兵頭新児の女災対策的読書

「女災」とは「女性災害」の略、女性がそのジェンダーを濫用することで男性が被る厄災を指します。

十年目の『ぼくたちの女災社会』(その3)  ――『女災』は「負の性欲」を予言していた!――

2019-12-28 17:07:35 | 女災対策について

※この記事は、およそ8分で読めます※

 今年は拙著『ぼくたちの女災社会』出版十周年の年です。そんなわけで本書については、(以下略)。
 が、期せずしてシンボリックな事件が起きたがため、それにちょい便乗させてもらおう(以下略)。
 今までも天才予言者であるワタクシ、兵頭新児が数々の予言を成就させてきた(以下略)。
 あ、それと本書を未読の方はkindleで買えますので、ご一読をお勧めします。目下ツイッター界隈で囁かれている反フェミニズム論、非モテ論がいかに浅く周回遅れなものかがおわかりいただけるようになりましょう。

●負の性欲とは?

 ――さて、ツイッターで先月28日、「負の性欲」という言葉がトレンド入りするという珍事が起こりました。いえ、この概念そのものは以前から結構評価されていたものであり、当然、当ブログでも折に触れ、扱って参りました*1
 が、当然というか何というか、ツイッターではフェミニストが聞きつけ、脊髄反射で拒否反応を起こしている場面、どう見ても語幹から適当に想像して勝手なことを言っているだけという場面などが散見され、まあ、しょうがないとはいえ何だかなあな状況を呈しています。



 こうした図が出回ったりもしていますが、何というか、全然違いますね。
 まずはぼくのブログなんかよりリョーマ氏のブログ*2を見るべきなのですが(全否定かよ)、まあここはポイントだけをご説明すると共に、ぼくの側の解釈を最後に述べることにしましょう。

*1「ショウジョマンガガガ」の「●歩く完全負のポルノ図鑑」など。
*2「女性専用化社会 負の性欲


●提唱者の、定義

まず、記事の冒頭には

とはいえ、最近の学生とかは恋愛はフラれるとSNSで「キモい奴から告白された~」って晒されるリスクが格段に高く、慎重にならざるを得ないっていう点で大変だな、と思います。



 とあります。
 何というか、上の図では「負の性欲」というのは誰にでもある、性のネガティブな発露。みんなでマナーを守り、楽しい社会を。とでもいった、薄っぺらなどうでもいい世界観が開陳されておりますが、リョーマ氏の記事の冒頭の痛烈な描写を見て感じるのは、「この女の過剰さって、何なの?」というものです。

 ――いや待て。男だってすることだろ。

 いえ、しません
 否、そりゃするヤツもいるだろうけど、女の苛烈さと普遍性とは比べるべくもない。
 ここに何か、女性独自の精神的必然が働いてんじゃねーの? というのがリョーマ氏の疑問なのではないかと、ぼくは考えます。
 しかしそこを無視し、上の図は「お互いさま」とでも結論できるような、当たり障りのないものになってしまっている。
 白饅頭の著作で知ったのですが()、「世界公平信念」という言葉があります。これは「ずっとついてなかったんだから、そろそろツキが回ってくる」といった世界が公平にできているとの、整合性はないがついぼくたちが陥ってしまいがちな観念を指し、特にジェンダーフリー論者じゃなくとも、人は何とはなしに男と女を対称的なものだとの観念に引きずられてしまうものなのでしょう。
 しかし、あくまでこれは女性特有の、女性のセクシュアリティに紐づいた、特殊な欲望なのです。
 ブログを読み進めましょう。

男が女をキモいって言うこと、ほぼ無いだろ?女が魅力のない男からのアプローチに汚物のように嫌悪する感情、生理的に無理っていう感情を、男が女に抱くことってほとんど無いだろ?


 そう、「男には負の性欲は(ほぼ)ない」というのがリョーマ氏の考えだとわかります。

だから女の負の性欲から発せられる、「キモい男からアプローチされた!」「セクハラされた!」等の男をしばいてンギモヂイイイしているのは、女向けのポルノとでも言うべきものなんだ。


 とのフレーズもあり、これもぼくの指摘とほぼ、一致しますね。
 既に消されてしまっているけれども、恐らくリョーマ氏が広くこの概念を訴えたのは、棘のまとめで、ぼくが「ブスイキリ漫画」と称したような作品を例に挙げてのことだったはず。
 そう、何かエラそうな女が男に一喝して、男が反論できずたじろぐ。そうした漫画ってありますよね。あれこそがまさに「負のポルノ」だ、というのが彼の主張だったんじゃないかなあと、記憶しています。

「女性はこんなに被害に遭ってるんだ!」と延々男叩きを垂れ流してる女っているでしょ?フェミニストっていうんだけど。

つまりフェミニズムは女性向けのポルノコンテンツなんだ。


 驚きました。
 何しろ「フェミニズムとはポルノだ」との指摘は、ぼくが以前からしているもので、「あ、俺以外にも言ってくれる人がいたんだ」というのがぼくの率直な感想です。

