兵頭新児の女災対策的読書

「女災」とは「女性災害」の略、女性がそのジェンダーを濫用することで男性が被る厄災を指します。

『女災』余話

2010-02-28 01:40:14 | 余話

 さて、ネタがないので今回は拙著『ぼくたちの女災社会』出版の余波などについて。

 1.

 まずは上の雑誌に掲載された、山崎浩一さんによるレビュー。
 お読みいただければわかる通り、拙著では山崎浩一さんの名著『
男女論』が大いに引用されています。本田透さん、小浜逸郎さんの著作からの引用も大変に多いのですが、山崎さんに至っては期せずして序論と結論の多くを『男女論』からの引用に依っており、また思想的中核とも言える「正しい差別」論(現代の女尊男卑的状況の本質は、「男は強者だから、叩いていいのだ」という口実で、男の中から弱者を選りすぐって差別することにこそあるということ)すらもが山崎さんのコラムがヒントになっています。
 その意味で、このレビューを読んだ時は嬉しさが1/3、恥ずかしさが1/3、パクリがバレたじゃねーかヤベぇというのが1/3といった、非常に複雑な気分でした。
 ただこのレビューでは、山崎さんは拙著を評価してくださりつつも、


 が、それでも著者が言うほど私個人は女たちに絶望などしていない。


 とまとめておいででした。
 考えると、山崎さんとしてはぼくに一言、言っておきたかったのかも知れません。何しろぼくは山崎さんの二十年前の文章と現在の文章をコラージュして、「山崎はこんなに女に失望しているのだ」などと強弁していたのですから、極悪です。JARO呼んで来いって感じです。
 しかし、とは言え、同時に思うのです。
 山崎さんは最近の文章で、


 フェミニズムは実は女を資本主義に呪縛し、男を家庭から自由にしてくれる男性解放運動だったのである。


 ともおっしゃっていました。フェミニズム運動の結果、女性が婚期を逃して焦りつつある現状を皮肉ってこう書かれたわけです。あまりの痛烈さについ拙著でも引用してしまったのですが、上のレビューにおいて、やはり山崎さんは同じことをそのまま繰り返していらっしゃったのです。
 こうまで痛烈な筆致を目にすると、ついついぼくの方まで同じことを繰り返したくなってきます。即ち、


 山崎さんが女という存在にいかにほとほと失望しているかが手に取るように分かるではないですか。


 と……。


 2.


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 拙著をモチーフにした動画ですw
 何バージョンかあるようですが、youtubeで公開されているものが目下のところ最終バージョンみたいです。レナちゃんがバージョン毎に変わってるのは何か意味があるのでしょうかw
 内容としては見ていただければわかる通り、拙著を過不足なく的確にまとめている感じなのですが、白眉はセクハラ冤罪の一例として『ハルヒ』の名シーンが挿入されているところです。
 ご存じの方も多いでしょうが、このアニメ(及び原作の小説)ではヒロインであるハルヒが学校のPC部の部員にセクハラ冤罪を着せるぞと脅してPCを奪い取るシーンがギャグとして描かれております。それがこの動画では「女災の一例」として紹介されているわけですね。むろん、『ハルヒ』そのものはフィクションです。そこにインモラルな描写がなされていたからといって、ぼく自身は文句をつける気はありません。そもそもハルヒというキャラクター自身、「清廉潔白な正義の味方」と設定されているわけでは全くありませんし。
 しかし、少し考えてみたいのはこれを男女逆転されたらどうか、ということです。少年キャラクターが少女キャラクターに対し、「
レイプするぞ」と脅して対価を求めるシーンがアニメで描かれたら、果たして観ている側は「お笑い」で済ませるかどうか。むろん、少女向けの「ティーンズコミック」でなら類似の描写は掃いて捨てるほど溢れていることでしょうが、それはあくまで読み手の少女たちの「性的興奮」のために描かれたものであって、「お笑い」のために描かれたものではないわけです。
 ぼく自身は過度にフィクションに文句をつける類の「運動」の仕方はすべきでないと思っています。一つには「表現の自由」が云々といった反論が必ず立ち現れ、問題が複雑化するからというのもありますが、結局は「虚構よりも現実の方が凄惨かつ、プライオリティが高いから」です。
 とは言え、上のようなシーンを「お笑い」として捉えてしまう感覚、それがぼくたちの精神内に(プリインストールされているのか「社会からのすり込み」かは知りませんが、とにもかくにも)アンインストールし難い形で刻み込まれていること、それ自体に対してはもう少し自覚的であってもいいように思います。


