兵頭新児の女災対策的読書

「女災」とは「女性災害」の略、女性がそのジェンダーを濫用することで男性が被る厄災を指します。

若者を見殺しにする国

2014-01-25 19:58:35 | レビュー

 赤木智弘さんについては度々「男性問題の論者」「フェミニズムの批判者」といった風聞を聞き、またフェミニストたちの集い、自分たちにとって煙たい存在に罵詈雑言を浴びせる「キモオタ叩きスレ」*でも度々名前が挙がっているのを拝見しておりました。
 が、不勉強なことに、ぼくは今まで著作を読んでいなかったのです。
 で、「いい加減読んでおかないと……」と考え、手に取ったのが本書。
 今回の記事は『エヴァ』を今ようやっと知ったヤツが「おまいら、『エヴァ』って知ってるか?」とドヤ顔で語るような今更感がつきまといますが、そこはご容赦ください。


*2chにはそういうのがパーマネントであるのです。本当にフェミニストはオタクの味方ですね。


 さて、彼はロスジェネ論壇というか、若年層の非正規労働者の代表という感じで論壇に登場した人物です。
 彼のデビュー作となる論文「『丸山眞男』をひっぱたきたい 31歳フリーター。希望は、戦争。」は、ごくおおざっぱに言えば「我々若年非正規労働者層の現状は絶望的である、それをひっくり返すには戦争ぐらいしかない」といった主張をしたものでした。
 しかしそれは衆目を集めるための、単なる「暴論」ではありません。


問題なのは上層、・中層間の格差ではなく、中層・貧困層間の格差なのです。


 といった発言に象徴されるように、言わば彼の仮想敵は「中間層」。そうした格差間の差が流動化しないことに絶望的な彼は、それをリセットする「希望」として、戦争待望論をぶち上げるわけです(この論文は本書の第四章に掲載されているのですが、ご本人のサイトでも読むことができます。是非、ご一読ください)。
 第五章に進むと、内容はそれに対する左派層の言論人の批判の引用、それへの再反論へと移っていくのですが、見ていて驚くのはそうした旧来の知識人たちが赤木さんの主張を全く理解できずにいる点です。
 少なくとも本書を読む限りにおいて、そうした人々の赤木さんへの反論は相も変わらず「我々弱者が立ち向かうべきは彼ら強者だ」との二元論を振りかざすものでした。要は既に「中間層」となり、「貧困層」を搾取する側に回ってしまっている自分たちという現実に気づくことができず、いまだ「心は弱者」で居続けている図です。でなければ、「バカな右傾化した若者と俺ら頭いいインテリ」という図式に引きこもり続けているかです。ちなみに本書では知識人が若年層を「ネトウヨ」にカテゴライズしたがる心理、そうした左派から若年層が離反してしまう心理も、非常に鋭く分析されています。
 冗談抜きで、今の左翼はこういう現状から目を伏せることに、知的エネルギーの大方を費やしているんじゃないでしょうか
 そうした「わからず屋のジジイども」をばったばったと切り捨てていく赤木さんの姿は非常に痛快であり、魅力的です。
 また一方、第三章や第一章で語られているのは「若年男性」、或いは「弱者男性」をバッシングし続ける世間への違和。ここではまた同時に、左派の論客が「若年男性」を「ワルモノ」として排除しようとするロジックに与しているのを見ての、旧来の左派への嫌悪感も語られます。


 彼らは平等の名の下に、「女、子ども、老人」という「名目上の弱者」を幸せにはするかもしれません。しかし、「若者男性」という「名目上の強者」を幸せになどしないのです。


