛するサブカルが何故、上のようなことを言うのか、ということです。
 高橋の「知恵遅れを搾取するひどいエロゲー」との評も、むしろそのようなゲームであればこそ称揚する方が彼の普段の言動に適っているし、むしろ心情としてはそれに近かったのでしょう。つまり、「女をレイプもせずに交流するゲームなど無価値だ」という本音を押し隠し、オタクを「女性差別者」に仕立て上げて罵倒したいがために(他のページもそうですが、ここではいよいよ)支離滅裂な主張になってしまった――と、そんなところではないでしょうか。
 呆れたことに同書後半で、高橋は以下のように絶叫します。

高橋 結局、オタクの立脚しているメンタリティって一般人のメンタリティとまったく同じで、僕はそこに憤りを感じるんですよ。
(191p)


 はい、「一般人を敵に回すのは恐いので、叩いてもいいオタクを叩きます」宣言いただきました。
 これは左派全般に言えることですが、彼らは内心では幼稚なエリーティズムで結ばれた仲間以外は見下し、呪っている。同時に俗物性の象徴とも言える市井の女たちのことも、実際には憎悪しているのでしょう。しかしフェミニストだけは、彼らの歪んだ理念を共有してくれる存在であるから(という、どう考えてもあり得ないような勘違いをして)崇拝している。
 サブカルもフェミニズムもイデオロギー的には左派の一派です。
 だから両者は歩調をあわせていた時期もあったけれども、末端では本件のような醜い「内ゲバ」が起こっている。
 そういう図式なのではないかと思います。
コメント

「漫画『BEASTARS』から読み取る、女性に内在するフェミニズム的性向」を読む(最終回)

2021-04-17 19:38:56 | アニメ・コミック・ゲーム


 みな様、目下『Daily WiLL Online』で兵頭の記事が公開されております。
『映画秘宝』の例の問題ということで、それなりに話題性はあると思うのですが、話が少々マニアックで難しいかもとも思え、反応が気になっています。
 ランキングは目下のところ、五位。
 より以上の応援をよろしくお願いいたします。

 ――さて、いよいよ感動の()最終回です。
 元は匿名用アカウント氏の本作品評への感想であり、まずは本ブログの前回前々回前々々回前々々々回前々々々々回前々々々々々回前々々々々々々回、及び匿名氏のnoteを読んでいただくことを推奨したいところですが、まずは匿名氏のnoteをご覧いただいて、そっから(お気に召したら)辿っていただくことを推奨します。
 まあ、気が向きましたら、上の第一回から辿ってください、すごい長編ですが……。
 それとおわかりでしょうが本作のファンの方、ネタバレを回避したい方はお読みになりませんよう。
 ものすごい勢いでネタバレした上、貶しますから