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大人問題

2010-02-20 17:03:43 | レビュー

 拙著に小浜逸郎さんの著作が大いに引用されていることからもわかるように、ぼくは小浜さんの著作に多くのインスパイアを受けています。中でも『男はどこにいるのか』は「男性論」の分野においての、古典的名著と言っていいと思います。
 小浜さんは正しく(政治的な意味あいのそれではなく、字義通りの意味での)「保守」だと思います。何かの著作で彼が「普通を尊ぶ思想家」と表現されていたことからもそれは伺え、彼の鋭い舌鋒はインテリ層の中の空疎な新しがり屋たちへと、専ら向けられます。
 ただ、やはり「保守」というのは当然、一方では悪しき現状をも肯定してしまい兼ねない側面があることもまた、事実でしょう。
 さて、本書です。
 この中の「男に純愛は可能か」を読んで、ぼくは「おやおや」と思わざるを得ませんでした。
 まず、大前提として小浜さんはこう述べます。


 女性は「エロスの宝」を自らの身体(ただの肉体ではない)に内蔵しており、それを男性に向かっていかにうまく表現するかによって性愛能力が試されるのであり、逆に男性はその宝をいかにうまく手に入れようとするかというところで性愛能力が試されるのである。


 ヲタ的に表現するならば「男性は責め、女性は受け」ということです。
 まあそもそもこんな自明なことが「コンセンサス」として定着しておらず、わざわざ特定の作家の著作から引用せねばならないこと自体が、いかに他の作家たちのレベルが低いかということなんですが。
 そしてまた、小浜さんはこうも言います。では男性の方が一方的に主導権を握っていて「強い/偉い/得な」のかと言えば、それはそうではない。男を受け容れるかどうかの許諾権を専ら女が握っていることを考えれば、女の方が「強い/偉い/得な」のだと。上の引用に頷けなかったお歴々も、この部分は大いに頷かれたことと思います。後者は前者を「前提」にした上でその「意味づけ」を行っているに過ぎない言葉なのですけれどもね。
 しかしここで、小浜さんはどういうわけか「女性が専ら許諾権を握っている」というこの特質の一側面のみにばかり着目しているように、ぼくには読めます。正直、(ご本人の意図するところではないでしょうが)何だか一般受けする、俗に媚びることを狙った主張であるようにすら思えます。
 普通に考えれば「男性=責め/女性=受け」という性のあり方は極めて両義的であり、ある側面では男が強く、ある側面では女が強い、つまりどっちが「強いか/偉いか/得か」という答えを一概には出せない性質のモノである、というのが正解だと思うのですが(そして小浜さん自身、別な著作ではそのように主張していたはずなのですが)。
 そして、小浜さんは結論するのです。


「男性の純愛」と「ストーカー」とは、実は紙一重である。


 その通りです。
 いいえ、正しく言い換えましょう。
 
イケメンが純愛でブサメンがストーカーですw(このネタ、確か『絶望先生』でもやってたような気がします)
 即ち、男と女、どっちが「強いか/偉いか/得か」は一概に言えないはずなのだけれども、今は一般通念や社会のシステムが女性有利に働き過ぎているため、女性有利の側面が多過ぎる。
 それが実状であろうし、そう考えれば小浜さんの主張は、取り敢えず矛盾はありません。
 しかし。
 小浜さんは、
ぼくたち人類が未曾有の女性災害に見舞われつつある現状を正しく指摘しつつも、その現状を、お得意の「保守」派としての感覚を発揮して、「いい悪いではなく、それが宿命なのだ」と粛々と諦め、受け容れているように見えるのです。
 むろん、それは一面の真実です。
 いかに治安をよく保ったところで、レイプなど性犯罪の被害者に遭う女性が出てしまうことが「避けられない運命」であるのと同じ意味で、男性が女災の被害に遭うこともまた、ある程度「避けられない運命」ではあります。
 しかしその「避けられなさ」は、同時に治安の悪化を放置する言い訳には決してなり得ません。


