兵頭新児の女災対策的読書

「女災」とは「女性災害」の略、女性がそのジェンダーを濫用することで男性が被る厄災を指します。

物語の海、揺れる島

2011-04-12 19:29:44 | レビュー

 フェミまんじゅうは違憲です! フェミまんじゅうを受け取らないでください!!
 ……と、自宅NGOとして活動を展開中の兵頭新児です(パオロ・マッツァリーノ風前振り)。
 もっとも上の「元ネタ」自体は、どうもデマである可能性が大のようですけれども。
 いや、何にせよデマは許せませんね。
 デマの本質は「自分の主観と客観的事実の取り違え」です。
 ついつい(殊にネットなどでは)やってしまいがちなことですが、これをやってしまっては発言の信頼性を著しく損ねてしまいます。注意しなくてはいけませんね、お互い。
 が、この症状をこじらせると、更にまずい領域にイってしまいます。
 つまり、「イデオロギーと事実の取り違え」「自分の考え、信念と客観的事実の混同」というレベルに達してしまうのですね。


「あいつは悪者だ」
→「悪者である理由は○○をしたからだ」
→ここでデマ発覚
→「でもやつが悪者であることは間違いがないんだ」
→「悪者である理由は○○をしたからだ」
→それはデマとバレ済み
→「でもやつが悪者であることは間違いがないんだ」


 このループに入ってしまい、もはや「根拠となる事実の提示は不要」という域にまで達してしまうわけです。
 さて、今回はそんな領域にまで到達してしまった「
達人」たちについてのお話です。


 四月七日付の『東京新聞』夕刊に、「避難所の女性守れ 10日からホットライン」という記事が載りました。取材に応じたフェミニストたちは「阪神大震災などの際も性犯罪が起きているが、ほとんど明るみに出ない」「内容は明かせないが、今回の震災でも避難所でレイプ被害などが起きている」として「単身女性などが安心して眠れる女性専用室を設けるなどの配慮を求め」たと言います。
 読んでいていい気持ちはしませんでしたが、とは言え一般論として、非常事態に治安が悪化することは充分に考え得ることです。女性専用室云々といった提案の正当性は疑問ではあるものの、確かに被災地でそうしたことが起こり得ることは否定できないな、と思っておりました。
 が、ネットを眺めている内、この「阪神大震災でレイプ多発」という話自体が根拠のないデマだという書き込みが散見されるようになったのです。そのデマについて迫ったルポが本書所収の「作られた伝説〈神戸レイプ多発報道の背景〉」です。


 このルポについては既にいくつかのサイトで採り上げられているのですが、敢えてここでも要旨をまとめてみることにします。
 阪神大震災直後、多くのメディアでこの「被災地でレイプ多発」とのニュースが報道されました。しかし、兵庫県警が九五年に認知した強姦事件の件数は、前年とほとんど同じだったというのです。むろん、「震災後のごたごたで強姦事件が放置されてしまったのでは」といった推理も成り立ちますが、警察の言い分は「強姦事件の話が多く聞かれたため調べてみたが、結局は噂だけだった」というものであり、殊更に警察が怠けていた(他の事件で強姦事件にまで手が回らなかった)とも言えなさそうです。
「いや、女性はレイプされても、なかなか警察には届けないものだ」
 なるほど、確かにフェミニストはよくそう主張します。では市民団体の電話相談ではどうだ、と調べてみると、関西でよく知られた女性団体においても公的機関においても、レイプに関する相談は軒並みゼロ。「兵庫県立女性センターでは、震災後後半で一万五五三件の相談を受けた」が「レイプにかかわる相談は一件あったが、それも相談者が途中で切ってしまったので内容はわからない」とのことです。
 フェミニズム団体「ウィメンズネットこうべ」代表の正井礼子さんは取材に応じ、「四件のレイプの話を聞いていた」とおっしゃいます。しかし、丹念に聞き取ってみると、うち三件が「又聞き」の類であり、最後の一件は、無線を趣味にする正井さんの弟さんが
「○○避難所のボランティアはかわいい女の子がいるよ」というカー無線マニア同士のやりとりを偶然傍受した、というものでした。
 みなさん、大事なことなのでメモのご用意を。


 可愛い女の子の噂をすることは、レイプ未遂に該当します!!


