兵頭新児の女災対策的読書

「女災」とは「女性災害」の略、女性がそのジェンダーを濫用することで男性が被る厄災を指します。

コミケの中心でオタク憎悪を叫んだ馬鹿者――『間違いだらけの論客選び』余話+『30年目の「10万人の宮崎勤」』

2018-03-23 23:04:54 | オタク論


 いろいろありまして、ちょっと別な記事が挟まったりもしたのですが、少し前、後藤和智師匠の同人誌をご紹介し、師匠の「ビッグさ」についてお伝えしました。が、師匠、この同人誌を出す前にツイッターでつぶやいていたことに、後になって気づきました。

後藤和智@サンクリK05b/EJ気仙沼・ガタケット・文フリ前橋参加‏ @kazugoto2017年12月3日

冬コミ評論新刊でいちばんやりたくない本のOCR作業に取り組む。

後藤和智@サンクリK05b/EJ気仙沼・ガタケット・文フリ前橋参加‏ @kazugoto2017年12月3日

H頭S児『ぼ○○ちの○災社会』(二○書房、2008年)。結論から言うと、最初から最後まで何を言っているのか本当にわからなかった。個別事例と表面的な統計だけで、セクハラとかストーカー概念の成立とかを検討しないだけで「男が被害者になっている」的な議論を展開していて、(続く)

後藤和智@サンクリK05b/EJ気仙沼・ガタケット・文フリ前橋参加‏ @kazugot2017年12月3日

そして内容の薄さを紛らわすための(?)ネットスラングやアニメの台詞の転用とか、正直痛々しかった……*1

https://twitter.com/kazugoto/status/937317413590261761


 すごいです。
 後藤師匠は本当に、さっぱり理解の及んでいない本を、本当の本当に単語だけ切り抜いて「表面的な統計だけで」語ってしまっていたわけです*2
(ちなみに拙著の出版年が2008年となっていますが、実際には2009年)
 普通、「さっぱりわからない」などという発言は言葉のアヤというか、「反論したいがそれが適わない」場合に仕方なく悔し紛れで口をついて出てくるものだと思っていたのですが、師匠ともなると「本当の本当の本当に、読解すること適わなかった」ご様子です。
 まあもっとも、実のところ、ぼくも上のツイートの「表面的な統計」、「セクハラとかストーカー概念の成立とかを検討しないだけで」という部分の意味が「さっぱりわからない」のですが……「表面的な統計」って何でしょう? 上には「師匠の本こそ」とは書いたモノの、確かに何の関連性もない恣意的に選んだ単語を著作からカウントし、その単語と何ら関連性のない方向性がその著作にはあるのだとの結論を導き出す師匠のやり方は「表面的な統計」の域を脱しているかも知れません。むしろ、「事実の二次創作」というクリエイティビティを獲得していると言えましょう。
 後者に至っては文章として成り立ってませんが、わかる人います? これ、恐らくは「兵頭はこれら概念の成立過程について語っていない」と言っているのでしょうが、ぼくの本を読めば一目瞭然、語っていますよね。そう、「セクシュアルハラスメント」という言葉は本来「労働用語」であったものを、フェミニストが拡大解釈し、ねじ曲げて広めた、というのが経緯でした。
「ストーカー」の方は「成立」過程については書きませんでしたが、この言葉が広まるきっかけになった著作については言及し、その翻訳者の著作を採り挙げ、言葉の受け取られ方について十二分に検討していることは、読んでいただければおわかりになるとおりです。
 そんな自明のことすらも、師匠は理解する能力がない。
 いえ、それよりも、そもそも、それ以前の問題として、ぼくの主張はこれら概念のメディアでの扱われ方、法律上の扱われ方がヤバいというモノであったのだから、仮に「成立過程」それ自体について語っていなかったとしても、それがことさら問題だというのはさっぱり意味がわからない。
 フェミニストやフェミニズムを擁護しようとする人たちは、見事なまでに例外なく「全く言いがかりになっていない言いがかりを相手につけた後、惨めに敗北を喫して、しかしどういうわけかガッツポーズを取る」人たちばかりです。彼ら彼女らの提示する「論理」も「事実」も、その両方が必ず間違っているのだから、読んでいて頭がおかしくなりそうになります。
 いずれにせよ、これでは『男性権力の神話』の方も本当の本当の本当の本当に理解が及んでいなかったのだろうと考える他ありません。当然、『電波男』についてもしかりでしょう。前回、師匠が政治的意図で事実をねじ曲げているなどと書き、侮辱したことをお詫びします。師匠はそんな狡猾な人物では決してなく、そもそも文章が一切読めない方であったのです。だから単語のカウントだけでモノを語っても、仕方がなかったのです
 どうやら「悪の組織」に捕まると、本当の本当の本当の本当の本当に脳改造手術を受けるようです。
 でなければ、「組織」に理がないとバレて逃げられてしまいますしね。
 本当の本当の本当の本当の本当の本当に、怖いですね。

