兵頭新児の女災対策的読書

「女災」とは「女性災害」の略、女性がそのジェンダーを濫用することで男性が被る厄災を指します。

女ぎらい――ニッポンのミソジニー(その2)

2010-10-16 20:36:00 | レビュー

 ラジオの投書などで「中学生の頃、エロ本を学校に持って行ったら先生に見つかってしまい云々」といったエピソードが、時折、話題になったりすることがありますよね。
 そんなエピソードでごくたまに、その先生が女性でありエロ本に過剰に反応された、というパターンってないでしょうか? 先生は「こんなものを見て何が楽しいんですか!?」と激昂しつつ、自分たちの持ってきたエロ本を広げてクラスの一同に見せる。自分は、恥ずべき欲望を公衆の面前で晒し者にされ、針のムシロであった――というような話。
 思うのですが、そんなことをする女性教師って、フェミニストなんじゃないでしょうか?
 エロ本を過剰に憎み、糾弾するフェミニスト先生。
 そして、その立ち振る舞いからは、エロ本を憎むと同時に、多感な思春期の少年が抱えている恥ずべき欲望を「晒しage」ることに、どこか屈折した、歪んだ愉悦が感じられる――実証はしようのない話ですが――ぼくには何だか、そんな風に思えるのです。
 ポルノのジャンルとして、「露出プレイ」というのがあるように、「男子生徒の持ってきたエロ本の露出」というのも、一種の、フェミニストにとってのポルノなのではないか、と。


 さて、本書の発刊イベントとして紀伊國屋書店で上野千鶴子センセイと北原みのりさんとのトークライブが開かれ、ぼくも見学に行ったのですが、大して面白いものではなかった――ということは、前回にも書きました。
 が、イベントの最後の方で北原さんは上野センセイに「フェミニズムは女性を幸福にしたのか?」といった主旨の質問をして、センセイは少しはぐらかし気味に「世の中が悪いんだから、(仮にフェミニズム以降も女性が不幸であったとしても)仕方がない」的な返しをしていました。
 いえ、これはあくまでぼくの記憶に依っているので、正確さには欠けるかも知れませんが。
 フェミニズムが、多くの男性と女性を不幸に巻き込んだ思想であることは言うまでもないのですが、北原さんの面白いところはフェミニズムにどっぷりと浸かりながら、どこかでそんな自分たちに疑問を感じているように見えるところです。彼女の著作、『
オンナ泣き』においても、女性センターかどこかでぶつぶつと独り言を呟いている、ちょっとアブなげなフェミニスト然とした中年女性を見かけ、しかしそれをフェミニズム界隈ではよく見かけるタイプだと述懐する箇所があり、ちょっとギョッとなります*1。


*1 てか、インターネットラジオ「婆星」を聞いてみると、まさしく北原みのりさんこそが「夢脳ララァ」であるという気が、してしまうのですが。


 さて、ようやく本題です。
「ミソジニー」とはとても思えない話題を次々と俎上に上げ、次々とそれらを「ミソジニー」だと言い立てる本書ですが、そのうち二章が、「東電OL殺人事件」について割かれています。エリートOLが夜は売春を行っており、その売春行為の果てに殺されてしまったという事件です。
 もちろん、この事件の被害者女性の内面に何があったのか、それは誰にもうかがい知れません。しかし、この被害者女性は偉かった父の後を継ぐように「男社会」で働いていたそうで、単純に「男性化を求められた女性が、最後に自分の女の部分を発揮したい、男性にモテたいと思って暴走してしまった」というのが、普通の理解ではないでしょうか。
 それは丁度、フェミニストの陰謀により就職させられ、婚期を逃したアラフォー女性たちが目下こぞって婚活に励んでいる構図と、全く同じように。
 また、この被害者女性は売春時に派手な格好をして、しかしその体型は拒食症を患い、退いてしまうほど病的に痩せていたそうです。
 不謹慎ではありますが、どうしてもある種の女性たちを、想像させるケースです*2。


*2『まんが極道』の第一巻「枕営業」では全く実力がないくせに枕営業で仕事を得ていた女流漫画家が、中年になって仕事を失ってからも「私の漫画見てください、いいことしてあげるから」と呟きながら派手な格好で街を徘徊する、というエピソードが描かれます。


