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兵頭新児の女災対策的読書

「女災」とは「女性災害」の略、女性がそのジェンダーを濫用することで男性が被る厄災を指します。

「許せない」がやめられない坂爪真吾(最終回)

2020-08-29 13:28:28 | フェミニズム


※この記事は、およそ10分(課金コンテンツを加えると15分)で読めます※

 さて、続きです。
 もし前回記事、動画をご覧になっていない方がいたら、そちらの方をご覧いただくことを強く推奨します。

【反フェミはこれ一本でおk!】風流間唯人の女災対策的読書・第11回『「許せない」がやめられない』(その2)【ゆっくり解説】


・第五章 弱者憎悪がやめられない

 ――さて、実際の本では第五章のタイトルは「ジェンダー依存がやめられない」。これに短い終章が続き、結論めいたことが書かれているので、まとめて論じましょう。
 今までさんざん好き勝手に罵ってきた本書ですが、先にも述べたように、ぼくはかなり最後の方まで、少々の期待と共に本書のページをめくっていました。
 本書はテーマをジェンダー関連のものに限っており、序章においてそれは、「万人が当事者性を持ち得る問題だから」と説明されます。
 これは本書でやり玉に挙がる「ツイフェミ」や「ツイクィア」には大いに当てはまりましょう。しかしそれはフェミニズムというものが最初から内包しているものです。
 先にも述べたとおり、「個人的なことは政治的なこと」というのがフェミニズムのキャッチフレーズです。男と女を雑に分け、男に悪とのレッテルを(まさに坂爪師匠がそうしているように)貼り、女性側に属する自分はいついかなる場合も正義だと言い続けてきたのがフェミニズムなのです。フェミニズムは、「ジェンダーに依存する資産、即ち女子力を持たない女性が、何とかジェンダーに依存しようとする過程」そのものでした。
 また一方、これは「ミソジニスト」とやらには当てはまらないでしょう。「男はエラい、女は下等」などと言っている「アンチフェミ」なんて、少なくともぼくはそうそう見ませんから。
 つまり、この「ジェンダー依存が止められない」というのは、どう考えても「ジェンダー強者」、「一人称強者」の女性にこそ多く当てはまることは疑い得なく、中でもフェミニズムはその最悪の形でした。となればこのタイトル自体に、フェミニズム批判が内包されているはずであり、そこに一定の期待をせずにはおれなかったわけです。
 まあ、そんな期待は無残に打ち砕かれ続けたわけなのですが……。
「当事者性の二次利用」、「怒りの万引き」といったキーワードもそうで、まさにフェミニストを斬る鋭利なワードであり、それらを不用意に振り回して、全てブーメランになって自分自身を斬り刻んでいるというのが、本書の最大の特徴です(何しろ本人もセックスワーカーでもないのに、その位置からの物言いをしているのですから)。
 いえそもそも、「男は当事者になれないジェンダーであった」→「ところが人権意識が浸透し、また何より男の立場が本当にどうにもならないほど弱くなったことで、とうとう、男もまた当事者性、一人称性を持ち始めた」というのが今、ネット上で起こっている現象なのであり、しかし坂爪師匠がそうした経緯を理解しているかははなはだ疑わしい。何しろ男がちょっと文句を言う度、本書ではそれらを全て「ミソジニー」の一言で切り捨てているのですから。
 ぼくは本書を読んでいて、「ネトウヨ」という言葉が出てこないのが、何だか不思議でした。が、この「ジェンダー依存」の章の最後でようやっと「彼ら彼女らはネット右翼と同じだ(282p・大意)」とのフレーズが登場します。ネトウヨが自分が日本人だという生まれながらにして持っている属性しか誇るものがないのと、ジェンダー依存症者は同じなんだそうな。
 まあ、いずれにせよ「当事者性」を錦の御旗にするのは「マイノリティ」の代表をもって任ずる者のお決まりの戦術です。だからそこを批判していれば、ぼくは坂爪師匠にも一定の評価を与えることができるのですが、本書では度々「ツイフェミは当事者でもないのに文句をつけた云々」といった記述が顔を見せ、要は「偽者が当事者を名乗ることは本物様に失礼なのでけしからぬ」なのか、「当事者性を特権として振り回すのは好ましくない」なのかが最後まではっきりしません。本人も、わからないまま筆を進めているのでしょう。

 佐賀県のネットやゲームを制限する案を盛り込んだ条例についても、語られます。前章では表現の自由クラスタの味方に思えた坂爪師匠です、さぞかし佐賀県の旧態依然とした偏見に塗れた見識を鋭く切ってくれるのだろうな……と期待していると、何とそれに対し、基本、賛成ムードなのです。
 例によって自らのスタンスについては曖昧なのですが、ともあれこのトピックスを「ゲーム依存は病気だ」という話につなげていき、同時に「SNS依存もまた」と言い出します。

 ジェンダー依存の背景にも、発達障害や精神疾患などが隠れていることがある。ツイフェミ及びアンチツイフェミには、「発達障害」「毒親」「メンヘラ」といった属性をプロフィールに明記しているアカウントが散見される。
(254p)