*1「表面的な統計だけで」の惚れ惚れとするようなブーメランぶりについては以前の後藤師匠の記事を参照。
*2 「内容の薄さを紛らわすため」漫画ネタで相手を罵倒するという惚れ惚れとするようなブーメランぶりについては同様に以前の記事を参照。


 さて、前回の補遺はこれくらいにしまして。
 実は今年最初のブログネタは上の書と、もう一つ、同じく冬コミでゲットした『30年目の「10万人の宮崎勤」』にしようと考えていました。あまりにも師匠がビッグでここまで引っ張ってしまいましたが、急ぎ、こちらの書についても簡単に触れておきましょう。
 本書はタイトルどおり、三十年前の宮崎事件におけるオタクについての報道を検証した本です。
 宮崎事件というのは……詳しくない方は各自お調べください。
『フェミニストとオタクはなぜ相性が悪いのか』において、宮崎はまるでオタク文化の創始者であるかのように書かれ、海燕師匠が「デタラメだ!」と大袈裟に騒いでおりましたが*3、「マスゴミ」がオタクの敵として可視化されることでオタクが団結するきっかけを作った、まあ、ある意味では功労者としての側面はあるなあと、ぼくなんかは思ったりもします。
 今回語りたいのもそういう感じのことなのですが、まずは本書についてご説明しましょう。本書のテーマになっているのは、「事件当時、ワイドショーのレポーターがコミケに取材に来て、『ここには十万人の宮崎がいます!!』と絶叫した」という都市伝説の真偽です。そう、この都市伝説はかなり流布して信じられ続けていたモノだが、どうもウソらしい、というのが本書の要旨なのです。
 なるほど、もしそうしたことが本当にあったなら、もうビデオも普及していた時期なのだから、絶対に映像が出てくる。ウソだと断言はできないが、まあ、ほぼそう考えて差し支えないのではないか……とぼくも思います。
 が、同時に当時のオタクに対する世間の視線は、言ってみればそうした都市伝説が「いかにもありそうなこと」に思えるほどに、非道いモノであったということも事実のわけです。
 しかし……ぼくが感じたのは、本書が当時の「オタク内オタク差別」こそが非道かったということの記録に(ちょっとだけ)なり得ているな、というものでした。
 ぼくが本書を読んでいて一番興味深かったのは、取材に来た週刊誌の「差別的」なインタビュアーに対し、コミケのサークル関係者が同調し、「オタク」に対して苦々しげな罵倒をする様子でした。

「べたっと油っぽい長めの髪に眼鏡をかけていて開襟シャツに肩掛けカバン。すぐに文句をつけ、自分に権利ばかり主張する(原文ママ)。宮崎のクローンみたいな連中ですよ」(サークル関係者)
 週刊文春1989年8月31日号「ロリコン5万人 戦慄の実態 あなたの娘は大丈夫か」
(12p)


