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兵頭新児の女災対策的読書

「女災」とは「女性災害」の略、女性がそのジェンダーを濫用することで男性が被る厄災を指します。

実践するフェミニズム――【悲報】テラケイがラディカルフェミニストとお友だちだった件

2018-11-30 14:40:05 | フェミニズム
 どうも、まずはちょっとしたお断りです。
 この度、noteに手を出してみることにしました。
 実のところ本ブロマガ自体、ニコニコのブロマガとの二股で始めたもので、あんまりややこしいことはしたくないのですが、基本、同記事をこちらでも先方でもアップしていくことになります。ただし、noteでは多少、マニアック(オタク的ともいう)で揶揄気味の表現を和らげ、一般性を意識し、またこれはさすがに大っぴらにするのはヤバいかも……と思われる部分は課金コンテンツとして発表していこうかと思います。
 基本はいずれも変わりませんし、当ブログをお読みの方は、それを継続して、まあ課金コンテンツだけはお気が向けば購入していただければ幸いです(まあ、「ヤバい」と言っても大して期待するほどのものではありませんが……)。
 というわけで、今回は久々にフェミニズム本に対する真っ向からのレビューです。



 先日、処女出版『矛盾社会序説』を物し、また「キモくてカネのないオッサン」「かわいそうランキング」「お気持ち案件」などの造語を次々にヒットさせ、ツイッター界では大きな影響力を持つ白饅頭ことテラケイこと御田寺圭氏。
 ぼくもまた、彼については基本、スタンス的に同じ人物として信頼感を持っておりました。
 ところが、ネット上で牟田和恵師匠が炎上した時、彼が師匠の『実践するフェミニズム』を称揚し、「かつてはまともだったのに」と述懐している*1のを見て、驚きました。
 さらには青識師匠、借金玉といっしょに持ち上げ合戦までしている始末*2
「かつてからダメだが、それでも今よりはマシであった」というのならわからないでもないけれども、「読書会をしよう」と言い出すなど、手放しの誉めよう。おいおい、まずくないか。フェミの著作がまともだなんてこと、そもそも物理法則に反することであり、また師匠の悪辣さは以前、ぼくも採り挙げたところです*3
 ご当人に繰り返し、リプを送ったのですが、見事にスルー。この人、対話ぐらいはする人だと思っていたので、いささかショックでした。
 まあ、でも、確かにぼくもこの本自体は未読だったので、図書館で借りてきてようやっと読了しました。
 というわけで今回から数回に渡って、兵頭新児の一人読書会、お届けしましょう。


*1(https://twitter.com/terrakei07/status/1042613516274827265
*2 「反フェミニズムの人すら名著と推奨する「実践するフェミニズム」が高すぎて買えない件について
借金玉についてはスタンスをよく知らんのですが、青識師匠は典型的な「自分をアンチフェミだと思い込んでいる一般フェミ」と称するべき人。まあ、結論を書いておけばテラケイ師匠もそうだったということなのでしょう。
*3『部長、その恋愛はセクハラです!』。ぼくのレビューは(http://ch.nicovideo.jp/hyodoshinji/blomaga/ar471284)(http://ch.nicovideo.jp/hyodoshinji/blomaga/ar476779)。
『実践』は2001年の出版なのに対し、『部長』は2013年。以降、本稿では『部長』を「後の本」と呼ぶことにします。


 さて本書、前半(第1~2章)で「セクハラ」を、中盤(第3~4章)で「性暴力」を、後半(第5~6章)で「ポルノ(売買春)」を扱うといった具合。まずは「セクハラ」から見ていきましょう。
 が、テラケイ師匠おススメの本書、第1章の枕(リード文的なもの)からおかしな話の連続なのです。
 99年、均等法の条文に雇用主のセクハラ防止配慮義務が加わった。しかしこれは「防止義務」ではなく、被害があっても企業が防止規定を作ったり研修をしたりしていれば、「配慮はしていた」と責任逃れができ、また加害者も法的責任が問われない、と牟田師匠は嘆きます(2p)。
 しかしそもそも雇用主、企業側が個人の行いの責任を問われること自体、どうなんだという感じです。「加害者も法的責任が問われない」と文句を言っているのですが、強制わいせつで訴えればいいんじゃないでしょうか。
 この謎の主張は、本文でも延々延々、延々延々と繰り返されます。

 痴漢や一般の性暴力、夫婦間のレイプなどと比べてみるとセクハラの問題構成の「有利さ」がよくわかる。街路や電車、映画館で不幸にも痴漢やレイプの被害に遭った場合、責任を加害者本人以外に求めるのは困難だ。(中略)しかし、係員や駅員に助けを求めた場合は別として、個々の事件の加害責任を鉄道会社や映画館に追わせることは不可能だ。それは公道における痴漢や性暴力も同じで、例えば警察や行政機関は、明るい街灯をつけて予防する責務があるとは言えても、県道で起こったレイプや痴漢の責任が県にあるとはとても言えない。
(31p)


 いや、何を当たり前のことを、としか思えないのですが、しかし師匠はこんなことを言い出すのです。

 予防や救済という点でも、加害者本人以外に責任主体を設定しうることは大事な鍵になる。
(32p)


 すごいとしか。
 ここまで男性側や公側に責任を負わせながら、女性側には一切責任がないとするのが師匠、いや、全フェミニストです。
 16pにおいては「両者の合意があればセクハラにならない」としながらも、しかる後、「しかし相手が偉ければ断れないじゃないか」と言い出します。この後者にこそフェミニストたちは力点を置く傾向にあります。
 ここで牟田師匠は東京都労政局の金子雅臣師匠*4の発言を引用し、「加害者たちは、問題が表面化し、場合によってはそのために処分を受けてからも、自分のしたことがセクハラであると理解できないケースが少なくない」としています。それは単に、男性の視点からは合意だったように思えたということじゃないでしょうか。裁判においては、そこを中立的にどちらが正しいかをジャッジしていただかなくては困るのですが、「フェミ裁判」においては男性の言い分は常に間違っているというのが不動の、絶対的根源的大前提的「真理」なのです。
 何しろここではマッキノン師匠の「女性は沈黙をもって拒絶の意を示す傾向にある」との説が紹介されています。「見かけは喜んでいるように見せて巧みに男性の面子を立ててや」るのだと(18p。強調ママ)。いやあ、マッキノン師匠ってポルノ以外でもスゴい人だったんですねえ。
 ちなみに本書、テラケイ師匠が絶賛してます
 要するに「女は拒絶しにくいジェンダー規範を押しつけられている」のだから、「そのような社会にした男が悪い」わけです。もっとも、ちょっとだけ「女もはっきりと拒絶の意志を示すべき」と言ってはいるのですが。
 先にも述べたように、ぼくは以前、師匠の『部長、その恋愛はセクハラです』をレビューしました。そこでは「女が嫌だと言っていなくても、外からは喜んでいるように見えてもセクハラ足り得る。その時はOKしても後からセクハラだと判断することもあり得る」とシリメツレツなことが書かれていましたが、その「元ネタ」がマッキノン師匠にあったことについては、多言を要しないでしょう。
 もう一つ、師匠はこんなことも言っています。


たとえば、女性も男性と同じように仕事をこなし、上司に対しても遠慮せずに意見を言えるような雰囲気の会社があるとする(たくさんあるとは思えないが)。そういう職場で、対等な関係が根付いているならば、上司からの性的誘いがあっても、強圧的な「脅かし」にはなりにくいだろう。
(中略)
ところが権威的な上下関係があって言いたいこともなかなか言えないような職場なら、体を触られても「やめて下さい」とは言いにくい。
(34-35p)


 カッコをつけて(たくさんあるとは思えないが)と補足しているのがケッサクで、そもそも「上司に対しても遠慮せずに意見を言えるような雰囲気の会社」なんて男女問わずそうそうないでしょう。いえ、「遠慮せずに意見を言える」というのはまあ、程度問題で、どの程度ならば自由な雰囲気と称するべきか、測る物差しは存在しません。しかし原則論として、上司に異を唱えることに対して、ある種の遠慮が働くのは当たり前のこと。そこを師匠は、「女だけは上司よりもエラいという扱いにしろ」と言っているだけです。
 事実、少なくともセクハラという言葉の浸透した後の社会にあっては、女性の「やめてください」は水戸黄門の印籠のような切り札になったのです。

*4 ぼくの著作をお持ちの方は、ちょっと取ってきてください。金子師匠には『壊れる男たち』という著作があり、そこではフェミニストにこびへつらい、「男性は自らの本能をコントロールできない、人間以下の獣であるというプライドを欠いた主張を認めるかどうかがスタートラインとなると言っても、言い過ぎではないと思う。」などと男性を酸鼻を極める舌鋒で罵り倒しています。しかし『男女平等バカ』においては一転、「あなたの職場は大丈夫? ジコチュー女が仕掛けるセクハラ冤罪の構図」という、かなりラディカルに女災を批判した記事を書いておいでです。著作でも大いにからかいましたが、考えてみれば後者が本音とも思えますし、「正味の話、その両方が共に全く正しい」と考えるところからしか、話は進んでいかないというのが、本当のところなのではないでしょうか。

