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兵頭新児の女災対策的読書

「女災」とは「女性災害」の略、女性がそのジェンダーを濫用することで男性が被る厄災を指します。

「ミソジニストよ、〈フェミニスト〉たれ:風流間唯人a.k.a.兵頭新児への挑戦状」を読む(その5)

2025-08-31 19:33:49 | フェミニズム


 さて、あんまりやる気はないんですが、続きです。
 いや、書いてる方が初っ端からこんなことじゃ、読まされる方こそ読む気がなくなるでしょうが。
 しかしそれは、人のせいにするようですが、先方が「同じ一人言をただ、繰り返すモード」から抜け出さないからです。
 ひるがえってこちらとしては毎回、内容にそれなりに新味を持たせようとしているのですが。
 今回はその新味の一環として、暇空茜に対してもよく言っていた、「思想のない」タイプの人間がどのようなものかを指摘してみようと思います。
 では、そういうことで……。

 ぼくは今までずっとウィックジェイ氏の抱える致命的な問題をいくつも指摘してきた。
 彼がそれに有効な反論をし得たとは言いがたいが、やはり中でも「ウィックジェイ氏はフェミという言葉の意味を捻じ曲げている」という指摘は重要で、今回の彼の反論も専ら、しつこくそこに拘泥していた。
 残念なのはそれが(今までと同様に)居直りに過ぎず、反論足り得ていないことなのだが……。

「家族制だの主婦だのに親和性を持つ、ごく一般の女性」を「フェミニスト」として認めない、というなら、どうぞご勝手に、としか言いようがないですね。どうせそれで痛い思いするのは兵頭さんですよ。
(中略)
『だんなデスノート』や『射精責任』が「フェミニズム本」とは言えない、その一言だけでも相当に今のアンフェ達の求心力を失ったでしょうね。


 いや、ぼくが認める認めないではなく、彼女らがフェミではないのは、客観的事実なんだって。
 それをウィックジェイ氏やその他フェミを守りたくて仕方のない左派の御仁が、事実をねじ曲げてるだけなのだ。
(もちろん、表現の自由クラスタでも下っ端やYouTuberなど、知識がなく、彼らの誘導に乗っている者も、大勢いる)
 そのことは今まで幾度も幾度も、相当数の文字数を費やし、述べてきた。
 こうした彼らの流布したデマを受け容れないと、痛い目にあったりアンフェの求心力を失ったりするそうなのだが、もちろん根拠は記されない。
 まあ、ご当人が「どうぞご勝手に、としか言いようがない」と言っているように、これは反論に窮しての捨て台詞、フェミの「モテない」といっしょで、実質敗北宣言だ。
 もっとも、これは「左派の主観」では正しいのだろう。
 そもそも左派というのは現在においては専ら「デマの流布」だけが業務となっているし、また彼自身が指摘したように表現の自由というものはなく、上の押しつけるデマを受け入れない者は「痛い目」に遭う。また彼らの業界における「アンフェ」とは「フェミの傀儡」との意味なので、ぼくが彼らからの求心力を失う、というのも彼にとっては「事実」なのだ。

そもそも社民党や共産党さえ、40代以下の若い世代からは「保守派」と捉えられつつあるということはご存知なくて?


 どわはははははははははは!!
 本当にそうした事実があるのか、ソースが提示されていないのでわからないが、本当だろうとウソだろうと、社民や共産が保守ではないという「事実」に変わりはない。
 何故ウィックジェイ氏はこんなデタラメを弄するのか。
 例えば今回の選挙は単純に右左と言うよりは新旧の戦い(旧が新に敗れた)といった感が強く、「保守/革新」を「旧/新」と解釈すれば、一応、共産なり社民なりを「旧」とは言える。どうも、彼が言いたいのはそうしたことのようだ。
 しかしそうなると、参政党や保守党は言うまでもなく「左翼」と言わざるを得なくなる。
「フェミ」という言葉もそうなのだが、彼は議論中、常に言葉を文脈から抜き取り、その定義を変幻自在にねじ曲げ、反論の真似ごとをする。
 そもそも彼がどうしてこんな珍説を弄し始めたのかというと、「フェミは保守派なのだ」とのウソを正当化するためだ。だがその珍説を受け容れるなら逆に「家庭重視フェミ」は保守派じゃないことになってしまうわけで、卑劣な詐術というしかない。
 ただ、これは幾度か繰り返しているけれども、彼は悪意で卑劣なことをやっていると言うよりは、完全に天然なのではないか、と思う。
 思考という作業に慣れていない人は、往々にしてこうした話の持って行き方をする。相手の主張を咀嚼してそれに対して論破するのではなく、ただ、言葉をつぶてのように投擲して相手を黙らせれば勝ち、というのが「議論」であり「対話」であると、彼らは本当に思っているのだ。
 これはまた後でちょっと広げるので、憶えておいて欲しい。