「ロリコン5万人」というフレーズといい、「もう、この三十年前の文春砲こそが件の都市伝説の出所ってことでいいんじゃないか」と言いたくなる非道い記事ですが、それよりも引っかかるのは著者のdragoner氏が「コミケ参加者による身内批判になる」と言うのみで、まるでこのコメント自体には問題がないかのような断り書きを入れている点です。
 当時は「俺だけはこいつらの仲間じゃない」と仲間であるはずの他の連中を、憎悪に狂った目で罵倒することが「オタクしぐさ」でした。それはまるで、デスゲーム漫画で「最初にその場から逃げだそうとして真っ先に殺されるキャラ」の如くに。
 しかし、では、こう答えたサークルの彼は真っ先に殺されたのかというと、そうではない。恐らく、今やオタク界の中央でふんぞり返っていることでしょう。
 その証拠に、本書には現在コミケスタッフを務めている兼光ダニエル真師匠への取材もあるのですが、彼は当時の作家たちについて

エロパロとかやってたんですが、買った人に対して「ハハ! こんなのお前ら好きなんだよな!」と小馬鹿にするような、最後のページをめくるとオッサンの顔が笑ってるとか、そういう非常にロックな作風で、とろろいもと言えば、我々の世代の共通認識として刷り込まれています。
(29p)


 などと忘我の表情で追想しているのですから(奇妙な名前ですが、「とろろいも」というのは同人作家のペンネームです)。
 この「ロックな」という表現と共に、文中では「パンクな」との形容も飛び出しております。たまらなく恥ずかしいですね
 近いことは『ニューダンガンロンパV3』の時にも書きました。当時のオタク界は(今でもそうではあるけれども、輪をかけて)「クリエイター様エラい主義」が濃厚で、選ばれたエリートたるクリエイター様が本を買うだけのゴミクズのような消費者に過ぎぬキモオタどもを貶める様が絶対的な正義として、快哉を浴びておりました。そう、上のサークル関係者の言、今なら絶対にネットで炎上してしまう類のものですが、当時は普通だったのです。「俺たちはこいつらの仲間じゃない」とコミケの自分のサークルのエロ本の列並んでいる連中を、憎悪に狂った目で罵倒することは「オタクしぐさ」として正当化されていたのですから。そんなことが、業界の上の連中によって(オタク雑誌にオタクを侮蔑する記事をバンバン載せることによって)主導されていたのですから。
 かつてはそんな挙動に出ていた一部の人々は(兼光師匠自身がそうだとは言いませんが)「歴史修正」に邁進し、自分たちこそがオタク界のトップであり、オタクの味方なりと絶叫を続けていますが、その内心は今も変わらぬ、オタクへの憎悪で満ちています。違うのは『嫌オタク流』の作者と違い、オタクを金づるにした、ということだけです。
 そして……先に書いたことは、この事件がオタクを団結させるきっかけを作ったことで、「オタク内差別」が終焉したのでは……ということなのです。いえ、実際には「オタク内差別」なんて今でもあるわけですが、「俺だけはオタクじゃない!」と絶叫していた人々が「オタクの味方のフリ」をしている現状は、考えようによっては当時よりも遙かにマシなわけです。
 ……が。
 しかしそれは同時に、もう一つの史観も描き得ます。
 それはつまり、「オタク界のトップ」が「マスゴミ」を仮想敵にすることでオタク界を統一した、という考え方です。いえ、本書で頻出するコミケ関係者たちをこそ「オタク界のトップ」であるとするならば、この時期より以前から統一されていたと言えるのですが(ネット以前のコミケやオタク雑誌なんて、ものすごい影響力がありましたしね)、「マスゴミ」を仮想敵にすることでより支配力を高めたのでは……といった史観も成り立ち得ます。
 何しろ、上の兼光師匠のインタビューでは、延々延々と宮崎事件と直接関係のない表現規制問題とやらが実に饒舌に語られ、読んでいていささか辟易としました。
 更に、また別なスタッフへのインタビューでは「(この当時の表現規制問題は)宮崎事件が火元といえば火元」との答えが返ってきています(39p)。
 そりゃあ、「間接的影響があった」とすれば何でも言えてしまえますが、しかしこの時期の規制問題は第一に、まず「メジャーな小学館などの雑誌にわいせつな漫画が」ということが発端であったはずです。
 つまり本書は、図らずも「宮崎問題」を「表現規制問題」へとすり替えていこうとする「オタク界のトップの手つき」の記録映像となってしまっているのです。
 逆に、彼らの言を見ていて疑問に思うのは、宮崎事件は当時「ホラーオタ、特撮オタ」の犯罪とされた側面が何よりも強かったはずであるにもかかわらず、そこに対する言及がまず、ないことです。事実、当時はこの事件の影響で『仮面ライダー』が打ち切られている(『RX』の後番組が考えられていたのが、頓挫している)のですが、不思議と彼らはこれには触れない。
 というのもやはり彼らが「エロ本屋さんの論理」で動いているからです。
 もちろん、それは彼らが「エロ本屋さんだから」であり、それはそれで悪いことではないかも知れません。しかし、『仮面ライダー』の打ち切りには一切の興味を持たず、裏腹にろくでなし子が逮捕されるや、ホモの男児へのレイプを擁護した時のフェミニストくらいの勢いで擁護するエロ本屋さんが、果たしてオタクの代表であり味方であるかと言われると、微妙なのではないでしょうか。
 ぼくが「オタク界のトップ」の手先を「自分をオタクだと思い込んでいる一般リベ」と揶揄すると、「俺はオタクだ」とすごく心外そうな顔をしてきます。それは確かにそうであろうし、大変申し訳ないのですが、しかしそれでも、やはり彼らのトップは、少なくともオタクの誠実な味方ではなかったということが、本件からもわかろうというモノです。
 最後に、先のスタッフインタビューに戻りましょう。
 インタビューの締めでは今のコミケやオタクの状況について、スタッフ(市川孝一師匠、里見直紀師匠)が語ってくださいます。

