兵頭新児の女災対策的読書

「女災」とは「女性災害」の略、女性がそのジェンダーを濫用することで男性が被る厄災を指します。

夏休み男性学祭り(その3:『日本のフェミニズム 男性学』)

2015-08-28 18:03:04 | 男性差別


 さて、相も変わらず「男性学」についてです。
 90年代にちょっとだけ騒がれ、そのまま消えていった「男性学」が近年、まさかの復活の機運がある。ならばこちらとしては、「男性学に騙されるなかれ」との警告を発するためにも、当時の状況を今一度見直しておこうと考えたわけです。
(ちなみに「メンズ・リブ」、「マスキュリズム」などとも呼ばれるものも似たようなものですが、本稿では「男性学」で統一します。また「男性学」の研究者、支持者をここでは「男性学」者と呼ぶことにします)
 さて、今回採り上げるのは「日本のフェミニズム」というシリーズの、その中でも別冊扱いの一冊です。出版は1995年で、やはり当時のフェミニズム界隈で「男性学」が無視できない勢力であったことを伺わせます。
 本書を読んでいて、ぼくは感じました。
『ゆう君ちゃん』みたいだなあ……と。
 と言っても、ご存じない方が大半でしょう。『ゆう君ちゃん』については後にまたご説明しますので、まずは本書のご紹介から始めましょう。

 ページをめくると真っ先に始まるのが、上野千鶴子師匠による端書き、そのタイトルも「「オヤジ」になりたくないキミのためのメンズ・リブのすすめ」。
 内容は本書に収められたそれぞれの論文への一口批評集、といった感じなのですが……このタイトルだけで、何かため息が出てきません? ぼくは出てきました。
 この「オヤジ」になりたくない「キミ」とは誰なのか?
 何故「オヤジ」になりたくないのか?
 そもそも「オヤジ」って何?
 今の目からは次々と疑問が浮かんできますが、当時はそれらの説明は全くの無用だったのです。
 当時、「オヤジ」は絶対悪でした。女性を差別し、搾取し、一方会社社会にその全てを捧げ尽くしながらも、女性たちに逆襲され、その地位を追いやられ、全てを失って朽ち果てるだけの「産業廃棄物」でした。
 一方、当時の上野師匠は、例えば別冊宝島といったメディアで「彼女の欲しい少年たちの味方をする、優しいお姉様」といったキャラづけで小銭を稼いでいました*1。フェミニストは、「オヤジ」のような保守反動男性になりたくはないと望む少年たち、即ち「新男類」*2を導く、女神だったのです。
 さてこの端書き、読み進めると五行目から、


 かれらが「男らしさ」から降りないのは、ほんとうは「男らしさ」から利益を得ているからではないか。たとえ胃潰瘍になっても「カローシ(過労死)」をしても、コストにみあう報酬が還っているからではないか?
(4p)


 と筆の滑りは絶好調。
 いや、しかし、死に見あう利益があるとは言いも言ったりです。
 ぼくたちは企業社会に殺されながら、その生命に見あうほどのメリットを得ているのだそうです。そのメリットが何なのかは、明らかにされませんが。
 それならばぼくたちは主夫になるので、そのメリットは女性たちに譲渡して、是非とも過労死していただきたいと思ったのですが、更に読み進めると


 「カローシ」という言葉は、いまや「スキヤキ」「ジュードー」とならんで、翻訳なしで流通するニホンゴのひとつになった。日本の男たちの生き方は、女にとってすこしもうらやむべきものではない。
(216p)



 などとぬけぬけと書いているので、こちらはひっくり返りそうになります。
 つまり、男は全然いい目を見てないって師匠自身が認めているわけです。
 フェミニストたちが「男性は女性を搾取し、一方的に利を得てきた」と語っていたことは全部ウソだったのだと。
 こうなると師匠が冒頭で「カローシ(過労死)」をしても、コストに見あう報酬が還っているからではないか? などと言ってみせたのは、単純にフェミニズムのウソを誤魔化すための、思いつきだと言わざるを得ないようです。フェミニストはこういう、子供でもしないような妙な論理展開をする方が大変に多く、見ていて唖然とさせられます。
 前回記事でも書いたように、当時は「女性が企業社会に入っていくことにより、何かが変わる」との期待がありました。政治の世界ではマドンナ旋風とか言われ、サブカルチャーの世界では少女漫画が聖書のように扱われていた時期です。
 なるほど、「男が女よりも得」というウソはさすがにもう通らない。そこは諦めましょう。しかし「男は女性を搾取し、自身をも破壊してきた」という言い分なら通るかも知れません。上のリクツと総合すると、「しかし女性が企業社会に入ると驚くべき改革がなされ、そのような破壊活動には終止符を打つことができるのだ」との仮定も成り立ちそうです。何だか民主党のマニフェストみたいですが。
 しかし女性が会社に入ることでどのような改革がなされるのか、その具体策は誰も語りませんでした。「ワークシェアリングで世の中がよくなる」的な話は聞きましたが、そんなの、女性が主夫を養うようになってからの話ですよね。
 彼女らが自らの矛盾を脳内でどう処理しているのかは不明ですが、ともあれ、「男性学」が当時の「男性も女性の生き方に学べ」的な風潮の一端であることが、ここからも伺えるかと思います。それは上野師匠自身が「男性学」がフェミニズムの産物であると指摘していることからも、証明できましょう*3


 男性学とは、その女性学の視点を通過したあとに、女性の目に映る男性の自画像をつうじての、男性自身の自己省察の記録である。
(2p)