・肉、やっぱ食っちゃダメだってよ

 さて、記者会見でルイが「肉食を認めよう」と語ったため、街には大暴動が巻き起こります。
 が、肉食獣は決して牙を立てようとはしない。殴りあいはするものの、そこに食うという選択を持ち込まずにいるのです。ここも意味がわかりませんが、「市民たちは意外に理性的であった」という「いいシーン」のようです。
 そんな最中、いきなり発生する大規模停電。
 メロンは大量食殺が起こる、などと言うのですが――復旧してみると草食も肉食も仲よく手をつないでいました。よかったね。要は和解が成立したという描写なのですが、過程がすっ飛ばされているので、何だこりゃとしか。
 大体、クライマックスがメロンとのバトルというのが微妙と言えば微妙。本来であれば草食と肉食の双方の大物が争うみたいな話であるべきですが、そうした役目を果たすはずのヤフヤとゴーシャは、終始傍観者ですし……。
 さらに、ルイの演説につられ、草食が裏市へと入ってくるのですが、それを見た裏市の住人たちは「草食にこんなものは見せられない」と街を壊し始めるのです。草食にも武器を手渡し、一斉に裏市そのものを壊し始める一同。草食的な優しさを持つ、平和的な暴動でいいと思いま~す。
 要するに肉食が自らを省みて恥じ入る、ということのようです。
 で、この騒動の後、裏市は正式に取り壊されることに。
 メロン自身が最後まで改心しなかったり、また裏市は別に作られてしまうだろうとの言葉があったりで、そこまで甘ったるいラストではないのですが。
 結局、ルイの発言の真意はよくわかりませんが(本気だったのか、何故いきなりあんなことを言ったのか)、そしてまた、ハルがメロンに自分を食べていいと言ったことも回収されてないように思うのですが、話としては「肉食否定」で終わるんですね。
 まあ、植物性タンパクを取っていれば死にはしないので、「お前らがそれでいいんならそれでいいんだろうな」以上の感想は湧きません。卵とか昆虫を食う選択もありますし(それらについてはここでは言及されないのですが)。
 ただもう一つ、最後にはクジラとヤフヤの会見がなされ、「これを食ってはどうか」とクジラの差し出した魚肉ソーを(手もないのにどうやったんだろう)、ヤフヤが「貿易は争いを生む」と断る様が描かれます。海生生物は死生観が違う(死をあまり悲しまない)ため、海生生物を食うならば問題ない、という選択肢があったのですが、どういうわけかヤフヤは(自分は肉食でもないくせに独断で)それを断るのです。
 何だよそれ! 海生生物出した意味ねーし!
 上の経緯と並行してレゴシとお隣さんであったセイウチとの別離も描かれるのですが、一度は海へ戻ろうとしたこのセイウチはあっさり「やっぱりやめた」と元の鞘に納まる。もうわけがわかりません。「海生生物とは棲み分けよう」というヤフヤの判断からして意味不明ですが(だってその前に肉食と草食が棲み分けろよと思いますから)、そう結論づけた上でセイウチが陸上に永住するんじゃ、さっぱり意味がわかりません。
 正直、「草食対肉食」の対立構造を、本作が描き得たとはとても言い難いと思うのですが、作者の感情レベルでは「男は女の肉体を得られないまま、ただ女に奉仕せえ」といった辺りが結論なんじゃないでしょうかね。
 これを現実世界で喩えるとするならば、アレですかね、頼んでもいないのに女が男の場(例えば、少年漫画誌)に入ってきて、「エロがけちから~ん」とか言って、で、男の中のチンポ騎士が「女性様をお迎えしなければ~」と彼女らに平身低頭して武器を与え、ともにエロ漫画の打ち壊しをするとか、何かそんな感じの話だったんじゃないスかね。

・恋人たちのオチ、つけるってよ

 はい、もう数話で終わりです。
 もうちょっとです、ガンバりましょう。
 ルイ×ジェノ。結局ルイはエラいさんの娘かなんかと政略結婚せざるを得ず、ジェノとは別れることに。ジェノは「私とのキスはよかったでしょ(忘れられなくなったでしょ)」的なことを言って、自分からルイの下から立ち去り、一人になって「食らえ! 可愛いオオカミの呪い」などとつぶやきます。
 かあぁぁぁぁっっっっこいい~~~~~!!(大爆笑)
 だぁぁぁぁいてぇぇぇぇ~~~~~~!!
 ジェノが当初はレゴシに惚れてたとか、作者自身忘れてそーだなー。
 後、当初はこの人、「私がビースターになる」と言ってた(肉食であり政治的にも上の位置に立つことを目指すという、「男」足らんとした)とかも、作者自身忘れてそーだなー。
 さて、最後はハル×レゴシ(嫌味でレゴシを後にしました)。
 えぇとね、もう書くのもヤです。
 平和になった中、デートする二人ですが、その最中、ずっとハルは耳をおっ立てています。これはウサギが不機嫌でいる証拠。ハルも顔は終始ニコニコなのですが、レゴシはずっとおろおろしています。
 案の定、最後に「イラつく」と切れ出すブス。
「レゴシ君、結婚しよ。そしてすぐ離婚しよ。そうすればあなたは一生私を追いかけてくれる。今のあなたは歴史を変えたヒーローであり、私には勝てる部分が何もない。そこが苛立たしい。あなたが私を追ってくれれば対等になれる」。
 あぁ、そうですか。〇ねばいいと思うよ。
 一応、この後、レゴシがそれを一度拒否して、自分からプロポーズをする、ブスが自分の負けを受け容れるというオチにはなります(「また負けたわ」とぼやく程度であり、自分がいかに身勝手なことをやり続けたかについての反省があるわけでは一切、ありません)。
 まあ、何かいずれにせよ最後までこのままです。
 あとがきでは作者からハルへのメッセージとして、「絶対浮気すんなよ! 世界一幸せになってね」と呼びかけています。これ、最低最少限の倫理を説いているようにも見えるんですが、まさか反語的な意味で言ってたりは……いやいやいやいやいや、さすがにしない……よなあ……?