 また、ウィックジェイ氏は自身の「(フェミは結婚を全)否定しない」という主張をぼくが「全肯定している」とねじ曲げて解釈しているのだと言い募る。
 が、ぼくは「全肯定している」などと言っていないし、そもそもこの主張の根拠として引用されているぼくの発言と、ウィックジェイ氏の主張(言いがかり)とは全然噛みあってないし、その引用箇所のぼくの発言の意味も、理解が及ばない様子だ。
 以降、彼は「フェミは結婚を全否定していない」という彼の妄想を証明しようと、ドウォーキンの「結婚制度は奴隷制度」とうテーゼは「妻が夫や子供を奴隷にする制度であると解釈し得る」みたいなことを言い出す。
 ここは(も)本当に何度読んでも何が言いたいのかよくわからない。
「ドウォーキンがそうしたこと(「結婚制度」を夫や子供を奴隷にする制度へと作り替えよ)を言ったのだ」、と言っているのか、それとも「そうした主張している別なフェミニストがいる」と言っているのか。
 いや、恐らくだが、彼の言わんとしていることはいずれでもなく、「仮にそのように考えれば結婚制度はフェミの眼鏡に適うモノになる」とのリクツになるので、「そのような主張をするフェミがいる可能性はあるよ」というものなのではないかと思う。
 つまり「ひょっとしてあるかも知れないこと(わけのわからない妄想)」を仮想することで、彼は「やっぱり俺の言ったことは正しかった」と言っているのだ。
 そしてこの論法は、今までにも指摘してきたように、彼の主張の中に常に立ち現れている(白饅頭についてのわけのわからない擁護など)。

「一般の普通の女とフェミとを分けよ」というのがぼくの主張だと言うことは、どうもようやくおわかりいただいたようで、そこは大変めでたいのだが、それについて、彼はとんでもない反論を思いつく。
「一般の女もフェミが自分たちを結婚から遠ざけたということは知っているが、フェミの主張する性観念、家族観解体という志向を否定しきれないが故、男のせいにしているだけだ(大意)」。
 もちろん、一般の女がそう考えているという根拠は、何一つとして示されない。
 仮に「一般の女」がフェミの主張、志向を否定し切れていないのであれば、そんなヤツは実際には「フェミ」そのものなのだから、これはトートロジーで、単に「一般の女もフェミだったのだ(証拠はないけど)」と言っているだけだ。
 しかし一般の女がフェミの目的は恋愛、家庭解体だというコアな部分について知っているわけがないし、共感するわけもない。していれば、電話帳のような結婚情報誌が出続けているわけもないのだ。
 そもそもそうなると「家庭重視フェミ」とやらがどこにいるのかわからなくなる。
 彼の主張は前提も間違っているし根拠もないし、本来の主張とも整合性が保てないものばかりだ。

 もう、ここまで見てくれば明らかだ。
 彼の思考経路は「俺は正しい、しかし証拠はない」、「だがもし現実がこうであるならば、俺の主張の辻褄があう」、「だからそうなのだ、そうじゃなきゃ嫌だ」というものであり、先に挙げたわけのわからない主張も、そうした過程によって生まれてきたものなのだ。
 これはUFOのトリック写真を暴かれて、大慌てで「待て、UFOの隣に写っている飛行機、一見飛行機に見えるがこれこそが飛行機に偽装したUFOなのだ」と言い出すようなものだ。
 確かに、「単に飛行機が飛んでいる写真」を掲げられ、「実は偽装したUFO」と言われれば、絶対にあり得ないとまで断ずる根拠はない。だがそれでその飛行機がUFOだ、と実証したことにはならないのだ。
 これはオカルト業界の人たちの主張に非常に広範に見られるもので、例えば万有引力を否定したい人が、「リンゴが木から落ちる現象」をエーテル理論(リンゴはエーテルの滝に流されたのだ)で「説明」し、そこで「論破終了」とするなどがお約束だ。つまり、「こうした可能性がある」との仮説の提示と「証明」とを彼らは区別できずにいるわけだ。
 それもこれも、聖書の原理主義的な解釈以外の思考が何一つ許されない、左翼の業界の体質なのかも知れない。

 またぼくは前回、とにもかくにも昭和的ジェンダー観を否定しようとする彼を批判し、以下のように書いた。

そこを、昭和でも家族制でも結婚でもいいんだけど、そのネガティビティだけを持ち出して「定年するまで父親の顔もほとんど見たことがない」なんて極論を唱えるのは、もう頭が偏見で凝り固まっている証拠だ。


 それに対し、彼は以下のように再反論を試みている。

しかし兵頭氏はそれを「極論の例」として切り捨ててしまっている。これは結局「アンフェの中で③だけを許す」ムーブと変わりません。


 え?
 これって本当に同性愛とか夫婦別姓を持ち出したがる、フェミそのものだよなあ。こっちはあくまでトータルな幸福感について述べているのに、彼は「少数派を切り捨てるな」と言っただけでそれを覆せると思い込んでいる。こちらが挙げた反論など何も検討することなく、それだけで「言い返せた」と思い込んでいるのだ。
 どうしてもそれが正しいというのであれば、「定年するまで父親の顔もほとんど見たことがない」子供がどれくらいいるのか提示すべきだろう(まあ、「ほとんど」という言葉を拡大解釈すれば、こんなのどうとでも言えてしまえるんだけど)。
 そもそも「③だけを許すムーブ(はけしからぬ)」などと言っているけど、こちらのスタンスが最初から③、つまり「昭和回帰論」だということを、ひょっとしてこの人、いまだに理解できてないんだろうか。いや、自分の脳内の「正義」があまりに自明で、ついこのような表現になってしまうのだろう。彼の言説には非常に往々にして、そうした傾向が見られる。
(ただし、③は「伝統主義・共同体主義からのフェミニズム批判」とされていて、この分類、認識もあまり好ましくないことは、既に述べた通りだ)