 また師匠はセクハラの概念が拡大されすぎていると嘆き、こんなことを口走ります。

たとえば女性を「オバさん」扱いして職場で軽視するのがセクハラであるのなら、中高年の男性上司のことを、「脂ぎったハゲ」「オヤジは臭い」などと陰口を聞くのもセクハラだ、という具合だ。
(中略)
女性社員の発した「チビでハゲ」などという無礼な言葉に男性の上司や同僚の心が傷つけられたとしても、それはセクハラではない。
(46p)


 非道い、とお思いでしょうか。
 一応つけ加えておきますと、師匠は「だから言ってもいいのだ」と主張しているわけではありません。「人を傷つけてはいけない」ということ自体は常識なのだから、

そんな「子供のしつけ」のようなことを会社や大学からされねばならないのだろうか? 言うまでもなく、そんなことはナンセンスだ。
(47p)


 まさにその通り! しかしそれならばセクハラも同様でしょう。そんな「子供のしつけ」のようなことを会社や大学からされねばならないというのは、言うまでもなく、ナンセンスです。
 いえ、もちろん師匠は反論するでしょう。「ジェンダーの何やらかんやらで、そんな子供のしつけのようなことが、今の男たちには必要なのだ!」と。しかしその理屈は、そうした男性へのハラスメントがセクハラよりも遥かに少ないのだとの前提があってこそ成り立つことです。ツイッター上でフェミニストらしき女性が「女は常に男からの暴力に晒されている、男たちはそんな危険に晒されていない」などと言っていたのに対し、dadaさん辺りが「ほとんどの男は男から殴られた経験があるぞ、フェミはそれに頬かむりしているだけだ」と返していたことを思い出します(記憶で書いているので、細かい点には差異があるかもしれませんが)。
 結局、フェミニズムの主張は、「個人的なことは、女性にのみ限り政治的である」との前提を導入しなければ、絶対に成立し得ないのです。
 さて、とはいえ、です。
 セクハラというのは言うまでもなくセクシュアルハラスメント、性的嫌がらせの略です。先の例でいえばハゲや脂ぎっているというのは男性にこそ多い特徴であり、その性的な弱みを攻撃するのは語義的にはセクハラと呼ぶしかない、とも思えます。
 しかしこの言葉、本来は労働用語でした。歴然とした力関係が横たわり、断りにくい中で性的関係を強要される。そうしたパワーをかさに着た強要行為こそをセクハラと呼ぶのです。
 そして、上の例は「男性上司」が対象として仮想されており、「上司だからセクハラじゃない」ということは一応、言える。理屈は一応、通っているのです。だから一応、師匠も女性上司に性行為を強要された男性がいれば、それはセクハラ被害者だと認めてはいます。
 その意味で、一応の筋は通しているわけですが(一応ばっかりだな)、しかし「ハゲ」であることと「上司」であることは直接の関係はないのだから、恣意的な「実例」を挙げることで、自分たちの言い分を正当化しているようにしか、読めない(仮に支障が「女性上司にブスというのはセクハラにあたらない、というのでしたらこれまた一応のつじつまはあうのですが)。一体、どうしてこのような論理展開を、師匠はしているのでしょうか?
 師匠は日本のセクハラ裁判の事例を挙げ、勝訴した事例も「性差別」そのものが裁かれたものではないのだ、と嘆きます。
 どういうことかおわかりでしょうか? 確かにセクハラは裁かれたが、それは「性犯罪だから有罪」なのであって、「性差別だから有罪」のわけではない、そこがけしからぬ、と師匠はお嘆きなのです。
 まずそもそも、「性犯罪」が「性差別」を必ず内包しているという考え自体が、フェミニズムの歪んだイデオロギーに生み出された誤謬でしかない。彼女らはよほど女性差別があってほしいのか、レイプは女性への憎しみによって行われる、などと繰り返します。そしてそれは、それこそ見知らぬ暴漢に襲われる類のものであれば(必ずしも正しくはないでしょうが)理解できなくはないものの、彼女らは決まって「男性側は合意だと思っていた関係」をこそ裁こうというのだから、もう何が何だかわかりません。
 いえ、一兆歩ほど譲ってそこは置くとしても、ぼくはヘイトスピーチ同様、差別そのものは法で裁かれるべきではない、と考えます。当たり前です。差別そのものも人間の考えの一つなのですから。そして考えそのものではなくあくまで、それを発露することがけしからぬというのであれば、なおのこと行為を行為としてのみ裁くしかない。しかし、牟田師匠はどうしてもそこが許せないご様子。

 アメリカの場合とは違って、日本におけるセクハラ裁判は、「性差別」にあたるかどうかが直接に問われてきたのではない。
(52p)


 同趣旨のことを、師匠は幾度も幾度も幾度も幾度も幾度も幾度も繰り返します。事件の違法性が問われるのみで、セクハラが性差別に当たるかどうかは問われていないと。当たり前のことです。裁判所はフェミニズムのイデオロギーについて云々する場ではないのですから。

 マッキノンが詳述しているように、セクハラを不法行為法で裁くことは、加害者個人の言動にのみ焦点をあてて問題を個人レベルにとどめることになり、事柄の本質が性差別であることを曖昧にする(マッキノン、一九九九年、二六六-七頁)。
(55-56p)


「不法行為法」って言葉、スゴいですけど法学用語とかであるんですかね。上の文章、そのまま取ると「不法行為じゃなくても裁け」って言ってることになりますもんね。
 ちなみに(マッキノン、一九九九年、云々)というのはこれがマッキノン師匠の著作を引用しての主張であるという意味で、とにかく本書では延々延々延々延々とマッキノン師匠の主張が引用されます。しかし、性犯罪がそもそも個人的なものであるのは当たり前のことでしょう。本書の枕にもあるように、セクハラ関連の法は会社側に防犯義務を課すなどさせるようになってきていますが、そこには師匠たちのこのような思惑が働いていたのですね。

 マッキノンによれば、「不法行為法は、女性のセクシュアリティに対する権利侵害を女性の置かれている社会的状況という背景から切り離す点でセクシュアル・ハラスメントの問題を扱う概念枠組みとして不適切である」(マッキノン、一九九九年、二六六頁)。女性がセクハラを受けるのは、たまたま彼女の事情から、彼女の周りの環境や上司が「運悪く」「ろくでもないやつ」だったから起こるのではない。それらは要因の一つではあるとしても、セクハラの起こる根本の原因は、その女性が女性であるゆえに、性的圧力を受けやすくヴァルネラブルな(引用者註・傷つきやすい)立場に職業上立たされてしまいがちなことだ。セクハラは、偶発的で特異な逸脱行為ではなく、女性という集団への権利侵害であり、構造的な性差別に基づいている。女性が女性であるゆえに、社会経済的に無力で従属的な位置に置かれているからこそ、雇用と結びついた性的圧力にさらされ同意を強制されがちだし、社会における性的な位置づけのために、女性は社会経済的にも雇用上でも低い地位に置かれがちなのだ。
(56p)


 後半を書きとりながら、頭がくらくらするのを抑えられませんでした。
 何しろセクハラはそれを行った個人の問題ではないのですから、男は全員悪者であり、そんな悪者を放置するこの社会は根源的に間違っているわけなのです。

ましてや、受付係やエレベータ案内係などに典型的なように、女性の仕事につねに「若く」「親しみやすく」「感じよい」魅力をふりまくのが欠かせない要素がある限り、社員や客から性的な接近をされやすいことは当然すぎるほど当然だ。
(57p)

 このような意味でセクハラは、単なる個々の女性への被害ではなく、性差別なのだ。したがって、セクシュアル・ハラスメントは本質的に、不法行為法の問題としてではなく、女性という集団への権利侵害、つまり性差別の問題として扱われるべきなのだ。不法行為法とは、権利侵害を受けた個人に損害賠償をするものだから、たとえ損害賠償の網を広げようとも、根本的に社会的に根絶されるべき問題を、個人的なものであって損害賠償によって解決できるとみなしている。そうではなく、セクシュアル・ハラスメントは、社会的に根絶されるべき性差別による権利侵害なのである(マッキノン、一九九九年、二六七頁)。
(58p)


 それって泥棒だって同じじゃないでしょか。殺人だって、損害賠償によって解決はできないんだから、社会的に根絶されるべきと言ってしまえばそうでしょう。
 結局、後の本をご紹介した時の「なんでこんな企業に権限を持たせたがるんだ」という疑問に、本書は明快に答えることになっています。
 結局、師匠たちにとって、セクハラなどどうでもよかった――とまではいわないまでも、ある種のダシであったのです。つまり、「女性差別」という形のないものを違法化せよ、ということこそが、真の目的だったわけですね。
 だから、企業社会が女性の意を全て組むようになるまで、セクハラは企業側が(女性差別をした連帯)責任を負え。性犯罪を裁くのではなく、その根底にある(と彼女らが思い込んでいる)女性差別をこそ裁け。
 先にはマッキノン師匠が、「不法行為法で裁く」ことがダメと主張していましたね。しかしそれならどうすればいいのか。「遵法行為」か「不法思想」のいずれかを裁く以外の選択は、論理的にあり得ない。そして、その後者を裁けというのが、即ち人の思想を統制せよというのが、師匠の、全フェミニストの真意でした
 結局、セクハラという概念は、最初っから、成立したその時点から、それこそが目的だったのでした。少なくとも彼女らの願望が叶った世界では、「表現の自由」は根源的に否定されていることでしょう。
 ちなみに本書、白饅頭師匠が絶賛してます