 という言葉にそれは象徴的に現れており、これはぼくが繰り返す「プアファットホワイトマン」の理論、つまり「白人男性」という先天的な強者の属性を持ちながら、後天的に弱者となった者を、「意識高い系」の人たちは容赦なくいじめ抜くのだ、という指摘と全く同じですね*。
 本書を読んでいくと目を引くのは「弱者男性」というタームです。
 昨今、ネット上で時々見かける言葉ですが、ひょっとして初出は赤木さんだったのでしょうか?(もし違うというご意見があればご一報ください、無知ですみません)
 考えると一昔前、『もてない男』において小谷野敦博士は「もてない男」を「性的弱者」と呼び、「男のクセに弱者を名乗るとは何事ぞ」とバッシングを受けました。本田透さんもまた、「
日テレ版ドラえもん」くらいの、「漫画版ハルヒ」くらいの勢いで、オタ史の黒歴史とされてしまいました。闇の勢力にとって男性を「弱者」と認めることなど、絶対に許すことのできない暴挙であったからです。
 その時にせよ昨今の「弱者男性」バッシングにせよ、何、「我こそは弱者(或いはその味方)」と信じる者たちの「お前に弱者としてのアイデンティティや利権を渡してなるか」との必死の形相での逆ギレなのですな。


*ここは本書においても、


 つまり、左派の人たちは、「固有性に対する差別」と戦うことを重視するあまりに、「固有性によらない」差別に対する理解が浅くなっています。


 と指摘されています(言うまでもなく「性別」「人種」などが「固有性」にあたるわけですね)。


 繰り返す通り、本書はあくまでロスジェネ世代の貧困を問題にしているわけで、「女災」とはテーマがそもそも異なります。
 が、しかし同時に上に見た通りそのロジック、スタンスは極めて「女災」と被る部分が大であり、それは「私は主夫になりたい!」と題された第二章に最も強く現れています。
 赤木さんは自らのブログで「主夫になりたいので養ってくれ」といった旨の告知をしたところ、リアクションが芳しくなかったことを語り、


私が「女性の既得権益に対する略奪者」のようにうつっていたのだと思います。


 と想像します。結婚というものは、弱者女性が強者男性に養ってもらうという弱者救済のシステムであり、ならば経済的に余裕のある女性は弱者男性を「主夫」という形で養うべきなのではないか、というのが赤木さんの考えなのです。
 しかし……それであれば、主夫という存在に対して憤るのはそれこそ「花嫁修行中」の「ニート女性」だけで、バリバリ社会で働くキャリアウーマンはむしろ、「家事を担当してくれるとはありがたい」とばかりに、彼へとオファーを出してきそうなものではないでしょうか。そして少なくとも本書を見る限り、そうしたオファーはなかったわけです。
 赤木さんは


我々は食うや食わずで首を括る未来が待っている、「だからこそ私は、弱者男性の主夫化を真剣に考えるのです。


 ともおっしゃいますが、しかしぼくがちょっと感じたのは、そもそも主夫になるのであれば、ある程度女性とも交流が持てるだけのコミュニケーションスキルが必要とされる。そういうヤツはそもそも、負け組にはなっていないのではないか、という疑問です。
 また同時に、「主夫」という回路を開くことを怠ってきたことが、左派の欺瞞であり、怠慢であるともおっしゃいますが……う~ん、それも間違いではないと思いますが、ここはぼくもちょっとだけ左派に対して、同情を憶えました(詳しくは後ほど)。
 一方、『負け犬の遠吠え』に噛みつくところなどはまさに『電波男』そのもので、痛快です。赤木さんは酒井順子師匠の文章の端々から覗く女性の甘えを、


 これでは、「どうせ女性は結婚したら退職するのだから、最初っから入れ替え可能な程度の仕事しか与えないようにしよう」とか、「男性のほうが家族を養う義務があって大変だから、同じ能力の男性と女性だったら男性を雇おう」とする会社の判断は、就業差別などではなく、きわめて妥当なものだと思わざるを得ません


 と喝破します。
 しかし彼は同時に、そうした男女差を社会的文化的性差であろうともしています。
 つまり――本当のホンネはどうなるかとなると、ぼくには窺い知れないのですが――本書を読む限り、赤木さんは「弱者男性の主夫化」の構想を結構マジに考えていらっしゃるように読めるのです。
 ひょっとしたら、「希望は、戦争。」と語った論者が、戦いに依らない一縷の望みを、「弱者男性主夫化構想」に見出したのでしょうか――!?