 この分野ではぼくと立場を近しくする竹中英人さんが、著作『男は虐げられている』の中で


>恋愛とは、愛という宗教のもとに行われる、女による男からの搾取である。まさに恋愛は壮大な収奪システムなのだ。


 と極めて的確な(『電波男』の六年前……新し過ぎます!)表現をしているのですが、小浜さんは『「男」という不安』の中でそれを「構造上の問題だからしょうがない(大意)」と切って捨てています。


 もちろん、竹中さんの言う「収奪システム」、本田透さんや森永卓郎さんの言う「恋愛資本主義」、ぼくの言う「女性災害」は「根治」できるものではありません。
 その意味である程度、「しょうがない」という気持ちをぼくもまた、持ちます。
 そこを何とか根底から変えようとすれば、「ジェンダーフリー」「コロニー落とし」のようなヴァーチャルで空想的な方術にのめり込む以外に、手はなくなります。
 しかし上に書いたように「性犯罪を根治できないこと」と「性犯罪を一件でも減らすべく努力すること」とは相矛盾するものではありません。小浜さんは、「普通」「現状維持」に傾き過ぎるあまり、そこを見ていないように思います。
 ただ、小浜さんが殊更保守的なことを言うのは「ジェンダーフリー」的な「メンズリブ」に対する警戒心故のことでしょうし、それはわかりますが。


 余談めきますが小浜さんは「男に純愛は可能か」において、


 やや誇張して言うなら、女は、男が女を必要としているほど、男を必要としていないのだ。


 とも言っています。
 なるほど、女から男へのレイプなどが基本的に稀少例である(或いは女性向けの男性ヌード写真集など、思い出したように騒ぎ立てる割には一向に定着しませんよね)ことを考えるならば、現実の一側面として、そうも表現できようとは思います。
 しかし、それこそ女性がいかに恋愛漫画や映画を好むか、美容やファッションに興味を持つかを考えるならば、小浜さんの指摘はあまりにも一方に偏ったものであると言わざるを得ません(同様に同論の中では「女のストーカーがあまりいない」とされていますが、それが誤謬であることは拙著にも書いた通りです)。
 この小論自体は2004年に書かれたものなのですが、今となってみては婚活だ草食系男子だと異性を獲得しようと血眼になっているのは、どう見ても女性の方です。
 そしてまた、この現象は「例外的な、一過性のもの」などでは決してなく、小浜さん自身が指摘する男と女の性愛の本質の「現れの違い」に過ぎないわけです。
 本当に女性はそんなに「強か/偉か/得だ」ったのか。
 社会システムの後押しのない女性の「強さ/偉さ/得さ」はどんなものか。
 考えてみるべき時期に来ているようです。


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最後の恋は草食系男子が持ってくる

2010-02-16 18:46:36 | レビュー

 まず、表紙を見てみましょう。
 帯にしたためられているのは、


 優しくて誠実、浮気はしない。
 結婚するなら草食系男子!
「草食系男子と恋愛すると幸せになれるの?」
「草食系男子にはどこで出会えるの?」
「草食系男子と結婚するには?」
 リアル草食系男子・多数登場!

 


 表紙を飾る美麗なイケメンのイラストはおかざき真里(日本の漫画家、イラストレーター。女性。代表作に『彼女が死んじゃった。』『セックスのあと男の子の汗はハチミツのにおいがする』『渋谷区円山町』など。ウィキペディアより)。