 では、レイプ多発の噂話は、どこから出てきたのでしょうか。
 調べていくとレイプ事件の具体的事実の情報源は、Hと呼ばれるたった一人の人物であったというのです。よくありますよね、ネットでも一つの文章がコピペで無限に「拡散」されていくことが。
 ここまでレイプ事件の報告はなかったにもかかわらず、ところが、どういうわけか、このHさんが個人でやっていた電話相談の元へは、三七件ものレイプ(未遂含む)被害の相談があった、というのです。
 前述の「ウィメンズネットこうべ」はHさんを呼び、関西のフェミニズム団体を集めた集会で講演をしてもらいました。それは新聞記事になり、「神戸でレイプ多発」との話は全国へと「拡散」していったのです。
 しかし、それではこのHさんの話は、確かなものだったのでしょうか?
 ルポの後半では、いよいよラスボスたるHさんが姿を現します。
 が、彼女の応答は
虚言癖があるのでは、と思わせるほど辻褄のあわないいい加減なものでした。電話相談を始めた時期についても、電話相談の宣伝のために撒いたチラシについても、震災時の話にしても、周囲の証言と矛盾する。彼女が電話相談を受けていたというマンションの一室には、電話機は一本きり。(レイプ事件以外の相談も含め)「四ヶ月間で一六三五件もの相談を受けた」とのことですが、しかし回線が一つだけではそれは物理的に不可能だろう、と質問すると、「細かい数字は忘れた」と適当な返答をするのみ。
 全ては、Hさんの脳内で先行する「他人を癒すワタシ」というストーリーのためにでっちあげられた、「
非実在レイプ」だった。そしてそれに、「レイプ被害」の話を求めるフェミニストたちが群がり、虚から実が生まれてしまったというオチです。


 つまり、正井たちは神戸に流れる強姦の噂を確証するものがほしかった。(中略)そこに「干天の慈雨」のごとくHが飛び込んできたのだった。


 と、作者の与那原恵さんはまとめていらっしゃいます――って恵姉さん、ぶっちゃけすぎですって!!


 前述の正井礼子さんの名前でググってみました。
 ググった、一番最初の十件ばかりを見てみただけで、彼女はいまだHさんの話を「事実」として、あちこちで吹聴して回っていることがわかります。


正井さんたちが地震後に開いた相談にもさまざまな被害や相談が寄せられていたものの、公的機関や警察は一切そのことを認めようとはしませんでした。
http://shigeta.seikatsusha.net/back/item/all/1257297135.html


「レイプ事件は起きたのに、一件もなかったことにされた」
http://plaza.rakuten.co.jp/ykoyo/diary/200611140003/


しかしその後、女性ライターによって「被災地レイプ伝説の作られ方」という記事が書かれ、レイプはなかったことにされ、相談を受けたHさんや私個人も実名入りでひどいバッシングを受けた。
http://www.npo.co.jp/hanshin/10book/10-036.html


 繰り返しますが、ぼくが見てみたのは最初の十件だけです。丹念に見ていけば、一体どれだけのイベントやサイトで、彼女は男性に対するデマゴギーの流布を(それも税金をじゃぶじゃぶ使って)行っていることが明らかになるのでしょうか。


 彼女らの主張とは裏腹に、恵姉さんは(そしてぼくや、他の人々も)「レイプなど一件もなかったのだ」などとは全く言っていません。ただ、調べ得る限り、件数は例年と変わらなかった、と冷静に指摘しているだけです。
 フェミニストの中には「この年の被災地では中絶が大変増えた」との主張をなさる方もいます。ぼくも気になってちょっと調べてみたのですが、厚労省のデータは以下の通りでした(表そのものはぼくの自作です)。


「母体保護統計報告」年次・都道府県別の人工妊娠中絶件数
      全国    神戸   大阪
1993年 386807  14556  22645
1994年 364350  14656  21797
1995年 343024  13177  19739
1996年 338867  13346  19155
1997年 337799  12418  19613