 しかし、とぼくは思います。
「女らしさ」というものが社会的文化的性差であり、覆すことができるものかどうか、ぼくにはわかりません。
 とは言えこの二十年間、フェミニズムが行政を牛耳り、女性の社会進出に対して夥しいエネルギーと気の遠くなるような予算を費やしてきたことは明白な事実です。にもかかわらず、「婚活」ブームに見るように、女性の専業志向は収まるどころか加速しているようにさえ見えるのが現実。フェミニズムのしてきたことは全くの徒労だったわけで、上に「左派に同情を覚えた」というのはそこです。むろん、間違った方向に何十兆という血税を使われた国民、フェミニズムに無理強いをされた女性たちの方が遙かに気の毒ではあるのですが。
 いずれにせよそんな状況で男性の「主夫化」に現実味があるとは、ぼくにはとても思えません。
 一方、件の「負け犬」を自称する女性たちが実際のところ「強者女性」ではないかとの指摘は、結構あちこちでなされていたように思います。
 赤木さんもまた、酒井師匠の「ブランドもののお洋服を買っても満たされない、哀しいワタシ(大意)」といった呟きに、「俺はユニクロの服しか着れねーぞ!」と憤ります。いや、気持ちはわかりますが、あなただってブランドもののお洋服なんて興味ないでしょうに*。酒井師匠が嘆いているのはいいお洋服を着てもイケメンにナンパ一つされない我が身について、なのだとぼくには思えます(ちなみにイケメンとは俗に美男子の意味と捉えられることが多いようですが、ここでは胸ポケットから札ビラをはみ出させている金持ち男性を指します)。
 要は「負け犬」はあくまで経済上のバトルではなく恋愛上のバトルにおける「負け犬」なのだから、赤木さんとはそもそも、スタンスが違う(昨今のこの種の議論は意図的にかどうかは知りませんが、常にここを混同しているように思います)。
 酒井師匠の嘆きは(本人がどこまで自覚的かはわかりませんが)「経済強者になったはよかったが、それと引き替えに性的弱者にもなったでござる」という嘆き、「
お嫁さんになりたかっただけなのに、オオカミの甘言に惑わされ企業社会へと連れて行かれてしまった赤ずきんちゃんの嘆き」だったのです。
 要するに、フェミニズムによって間違った配分をされたがため、赤木さんと酒井師匠は、いや、全地球の男性と女性は共に不幸になっているわけなのです。
 解決の手段は、論理的には二つしかありません。
 つまり、女性を家庭に戻すか、或いは主夫を娶らせること。
 いずれも強制はできないでしょうし、女性のマジョリティの意向を考えれば、前者の方が遙かに合理的でしょう。幾度も例に出しますが、日本経済新聞2006年1月16日号夕刊によると、翌年の就職を目指す大学三年生女子516人へアンケートを採ったところ、「結婚してもずっと一線で働きたい」と答えたのは僅か5.2%だったと言います。繰り返しますが、大学三年生です。これが短大や高卒を含めると、一体どういう数字になるのでしょうか(なのに、にもかかわらずこの新聞記事は、そんな結果を「意識の高い学生は少数派だ。」と、「私の考えに賛同しない者は悪だ」とでも言わんばかりに難癖をつけておりました)。
 女性に経済力を持たせることはこの二十数年、あらゆることを犠牲にして断行され、結果、若年層では女性の収入の方が高いとの逆転現象まで起こり、その上で弱者男性を娶った女性は限りなくゼロに近いという現実を考えれば、後者は実現性がないと考えるべきではないでしょうか。
 しかしこんなことを書くのですら、今、ぼくは勇気を振り絞っています。
「女性の社会進出」という絶対正義を疑うことは、現代社会ではタブーですから。
 いかに女性自身がそれを望んでいないとしても。
 この「宗教的禁忌」からぼくたちが解き放たれ、オカルト的な「宗教裁判」がこの世から消える日まで、そうしたことが声高に叫ばれることもまた、ないのでしょう。
 やはり「希望は、戦争」しかないのかも、知れません。