 すみません、ぼくもう、お腹一杯ですw
 前著、『草食系男子の恋愛学』もそうなのですが、森岡正博教授は「草食系男子」というマチズモから解き放たれた繊細で優しい男性を(それこそ、この数年、突然に日本に現れた人種ででもあるかのように扱って)、とにもかくにも肯定すべき存在であるかのように描写します。
 前著がベストセラーになったからでしょうか、上に挙げた装丁からも「日本中の女性が草食系男子であるボクに夢中!」とでも言いたげな、浮かれ気分が溢れています。その多幸感のオーラに当てられつつもページを開いてみれば、「草食系男子」と森岡教授との対談が展開されている、という仕掛けです(多数登場と謳っているわりには四人しか出てきませんが)。
「風俗に行って女を買うようなマチズモを持ちあわせていない」という草食系男子との対談で、教授は感極まって叫びます。


 女性からしたら、こういう感覚を持った男性って、「買い」だと思いますけどね。女性たちよ、目覚めてくれ~。

 


 更に教授はQ&Aコーナーにおいて、「草食系男子の彼は食事をおごってくれない、ただのケチだ」と洩らす女性を、「おごってくれて当然という考えはいかがなものでしょう」と優しく諫めます(それにしても俗に徹してるというか、自然にQ&Aコーナーを設ける辺り、よく女性誌を研究していますね)。
 女性たちへのアドバイスはまだまだ続きます。草食系男子は自分から女性をデートに誘わないので、女性がリードしましょう、なかなか告白してこないので焦らず待ちましょう、少しマザコンのケがあっても我慢しましょう、書店や図書館、電器屋やペットショップで草食系男子を捜してナンパしましょう……いやはや、読めば読むほど何だか女性が可哀想になってきます
 この、何とも居心地の悪いいたたまれなさの本質は、結局、「そんなことやってちゃモテないんじゃないですか?」という感想であるように思います。
 ここに挙げられた「草食系男子」たちは一生懸命おしろいを塗りたくって登場し、一見イケメンのように描写されてはいますが、実地で「草食系」的なメンタリティを持った男子たちを捜してみれば、網にかかってくるのはやはりオタク系が大部分でしょう(そしてオタクがモテないのは決して不細工だからというだけではなく、「男性性の欠如」によるところが大きいように思われます)。
 Q&Aコーナーにおける女性への数々の要求を読んでいくと「求めるばかりじゃなく自分からも動けよ」と「草食系男子」たちにお説教をしたくなると同時に、今まで女性たちがいかに男性に要求ばかりをしてきたかを今更ながらに思い知らされ唖然となってしまい、更にそれと共に「そこまでおっしゃるからには、今までの男女関係はひたすら男性が女性を搾取してきたのだというあなたが固持してきた自説が過ちであることに、そろそろお気づきになったのではないですか?」と教授を小一時間ほど、いや五日間ほどは問いつめたい気分に駆られます。
 教授がどれだけ「浮気、風俗、ギャンブルに興味のない草食系男子」の素晴らしさを女性にアピールしようと、現実に女性にモテるのが「浮気、風俗、ギャンブル」をするタイプの男性であるのは何故なのか。いかに「いや、そんな女性ばかりではない」と繰り返してみたところで、全体として見て、やはりそういったタイプの男性がモテるという現実。それに対する教授の認識の低さ。
 若年男性への(時代錯誤な)お説教が並ぶ前著に比べて、本書の読後感は別段悪いものでは決してありません。これだけこき下ろした後では信じてもらえないかも知れませんが、むしろ「女性たちよ、目覚めてくれ~。」に代表される教授の叫びには、共感する点が大です。
 しかし、それでも、ぼくよりもかなり年上で、はっきり言って結構なお年である教授が今更「女性たちよ、目覚めてくれ~。」という遅きに失した絶叫を始めたことに対して、ぼくはどうしても返さざるを得ないのです。
 その叫びはあなた以前に何回となく繰り返され、そして絶望と共に叫ばれなくなったものなんですよ、と。


 年末に大掃除をしていたら、どういうわけか十数年前の『POPEYE』が部屋の隅から転がり出てきた。「脱ヲタ」しようと思っていた頃に頑張って買い込んだものだ。広告に登場する昔のタレントの古くさい髪型を眺めているうちに思い出されるのは、当時の自分の必死な苦闘。自慢のバンダナ、パンツインネルシャツ、指空きグローブに身を包み、得意の絶頂でメイド喫茶に突撃、メイドさんにちやほやされてエビス顔だった頃の記憶。いたたまれず一人部屋の中をのたうち回るうち、角っこに足の小指をしたたか打ちつけ、痛みにこらえてうずくまっていると何だか世をはかなみたい気分に。
 本書を読んだ後に感じる居心地の悪さは、要するにそれと似たようなものに思えます。