 参考に全国と大阪のデータを並べてみましたが、1995年に急増したというデータはなく、基本的に最近になればなるほど中絶数が減っていることがわかります。

 ここまでくれば誰がどう見ても、不確実な情報を振り回し、風評被害を垂れ流すことの危険性は明らかです。しかしそこが、彼女らにはわからない。
 仮にこれが「朝鮮人どもがレイプしに来ているぞ」といった噂であればただちに「それはサベツだ」との声が巻き起こるでしょう。しかし、噂の主体が国籍を問わない「男性一般」となった瞬間、それは「サベツ」にはあたらなくなる。男性一般は「慮られるべき、弱者」ではないからです。
 この種の「新たなレイシズム」は今の社会を浸食するばかりですが、誰もこれに対して異を唱えられない。「弱者の敵」というレッテルは、何者にも勝る「攻撃呪文」なのですから。


●付記●


 冒頭に挙げた記事に対して『東京新聞』と、正井さん、近藤さんにメールを差し上げました。「与那原さんの本を見るに、レイプ多発はデマではないか」と。答えは近藤さんからのみ、それも残念ながら言葉を左右にするようなものしかいただけませんでした。
 ただし、性教育活動で有名な北沢杏子さんも同じ主張をなさっていたので問いあわせたところ、「震災当時、レイプ被害者から直接話を聞いている」とおっしゃっていたことは付け加えておきます。ただ、その人数については「答えられない」とおっしゃっていました。北沢さんは大変気のいい方であり、このようなことを申し上げるのは心苦しいのですが、人数すら答えられないのはちょっと……と思います。


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機動戦士ガンダム

2011-04-10 01:41:56 | アニメ・コミック・ゲーム

 前回のお話は、やはりわかりにくかったのかなぁ、と思っております。

 エントリにコメントくださった方は、(想像の域を出ませんが)或いはぼくが「ファースト『ガンダム』はニュータイプとオールドタイプの対立劇である」と主張しているように思われたのかも知れません。文章が拙く、そんな風にも読める書き方をしてしまいましたが、むろん、それはぼくの本意ではありません。

 ファーストが放映されたのは79年。日本はまだ冷戦構造下にありました。

 つまり国と国が対立して戦っている時代に、フィクションにおいて「いや、どちらの国がイイモノでどちらがワルモノかなど、簡単には言えないではないか」と主張したのがファースト『ガンダム』だったのです(これもちょっと極端すぎる解釈ですが、ひとまず我慢してください)。

 その図式は確かに先進的でしたが、とは言え、「国と国」ではなく「個と個」という文脈においてはファースト『ガンダム』も「ニュータイプ」という「わかりやすい、イイモノ」を配置してしまっているのではないか、ということです。むろん、そこで「ニュータイプ=イイモノ/オールドタイプ=ワルモノ」という図式が描かれたわけでは、全くありません。しかしオールドタイプはどこか「古い地球人」という劣った存在として描かれ、彼らは常に「ニュータイプという先進的な存在をどれだけ受け容れているか」を問われているという図式があったような……つまり比喩的に言えば「ニュータイプ」とは正義そのもの、「オールドタイプ」はそれをどれだけ理解しているかという試金石に試されている、という図式です。

 そしてそれは、劇中で悲劇的ニュータイプとしてララァ、フォオ、エルピープルなどの少女キャラが配されることも手伝い、どうしてもエコロジーフェミニズム的なムード(女性は天然自然に近く、それ故男性よりも高級である、女性の豊かな感性、感受性こそが尊いのだ、といった幼稚な価値観)を匂わせています。男性ニュータイプやニュータイプに味方するオールドタイプは差し詰め、フェミニズムに追随しようと必死な男性像、といった感じでしょうか。

 繰り返しますがぼくは「富野はフェミニストシンパであり、我々の敵だ」「作品としてファースト『ガンダム』は『SEED』に劣る」などと言っているわけではありません、上のような「深読み」も一面では可能だ、と言っているだけです。

 そもそもこうした「優れた能力を持ちながらマジョリティに抑圧されているマイノリティ」といった「ニュータイプ」観は、明らかにSFにおける「エスパー」観に影響を受けていますし、更にその「エスパー」の概念もまた、ニューエイジブームと密接に関わっていたわけです*。