 はい、とうとう「俺の気に入らない者は精神病なのだ」とまで言い出しました。
 正直、どんなツイフェミの「男死ね」発言よりも、坂爪師匠の筆致の方が、ぼくには胸糞悪いです。
 また、ツイフェミのプロフには確かにそうした傾向がある気はしますが、アンチツイフェミの方はどうでしょうか。少なくともぼくは、そうした印象がありません。
 つまり、病気なのはツイフェミの方だけでは……?
 いえ、もちろんここには大前提として、プロフにそうしたことを書きたがるか否かのジェンダー差がまず、横たわっているのですが。
 後はお定まりの「あなたのジェンダー依存チェック」。
 ツイッターで「嘘を吐いたことがある」人は「ジェンダー依存」要注意w
 また、「togetterをまとめ(られ)たことがある」人もまた、要注意だそうです。
 そもそもtogetterは別に議論色、攻撃色の多いものばかりではないのですが、それには言及されません(当然、坂爪師匠自身がそうしたものしか見ていないからなのでしょう)。
 さらにそもそも、坂爪師匠は「ジェンダー依存」という言葉をひたすら振り回しますが、ジェンダーとは全く関係のない、例えば政治関連の議論、或いは趣味についての議論で熱くなってる連中についての言及は、全くありません(当然、坂爪師匠自身が「ジェンダー依存」であるがため、他のトピックスなど目にも入らないのでしょう)。
「そこは本書のテーマ上、省略しただけであり、文脈でわかろうから、言葉を尽くさなかっただけだ」ということなのかもしれませんが、とにもかくにも本書は全体的に説明不足。例えば本書のタイトルがずばり『ジェンダー依存』であれば、まあ、わからないでもないのですが……。
 また、この病気認定についても例えばですが、坂爪師匠が臨床医で、「最近、こういう症例が増えていて、そうした人たちはネット依存で……」といったところから話が始まるのであれば、一応傾聴に値しましょう。
 しかし端っから、最初っから、坂爪師匠は自分の気に入らない連中を扱き下ろし、とうとう病気だと言い立てだしたというだけなのです。香山リカ師匠が診察すらしていない(自分の気に入らない)有名人を勝手に「診断」して顰蹙を買ったことがありますが、坂爪師匠は「精神科医」ですらないのだから、それ以下でしょう。

 坂爪師匠は「社会運動のソシャゲ化」との説をぶち上げます(251p)。
 社会運動は青二才たちの「はしか」であったが、SNS時代にはは同志と群れ、NGOを作ることができる。ソシャゲが終わらない娯楽であるように、社会運動もまた、というわけです。が、先にも書いたように、この人の立場でそれを批判するのは、どうにも理解に苦しみます。
 以前の章でも時々見られたように、坂爪師匠は幾度も社会運動を批判してみせます。
 これは師匠の「ツイフェミ」評と構造が全く同じです。「ツイフェミ」に向けて投げたブーメランが自分を含むフェミニスト全体を完全否定しているのに、しかしご当人だけはそれに気づかず、スケープゴートをできたと胸を撫で下ろしている……この幾度も見た「ブーメランによる自死」が、「社会運動」を語る場においても展開されているのです。
 何しろ終章において、坂爪師匠はいきなり、自分はネットに溢れる「許せない!」との声を社会運動に昇華させますた、などと自慢を始めるのですから(291p~)。
 風俗関係者に給付がなされない法案(曖昧な表現ですが、恐らくコロナ関係の件でしょう)を、ネット署名で改めさせたぞとおおせなのですが……あれ、ということは碧志摩メグをネット署名で叩いたのも正義なんですかね? と慌てて読み返したら、やっぱり否定的に書いてありました。
 全くもって不可思議……と言いたいところですが、この節のタイトルは「「許せない」という怒りを「国に対する声」として昇華させる」。
 なあんだです。
「国に文句をつけるのであれば正義」が坂爪師匠の基準であるようです。
 いえ、確かにぼくも「ツイフェミ」など叩いても仕方がない、国家が男女共同参画局に莫大な予算を投じていることを批判することが先だ……と思いますが、それに坂爪師匠が同意するとも思われません。
 結局、「ミソジニー」と同じで、「社会運動」も、そして「ネット利用」も「自分がやれば正義/敵がやれば悪」ということのようです。