市川:昔から比べれば、住みやすくなったし、オタクって自分から言いやすくなった。昔は自分からオタクって言うこと自体が難しかったんですけど、今はもうオタクって言いやすいし、親にもコミケット行くって言っても今は普通になっているし、「晴れてきたな」って気がしますね。
(43p)


 将来の明るさを暗示するかのような言葉です。

市川:中にいる人のほうがイキりすぎなんですよね。外からのほうがだんだん柔らかくなっていますよ。
(43p)

市川:ホントはもうちょっと中にいる人の方がオープンになるべきだと思いますけどね。
(中略)
里見:もう被害者意識はいいんじゃない? って気はしますけどね。
(44p)


 ……って、全然被害者意識が晴れてないやないかいっ!!
 この「中/外」という物言いは「コミケ、ないしはオタク界の中/外」という意味で使われているのですが、オタクのコンプレックスが解消されていると言っておきながら、いまだオタクがマスコミを敵視していると苦言を呈するのは、単純に矛盾しています。見ていくと「若い人の方が気にしていない」との指摘もあり、そう考えれば一応の辻褄はあうのですが、それならば「過去に非道い目に遭った世代は簡単に被害者意識を覆すことはできない」のはある意味、当たり前のことでもありますし、そこを「若いヤツは屈託ないんだからお前ら老害も被害者意識なんか持つな」という物言いは、あんまりでしょう。
 何よりぼくが気になるのは、このスタッフたちの言葉が「30年前のあの日の、サークル関係者の言」と、「完全に一致」を見ていることです。
「ここには十万人の宮崎がいます!!」と絶叫したワイドショーのレポーターは、恐らくいなかったことでしょう。しかし「マスゴミ」の取材に対し、お追従笑いを浮かべながら「ここには十万人の宮崎(のクローン)がいます!!」と絶叫したオタクはいました。
 そしてそのオタクが何者だったのか(今では名を成している漫画家さんなのか、無名でとっくの昔に脱オタしているのか)は、もちろん今となっては確かめようはありません。しかし一つだけ言えるのはそんな彼の同年代が、今や「オタク界のトップ」の座に着いているのだ、ということです。
 あれから三十年。オタクは変わりました。
 オタクを取り巻く環境も大きく変わりました。
 しかし、「自らをオタク界のトップだと思い込んでいる一般リベ」の「オタクに対する態度」だけには、少しも変化がなかったのです。