 ちょっとページを戻ってみると、師匠は「ジェンダー・ハラスメント」と呼ばれる概念を紹介しています。

「女には大事な仕事はまかせられない」「女は若いうちが花」「キレイな女性の入れてくれたお茶はうまい」……。
(24p)


 何か、そんなんが「ジェンダー・ハラスメント」だそうです。「そう思われること自体は止めようがない」と思いますが、まあ、できるかぎり最大限、師匠に有利に解釈するならば、「口にすることがけしからぬ」ということなのでしょう。しかしそうなると結局、「A子ちゃん可愛いよね」といった会話すらもがセクハラにならざるを得ないし*5、「当然そうなのだ」というのが牟田師匠に限らず、フェミニストの一般的な考えであり、事実、会社社会は既に、そのようになってしまっているのです。つい先日やっていた『トネガワ』でもありましたが、ドラマなどでは男側が「セクハラになる」とビビり、女側が「私は気にしませんよ」というのがお約束になっているように思います。

ジェンダー・ハラスメントとセクシャル・ハラスメントは、必ずしも別ものではなく、どちらとも区別つきがたい言動もあるし、どちらも、女性への蔑視と差別意識から来ている点で同根である。
(26-27p)

私たちはジェンダー・ハラスメントを含めたセクハラ問題の解決に取り組んでいかねばならない。
(27p)


 はい、師匠の真意はもう明らかですね。
 ジェンダー規範が女性たちをモノも言えないほどに縛り、信じがたいほどの抑圧に押し込め、男性とは比べ物にならないほどの苦境へと追い込んでいる。そうしたフェミニズムの世界観を守ることそのものが師匠の目的でした。そして、そんな絶対的に間違った社会を改めるには、ジェンダーフリーによってジェンダー規範を壊滅させるしかない。本書のどう考えても首肯のしようがない奇怪な主張の数々は、そうした師匠たちの歪んだ世界観が前提されてることの、何よりも明白な証拠なのです。
 ちなみに本書、御田寺圭師匠が絶賛してます

*5 こうした意見への反論が本書にも書かれているのですが、それは「例えば、『そんなことを言ったら美人が台なしですよ』など、その言葉が女性である相手の発言を否定する意図でなされたらどうだ(大意)」などとわけのわからないもの(23p)。果たして、「否定する意図」がなければセクハラにならないのか……(否定する意図で「ブス」とののしって相手をひるませたというならわかるのですが)とにかくここに限らず、師匠のロジックはわけのわからないシチュエーションを想定して「さあどうだ」とドヤるものが多すぎです。

 ……まあ、本書は毎ページ毎ページがこの調子で、キリがありません。
 もう既に相当な文字数を消費して、ようやっと冒頭で述べた「前半」を紹介し終えたところなのですが、続きはまた次回ということにして、そろそろお開きにしましょう。ただし、最後にトンデモない爆弾が控えていましたので、最後にそれを投下して。

 男性が女性上司から意に反した性的要求をされるような場合、上司―部下の力関係のために断りにくい圧力がかかることは同じでも、男性上司から女性の部下に行われるのとでは意味は同じではない。なぜなら性的な攻撃に対するヴァルネラビリティ(傷つきやすさ)が男女で大きく違うからだ。たとえば職場の飲み会の後、上司とふたりきりになってしまい、「前から好きだった……」と迫られるとき、上司が男性であるのと女性であるのとは大違いだ。
(48p)


 え……?
 ここでは「物理的に男の方が力が強いから断れる」という(上司部下の関係を無視した)詭弁と、「男であれば女にモテたことは武勇伝だ」との詭弁が語られます(女だって自慢にはなるだろうに)。
 もう、語るに落ちるという他ありません。
 師匠が男性というものをの徹底的に軽視、侮蔑、憎悪していることが、よくおわかりになるかと思います。
 女性は地位が低い→だから性被害にあいやすいとのわけのわからん短絡もなされていますが、これもまた、フェミニズムの特徴です。それがもし本当ならば、貧者さえ救済すれば、性犯罪も激減するはずですが。
「女性だから性犯罪にあいやすい」も「地位が低い者だから性犯罪にあいやすい」も真理ではありましょうが、両者はイコールではない。そこを雑にいっしょくたにしているのが、フェミニズムです。
 男女のジェンダーの非対称性(女性は性的な働きかけをされる性であり、それ故性犯罪の被害者になりやすい)を、ある時は無視し、ある時は過剰なまでに押し出すダブルスタンダードによって、彼女らは利を得ようとしているのです。「女/男はいかなる場合にも被害者/加害者」と言っているだけなのです。
 ちなみに本書、「キモくてカネのないオッサン」問題の提唱者が絶賛してます
 バブルの頃からずっとフェミニズム批判を続けている小浜逸郎氏は、『男はどこにいるのか』において、ポルノを男性支配社会のイデオロギーの産物であるとするフェミニストの主張を

 男と女の性的な磁場の本質からその否定的な現れのみを抽象して、そこに政治的意図を新たに塗り込めたところになりたっている。
(草思社版47p)


 と批判しました。女性ジェンダーのネガティブな面ばかりを恣意的に抜き出して、本質をずらした文句のつけ方ばかりをしている、ということです。これ以上に優れた、ラディカルなフェミニズム批判を、ぼくは寡聞にして知りません。
 そして、テラケイ師匠、青識師匠たちはこの醜悪奇怪な書を盲讃しました。
 それは彼らと彼女らが、仲よしのお友だちだからです。
 その辺についてはまた、おいおいと語っていくことに(というか、以前からずっと言っているのですが)しましょう。

秋だ! 一番ネオリブ祭り

2018-09-28 07:38:41 | フェミニズム


 しゅっちょうスカスカ なくてガラガラ
 そっれがどおし~た ぼくネオリブ♪
 未来の世界の~フェミ型ロボット~♪
 どんなもんだいぼく ネオリブ♪

 キミョウキテレツ マカフシギ
 キソウテンガイ ジカドウチャク
 ケイリョセンボウ サンビャクダイゲン♪


 ……というわけで今年もやって参りました、「ドラえもん祭り」に代わってすっかりお馴染みとなりました、「ネオリブ祭り」!
 ご無沙汰しております、みな様。
 何だか最近、ちょっと忙しいです。
 本を読むヒマも、なかなか取れません。
 が、まあ、何とか月に一度は更新しておきたいので、こういう企画をでっち上げました。
 今までもネオリブに対してはいろいろ言ってきてはいるのですが、ちょっと気になるトピックスがいくつかあったので、まとめておこうという気になったわけです。
 ということでよろしく。

 先日、「表現の自由クラスタ」で「ネオリブ支持者」の御仁が以下のようなことを述べていて、仰天してしまいました。

俺にとって「フェミニスト」は「殺人テロを実行したカルト教団」とほぼ同義なので、「殺人に加担してないフェミニストもいますよ」とか言われても、カルト教団の信者だってほとんどは善良な人々ではあるんですよとしか言いようがないというか……。