 ……以上、読後感は「やれやれ」以外のものがありません。
 以前述べたヒツジも似たことを言っていましたが、結局「草食獣は肉食獣に勝てないからイキっていい」という倫理観がわけがわからない、無残なものとしか言いようがありません。
 メロンの母親についても当初は肉食獣の女性という存在を登場させ、価値感の転換を狙ったようにも思えるが、手に負えずに結局父親をクズにすることで母親を免責してしまいました。
 それに対し、ゴーシャの妻はゴーシャの毒で死んだわけで、それは男の「原罪」を強調するため、男に罪悪感を植えつけるためそうしたように読めます。
 先にも書いたように、ハルがそこまで「レゴシに敵わない」ことが気に入らないなら、自分も戦場に出ればいいのです。しかし彼女は、前にも述べたように食殺事件篇では最終決戦の夜、家でテレビを観てましたし、このクライマックスでも姿を見せません。キューというウサギは妙な超能力で肉食以上の力を得るのだから、「ハルにはそれができない」との言い訳は効きません(考えればこの能力もクライマックスでは登場せず、尻すぼみです)。まあ、「女は守られるべき」「その上で守られたことに文句を言うべき」なんでしょうね、レゴシの(テンとの戦いの時の)言からするに。
 一体、どこまで甘えきってるんでしょうか。
 時々書くように、オタク文化以前の漫画界では少女漫画が聖書のように持ち上げられていました。まあ、価値ある傑作も存在することは別に否定はしませんが、基本、少女漫画ってすごい若い子が描くんですよね。だからぶっちゃけ稚拙だったり節度がなかったりするものもあったりしました。しかし何より読者の少女たちに同世代感覚を持ってもらうことが大事だとされ、そのためそうした欠点もよしとされてきたのだと思います。要するにラジオDJだったんですね。
 ぼくが時々オタク文化を「裸の男性性」と形容するように、オタク文化もそれに倣ったもので、実のところ昔の同人誌とか、クオリティ非道いの多かったんですわ。描きかけで投げたようなのをぼったくり価格で売ってたり。でもそれも、友だちとだらだらしゃべってるような面白さがあったわけです。DJの別に面白くもないアドリブが親しみを感じさせる感じですね。
 だから、本作についてもクオリティが低いとか道徳的にけしからん、といった文句をつける気は、ぼくには全然ありません。少女漫画誌に連載されていたら、文句を言うこともなかったはずです。『ガガガ』でも全く同じことを言っていましたけど。
 しかし漫画界は女性様へと男性向けメディアを明け渡してしまいました。テレビとかが女性向け一色なのは、マーケティングでやってると思うんですが(何しろ日本人女性ほどテレビを長時間観る民族はいませんから)、漫画界ってフェミイデオロギーで無理からに女性を重用してる感じがします。
 もう四十年以上前の話ですが、内田春菊とかがそうですよね。「女の子のホンネ」とやらに多大な意味と価値とがあると勘違いした人たちが、単なる馬鹿女の戯言が並んでいるだけの落書きを聖骸布のように崇拝した。時々言うようにそれは「萌え」の台頭により消え去った……はずが、オタク文化の衰退と共に、彗星のようにカムバックし始めたのがこの十年でした。
『ガガガ』について書いた時、ぼくは「おもちゃのかんづめ」の男の子向けと女の子向けの違いがなくなっていることを漫画界の現状に準えました。
 そう、今の漫画界は「女の子向け」のおもちゃを男の子に押しつけることが「ポリコレ」になってしまっているのです。
 それはきっと、漫画界を、否、人類を衰退させる役にしか、立たないことでしょう。
コメント