●『女災』も実は同じことを言っていたとか、そういうことを言いたい


 しかし、敢えて、ここで一つだけマウントするならば、リョーマ氏の指摘ではこの「ポルノ」というのはこの段階ではある種、「比喩」と思えなくもないこと。
 ブログの見出しには「男から求められ、その男を性的優位な立場からボコる快感」ともあり、これは「暴力を振るう快感」と取れなくもない。が、その解釈に留まるならば、この「負の性欲」という概念のポテンシャルを、三割ほどしか発揮していないことになります(リョーマ氏がそうだというのではなく、ツイッター上の解釈が、そこに留まっているのではないかというのが、ぼくの危惧です)。
 ならばどういうことか……ということで、もうちょっとだけこの概念を深掘りしましょう。
 ぼくは『女災社会』において(以下の引用、実は前回記事と全く同じなのですが)、

女性のセクシュアリティの本質は、男性を悪者にすることそのものなのです。
(161p)



 と表現しました(強調原文ママ)。

 彼女らは自己愛を満たすために、男を悪者に仕立て上げます。恋愛や結婚における責の全てを男に求め、或いはまた自分が男から求められているのだ、という幻想を満たすために男を悪者に仕立て上げ、その結果、相手を殺します。
(157p)

 少なくとも立場的に弱い男性を「ストーカー」、「セクハラ加害者」扱いしてのいじめ、いやがらせとなると、日常的に広範に行われていると考えざるを得ません。そしてそういった行為に女性故の優越感を感じることの快楽がいささかも伴っていないというのは、どうにも考えにくいことです。
 何となれば、先に書いたように「男性から求められること」そのものが女性のセクシュアリティであり、アイデンティティの根幹をなしているからです。故に、彼女らは自らの欲望をつまびらかにせず、覆い隠すことで「男性から求められ」ようとします。
(160p)


 そう、前回記事では石川優実師匠の言動を批評するために引用したこれらフレーズは、全く「負の性欲」と重なるのではないでしょうか。
 女性の性欲というものは、そもそも自分自身に向かうという方向性があります。男性が自分の肉体性に惹きつけられていることを確認することで、女性の性欲は満たされるのですから。
 だから、男性が自分に求愛し、しかし肘鉄を食らい、無残に滅びていくことで、彼女らは「エクスタる」のです。
 フェミニズムとはまさにそうしたエクスタる過程そのものであり、性犯罪冤罪もまた、というのが実のところ「女災」理論の根幹なのです。
「女災」とは「負の性欲」の暴走で起こる厄災そのものなのです。

●ちょっとだけ、独自解釈?


 さらにもう少々、マウントを続けましょう。
 リョーマ氏は以下のように指摘します。

もちろん女にも男の肉欲的な「正の性欲」はある。けども、それは女がセックスしてもいいと認める、ほんの一握りの男にしか感じない、限定的な欲望だ。だから、女向けのAV(調べたら一応あるみたいだ)は男向けのポルノに比べて市場規模は小さい。


 ちょっとこれは違っていて、言うまでもなく女性向けのポルノというのはレディースコミックという形で、無限にあります(まあ、前にも書いたように女性週刊誌の誰それが浮気したの離婚したのという記事こそが彼女らにとってのポルノだろうけれども)。
 そこにはレイプ描写が溢れており、レディコミ全盛期にはフェミが必死になって言い訳に奔走していたというのが実情なのだけれども、BLもまたレイプ描写の山であり、女性はレイプ描写が大好きだという事実は揺らぎません。
 実はこれは、藤本由香里師匠が(いや、フェミニストという立場で大丈夫なんですかと言いたくなるほどにあけっぴろげに)分析していて*3、要するにレイプものとは責を男に預けたまま、自分は気持ちよくなれるというサイコーに負の性欲を満たしてくれる表現なのですな。「私はイヤなのに」というわけです。
 女性の描く「ショタ漫画」というのももちろん、ほとんどは成人男性が小学生男子をレイプするものなのですが、ぼくの知人の女流エロ漫画家さんはこれにも同じ評を与えていました。つまり、「責は男に押しつけて快だけ得るので安易である」と。責任逃れの度の強さは、何しろ子供で、しかも性別をも男性に押しつけているわけだから、最強なのですね。


*3 快楽電流
本書には「好みの男にされるレイプはレイプじゃない」と言っているとしか思えぬ個所もあり、「フェミとは思えぬ極めて率直な自己分析と鋭い自己洞察」と、「痛すぎるフェミの大変なことになってしまっている部分」とが同居しており、何というか、驚きの著作という感じがします。