 この人はつい最近まで「ネットのフェミは偽物だ、真のフェミは他にいるのだ、いるのだ」と病人のうわ言のように繰り返していた人です。それがこんな「不敬罪」になりかねないような発言をしたことに、ぼくは驚きを禁じ得ませんでした。
 さて、しかし、そうは言っても、上にあるように、彼が「ネオリブ支持者」である以上、この発言は予測できたことかもしれません。
「表現の自由クラスタ」がこうまで平然とフェミニストを罵るようになったきっかけは、「ネオリブ」が「フェミニズム」を名乗るのを止めた(と自称し出した)ことでしょう。
「ネオリブ」とは多摩湖師匠を提唱者とする、フェミニズムの新たな潮流――あ、いや、当初はそう(いう設定)だったのでしょうが、本人たちが「フェミニズムを名乗ることを止める」と言い出したので、今となってはフェミニズムとは呼べない、えぇと、何と言いますか、フェミニズムを超克した新たな女たちのための思想――あ、いや、多摩湖師匠が(ネオリブを名乗りだして随分経ってから)「理念はこれから作る」と言っていたので理念はまだないのでしょう、えぇと、ツイッターで「立ち上がる」とか何とかふわっとしたことを勇ましくつぶやくことを主なる業務とする、女性たちの一団を指す言葉のようです。
 さすが多摩湖♡ナルコレプシーこと多摩湖師匠、そしてピルとのつきあい方(公式)ことピル神がこのネオリブの二大巨頭ということになるのでしょう。これ以降、「表現の自由クラスタ」というか、「オタク左派」とでもいうか、そうした人たちの「フェミ批判」が根源的絶対的なもの(「フェミの中にも悪しき者がいる」ではなく「フェミは全て悪」という論調)になっていったように思われます。以前も書いたように、市井のツイッタラーと言うよりはもっと上の立場にいる、まあぼくが「オタク界のトップ」と呼ぶような人たちまでが「フェミニスト」を主語にして全否定するような発言を繰り返すようになったのには、さすがに驚きました。
 少し前までは「ラディカル/リベラルフェミニスト」という言葉を故意にねじ曲げ、或いは「ツイッターフェミニスト」「ツイッターレディース」「まなざし村」などというありもしない概念を次から次へと捏造してまで「ツイッター上のフェミニストは偽物だ、アカデミズムにいるフェミニストこそが真のフェミニストであり、彼女らはオタクの味方、正義の味方なのだ」と泣き叫び続けていた彼らが、まあ、随分な変わりようです*1
 これは「ネオリブ」と直接の関係はないのですが、以前から表現の自由クラスタは上野千鶴子師匠のことをオタクの味方だ、オタクの味方だと強弁していました。ぼくが上野師匠がポルノを全否定しているという客観的事実の指摘をすると、狂ったように罵詈雑言の限りを尽くしてきました。これは表現の自由クラスタの団体が師匠に近づき、師匠に「オタクの味方」発言、「表現の自由を重視する」発言を取りつけたという経緯が関係しているように思われます(上野師匠が表現の自由を守ると称する記事と、ポルノ全否定の記事とをチャンポンにして単行本を出していることについては、*1の「まなざし村」関連の記事を参照してください)。
 しかししかる後に上野師匠のダメさがネット上で話題になると、彼らはあっと言う間に手のひらを返してしまいました。
 一体全体、何が彼らのスイッチになっているのやら、さっぱり理解ができません。
「過ちを改むるにはばかることなかれ」といったことわざを持ち出せば、無理矢理に誉め上げることもできるかもしれませんが、それにしても彼らの変わり身の速さには呆れます。さらに言えば、彼らの中にはフェミニストを支持したこと(や、乗っかって反対者を貶め続けたこと)に対する反省など、微塵もないことでしょう。目下の彼らの中にあるのは専ら、「こんなにも信じていたのに裏切られた」との被害者意識だけなのではないでしょうか。
 彼らの言う「フェミニスト」という言葉には「ボクのことを全て受け容れて肯定してくれる、ボクのママ」以上の意味があった試しがただの一度もありません。彼らは「ママに自分のエゴを全て叶えてほしい欲」と「ママに全ての判断を委ねたい欲」の間で揺れている……いや、そのいいとこ取りをして当然と信じきって疑ってもいないのです。それは丁度、フェミニストの男性に対しての要求がそうであることと、全く同じように
 彼らはフェミニストを「お気持ち」だの「家父長制」だのといった攻撃呪文で罵ることが大好きですが、言うまでもなくもちろん、彼らもまた「お気持ち」や「家父長制」が大好きなんだから、本当にお似合いのカップルという他はないでしょう。

*1 彼らが流し続けて来た「ラディカル/リベラルフェミニスト」についてのデマについては「重ねて、ラディカル/リベラルフェミニスト問題について」を、「まなざし村」については「京都地下鉄の萌えキャラにクレームをつけたのはフェミ…じゃなくて“まなざし村”!?」を参照。


 ――いや、お前こそ何故アンチフェミの批判をするのだ、アンチフェミである以上、お前は彼らと共闘すべきだ。

 そんな声が聞こえてきそうです。
 いや、聞こえてきそうな声なのですが、意外に聞こえてきたことがありません
 それは恐らくですが、みなさんおわかりだからではないでしょうか。
 即ち、彼らは実のところ「アンチフェミ」でも何でもないということを、です。
 彼らはものすごく単純に「エロの自由を認めてくれるフェミ」だから、「ネオリブ」を支持しているというだけであるということを、です。
 彼らがいかにフェミニズムの悪口を言おうと、それは「エロを認めない」点だけに文句をつけているに過ぎないのが、どんな馬鹿の目にも自明だということを、です。
 多摩湖師匠が自ら誇らかに宣言したように、「ネオリブ」には何ら理念がありません。最低限、「エロを認める」ことだけがネオリブ、ネオリブ支持者の理念であると言えそうです(ただしそれはあくまで「理念」です。彼ら彼女らの「実体」がそうでは全くないことは、後にお話しします)。
 しかし、これは非常に奇異なことと言わざるを得ません。
 いつもいつも言うことですが、ぼくは彼ら彼女らが、例えば「ジェンダーフリー」などといった「ラディカルフェミニズム」の理念について否定的なことを言っているのを、聞いたことがない。しかしこれは非常に奇妙なことなのです。
 例えば彼ら「表現の自由クラスタ」が大・大・大・大・大・大・大・大・大好きなろくでなし子師匠。彼女は「フェミニズムアート」と称して自らの女性器をかたどった商品を切り売りしています。彼女が正当逮捕(何か裁判でひっくり返ったみたいですが、ぼくは逮捕されて当たり前だと思うので、このように表現します)された時はオタク界のトップが大慌てで彼女の味方をし、積極的にバックアップしました。ろくでなし師匠、オタクを見下し切った人物なんですけど*2、何でそんなのの味方をするんでしょうね。
 しかし師匠の自己申告によれば、品性下劣極まりないフェミアート(笑)とやらを製作する理由は「女性器の意味づけを手足と同じようなものにするため」。これは一種のジェンダーフリー、否、人間のセクシュアリティーの在り方を根源からリセットする、差し詰め「セクシュアリティーフリー」とでも呼ぶべき思想です(ちなみに、上野千鶴子師匠も丸っきり同じ主張をしています*3)。
 どんな馬鹿でも理解できることですが、しかしそうなった暁には(いや、いかに師匠らが醜いフェミアートで女性器の地位を貶め抜こうと、そうはなり得ないのですが)ぼくたちは女性器に性的欲望を抱くことがなくなっている。無修正ポルノが手足の写真と全く同じになってしまっている。
 そんな(到来し得ない)社会は想像することも困難なのですが、しかしそうなればエロも萌えもこの世から消え果ていると考える他はない。
 つまり、もしネオリブや表現の自由クラスタが本当にエロの自由を守る気があるのであれば、ジェンダーフリーなど真っ先に否定しなければならない。しかしそんな主張を彼ら彼女らがしているのを、ぼくは見たことがない。
 何故なのか。
 答えは一つしかありません。「表現の自由クラスタ」の目的はエロも萌えも完全に絶滅させるという、そのただ一点のみである、ということです。

*2 ろくでなし師匠のオタクへの見下しっぷりは「デコまん」参照。
 また師匠は

(´-`).。oO(性器のアートはじぶんの身体性をとりもどしたくてやっている。とことんじぶんのため。欲望の対象として性を表現してる人に「僕も女性器をモチーフにしてるので仲間」と言われても、全く話がちがうんだよなぁ
https://twitter.com/6d745/status/483375281122455552

 とも言っており、一般のエロも否定しているのですね。その彼女の靴を舐めながら「サポートさせてください!」と哀願する人たちの気持ちが、ぼくには理解できません。
*3「上野千鶴子師匠が山梨市での講演会を中止にされそうになった件


 これはまた、最近、表現の自由クラスタの覚えもめでたい、柴田英里師匠についても同じことが言えます。ネオリブと自称してはいなかったと思いますが、まあ、近い位置にいる人物であることには間違いがないでしょう。
 この人、正直どんなことを言っているのかよく知らんのですが(随分前に言い争ったような記憶があるのですが、具体的に何を話したかは忘れちゃいました)、先日、以下のようなことをおっしゃっておいででした。

攻撃的で異性愛再生産に向かっていたインセルと、自らの快適な消滅を求めるMGTOWや、リベラルの欺瞞を批判するwalkawayは明確に違いますからね。後者二つは、生活保守化するフェミニズムやリベラルへの痛烈な批判があります。https://twitter.com/erishibata/status/1040053237645279232


 い……インセルが「異性愛再生産」を肯定しているのであれば、それはフェミニズムへの批判以外の何物でもないはずなのに、そっちはダメなんだ……。
 以前ご紹介した八田師匠のような*4、インセルに対しての憎悪を剥き出しにするような物言いとは違いますが、(また一方、ミグタウに対して妙な「評価」を与えている辺りも一歩進んだ視点を持ってはいましょうが)それにしても、という感じです。

男性の非婚指向の台頭は、一部のネットフェミニストのようなヒステリックな女性の可視化の影響もあると思うし、彼らは一部の傲慢なファミニズム的なもののカウンターだと思っているし、そこから異性愛の結婚幻想が壊れるのは、フェミニストとして喜ばしいことだと思っている。

自称フェミニストの実質的な生活保守化や、家父長制を批判しつつ女性に都合の良い家父長制を求める論理破綻が暴かれることは、本来であればフェミニスト的にも歓迎すべきこと。

矛盾や論理破綻の露呈よりも、それの隠蔽を求めることは、フェミニズムをバカにしている。矛盾や論理破綻を隠蔽し、とにかくお気持ちのエモさだけでどうにかしようとすることは、フェミニズムを都合の良く空虚な商業利用することに他ならない。

https://twitter.com/erishibata/status/1037324907984510976


 ね……「ネットフェミニスト」とやらが可視化されたのなんてこの十年だと思うんですが、それ以前から暴虐の限りを尽くしていた「アカデミズムフェミニスト」のせいではなく、あくまで彼女らが非婚化の原因なんだ……。
 いえ、それよりも重要なのは、彼女がここでも非婚化を喜ばしいと言い放っていることです。
 もう、語るに落ちるという他はありませんね。
 そしてこれが、上野師匠が「オタクはマスターベーションをしながら死んでいけばいい」と放言していたこと*5と「完全に一致」するということは、誰の目にも明らかでしょう。
 そう、柴田師匠もまた、ごく一般的なフェミニズムを唱えている、ごく一般的なフェミニストでありました。
 確かirrさんがフェミニズムを「死の思想」と評していたことがあったかと思いますが、これ以上に当を得た形容もなかなかないことでしょう。それを、一体全体どういうわけか、表現の自由クラスタたちは「フェミニズム(ネオリブ)は全ての人に優しい世界を作る運動」だと信じて、今も疑っていないようではありますが。