 つまり「男性学」とは「フェミニズムに学ぶことにより、男性も救われるのではないか」との願望だったのですが、師匠はよりにもよって、その「男性学」の本の1p目から、「いや男性は(過労死に見あう)利を得ているのだ」と支離滅裂なことを口走ることで、ある種、男性へと肘鉄を繰り出してしまっているわけです。
 非道いです。
 もう泣きそうになりながら更にページをめくれば、得意げに家事や主夫業に精を出してみせる村瀬春樹、たじりけんじ両師匠を紹介し、


フェミニズムに理解のある男たちといえば、まっさきに思いつくのが「家事・育児をする男たち」である。(中略)妻に迫られ、あるいは子育ての状況に強いられ、または自分自身の意思から、不払いの家事労働をになうことで、「二流市民」にドロップアウトする危険を冒す男たちがいる。
(11-12p)


 などと評し出します。
 なるほど、彼らがそこまで正しい存在なら、さぞかしフェミさんは喜んで彼らを「扶養」しているんでしょうなあ、と思ったのですが、意外や意外、男性を養う女性の率はむしろ過去の方が(ちょっとソースを失念したのですが、確か均等法以前の方が)高かったそうです。
 こうなると師匠が「家事・育児をする男たち」を持ち上げて見せたのは単に「男への復讐心」からであり、ホンネは「男と女の美味しい部分、楽な部分のいいとこ取り」をしたいというものであるようです。上の記事でも、また前回記事でもご紹介したように「男性学」者たちが「女性ジェンダーを身につけさえすれば俺も救われるのだ」と一心不乱に家事をしていることを考えると、もう可哀想で泣きそうになります
 余談ながら、そもそもそこまで男性ジェンダーが劣り、女性ジェンダーが優れているのなら、「ジェンダーフリー」など愚の骨頂のはずなのですが、彼ら彼女らがこうした矛盾に目を向けるのは、見たことがありません。
 更に指摘するならば、フェミニストたちは「マッチョなオヤジ」の攻撃性、権力欲を憤死しそうな勢いで憎悪しますが、彼女らの素描するそうした「マッチョなオヤジ」像はあまりにも現実と乖離したものであり、更に、裏腹に彼女ら自身が彼女らが素描する「マッチョなオヤジ」を超えた幼稚な攻撃性、権力欲を発露させることにためらいのない人々であることが非常に多い。ここ、以前にも書いた「男性学」者自身がどんな男性よりもマッチョである、というお話と全くいっしょですね。

*1 「チェリーボーイの味方・上野千鶴子の“恋愛講座”」など。
*2 当時の上野師匠が考え出した、要は「草食系男子」とほぼ同じ意味の言葉です。
*3 もっともここで師匠は日本の男性学のスタートを切ったのが渡辺恒夫教授であると認めています。以前に述べたように、「男性学」者は渡辺教授の業績の美味しいところだけは剽窃し、都合の悪い部分は抹消し、「我こそが一番乗りなり」と名乗る傾向にありましたから、珍しくフェミニストが事実を認めたという点で、ここは評価できます(もっとも渡辺教授の主張については全くデタラメな読解をしまくっていますが)。


 さて、本書では以上に挙げた上野師匠の端書きの次に橋本治師匠の、そして山崎浩一氏の文章が続きます*4
 橋本師匠の「男の子リブのすすめ」は、(この人の文章は情緒的観念的で極めて把握がしにくいのですが、思いきり端折ると)「男は仕事人間でつまらない、自分自身のために生きようとしないので幸福になれない、女に学べ」的な主張です。まあ、趣味と実益を兼ね、「ホモセックスの勧め」をなさっているのはご愛敬、といったところですが。
 橋本師匠は『枕草子』をギャル語訳してみせる小技で評価されるなど、少女漫画を神のように称揚する当時のサブカルチャー界の流れに沿って出て来た人物です(上野師匠は「女装文体の持ち主」と極めて的確に形容しています)。彼は実のところ「男性学」においては隠れたキーパーソンで、男性が半ズボンを穿くことを提案するなどして、渡辺教授にも影響を与えています。
 その意味でこの文章も、言ってみれば一足先に女性軍に投降したインテリ男性の、「女性軍はこんなにも楽しいぞ、羨ましいかお前ら」という宣言であると、取り敢えずは言えましょう。
 続く山崎浩一氏の文章はそこを踏まえると極めて示唆的です。
 彼は男性誌『ポパイ』の編集に携わっており、同誌の変遷についてが語られます。


 そして特筆すべきは、そこからは「セックス」が慎重に排除されていたことだ。それは「性文化なしに男たちは消費の主体たりうるか」という、ささやかな実験であり、冒険であったように思える。
(53p。ちなみに原文では「消費」に「あそび」とルビが打たれていました)


 本来の『ポパイ』はそうした(言ってよければ)硬派なホビー誌でした。
 それが80年代の中頃から、「女性を口説くための恋愛マニュアル誌」へと変貌を遂げ、類似の『ホットドッグ・プレス』なども登場するようになる。そう、まさに当時の「男性誌」は「恋愛マニュアル誌」だったのです。前回ご紹介した「アッシー君」云々が、当時はそれなりの説得力があったことの、一つの証左と言えましょう。
 しかしこの後、文章は


結局、「アセクシャルな男の子文化」は、以後〈おたく〉的な文化へ収斂するのみとなり
(55p)


 と続きます。まさか恋愛マニュアル誌どころか「恋愛資本主義」そのものがおわコン化し、裏腹に当時としてはあだ花くらいにしか思えなかったオタク文化が日本を制し、世界を覆い尽くすとは、山崎氏をしてすらこの時点では予測だにつかなかったのでしょう。