*SF作家である星新一先生は自らの創作過程を明かしたエッセイで、自分が「超能力者は善玉だ」という先入観に囚われていたことを述懐しています。


 こうしたマイノリティという名の「試金石」をどんとテーブルにおいて「さあどうだ」と迫ってくるような「逆のレイシズム」はこの時代から今に至るまでを支配する、「新しい正義」であるように思えます(昨今では「石原に投票するヤツはホモ差別者だ!」と言い募るような、ホモを「人権兵器」として投入しようとする感覚、とでもいいますか。ホモは戦争の道具じゃないと思うのですけれどもね)。


 さて、ここで話はようやく「女災対策」について、に移ります。

 時々書いていますが、昨今、「男性差別」と言った言葉がネット上に散見されます(残念ですが、オフではほとんどお目にかからない言葉です)。

 しかしぼくは何度か、「男性差別」といった言葉は好きではない、との旨を書いているかと思います。

 その理由について、「フェミニズムとは『チャージマン研!』である」においては「差別」という言葉にまつわる欺瞞故だ、と述べました。

 また、そこで「男性差別」は「超光速やマイナス一兆度というものがこの世にないのと、全く同じに」この世においてはあり得ない、とも書きました。

 表現としては大変に拙いものですが、考え方としては、今も変わってはいません。

 現実に「男性差別」があるか否かは問題ではない。

 現代社会においては「男性差別」という概念その存在を認められない。それは丁度、ぼくたちの目が紫外線や赤外線を感知できないのと同様、現代社会の道徳律では「感知」が不可能なものだからです。

 現代社会の正義は、女性という試金石によって計られるものなのですから。

 それは丁度、オールドタイプを殊更にはワルモノ扱いはしなくても、「ニュータイプという試金石の前でその価値を計られる」という図式と同じだ、と考えればわかりやすいのではないでしょうか。


 ネット上で「男性差別」関連のコミュニティに集まってくる人々の間には、結構過激な、強硬策を唱える御仁もいます。

 彼らは(どういうわけか痴漢冤罪などよりも、専ら)「男性をバカにするCM」などにばかり拘泥する傾向があるように、ぼくには思われます。

 そしてとある人物はそうしたCMの制作者に対して、「社会的制裁を加える」「ネットで社名や連絡先を公表」する、「担当者個人も、自宅などを標的に」する、などと言い立て、周囲から「いくら何でもそれは名誉毀損にあたるだろう」となだめられても、「公共の利益に関わる問題の場合は、名誉毀損にはならない」のだ、と強弁していました。「男性をバカにした(と彼の主観が判断した)CMの作者の個人攻撃」が公益に適うとは、裁判所だってとても認めないと思うのですが。

 むろん、この方はこの種のコミュニティにおいても例外的な急進派です。ただ、「男性差別」に関心のある人々の間である種、大変に素朴な「平等意識」や「人権感覚」が信じられてるような気が、ぼくにはするのです。

 即ち、「この問題は紛う方なく差別だ、男女は平等である以上、エラい人に訴え出ればわかってもらえるはずだ」と。

 しかしそんな感覚にぼくは、何だか京都に行って「お茶漬け出します」と言われて、そのままニコニコお茶漬けを食ってるようなそんな危うさを感じてしまうのです。いや、ぼくも言葉の裏なんて読めない方ですけれどもね。


 上に書いたように「差別」と言う時には、まず「被差別者」が想定されているのです。「○○の扱いをすること」が差別なのでは決してありません。「○○という対象に何らかの振る舞いをすること」こそが差別なのです。

 例えば「差別」という言葉を字義通りに考えてみれば、「白人差別」という事態もあるはずなのですが、白人が青筋立てて「これは白人差別だ!」と言い立てるという光景を、ぼくたちは決して許容しないでしょう。「被差別者」は最初から、決まっているのですから。