*余談ですが、ぼくは「ブランドファッション」と聞く度、バブル期に誰かが描いた「渋谷に一流大学の女子大生をモデルとしてスカウトに来たAVスタッフが、自分の着ているブランドもののお洋服を自慢する」というエロ漫画を思い出し、ついつい笑ってしまいます。


 さて、というわけで再び「希望は、戦争」に戻りましょう。
 この「暴論」では戦争のメリットとして「経済のリセット」と同時に、「お国のために戦って死ぬ」ことによって得られる自己承認欲求の充足についても言及されています。
 こうした「暴論」は「若いヤツはネトウヨだ」と短絡したまとめをされてしまうのではないか、左派がそのように短絡してこっちを叩く大義名分する危険はないか、との不安を憶えないでもありません。が、赤木さんはかなり左派寄りの人であり、少なくとも右派的な愛国心から上のようなことを書いたとは思えません。
 恐らく正確に指摘した者は少ないと思うのですが、この「暴論」からはむしろ、左派が今まで男性を貶めてばかりきたこと、男性の自己承認欲求を蔑ろにし続けてきたことへの深い怒りが垣間見えます。
 圧巻なのは終章である第六章。ここで赤木さんは「死ぬ死ぬ詐欺」を例に取り、「可愛い子供という存在には多くの寄付金が集まる」「裏腹にオッサンはそうした愛され方を全く期待できない」ことを嘆きます。子供の臓器移植にかけるコストで何十人ものフリーターを救える、しかし、


主観的な募金者は、フリーターなんかよりも、かわいい子どもを選んでしまう。こうして募金という「良心」すら、偏ってしまうことになります。


 というわけです。ぼく個人は、まあ子供が贔屓されること自体は仕方ないなとは思うのですが、この「子供」を「女性」に置き換えれば、いかに多くの「善意」が、「良心」が、弱者男性を殺戮し続けてきたかが窺い知れるのではないでしょうか?
 この終章の最後の節ではやや唐突に「アメリカにおいて『拡大家族計画』という疑似家族を人工的に作り出す政策が施行された」という小説を引用し、「役割が欲しい」、「自分のアイデンティティが欲しい」と切望するところで終わっています。


 そう、繰り返す通り本書のテーマは貧困層の労働問題なのですが、しかし通奏低音としてそこには、『電波男』につながる切実な叫びが流れ続けているのです。
 それはつまり、弱者男性としてこの社会のどこにも居場所がない者の、火を噴くような怒りと哀しみです。


 

 