 恐らく、リョーマ氏自身も(仮に無意識裡にでも)上のようなことを感じており、だからこそ「性欲」と名づけたのでしょう(「負の」というのは「性欲を感じていない」という意味ではないはずです)。
 ただ、ここは強調しておかないと、先にも書いたような、結局「男女ともに負の性欲があってお互い様だよね」みたいな曲解された通説が広まるのでは……というのがぼくの危惧です。こういうの、大メディアに採り挙げられると、とたんにそういうわかりやすい方向に持っていかれ、棘を抜かれちゃうんですよね。
 実はリョーマ氏のツイッターアカウントは復活しており、これからも積極的に発言してくれることを期待します。その上で、少しでもこの概念が深化されていけばいいな……とぼくは今、考えています。


十年目の『ぼくたちの女災社会』(その2)――『女災』は「これフェミ」を予言していた!――

2019-12-20 18:53:16 | 女災対策について


※この記事は、およそ12分(課金コンテンツ含めると17分)で読めます※


 今年は拙著『ぼくたちの女災社会』出版十周年の年です。そんなわけで本書については、もう少々語っておきたいという気持ちがありました。
 が、期せずしてシンボリックな事件が起きたがため、それにちょい便乗させてもらおうかと。
 今までも天才予言者であるワタクシ、兵頭新児が数々の予言を成就させてきたことは誰もが知るところですが、実のところ、「これフェミ」についても『女災』において「予言」がなされていたわけなのです。
 あ、それと本書を未読の方はkindleで買えますので、ご一読をお勧めします。目下ツイッター界隈で囁かれている反フェミニズム論、非モテ論がいかに浅く周回遅れなものかがおわかりいただけるようになりましょう。

●2019年11の月、青き眼鏡が降り立つであろう、フェミニズムを復活させるために

「これフェミ」というのは、青識亜論(以降、青識)と石川優実師匠とのトークイベントです。青識は近年、表現の自由クラスタとしてアンチフェミ的発言を続けるネット論客。石川師匠はどうも近年、フェミニズムに目覚めたグラビアアイドルのような方らしいです。
 何にせよ青識側主導のイベントであるがため、聴衆などは彼の側の人間が多かったことが想像できる。しかし青識側は(彼の主張を信じるならば)かなり周到に、「吊し上げ」にならないよう、配慮をしていたようです。
 しかし、そうした配慮にもかかわらず、石川師匠はブログで当イベントを否定する「表現の自由クラスタによる吊し上げ」であったかのような発言を始めたのです。
 もっとも、ぼくも参加したわけではなく、ネット上で参加者(とされる人々)の書き込みなどから、事態を傍観している立場にすぎません。しかし青識は一応、当日の録音テープか何かを持っているらしいので、最終的にはそれを無編集で提出する、という手段が取れる(目下、何故かそれをしないことで青識への不信感も、高まりつつあるようですが……)。その上で言っていることなのだからそこそこ信頼できる、と考え、以降、論考を進めましょう。

 さて、上に信頼と書いたものの、そうは言ってもまず、当ブログの愛読者の方はおわかりのように、青識はとてもとても信頼できる人物ではありません。彼は「アンチフェミ」であるかのように振る舞っていますが、牟田和江師匠の悪辣かつ幼稚極まるフェミ本『実践するフェミニズム』を白饅頭と共に絶賛しており、フェミ批判はポーズであると考える他ない*1。何しろ、当イベントにおいても

・フェミニズムに悪いイメージが持たれているが「フェミのことは嫌いでもフェミニズムのことは嫌いにならないでください」


 などと宣っていたのですから*2、お察しです(恐らくですが、上の「フェミ」は「フェミニスト」を指すのだと思われます)。
 同様に、青識陣営に立ち彼を擁護しているのが多摩湖師匠やらろくでなし師匠やらといった、どうしようもない面々。ことに多摩湖師匠に「事実を事実として認識する能力」があるとはとても思えず*3、事態そのものが『ドラゴンボール』風に言うならば「とびっきりの最狂対最凶」の様相を呈しているわけです。
 しかし、ここでぼくが一番興味を持ったのは、まさに本件が石川師匠による「女災」そのものである点です。そう、「女災」とは「女性ジェンダーというものの加害性のため、男性が被る災害」です。そしてそれは端的には「被害者ぶること」。「女性はいついかなる場合も被害者である」との「ジェンダー規範」を「兵器利用」することです。そして、フェミニズムとは「女災」の肯定、女性は(今回の石川師匠のように)「歴史改変」→「冤罪」のコンボを決めることによって男性を殺す権利があるのだとの主張そのものなのです。
 石川師匠はイベントにおいて、