 それは何故かと言えば、女性という概念がニュータイプという概念同様、輝かしい聖性を持ってしまっているから、なのですね。

「平等」も同様です。

「平等」というとみんなで、例えば十個のおまんじゅうを十人で仲良く分けるイメージがあります。

 が、そこに罠があります。

 おまんじゅうというのは常に、足りないものだからです。

 みんなが十人いるのにおまんじゅうは五つしかないからです。

 そこで求められるのは「この五人は可哀想だから優先しておまんじゅうをあげよう」という選択をするための大義名分をウソでもいいから考え出すことです。

「平等」とは「この人たちにおまんじゅうをあげたことは正当だ、この人たちは弱者なのだから(キリッ」というための方便なのです。

(後、これはあくまで比喩なので「一個のおまんじゅうを二つに分ければいいじゃん」というツッコミはナシです)

 つまりぼくたちにおまんじゅうが届かないのは、決してNGOが手柄を独り占めしようとストップさせているからではなく、そもそもぼくたちの手に渡ることは政治的正義に適わない、ぼくたちの手に渡ることこそ、「平等の原則に反する」からなのです。


 上の過激派の御仁は――いや、彼だけに限ったことではないのですが――「平等の原則」を一本調子に振り回して、おまんじゅうをもらおうとする、言わば「エラい人に訴え出ればおまんじゅうをゲットできる」と信じている人でした。

 おまんじゅうは何十年も前からずっとなかったというのに、今更「俺のおまんじゅうがないぞ、くれ」と言い出したみたいで正直、「言わせんなよ、恥ずかしい」と言いたくなってくるところです。

 まず、自分たちがそもそもおまんじゅうをもらえない側にいること、そもそもオールドタイプ側の陣営に(頼んでもいないのに、いつの間にか)組み込まれていることを、大前提としなければならないというのに。

 拙著にも書きましたが、十五年ほど前、90年代の半ばに、「メンズリブ」「男性解放」と呼ばれる運動がちょっとだけ話題になったことがあります。しかしこれはフェミニストの理論を鵜呑みにし、男性性を捨て、女性性という尊いものを身につけた男性だけが神に赦されて天国に行くのだという、フェミニズムのヴァリアントに過ぎませんでした。

 今の一部の「男性差別」論者も「我々にも女性に与えられているおまんじゅうを」と求めているという点で、彼らに近しいものを感じます*。

 しかしぼくたちにとって本当に大切なのは今の社会が自明としている人権感覚、「フェミまんじゅう」の正当性を疑ってみる懐疑精神なのではないでしょうか。


*事実、彼ら「強硬派」はフェミニストたちに憎悪を抱いていながら、「女性も働くべきである」と言ったそのイデオロギー、企業にクレームなどを繰り返すその方法論に対しては不思議なほど賛同の意を示すのです。


●付記●


 相変わらず冒頭の文章、こなれてないですねw

 もうちょっと補足してみます。
 ファースト『ガンダム』の中において確かにニュータイプ対オールドタイプの図式はマジンガーZ対ドクターヘルのような正義と悪の対立として描かれたわけではない。とは言え、ニュータイプの「聖性」というのは作中、ずっと貫かれていた。だから「イイモノ」のオールドタイプはニュータイプの理解者として描かれた。
 逆にシャアは(言ってみれば)ワルモノでありながら、ニュータイプであったわけですが、しかしシャアの「ワルモノ性」はまさしく「ニュータイプへの無理解」として現れていた、とも言えるわけです。
 上にもホモが「対石原戦のための人権兵器」として投入される傾向があると書きましたが、どういうわけか彼らは「石原も実はホモなのだ」と(何ら根拠なく)強弁する傾向にあり、これは
「貴様だってニュータイプだろうに!」という言葉と、完全に重なっています。