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男おひとりさま道

2010-02-06 19:59:59 | ホモソーシャル

 日垣隆さんが「週刊現代」で上野千鶴子先生の「おひとりさま」論を「無知と偏見に満ちた」「単細胞的男性蔑視論」と斬って捨てていたのがちょっと意外でした。というのも、日垣さんは比較的フェミニスト(イデオロギーとしてのそれではなく「女を大切にする男」の意)だという印象があったからです。
 いわゆる世間一般の「女性はいたわろう」というコンセンサスに乗っかる形で世に浸透したフェミニズムですが、しかしそういったフェミニスト(イデオロギーとしてのそれではなく「女を大切にする男」の意)たちもいざフェミニスト(「女を大切にする男」の意ではなくイデオロギーとしてのそれ)たちの著作を一読すれば、そのおかしさには違和を感じずにはおかない、ということなのでしょう。
 さて、ぼくは本書の前作である『
おひとりさまの老後』を自著において、「多くの女性たちを「ゆりかごから墓場まで」自分たちの陣地に引きずり込み、不幸にすることには、見事に成功した」「フェミニズムの勝利宣言の書」と表現しました。
 となればその次に彼女が敵陣への攻撃を仕掛けてくることは、容易に想像できたことです。では、果たして男性への攻撃たる本書の内容はどのようなものだったでしょうか。
 結論から言ってしまうと、上野さんの「攻撃」は見事に的を外してしまっているように、ぼくには思われました。
 本書の論旨は要するに

・「結婚するな。婚活中の高齢男おひとりさま、あきらめろ」
・「女は友人を大勢持って幸福なおひとりさまライフを満喫している。孤独な男おひとりさま、せいぜい女たちに学べm9(^Д^)プゲラ」

 この二点に集約できるかと思います。
 とは言え、フェミニストがとにもかくにも結婚や家族をおぞましいものとして退けたがるのは当たり前のことなので、そこは今更です。
 また、フェミニストたちは女同士のつながりを、「シスターフッド」「レズビアン共同体」などと称してとかく清く気高く尊いものであると持ち上げる傾向があります。一方(本書にも書かれていることですが)男同士のつながりは全て「会社社会の中だけで通用する偽物」であると短絡的に断ずる傾向があり、それらはホモソーシャルなけしからぬものであるそうです。どうしてそこまでけしからんのかは、読んでいてわかった試しがありませんが。
 確かに、「男より女の方がつるみたがるよな」というイメージはぼくにもあります。でもそれは逆に言えば女よりも男の方が孤独にも強い(或いは好む)ということであり、しかし上野さんがそういった男女の「性差」についてどこまで自覚的かが、ぼくには極めて疑問です。
 更に言えば上野さんのこの主張は『
「女縁」が世の中を変える』という著書があることが示すように、かねてよりなされてきたものです。

 が、「会社人間で他に人脈や楽しみのない男」という男性観自体が、日垣さんに指摘されるまでもなく古過ぎるものであり、オタク世代の男からすれば鼻で笑うしかないような代物でしかありません。
 そして読み進めるに従い、上野さんが主張する尊い女同士の友情にすら、疑問を抱かざるを得なくなってくるのです。
 上野さんは他の著者の「無二の親友より10人の“ユル友”」という言葉を紹介します。