・この場があるのはありがたいこと。青識さんがしっかりハラスメント対策をしてくれた。


 などと宣っておりました(これは会場のヤジを、青識がたしなめた件です)*2
 また、ヒトシンカさんたちによると、師匠は以下のような発言もしていたようです*4


「今までは怖いというのが一番にあって、でも話を聞かないといけないなと。もっと話を、また何か炎上したらこういう会ができたらいい」

「怖かったし、怖いから来れないという人もいた。しかし来た事で、相手の考えがわかってよかった。次はその原因も聞けたらいいと思う。」

「またなんか炎上したらやっても良いと思うが、配慮は必要。今回のようなルールを全員がやれば社会は変わるので、意識改革すべき」


 ところがこの石川師匠、後日、自身のブログでぐちぐちと文句を言い出したのです*5


3つ目。途中から青識さんが私の考えを評価し始めた。
「それは素晴らしい」「それは正解」などなど。その辺りから私の頭は
「あれ?ところでこの人誰だっけ?」となっていた。なんで青識さんが判断できるんだろう。

7つ目。青識さんは会場にむかって大きな声で感情をぶちまけ、会場の方たちから共感を得ていた。そしてとても気持ちよさそうに見えた。

隣から見ていたが、青識さんが一番輝いていた場面だったと思う。でもすごく痛々しく見えた。私との討論会だったと思うのだが、青識さんは誰と何を話していたのだろう。



 ……正直何を言っているかわからないと思います。当記事を「ふわっとした、文章らしきもの」といった批評をしていた人がいたかと思いますが、ぼくも同じ感想を持ちます。
 まあ、青識に対し「エラそうだったから気に入らない」「私より評価されたから気に入らない」とおっしゃっているのだと思います。師匠は何やかやですっかり態度を硬化させてしまい、kutoo運動を先鋭化させる宣言までしちゃっています。
 いえ、実は当記事も、前半ではそれなりに首肯できることを言っている部分もなくはないのですが、後半に進むにつれ、「ポエム」度を増していきます。

そんなに簡単に共感してもらえる部分ではあなたが羨ましいが、私は絶対あなたのようになりたくない。

この会の最後にも私は言ったが、先に加害をした側が被害者ぶるな。 同じだと思うな。


 まあ、何か、女性の中でどう感情が醸成され、「女災」が形作られていくかの、これは格好の実況中継、テキストとなっています。
 以降も事態はくすぶり続け石川師匠(側の人物?)は青識(側の人物?)を痴漢呼ばわりし、また明らかな嘘を吐いたりもしているようなのですが、まあ、平常運転としか言いようがありません。
 ただ、平安和気辺りが本件を石川師匠側の完全勝利、何となれば彼女の方が圧倒的に知名度があるのだから、と言っていましたが、それは正直、あまり同意できません(石川師匠はBBCの「100人の女性」に選ばれた著名人だそうですが、そう有名とは思えませんよね)。
 青識だってそれなりに影響力のある人物なのだから、石川師匠という強者が青識という弱者を利用したというのは、それほど当たっていない。仮に、例えばですがフォロワー数などで石川師匠が青識を圧倒していようと、支持者の熱意という点では青識が上ではないか。だから、「これフェミ」にフェミの出席者はほとんどいなかったのだし、(石川師匠が自身のイベントで本件をダシにしようとしているようですが、同時に)青識もまさに本日、テレビ出演をすることになったのです。

*1「実践するフェミニズム――【悲報】テラケイがラディカルフェミニストとお友だちだった件」及びそれに続く二つの記事をご覧ください。
*2「【議事録+感想】これからのフェミニズムについて考える白熱討論会に行ってきた
*3「献血ポスターの騒動で、フェミニストが遂に「宇崎ちゃん取りやめないなら献血拒否しよう!」と献血拒否を呼び掛け始める
彼女は「フェミニストを名乗るのは止めた、止めた」と繰り返しておきながら近年、また「フェミニスト」を自称するようになってきたのですが、そこを指摘すると、「デマを流すな」と言われてしまいました! 本当に、息を吸って吐くようにウソを吐くのがフェミニストであり、青識はその仲間、なのです。
*4 https://twitter.com/hitoshinka/status/1197301469109604352
*5「11月16日、#これフェミ 私から見えた風景


●その前後の期間、フェミは平等の名の下に女災をもたらすであろう

 女性は受動性を宿命づけられた性であり、男性は能動性を宿命づけられた性です。そうした性質が先天的なものなのか後天的かは置くとして(後天的であるとしたジョン・マネーの実験が捏造であるとバレた、といったお話は今回は置くとして)、まず現実としてそのようになっています。
 即ち、両性共にある種、自分の意志を越えたところで被害者/加害者にさせられる宿命性があるわけです。仮にそのため(例えば、身体能力が男性に劣るせいで)女性が被害者の立場に置かれたら、その女性が不利益を被ることになります。
 フェミニズムとは、この状況を絶対視し、女性ジェンダーのメリットから全力で目を伏せることで成り立っているガクモンなのですが、もしその被害者性に理がなかったら(要は冤罪であったなら)ことは男性の側の、圧倒的な不利益です。
 さらに言えば、女性は(ことに性的な場で)男性を加害者に仕立て上げる強力な動機を持っています。
 ぼくは『女災』において、

女性のセクシュアリティの本質は、男性を悪者にすることそのものなのです。
(161p)