*4 すみません、露骨に「師匠呼ばわり」したりしなかったりもどうかと思うのですが、山崎氏は「味方」だと思っているので……上の文章は山崎氏の単著、『男女論』にも収録され、これは今の目で見ても得るところの多い好著です。

 ぼくは以前、自治体などで催されている「男性学講座」などが「蕎麦打ち講座」などと同列のものである(だろう)ことを揶揄してみせました。それは定年後にやることのない高齢男性を嘲笑する「男性学」自身も、実のところ似たようなものでしかないのではないか、との皮肉でした。
 また一方、ぼくは「オタク文化」を「裸の男性性」と形容したこともあります。それは日本の男性が役割から解き放たれ、初めて得た「自分のための楽しみ」であり、(例えば『エヴァ』が象徴するように)初めて吐露した「自らの内面」でした。
 いや、むろん昔から趣味人はいたのだからこれはかなりの極論ですが、『ポパイ』のホビー路線が上のような経緯を辿ったことを思えば、極論なりに意味が生じてくるのではないでしょうか。
「オヤジになりたくな」かったぼくたちは、「オタク」になりました。
 庵野秀明は『エヴァ』を作る数年前、「少女漫画の世界はアニメを超えている」と絶賛し、しかしながら『エヴァ』である意味、少女漫画を超えてしまいました。
 オタクはフェミニストたちの望んだ「新男類」であり「草食系男子」のはずでした、理論上は。
 ところが、当のフェミニスト様たちは、それをお喜びになっているご様子があまりありません。
 ですがそれは、仕方のないことです。
 ぼくたちは彼女らに向かって、こう言わねばならないのです。
「ぼくたちはお言いつけ通り、自らに正直になりました。あなたたちがフェミニズムを、少女漫画を称揚している間に、あなたたちの与り知らぬ間に、あななたちに学ぶことなく、オタク文化という自らの内面を吐露する大衆文化を築き上げ、世界に広めました。その反面給付として(というよりは同じ原因から導き出された必然として)、ぼくたちは草食系男子となり、女性を養うマチズモをいささか喪失してしまいました。ご希望に添えなくて、ごめんなさい」と。
 後、ついでながらフェミニズムに大いにベットしていた人たちにも、謝っておきましょう。
「ごめん、俺らが全部持ってったから。なれるモンなら、キミらもオタクになれば?」
 考えれば橋本師匠が極めて口汚くオタクを罵っていたことは、なかなかに象徴的です。それはつまり、「自分が内面を獲得するには女装しなければならないのだ」との強迫観念に囚われていた師匠が、「女装することなく内面を獲得したオタクたち」を見た時の、はらわたの煮えくり返るような嫉妬の感情であったことでしょう。
 一方、山崎氏は『週刊アスキー』で連載を持つなど、近年オタク度を強めていたのでありました。

 さて、こうなると橋本師匠は、「男性学」者たちは「ゆう君ちゃん」だった、ということがよくわかるのではないでしょうか。
 というわけで以下、『ゆう君ちゃん』について説明します。
『内気はずかしゆう君ちゃん』は自主制作アニメーション。
 男の娘*5であるゆう君ちゃんが、めそめそしてはお姉さんに甘やかされ、お父さんや昭和軍人に怒られ(というか殺しにかかられ)るという内容です。
「待て、お父さんはわかるが昭和軍人って何だ?」といった声が聞こえてきそうですが、そんなことを言われたってぼくにだってわかりません。ゆう君ちゃんは父親や軍人、地獄の鬼に常に「男たれ」と追い立てられ、しかし母性の象徴たるお姉ちゃんに、常に甘やかされ続けるのです。男の娘物のエロ漫画などでも「年上の女性に甘える」というモチーフは散見されますが、ここまで父性への怯えを執拗に描写するのは特徴的です。
 自主製作アニメにありがちな、言っては悪いですが稚拙な画に稚拙なストーリー展開。その稚拙さが、期せずして作者の精神世界をストレートにこちらへと伝える結果となっています。
 ぼくが本作を持ち出した理由は、もうおわかりではないでしょうか。
 稚拙さのため、作り手の父性、男性性への憎悪がストレートな形で溢れ出た自主制作アニメ――それは、橋本師匠や「男性学」者たちと「完全に一致」してしまった。
 そして、一般的な「男の娘」物にそうした男性への憎悪は登場しない。
「ボクが幸福になるにはオヤジを嬲り殺しにして、お姉様を獲得し、女装しなければならないのだ」との彼らの強迫観念を、オタクたちは否定した。
 橋本師匠が、リベラル男性が、フェミニストたちがオタクを憎悪するのは、オタクのせいで自分たちのマスターベーションイマジネーションが打ち砕かれてしまったからなのでした。
 橋本師匠は「妻と息子がオヤジに愛想を尽かして家を出ていく」たとえ話を得意げに語り、また鹿嶋敬師匠は本書の「捨てられる夫たち 夫無用の時代」という論文でそうした実話を楽しげに語っていますが――こうしてみると「愛想を尽かされ、出て行かれた」のはフェミニストであり、「男性学」者たちだったようです。
 終わり。

*5 言うまでもなく、オタク系漫画に登場する「女装少年」を指します。昨今、リアルなオカマが「男の娘」を僭称する事例が増えてきましたがむろん、男の娘は「萌え絵」の中にしか存在しません。