 しかし上野センセイはそれを


 均等法以後の女は、個人としての達成と女としての達成、このふたつを両方とも充足しなければ、けっして一人前とは見なされないのだ。


 などと言い立てます。
 それ、「私たちが均等法を通したことが悪かったです」と言ってるのと同様だと思うんですが。
 それとも、「働く以上、女が化粧をするなどといった煩わしい女性的性役割を放棄しても男は文句を言うな」と言いたいのでしょうか。しかし読み進めると、センセイは「男は男性化した女性は例外的に認める、それは女性への蔑視、女性差別構造を温存するための戦略だ(大意)」などと吐き捨てるように書いていますし、それも違うようです。
 えぇと……だったら、やっぱり女性は専業主婦として家庭に収まればいいんじゃないでしょうか? ここまで専業願望が高まっていることですし。
 それもダメ? あ、そう。
 ことほどさようにセンセイの――いえ、フェミニストの主張は支離滅裂なのですが、彼女の中では言わずもがなの真理として「とにかく、男が悪い」という大前提があって、矛盾には全く気づいていないのでしょう。
 読み進めていくと、「女として振る舞いたい」という女性の欲求を、上野センセイは――いえ、フェミニストは全く認めていないことがわかります。女性は本当は「可愛い」と言われたくなどないのに、男たちが陰謀を企んで女性を洗脳して、女らしくすることを強制しているのです。
 ということは――そうか……そういうことだったのか……女の子たちが可愛らしく着飾ることが目玉の『プリキュア』こそ、ょぅι゛ょたちを男性支配社会に組み込もうとする、男たちの陰謀だったんだよ!!


 な、なんだって(ry


 マジでこれ、まだしも「宇宙人の陰謀」とした方が、説得力があるんじゃないでしょうか。
 更にこの事件では、被害者女性は異様に安い対価で、身体を売っていたそうです(その原因は判然としません。女子高生の援助交際の最盛期とあって、年配のご婦人だと相場がその程度だったのかも知れません)。
 しかしそのことがどうしても我慢ならない上野センセイは、当時の週刊誌の一読者である女性の「これは男の値段だ。相手の男を値踏みしていたのだ」との珍説に「炯眼だ」と飛びつきます。そうだという根拠はありませんし、仮にそうだとしても自分に安値をつけることは相対的に相手の男性の価値を高く見積もっていることにしかならないと思うのですが、センセイはそんな矛盾にすら気づく様子がありません。「娼婦は『これだけの金を出さねばあなたはワタシを自由にはできないのだよ』と男に言っているのだ(大意)」などとおっしゃっていますが、じゃあ、安売りすることは自己を貶めていることに、どうしたってなりますよね。

 センセイは「誰もが前提としている一般論」を否定しようとして論理の飛躍に飛躍を積み重ねた挙げ句、一回りして「誰もが前提としている一般論」へと舞い戻ってきたのにそれに気づかず、新天地を見つけたおつもりでいらっしゃるのです。


 もう一つ、センセイの筆致から溢れているのが、当時、男性論者たちがこの被害者のOLを一種、聖者のように崇め奉っていたこと(「娼婦になることは堕落ではあるものの、この堕ちっぷりは逆説的な聖性を持っている」的なロジック)へのお腹立ちです。センセイはこれらの論者にたいして、「自分の欲望を女性に転嫁しているのだ」と憤ります。
 しかしそんな先生の義憤とは裏腹に、多くの女性たちが当時、この被害者のOLにシンパシーを感じていたそうです。とある女流作家はこの事件をモデルに書いた小説で、女性に「男性に構われたい、可愛いと言って欲しい」とのモノローグを吐かせています。が、そんな小説をセンセイが苦々しげに評しているのは実に象徴的です。
 女は、男にモテる(自分以外の)女が大嫌いなものですが、上野センセイはその抑え難い憎悪を、「しかし悪いのは全て男だ」というリクツでもって、男へとぶつけているわけですね。その意味で「ミソジニー」という言葉もまた、実に象徴的と言わねばなりません。本当のミソジニストはセンセイを含め、女性の側なのですから。
 結果、センセイのリクツはどうしても、「女は男を求めてなどいないのだ」といった珍妙なものにならざるを得ないわけです。