*3 もちろん、当該書がデタラメに満ちていることはぼくも指摘したとおりなのですが、呆れたことに師匠、この時点で本を通読していなかったと言います。そうした不誠実な態度で期を見るに敏な振る舞いをする者は、メリットが多くて羨ましゅうございます。

ドクター差別と選ばれし者が(晒し者として)選ばれた件

2018-03-10 00:06:31 | 男性学

 目下、「ドクさべ」が話題になっております――と書いても、もうこの言葉、わからない方が多いかも知れません。ドクさべとは「ドクター差別」こと兼松氏の愛称です。
 この御仁はずっと「女性専用車輌」に反対するため、車輌に乗り込むという運動を続けていました。そのため電車に遅延が発生し、今回ニュースダネになったわけです。もっとも彼らはもう何年もずっと同じことをやり続けており、遅延自体は以前から起こっていたはずなのですが……。
 一時期、ぼくは彼についてよく書いていました。
 当ブログの彼について書いたエントリを挙げるならば、

「選ばれし者たち」の栄光
2011年女災10大ニュース(その2)
(【第2位】の箇所)
ドクター差別と詰られし者たち(その2)
2013女災10大ニュース
(【第3位】の箇所)
部長、その恋愛はセクハラです!(接触編)

 或いは、彼についての動画、そして彼との対話の記録として以下が挙げられます。

ドクター差別と詰られし者たち
大女尊男卑空中戦 兵頭新児対ドクター差別
女性専用車両に乗り込む尊い人たち

 ――しかしこうして見ると、ここ五年はいじっていないことに気づきます。
 正直彼のことはもういいや……と思っていたのですが、降って沸いたようなこの事態です。
 どうもぼくは話題のトピックには飛びつくのが遅れる、或いは話題になりすぎると自分の中で「もういいや」となってしまうのが常なのですが、翻って自分が過去に採り挙げたトピックについては忘れた頃に再燃し、こちらの仕事は評価されないのがお約束のようです(上の『部長、その恋愛はセクハラです!』は今をときめく牟田和恵師匠の著作です)。どうにも、思うようには行かないモノです。
 さて、しかし、とは言え、本件についてあまり書くことはありません。こうしたことはそのうち起こるのでは……ということはずっと言ってきたわけで、本件は予言、いや、当然起こりうることについての順当な推測の遅すぎる成就、以上のモノではありません。何のかんの言って、一番悪いのはこうなるとわかりきっていたのに策を講じなかった鉄道会社でしょう。
 とは言え、ぼくはドクさべについてずっと、評価できない旨を言ってきました。
 敢えて簡単にまとめるなら、
 1.目的が悪い
 2.手段が悪い