「左派に言論の自由がない」と言いますけど、そもそも「アンフェに言論の自由がない」ことこそ、どうにかすべきことではないでしょうか。


 れれっ!?
 今まで、ぼくは「左派の表現の自由のなさ」を指摘してきた。しかもそれはウィックジェイ氏の言い訳がそれを前提したものであったからで、ぼくは頭を抱えながら(この経緯も理解できてなさそうだなあ)、そこを辛抱強く指摘してきたつもりだ。
 しかし、「アンフェの表現の自由のなさ」って何だ?
 今までにそんな話は出てきてないぞ。
 恐らくだがこれは、本当に脊髄反射で相手にボールを投げ返しただけなんじゃなかろうか。「バーカ!」「お前こそバーカ!!」というヤツだ。自分が絶対にカシコである以上、バカだと言われた自分よりも相手はさらにバカに「決まっている」のだ。
 もちろん、左派に表現の自由がない以上、左派のアンフェにも表現の自由はない。
 だからこれまた、「彼の主観」では正しいのだろうが、だからこそ左派のアンフェ(なんていう形容矛盾なモノ)は否定されるしかないものなのだ。
 ここに限らず、どうにも左派は自分のいる山小屋を全宇宙だと思い込み、事実の認識がおぼつかない傾向があるように思う。

 冒頭にも挙げた暇空茜と、ウィックジェイ氏は同じタイプであるように思う。あくまで目に見える利益と勝利を得ることこそが目的という現実主義者であり、思想というものを持っていない。そのため、「勝てればいい」のであり「思考」というものに慣れていない。
 ぼくは彼らを愚か者だと嘲笑したいわけではない。
 暇空はまあ、ちょっと、今は不調だが、それでも裁判に訴えるなり都知事選に打って出るなり、結果としてあまりいいものを残せなかったものの、とにかく現実と格闘して明確な勝利を得ようとしているところは、ある意味エラい。自分の適性を理解しているとも言える。
 しかしウィックジェイ氏は人工子宮だなんだと唱えているわりに、別にそれに対するシミュレーションを行うわけでもない。何とはなしにUFOを求めて宙を眺めているばかりだ。
 ぼくはまずフェミとの戦いは思想戦であり、暇空や彼のようなやり方を評価はしないけれども、しかし彼がどうしても主張を通したいのなら、彼に見あったやり方で、それを世に問うしかないのではないか。

 幾度かUFOを例に出した。
 ぼくは今まで彼をシャアとかドゥガチ(とかジャイアン)に準えてきたが、やはりここはオカルト信者に準えた方がわかりやすいかも知れない。
 一九六〇年代はUFOブームで、一般的にも「ひょっとして宇宙人がUFOに乗ってやってくるんではないか」といったムードは薄々あった。そんな中、CBAというカルト団体は「地球の終わりは近い、しかし我が団体のキヨラカな心の持ち主だけはUFOが飛来して助けてくれるぞよ」と主張し、騒動を起こした。
 丸っきりジェンダーフリーのパロディでしかない皮相的な人工子宮論をぶつも、明確なビジョンも何もない彼は、まさにこうしたUFOカルト、人類が滅亡するのに自分たちだけはちゃっかり助かるというおとぎ話を信じることのできるお調子者たちとそっくりだ。
(その意味で彼が「宇宙人様のお告げを無視した兵頭には神罰が下るぞよ」と脅しているのも実に象徴的だ)
 だが、UFOの飛来を信じてお祈りを繰り返しても、恐らく彼らが助かる未来は、ない。
 それでも神罰が恐ろしいと言うなら、彼の教団に入ればよい。
 もっとも、カルトの唱えた時期を過ぎても人類は滅亡していないという事実だけは、頭の片隅に入れて措いた方がいいかもしれない。予言が外れたことに、責任を取った教祖様は有史以来、ただの一人もいない。

風流間唯人の女災対策的読書・第72回 ミソジニーはフェミを救う――アンチツイフェミというポジション

2025-08-10 18:43:56 | フェミニズム


風流間唯人の女災対策的読書・第72回 ミソジニーはフェミを救う――アンチツイフェミというポジション


 第七十二回です。
 フェミニズム批判喧しい昨今ですが、近年はフェミニズムそのものを飛び越えて「ツイフェミ」、「一般的な女」こそが憎まれるようになりました。当チャンネルは一貫してそれに批判的でしたが、それは一体何故?
 今回は初心に立ち返って、その辺りについて初歩から確認していきましょう。

「ミソジニストよ、〈フェミニスト〉たれ:風流間唯人a.k.a.兵頭新児への挑戦状」を読む(その2)