 この命題(引用者註・男が女の肉体性に惹かれる)から、中村(引用者註・中村うさぎ)の言うように、女がミニスカをはいて「自分の欲望を刺激するのはけしからん」とか、ブスは「自分の欲望を刺激しないからおもしろくない」というさまざまなヴァージョンが生まれる。いずれも男の一人芝居(ひとりよがり、とはよくも名づけたものだ)なのに、その責任を男は女に転嫁しようとする。セクハラ男が「誘ったのはあいつなんだ」と主張するように。


 といった涙目の筆致からも、それは容易に読み取れます。


 一般に、女性は自分に性的価値があることを証明するために権謀術数を巡らして、男性に行動させます。さりげなくハンカチを落として男性に拾わせる百年以上前の女性たちの振る舞いも、今の女性が「草食系男子」にたいして憤るのも、だからこそのことです。
 そしてここまで来れば、実はセンセイの言動もそれらと全く同じであることも、おわかりになったのではないでしょうか。
 フェミニストたちの病的な言動を、ぼくは長い間、「男ぎらい」だと勘違いしていました。
 しかし、それはそうではないのですね。
 彼女らは「男ぎらい」であると自己演出することで、何とか「男に求められる」疑似体験をしようと涙ぐましい努力を続けている人たちであった、ということを、本書ほどわかりやすく説明してくれたものはありません*3。
そうか、そうだったのか、やっぱり。
 ぼくは著作で男性にたいして素直になれない現代女性を「ツンデレ」であると表現しました。
 それが病的な域に達している(フェミニストなどの)女性を「ヤンデレ」であるとも評しました。
 また、「女性のセクシュアリティの本質は、男性を悪者にすることそのもの」とも書きました。
 ここに至れば、その考えの正しさは、おわかりいただけるのではないでしょうか。
 男を悪者にして、「晒しage」ることで、「男が女(自分)を求めているのだ、女(自分)は男など好きではないのだ」と主張する。それは丁度、冒頭で書いた女性教師のように。
 そうすることで最低限の、自分のプライドは死守することができる。
 その意味で本書は――いえ、フェミニズムという思想は、「私を求める男」という幻想を女性たちに与える、「最後のポルノ」であると言うことができます。


*3 本書にもありますが、フェミニストの本って大体、自分が男性から媚びを売られ、しかしそれを格好よく拒絶した体験のようなものが書かれていますよね。自分が本を出せるエラいセンセイだからこそ、男も気を遣って声をかけてきたということには、気づくご様子もなく。


 本章を、センセイはこんなふうにまとめています。


 そして「承認を与える者」の背理は、「承認を求める者」に深く依存せざるをえないということにある。ミソジニーとは、その背理を知り抜いた男の、女に対する憎悪の代名詞でなくてなんだろうか。


 最初のセンテンスは、「人」という字が互いに互いを支えあう二人を示しているように(笑)、男と女は互いに支えあっているのだ、というむしろいい話に読めます(むろん、「依存」にはネガティブさもあるとは言え)。男が女を求め、女が男を求めることを自然であると考えれば、むしろ自明のことでしょう。
 ですがそれに続くセンテンスが、どういうわけか最初のセンテンスと論理的に繋がっていません。もし繋げようとするならば、「女が男を求めることは男たちの周到で悪辣な陰謀である」という(フェミニスト以外には全く理解のできない)前提を導入する他に、手がありません。
 というか、要はこれは「男にモテたいと思う女の弱みにつけ込みやがって」と、ポロリと本音を漏らしている部分なのですね。
 実は上野センセイは自分の幸福が結局は「男に依る」ものだと知り抜いていて、しかし、それが自分には生涯手に入らないものであることも、わかっていらっしゃるわけです。
 だからセンセイは――いえ、フェミニストたちは男と女のかかわりのネガティビティのみを丹念にすくい出し、それこそが男性性の本質であるかのように言い立てるのです。
 一生口にできないとわかった以上、ブドウは全部すっぱいことにしておいた方が気が休まりますから。


 おわびと訂正
 ★前回、本書が紀伊國屋書店のサイト(と、無料配布している冊子)で書かれた文章をまとめたものであり、本書が出たとたん、「リンク先の上野センセイの文章、読めなくなってしまいました」と書きましたが、一部とは今でもつながっています。おわびして、訂正いたします。

http://www.kinokuniya.co.jp/02f/d05/scripta/nippon/nippon-1.html
 ★本文中でフェミニズムを「最後のポルノ」と表現しましたが、実際には後に出現したBLというメディアが、本来ならフェミニズムが取り込んでいたであろう層を顧客としてかっさらって繁栄を誇っている、そのためにフェミニズムは終焉を迎えた、という事実が判明いたしました。おわびして、訂正いたします。