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機動戦士ガンダムSEED

2011-04-02 22:35:58 | アニメ・コミック・ゲーム

 さて、前回のエントリ、ひょっとするとですが混乱した方がいらっしゃるかも知れません。
 途中まで「なるほど」と思って読んでいたのに、オチのどんでん返しが意味不明だ、そんな感想があったかも知れません。
 そのどんでん返しこそが、ぼくの言いたかったことなのですけれど。
フェミニズムはチャージマン研である」をあわせて読むと、少しわかりやすいかも知れません。
 ぼくが言いたかったことは、要は違う時代に作られた物語を現代の価値観をそのまま適用して評価を云々することはバカらしい、ということですね。そしてその時重要なのは、必ずしも(それは例えば当時の特撮技術の低さを割り引いて考えようとするように)「当時の価値観を、寛大に割り引いてあげる」ばかりではなく、当時の作品を観ることで、「現代の価値観そのものが絶対性を持つものなのか」にも思いを馳せてみる柔軟さなのだ、ということになるかと思います。
 さて、前回のエントリでも「チャージマン」においても、ぼくは「敵をやっつけるか/受け容れるか」の対立項の中で、話を進めてきました。
 といっても、それはあくまでネタに選んだ作品のテーマに話を準えていたからであって、ここをもう少し「リアル系」な作品をネタに考え直してみるとどうでしょう。
 そう、例えば『ガンダム』を素材にしたとしたら。
 ……と意味ありげに書いておいて何ですが、実はぼくは、『ガンダム』について詳しくありません。以下に偉そうなことをずらずら書き並べ立てますが、まず最初に、それが『スパロボ』基準の知識であるということをお含み置きください。


 ここでしてみたいのはファースト『ガンダム』と『SEED』との対比です。
 言うまでもなくファースト『ガンダム』は富野由悠季監督の作り上げた、日本のアニメの金字塔とも言うべき作品です。『マジンガーZ』に代表される勧善懲悪のアクション活劇であったスーパーロボット物アニメを言わば戦争ドラマとして換骨奪胎し、正義対悪の単純明快な世界観を否定、そしてまた「正義の味方」であることを保証され、敵と戦うことに何ら迷いを見せない熱血漢の主人公を思春期独特の迷いを持つナイーブな少年へと置き換え、人間ドラマを描きました(ただし、この『マジンガー』との対比は永井豪の暴力的な世界観に負うところも大きく、円谷作品にはかつてから地球側の正義に懐疑的な作品もあり、また70年代の特撮ヒーロー物には結構、戦うことに屈折した感情を抱くヒーローが多かったこともお断りしておきます)。
 アニメ界に「思春期」をもたらしたとも言うべき『ガンダム』は登場後、そのエピゴーネンを乱発させ、今に至るまで続編の作られる人気作品となりました。
 さて、そして今世紀を迎え、言わばファースト『ガンダム』のリメイクとも言うべき形で作られたのが『ガンダムSEED』です。これはファーストとは世界観を異にし、また監督もファーストとは異なる、言わば新世紀版のファーストを目指して制作された、「アナザーガンダム」とも言うべき作品でした。
 そしてまた、本作は昔からの『ガンダム』ファンに、殊更に評判の悪い作品でもあります。ある意味では平成『仮面ライダー』同様、あまりにも腐女子に媚びたイケメン重視のキャラクターが煙たがられている面もあるようですが、必ずしもそればかりではなく、ストーリー展開や演出などにもかなりまずい点があったようです。そのため、『スパロボ』に『SEED』参戦が決まった時には、ファンのブーイングの嵐になりました。
 ところが。
 いざプレイしてみると――すみません、あくまでゲーム、『第3次スーパーロボット大戦α』をプレイした限りの感想ですが――『SEED』のシナリオ、ぼくはなかなか面白いと感じたのです。
 上にも書いたように『SEED』はファーストのリメイクであり、本家のモチーフを多分に継承しています。地球連邦とコロニーとの戦争といったモチーフもそうであり、そしてまた作中に「新人類」とも言うべき「コーディネーター」という存在が登場することもそうでしょう。
 ところが、この設定はファーストにおける「新人類」、即ち「ニュータイプ」とは全く意味あいが違うのです。
 ファースト、そしてその正統な続編である『Z』『ZZ』などといった作品のキーとなる「ニュータイプ」とは、他人と交感する能力を持つ、「古い地球人」とは異なる優れた新人類です。その能力はエゴイズムやレイシズムを乗り越え、人と人とを繋ぐ希望とも言うべきものであったはずが、しかしロボットのパイロットとしても有効利用ができるため、軍にまるで兵器のように利用されるという、両義的な存在。
 しかしここに、ぼくはちょっとした引っかかりを、覚えないでもないのです。
 リアル系の元祖であり、「勧善懲悪を廃した」と評される『ガンダム』ですが、しかし「ニュータイプ」という概念は、実のところ無批判に聖性を持った善なる者、ある種、わかりやすい「善なる被害者」「聖なるマイノリティ」として描かれているのです。作中ではニュータイプ能力に目覚めていない「古い地球人」は「オールドタイプ」と呼ばれ、ここからは明らかに「ニューエイジ」思想の影響が見て取れます。
 そして、富野監督自身ではなく若い世代のクリエイターたちがこのファーストの世界観(宇宙世紀)に則った作品を描くと、皮肉なことに決まって「ニュータイプ/オールドタイプ」の違いなど意味はない、俺たちは同じ人間だ、みたいなオチがつくことが多いように思えます(あれ? 『ZZ』もそうだっけ?)。
 ここには、イデオロギーや国家と言った文脈での善悪を否定しつつ、しかし実のところ「マイノリティは、弱者は無批判に善なる者なのだ」という、言ってみれば「今風の善悪基準」が取り入れられている、考えようによっては「安易な善悪二元論」が、見て取れなくもないのです。
 ところが、『SEED』はそうではありません。
「コーディネーター」というのはDNAを操作することによって人為的に作られた、優れた能力を持った新人類です。DNA操作を行われない旧人類は、対比して「ナチュラル」と呼ばれています。『SEED』において描かれるのは、「コーディネーター」と「ナチュラル」の世代間闘争であり、人種間戦争です(この両義性がニュータイプ/オールドタイプと同様であることに留意)。
 しかし本作において、「コーディネーター」は「優れた能力を持つが、それ故に差別と偏見に晒される聖者」であると同時に、「優れた能力を鼻にかけ、旧人類を見下す悪者」としても描かれるのです。同様に「ナチュラル」も「強者に虐げられる被害者」であると同時に、「マイノリティである新人類を気持ちの悪い異物として排除しようとする差別者」でもあります。
 いや、
ぼくの乏しい知識では何とも言い難いのですが、マジョリティ/マイノリティをそのまま強者/弱者へとスライドさせる幼稚な二元論をここまでストレートに廃して見せた作品って珍しいのではないでしょうか。
 この一点をもって、ぼくはある意味、『SEED』が極めて優れた、ある意味ではファースト『ガンダム』を超えた構造を持ち得た作品であるように思うのです。
 むろん、これはあくまでアニメ作品の一要素についてのみの評価であり、ぼくはそもそもアニメそのものを観たことがないわけですから、ここで『SEED』がファースト『ガンダム』よりも全面的に優れているのだ、と主張したいわけではありません。ただ、『SEED』の方が「より先を行った人間観」をこの一点においては持っているのだ、と言いたいのです。
(ちょっと混乱があるかも知れませんので、ここで簡単に補足。旧ドラと新ドラについては、ぼくは両者の「タカ派の世界観」も「ハト派の世界観」もどちらも否定できないものであると考えています。ただ、ファーストと『SEED』についてはその「マイノリティ」観のみをすくい取ってみれば、明らかに後者が優れていると、ぼくは考えます)