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テッド

2014-01-18 19:57:16 | オタク論

 皆さま、今更ですが新年明けましておめでとうございます。
 今年もどうぞ、よろしくお願い申し上げます。
 さて、随分と更新を怠けておりましたが、それも年末年始、兵頭のココロが大ピンチにあったからです。
 去年の年末はどういうわけか仕事が立て込み、ブログを書く間もなく延々とそちらにかかりきりでした。それ自体は大変にありがたいことなのですが、まあちょっと、与えられた仕事があまりぼく自身のスキルと方向性があわなかったと言いますか……。
 差し障りのない範囲でお話ししますと、要するにエロゲのシナリオを書いていたのです。こういうのは大体エラい人がプロットなどを組み、ぼくなど下っ端がその意向にあわせて具体的なシナリオを書いていくことになります。が……何と言いましょうか、その企画がぼくの好みとはちょっと違ったのです。
 ひと言で言うと感覚が八十年代の「エロコメ」そのままなのですな。
 とにかく主人公はサルのように女に飛びついては「やらせてよー」とせがみ、やりまくる。内省は一切ない。どうです、坊ちゃんたちの大好きな萌えキャラとのエッチでござい、さあ嬉しいでしょう、ってな案配。
 この「エロコメ」という言葉は『
サルまん サルでも描けるまんが教室』で使われ出した言葉なのですが、ここではエロコメにおいては「主人公のおどけ顔」が重要だと指摘されています。つまり、相手にセクハラなどした時に「見ーちゃった」などと言って、おちゃらけて許してもらう場面などですが(『シティハンター』に出てくるああいう感じですね)、これもしっかり踏襲されています。
 どうにもこういうの、苦手なんですよね。
 いえ、お断りしておきますがこれは必ずしも「ぼくが、個人的に気に食わん」とばかり言っているのではありません。
 エロゲの世界はプレイヤーと主人公の一体感が強く、そして近年(というかこの十五年)はストーリー性も極めて強く、そのためユーザーは美少女キャラもさることながら、主人公キャラの性格設定にも非常に敏感です。中でもこうした「サルのように女を押し倒してるだけ」の主人公は嫌われる傾向にあります。
 またこれはエロゲだけの傾向ではありませんが、「物語世界で異常に評価が高く、周囲の人物に持ち上げられているにも関わらず、客観的に見てそうは思えない」キャラにも、ファンは非常に手厳しい。やはりそこで「主人公マンセーかよ」と醒めてしまうのでしょう(これはブスな女性がぶりっ子キャラに憎悪を抱くのに、非常に近いように思います)。
 要するにそうした主人公設定はどうにもDQN的、バブル的な、あまりはやらないモノなのですね。
 申し上げにくいけれども、まさに今回やらせていただいた作品の主人公は、見事にこの条件に当てはまってしまっているのです。そのくせ、思い出したようにヒロインはメイドコスプレを始め、取ってつけたようにツンデレキャラが登場するという。
 むろん、一般的な(ラノベなどにも輸入されている)「草食系な性格な主人公が自分からは動かないにもかかわらず、女が頼まずとも寄ってくる」というハーレム物も、こっちの欲望を充足させるという意味では似たようなモノであるとは言えましょう。しかし、そうしたハーレム物の本質は敢えて主人公を「受け」の性役割に回らせることで「責め」の重圧、そこで負わされる責任感、罪悪感めいた感情を回避する点にあるわけですね。
 しかしそれも、そこを「おどけて許してもらう」ことで回避する「エロコメ」と「ずるさ」という意味では大同小異とも言えるのですが、ハーレム物の側には「いや、嘘だけどね、こんなの」というオタクの「愛してもらえないことに対する諦念」がどこかにあるように、ぼくには思えます。『ちびまる子ちゃん』で「まる子が何かしでかしたが、おちゃらけて愛嬌でお母さんに許してもらうのを見て、お姉ちゃんが苛つく」といった場面がありますが、どうにもあれを連想してしまいます。
 そしてもう一つ言えば、時々書くようにこうした「ハーレム物」は個別ルートに入るやそのキャラとの一対一の関係が築かれる、という点において実は全くハーレムではないわけです。


 さて、そんな中、ちらっと見てしまったのが『テッド』です。
 ひと言で言うならば「リアルタイプドラえもん」。
 プロットをうろ覚えで書くなら、こうです。


 クリスマスの夜、奇跡が起きた。友だちのいない少年の仲よしのテディベアに生命が吹き込まれ、言葉を話し始めたのだ。少年はテディと親友になり、孤独から解放された――が、それから二十年。元少年とテディはいまだ腐れ縁でダラダラ冴えない日常を過ごしていた。


 そう、仮にのび太が何の努力もせず、ダメ人間のまま三十代を迎えていたら。
 ドラえもんも実はのび太の空想の遊びの相手をしてやっていただけで、四次元ポケットなど持っていなかったのだとしたら。
 そしてドラえもんも中年にさしかかり、下卑たオヤジとなっていたら――。
 そうした仮定の元に作られたのが、本作です。
 ファンタジーを斜に見た作風から、ぼくはこれが『ダンガンロンパ』に登場するモノクマの元ネタに違いない! と思い込み、見てみたのですが、よく調べると最近の作で、モノクマの方が先でした。
 ちなみにこのテディベア、テッドを吹き替えるのは有吉というお笑い芸人らしい人。名演であり、決して悪くはないのですが、やはりモノクマを大山のぶ代が演じたように、例えば
八代駿とは言わずとも(もう亡くなってるよ!)何かそれっぽい声優さんを呼んでくるべきだったのでは。奇しくもナレーションは富田康生なのですが、彼は(まさに人生にくたびれたオヤジ、といった風の演技で)初代ドラえもんも演じていたのだから、むしろテッドをアテろ、という気もします。
 さて、いろいろ書きましたが申し訳ないけど本作を見て、ぼくは楽しむことができなかった。
 DVDとは言え一応借りてみたのだから、プロットを知った時には面白そうだと思ったわけだし、上のプロットを今ご覧になった方の中でも、「面白そう」と感じた方は多いのではないかと思うのですが、それがどうしてこうなった……その原因をちょっと、今回は並べ立てていこうかと思います。
 性質上、ネタバレは平気でしまくります。もしこれからご覧になりたいと思った方は、以下はお読みになりませんよう。