 最終章では(今まで変わり身の術ばかり使っていた)坂爪師匠本人が妙に前面に出てきて、饒舌に自分語りを始めます。
 自身も八年間、アンチにネット上で誹謗中傷を続けられていたそうで、それはご同情申し上げます。
 しかしそれに続いての口上が衝撃的です。「分析していて気づいた、一年間だけ、誹謗中傷の止んだ時期があった。その時期、相手はフェイスブックなどに恋人とのツーショット写真を掲げていた」。
 本当に、何というか、ため息が出ます。
 ぼくたちが自明視し、まず一番最初に言っていることに、長い長い本の最後の最後に至って、坂爪師匠も思い至ったようです。
 非モテのやっていることであると。
 言わば『非モテ論壇を斬る!』というタイトルの本の最後の最後で、「非モテブログ の運営者は非モテだった」とさも大発見のように、得意げに結論づけているようなものです。
 もちろん、この両者の揉めごとの詳細についてぼくは知らないし、興味もありません。坂爪師匠がどれほどの被害を受けたのか、或いは相手にも理があったのかなどは知ったことではありません。
 ただ、弱者の弱者性を、坂爪師匠はただ、嘲弄する対象でしかないと思っていることが、ここでも窺い知れたのです。
 フェミニズムが「男らしさ/女らしさ」の否定、男女関係の否定の思想である以上、それによって被る被害は「非モテ」と密接にかかわっているのは当然のことです。
「表現の自由クラスタ」はその結果萌えオタになった者の声を代弁すると称しているのだし、「ツイフェミ」はフェミのために婚期を逃した女性である可能性が高い。
 端的にはフェミニズムが、自分の生み出した非モテから逆襲を受けているというだけのことなのです。
 もちろん、その「逆襲」の中には不当なものもありましょう。坂爪師匠が被害を受けた事例に関してはおそらく、相手側に非があったのでしょう。しかしネット上の「アンチフェミ」の書き込みの多くは、そのようには思われません。
 本書は、その理路が理解できない筆者の、自分が何故怒られているんだろうとの、戸惑い顔の配信の記録だったのですが、最後の最後でようやっと、ことの次第に思い当たったようです。
 いや……坂爪師匠がその結果、反省してフェミニズム信仰を止める、というオチがつくわけでは、残念ながらないのですが。
 何しろ坂爪師匠は

 裁判の結果、被告の年収に匹敵する金額を和解金として支払ってもらうことで決着がついた。被告側の弁護士費用も含めれば、確実に生活が破綻するレベルの経済的打撃になったと思われる。
(299~300p)


 などと随喜の涙を迸らせながら、語っているのですから。
 本書は「ネット民けしからんですよね」と言っているだけだ、といった説明は動画でもしました。その本音が、まとめに入っていよいよ露わになっていく様子がご覧いただけたかと思います。
 しかしでは、師匠はどうしてここまでネット民に対して「許せない」がやめられずにいるのでしょうか……?
 以降はnoteでカネを取ってご説明申し上げるのですが、あ、いや、何、結論はいつも言ってるようなことです。
 もし興味がおありの場合は、以下をクリックして、どうぞnoteをご覧ください。

・終章「マインドコントロール」から「ポア」へ

「許せない」がやめられない坂爪真吾(その2)

2020-08-16 14:56:29 | フェミニズム



※この記事は、およそ11分で読めます※


 さて、続きです。
 もし前回記事、動画をご覧になっていない方がいたら、そちらの方をご覧いただくことを強く推奨します。



 さて、今回採り挙げるのは第二章と第四章。前回、これらの章タイトルが、

第二章 男が許せない
第四章 性表現(規制)が許せない


 とされているが、実際には


第二章 ツイフェミが許せない
第四章 エロ規制が許せない


 とすべき、と指摘したように、実質的にこれらは両方とも「ツイフェミ叩き」章だからです。
 というわけで、少々長くなりましたが、道のりはまだ長い。
 ガンバって書いたので、ガンバって読んでいただけると幸いです。