 さて、ではどうしてここまで『SEED』は優れた作品たり得たのでしょう?
 やや乱暴ですが、ぼくには「ラウ・ル・クルーゼ」がその謎を解く鍵を持っているような気がするのです。
 さて、以下はラウ・ル・クルーゼについてのネタバレになります。今時いらっしゃらないとは思うのですが、知りたくない方はお読みにならないように。
 このラウ・ル・クルーゼは言ってみればコーディネーター側のボスキャラです。明らかにシャアを意識した仮面をつけており、初めて見た時は何だかパチモンキャラのように思え、意味もなく笑ってしまいましたが。しかし彼はコーディネーター第一号であり、優れた能力を与えられて生まれてきたものの、プロトタイプであったがため肉体は急速に老化し、寿命が異常に短いという宿命を背負っていました。そのため、彼は全てを憎むようになったのです。『スパロボ』のクルーゼ戦において、
「世界を滅ぼす権利が、私にはあるのだよ!」という特殊ゼリフを叫びながら攻撃してくる様は圧巻でした。
 即ち、冷戦時代には「大きな物語」が生きていた。だから悪者は「何か、ナチスの手先」「何か、共産圏っぽい全体主義国家」にしておけば、こと足りた。
 しかし「大きな物語が終焉」を迎え、ある種、悪者は個人的なルサンチマンで動かざるを得なくなった(シャアはまだしも大義名分を信じていたと思いますが、やはり若手のクリエイターの作り出した『クロスボーンガンダム』でも、ラスボスが大義名分をかなぐり捨て、個人としての呪詛を吐き出す場面があり、象徴的に感じました)。
 即ち公から個の時代に向かうにつれ、創作の世界でも専ら人間の内面へとカメラアイが向かうようになったわけです。敵と戦う理由の見つからないシンジ君の話はその最たるものでした。
 しかしそうなると悪者の行動の源泉も内面に求められざるを得ない。そこで(それこそ「貧困」などにはリアリティを感じられない以上)虐げられた者の疎外感、それ故のルサンチマンといったものが悪者のモチベーションとして選択されることはある種、必然でした。何となれば、今の世の中で一番、価値を持っていることは「平等」、なのですから、そこから外されることが一番非人道的な扱いである、というのが今の世の中のルールだからです。
 即ち、『SEED』を例に採るとするならば、その悪役側の設定は以下のような経緯で作られたことが想像できるのです。