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女ぎらい――ニッポンのミソジニー

2010-10-08 20:32:01 | レビュー

 以前、ぼくはアルファツィッタラー*1の東浩紀センセイが、かつてオタクをホモソーシャルであり、ミソジニストなのだと言い立てていたこと、そして先日も近い発言をしてあっという間に論破され、あたふたと逃走したことについて書きました
 そこでぼくは、「ホモソーシャル」についての上野千鶴子センセイの発言を引用しました。


*1ツイッターで面白発言をする人。今、ぼくが勝手に考えた肩書き。


 が。
 ……すみません。
 実はぼく、偉そうにいっている割にはこの「ホモソーシャル」、或いは「ミソジニー」にいかなる学術的な根拠があるのか、知らなかったんですね。
 ごく簡単に、この二つの概念に対するぼくの認識をまとめてみたいと思います。
 要は、「男同士の強い結びつき(=ホモソーシャル)」が女性を排除している、即ち男たちは「女が嫌い(=ミソジニー)」なのだ、という、何だか赤ん坊のだだのような幼稚な論法です。
 ただ、とは言え、ここまで彼女らがこのフレーズをあちこちで振り回している以上、ぼくが不勉強なだけで、それなりの根拠のある言葉なのかも知れない。
 そう考えていた折、当の上野センセイがこのような本を出版なさると知り、早速購入することにしました。
 てか、図書館に置いてもらおうと思っていたんですが、Amazonで調べると偶然にもその日が発売日、しかも紀伊國屋書店でセンセイと北原みのりさんとのトークライブ「女嫌いニッポン!」まであるというではないですか。
 暇だったことも手伝い、ついつい行ってしまいましたよ、トークライブ。




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――以上のような感じで、今回、トークライブについて書こうと思っていたんですが、え~と、正直あんまり面白いこともありませんでした。

 ただ、客層は結構意外でした。
 何しろ後述するように、十年一日のフェミニズムです。
 北原さんご自身も本書を上野センセイ久々のフェミニズム本と繰り返していらっしゃったように、既に凋落の一途を辿っている思想です。
 さぞかし取り返しのつかなくなったご年配の婦人たちばかりだろう……と想像していたのですが、結構妙齢でおきれいなお姉さんがいらっしゃったことに唖然とさせられました。
 何しろテキは教育機関を牛耳ってますからなぁ……。


 まあいいでしょう。
 そんなことより、「ミソジニー」について、本書ではどれだけ深い分析がなされているか、です。
 が。
 残念なことにぼくの希望が叶えられることはありませんでした*2。


*2 てか、本書、ぼくが東センセイのエントリでリンクを張った連載をまとめたものに過ぎないんですね。しかも本が出た途端、リンク先の上野センセイの文章、読めなくなってしまいました。せこいぞ!


 さて、「ミソジニー」という概念はそれに先行する、「ホモソーシャル」という概念が前提になっているようです。


 異性愛秩序の根幹に、三角形が、つまり複数の男女ではなく、(欲望の主体としての)ふたりの男と(欲望の客体としての)ひとりの女がいることを喝破したのは、ゲイル・ルービンだった。(中略)結婚とはふたりの男女の絆ではなく、女の交換をつうじてふたりの男(ふたつの男性集団)同士の絆を打ち立てることであり、女はその絆の媒介にすぎないと見なした。


 まあ、こんなところが本書に書かれた「ホモソーシャル」の分析でしょうか。
 結婚が家と家との結びつきであることを、フェミニストたちは「家父長制がどうたらこうたら」というレトリックを持ち出して、ここまで広げます。両家の結婚をきっかけに交友を深めるのはどう考えても両家の男性同士などではなく、女性同士だと思うのですが、上野センセイは
特に気にする様子がありません
「ホモソーシャル」という言葉のそもそものでどころであるセジウィック『男同士の絆』を見ても、イギリス文学の中に繰り返し描かれる一人の女を巡る二人の男性の争い(その根底にある男同士の絆)について執拗に執拗に分析がなされています。
 でも、これってただの小説の中のことですし、日本における通俗的な小説、ドラマでも二人の男が一人の女を取りあうなんてお決まりのパターンですよね。
 それは何故かと言えば(英国文学はさておき、ドラマなどでは)主たる読者、視聴者である女性にとって快い、「複数のイケメンから求愛されるワタシ」という疑似体験を与えるためであり、そしてまた、現実の恋愛においても男性から女性へアプローチすることが多かろうから(そしてまた、求愛は美人に集中するでしょうから)、