*4「八田真行「凶悪犯罪続発!アメリカを蝕む「非モテの過激化」という大問題」を読む
八田真行「女性を避け、社会とも断絶、米国の非モテが起こす「サイレントテロ」」を読む
*5『バックラッシュ! なぜジェンダーフリーは叩かれたのか?』双風舎、2006年。


 さて、話がネオリブからそれすぎました。
 まあ、彼女らが大したことを言っていないので、周辺を洗っていかなくては真意に辿り着けない、といった事情もあり、こうした紆余曲折を経ましたが、それでも見ていけば彼女ら自身も、迂闊な発言を続けていることがわかります。
 一つは幾度も繰り返している、ピル神によるおっぱい募金の否定です*6
 もう、ちょっと時間もないので簡単にまとめますが、要はAV女優がボランティアでそうした企画を行ったことを、彼女は「ダメなモノはダメ」と全否定したわけですね。それで、一体全体どういう理由で、表現の自由クラスタが彼女に失望しないのかさっぱりわかりませんが、彼らは上野師匠がポルノを全否定しても師匠の傀儡を続けていた人たちなので、まあ、そういうことなのでしょう。
 ピル神は「ひょっとしたらAV女優は自由意志でやっていないのかも知れない」との理由で「ダメなものはダメ」と全否定なさっておりましたが、彼女がそう考える理由は不明です。言うまでもなく、これだとあらゆる性行為を全否定することが可能ですね。
 ピル神は驚くべきことに、以下のようなことまでもおっしゃっておいででした。


社会的合意(道徳)だという強制に人間は弱いのよ。私たちは多かれ少なかれ、この目に見えない強制に屈しているのよ。しかし、そのことをどうこう言うつもりはない。見えない強制をどう感じるかは、個人の自由だ。
https://twitter.com/ruriko_pillton/status/674206806986506240

おっぱい募金の女優さんは自由な意志だったかもしれないし、何らかの強制が作用したかもしれない。それを詮索しても他者にはわからないし、しばしば本人にもわからない。自由な意志とはそんな微妙な物なのよ。
https://twitter.com/ruriko_pillton/status/674206373953998848


 要するに「我々が自由意志で行っていると信じている行為も、何らかの刷り込みによる外からの影響があるやも」というロジックですね。
 しかし言うまでもなく、これまたあらゆる私的な性関係を全否定してしまえます。そしてこれがジェンダーフリーの理念と全く同じであることも、ここまでくればみなさん、おわかりのことでしょう。
 もう一つ、挙げてみましょう。

女性の身体について男性は、美しいとエロいを区別できない生物。太古から、現在まで、そして未来永劫に。女性は男性のこの感覚を受け容れてきた。それを脱し、女たちがやっと【女の(私の)身体は美しい】と主張し始めているのが現代。ろくでなし子さんや太もも展の女たちは歴史と闘っているのだと思う。
https://twitter.com/ruriko_pillton/status/971558543810732032


 これは女性の太ももの写真の展示会が猥褻であるとして中止されたことに対してのものでした。確かカメラマンが女性で、だからエラい、との主張ではなかったでしょうか。そう、『セーラームーン』とか峰不二子を称揚する時の、フェミニストのテンプレですね。
 しかしここでピル神がろくでなし師匠を持ち上げているように、その主張は古拙なフェミニズムと変わるところが、全くありません。
 男性たちは女性たちを性的な目で見てきた、けしからぬ。その意味づけを変えねばならない。
 それが、ラディカルフェミニストたちと全く変わることのない、ピル神の揺らがぬ信念だったのです。
 そう、ピル神は、多摩湖師匠は、ろくでなし師匠は、柴田英里師匠は、全フェミニストは、「まなざし村」でした
 いつも言うことですが、吉本隆明は上野千鶴子師匠を「娼婦である」と喝破しました。
 そして、それは今風に表現するならば、「オタサーの姫」ということです。
 もう一つ、これもまたいつも挙げることですが、大塚英志は上野千鶴子師匠を「悪の『とらば~ゆ』である」と喝破しました。女性たちを無責任に社会進出させた、これも今風に表現するならば「キュウべえ」であったということです。
 そう、あらゆるフェミニズムは「オタサーの姫」となるため、下っ端たちに本を売りつける一種のネズミ講であり、「ネオリブ」は邪魔となった下っ端(つまり、社会的地位を得ることの適わなかったツイフェミ)の処刑役を表現の自由クラスタにやらせるという夢のシステムを構築した、「フェミニズム」の最終形態であったのです。

*6「おっぱい募金への反対論者との議論


2017年度女災流行語大賞

2017-12-29 22:41:27 | フェミニズム
 みなさん、遅ればせながら明けましておめでとうございます。
 ご挨拶が十一ヶ月ほど遅れてしまいましたが、いよいよ2017年の始まりです。
 これからの三日間をよい年にするよう、お互いに頑張っていきましょう。
 今回は新年を祝って、本年度の「女災流行語大賞」をお送りします!
 今までも「日本死ね」「女性が輝く社会」など流行語を捏造して参りました当大賞ですが、本年度は一体いかなる斬新な「流行語」が飛び出すことになるでしょうか。乞う、ご期待!!
 ちなみに挙げられた「流行語」はそれぞれ、それについて詳しく語った本年度記事、或いはソースそのものとリンクされていますので詳しくお知りになりたい方はそこで確認してください。中には言い回しを短くするなど多少、変えてあるのもありますので。

第10位 せんずり村
――北原みのり


 はい、栄えある第10位は北原師匠の名言からの受賞です!
 いえ、厳密には北原師匠発の言葉ではなく、いわゆる「ツイフェミ」とか「レディース」と称されるTomica師匠という方が言い出したことのようなのですが(ちなみにこの方はアカウントを凍結されているようです)、北原師匠は本年出版されました名著『フェミニストとオタクはなぜ相性が悪いのか』の中で以下のようにおおせです。

今、ネットで怒る女性たちの勢いが希望です。だって、やっぱりエロ漬けされてオナネタを必死で手放さないとする男たちを「せんずり村の住人」と名付けたりとか、楽しい。


 そ……そんな……フェミニスト様は「ツイフェミ」「レディース」などといった存在とは全く違い、ボクたちオタクの味方だって、リベラル君もおっしゃっていたのに~!
 あ、いやいやいや!! 北原師匠、そして本書のもう一人の筆者、香山リカ師匠のことは海燕師匠も「ダメ左翼のダメフェミニストの代表格」と評しておいでです*1。この二人はフェミニストの中でも例外です。そうに決まっています
 何しろ同書では香山師匠もオタク文化をdisっているのですから!

*1「弱いなら弱いままで。「萌え文化は宮崎勤がつくった?」北原みのりと香山リカの対談集がすごい。

第9位 日本のアニメは幼女が活躍するものばかり
――香山リカ



 え~ん、せっかくリベラル君が、「アニメは女性が強いのでジェンダーフリーだ」とフェミ様に手もみしていたのに~!
 え? 日本のアニメが「幼女の活躍するモノばかり」というのはおかしい?
 そんなことは些末な問題です。
 師匠はこの言葉の前後で「たとえばアメコミではグラマラスな格好良い女が出てくる一方で」「欧米では年を取った女性もオシャレで派手な服も着るし、男性もパートナーとして女性を大事にしている。それに比べて日本は若い女ばかり追い求める」とおっしゃっており、日本人の性意識をこそ問題視しておいでなのです。師匠はこれ以降もコスプレする女性を批判し、女子大生がAKBを好むことを悲嘆しています。
 オタクはまさに「叩いてもいいから」矢面に立たされているスケープゴートにすぎず*2、彼女らの否定しているのは「ごく、一般的な人々のセクシュアリティそのもの」としか言いようがありません。その証拠に、彼女らは実のところ「一般的なセクシュアリティと乖離した、反社会的な性表現」であればいきなり支持し出します。香山師匠も本書の中で会田誠の少女を凄惨に虐待し、惨殺する表現は「体制への抵抗だから」という理由で肯定的に語っておいでです。
 これはぼくの発見したことなのですが、実は香山師匠や北原師匠はフェミニストの中でも、「ラディカルフェミニスト」という悪しき例外種であったのです*3
 な、なんだってーーーーー!!
 彼女らは一般的な人々のセクシュアリティ、ジェンダーを深く深く憎んでいます。「ジェンダーフリー」という名の「ジェンダー解体」を唱えているのも彼女らラディカルフェミニストです。「フリー」というと「自由」でいいことのような気がしてしまいますが、「カロリーフリー」が「ノンカロリー」の意であるのと同様、「ジェンダーフリー」はジェンダーそのものを否定する思想なのですから。
 彼女らにかかれば「萌え」に代表されるオタク文化も、それに留まらず一般的な文化も、否定されることは言うまでもありません。『サザエさん』がことある毎にフェミの攻撃対象に選ばれていることを、ぼくたちはここで思い出すべきでしょう。ラディカルフェミニズムとは「反社会性の発露であり、文化を破壊することそのもの」であることだけは、確かなようです。
 ともあれ、ヤツらはオタクの敵です! こうなったらリベフェミ様、否、ネオリブ様に帰依しましょう!!
 というわけで以下はネオリブ様の金言からの受賞です!