『ポルノウォッチング』ウォッチング

2015-08-21 19:28:34 | レビュー


 一昨日お知らせしたASREAD様の記事、読んでいただけたでしょうか。
 志摩市の萌えキャラ、「碧志摩メグ」に対して「女性差別だ」との声が上がったという問題を扱いました。
 そこにも書いたように、「おたぽる」における昼たかし師匠の記事では、この騒動の根っこを「志摩市の売春の歴史」に求めていました。面白い着眼ではあれど「何とかフェミニストを免責せねば」との使命感で血眼になって探してきた「他のワルモノ」であるようにも、見えなくはありません*0。
 ここで師匠は本件を「そうした歴史をなかったことにしたいという意志の表れであろう」、「『売春の存在は地域の恥』という意識が、人々のどこかに存在している」、つまりは「過度な社会浄化の気運の表れ」であるとモノスゴイことを言っていますが、敢えてそのリクツに乗っかるのであれば「被差別的な扱いを受けてきた女性のトラウマティックな心性を尊重しよう」という結論に、むしろなるのではないでしょうか。師匠は「社会浄化」と批判していますが、想像するに(左派寄りの師匠であれば本来支持すべき市民主導の訴えを否定するために)、この言葉を持ち出すことで「体制側の強硬的なやり口」とパラレルなイメージで捉えようとしているという具合に、ぼくには見えてしまいました。
 それに対して、ぼくの記事ではかつての女性団体「行動する女たちの会」を引きあいに出しました。そのために彼女らの著作『ポルノウォッチング』を読んでみたのですが、これがまあ、何というか、ものすごいもの。
 せっかくなので、今回はこの本を簡単にご紹介していきたいと思います。

*0 この昼間師匠の言説と歩調をあわせたかのような記事も、この後見つけました。
クリーン化が孕む性産業従事者への差別問題とジェンダーは矛盾しないのか - messy」がそれですが、書き手の柴田絵里師匠は海女さんに寄り添うフリをしつつ「ヒョーゲンノジユー」を侵犯した者としてのケガレを彼女らに押しつけ、フェミニストは「ミソジナスなオタクどもから心ない罵声を浴びせられた被害者」と設定しており、この「おいしいとこ取り」には頭がクラクラします。



 さて、「行動する女たちの会」というのは1975年に結成され、ハウスシャンメンの「私作る人、ぼく食べる人」というCMを「性役割固定を促す」として放映を中止に追い込み、それ以降も1996年に解散するまで類似の活動を続けた悪名高い団体。そんなわけで本書の内容も専ら彼女らの抗議行動の実際、またそのノウハウなどについてです。
 同会、そして本書については当ブログでも時々言及しており、


 ポルノを見れるのかとドキドキワクワクしながら読んでみたのですが、期待に反して取り扱われているのは主にスポーツ紙、電車の中刷り広告など。
(中略)
 完全にタイトル詐欺です。
 この時の期待を裏切られたことに対する深い深い怒りが、ぼくのフェミニズム批判の原動力になっていることは言うまでもありません。


 などとギャグにしておりました*1。
 が、ここで敢えて弁護するならば、本書にも再三書かれる通り、彼女らのスタンスは「嫌なら読まなければいいポルノ雑誌と異なり、駅や車内で嫌でも目にしなければならない広告やスポーツ紙の紙面こそが問題だ」といったものであり、それはそれで、それなりに筋が通っています。
 また、彼女らの抗議対象も明らかにレイプを想像させる(あくまで暗示させる、ですが)ポスター、バトミントンの女子選手にスコート着用を義務づけたスポーツ協会など、確かによくないなあと思わせるものもあります。
 ただし、とは言え、では彼女らがゾーニングされたポルノであれば認めるのかとなると、むろんそういうわけでは全くありませんし(ここは後に詳述します)、抗議対象も大多数は「プールの広告に使われた女性の(別に過激とも思えない)水着姿」など、一体全体どこがどうしてどのようにどれだけ問題なのかが全くわからないもの。(どう考えても性的要素はほとんどない)女性のハイヒールを履いた下半身に怒っている御仁もおり、どうも彼女らは「顔のない切り離された女性の肉体」に殊更過敏に反応するようです。その心理はわからないでもありませんが、さっぱりわかりません
 さて、企業側の反応は……ただただ平身低頭しているだけかと言うと(何しろ当時は「黒人差別だ!」などと糾弾を受け、『オバQ』などが回収されていた時代ですから、きっとそうだったのだろうと想像していたのですが)、さに非ず。彼女らの抗議に屈せず水着ポスターの撤回を拒む(どころか、その翌年も懲りずに採用)する会社、また彼女らの集会に呼び出され、丁寧な態度で「勉強させていただきました」と一礼する編集者などもおり、いずれも立派な態度と言えましょう*2。
「男性ジャーナリストのおなじみリアクション」という章では、自分たちを週刊誌が嘲笑的に採り挙げたことについて怒り狂っておいでですが、ここを見ると当時はジャーナリズム側もフェミニズムにカウンターパンチを繰り出す気概があったことがわかります*3。

*1 『朝日新聞』3月1日朝刊「アートか「児童ポルノ」か挑発的な美術展」
*2 笑ってしまうのは彼女らが後者の編集者の態度にご満悦で「部内でもピンク記事を嫌う編集者は多いのでは」などと漏らす下りで、何というかもこっちがコンビニのイケメン店員に話しかける口実のためにクレームを持っていく……といった場面をつい、想像してしまいます。
*3 これがいつからフェミニズム批判が完全タブーになってしまったのか……となると、想像の域を出ませんが、この直後、「ジェンダーフリー」とか言い出した頃からではないかと思います。セクシャルマイノリティを担ぎ出したり、「ジェンダー」という新概念を提出したりで、この当時のフェミは何とはなしに知的な印象をまとっていました。これ以降、似非インテリ男性はフェミに完全敗北してしまったのではないでしょうか。