 と表現しました(強調原文ママ)。

彼女らは自己愛を満たすために、男を悪者に仕立て上げます。恋愛や結婚における責の全てを男に求め、或いはまた自分が男から求められているのだ、という幻想を満たすために男を悪者に仕立て上げ、その結果、相手を殺します。
(157p)

 少なくとも立場的に弱い男性を「ストーカー」、「セクハラ加害者」扱いしてのいじめ、いやがらせとなると、日常的に広範に行われていると考えざるを得ません。そしてそういった行為に女性故の優越感を感じることの快楽がいささかも伴っていないというのは、どうにも考えにくいことです。
 何となれば、先に書いたように「男性から求められること」そのものが女性のセクシュアリティであり、アイデンティティの根幹をなしているからです。故に、彼女らは自らの欲望をつまびらかにせず、覆い隠すことで「男性から求められ」ようとします。
(160p)


 そして、性的な場でなくとも、何かと言えば自分を被害者の位置に置きたがる女性というのは、確かにいます。それはそうした「女災」がいかに自分に旨味を与えてくれるかを知ったが故の行動なのでしょう(そのプロになった女性を、我々はフェミニストと呼ぶのです)。
「これフェミ」は性的な場ではなかったはずなのですが、石川師匠は青識が「エラそうだったこと」「ちやほやされていたこと」を「ひがんでいる」ようにしか見えない辺りは示唆的です。「私は注目を浴びようとモデルに、フェミニストになったのに」との不満が、石川師匠の本音ではなかったでしょうか。そしてその「注目を浴びる」こと自体が、女性にとっては非常に性的な意味あいを持っているのです。いえ、ぼくの目からは青識もまた、鼻の下を伸ばしてフェミをデートに誘ったようにしか、見えないのですが……。

●フェミの支配の2000年が過ぎた。2019年、同じものがその体制を保つだろう


 ただし、先に引用した*2においても青識がエラそうであった、パフォーマティブであったことをかなり否定的に書いている箇所があります。青識が相当に図に乗っていたことが窺い知れるわけですが、これも仮に男女の性的関係に準えて表現するならば、例えば「おkを取ったと思い、女とやったら後日レイプだと訴えられてしまった」、即ち「能動性を期待されているがための被害者性の発露」であったと言うことができましょう。
 性的な場において「男の誘い方がキモくなかったら、ヤれる」。しかし女の方も気が弱く、「何か、断りづらくその場ではおkしてしまったが、本音を言えばキモかった」といった状況があり得る。
 そうなると、「レイプだったこと」に、後づけでなってしまう可能性が大いにある
 本件でも、石川師匠の後出しじゃんけんに対して「何故、イベント当日のその場で言わなかったのだ」という反論がありました。しかしまあ、「お気持ち」としては「何か、言いづらかった」のはわかる。ただ、となれば石川師匠も、後出しで本音を言うことは悪くないが、同時にその時に言い出せなかった自分を省みることも必要であったでしょう。
 ところが、「女災の体系」である「フェミニズム」はそうした「反省の心」を彼女から奪ってしまったのです。
 さて、しかしです。
 果たして青識はそんな、石川師匠に怒る権利を持っておいでなのでしょうか。
 ここで先にも書いた(*1で詳しくレビューした)、青識ご推薦の書、『実践するフェミニズム』を開いてみましょう。同書の16pには「両者の合意があればセクハラにならない」としながらも、「しかし相手がエラければ断れないじゃないか(大意)」と主張する箇所があります。また、マッキノン師匠の「女性は沈黙をもって拒絶の意を示す傾向にある」との説を引用し、「見かけは喜んでいるように見せて巧みに男性の面子を立ててや」るのだとも言います(18p。強調ママ)。
 こんなものを手放しで大絶賛していた青識に、果たして後出しじゃんけんを責める資格があるのでしょうか。
 牟田師匠はまた、「女はNOと口にしないことを規範とされてきた(大意)」と称します(121p)。何しろ、そもそも「女言葉には最初からNOを意味する言葉が用意されていない(大意)」のだそうです。また師匠は女言葉というのは近代社会において生まれてきたものだと言っており、これは恐らく近代における男性支配社会が女の抑圧を始めたのだ、との史観によるものなのでしょう(もちろん、中世にはレイプはなかったのでしょうね)。
 また『部長、その恋愛はセクハラです!』においては(何という象徴的なタイトルでしょう!)