 ということになります。
「目的」は「女性専用車輌」の廃止そのものです。
 彼は「男性差別」の専門家と自称していますが、ぼくがいつも言う通り、この世に「男性差別」などありません。
「ハエ差別」がこの世にないのは、「ハエ」が人間ではないからです。男はまず、人間と認められていないのですから、男性差別など、あるはずもないのです。
 男が過労死しようと騒がれないものを、女が過労死すると大騒ぎする。
 過労死者の95%が男なので、「当たり前」と放置されているのですね。
 ホームレスの95%は男であることを、誰も疑問に感じない。
 男が痴漢冤罪で殺されようと、ただひたすら女を守れとのマスヒステリーだけが世を覆い続ける。
「男性差別」クラスタがどうして女性専用車輌「ごとき」にばかり執心するかとなると、この世で男性の生命、肉体、精神、尊厳、財産が圧倒的根本的絶対的究極的に軽んぜられているからだ、ということを、彼らが一般人と同様に一切、理解していないからなのです。
 後藤和智師匠は上のようなデータを挙げた拙著に対し、「表面的な統計だけで」「「男が被害者になっている」的な議論を展開していて」けしからぬと泣き叫んでおりましたが、それは師匠が「男は人間ではない」というこの社会のお約束を知っているからなのですね。
 そう、「男性差別」などないのに、彼が「ドクター差別」を名乗っている時点で、もうダメなのです。
 むしろ近年では「経済クラスタ」が「フェミが何を言おうと女は男を養わない、そこを疑問にすら思わない」という「その、一端」に切り込んで、フェミを叩き斬っているのにもかかわらず、「男性差別クラスタ」は歯牙にもかけず、ひたすらに女性専用車輌に乗り込み、男性全体のネガティブキャンペーンに勤しむばかりです。
「手段」についても同様です。
 上に「ネガティブキャンペーン」と書いたように、まず、何よりも一般女性の恫喝というやり方が、世間の反発を招くモノであるのは必至です。しかし彼は、そこについて一切頓着する気配がない。
 男女ジェンダーというモノ(これを、大枠で肯定する立場をとろうと、解体すべきだというスタンスに立とうと)を少しでも鑑みれば、彼の振るまいが「男=加害者/女=被害者」という世間が一番理解しやすい、一番最悪な図式に収斂していくことは、バカにでもわかることです。
 しかし彼はそこを考えない。頭に金玉を乗っけた珍奇な格好で「我こそは正義の体現者なり」と絶叫を続ける。このフリーキーさ、センスのずれっぷりは見ていていたたまれなのですが、彼にはそうした自覚はない。例えばマック赤坂のような「フリークス」的な人々の多くは恐らく、自分で自分を異形である、社会の道化師であると自覚して、それを演じているのではと思うのですが(つまりはドクさべの方こそが本当の意味での「フリークス」だということなのかも知れませんが)……。
 そうなるともう、彼の存在は「男の権利を主張する者など、こうした狂人なのだ」とのコンセンサスを、世間に根づかせるためだけにあると言っても過言ではありません。ことに今回はもめごとを起こし、「女性に危害を加える男」を演じてしまいました。
 性犯罪も外国に比べてため息が出るほどに少なく、女性が優遇されきっているこの社会で、フェミニスト――つまり、女性が虐げられているという「設定」がないと生きられない人たち――は今まで非常な苦心を強いられてきました。データを捏造し、男性を冤罪で陥れ、兵頭新児の発言を「二次創作」してデマを垂れ流すことだけが彼ら彼女らの仕事でした。そこへ、ドクさべは「本当の悪」の役割を、お優しくも演じてしまった。
 本当に、ありがたくて涙も出ません。
 こういうのを、「利敵行為」と呼ぶのです。