「人は男に生まれない」、「チカン誘発? 銀行ポスター」と題された各章では、彼女らの「アンチポルノ集会」的なイベントで行われた(センスのない*4)寸劇の記録が掲載されています。
 前者では(電車の中でスポーツ紙を読むことへの批判のハズが)ポルノを読んでいた男が女学生に痴漢するといったお芝居がなされ、「純真な少年が男性支配社会の価値観に洗脳され、ポルノ脳の大人となる」過程が描かれます。ガキなんざ大人以上にエロが大好きなものですけど、まあ彼女らは接する機会もないでしょうし、わからないのでしょう。
 後者の裁判風コントは更にものすごく、痴漢容疑の被告が「エロポスターを見て刺激された」と主張します。しかも呆れたことに、弁護人に「ポスターと痴漢行為に因果関係はない」と言わせておいて、検事にそれを否定させるという徹底ぶり。弁護人は被害者女性の服装にこそ原因を求めようとするのですが、裁判長は検事の「そのことは本件とは関係ありません」との主張を受け容れます。
 いや……事前に見たポスターにのみ影響を受け、被害者の容姿には影響を受けなかったってのはあり得ないと思うんですが……また、ポスターが影響を与えたからポスターが悪いのだ、とのリクツが通るなら、「女性の服装が悪い」と言われても文句は言えないはずです。このムチャクチャな詭弁は、フェミニズムのダブルスタンダードを実にわかりやすく露呈しています。
 大体、被告の罪を軽くするのが目的である弁護人が、こんなことを主張する理由がさっぱりわかりません。
 続いて、被告がポスターの女性に心奪われたことを吐露する様が極めて執拗に描かれます。が、見ていて「あぁ、フェミニストたちは男性にそこまで女体に惹かれる存在であって欲しいと切望しているのだな」以上の感想を持てません。彼女らが騒ぐようなポスターを見て、強く欲望を喚起されるようなウブな男など、ぼくにはいないように思われるのですが。
 一方、検事は被告に対し、事件当日「OLに意地悪をされ(て女性に腹を立ててい)たのではないか」「『東スポ』、『ザ・レイプマン』を読んだのではないか」「他にも貼られていた車内のエロポスターを見ていたのではないか」と執拗に執拗に固有名詞を上げて尋問します。被告は「いや、そんなモノは見ていない、俳句を捻っていたのだから」と否認するのですが、検事は


 俳句を作っていた! 陪審員のみなさん、今の言葉が信用できますか? 俳句など、なんの証拠もありません。
(110p)


 と絶叫します。
 お間違えのないよう念を押しておきますが、「被告が俳句をひねっていたので痴漢はしていないと否認」というシーンではありません。まず被告は痴漢の容疑を認めており、検事は「その行為の直前にポスターなどを見ていたのだろう」としつこくしつこく尋問を続けているのです。
 恐ろしいですね。
 そんなことどうでもいい上に、ここまで高圧的に被告の弁を否定する理由がさっぱりわかりません。まるで無罪の証拠が提示できない以上、有罪であるとの目下の性犯罪に対する司法のあり方を、見事に予言しているかのように読めます。いや、原因がフェミニスト自身にある以上、「予言」ではなく「犯行予告」ですか。
 検事はついにはポスターの制作者を証人として担ぎ出し、いきなり社内に女性差別があるのだろうと弾劾し始めます
 一体全体どうして、痴漢と性的表現を、そこまで結びつけたいのでしょう?
 ……ひょっとして女性の痴漢被害を救済することなどどうでもよくて、ポルノを見る男は全員死刑にせよ! とか思ってます?
 結局、フェミニストのリクツでは「ポルノは女性憎悪のメッセージであり、それが性犯罪を誘発する/しかし生の女体にはそうしたメッセージ性はない」という(奇妙奇天烈摩訶不思議な)ハナシにならざるを得ないのですね。ドウォーキンが「ポルノはテキスト、レイプは実践」と言っている通りです。もっともそのリクツなら「男の性的欲望」を内包したメイド服などで街を歩いている女性は、女性差別なのだから取り締まるべきだと思うのですが。
 結局、「男性支配社会のおぞましい価値観を風刺する寸劇」であるはずが、「フェミニズムの偏狭で支離滅裂な理論を露呈するコント」になってしまっています。

*4 この種のイデオロギー先行のギャグって、基本センスがなく、また下品極まりないことが多いですよね。

「ハウツー抗議」の章を見てみると、タイトル通り読者に抗議法を伝授し、不快なポスターなどに抗議の葉書や電話をしろと唆しています。
 オランダのフェミニズム団体の「ダウンタウンでムカつくポスターを見る度、バケツに用意した赤ペンキを片っ端から塗りたくる」という「抗議」方法を「果敢で素敵な行動」と絶賛、「オフィスでのセクハラポスターを取り下げさせる方法」的なページでは「本命よりも話しやすい人物をスケープゴートにして目的を達成する」ことが推奨されています。


 こういうときは、言葉は悪いが、「スケープゴート」作戦に限る。ほら、ひとりくらいはいるでしょ、たいていの職場には。女性の同僚に構ってほしくてしょうがないというタイプ。ポンポン言っても平気って人が。
(158p)


 そうした相手を


 「こんなの貼ったの、どうせ○○さんね。貼りたきゃ、自分の部屋だけにしといてよね」


 などと罵りつつ、ポスターを剥がすのだそうです。
 普通に冤罪のススメですし、「女性の同僚に構ってほしくてしょうがないというタイプ。ポンポン言っても平気って人」の具体的イメージがぼくには浮かばないのですが、こうしたことが許されるということは「こっちが男に構って欲しくない女性」認定した相手には、ポンポンとセクハラ発言をしても許されるんでしょうかね。いずれにせよ、「女性の同僚に構ってほしくてしょうがないというタイプ」がどれだけいるのかは知りませんが、彼女らには構われたくないし、どちらかと言えば彼女らこそが「男性に構ってほしくてしょうがないというタイプ」に、ぼくには見えるのですが……。
 ついにはこんなことまで言い出します。