女性の気持ちとしては、本当に「セクハラかどうかわからない」のです。
(p60)


 などとすら言っているのです(むろん、しかし、後づけでセクハラだと感じたら、男は逮捕されるべきなのです!)*5
 逆にいえば、このようなロジックを導入することでしか、ドゥオーキンの「全てのセックスはレイプである」との論法を維持することは、難しい。しかしながら、そんな狂った本を、青識は称揚しているのです。
 全ては、自業自得でした
 彼はフェミニズムへと妄愛を捧げ続け、しかしそのフェミニズムの本質については、けし粒ほども理解が及んでいなかったのです。
 そしていまだ淫夢から覚めない青識は、石川師匠を擁護し、「だから、今一度、みなさん、人格攻撃をやめて、寛容の精神に立ち返りましょう。」、「どうか。このような対話の場を何段にも重ねていきましょう。」などと言っています*6
 フェミニストの延命だけを使命としてこの地上に派遣されてきた青識にしてみればそれでいいのでしょうが、オタクを、男性をこれ以上巻き添えにするのは止めていただきたいところです。

*5「部長、その恋愛はセクハラです!(接触編)
*6「討論会後記:それでもなお、寛容と対話を(青識亜論)
何しろ「フェミニズムに帰依せよ」と言っているだけの内容で、「ふわっとしたポエム」というのなら、こちらも相当なものです。


●フェミがリーク情報を受け取るであろう時に、私の予言は成就し、終わる。

※さて、ここから最後の節なのですが、これ以降はnoteで課金の上、お楽しみください。まあ、概ねの主張はここで終わっていますが……。


秋葉原のアダルトゲーム広告問題

2019-12-07 01:42:07 | オタク論


※この記事は、およそ11分で読めます※

 ――どうも、ブログの更新が遅れております。
 いささか時機を逸しましたが、この話題。
 というか、そもそも当ブログはあくまでサブなので、興味を思ってくださっている方は、noteニコブロをチェックしていただきたいのですが……。

 秋葉原の通りに掲示されていたアダルトゲームの広告が問題となり、取り外されるという事件がありました。詳しくは各自調べていただきたいのですが、例えば弁護士ドットコムなどでも報じられる、それなりの話題となっているようです*1
 例によって、ネット上での喧々諤々が起きましたが、どうにも今までとは旗色が違うご様子。
 ここしばらく、ツイッター上で「表現の自由と世間様との折りあい」みたいなテーマが語られているのが目立ってきている気がします。これは宇崎ちゃん問題の時点でも散見されたのですが、この看板の問題でそれが顕在化してきたように、ぼくには思われます。ついつい調子に乗って、ツイッターでは

或いはこの看板こそが、「表現の自由クラスタ」の墓標になる、のだろうか。



 などといった憎まれ口を叩いてしまいましたが、もうちょっと穏当に表現するならば、「表現の自由クラスタ」が今まで何とか見まい見まいとしてきた論点へと、「一般的なオタク」の目が注がれたこと、それにより表現の自由クラスタと一般的なオタクとの間に乖離が生じつつあることが、本件の本質であると、ぼくは考えます。

*1 秋葉原にアダルトゲームの巨大広告 東京都が現地調査、千代田区は指導へ

 本件と、今までの碧志摩メグなどを筆頭とする数々の案件との差異を、ちょっと思いつくままに挙げてみましょう。

 1.まず何より一目瞭然「性的」であること
 2.クレームがどうも、フェミニスト発ではないらしいこと
 3.オタクのかなり一定の層が、撤去をよしとしていること


 などでしょうか。
 そう、今までの案件と本件とは、全くの別です。
 まず、最初に抑えておくべきポイントは1.でしょう。
 記事を漁ると、

広告は「おっぱいハーレム」や「孕ませ」などの言葉とともに、肌を大きく露出させた女性キャラが10人描かれていた。


 などとあり、上にある「おっぱい」や「孕ませ」とのワードが象徴するように、広告の絵自体が一目瞭然、性的なもの。今までは基本、肌の露出も少ないもの、性的な要素がどこにあるかわからないものが大多数でした。フェミの言い分は、それに対して碧志摩メグの時の「乳袋がある」、駅乃みちかの時の「尿意を堪えているように見える」から性的である、といったもので、まあ、前者はともかく後者は明らかに言いがかりのレベルでインネンをつけていたのだから、本件とは事情が異なります。
 もっとも、いわゆる「萌え絵」はあまりにも女性を性的に描く技術を突出して進化させすぎているとは、言える。「乳袋」もそうだし、「尿意を堪えている」というのは論外としても、この駅乃みちかは「赤面している表情」で描かれており、それがある種の性的なものを連想させなくもなかったわけで、そこ一つとっても、いかに技術が超進化を遂げているかがわかる。ぼくはこれは基本、(それこそ『ジャンプ』における透かしによる乳首描写同様)規制が生んだ規制逃れという素晴らしい文化である(アーティストの知恵の見せどころである)と思うものの、さすがに突出しすぎ、という感じがしないではありません。
 さらに本件に立ち返ると、性的だ性的だと言っておきながら何ですが、実は本件のポスターも下着(だか水着だか)で胸が隠されており、乳首は出ていないのですな。
 ただ、そういった(乳首のあるなしといった、杓子定規な)基準を置いて、ごく一般的な感覚として、当該ポスターはちょっと性的に過ぎるということは一応、言えましょう。
 例えば記事にもあるように、広告には「孕ませ」という言葉があり、そこが注目されていました。つまりこの広告に対する忌避感の何割かは、このワードに依っていると言ってもいいのです。で、普通に考えてこの「孕ませ」という言葉が何故忌避感を催させるかとなると「生々しい」からでしょう。「えっちなのはよくない」からなのです。