・第二章 ツイフェミが許せない

 ――さて、第一章ではさんざん「ミソジニスト」(とやらいう、この世に存在しているかも疑わしい存在)への罵倒が並べられた本書ですが、第二章においては「ツイフェミ」(とやらいう、この世に存在しているかも疑わしい存在)への怒りが綴られます。
 これを聞いて、「お? 期待できるか?」と思った方も結構いるのではないでしょうか。
 しかし、対象はあくまで「ツイフェミ」であり、「フェミ」ではない。
 近年、ぼくが「ツイフェミ」に同情的な物言いをするのを聞いた方もいらっしゃるかと思います。「ツイフェミ」と「フェミニスト」の差異などこの世には存在せず、「ツイフェミ」という言葉そのものが、ただフェミニスト様が恋しくて恋しくてならぬ者によって、「真のフェミ」を免責するスケープゴートをでっち上げるために作られた言葉だからだ――ぼくがこの言葉が作られた時からずっと言ってきたことを、本章は実証するものとなっているのです。
 呆れたことに本章では、東京医大の不正入試の件に「ツイフェミ」が怒ったことでさえ、「怒りの全体化」だと否定されます。上野千鶴子師匠だって怒りを表明していたわけで、そうなると上野師匠もツイフェミなのか、と思ったのですが、どうもそれは違うようです。
 フェミニズムのキャッチフレーズに「個人的なことは政治的なこと」というのがあります。坂爪師匠もこれを引用し、しかしこれは一歩間違えると「私怨」を「社会的」に燃え立たせる口実になるぞ、と腐します。
 正論だと思いますが、そうなると「ツイフェミ」が悪いのではなく、そもそもの「フェミニズム」が最初っから間違っていたとするのが、正しいのではないでしょうか。
 また、何をもって私怨を社会化しているとすべきか、その判断基準は極めて曖昧です。上の件についても「上野師匠の文句はこれこれの意味で正当である、しかしツイフェミはこれこれの理由で不当だ」と一言あってしかるべきでしょう。しかしこの問題について、坂爪師匠はそもそも上野師匠の名前を挙げることすらないままに、話題を次へと移していきます(坂爪師匠は上野師匠に薫陶を受けており、彼女に逆らえるはずもないのです)。
 もっとも、これには補足が必要でしょう。本章で採り挙げられるのは岡村の炎上の件など、イデオロギーを置いても(フェミニズムが100%正しいと仮定しても)行きすぎだと言わざるを得ないケースが多い。坂爪師匠の主張はそうした過剰な個人攻撃への批判という、そこだけすくい取れば、納得せざるを得ないものです。
 しかし、だからこそこの二章は本書の思想的ダメさを大いに示しているといえます。
 上野師匠こそ暴言女王といってもいいような人物。いえ、フェミというのは(ツイフェミのみならず)基本、相手を口汚く罵るものです。そもそもフェミそのものが「差別されてきた者の逆襲」という「復讐史観」から成り立っており、それをよいこととして認める傾向にあるのです。
 ツイフェミとフェミニストに一切の差はないと、ぼくが常日頃から言っているのはそのためです。
 それでも敢えて「ツイフェミ」の問題点を挙げるとするならば、やはり「一人に対して大挙すること」でしょう。しかしこれとて個人個人がやっていること。主観では、「群れなし襲っている」感覚は(ネットではなおさらのこと)希薄であり、デモをやって喜ぶ「オフフェミ」よりマシだといえなくもない。
 これを否定するとなると、ネットという誰もが情報の発信者になることのできるシステムの全否定ともいえ、また突き詰めると「大衆はモノを言うな」といった主張にもなりかねない。
「みんなでマナーを守ろう」くらいしか、言えることはないのです。

 何しろ、坂爪師匠は北原みのり師匠をもツイフェミ扱いします(そう明言する箇所はありませんが、流れからは同一視しているとしか、考えようがありません)。
 北原師匠は矯風会をリスペクトしており、矯風会は「かつてから存在していたツイフェミ的なるもの」なのだそうです。坂爪師匠はホワイトハンズというセックスワーカー問題に取り組むNGOの代表を務めており、矯風会がお嫌いなのでしょうが、こうなるとツイフェミの定義すらもメチャクチャです。
 北原師匠、言うまでもなく(学術的な地位はないものの)いくつも著作があり、本書の記述にもあるように、『日本のフェミニズム』という、フェミ的にかなり重要な書を編んでもいるんですけどね。それに上野師匠とも交友関係があるし、上野師匠だって売春はなくすべきと言っているんですが……。
 石川優実師匠もツイフェミです(これ自体は四章で言及されることですが)。
 確かに石川師匠はネットで大いに暴れている方ですが、まずあの人の著作や主張は、編集者など、ブレーンとなる人物、つまり出版社側の意向が強いと想像でき、また「クソリプ」を捏造するなど、その論調はある意味、ネットを悪だとする坂爪師匠と近しいもの(師匠自身もここを認識し、ツイッターで言い訳めいたことを言っていました)。
 結局、「自分にとって都合の悪いフェミ」を、切り捨てようとしているだけなのです。

 さらに驚くべきことには、坂爪師匠は「ツイフェミの最大の憎悪の対象はフェミニズムそのものだ」と主張するのですから。著名なフェミニストの記事などがよくツイフェミによって炎上するのだそうです(ぼくにはあんまりそういう印象がないんですが)。
 まあ、フェミなんて内輪もめばっかりやってる連中なんだから、そうかもなあとしか思えませんが、さらにさらに呆れたことに師匠はツイフェミは「主流派になれなかった中高年のフェミニスト」が多いと言います。成功できなかった者の怨念がツイフェミを動かしているのだそうです。


 ツイフェミ化した中高年女性のアカウントの中には、フェミニズムや社会運動の世界で主流派になれなかった人が少なくない。修士課程や博士課程で中退・挫折した人、アカデミックポストを得られなかった人、社会活動や労働組合、当事者団体への運営に失敗したと公言している人が散見される。
(111p)