*2 この構造って、こっちからしたらAKBなんてオタクと何ら関係ないのに、世間一般からするとオタクの定義なんて、「AKBが好きな男」程度のモノであることと、「完全に一致」していますよね。
*3「リベラルフェミニズム」と「ラディカルフェミニズム」の本当のところについてはもう、口が酸っぱくなるほど繰り返しているのですが、詳しくは「重ねて、ラディカル/リベラルフェミニスト問題について」を参照してください。


第8位 日本のフェミニズムの夜明けを目指すべく立ち上がったネオ・リブの女たち
――さすが多摩湖♡ナルコレプシー


第7位 2017年にネオリブが生まれたことは歴史的必然、大きなうねりに成長していく
――ピルとのつきあい方(公式)



 何という頼もしい宣言でしょう!
「ネオリブ」の具体的な理念、方針は全然わかりませんが!!
 さてこの「ネオリブ」、ウィキにも掲載された、れっきとした……え~と、すみません、ウィキにはまだ載っていません。どうも、ウィキに載せようとしたモノの、断られた形跡が見て取れるような*4……何てケツの穴が小さいんだ、ウィキ! みんなで根拠のないデタラメを書き込むことで嘘を真実に変える、『ダンガンロンパV3』みたいなところがウィキの醍醐味だったのに!!
 しかし、それにしても、そのウィキにすら否定されるネオリブは……あ、いやいやいやいやいや!!
 ともあれ、ウィキには適わなかったモノの、ピル神は「碧志摩メグを規制したのは武田邦彦氏の発言がきっかけ」といったデマを流して信者(原田実師匠)に信じさせたり、或いはおっぱい募金を全否定しながら、その事実を信者から批判されなかったり*5といった数々の「超力」を発揮していらっしゃいます。彼女らに帰依することでぼくたちもまた、「超力」を得ることができるのです!
 もう一つ、彼女らの優れた政治性について指摘しておかねばなりません。彼女らは従来のフェミニズムの批判者、というスタンスを気取っていますが、専ら「まなざし村」とやら言われる「野良フェミ」について述べるだけで上野千鶴子師匠とかについては何も言わないのですな。いえ、彼女らも北原師匠や確か、千田有紀師匠も批判していたはずで、その意味ではまんざら「野良フェミ」にだけケンカを売っているわけではない。しかしこれは、むしろ彼女らの「後退」を示しています。
 少し前まで「ツイフェミ」は悪者、アカデミズムには真のフェミがいる、というのがリベラル君の口癖だったのが、だんだんと名のあるフェミも擁護しきれなくなり、今年はとうとう牟田和恵師匠をも批判せざるを得なくなりました。牟田師匠もアカデミズムの世界にいる、上野師匠に近いフェミであり、この人までダメならもう、フェミニズムそのものがダメであるとしか言いようがないと思うのですが、彼ら彼女らはそれだけは決して認めようとはしません。ピル神など、ぶっちゃけ非常に古い人で(その意味でリベフェミという自己申告は半分くらい当たっているのかも知れません)、リベラル君が彼女を担ぎ出している現状は、にっちもさっちもいかなくなり、お古を整理ダンスから引っ張り出してきたようなもの、というのが本当のところです。
 ピル神や多摩湖師匠の「ネオリブ」宣言は本当に捨て身のダイブだったのですが、しかしそれでは彼女らはフェミの根本理念、分けても彼女らが批判している(はずの)ラディカルフェミニストの「ジェンダーフリー」などに対し、どう思っているのかがさっぱりわからない。「ネオリブ」はリベラル君たちの大好きな「女性差別が許されぬのであれば男性差別も許されない」といったふわっとした観念論は大いに唱えますが、それならばそもそもフェミニズム(この社会にはまず、絶対的な男女格差がある、という世界観)自体に意味がなくなることについては、徹底的に無関心なのです。
 い……いや、そんなことはありません!
 何しろ一流文化人であらせられる宮台真司師匠、そして山本師匠も彼女らの重篤な信者なのですから!

*4「ノート:ネオ・リブ
削除依頼/ネオ・リブ
*5「おっぱい募金への反対論者との議論


第6位 フェミニズムはこの世界が全ての人にとって優しい世界になることを目指す運動
――山本弘



 いや、本当はこれを1位にしたいくらいに強烈な名言なのですが、師匠がおっしゃる以上、間違いはありません。「フェミニズム」は疑いを差し挟むこともまかりならぬ絶対正義なのです! オタク第一世代辺りの感覚では、これは突出した奇抜な意見でも何でもなく、「まるで空気のような常識」であることでしょう。
 何しろ師匠はこれの前に牟田師匠に対して、

すごいなあ。「ジェンダー研究者」を名乗る人が、ツイッターでだいぶ前から話題になってる「まなざし村」界隈のことを何も知らないらしいよ。


 などとイキっておいででした。アカデミズムの世界にいらっしゃる正真正銘のフェミニストにすらこんな口の利けるほどに博識でおいでの山本師匠の主張が、間違っているはずもありません*6
 そう、海燕師匠がおっしゃるように、山本師匠がおっしゃるように、フェミニストたちはオタクの味方であり「相性が悪い」などという香山師匠、北原師匠こそが間違っているのです。
 本年度の当ブログでは、フェミニズムを正しく理解するオタク界の賢人たちの良書をいくつもご紹介してきました。5位と4位はそうした人々の声に耳を傾けることにしましょう。

*6『愛のトンデモ本(上)』で山本師匠は

TSFはゲイや女装趣味とはまた違う。ゲイというのは肉体が男性なのに精神が女性であるため、その矛盾を解消するために女装や性転換を望む人たちだ。
(254p)



などと書いています。いくら何でもメチャクチャというか、知らないなら書かなきゃいいのに……と思わずにおれない記述です。
 ちなみにTSFは「トランスセクシャルフィクション」の略で、超自然的な理由で性転換を起こしてしまう作品を指す言葉だそうです。師匠はこれを「心は男のまま女の肉体に変身する」と定義づけていますが(そして厳密な定義は別にないことでしょうが)これもちょっとなあという感じです。男の娘が必ず男性ジェンダーを持っているかとなると、それは微妙でしょう。

第5位 腐女子は洗練された形で男性中心主義的な世界観に異議を申し立てている
――北田暁大



 なるほど!!
 北田師匠の名著『社会にとって趣味とは何か』からの引用です。
 そう、師匠の言うとおり、BLとは従来の性規範にノーを突きつけた表現です。
「受け/責め」の関係性がそのまま「女性/男性」であるのは何故かとか、イマドキの腐女子たちが『801ちゃん』に喜々としている――それはつまり、自分が「女子」としてスポットを浴びて喜んでいる――のは何故かとか、美人と自称したがるのは何故かとか、『おそ松さん』を見ているとトト子ちゃんが六つ子たちに恋い焦がれられており、また彼女はアイドルでもあるのですが、それに快哉を叫んでいるのは何故かとか、そんなことを指摘した者は表現の自由クラスタから訴えられますので、疑問に思うことは厳に慎まねばなりません。
 フェミがオタクの味方である以上、腐女子がフェミであるのは自明ですよね。
 オタク男子は旧態依然とした男性ジェンダーに囚われているゴミクズですが、オタク女子は先進的なフェミニズムの闘士なのです。
 絶対に、疑っては、なりません

第4位 のび太は非モテのくせに、童貞ネット民並みに上から目線で女子を品定めする
――稲田豊史


 そう!
 オタク男子のクズさは、こんなところからも実証が可能です。
 上は稲田師匠の名著『ドラがたり』からの引用。
『ドラえもん』とは、ゴミクズにも劣るネトウヨ中年童貞ネット民どもを肯定するためにこそ生まれた、唾棄すべきコンテンツでした!
 そもそも藤子Fの生前にネトウヨとかいう概念はないだろ……などと考えることはまかりなりません。Fはデジタルサイネージの出現をも予知していた偉大な予言者なのですから!
『ドラえもん』なんて女性ファンが多そうだけど、その理屈から言うと「男の身勝手な欲望を肯定するために作られた作品」を好んでいる女の方こそバカなのではないか……などともゆめゆめ考えてはなりません。
 師匠は女子たちの『ドラえもん』の読みは浅い、とおっしゃっておいでですが、同時にサブカル女子はジャイ子にシンパサイズする高尚な存在なのですから! 意味がおわかりにならないと思いますが、師匠がおっしゃっていることが理解できないとしたら、それは理解できない人がバカなのです!
 ぼくたちは今こそ稲田師匠に続き、「ママ、ごめんなさい、もう見ません!!」と泣きじゃくりながら『ドラえもん』に墨を入れていかなければならないのです!!