2025-07-06 20:13:50 | フェミニズム


 ――さて、前回の続きです。
 ウィックジェイ氏、前回のぼくの記事に対して長い長い再反論をしていました。それも最初の記事に追記という形でつけ足されているのですが、それがタイトルや冒頭で告知されているわけでもないので、大変にわかりにくいのですが。
 そして肝心の内容は……ぼくに対して「核心的議論に何ら反論していない、まして意図的に無視してるんじゃないか?とさえ思えるものでした。」と言いつつ、その再反論はこちらの主張に対し、「核心的議論に何ら反論していない、まして意図的に無視してるんじゃないか?とさえ思えるもの」でしたw
 まあ、互いの論点が全く交差してない証拠ですが、そうなるともうどう頑張っても相互理解はなし得ないでしょうね。仕方がないので、こちらも今回は(前回の老婆心的なものではなく)山本弘調の文体を目指してみました(笑)。
 では、そういうことで……。

 ウィックジェイ氏からの反論、まず、初っ端から驚かされる。
 何しろ彼は以下のように言うのだ。

白饅頭a.k.a.御田寺圭氏が「フェミの手先」?!いや、彼の言論を全面的に支持しないとしても、あんなに言論界のフェミニストやそのお仲間の左派リベラル論客にボロクソに言われる「フェミの手先論客」なんて聞いたことがないんですが。


 信じられない!!
 彼はこんな初歩的な事実を知らず、アンチフェミ論客として活動しているのだ。
 このこと自体は、ぼく自身がずっと指摘していたことで、にもかかわらず残念ながら、長年認知されることのなかったことなのだが、少し前、小山晃弘氏がぼくの記事込みで採り挙げてくれたため、広く知られるところになったはずなのだ。
 いや、ウィックジェイ氏もぼくの記事を読んではいる。
 ところが彼はこんなことを言って、それを否定するのである。

そもそも前者では寺圭氏がその本について兵頭氏ほどの読解力を持っていたという保証は全くありませんし(彼はこの他にも、ミサンドリーフェミニズムに染まりきった書籍を「この本にミサンドリー的思惑は見られないから安心して欲しい」などと言って肯定的に紹介し、周囲の発言を見て取り下げてしまった例がいくつもある)、後者では「既に分かりきっていることをママに怒られないようにモザイクをかけたのがこの書だ」としていますが、それだけでは「寺圭はフェミニズムの手先である」とは言えません。


 そんな馬鹿な!
「本人の読解力がなかったのだ」なんて仮定を導入すればどんなことだって言えてしまえるし、白饅頭が他にもフェミ的な本を非フェミ的な本だと紹介しているのなら、いよいよ彼は「アンチフェミ(表現の自由クラスタ)を懐柔しようとしている、フェミの手先である」と考える他はない。ウィックジェイ氏は自分で自分を不利に追い込んでおいて、それに気づいていないのだ。
 にもかかわらず、彼はぼくのことを、以下のように罵るのだからたまらない。

私には兵頭氏のほうがよっぽど「フェミの手先」に見えていますけどね。


 ウィックジェイ氏は小山氏の「①平等主義からのフェミニズム批判」「②自由主義からのフェミニズム批判」「③伝統主義・共同体主義からのフェミニズム批判」といった分類を前提に議論を進めており、ぼくはそれを批判して、この分類自体にも問題があるとした。
 ①、②は左派寄りの価値観であり、この分類ではそれと③の保守寄りの価値観を対立的なものであるかのようにも見える。ところがぼくの前回の主張は、①や②を成就しようとしたら、③という(価値観ではなく)方法論へと行き着くのは、一種の必然だよといったものだったのだ。
 ところがウィックジェイ氏は……。

「③という“方法論”に行き着いた」のだって、先に述べたように「反フェミニズム言論の中で③だけが許されていた、ましてフェミニズムからも“戦略的に黙認”されていた可能性がある」ことを抜きにしては語れないはずです。


 ああっ、やっぱりわかってない(笑)!!
 この「先に述べたように」とあるのは白饅頭を擁護してのことで、目下、アンチフェミは③のスタンス言論のみが許されており、しかし白饅頭はそれといっしょにされたくないとの思惑があったがため、フェミを誉めるようなことを書いているのだ、と彼は言うのだ。
 うわあ、またしても自分で墓穴を掘ってる!
「自分たちは左派なので、保守的な主張はできない。だから主張を左派的なものに寄せたら、フェミ擁護になってしまった。」
 彼の発言は普通に取ればこのようにしか解釈できない。白饅頭がいまだ商売を続けていられるのも、左派のこうした党派性があればこそなのだろう。
 そもそも「反フェミニズム言論は保守的なものだけが許されていた」というのは要するに左派に自由がないってことじゃないだろうか。思想、発言の自由がなく、自由主義的観点からの批判すら許されていない。白饅頭はそれ故、ポルノを全否定し、国家権力を動員して「女性差別」とやらをなくせと絶叫する著書を、諸手を挙げて絶賛した。
 そこまで全体主義に陥った左派に与することに、どれだけの意味があるのかさっぱりわからない。
 これじゃ、「フェミの手先」なのがどちらかとなると……。