 いっそさわやかなまでの、弱者への憎悪が光ります。
 以前も松山せいじ師匠の言葉として、近しい説を紹介しました(その時は「行き遅れ」といった側面が強調されていましたが)。そしておそらくこれらは、正しい。しかしだからこそそれを嘲笑うかのような坂爪師匠の筆致には、背筋が凍るのを感じずにはおれません。
 さらに呆れ果てたことに、師匠は「ヒステリックなわめき」でしかなかった女の声を言語化したのが上野師匠を始めとしたフェミニストだったのだとまで主張します。
 左派とは、「大衆を憎む選民主義者」であり、左派がフェミニストに思慕を募らせるのはフェミニストを「エリート女性」だと勘違いしているからなのですが、そこをここまであどけなく吐露した文章を、ぼくは初めて読みました。 
 本書を読んでもミソジニストの定義は書かれていませんが、一つだけはっきりしていることがあります。
 ミソジニストとは、坂爪師匠(に代表される、左派)のことです
 本章の批判対象が、もし「フェミニズム」そのものであったなら、ぼくは師匠を大いに褒めたでしょう。
 しかし師匠は「ツイフェミ」と「フェミニスト」を「分断」しながら、しかしその両者のどこが根本的に違うのかを語らない(ないし、語ろうとして失敗している)。
 北原師匠や石川師匠までが「ツイフェミ」なら、もう誰が「真のフェミ」なのかわからない。
 これはぼくたちが、「表現の自由クラスタ」の言動として、非常に見慣れたものではないでしょうか。

・第四章 エロ規制が許せない

 ツイフェミ叩き、第二回戦です。
 本章では『宇崎ちゃん』問題や、それ以前の萌え絵を中心とした炎上事件が総花的に語られます(オタクとは関係のない会田誠の絵画展が「全ての発端」として仰々しく挙げられているのは、何か笑っちゃいますが)。
 ここでは「表現の自由クラスタ」のことを「ツイッターバーサーカー」と称し、「ツイッターアマゾネスvsツイッターバーサーカー」といった節タイトルがあったり(前者はツイフェミのことですね)、またフェミニスト側の「女性差別」という言い分と表現の自由クラスタの「表現の自由」という言い分が噛みあってないと指摘するなど、一見中立っぽく見えるのですが、やはり基本は「表現の自由クラスタ」に親和的。
 その意味で、他の章に比べて比較的、頷ける主張もなされます。
「規制派」がクレームによってポスターを撤去させるなどの「成功体験」から図に乗ったのだなど、「社会運動」の負の側面が指摘されている部分もなかなかいいのですが、しかしNGOの代表がそれを言うのはどうなんだとの疑問が、またしても頭をもたげます。
 また、「オタクの立場が弱いので叩きやすいのだ」といった指摘もあり、山口貴士、ろくでなし子、柴田英里各師匠といった「お察し」な面々の名を(この人の文章は全編に渡って本人のスタンスが曖昧模糊としていて理解しづらいのですが、恐らく)肯定的に採り挙げたりもしています。

 ただ、肝心の「萌えキャラ、ないしエロは女性差別だ」とのフェミニズムの第一義に対する坂爪師匠のスタンスは、明示されません。
 ツイフェミや表現の自由クラスタの言い分を延々と並べ、その陰に隠れて折に触れて「ツイフェミ」を攻撃しつつ、問題の根本についてはついぞ立場を明確にしない……というのが本章における坂爪師匠のスタイルです。
 フェミニズムを正しいとするならば、当然、「ツイフェミ」の「萌えキャラバッシング」を支持しなければならない。その矛盾から身をかわし、第三者面をし続ける。
 もちろん言うまでもなく、ここは青識亜論を代表とする表現の自由クラスタにも共通した点で、ぼくが彼ら彼女らを信頼できないとする、一番大きな理由でもあります。

 ――しかし、ともあれ、坂爪師匠はオタクの味方とは言えるんじゃないか。

 う~ん、そこがどうも微妙なんですね。
 何しろここでは、「オタクは右派と親和性がある」とのお約束の物言いがなされています(203p)。その理由として出されるのが、「オタクはロボットアニメなどバトル物が好きだから」という、もう、数十年ぶりに聞いたような、バッカみたいなもの。
 いえ、それだけではなく、フィクションを楽しむ、言わば全てを「ネタ」とする相対主義は、「教条的な」リベラルと親和性が低く、また「歴史修正主義」である右派との親和性が高いとの、トンデモない主張もなされます(204p~)。
 スゴすぎます。
 まあ、「右派は歴史修正主義者である」というのは、この人にとっては絶対に動かせない「真理」なのでしょうから、そこは置きましょう。しかし普通に考えて、「価値相対主義」は本来、リベラルの武器だったはずだし、仮に右派が歴史を修正したとしても、修正後の歴史は絶対視されるというのが坂爪師匠の言い分のはず。全くリクツにあっていないのです。
 また、ここで師匠は国家そのものが幻想である以上、歴史もまたある種のフィクションであるとし、以下のように言います。


 こうした保守派のスタンスに対して、「実証性が欠如している」「歴史修正主義だ」という批判をしたところで、あまり意味はない。左派の得意技であるファクトチェックに基づく批判が効かないのだ。
(203p)