 ひと言で言えば、これは「ホモソーシャル()」と「ヘテロセクシャル」のバトルの話です。
 主人公はテッド、そしてその親友(つまりのび太役)ジョンなのですが、他に重要な役としてジョンの彼女(つまり、しずかちゃん)としてロリーが登場します。
 このロリーはバリキャリ(バリキャリが
何なのかは知らないが、多分そう)として仕事をこなし、上司には色目を使われれつつ、それをウザがっている状況です。しかしロリーの声優さんってどうにも『セックスアンドザシティ』に出てそうな(調べたら実際出てました)声で、ぼくからすると「洋画の女ってみんな同じような声してるな」と。
 一方、ジョンとデートしても、コブのようにテッドがくっついてくる。ジョンとテッドがギャグを飛ばし笑いあっているのにロリーが乗っかると、いきなり冷める両者。女のギャグと男のギャグのジェンダーギャップが原因で、ホモソーシャルな二人に阻害される女性、といった図式です。
 こんな調子ですから、ジョンとロリーの関係は破局を迎えますが――クライマックスではテッドがストーカー的ファンに拉致られ、それを助けるべくジョンとロリーが奮戦する様が描かれます。ストーカーに引き裂かれたテッドはジョンに「ロリーを二度と手放すな」と言いながら死んでいき――そして、最後には特に理由もなく生き返り、ジョンはロリーと結婚。つまりテッドと別れることもなく、そのまま全てを手に入れてハッピーエンド。
 めでたしめでたし。