 しょっちゅう食事やお酒をともにする友人には、思想信条についての議論はふっかけないほうがいいし、まったり時間を過ごしたい相手に知的刺激を求めるのは、おかどちがい。

 思えば、魂の友だっていつかは先立つ。その親友を失ったからといって、だれかがそのひとの代わりを務めてくれるわけではない。


 だから家族や親友などといったかけがえのない関係など要らない、というのが上野さんの主張なのです!
 ――清く気高く尊いものであるらしい女と女の「レズビアン共同体」の実質は、厨房のつるみみたいなもののようです。
 彼女たちの使う「ホモソーシャル」という(全く理解不能な)用語のでどころは『
男同士の絆』という著作なのですが、イギリス文学オタクの腐女子が文学作品の男性キャラを取り挙げては「○○クンは受けよ~~~!!」と萌えまくってるような本です。そう考えるとこの「ホモソーシャル」という「攻撃呪文」の本質も見えてきそうな気がします。
 即ち、五秒おきにケータイを確認しなければいじめにあう「友だち地獄」レベルの「レズビアン共同体」しか持ち得なかった人々の、男同士の友情への羨望なのではないか、と。


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女性専用車両の社会学

2010-02-02 00:32:52 | レビュー

 著者は女性専用車両という存在を、人種間の隔離になぞらえます。事実、かつてニューヨークで痴漢取り締まりを強化したがため、黒人とヒスパニック系に対する誤認逮捕が相次いだということがあったと言います。
 そして痴漢行為に及ぶ者は若年層が多いにも関わらず、実際に逮捕され、また痴漢としてイメージされるのは中年男性が多いことを指摘(ただし、それが本当に正しいかどうかは疑問が残りますが)、またアンケート調査に寄せられた声なども根拠にして、女性専用車両の本質は「痴漢回避」ではなく「オヤジ忌避」にこそあるのだと喝破します。
 他にも著者は治安悪化という俗説に反して痴漢被害が非常に少ないこと、アンケートを取ってみると、存外に女性の側からも女性専用車両は男性差別であるとの意見が寄せられたことなども挙げてみせます。
 ――こうして見ると、著者は男性、ことに中年男性を擁護しようとの意図を持って本書を書いたのだという確証を持たざるを得ません。
 ところが。
 読み進めるにつれ、著者はこんな恐ろしいことを言い出すのです。

 同じ女性ですらオヤジ化すればさげすまれるのだから、異性のオヤジ(引用者註・即ち男性のオヤジ)がクサいといわれても仕方がない気がする。

 何を言ってるんでしょう。
 何だか知りませんが、著者に言わせると今の女性が「負け犬」「オニババ」と呼ばれていることの本質は「女性のオヤジ化現象」がさげすまれていることなのだそうです。
 オヤジのいわゆる「加齢臭」は「女性のオヤジ化」とは関係ないのではないかとか、さげすんでいるのも女性の方だとか、いくらさげすまれようと女性は冤罪で逮捕まではされないではないかとか、そもそも「オヤジ」が忌避されるようなされ方で、「負け犬」や「オニババ」が忌避されているわけではないとか、著者の信じるように現代社会が男尊女卑であるのであれば、女性のオヤジ化はさげすまれてもエラい側の存在であるオヤジがさげすまれるはずはないのではないかとか、疑問が頭の中に百くらい浮かんできますが、それらはきっと、考えてはいけないことなのでしょう。
 続いて著者は言います。

 女性専用車両をつくり出す社会は、女性たちに向かって「君たちは弱者だ、守らなければならない」と語りかける。そして、働き続ける女性たちに「仕事に女性の幸せはない、その先には負け犬やオニババになることが待っているだけだ」と訴えるのだ。

 もし女性専用車両自体が導入されていなければ、或いは廃止などされたら、この著者、真っ先に「女性を排斥しているのだ」などと言い出すのではないか……という気がしてしまいますが、それは著者の主張が矛盾することを意味していません。
「事実」がどうあろうが結論が変わらないことこそが、「女性専用車両」は「女性差別」であるとの「宇宙の真理」であることを意味しているのです。
 そもそも社会学とは周知の通り、適当にデータを採って、そこに最初からあるポリティカルコレクトに敵った結論を取ってつける学問であります。データと結論とが互いに矛盾していようが、そんなことは問題でも何でもないのです。

社会学の例

1.今日は天気だ→女性差別だ
2.今日は雨だ→女性差別だ

 その意味でまさしく本書は、「社会学」の名を冠するにふさわしい名著であると断言できましょう。


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