「多くの女性が家庭に入ることを望んでいる」のも、特に日本の経緯としては「(第2波フェミニズムの高まりによって)女性が家庭に入らなくなることにビビった政治家や官僚たちが、家庭に入るインセンティブを強化させたから」という所が大きいんです。


 えええぇぇぇ~~~!?
 初めて知ったぞ!
 これは、ぼくが「女性が家庭に入りたがるのは普遍的だ」としたことに対する反論。
 大体、今回のウィックジェイ氏の反論は「○○という可能性を抜きにできない」「○○というところが大きい」と繰り返されており(その主張自体も間違っているが)根本的な反論ができず、枝葉の部分で「実は保守派のせいだった……かも」と言い訳しているという感が強い。
 これについてもウィックジェイ氏は例として、「家計や親権は完全に母が握って」いること、或いは「年金を保障」していること、「夫婦別姓にはしないけど「結婚前の旧姓」はもっと様々な場面で使えるように」なっていることを挙げるのだが、最初のものはそれこそ「伝統」であろうし(何しろ妻が家系を取り仕切るのは日本の特殊事情なのだから)、年金についてもフェミにビビってのものではないだろう。旧姓を通例として使用するのはむしろ、フェミにつっつかれての妥協案だから、これまた順序が違う。
 そもそもここでウィックジェイ氏は端から家庭というものを否定し、夫婦は別姓が望ましいという、完全にフェミの価値観に毒されていることを告白してしまっている。
 そのフェミの論法は男女に性差はないのだ、あってはならぬのだとの強固なドグマに支配されたところに生じているが、その思い込みは、既に過ちだとわかっているのだ。
 赤ん坊の頃から男の子と女の子で好むオモチャは違うし、ある実験ではサルですら(つまり人間の文化を全く知らないはずの)同様の「ジェンダー規範」が見られたという。フェミ信者の持つ「ジェンダー規範は社会が押しつけたもの」という妄想は、夥しい犠牲の上で、ようやくその欺瞞が暴かれた後なのだ。

 前回、ぼくは以下のように書いた。

『Point Of No Returnはもうとっくに過ぎたのだよ、唯人君。』という節タイトルに対しては、「何かそういうデータあるんですか」としか。


 血気に逸るタイプの人間を諫める意図で書いたのだが、ここでウィックジェイ氏が「データ」として出してきたのは例の「うんこスピーチ」と蓮舫の演説(笑)。
 いや、それって「最近ムカついたこと」であって、何とかポイントの客観的基準ではないんですが。この種の人たちは、常に主観と客観とがごっちゃになっているのだ。
 大体、前者はむしろフェミの馬鹿さが衆目に知れ渡るところとなって何とかポイントを遠ざける結果になったろうし、後者は「蓮舫が当選した」という話題ですらないのだから、もう何が何だかわからない。
 前回も述べたように、予言者が何でもかんでも(時事ネタに非常に敏感に!)「地球滅亡」に結びつけるのと、これとは全く同じメンタリティだ。

 また、ぼくの批判した「旧来の性観念への回帰思想こそがフェミニズムに丸め込まれる」という主張について、ウィックジェイ氏は以下のように説明する。

「丸め込む主体としてのフェミニズム」も、当然ながら必ずしも「旧来の性観念を全否定するような」フェミニズムのことではないのです。


 要するに彼は「実はフェミは右翼ですた」という無理筋の理屈を通そうとしているのだ。
 彼はフェミニズムに「女を人間扱いせず赤ちゃん扱いして欲しい派閥」があるのだと幾度も繰り返す。
 しかし、そんな派閥はない。
 これは上野千鶴子師匠の結婚を考えればわかりやすい。
 師匠はずっと著作で結婚制度そのものを否定してきた。恐らく肯定したことは一度もないはずだ。
 ところが実際には結婚していた。しかしこれは、師匠が「結婚肯定派閥」へと転向したわけでも何でもない。単に師匠は甘ったれきったまま、ホンネとタテマエを使い分けていたに過ぎない。ぼくはこうしたダブルスタンダードこそがフェミの一番悪辣なところだと思う。
 しかしこれについて、ツイフェミは何ら疑問を感じなかったろうし(それは彼女らが実のところフェミニズムというイズムに心酔しているわけではないからだ)、アカデミズムにいるフェミも、腹の中では思うところがあったろうが、口を噤んでいた(そりゃ立場上、逆らえないし、ホンネとタテマエの使い分けに憤る純真な者もほとんどいないだろう)。
 ところが、ウィックジェイ氏はこの「結婚願望」の方をこそ、理論として肯定したフェミニズムがあるかのように勘違いしてしまっているのである。
 彼の弱点は、もう明らかだ。
 彼はフェミニズムについて知識がない。ないし、左派的党派性に取り込まれ、逆らえないでいる。
 そして専ら、むしろ一般的な意味での「女性性」への憎悪を募らせている。
 もちろん、気持ちはわかる。
 フェミニズムは「イズム」としては男女平等を掲げつつ、実際には優遇(まさに赤ちゃん扱い)ばかりを望む。しかしまずフェミの「イズム」の中では、そうした「ホンネ」は隠蔽されているのだ。
 彼や、多くのアンチフェミはいったいに、「ツイフェミ」を主語にして、ただ、タイムラインに流れてくるツイートを見て「ツイフェミ」、或いは「女全体」への憎悪を募らせるばかりだ。
 しかしそれでは、敵の本丸を叩くことは、永久にできない(もちろん、そこが狙い目の方々もいらっしゃろうが)。
 まさにそもそもの記事タイトルが示すように、ウィックジェイ氏は「ミソジニスト」であり「フェミニスト」なのだ。
 以降、彼の主張はフェミ内部で伝統主義的フェミニズムの勢力が強まっているといったものになるが、もちろん根拠は一つとして示されない。彼はそれが本になっていると言うが、そもそも論としてこの人の記事には、フェミの著書など一冊も出てこない。
(一応、アンフェアにならぬよう示しておくと、フェミの一般女性へのプロパガンダ本などで「女性の社会進出は男の陰謀だ」とでもいった論調が生じていることは、ぼくも動画の第56回でも述べた)
 十五年ほど前、SNSでフェミ批判の萌芽が生じ始めた頃、左派は必死になって「ウヨフェミ」などといった言葉を流布させようとしていた。フェミニズムを延命させるためにありもしないフェミを捏造し、視線をそちらに向けようという、いまだ表現の自由クラスタなどが必死になって続けている作戦だ。左派はずっと、同じコソクな詐術を、延々と続けるばかりなのだ。