 だからこそ、2.にあるように、おそらく本件はフェミニスト発のものではなかった。
 あくまでぼくの観測範囲内ですが、本件におけるフェミはどうにも寡黙です。
 もちろん、本件に一番最初に声を上げたものが誰かは、わかりません。逆に今までの事例でも、フェミニスト以外の人が声を上げた事例もあったことでしょう(そういえばピルの者は碧志摩メグについて、武田邦彦氏が言い出しっぺだとデマを流しておりましたなあ*2)。
 しかしネットを見る限り(上の記事などを見ても、クレームを入れた主体などが窺い知れず、ネットの状況から想像するしかないのですが)3.にあるように、撤去を妥当と判断した層がオタクの間にも一定層おり、それが今回のような世論へとつながっていったわけです。
 即ち、要するに、「オタクの一定層」、恐らくマジョリティは恐らく一般的な人々のマジョリティ同様、本件を妥当と判断した。
 そしてそれは、「セックスは基本、秘めごとである(=えっちなのはいけないと思います)」という世間一般のコンセンサスを、オタクもまた共有していた、ということなのです。
 或いはまた、仮に妥当とは思わないまでも、「弱い立場なんだから、世間様に対してはへらへらやっとけ」という世間知で、まずは世間様に同意した者もいたことでしょう。
 お断りしておきますが、フェミは「えっちなのはいけない」などと、ゴマ粒ほども思っていません。あくまで、「自分にとって不快な表現」をこそ「女性の主体が描かれていない」などと称して、排除しようとしているだけなのです。それは、いわゆる腐フェミがBLを大袈裟に称揚することからも、明らかでしょう。
 表現の自由クラスタは責任逃れのために詭弁を弄して、ここをミスリードし、「あの偽フェミニストたちは実は保守派なのだ」などと称し、自分たちの仲間の罪を保守派への擦りつける傾向があります。
 また一方、フェミニストの中でも単に「自分にとって快のあるポルノだけは認める」と言っているだけの者を大仰に持ち上げ、そうしたフェミこそを「真のフェミ」と称揚することでフェミニズムを延命しようともします*3
 しかし本件を見れば見るほど、「フェミのロジックによる規制には立ち向かう必要があるが、一般的な大衆感覚による規制には、理がないとは言えない、しかしながら表現の自由クラスタはそうした立場を決して取りはしない」ということが明らかになるのではないでしょうか。

*2「東大の受験責任者から直接訊いた」…何故、日本のフェミニストはデマを流すのか
*3 典型は白饅頭、青眼鏡など。「実践するフェミニズム――【悲報】テラケイがラディカルフェミニストとお友だちだった件」及びそれに続く二つの記事をご覧ください。


 もっとも、この看板自体、法的どうなのかというのはグレーゾーンと言っていいようです。上のニュースでは

千代田区でも、区条例に抵触する可能性があるとして、関係部署で連携し、今後は広告を掲示した店舗の会社に指導していくという。広告は11月8日までには取り外されている。