 このつまらならさは、何と言いますか、純粋にシナリオの稚拙さに多くの因があると思います。
 時々書くように、もはや「誰かとの別れ」などをきっかけにしたイニシエーションは今時、古い。例えばアニメでも「少年が、異界からきた友人と別れを告げ、大人になる」なんて話はもはや描かれず、大体、異界の友人は「一度帰ったと見せかけて」結局は主人公の家に居着いてしまう。しかしそれも仕方がない、責めるのもお門違いだな、というのがぼくのスタンスではあります。でも、本作はそこに持っていくまでのドラマ上のコストが足りておらず、「はあ?」な感じが否めない。近作でイニシエーションを回避したと言えば『リトルバスターズ!』が思い出されますが、あのお話で理樹がほとんど苦労もしないままに彼女も友人も手にしてハッピーエンド、というぬるいお話であったら、というのが本作のイメージに近いでしょうか。
 もう一つ、本作においてはジョンの「幼児性」は『フラッシュゴードン』に象徴されます。
 実はぼく自身、『フラッシュゴードン』について多くを知りません。知っているのは「三流スペースオペラ」ということだけ。物語冒頭、ジョンとテッドは『フラッシュゴードン』の映画を飽きもせずに眺めています。そこでフラッシュが悪の皇帝に「○○大学ラグビー部主将、フラッシュだ!」と名乗るのを見て、ジョンは「ダサ格好いい」「アメリカンドリームだ」と賞賛します。
 銀河皇帝に「地球防衛軍○○部隊」と名乗るならともかく、大学で何をやっているのかを名乗っても仕方がないと思うのですが、その「一介の市井のアメリカ人」が宇宙の平和を救うところがいかにも格好いいのでしょう。『映画秘宝』でもやはりこのシーンにおいて同じツッコミがなされていたことを思い出します。
 クライマックスの手前では、ジョンがロリーの上司との対決中、テッドから「『フラッシュゴードン』の役者がパーティに来ている」と連絡があり、矢も楯もたまらずパーティに出かけてしまいます。そこで年老いたフラッシュの役者(当然本物が登場します)と出会い、夢心地で「フラッシュと共に宇宙を飛ぶ」幻想に浸るジョン。そこにロリーが現れ、破局を迎える二人、という筋立てです。
 ここで、ジョンは子供っぽさの残る、言ってよければ「オタク」として執拗に描かれます。が、今まで見てきたように『フラッシュゴードン』は妙にDQN臭い。つまりアメリカのオタクは日本よりもやはりマッチョと考えればいいのでしょうか。或いは彼がトレッキーならまた違っていたのでしょうが(『ギャラクシークエスト』のファンがすれっからしのひねくれ者として描かれるのに比べ、ジョンの純朴さを見よ!)。
 このフラッシュの役者さんは最後にジョンとロリーの結婚を取り持つ牧師として登場するなど、ある種、本作の「価値観」を象徴するキャラクターとなっています。それはつまり「子供のまま変わらずにおいて、女もゲット」というものですね。
 そう、この映画は「女」に対するスタンスも、どうにもDQN的なのです。
 テッドは何もできない居候という厄介さに加え、女にもだらしない。デリヘル嬢的なおねーちゃんたちを何人も自宅に呼んでは王様ゲームをやる。中盤戦、ジョンに諭されてバイトを始めるも、レジ打ちのおねーちゃんに手を出してしまう。むろん、可愛いぬいぐるみがそうした挙動に出るからこそ笑えるわけで、まさにここはモノクマと同様の面白さではあるのですが。
 一方、ジョンは童貞で女にモテない……なら感情移入もできましょうが、先に書いたように彼女持ち。そしてそれこそ、ロリーに手を出してくる上司をやっつける、とでもいったエピソードが描かれるならまだしも、そこは『フラッシュゴードン』でうやむやにされたまま。破局しかけるも何とはなしに元の鞘に収まってしまう。繰り返すようにシナリオの甘さ、と取ることもできましょうが、その「甘さ」がぼくには「エロコメ」の「見ーちゃった」に見えてしまう。
 本作の日本語版の字幕監修を町山智浩さんがしていたこと(この仕事は大変に素晴らしい物だったのですが)、本作を岡田斗司夫さんが絶賛していたことは大変に象徴的です。
 本田透さんは「サブカル」を「モテるオタク」と断じましたが、もう少し言えばそれは「女に対してDQN的なオタク」と言える。
 岡田さんはむろん、オタク側の人間ではありますが、世代的にも本人のモテぶりも、やはりちょっとサブカル寄りのように思います。
 つまりこれは「アメリカのオタクはマッチョなのだ」とも言えるし、「いや、アメリカにはオタクなどいない、ヤツらはサブカルなのだ」とも言える(いわゆる「ナーズ」が「女にしつこい」とされていることを、ふと思い出します)。
 また、サブカル君が『俺妹』が売れていると知って、それを真似るとこうなるんじゃないか、とも思えます。
 オチがやや腰砕けの感のある本作ですが、クライマックスに倒すべき敵として現れる「ラスボス」がテッドのストーカー、つまり「ジョン以上にテッドに耽溺してしまった存在、即ちオタク」であるのも象徴的です。
 先のゲームが「オタクの中のちょっとサブカル寄りの人が作った、何か、ちょっと外したオタク作品」であるとするならば、本作は「サブカル君が、
オタクを生け贄に差し出すことで自らの幼児性を延命させ、何ら変わることのないままに女をもゲットする」物語だったのです。
 つまり、要するに、結論としてはですね、仮に「オタクとサブカル」という対立構造が成り立つとするのであれば、それはやはり(経済的にも精神的にも世代的にも)持て/モテる者と持た/モテざる者の違い、ということが言え、これからいよいよ前者が増えていく、ということが言えるのですな。


 

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