 さすがにここにはひっくり返りました。
 頭に一本も毛が残ってないヤツが「俺はハゲじゃない」と言い張ってるようなものです。一体全体、何を食べて育てばここまでも輝かしい自己イメージを保ち続けることができるのか。
 また、オタクはオカマとも親和性があるとも書かれます。その理由は……はい、ご想像通り、女装コスプレや男の娘ですw
 リアルな女装者が「男の娘」を自称するのをオタクが苦々しく思っているなど、常識なのですが、表のメディアには決して伝わりません。それは、言うまでもなく表のメディアでは「オカマ絶対正義論」が揺らがぬ真理と捉えられており、オタクも世間のコンセンサスに沿った言説を吐かざるを得ないからです。
 この二点(「オタク右派論」、「オタクはオカマが好き論」)は挿話的に語られるのみで、正直、全体的に解釈に苦しむ部分の多い本書の中でも特に意味不明なのですが(そしてまた、普通に考えればこの二つの主張にはあまり親和性がないのですが)、前者は本音をポロリと漏らしたもの、後者は取り敢えずPCに則った発言をしてみたものと想像できます。
 つまり、「オタク右派(というか、ノンポリ)」は、坂爪師匠の中の位置づけとしては、「ツイフェミ」と同じであるように思われるのです。
 師匠は実のところ女性やフェミニストの中でも地位の低い者たちを深く憎悪軽蔑しつつ、政治的理由からフェミを持ち上げている。それと同様、大衆としてのオタクは深く憎悪軽蔑しつつ、業界に近いオタク、つまり「表現の自由クラスタ」のことは政治的な理由から擁護している。
 それが、この文章から仄見えているのではないでしょうか。

【反フェミはこれ一本でおk!】風流間唯人の女災対策的読書・第11回『「許せない」がやめられない』(その2)【ゆっくり解説】

2020-08-08 22:22:57 | フェミニズム
【反フェミはこれ一本でおk!】風流間唯人の女災対策的読書・第11回『「許せない」がやめられない』(その2)【ゆっくり解説】


 風流間唯人の女災対策的読書、第十一回。
 前回の解説では著者の「ミソジニスト」(とやらいう、実在が疑わしいもの)への怒りをご紹介しましたが、今回は著者の「ツイフェミ」(とやらいう、実在が疑わしいもの)への怒りをご紹介します。
 当ブログでも前後して、さらに詳しく本書の悪質さを分析していますので、そちらも併せてごらんください。


【反フェミはこれ一本でおk!】風流間唯人の女災対策的読書・第10回『「許せない」がやめられない』【ゆっくり解説】

2020-07-26 19:46:12 | フェミニズム

 風流間唯人の女災対策的読書も、第十回の大台です。
 さて、今回のやり玉に挙がったのは、ネット世論の総評……というかバイアスによって書き換えを志向した、とある本。
 白饅頭すら否定するこの本を、すももが誉めてたんですよね……。





 正直、youtuberとして収入を得る、などは夢のまた夢の状況ですが、YOUTUBEの方は登録していただく、高評価ボタンを押していただく、コメントをつけていただくことで再生数が上がるようです。
 また、当動画で『ぼくたちの女災社会』に興味を持っていただけたら、kindleでお買い求めいただければ幸いです。
 どうぞよろしくお願いいたします。

「オタクコンテンツにエシカル消費はいらない ~青識亜論のネチネチnote~」を読む

2020-07-10 14:33:19 | フェミニズム


※この記事は、およそ10分で読めます※

 少し前、白饅頭が以下のようなことを言っていました。

現代ビジネスでオタク叩くフェミニストは丸尾さんの功績によりめちゃくちゃたくさんいますが、オタク側の論客はゼロです。オタクたちよ、努力が足りない。我こそはという者、きちんとnoteやブログで文章をリリースして名を上げ、メジャーなメディアでの発言権を得るんだ。

https://twitter.com/terrakei07/status/1277085323193798656


 何かこの人、こういうの好きですよね。すもものことも「育ててみよう」とか言ってたし。
 で、この「丸尾さん」も何なのかわからんのですが、「現代ビジネス」というのは白饅頭がよく書いてる講談社のサイトであるとようやっと気づきました。ちらっと見てみるとやたらとフェミ関連の記事が多いんですよね。
 本当、ぼくがどれだけ口を酸っぱくしようと、こうした大手メディアではただフェミニズムを延命させるための空疎な言い訳ばかりが繰り返され、そんな無内容な記事の量産でフェミニストたちは相も変わらず小銭を稼ぎ続ける……という状況に無力感を覚え、最近はあんまりこうした記事も読む気がしません。白饅頭の言がそれを証明していますよね、表のメディアでは結局はフェミ側の有利な立ち位置からの、事実を捻じ曲げた抗弁のみが流布されるばかりだと(反フェミの論客が白饅頭のお眼鏡に適うか、ということはまあ、別として……)。
 そんなわけで白饅頭の書くものも含め、あんまり読む気にもなれず、今まであまり見てなかったのですが。

・フェミの表現規制を隠蔽することが、二人の初めての共同作業となります

 さて、そんな時代の最先端を行くサイト、「現代ビジネス」で中村香住師匠「「オタク」であり「フェミニスト」でもある私が、日々感じている葛藤」という記事がバズりました。
 表題からも「フェミ側からの、オタクへの懐柔策」という性質が見て取れ、また青識亜論がnoteで「返歌」を返しているという状況に興味を覚え、ぼくも重い腰を上げ、ちょっとまとめておこうかと思い立ちました。
 しかし何というか、左派の人たちって、いつからか仲間内でのプロレス……というよりはじゃれあいを人様に見せ、おひねりをもらうだけが仕事になってますね。