 月めくりになってるヌードカレンダーだったら、ペーパーボンドでシワひとつ作らず翌月以降の分をのりづけしちゃうなんてのもアイデア。月末が楽しみです。
(158p)


 単なる器物破損です(まあポスターをペンキで潰すこともそうですが)。オタクが萌えアニメのカレンダーでこれやられたら、怒り狂って訴えることでしょうな。
 ちなみに本書にはこんなものも登場します。



 街でイヤなポスターを見かけたらペタッ!
 車内で鼻先にポルノをつきつけてくる男にペタッ!
 定期入れや手帳の表紙に、オフィスの机結愛事務用品に貼って意思表示。
(中略)
 黒抜きと白抜きがそれぞれ五枚ずつ、一〇枚一セットで二〇〇円は安い!(もちろん、消費税は永久にいただきません)
(144p)


 或いはギャグ企画かとも思ったのですが、どうもホンキっぽいですよね。売ってたのかなあ……。

 呆れながら「男性ジャーナリストのおなじみリアクション」の章をもう一度見てみると、更に更に呆れます。『朝日ジャーナル』に「性描写が性犯罪につながると単純な主張をした団体」と揶揄されたことに対し、「そんなことは言っていない!」と憤る下りがあるのです。『朝ジャ』への抗議文も掲載されていますが、そこには「私たちは表現の規制を求めているのではない」との一文が。
 どう考えても言ってるやろ、求めてるやろとしか、言いようがないと思うのですが。
 それとも、今までの運動の成果は「相手が心から納得し、自分たちに賛同の意を表し、広告を取りやめた」モノばかりであると心の底から信じ切ってるのかなあ?
 いや、きっとそうなのでしょう。
 事実、上の「*2」含め、本書には抗議をした相手が絶句したりするのを、「自分への賛意」であると曲解する下りが度々出てきます。
 ジェンダーフリーなどを見てもわかる通り彼女らラディカルフェミニスト(即ち、日本の全フェミニスト)の目標は、人間の性意識を根底から覆すことなのですから、彼女らの行動を彼女らの理念に照らしあわせて矛盾のないモノにするには、そう考えるないわけです。
 しかしいずれにせよ、ポルノを守り、自民党と戦う正義の味方には全く賛同されないでしょうね……と思っていたら。
『マンガはなぜ規制されるのか』の著者である長岡義幸師匠は当会を、「彼女らも公的規制反対を唱えている」と持ち上げていらっしゃいました*5。
 一体全体どうして、彼ら彼女らはこんな大ウソを平然とつけるのか、不思議としか言いようがありませんが、以下のような言い訳が出て来るに至って、ホンネが明らかになります。


 「言論表現の自由」という言葉は権力による規制と闘うときに使うものとばかり思っていた。
(p135)


 つまり自分たちは権力を持たないのでいくら規制をしてもいい、というのが彼女らの考えなのです。
 本書全般でなされている彼女らの言い訳は、二種に大別できます。
 1.そもそも天皇崩御の際の「自粛」はどうなる
 2.我々はマイノリティであり、影響力などない
 とてもマジメに考えているとは思えませんね。いや、ご当人たちは大マジメなのでしょうが。1.は90年という出版年を象徴する回答ですが、典型的な話のすり替えですし、2.に至っては実際にポスターなどを撤去させ、更には「社会の性意識をも変えよう」としている人たちの言としてはギャグにもなりません。それとも彼女らは自分たちの運動が成功することはないと確信しながら、活動していたのでしょうか。だとしても、事実彼女らは社会を変えてしまったわけで、それに対して、どう考えているのでしょうか。
 こうした「私は官能作家だから議論に窮すると相手の男性にセクハラを仕掛けて逃げてもいいのだ」というのと同種の「自分は弱者なのだから何をやってもいいのだ」といった甘えほど醜いモノはありませんが、一体全体どうしたことか、これを一定層の人たちは「勇ましい女傑の振るまい」として妄賛するのですね。ちなみに「妄賛」という言葉は今、ぼくが作りました
 これら言動を総合すると、「行動する女たちの会」と彼女らを「表現の自由の味方」と持ち上げ続けるオタク界のトップの人たちの真意は、もう明らかではないでしょうか。
 彼ら彼女らは、「表現の規制」は確かに求めていない。
 求めているのは「人間の内面の自由の規制」なのです。
 ぼくたちはそのことを、しっかり心に留めておきましょう。

*5 https://twitter.com/dokuritukisya/status/492367058365980672

お知らせ

2015-08-19 18:52:03 | お知らせ
ネットマガジン『ASREAD』様でちょっと書かせていただきました。
海女ちゃんが「女性差別」と騒がれている件」。例の志摩市の萌えキャラ「碧志摩メグ」についてです。
この件についてはまたぞろオタク界のトップが「悪者探し」をしている状況も見て取れて、笑ってしまいます。
どうぞご一読を!