 先にぼくはウィックジェイ氏がこちらをフェミだと罵っている、と書いたが、こうなると彼の考えも何とはなしに見えてくる。
 左派的なスタンスに囚われた彼は保守派に責をなすりつけるため、「ツイフェミ」を「伝統主義的」と強弁している。だが、別段ツイフェミに政治的スタンスなどそもそもあるまい。
 おそらくウィックジェイ氏は天然だが、先の「ウヨフェミ」同様、フェミを延命させるため、確信犯でやっている層もあるのではないかと思う。
 ともあれ彼にはフェミ=保守派とせねばならぬ事情があり、それでぼくをフェミの手先なのだ、と捉えてしまったのだ。確かに、それは彼の(間違った)前提を導入すれば、整合性のある罵倒だ。

 しかし、上に上野師匠の結婚を「ホンネ」としたけれど、ホンネはホンネであるだけに、根源的な否定まではすべきではない。それはいかに性犯罪が許しがたくとも、男の性欲という「ホンネ」をなくしてしまえというフェミの主張が無理筋というのと同じだ。
 だからぼくはその「ホンネ」をさらけ出させ(BLを見てもわかるように、女性の本質はホンネの隠蔽にこそあり、フェミニズムこそが「ホンネの隠蔽の集大成」だ)、ある程度それを満たしてやるしかないと考える。
 その代わり、「女を守る」側の男もちょっとだけ威張らせてくれ(いや、そもそも彼女らは男に威張って欲しいのだ)というのがぼくのスタンスであり、それが脳を汚染された者からは「伝統主義という名の悪」に見えてしまうのだ。

 さて、そろそろ目玉とも言える部分に手をつけよう。
 彼の「女性から女の妊孕性を奪う」という一大ビジョンについて、ぼくは政治的(倫理的)な問題を全然考えていないと批判した。
 それに対して彼が「考えている」と称して出してきた記事を一読すると、「何か、みんなで頑張って研究しよう」といったもの。つまり「技術面についての根性論」しか語られていなかったのだ。これには呆れたのだけれど、それに対して彼は、自分の記事の一部分にしか反応していない、アンフェアだと再反論してきた。

兵頭氏の言う「政治的倫理的問題」・「大衆の反対」を抑えるために「表現の自由戦士」はまだまだ捨てたものじゃない、むしろ“フェミニズムによる攻撃から”表現の自由を守ることの真の意義はそこにあるんじゃないか、ということです。


 え~と、どういうこと?
 表現の自由戦士という名のファシストと結託して「大衆の反対」を抑えて「倫理的」逸脱を達成しよう、という考え?
 素直に取れば、そう読むしかない(表現の自由戦士がファシストというのはまさにその通りなのだけれど)。
 続いて彼は「性表現の規制は大衆によっても行われてきた」などと言い出すが、そうなるとやはり、「大衆を抑え込め」という解釈が正しいようにしか読めないが、そうなんだろうか。
 もちろん、大衆の選択が常に好ましく、正しいわけではない。
 しかし見る限りウィックジェイ氏の目には常にその大衆が保守派という悪者に扇動され、悪しき振る舞いに及んでいる光景が映し出されており、その胸には「正しき我々が善導してやるのだ」との使命感が沸き立っているようにしか、読めない。
 正直、その筆致は見ていて嫌悪を催させる。