 そもそもぼくは、ドクさべを極めて優良なフェミニストの、ないし左派のパロデイであると考えます。彼自身の政治的なスタンスは、親米保守であるとのことなのですが。
 ぼくはいつも左派に否定的なことを書きますが、実のところ政治には何ら興味がない。ぶっちゃけるとぼくの左派嫌いの九割は、「デモ」というものの格好悪さに対する生理的嫌悪感に根差しています。前にも書いた通り、ああいうのは「自明な正義、大衆の支持」といったものが基板にあってこそ成り立つものなのです。
 左派というのは、(少なくとも今となっては)ものすごく偏狭な正義を盲信し、そんな自分たちのコンセンサスを大衆が共有してくれていると思い込んでいる(がため、あどけなくデモができてしまう)存在です。
「差別」という概念もそれと全く同様です。彼ら彼女らは「差別/平等」を「悪/正義」とほぼ同義の概念として扱ってきました。「差別!」と言いさえすれば相手をやっつけられるのだと思い込んできました。しかし「平等」なんて概念は(「正義」がそうであるように)そんな自明なモノではない。逆に言えば「差別」とはわかりやすい「ワルモノ」がいるのだという幼稚な空想を前提しないと、出て来ない概念なのです。しかし、正義は多様化し、彼ら彼女らの手には負えなくなってしまい、だからこそデモはおわコン化したのだと、SEALD'sがあそこまで身体を張って教えてくれました。
 いえ……もっと言えば、左派がいまだフェミニストとのデートに執心する理由は、男女の関係性こそ「常に男がワルモノ、女がイイモノ」という強い強い絶対性を持った、彼らにとっての最後の「持ちネタ」であるからとも言えるかも知れません。
 つまり、ドクさべは「一番真似ちゃいけない人たち」から、「一番真似ちゃいけない部分」を真似てしまった人、なのです。しかし、いまだ嘲笑されていることを理解できず、デモを続けているドクさべ。ぼくは彼と幾度か対話し、案の定、ハナシは全く通じなかったのですが、とにもかくにも彼は「デモで輝いているワタシ」に陶然となっていて、「デモをやらぬお前にこの問題を語る資格はない」と繰り返すばかりでした。これは紛い物の「当事者性」に酔うことで自分の正義を根拠づけられたような錯覚に陥り、何か、快感を得るという「市民運動」の陥りやすい罠ではないでしょうか。
 そう、あらゆる意味でドクさべは左派のパロディだったのです。事実、どうも彼(そして在特会)にああした運動のノウハウを教えたのは、左派の人物らしいとの話も聞きます。
 ぼくはずっと、デモ以前に思想を深化させるべきだ、と繰り返してきました。この業界には既存の勢力としてフェミニズムが横たわっています。その主張は完全に間違ってはいるモノの、蓄積や政治的権力だけは莫大にあるのだから、デモをやるヒマがあればそこを突くだけの理論を構築しなければならない。
 しかしドクさべはそうしたことに何ら関心がないし、そもそもフェミニズムについて何ら知識も持ちあわせていない。ドクターを自称する割に、頭の中には何も入っていないのです。実は彼に、この件についても問い質したことがあるのですが、そこで返ってきたのは「なまじフェミニズムなどを知ると影響を受けてしまう」という実に奇妙な言い訳。しかしこうしてみると、彼はフェミニズムを知らなかったからこそフェミニズムの二の轍を踏み、彼ら彼女らのパロディと化してしまったということがわかります。
 これは彼だけの特徴ではありません。「表現の自由クラスタ」がただ「ミサンドリー」と絶叫すればことが済むと思い込んでいること*1、フェミニズムについて何ら知識がないにもかかわらず「フェミニストは味方だ!!」と泣き叫び続けていることとこれは全く、パラレルです。そうそう、彼ら御用達の「真のフェミニスト」であらせられる「ネオリブ」も自分たちのやっていることを「思想ではなく運動だ」と称していますね。それは丁度、「思想がなく、単に暴れている」ドクさべと「完全に一致」しています。彼ら彼女らは「思想としては内実が一切ないから、身内に向けたパフォーマンスだけしかやることがない」のです。


*1「ミソジニーもけしからぬが、ならばミサンドリーもけしからぬぞ」という彼らの薄っぺらな主張は、「この世にミソジニーはないが、ミサンドリーは空気のように横溢している」、即ち「男性差別などない」状況を一切鑑みない物言いです。


 それでも、最後に、一つだけ、ドクさべのおかげで見えてきたことについて、ここに書いてハナシを終えることにしましょう。
 目下、『広がるミサンドリー』を丁度読み終えつつあります。とにもかくにも大変な大著である(と共に大変な悪文である)ため、読破に数年を要して、最初の方に何が書いてあったかはもう、ほとんど忘れちゃったという体たらくなのですが。
 で、まあ、以前にもちょっと書いた感想(まさにドクさべ同様、ドラマなどのフィクションを採り挙げては「男性差別だ!」と言っているだけの薄っぺらな内容)*2を覆す記述にはお目にかかれそうにないまま読み終えようとしているのですが、一つ、終章にもなって気になる記述がありました。

男性に恥ずかしいと思わせる能力は、常に女の武器であった。
(371p)