夏休み男性学祭り(その2:『男性受難時代』)

2015-08-07 15:04:52 | レビュー


 以前もちょっと採り挙げたことがあるのですが、二十年近く前に出た、『この本は怪しい!』というムック本があります。要は『トンデモ本の世界』が当たったので映画秘宝編集部が出したパチモン、という感じです。
 が、『トンデモ――』が比較的オカルト本の批判に寄っていたのに対し、『この本は――』は、「昔の本」を引っ張り出してくる傾向が大でした。要するにあんまりクレームのつかない相手を選んでレビューの対象にしていたわけで、どこぞのブロガーさんにも「見習った方がいいよ」と進言して差し上げたいところです。
 さてその「昔の本」ですが、例えば「古いエロ本を採り挙げ、その今となっては失笑物のセンスを笑う」とかもあるのですが、見ていくとマドンナ旋風や村山内閣当時の気を吐いていた頃の社会党の本、70年代の学生運動の空気の中で書かれたクーデター待望論など、かつての政治思想を笑い飛ばすものが多い印象でした。いえ、中には警察本を笑い飛ばす左派っぽいレビューもあるのですが。

 今回、当ブログで今回採り上げるのは『現代のエスプリ』別冊、『男性受難時代』。
 うわあ、『現代のエスプリ』って知ってます?
 個人的には、すごく懐かしい響きです(実は近年まで発行されていたと知り、二度びっくりしました)。やはりフェミニズムのみならず、二十年ほど前は社会学というか人文系の知識を振り回すことに、それなりのご威光があったことの一つの証明かも知れません。当時は『現代思想』の出版社も『Imago』という心理学系の雑誌を出したりしていましたし。てか、『現代思想』ってまだ出てんの? 最近は『ユリイカ』が泣きながらオタク文化の後追いをやってるだけ、という印象ですが。
 閑話休題。
 とにかく、本書の出版は1992年。
 今回これを引っ張り出してきたのは、まさに『この本は怪しい!』方式で古い本を採り挙げ、当時の「メンズリブ」「男性学」界隈の空気感を、今一度思い出してみたいからです。
 まずページを開くと

 女性からの相次ぐ異議申し立てや「元気印」の女性パワーの台頭の前に、どの世代の男性たちもすっかり押され気味である。「たくましい女性」と「さえない男性」という図式が定着し、時にそれは“男性受難時代”とも言うべき様相すら見せることがある。

 といったリード文(?)。
 アニメにすら非モテ女性が登場する昨今からすると、まさに隔世の感です。
 メイン企画は「男性受難時代を生きる」という座談会。本書の編者である市川孝一師匠を司会に、定年夫を「産業廃棄物」と呼んだことで著名な樋口恵子師匠、『広告批評』の天野祐吉師匠が参加しています。
 見出しには「今や男性は自業自得」「男は女らしく、女は男らしく」「アッシー君とツナグ君」、「女性は三高を望み、男性は三低を求める」といったフレーズが立ち並んでいますが……「アッシー君」って言葉、知ってます?
 同書の「男を使い分ける時代!?」*1との記事でも詳述されているのですが、要するに当時盛んに喧伝された、「足代わりになってくれる男の子」。つまり「本命の彼氏とデートした帰りアッシー君に電話をすると、単なる無料タクシーとしての役割を果たすためだけに高級車に乗って迎えに来てくれる」のです。他にもプレゼントをするだけの、「ミツグ君」、あくまで滑り止めの「キープ君」、単にメシをたかる相手、「メッシー君」、ただの便利屋「ベンリー君」など、女は何人もの男の子を使い分けていたのです。週刊誌や女性誌に盛んに書かれていたので、当時は本当にそうであったことは、疑う余地がありません
 ちなみに上の「ツナグ君」、ぼくは当時から全く聞いたことがなかったのですが、AV機器のコードつなぎ係だそうです。女ってそんなこともできないのか……と思いつつ記事を読むと、天野師匠は「これも女の人のせいではなくて、まさに社会の空気そのものが、女の子とパソコンの間に壁を作っている。」女の子がファミコンをやらないのも「親が誘導しているとしか思えない。」と主張。なるほど、全ては男社会の陰謀なのですから、ツナグ君は女性様のために滅私奉公をして当たり前ですな! いえ、繰り返すように、本書以外では見たことのない言葉ではありますが。
「三高」も今となっては懐かしい言葉で、要は女性が結婚相手に「高身長高収入高学歴」を望む傾向を指した言葉です。「男は三低を求める」とあるのはそうした通念に対し「どっちもどっちだ」との反論を試みたものであり、この種の主張は女性の「保守性」を誤魔化すために繰り返しなされますが、当たっていません。結婚相談所の板本洋子氏によると、なかなか結婚できない男性ほど、「結婚すれば家事もやります」とアピールする割合が多く、また、家事をやる男性だからといって、結婚しようとする女性もまずいないそうなんですね。
 以降の記事を見ていくと「男はなぜ結婚できないか」「女はなぜ結婚しないか」「男性結婚難時代」「結婚しない女たちの素顔」などといったタイトルが続きます。
 何というか、ため息が漏れますね。ちなみにこの「男はなぜ結婚できないか」と言う記事を執筆したのは先に挙げた結婚相談所の板本氏。記事の中では「家父長制から抜け出した女たち/そうした古い価値観に縛られ続ける男たち」といった描写がなされていますが、先のご当人自身の指摘を鑑みるに、実態はその逆だったわけです。
 先の座談会に戻ると、「パンツ論争の総括」といった見出しも見られます。当時のフェミニズムの論調は、「男たちが女に家事を強いている」ことを糾弾する、というモノが多く、そのため「男性学」界隈では「我こそはススンだ男性なり」とドヤ顔のオッサンが得意の絶頂で家事をする姿がやたらと目立ちました。以前採り挙げた『男性学入門』もそうでしたよね。
 事実、座談では樋口師匠が