 おそらく、ウィックジェイ氏にとっては(多くの左派がそうであるように)自分の中の理念があまりに自明なことであり、大衆も(体制という名の悪者の洗脳から解ければ)それに賛同するべきだ、するに決まっているのだ、との思い込みから一歩も外に出ることができずにいるのだろう。だから口先では、自由主義だ何だと言いながら、こんな主張を平然と続けるのだ。
 しかし彼の主張する人工子宮で子供を作る社会を現出させたら、ぼくたちの性愛観、家族観、男女観が根源からひっくり返るような騒ぎになるはずだ。それはあまりにも反社会的であまりにも不道徳であまりにも非現実的で、ビジョンを描くこともままならないのだけれども、唱えている本人の脳内にだけは「何か、自分に都合のいい状態」のヴィジョンがうっすらと結ばれている。本人が詳しいことを語らない以上わからないが、そうとでも想像するしかない(いや、本当にさっぱりわからないんだ、この人の考えは!)。
 そしてこれはまさにジェンダーフリーとどこからどこまでも「完全に一致」しており、左派の傲慢、視野狭窄、身勝手な理想主義、人の感情の軽視といった悪しき面が、残念なことに全て揃っている。
 彼ら彼女らはずっと「角を矯めて牛を殺す」ための「コロニー落とし」を敢行しようとしてきた。
 そして明日からも、「自由主義」のためにファシズムを実践し続けるのだろう。

「ミソジニストよ、〈フェミニスト〉たれ:風流間唯人a.k.a.兵頭新児への挑戦状」を読む

2025-06-22 19:50:23 | フェミニズム

 さて、今回はウィックジェイ氏への反論です。
 同氏は左派系アンチフェミと称するべき方で、前回の動画で彼の主張について批判的に採り挙げました。
 ちなみに動画はサブチャンネルにもうpしたので、未見の方はそっちをご覧ください。

 

風流間唯人の女災対策的読書・第70回 アンフェ戦線異状アリ――「女は敵」がデフォになった日

 

 と、それについてnoteで反論をいただいたのです。
 随分丁寧に動画を読み込んで、しかも「挑戦」までされた以上、無視もできないので、今回はそれです。
 一応、未読でもわかるように書くつもりですが、できればウィックジェイ氏の記事をまず、ご覧になってからお読みいただくことを推奨します。

 肝心の内容については、あまり時間も取れないので、順次反論していくことにしましょう。
 では、そういうことで……。

 まずぼくの「フェミニスト」の用法が広すぎる、という指摘がありましたが、それは単純な誤読かと思います。
 ぼくが動画で言ったのは、あくまで「ジェンダー」そのものが不幸の源泉だとして取り除こうとする、その雑に患部を切り取っちゃうような方法論がフェミといっしょだ、ということで、例えば白饅頭を「フェミの手先だ」と言っているように「ウィックジェイもフェミの手先だ」と言っているわけじゃないってことです。

 また、どうもぼくは(小山晃弘氏のアンチフェミ分類における)「①平等主義からのフェミニズム批判」「②自由主義からのフェミニズム批判」などを主張する論客をフェミニスト呼ばわりしていることにされてしまっていますが、それもちょっと言いがかりと言う他ない。
 ぼくが白饅頭やら何やらをフェミニスト呼ばわりしているのは、彼らが平等主義、自由主義を唱えているからなどではなく、彼らがあくまでフェミニストの手先だから、なのですから。
 その意味でこの小山氏の分類も、必ずしも適切とは言えない。ぼくはここで「③伝統主義・共同体主義からのフェミニズム批判」にカテゴライズされているのでしょうが、ぼくの言い分は③という「手段」の方が①や②の「思想」を実現させるのにまだしも敵っている、ということなのだから(「伝統主義を守るべきだから」という「べき論」を主張する人は、この界隈ではほとんどいないでしょう)。
 ウィックジェイ氏は現状を「平等・自由主義的な疑念からフェミニズム批判を志した人は少なからずいましたが、ことごとく伝統主義的な批判論に飲み込まれ、転向していっ」たという「見方」をしていますが、これはこの分類の不適切さを象徴していて、実際には①、②のスタンスを取っている人が必然的に③という方法論に行き着いただけでしょう。
 要は見ていると、①、②と③とが何か対立的なものででもあるかのように思えることが、先の分類の問題点であると言えます。

 ぼくの議論に対しての批判は、「多くの女性は家庭に入ることを望んでいるのだから、結局旧来のジェンダー観こそが“正解”としか思えない」という発想しかしておらず、社会の持続性について考えていないというものでしたが、これも随分持って回った言いがかりです。
 ここ数十年の多くの女性たちの望みを蔑ろにした社会実験が、社会の持続性を危うくしたことはもう、わかってるんだから。大衆の感覚を無視しての強攻策というシャアみたいなやり方は、通用しないんです。

「ヘテロセクシズムがけしからん」みたいな「べき論」を続けながら、ぼくの意見に唱和してくれるのも、極めて奇妙です。

ただ、確かにこのような「旧来のジェンダーやセクシャリティ」の否定は、そのまま「欲望の否定」につながりかねないということは、留意しなければなりません。

 ここはもちろん、大賛成なんですが、上の「ヘテロセクシズムがけしからん」と単純に矛盾してますよね。この辺の基準がわからない。
 フェミもまたジェンダーフリーを実に恣意的に、自分の好きな部分にだけ適用するという過ちを犯していましたが、その轍を踏んでいるんじゃないでしょうか。