 そう、そうなのです。
 男にとって女に笑われることは、大変な不名誉です。このことは闇の結社の陰謀で、フィクションの世界では男がプライドを傷つけられることに対して、「滑稽で嘲笑すべきこと」として描くことしか許されてはいませんが。
 今回、ドクさべが「男性たちに叱られてしゅんとしていた」ことに対する快哉が、フェミニストによって叫ばれていました。
 ここ、すごく不思議なんですね。
 ここからはまず、彼女らの「緩やかな家父長制」*3への欲情が見て取れるのですが、それ以前に男性心理からすると、明らかに不自然です。男は(特に性的な事柄では)男より女に言われた方が「しゅんとする」ものなのだから。
 そもそもドクさべは女性専用車輌に乗り込むことで、そうした経験を日常的にしている存在です。今更、男にいろいろ言われてしゅんとなるとは(まあ、ご当人に聞かないとわからないとは言え)どうにも思えません。
 以前、近いことを書いたことがあります*4
 彼が街頭演説で、「(女性専用車輌に乗り込んだため)私は女性にキモいと言われた、非道い!!」と訴えていたことがあります。いや、「自業自得だろ」としか言いようがないのですが、「女性に罵倒されて傷ついた」という訴え自体は胸に迫って、ちょっとだけ同情を覚えなくもありませんでした。
 フェミニストが男を性犯罪冤罪に陥れるのは、一種の「反復強迫」ではないか……とぼくは想像します。例えばですが、子供の頃の男の子にいじめられた経験をトラウマに持つ(というのも、彼女らの男性観がどうにも小学生的ですから)彼女らは、男を冤罪に陥れることで、「自分は性犯罪の被害者である、不幸な女だ」という物語を捏造し、被害を疑似体験する必要に迫られているのです。
 同様に、ドクさべは「女にいじめられた非モテである自分」を「反復強迫」的に追想するため、「女性の罵声を浴びに」、女性専用車輌に乗り込んでいる、被害を疑似体験しようとしている存在ではないか――というのがぼくの勘繰りです。
 いずれも巨大なる迷惑しか生まない存在ですが、可哀想ではあります。
 そう、本件がそうであったように、この社会における全てのトラブルは「あらゆる抑圧を一身に受け、暴れるしかなくなった男」が起こし、そして「左翼(フェミニスト)という、弱者(男)への憎悪という感情の実体化した存在」がそれを純粋なる悪であるとして断罪する聖なる儀式を執り行い、鎮める、というお約束になっています。ぼくたちの社会はそのような形で男性を残酷な女神への生け贄にすることでしか社会に満ちた怨嗟の念を「浄化」する機能を持たない、未開社会です。フェミニストはこの社会の憎悪や怨嗟を司る巫女であり、「食うために怨嗟や憎悪を捏造している」存在です。
 本件は残念ながら(極めて珍しく)女性の方に理のあるケースではありましたが――それでも事件は、女性が美味しく食べられるように「超訳」されてしまった。それがつまり上の、「女性に性的関心を抱いて逸脱してしまい、しかし他の正義の男性に取り抑えられる惨めなモテない男、正義の男性に守られた女性たち」という乙女ゲー的ストーリーです。
 そうそう、以前のハナシですが、ぼくが某フェミニストのあまりにも反社会的な発言を見兼ね、注意したところ、狂ったような嫌がらせを受けたことがありました。その時、そのフェミニストの信奉者である(言っては悪いけどちょっとトロそうな)女性はぼくに対して「先生のことが好きなの? 好きなの?」としつこく問い詰めてきて、非常なストレスを覚えました。そう、彼女らは事態を「美味しく食べるため」、そのように「超訳」せずにはおれない存在なのです。
 そうした構造については、しっかり認識しておく必要があります。
 さて、上にも書いたように次回の記事は『広がるミサンドリー』という著のレビューを予定しています。仮にですが、ドクさべについてググって当ブログに来た方。その中でも当記事に引っかかりを覚えるものの、納得できないと感じた方。
 恐らく次回の記事を見ていただければ、疑問のいくらかは解消されるのではと予想します。そんなわけなので、どうぞ、またご来場ください。

*2「夏休み男性学祭り(最終回)――『広がるミサンドリー』」
*3「表現の自由クラスタ」が敵視するフェミニストを糾弾する時に多用する表現です。この指摘自体はぼく自身がずっと行ってきたことであり、全く正しいのですが、彼らの言からは「それが一般的な女性の本質であること」への認識が感じられず、極めて不自然です。言い換えれば彼らからは「フェミニストは、口先の主張とは裏腹に、ダブルスタンダードでそうした男性を求めていることこそが責められるべきである」といった視点が欠落している点が気になるのですね。
*4部長、その恋愛はセクハラです!(接触編)の前半部分。その様子は動画「ドクター差別と詰られし者たち」に記録されています。