第3位 サブカルはホモソーシャルでミソジナスだが、オタクよりはマシ
――ロマン優光



 また名言が飛び出しました!
『間違ったサブカルで「マウンティング」してくるすべてのクズどもに』における言葉です。全てが著者の身辺の二、三の見聞を元にした思い込みだけで語られるこの名著によると、オタクはホモソーシャルでミソジナスだそうです。しかしそれは奇しくも北田師匠の指摘と一致しました。稲田師匠もホモソーシャル、ミソジニーを理由にのび太系男子を糾弾なさっておいででしたが、この「のび太系男子」も「オタク男子」と限りなく「=」に近い「≒」で結んでいいでしょう。
 そして「サブカル男子」はそんな「オタク男子」に比べ、自分たちのホモソーシャリティやミソジニーを内省するだけの知性と誠意を持った、「真の草食系男子」でした。ぼくたちダメなオタク男子の憧れのアニキです。早くアニキたちにアナル処女を捧げたいですね
 というわけで、「オタク男子」が「絶対悪」であることは「確定」しました。

 ――だがちょっと待ってほしい。その根拠となっているのは「ホモソーシャル」、「ミソジニー」といった男性の内面をこそ批判した概念であり、それらを正さねばならないという考えは、「オタクどころか男の敵」であることはもちろん、「ジェンダーフリー」とも同様な、ラディカルフェミニズムの考えそのものではないか?

 え? ううううううううううううううううううううううううううううううううるさい!
 こまけーことはいいんだよ!!
 宮台師匠が「上野千鶴子師匠はラディカルフェミニスト」だと明言しており*7、上野師匠がオタクの味方なんだから、実はラディフェミも味方だったんだよ!! お前ら萌えブタどもは俺たちの政治運動の下準備のために社会的地位のないツイッターフェミ相手に消耗してりゃいいんだよ!!
 と……とにかく、今まで挙げた名言から、一つの真理が浮かび上がってきます。
 それは「フェミニスト」様は悪の権化であるぼくたちオタクを啓蒙し、善導してくださる「正義の味方」であるということです。フェミニスト様たちの「性と文化の革命」が成就した暁には、ぼくたちはオタク文化も萌え文化も捨て、正しいサブカルになることができるはずです。フェミニストはオタクの味方であるというリベラル様のお言葉は、正しかったのです。
 それは第2位の名言を見れば、更に確信できるはず。

*7「宮台真司が妄想とデマの糞フェミ擁護!'2017 みんなー!宮台師匠の布教が始まるよー!


第2位 児童ポルノを所持してるだけなら誰の権利も侵害しない
――鈴折@sin_Lv98



 素晴らしい!
 いえ、基本、当大賞は知名度、影響力のある人物のモノからセレクトしていきたいと思っているのですが、こればっかりは有名人が口にしにくい種類の主張でしょうから、仕方がありません。
 上のものは鈴折師匠というツイッタラーの主張です。が、彼もツイッター界隈ではそれなりによく見る方ですし、近しい主張は多々見られましたし(上のリンク先を見てください)、この名言は「表現の自由クラスタ」の一定層のホンネをすくい上げている、と言っていいのではないでしょうか。
 いえ、もちろんですが「オタク界のトップ」と呼ぶような人々がみな、ホンネでは上のような考え方を抱いているのかとなると、それはわかりません(山本師匠は抱いてそーだな)。ただ、オタクも世代を上に遡るほどリアルなペドファイルとの接点が多くなっていることもまた、事実なのです。
 しかし香山師匠の言葉を思い出してください。萌えアニメは絶対に許せないのに、美少女を惨殺する表現は「反社会的なので正義」である。フェミニストの中でもラディカルフェミニストこそが反社会的性表現と親和性が高い。それと同様、先に述べたようにオタクもリベラルな考えを持つ傾向にある上の世代こそペドファイルと親和性が高い。
 そう、「反社会的であればあるほど正義」というのがリベラルの価値観であり、それを前提するならば、彼ら彼女らこそが「真の正義」であったのです!
 何しろ体制は表現の自由の圧殺のためには何でもするのであり、体制に逆らう反社会的な振る舞いは、その全てが表現の自由のために正当化されます。ぼくたちはペドファイルと、ラディカルフェミニストとがっちり手を結び、ぼくたちに逆らう言説を、表現の自由のために圧殺せねばならないのです!!

第1位 自分をオタクだと思い込んでいる一般リベ
――兵頭新児



 はい、今年の栄えある流行語第1位はこれに決まりました!!
 みなさん、よくお聞きになりましたよね!?
 一般人は聞いたこともないかも知れないが、特定ブログの読者にしてみれば五秒に一回は耳にしていた流行語であること、「日本死ね」の如しです!!
 え~と、移り変わりの早い世の中ですからちょっと(こういうの、野暮だとは思うんですが……)ご説明しておきます。本年、『クレヨンしんちゃん』のお父さん、ひろしを主役に据えた漫画、『野原ひろし昼メシの流儀』が話題になりました。この種のスピンオフ流行りの昨今とは言え、いくら何でも無理やりだろうと。で、この漫画の主人公は野原ひろしではなく、「自分をひろしだと思い込んでいる一般人」なのではといったジョークがネット上で流行ったのです。いや、そもそも野原ひろし自身がどうということのない一般人だと思うのですが。
 つまり件の「流行語」はそれをもじったもののわけです。今まで乱用していた「オタク界のトップ」「表現の自由クラスタ」と、実のところほとんど同じような意味あいの言葉ではあるのですが、「サブカル君」同様、「ぼくたちとは実際には違う価値観の下に行動している連中だろ」といった揶揄が含まれています。
 いえ、実際には彼らの多くはぼくなんかの十倍くらいは今のアニメを観ている、「真のオタク」なのかも知れません。しかし彼らの価値観は(まさに、稲田師匠が証明したように)オタク文化を否定するものそのものであるとしか言いようがない。ならばそれは「自分をオタクと思い込んでいるだけの、単なる頑迷なリベラル」ではないのか……?

 ――さて、本稿のみならず、当ブログでは今年の一年を通して「フェミニストとオタクはなぜ相性が悪いのか」という問いについて考え続けてきた、といっても過言ではありません。
 しかしその答えは、実のところ大変に簡単なものであって、それは「両者とも、近代的個人主義社会においてこそ誕生し得た双子であるから」ということにでもなりそうです。
 だから当然、その要求はバッティングして当たり前である、ということは何度も指摘してきました。しかし、オタク第一世代までは“他者に帰依するのが男”という性役割意識が生きていた。そのため、その世代のオタク男子たちはフェミニズムに帰依することで自分を殺しました。
 これは、「仕事」を「食うために、家族を養うために、やむなくなさねばならない苦役」としてこなしていた男性と、それを「自己実現の手段」と解釈し、男性たちが作り上げた道を通り始めた女性という「ジェンダー格差」と実のところ「完全に一致」している。
 また、そうした上の世代の多くはオタク界でそれなりに力を持っていたがため、ある種「女を甘えさせる甲斐性があった」、まさしく「オタク界のトップ」であった、ということもその理由として大きそうです。それはつまり、「オタク文化」は草食的なモノだが、第一世代にはまだ肉食的、「サブカル」的価値観を内面化していた、タイムラグがあったのではないか、ということですね。
 しかし、そのボロがさすがに出始めたのです。
「オタク文化」が史上初めて、その辺のどうでもいい男の子が自らの内面を紙にぶつけることで表現し、それが市場性を得たことそのものであること、それよりも世代を遡るサブカルが他者の価値観をありがたく受け入れる「他者指向」そのものであることも、今まで指摘してきました*8。それに加え経済的事情も絡み、オタクはこれ以上、他者のエゴを受け止めるだけの余力を、失ってしまったのです。結婚して女を養うよりは自分の趣味にカネを投じるというセレクトをする者が増えてきたのは、そういうわけです。
 自分自身のエゴには忠実でも、それに対しての内省を持ち得ないのがフェミニズムであるのに対し、自分のエゴ(を率直に紙にぶつけるがため、そのこと)に自覚的であったのがオタクであると言えます。その意味で、近年、「我こそはオタクという名の弱者なり!」とやたらと喧しく主張を始めた「彼ら」もまた、本当はオタクではなく、少し前までオタクをdisりながら近年、急にすり寄りだした「自分をオタクだと思い込んでいる一般リベ」がその正体なのでは……という気もしてしまうのです。
 リベラル君とフェミニストは単に同じ星からやってきた侵略宇宙人であり、横の連携が取れていないために、下っ端が現場でもめているだけの存在でした。
 リベラル君が「ネオリベ」といった非実在フェミを大慌てで振りかざしてみせたのは、何とかフェミニズムを延命させる必要があってのことでした。彼ら彼女らは現場での小競りあいはあっても、ボス同士はがっちり手を結んでいるのですから。オタク文化人たちが盛んに語る言説に「ミソジニー」だの「ホモソーシャル」だのといったラディカルフェミニズムの影響が濃厚なのは、その証拠です。
 そこで「自分をオタクだと思い込んでいる一般リベ」たちは「ツイフェミ」を、そして北原師匠たちを次々と仮想敵として設定し、手下の目をそこに引きつけておいて、自分たちは相も変わらずフェミニストたちとデートを続けているのです。今年ぼくが取り上げてきた諸作は、まさにそうした彼ら彼女らのデート現場の生中継であったのです。

*8「サブカルがまたオタクを攻撃してきた件  ――その2 オタク差別、男性差別許すまじ! でも…?