Point Of No Returnはもうとっくに過ぎたのだよ、唯人君。

 という節タイトルに対しては、「何かそういうデータあるんですか」としか。
「事態は緊急を要する」と言われればぼくもそういう気はしますが、明確なポイントを明確に見極めることができるんでしょうか。そこを何か「革命だーー!!」みたいなことを叫びたいがために「今年の七月五日に地震が起こる!」とか言いたがる人が一定層、いるんです。そういうことを言うのは気持ちがいいことみたいですが(言ったことがないのでよくわからんのですが)、大衆の気持ちがついてくるかどうか、そういう人はあんまり考えてない。シャアの独りよがりになりがちなんです。

 ジェンダー回帰そのものに対する批判は、仮になし得ても、それがフェミに「丸め込まれる」からダメだ、というものになっているけれども、どうにも意味不明です。
 他にもフェミが邪魔するぞという箇所がありますが、それってもう敗北宣言でしょ。まずジェンダー回帰をするということはほぼほぼ「フェミの力を削ぐ」ということと同義であり、仮に「フェミは未来永劫栄える」のであればもう、何やったってムダとしか。
 また旧来のジェンダーを「社会の中で取り戻さずとも、謳歌する」ことはできるというのも、何が何だかわからない。一人ひとりのジェンダー観が変われば、社会全体のそれも変わるに決まってるでしょ。先にも「兵頭が個々の女性の思惑ばかりをモンダイにしている」といった旨の批判がありましたが、これは逆にウィックジェイ氏が民意を無視した「社会の改革」というシステム上の操作ばかりをやりたがっているが故の誤謬であると、ぼくには思えます。これって本当に、男性論者の病気なんですが。
 また、この「丸め込まれる」という表現は或いは、「(そうなったらそうなったで)女性ジェンダーの旨味を悪用されるぞ」という意味かも知れませんが、そりゃ当たり前ですよ。それはご自身が指摘しているように今も進行中であり、全くのゼロにはできない、しかしならばかつての方がまだしもマシ、というぼくの主張を、まるでご理解いただけてないように思います。
(一体にネット論客様はフェミニズムと一般の女をごっちゃにする傾向があります。しかし「ツイフェミ」とやらのその場の情緒の垂れ流しとフェミ「ニズム」という「本になっている何か、思想っぽい体裁を整えているもの」とは、常に区別して考えるべきです)

 モンダイの「女性から女の妊孕性を奪う」という戦略について、ぼくは以下のように言いました。

一億歩譲って技術的に可能になったとして、じゃあ政治的(倫理的)にそれを通せるのかとか、全然考えてないですよね。

 このツッコミに対し、しかし今回、「考えている」と言いつつ、提出されたのは「出資しよう」とか「おベンキョして技術を開発しよう」とかで、これは悪いけど「ぎゃふん」としか。単純にこれ、「みんなでガンバロウ」って言ってるだけですよ。
 いや、技術や資金については「ガンバロウ」という方法論が提示されているが、政治的倫理的問題については語られていない。回答がなされてないんです。
 先には「ジェンダー回帰はフェミに反発される」とありましたが、それよりも人工子宮なり何なりの方が何千、何万倍も「大衆」から反対されるでしょう。
 社会のシステムをとにもかくにも変えたいとの野心に取り憑かれ、そうした大衆への視点を忘れるというのはフェミの得意技であり(共産主義の時もそうでしたよね、リクツは正しいかも知らんがという)、賛同するわけにはいかないんですよ。

 ちょっと先走ってウィックジェイ氏の考え方そのものを上から目線で批評するような内容になってしまいましたが、見ていて感じたのは、最初に想定した結論へと持っていくため、いくつもいくつも無理を犯しているのではないかということです。
 そこにはリクツを捻る楽しさはあるけれども、「大衆が着いてくるか」、「人間の感覚がそれを受け容れるか」という視点がどうにも欠落している。
 一度、もうちょっと現実に足をつけた上で、先の戦略について問題点をリストアップしてみてはいかがでしょうか。でなければ、おっしゃることは空論の域を出ませんよ。

 


風流間唯人の女災対策的読書・第59回「母性カルト」――「オルタナティブフェミ」の華麗なる世界

2024-07-06 19:02:52 | フェミニズム

 

風流間唯人の女災対策的読書・第59回「母性カルト」――「オルタナティブフェミ」の華麗なる世界

 第五十三回目です!
 三人の実子を殺した母親に対する判決が話題となりました。
 一つは報じたネット記事が「無罪か、有罪か」などとたわけたことを書いていた件。
 もう一つは小山晃弘氏の、「自然派ママが、最後に子供にジャンクフードを食べさせた」ことについて。
 そう、世の中には「フェミではないフェミ」とでも称するべきおぞましい、「母性カルト」というものが存在するのです……。

動画中で紹介した『アゴラ』様、『WiLL Online』様の記事は以下を!

動画中で言及された記事は以下を!