女性の社会参加などというが、よく考えてみると、男だってちっとも社会参加していない。家庭の中をねぐらとして、仕事以外のことは全部、パンツの在り方から健康状態までみな妻に預けて、会社という一つの囲いの中でずっと生きてきて、本当に個人として社会に裸で晒されたことなどまったくない。

 などと主張しています。「生活者」として自立している女、実は全然自立していない男、といった詭弁がこの頃のお約束でした。
 ツナグ君(ボソ)。
 もう一度記事に立ち返ると、後半には「おじさんはなぜダメか」「オヤジの秘密」などといったタイトルが並んでいます。「オヤジの秘密」は「女のコから見た」「女のコが社会に出て」「女のコにとって」と「自分が女のコである」ことを再三強調する梶原葉月師匠の、「会社のオヤジ」への罵倒集。ゴルフの話題ばかりでウザいの、着ている服がダサいのと、世にもどうでもいいことにいちいち文句をつける「お局様」なセンスに、いささか辟易とさせられます。お前ら、要は家庭でも会社でも、とにかく女であることを担保に男に文句を言えれば何でもええんかい、という感じですね。
 先の座談会に戻ると「会社主義という障壁」といった見出しも見られ、市川師匠の発言からは「会社人間である男への疑問」が、まず本書を編むモチベーションになっているようなフシが見受けられます。考えればこの当時のフェミニスト信者たちには、「女性が進出してくることで、非人間的な会社社会が人間らしいものへと“解放”される」という、一種のメシア待望論が強固に信じられていたように思えます。
 しかし先に挙げた樋口師匠、そして上野師匠たちフェミニストはこの当時、会社人間である男性たちに対して「粗大ゴミ」「産業廃棄物」「濡れ落ち葉」と酸鼻を極める凄惨な攻撃を繰り返しておりました。それを何をどう間違うことで、「フェミニスト様がボクたちを助けてくれる」などというあり得ない勘違いをすることができるのか、ぼくにはさっぱりわかりません。

*1 この記事は編者の市川師匠によるもので、文中で師匠のゼミの参加者である女子大生たちとの座談会が挟まれます。この頃、あらゆるメディアで女子大生なり女子高生なりOLなり匿名の女性を集めてはその声を拾うことが、ある種の神聖な儀式のごとく、飽きもせずに繰り返されていました。

 今更確認するまでもありませんが、当時は均等法が施行されて数年、またバブルの残り香がまだまだ濃厚な時期でした。この時期は一般的な総合誌でもフェミニズム特集が組まれたりするフェミバブルであった、ということは幾度も指摘しているかと思います。
 しかしこうして当時の記事を見ていくと、当時は「女の変化に戸惑う男」というフィクションにリアリティがあったのだなと感じずにはおれません。変化したのは社会の方であり、女性では全くなかったのですが
 これは最近時々指摘する、80年代SFに登場する「超越的な異邦人としての美少女」というモチーフと、全く同じです。そこからはまさに思春期まっただ中だったオタクたちの、「女性」というマレビトに対する憧憬が感じられました。
 それと同様に本書から感じるのは、豊かさを実現したが故の「会社人間からの脱却」を志向する男たちの目に映った、「家庭」という未知の世界の「先住者」としての女性の姿であり、「会社社会へとやってきたマレビト」としての女性の姿。そうした女性たちへの過度で非現実な幻想です。
 ひるがって幼年期を終えた現代のオタク文化は、「現実の、冴えない女の子の日常」を描くまでに、よくも悪くも成熟してしまいました。同様に現代の、ある種の「男女共同参画」を成し得たぼくたちは、女性への「信心」を失ってしまっています。
 それは結局、彼女らが「日常生活の先輩としてぼくたちを導くメンター」にも「会社社会の革命者」にもなり得るだけのヴィジョンを提示できなかったからでしょう。
 本書が繰り返し「アッシー君」「ツナグ君」を持ち出していることからも、また梶原師匠の記事からも見て取れるように、彼女らの「言説」は実は、彼女らの「女のコ」としての価値によって担保されていたものだったのです。事実、ぼくがこの「アッシー君」といった一連の流行語を知ったのは、フェミニストたちが深夜番組で大はしゃぎしながら紹介しているのを見て、のことでした。
 本書には、全編に渡って印象的なイラストが挿入されます。お世辞にも上手とは言えない、言っては悪いですが女子中学生が描いたような稚拙さの、ただひたすら男をバカにする内容のイラストが延々延々と並んでいるのを見ていると、何だか胸焼けしそうになります。絵師さんの名前でググってもそれらしい人がヒットしませんし、正直プロとは思えないので、それこそ市川師匠がゼミの学生さんにでも描いてもらったのではないでしょうか。


■こういうのが延々並びます。

 ぼくには何だか、この当時のフェミニズムそのものが、やはり同様に「若い女のコによって描かれた、稚拙だが可愛らしいイラスト」だったのではないかと思えてなりません。
 しかしそんなイラストは、(当時の性を描くことで売れていった女流漫画家たちがおわコン化したように)既に萌え絵に取って代わられてしまった。
 何度も例に出しますが、山下悦子氏は『女を幸せにしない「男女共同参画社会」』において、フェミニズムの敗北を「男性が結婚しなくなったからだ」としています。
 そう、彼女らは最初から「AVギャル」だったのです。そして目先のあぶく銭を稼ぐため、「ご開帳」してしまった。学術用語で言うところの「くぱぁ」をしすぎた、そのために頼みであった「性的価値」すらも手放してしまったのです。
 一方、ネットの世界ではやはり女性たちがエロ動画で「くぱぁ」しすぎ、またツイッターでもフェミニストたちが(脳を)「くぱぁ」しすぎているのでした。
 終わり。