 男→女←男


 という構図が出現しやすいと言うだけのことです。

 そしてまた(英国文学はさておき)そうしたドラマに登場する恋敵の男性同士に殊更な絆が結ばれていることが普遍的だとは、どうにも思えません。もっとも、英国文学ヲタの腐女子が見たら、また違った分析が導き出されるのかも知れませんが……。
 まあ、確かに一人の女性に複数の男性の愛が集中するという構図は、ブスにとっては「女性差別だ」となるのかも知れませんけれども。
 これはいささか余談になりますが、ぼくはそれを解消した、男女平等の素晴らしい物語構造が近年の日本において出現したことを知っています。それは「草食系」な男子に大勢の美少女たちが群がるという構造を持った、「萌え」と呼ばれる――あ、ダメですか、そうですか。


 更にこの「ホモソーシャル」という概念には、「(ヘテロ)男性はホモみたいなのにホモを嫌っている」といった意味不明な含みがあり、その更に前提として「ホモフォビア」という、ホモを嫌悪する感情それ自体が決して許されないのだ、という恐るべき理念があります。
 男性集団で「おかま」が侮蔑されるのは男らしさに欠けるから、つまり男性としての資格がないからであり、そしてまた「おかま」によって自分も「性的客体」――言わば女のような存在、「おかま」にされるかも知れない恐怖からだと、上野先生はセジウィックの論理を引用します。
 何だか「おかま」と「ホモ」とを随分と乱暴に混同した論法です。
 確かに男性たちに、「おかま」をバカにする感情が全くないとは言えません。しかし女性性に欠ける女性を、女性は一切バカにしないものなのでしょうか?
 そしてまた、確かに男性たちに、ホモに「カマを掘られる」恐怖があるのも確かでしょう。女性が、男性に襲われる恐怖を感じているのと同様です。むろん、何もしていないホモを性犯罪者予備軍のように扱うヘテロセクシャルの男性がいたとしたら、それは軽蔑されてしかるべきですが、しかし少なくともぼくの知る限り、鉄道会社がホモに襲われるヘテロセクシャル男性を案じ、「ヘテロ専用車両」を導入したといった話は聞きません。
 そしてまた、実は男性集団というのは極めて上下関係の厳しい、序列社会であることが多いんですね*3。それは実は集団内での責め/受け、男性役/女性役がはっきりと決まっているということでもあります。この辺りぼくなんかより、上野センセイの方が何百倍も繰り返して指摘していらっしゃることであるはずなのですが。
 要は男性たちが忌避しているのはあくまで男性同士の「性的な」つながりであり、「女性ジェンダー的役回り」ではないわけですね。

 そこから鑑みるに、ヘテロ男性に普遍的に存在しているホモへの嫌悪は、単なる男性の肉体性に対する嫌悪感に根ざしていると考えた方が自然なようです。


*3上野センセイは「男性集団においては性的要素は排除されている」と、まるで「純愛映画にはゴジラが出てこない」みたいな当たり前なことを指摘していますが、おそらくそこに責め/受けの関係性を見て取る腐女子の方が、更にラディカルではあるでしょう。