 中村師匠の言い分を簡単にまとめると、師匠はフェミニスト(でありレズビアン)であると共にオタク。いわゆる男性向けの萌え作品が好きで、その葛藤に悩んでいる。しかし、「フェミはオタク文化をつぶそうとしている」「性表現を規制しようとしている」というのはオタク側の妄想である。
 まあ、耳にタコができるほどに聞き飽きた、事実の反映がほとんどない意見、略して「デタラメ」ですね。こんなので原稿料が入るのだから本当、羨ましい限りです。
 ちなみに、中村師匠の「オタク」定義は「女性演者や女性キャラクターがメインとして登場するコンテンツを一般の人よりも高い熱量をもって愛好し、追いかけている人」であり、「オタク」というより「萌え」という感じがしますが、オタクvsフェミのバトルという状況下においては概ね納得のできる定義です。
(そういうわけで以下、本稿では「オタク」という言葉の代わりに、「萌え」という言葉を多用します)
 これに対して青識は、今までフェミニストたちはキズナアイ、宇崎ちゃんを性差別であるとしていたではないか、それをスルーしてフェミを免罪しようとする中村師匠はアンフェアだと批判します。
 これはもちろん、大変納得のいく意見です。
 ここまでならぼくも、青識に諸手を挙げて賛意を示します。
(ただ、中村師匠は「フェミは法規制を望んでいない」という言い方をしており、また青識は摩訶不思議なことにそこを見事にスルーしているのですが、この辺りへのツッコミはまた次回に回しましょう)
 そして青識はフェミニストのオタクへの攻撃の例として、すももの作った表を得意げに引用します。



 2014年の人工知能学会の会誌を筆頭にした、「フェミにいちゃもんをつけられた表現」一覧です。
 すももがこの表を作成した時にも言ったのですが、これはあまり評価できません。
 というのも、これが以前の、70~90年代のフェミニストたちのミスコンや街頭ポスター、CMなどへのいちゃもんなどをスルーしているからです。その意味では、この表は「十年前までは(真の)フェミは味方だった、(ツイ)フェミがこの十年、我々を攻撃し出したのだ」という表現の自由クラスタの「偽史」に寄り添うものになっています。
 まあ、この辺は確信犯で過去を隠蔽しているのではなく、単に何も知らないだけなんでしょうが、悪意を持ってみれば、「ツイフェミ」に責を負わせて本来のフェミを延命しようとしているのかな……と思えなくもありません。
(もしぼくの文章を初めてごらんになる方がいたら、勘繰りすぎだと怪訝に思われるかもしれません。しかし近年青識が「フェミニスト」を自称し始めたことからもわかるように、ぼくが表現の自由クラスタと呼ぶような人々の目的意識はただひたすら、自分たちのガールフレンドであるフェミニストたちを延命させること、ただその一点にのみ向けられていると言っても過言ではないのです。以下をお読みいただければそれはご理解いただけましょう)

 青識が近年、ぬけぬけと「フェミニスト」を自称し出したのには呆れましたが、本稿においても(後に引用するように)それが邪気なく繰り返されています。
 しかし一体全体どうしたわけか、彼は中村師匠を

 にもかかわらず、私が当該記事を問題視しているのは、一部フェミニストによる「性的『消費』批判」を無批判に採用している点にある。


 と批判します。
「性的『消費』批判」をしないフェミニストなど、彼の描いた屏風の中にしかいないと思うのですが、青識はそうでない者を「一部」だと言い張るのです。
 彼はまた

 そのような葛藤を私たちに植え付けてきたのは、何の根拠も脈絡もない「差別」や「性搾取」や「暴力性」をオタクコンテンツに見出してきた似非フェミニズム的言説にほかならない。


 とも言います。
「女性ジェンダーの強調はまかりならぬ」との、まさにフェミニズムそのものの論調に対して、「似非」などと呼びつける様は滑稽であり、卑怯であり、愚劣です
 青識は中村師匠がツイフェミの罪状をスルーしていることをアンフェアだと糾弾しますが、自分は本来のフェミの罪状を、必死で隠蔽しているのです。

・「性的消費」「性的客体化」「性的モノ化」と三つの「性」を送りたいと思います

 さて、中村師匠のもう一つの主張は、「オタクとフェミニストは両立し得る」というもの。青識はそこに諸手を挙げて絶賛の意を示し、そして先にも引用したようにしかし師匠は「萌え」を「性的消費」だと称するのでけしからん、と続けるのです。
 そんなこと言ったってアナタ、「性的消費」って言葉は「萌え愛好」とほぼ同義でしょうに(萌えは架空のキャラへの愛好であり、本稿では話題をそこに絞りますが、中村師匠の定義はご丁寧にも「女性演者」として実在の女性をもそこに加えてしまっており、実写の映画女優、グラビアアイドルに対しても全く同様のことが当てはまりましょう)。
 青識は中村師匠の主張を以下のようにまとめます。