1.悪者のモチベーションを「マイノリティとしてのルサンチマン」というものにしよう。
 ↓
2.でも、黒人などの「ホンモノのマイノリティ」って出せないよな。
 ↓
3.登場するマイノリティはコーディネーターなどといったSF的な創作物にするしかない。言わば、架空の「
非実在弱者」「人工弱者」を生み出さざるを得ない。
 ↓
4.更に、カメラアイが個人の感情へと向かう以上、「非実在弱者」の口を突いて語られるルサンチマンも必然的に作り手の主観を反映させた、ある種のリアリティを持ったものになる。それこそ「寿命の短い人間として生み出された」といった設定上は非現実的なものであれど、そこで吐露される感情それ自体は「もっと生きたい」であるとか「(マイノリティではなく)みんなと同じ存在になりたい」とかいった、ある種、「了解可能な感情」に、必然的になってしまう。


 これは、誤解を恐れずに言ってしまえば「マイノリティの、マイノリティ性のチャラ化」「マイノリティ性の平等化」です。
 つまりこうした創作物は必然的に、「マイノリティの苦悩、苦しみは時に『悪』を生み出す。しかしその内面は、ぼくたちマジョリティである人々にも了解可能なものだよ」とのメッセージを、発することになってしまったわけです。
 これは大変なことだと、ぼくは思います。
 マイノリティの聖化は、まさにマイノリティの不可侵性、マイノリティのマイノリティ故の特権性に依ったものだからです。
 だからマイノリティの弱者性をイデオロギーに利用しようとする者は、口先では「マイノリティも我々と何ら変わることのない、同じ人間だ」と主張しますが、実はそんなことは、全く信じてはいません。
 これが例えばですが、実在弱者を取り扱った小説であればどうでしょう。白人が黒人問題を扱った小説を書くとしたらかなり神経質にならざるを得ず、一歩退いたものにならざるを得ないのではないでしょうか。女性が書いた小説は、まさに「女性が書いたこと」自体がある程度その価値を保証していることは、みなさんが実はお気づきになっている通りです。
 ここでオタク文化はSFやファンタジーと言った手法をもって、言わばそうした人権ファシズムを打破したのだ――とか言い出したら、言い過ぎでしょうか?
 前回、ぼくはとある漫画家さんの劇場版『ドラえもん』評に対して大いに噛みつきました。それは「評論」という「世間のお約束に添った言葉」を語ることがいかに作品の持つ生命力を殺していくかを実感し、憤懣やる方なかったからです。
 しかし今回ここでぼくが提示した『SEED』の例は、仮に作品としての完成度そのものは高くなくとも、そして仮に作り手が意識していなくとも、創作というのは時として、現代の硬直した「お約束」をいとも簡単に打破する力を見せるのだという一例と言っていいかと思うわけです。
 さて、今回も結論部分はいささか駆け足になってしまいました。
 正直、ここを詳しく書くのは大変なので、どうしても「ちょっとずつ」になってしまうと思うのですが、今回はこの辺で。

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