 さて、では「そのホモソーシャルとやらがミソジニーとどう結びついているのか」に対する答えはいかなるものなのでしょうか。


 女を自分たちと同等の性的主体とはけっして認めない、この女性の客体化、他者化、もっとあからさまに言えば女性蔑視を、ミソジニーという。


 なぁんだ、ですね。
「女性蔑視を、ミソジニーという」と書かれていますが、これは「ミソジニーとは女性蔑視のことである」と書き換えられるべきでしょう。
「好き/嫌い」という人の「感情」を「女性への差別」であると言い募り、絶対的に許すべきでない、糾弾の対象とせねばならないのだとの、北朝鮮的感受性でもって男性を恫喝すること、それがこの「ミソジニー」という言葉の本質です。
 というか、男性にとって女性は客体であり、他者であるのは自明なのですが、そのこと自体が上野センセイにかかっては「女性蔑視」なのですから、もう、ぼくたちは人類補完計画でも発動させて女性と自我を完全に融解させることで「身体にすり込まれたジェンダー規範」だか何だかから解放されない限り、許してもらう方法はなさそうです。
 そしてここで「証明」は終わったとばかりに、この後、センセイは専ら「家父長制が云々」「性は自然ではなく作られたものであり云々」と、彼女のデビュー当時から既に古かった「持ちネタ」を、飽きもせずに繰り返す作業に腐心します。
 関西の芸人だって、ここまで同じ芸をただ機械的に繰り返したりはしないでしょう。
 断っておきますが、上野センセイが抽象論に終始するのをいいことに、ぼくが言葉を恣意的に解釈しているわけではありません。何しろセンセイは、この社会の「ジェンダー規範」、即ち「男らしさ/女らしさ」を完全に否定していらっしゃるのですから。


 今の皇太子が雅子さんを妻としたときに、「一生全力でお守りします」と言ったそうです。それをセンセイは


 このせりふに当時どれだけの日本の女がしびれたことだろう。もしあなたがこのせりふに「しびれた」女のひとりだったとしたら、あなたもまた「権力のエロス化」を身体化した女性だと言ってよいだろう。「守る」とは囲いに閉じ込めて一生支配する、という意味だ。


 と憤ります。
 また韓流スターがインタビューで「女性は自分が守りたいから。」と語っていることについても、「所有したい」と言っているのと同じだと言い立て、


 だが、この記事をインタビューした『週刊朝日』のおそらく年若い女性編集者が、かれの発言を、半ばうっとりと賛嘆をこめて伝えているのを見ると、二一世紀の今日においてもセジウィックが一九世紀のイギリスに見いだしたのと同じホモソーシャルとミソジニーとが、まだ歴史的賞味期限を保っていることを再確認させられる。


 とまでおっしゃいます。
 ぼくも例えば男性が女性を守って死んでしまったような事件を美談として伝える風潮を、あまり快くは思いません。しかしそうした「ジェンダー規範」は全否定することなく、うまいさじ加減で「利用」していくのが大人の知恵だというのがぼくを含め、一般的な人々の考えでしょう。例えば、女性にモテるために女性に代わって力仕事をしてみせること自体を、ぼくは別に悪いとは思いません。
 しかしセンセイにかかっては、女性をかばって暴漢に刺されて亡くなった男子高校生すらもが「女性差別者」に他ならないわけです(実際にそうおっしゃったわけではありません。しかしセンセイの論法では論理的帰結として、どうしてもそうならざるを得ないのです)。

 正しいか間違っているかは置くとしても(もちろん間違っているのですが)センセイの――いいえ、フェミニズムの主張がまず、男女含めぼくたちの生活実感から遥か遠くに遊離した、普通の人間には受け容れ難いものであることは、明白でしょう。

「ミソジニー」とか「ホモソーシャル」とかを、「何か、目新しくて格好いいから」という理由でつい口に出してしまったことのある人々は、センセイのこうしたエキセントリックな思想が果たして受け容れられるのかどうかを、まず一度考えてみるべきではないでしょうか。


 ついでです、あと二つ、センセイの記述を引用します。


 売買春とはこの接近の過程(引用者註・男女のおつきあい)を、金銭を媒介に一挙に短縮する(つまりスキルのない者でも性交渉を持てる)という強姦の一種にほかならない。


 そんなことを言い出したらあらゆるポルノは強姦ですし、恋愛結婚以外の結婚も強姦でしょう。
 こうなるとセンセイが児童ポルノ法に反対してみせていることが、不思議としか言いようがありません*4。


*4仮にですが、上野センセイのお考えが、「あらゆるポルノを女性差別として否定する、しかし非実在少女をモデルとしたエロ漫画、エロゲーだけは認める」というものであれば、筋が通っているとは思います。