① フェミニストは表現規制を要求しているのではなく、オタク表現が「性的客体化」によって女性差別に加担することを批判している。

② オタクコンテンツは女性演者または女性キャラクターを「まなざす」ものである以上、「客体化」という批判は免れがたい。

③ 消費されるために作られたものとはいえ、女性が主体的に活躍する作品は、女性の自立や連帯をエンパワメントするものともなりうる。

④ オタクコンテンツの消費に内在しうる暴力性を自戒しつつ、より「まし」な消費の仕方を考えられないだろうか。


「萌え」が「性的客体化」であるというのは(上の「性的消費」同様)「真」でしょう。
 だから仮にそれが悪だというならば、「萌え」は「悪そのもの」という他はない。
 しかし青識は、萌えは「女性の性的客体化(まなざされる側)」、や「女性性の消費」とは異なると言い出します。
 どうも江口聡師匠によれば、「性的客体化」とは「強制性があった場合」に適用される概念なのだそうです。
 そもそも「性的消費」と「性的客体化」の違いも判然としませんが、青識自身がこれらをいっしょくたに論じているので、ここではぼくもそれに準じます。
(また、厳密には江口師匠は「性的客体化」ではなく「性的モノ化」と呼んでいますが、これは翻訳が違うだけで同一の言葉です)
 つまり、「性的客体化≒性的モノ化≒性的消費」であり、その本質は「そこに強制性≒手段性があること」ということにまず、なります。
 ともあれ、青識が言うには萌えにはこうした(基本的には)強制性がない以上、性的消費、性的客体化とやらいう「ケチカラン表現」ではないのだということです。
 また、彼は中村師匠の

その「消費」に内在しかねない暴力性については、つねに考えていなければならないとも自戒する。

しかし、「消費」自体をやめることはできないとしても、少しでも「まし」な消費の仕方を考えられないだろうか。


 といった主張に批判を加えます。

 性的客体化の話をしていたと思ったら、急に「暴力性」の話が出てくるのである。

 これには多くの人が首をかしげたのではないだろうか。


 え……?
 江口師匠によれば、「性的客体化」には「強制性」が伴うのだから、それは「暴力」そのものでしょう。
 もちろん、青識自身は萌えは「性的消費」でも「性的客体化」でもない、としているけれども、中村師匠はそう考えているのだから、この批判は奇妙というか、青識自身があまり師匠の考えを吞み込めていないのではと思えます。
 いえ、まあ、ぼくも萌えをケチカランものと考えているわけではないので、結論だけを考えれば、ひとまず青識と同意見ではあるのですが。

 しかし青識が論拠にする江口師匠の説明はマーサ・ヌスバウム師匠というフェミニストの論文を下敷きにしたもの。さらにそもそもこの「性的客体化」という言葉自体は、マッキノン師匠やドウォーキン師匠が提唱したものなのです。ヌスバウム師匠の分析がガクモンの世界で定説とされているのか、フェミニズムがそれを共有しているのか、ぼくにはよくわかりませんが(中村稿にも名前が出てくるので、それなりにメジャーではあるのでしょうが)、江口師匠の説明を見ると、

(1) 他人を道具・手段として使用する
(2) 自己決定を尊重しない
(3) 主体性・能動性を認めず常に受け身の存在と見なす
(4) 他と置き換え可能なものと見る
(5) 壊したり侵入したりしてもよいものとみなす
(6) 誰かの「所有物」であり売買可能なものであると考える
(7) 当人の感情などを尊重しない
(8) 女性をその身体やルックスに還元してしまう
(9)エロチックな写真などでは、女性は体全体を鑑賞されるだけでなく、胸や腰や脚などの特に性的な部分・パーツに分けられ、その部分だけを鑑賞される

 と、随分といろいろな状況が「性的客体化」に当てはまり、そりゃ、理屈をこねればあらゆる表現は何かしら「性的客体化」に仕立て上げられるだろうなとの印象を強くします(ただしこの(8)、(9)はヌスバウム師匠が言ったことなのかどうかは今一判然としません)。
 見ていくと、青識はここから恣意的にセレクトした(2)や(3)や(7)を持ち出し、そこに反していないからいいのだと強弁しているのだとわかります。
 そこだけでも非道い話ですが、何より非道いのは青識が頑なに「性的客体化」という概念自体は「あるもの」として守ろうとしていること。
 そんな、ドウォーキン師匠、マッキノン師匠発の概念など、一笑に伏せば済むはずなのに。
 そう、以前のペド議論*の時に「ヘイト」という概念自体は頑なに守ろうとしたのと全く同じに、青識がしているのは毎度おなじみ、フェミニズムへの恭順な服従の誓い、以外の何物でもないのです。

* ペドっ子大作戦――青識亜論「論点整理:少女型ラブドール規制論」を読む


・お色直しのため、しばし中座させていただきます

 ――え~と、まあ、いつものことなのですが、一回ではまとまりきりそうにありません。
 日曜辺りに続編をうpできればと思っていますので、ともあれ今回はこの辺りで……。