 とあり、要は「可能性」という段階での「自主規制」だったわけです。
 しかし、とはいえ、何しろ、表現の自由クラスタは「自主規制」もまかりならんというのが信念のようで、本件に対して怒りを燃やしておいででしたが、そこがまた、一般的なオタクとの価値観の乖離を生んでいるようでした。
 そもそも自主規制がダメとなると、もう、この地上から「自由」というものを一切廃し、全てを「表現の自由クラスタ」様のご意向のままにする以外、許していただく術はありませんが、まあ、それこそが彼らの真意なのでしょう
 ……いえ、とまで言っておいてなんですが、確かにことが「フェミのクレームの末の自主規制」の場合はぼくだって「簡単に折れるなよ」「フェミのクレームけしからん」と感じます。もちろん、その場合、ノイジーマイノリティへの過剰反応だといった形での批判は考え得るでしょうが、いずれにせよ「自主規制は規制への道だからけしからぬ」といった批判は、あまりしても仕方がないわけです。
 ぼくは本件を見ていて、幼女物のイメージDVDを想起しました。実は一時期、コミケカタログにも広告が載っていたことがあるのですが(不評だったからか、すぐになくなった時は胸を撫で下ろしました)小学生、下手すっと三歳時とかがマイクロ水着姿でまあ、何かいろんなことをするという内容です。これを見たら、恐らく世間の多くの人は、「法律で取り締まれ!!」と言いたい衝動に駆られましょう。が、「ではこれから子供の水着姿自体が、映画やネット動画などにおいても一律NGとすべきなのか」となると、恐らく多くの人がそれは過剰だと感じるはず。
 これは、結局、法律で対処するような問題ではないし、恐らくアメリカとかだと宗教が、そして一昔前の日本では世間という概念がストッパーになっていたはずです。
 本件の「自主規制」も、それと同じです。ぼくはこの看板を「グレー」であると書きました。「区条例に抵触する可能性がある」という「可能性」の時点で看板が引っ込められたわけで、抵触していたかどうかは現時点では不明です(絵に描かれたキャラが「性的ではあるが、乳首は出ていない」ということもまた、本件の「グレーゾーン性」を象徴しています)。
 この自主規制に対して表現の自由クラスタは激おこでしたが、この「自主規制」こそが上に書いた「世間知」が形となって表れたものであり、まあ、そこは納得せざるを得ないわけです。
 逆にいえば、そうした「世間知」による「遊び」の部分を許さず、全てを明文化する超法治社会とでも称するべきものが、表現の自由クラスタのお好みなのでしょう。いえ、本音を言えば何でもかんでも自由のアナーキズムこそが彼らの理想であることは容易に想像ができ、その前段階として、法の「遊び」の部分を突っつく、というのが彼らの方法論なのでしょう。
 そもそもこうした場合、「表現の自由クラスタ」は「何を性的に感じるかは人それぞれ」といった空論をもてあそび、「一般的な感覚によるジャッジ」を嫌う傾向にありますが、それ自体が自主規制を含めたあらゆる規制を無化してしまいたい、との情念に支えられており、それを演繹すると彼らのお友だちである「ラディカルフェミニスト」たちの唱える「ジェンダーフリー」、即ち全人類のセクシュアリティの完全なリセットをすべき、との結論にしか到達しえないのです。

 さて、こうなると「表現の自由クラスタ」が「フェミ」と全くの同族であることが明らかになるのではないでしょうか。
 表現の自由クラスタは自主規制をも許さず、ゾーニングをも許さず、とにもかくにも平板で想像困難な「自由」を目標としており、そこに広告主の主体的判断が入り込む余地はない。
 フェミニズムもまた、あらゆるジェンダーを否定し、平板で想像困難な「ジェンダーフリー」を目標としており、そこに一般的な男女の主体的判断が入り込む余地はない。
 双方とも、「人類を自分の思うがままに支配すること」を目的とした、異界からの侵略者でありました
 一番わかりやすいのが以前にもご紹介した昼間たかし師匠の主張*4で、師匠はオタクが自分たちの思うがままに政治運動に参加しないことに焦れ、

本当に面白いマンガでも文章でもつくろうとしたら、市民社会には背を向けなければならないわけですよ。獲得するものは世界であって、平穏な趣味生活ではありません。
(https://twitter.com/quadrumviro/status/997042631312982017)


 などとオタクに檄を飛ばし、一方で

せっかくなので記しておくが、「オタクはパブリックエネミー(公共の敵)」といわれて、怒っているほうがオカシイ。最先端の文化が、世間一般から恐れられないということは、まずあり得ない。もしも「ボクたちオタクですけど、一般市民と同じですよ~」というのならば、もう文化としては衰退期に入っているということだ。
(https://otapol.com/2018/05/post-12531.html)



 などと、自分たちの政治運動の駒にならないオタクへの憎悪を露わにしています。

*4 左翼の異常な粘着 または私は如何にしてオルグするのを止めてオタクを憎むようになったか


 しかし本件で看板の撤去をよしとしない者たちに対し、「オタクが嫌われるのも仕方ない」「オタクもフェミも同レベル」といった声がかなり多く聞かれました。
 言うまでもなく、これはぼくのように「一般的なオタク」と「オタクを自称する左派」とは異なり、また、後者はノイジーマイノリティであるとの前提を導入していないが故のことです。
 ぼくが今まで「表現の自由クラスタ」だの、「自分をオタクだと思い込んでいる一般リベ」だのといった造語を濫用してきたのは、こうした事態を恐れてのことでした。
 左派寄りのオタクも多かろうし、またそもそもぼくが「オタク界のトップ」と呼ぶような、文化人面をしている連中は例外なく左派ですが、しかしネットで目立つ、そうした偏向した意見を振りかざす者たちがマジョリティだとは考えにくい。彼らは、一般的なオタクとはまた、区別して考えるべきである、それは丁度、「女性一般」と「フェミニスト」とを混同して語るべきではないのと、全く同じに、というのがぼくの考えです。
 昼間師匠を見ればわかるように、彼らの目的は第一には、フェミを延命させること、第二にはオタクコンテンツを殲滅すること、そして第三は、オタクの体内に爆弾を埋め込み、自民党、及び民家への特攻兵器とすることです。
 彼らは機会があれば、「体制側からの宣戦布告があったぞ」とぼくたちに赤旗、もとい赤紙を送りつけてくることでしょうが、ぼくたちはそれを拒否しなければならない。
 そのことははっきりと、認識しておきましょう。