 もう一つ。
 センセイはポルノなどで描かれるのが(決して男性でなく)専ら女性の愉悦の表情であることを引きあいに、こんなことを言い出します。


「ぼくら男ってのは、結局、女性の快楽に汗を流して奉仕するだけの存在なんだよ」とのたまう男がいる。
 だが、「奉仕」のことばには、逆説的な支配が含意されている。


 その通りです。
 よくおできになりました。
「奉仕」には逆説的な支配が含意されているのです。
 今までそうやって、弱者のフリをして、ある人種を支配し続け、その挙げ句に絶滅に追い込もうとしている勢力を、ぼくは知っています。
 言っておきますがその勢力の名は、決して「フェミニズム」などではありません。
「女性」そのものです。


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モテキ(その4)

2010-10-02 01:16:53 | アニメ・コミック・ゲーム

 ドラマ版『モテキ』終了。
 何だ、監督のインタビューで「ラストを変えます」とか言ってたけど変わってないじゃん。
 いや、「変わってる」けど作者のウンコ・メッセージは
より明確な形で表現されてるじゃん!
 まあ、原作を是とした上での映像化なのだから、確かにこれでよいのでしょうが。


 さて、そんなドラマ版とは何らかかわりもなく、ぼくは最近、我ながら頭の悪いことに、『モテキ』の本質にようやく気づくことができました。
 要はこの作品、根底に流れている価値観が、「古い」んですね。
 作者の久保ミツロウセンセイはアラサーなのですが、アラフォー臭がすると言うんでしょうか。
 これが二十年前であれば、すなわち内田春菊センセイがデビューしてちょっと……という頃であれば、それなりに新しかったのでしょうが、今となってははっきり言って古過ぎる(逆に言えばその辺りの世代に支持されている、一種の「懐かし企画」なのかも知れませんが)。


 久保センセイが『草食系男子の恋愛学』に毒を吐いていることは、前にもご紹介しました。
 この本はマチズモを捨てた今時の若者を称揚する内容なのですが(……のわりに作者の若者に対する「女性を尊重せよ」とのお説教が長々と書かれていた記憶もあります。何か矛盾していますがまあいいや)、そんな軟弱な男たちを、久保センセイは決して許すことができません。
 草食系男子のそもそもの定義は「別にモテないわけでもないのに女性に対して淡泊な男」というものなのですが、それが夢にも信じられないことなのか、彼女は単なる非モテと捉えていますし(この辺りは皮肉なことに、『草食系男子』も全く同じ誤読を犯しています)。
「草食系男子たちよ、奮い立って狩りに出よ!」とか、本気で言っちゃいそうな感じが、久保センセイの古さなわけですね。
 こうしてみると、センセイやかつての女性作家たちの男性への毒吐きは、被愛妄想ギリギリの「男性の女性への欲望の過大評価」を前提に成り立っていたことがわかります。
 そうした過大評価の上で、自作を得意げに「ラブマイナス」だなどと称してみせる(対談でそうおっしゃっていました。恋愛のネガを描いているのだ、との意でしょう)。
 しかし、残念なことにいかに著者が「ラブマイナス」を描こうとも、少なくとも男性読者は『ラブプラス』を選択する。
 何となれば、「描かれる前」から、そんなことはわかりきっているのだから。
 現世こそが、ラブマイナスなのだから。
 ここから透けて見えるのは、


「女に夢を見ている」との風説とは裏腹に、「現実の女に疲れ果て」て、アニメの美少女にはまっているオタク/「現実主義者」を自称するのとは裏腹に、「現実の男たちの本音」を知ろうともせず、受け容れることもできない女性


 という図式です。
 正直、今の(イケメンでモテそうな)草食系男子たちの本音がどんなものかは、あるいはそもそも本当にそんな男子たちが「実在」しているのかどうかは、ぼくにはわかりません。
 しかし、一方で「オタク」業界では常々三次元女子に対する二次元女子の優位性が語られ、「男性差別」業界では血を吐くような女性への呪いの言葉がひたすらに繰り返されているという現実を、ぼくは熟知しています。
 後者を、ぼくはあまり快く思ってはいないのですが、しかしここまで来てまだなお男性への依存を一向にやめる気配のない女性たちに、男性たちが心底疲れ果ててしまったことだけは、ひしひしと感じます。
 男性たちの、それこそ星新一の「たそがれ」で書かれたような「疲弊」。
 女性たちの、「でもアタシとやりたいんだろ? なら奮い立て、能動的になれ」とふんぞり返り続ける、それで何とかなるといまだ思い込んでいる、額に入れて飾っておきたいような「楽天」。
 そんな時代に、女性作家が生き抜くには?
 はい、男性主人公を出して「女とやりてー!!」と叫ばせておいて、
おもむろにお説教を開始する漫画を描くことですね。


 さて、ただ、ちょっと最近、また少し別なことに思い至りましたので、ここに書き留めておきます。
 番外編において、フジ君は学生時代、エロ漫画を描いていたことが描写されています(ドラマ版でも過去のフジ君が『ときメモ』をやっている描写がありました)。
 が、現在のフジ君がオタク趣味を持っている描写は何一つ、ない。どちらかと言えば音楽好きのサブカル君として描かれています*1。
 これをそのまま取ればフジ君は「二次元の世界に一度は足を踏み入れながら、現実という名のクソゲーへと戻っていった奇跡の人」ということになります。しかも、恋人ができて三次元に戻りました、ならわからなくもないのですが、フジ君は少なくともモテないままです。
 前回のエントリにおいても、久保センセイがいかに「二次元女子」に憎悪を抱いているかについて、ご説明しました。また、ブログなどで萌え系作品を貶めることで本作を称揚している方がいらっしゃることも、ご紹介したことがありましたね。
 ついでに指摘しておきますと、上に「アラフォー臭」と書きましたが、この作品ではフジ君を導く上位存在として元ヤンキー女を配するなど、どうにも価値観がDQN的というか、80年代的です*2。

 しかしひるがえって、2010年代の「オタクシーン」は大変に楽しそうです。
 いかに久保センセイが憎悪を募らせようと、萌えの世界には女性のクリエイターも大変多いんですね。美少女物のゲーム、漫画、アニメと(アダルト作品、非アダルト作品を問わず)女性の作り手は非常に多い。
 萌えアニメを見て声優を目指した女の子たちは、既に今の萌えアニメのヒロインとして活躍していますし、メイド喫茶に行けば、メイド服が着たくてバイトに入った子が大勢いることでしょう(まあオタクがメイド喫茶に興味を持つかは別として……)。女性のアイドル声優さんは自分が『ラブプラス』にハマっていることを、実に屈託なくラジオなどで語ります。
「オタク女子」はかつて、BLという「女の園」を生み出しました。そこに棲まう彼女らからは男性に対する屈折が多少、感じられました。
 むろん、その「女の園」はいまだ健在ではあります。そしてナオンにモテたい東浩紀センセイなどは揉み手をしながら、この女の園の周囲をいまだうろちょろしています。が、おそらく今の「オタク女子」は、美少女系の萌え文化にもあんまり拒否感はないことでしょう。
 すでに日本を席巻してしまったかに見える「萌え」はこれからも更に拡大を続け、久保センセイや東センセイのような方々が完全に旧世界の遺物と化してしまうのは、歴史的必然なわけです(東センセイ的には「オタクは下等だが腐女子はエラい」というリクツですが、こういう手合いは女性が男性と同じような萌え作品をクリエイトしている場合、どういう評価になるんでしょうね?)。
 そう考えると、『モテキ』とネットの酷評との対立は一見、「男vs女」のバトルに見えますが、その実「新世代vs旧世代」の世代間闘争であるという見方こそが、正しかったのかも知れません。
 女性の、自分よりも可愛い、若い女性へのルサンチマンは筆舌に尽くし難いものがありますが、「萌え」業界に女性が多いことの理由は、そもそも二次元のキャラだからある程度そうした感情を御しやすいという理由があるように思います。つまり、萌えキャラに自己同一化することが、女性にとっても癒しになるということですね(むろん、この御しやすさが逆に行くと暗黒面に落ちてしまう危険をもはらんでいるわけではありますが)。
 としたら。
 男の子たちが作り上げた「萌え」文化は「ヤンデレ化」、「ブス化」のとまらなくなっている女の子たちをも救う可能性があるのではないか。
 そしてオタクの手柄により、人類はさらに生き延びる、のかも知れません。


*1フジ君がストレートなオタクとして描かれていたら、ぼくの沸点ももっと下がっていたのですが、そうなっていないのは単純に久保センセイに知識がなかったからなんでしょうね。
*2本作では音楽が重要なモチーフになっており、音楽ネタ的にはどの辺りの世代向けのものなのか、ぼくにはわかりかねますが。


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