トンデモ女性学の後始末

2017-11-23 20:02:19 | フェミニズム


 ――さて、続きです。初めての方は前回記事からご覧頂くことを強く推奨します。
 前回記事で充分に明らかになったことと思いますが、「フェミニズム」とは地上最大の「妄想社会学」であり、基本的な部分で「疑似科学」と全く同じ性質を持っていると言えます。
 前回五つ目までご紹介した、「フェミニズムをめぐる10のファクト」の残りをご紹介することにしましょう。

ファクト6
知的な職業に就く人も多い


「フェミニスト」に「知的な職業に就く人も多い」のは、もう説明するまでもないでしょう。
 しかし、オウム真理教の幹部に高学歴な者が多かったことが象徴するように、トンデモさんについてもこれが当てはまるのです。例えば、前回(『トンデモ本の世界F』。以降、『F』と略記)
に採り挙げた紫藤甲子男氏は東海林さだお氏などと同期の大ベテランの作家、漫画家ですし、後述する谷口祐司氏も世界発明エキスポ銀賞、大阪府知事賞、厚生大臣賞などを受賞しています。他にもプロの科学者、弁護士、牧師など社会的に立派な人物がトンデモ本の作者である例は枚挙に暇がありません。
 何故か……となるとまあ、一口に説明することは難しいですが、一つに「それが流行りだった時期があったから」ということは言えようかと思います。例えば1950年代、UFOは今からは想像できないほどに人々にとっての大きな話題であり(この頃は「UFO」ではなく「空飛ぶ円盤」と呼ばれていましたが)、ホンキで信じていた人も大勢いました。それは一つには宇宙開発など科学力による人類の発展が強く信じられていたからであり、UFO研究団体「日本空飛ぶ円盤研究会」には、三島由紀夫、石原慎太郎、徳川夢声、星新一、黛敏郎、黒沼健とそうそうたるメンバーが集っていました。
 この頃、「空飛ぶ円盤」は何だか知的でナウい装いをまとっていたのです。
 そう、それは丁度、「ジェンダー」という言葉が知的でナウいモノとして登場してきた時の、かのイデオロギーと同様に。
 もちろん、今となっては「なんであんなものを信じていたんだ?」という感じのUFO(でありフェミニズム)ですが、年寄りにしてみれば捨てがたい。何のかんの言って上の世代には潜在的な信者が、何かきっかけがあれば反原発デモのように集まって騒ぎたい、と思っている人々が多い、ということなのでしょう。
 つまり、そこから必然的に――。

ファクト7
メジャーな勢力にも影響を与えている


 ――ということになるのです。
 原田実師匠が目の仇にしている「江戸しぐさ」、これは文科省の道徳教材にも採り挙げられましたし、『水からの伝言』もまた、小学校の道徳教材に使われたといいます。
 しかし更にコワい例としては、宇宙人や地底人とコンタクトしていると自称し、北朝鮮を全面肯定している中丸薫氏という人物に(拉致問題も、日本がごね続けているのが悪いのだと断言している!)、菅沼弘光氏という元公安調査庁調査第二部長である人物が心酔しており、対談本などを積極的に出しているという事実があります。
 大変にオソロしい話ですが、これらからぼくたちが得るべき教訓は何でしょうか?
 そう、それはフェミニズムが学問上の立場を確立しているからといって、信ずるに足るものであると考える理由にはならない、ということですね。
 仮に疑似科学本に対しては極めて論理的にツッコミを入れ、見事な批判をする人物でも、その人物のフェミ評が論理的かどうかは……。

ファクト8
愛を謳うが、実際には憎悪に満ちている


 これも前回(『F』)で述べました。もっとも、その時にご紹介したのはどちらかといえば社会に対する「憎悪に満ち」、それ故に終末を待望するネガティブなイメージの本でした。今回は補足の意味で、ポジティブに「愛を謳う」傾向が強いものをご紹介しましょう。
 先にちょっと述べた育児研究家の谷口祐司氏は、『トンデモ本の世界Q』及び『R』に続けて紹介されています。彼は妊婦に「胎教瞑想」というものを指導し、それによって胎児とテレパシーで会話できるようになると説いているのです。

 この本を手にされたお母さん達は、選ばれた地球改革の主人公を生み育てるマリア様なのです。(8ページ)


 というのが谷口氏の主張です(上はあくまで『Q』の83pからの、氏の著作の孫引きです)。
選ばれた地球改革の主人公を生み育てるマリア様」!
この世界がすべての人にとって優しい世界になることを目指すための運動」という言葉と、何と似通っていることでしょう(この話題については『F』参照)。いずれも、正常な人間が口にしたら、口が腐るであろう甘言です。
 同時に彼は二十一世紀には宇宙人との交流が深まり、受講者の妊婦さんの子供たちはその先人となる、十歳から十五歳くらいで宇宙学の先生になる、とも言います。ちなみにそう書かれた本は97年の出版。たった数年後にものすごい変化が起こるのだと説いていたわけですね。テレパシーといっても当然、第三者に確認できるものではなく、全ては「聞こえた」と称する人の主観に委ねられる性質のものなのですが。受講者は同様に、自分の幼い子供の「昨晩、UFOに乗った」といった、普通に考えれば夢を見たのだとしか思えない話を全部信じているといいます。
 以上について、山本弘師匠は極めて冷静に分析しています。

しかし、谷口氏のセミナーが人気を集める理由がわかる気もする。自分が「選ばれた地球改革の主人公を生み育てるマリア様」だとおだてられ、虚栄心をくすぐられるのだろう。
(87p)


 ここまでなら谷口氏の思想は「母親たちの甚だしく幼稚なナルシシズムの受け皿」で済ませられるのですが、当然更なる邪悪な側面を持っています。『R』で紹介された彼の教えによれば、2000年には天変地異が起こり、地球人の90%は死ぬといいます。しかし当然、心の清い人だけはUFOに救われる。そして心の清い人になるためにはもちろん、彼の教えを守ればいいわけですね(ちなみにその教えは心を軽くするため、「イェイェイェ!」とツイストを踊るというものだそうです……)。また、著作では「強姦されても子供は生まれない、妊娠した場合はその被害者女性がカルマを背負っているのだ」「子供のアトピーは母親の魂が汚れていることが原因だ」などといった非常識な主張がなされています。言わば彼のセミナーは、幸福なお母さんたちの母性エリーティズムの苗床となっているわけです。ちなみにこうした「トンデモ母性エリーティズム」というモノには一定の需要があるようで、『トンデモ本の逆襲』において七田眞氏の、上とかなり近しい内容の著作が紹介されてもいます。
 そして、フェミニズムはこれらと、どこまでもよく似ています。いずれも甚だしく勘違いした、幼稚なナルシシズムを根底に置いたエリーティズムなのですから。谷口氏の思想には極めて濃厚にニューエイジの影響が見て取れますが、フェミニズムそのもの、或いはフェミニズムに対するリベラル男性の妄信もまた、ニューエイジ的な女性性に対する信仰心に基づいているとしか思えない。80年代のSF、またそこに登場するヒロインにはニューエイジ的価値観が濃厚であることは『ズッコケ三人組』のレビュー*1をしていた時期、繰り返し述べましたが、山本師匠など一番この辺に影響されている世代でしょう。
 違うのは谷口氏の受講者が「幸福なお母さん」であるのに対し、フェミニズムが女性ジェンダーから逸脱した人たちによるものである点。その意味で谷口氏のセミナーとフェミニズムは完全に線対称な存在、と断じていいように思います。ただ、谷口氏は受講者に自宅出産を推奨し、死亡事故を何件か起こしているのみなのに対し、フェミニズムはそれを遙かに上回る災厄を世にもたらしている点は、大いに異なりますが……。
 山本師匠の「この世界がすべての人にとって優しい世界になることを目指すための運動」というフェミニズム定義には度肝を抜かれました。憎悪と怨念の権化としか表現のしようのない存在に対して、一体どれだけの勘違いを積み重ねたら、そのような評価ができるのか。しかしそれも、谷口氏のセミナーを見れば了解可能であるように思えます。師匠はフェミニストたちの口から語られるおぞましい選民思想を「マイノリティへの愛」と読み替え、今日も「魂を軽くしてイェイェイェ!」と踊り続けているのです。
 むろん、それは師匠に限ったことではありません。「フェミニズムは全てのマイノリティのための運動」的なお為ごかしは、みなさん大好きでいらっしゃいます。ろくでなし子師匠が同様のことを言い、しかし反論されるやバイセクシャルに対して「動物愛護団体に行け」と口汚く罵ったこと*2はみなさんご存じのことでしょう。そもそも彼女は著作でも(幼稚なナルシシズムは言うに及ばず)オタクを馬鹿にしきっているのですが*3、オタク界のトップって普段はオタク差別に反対しているフリをしているのに、どうしてあんなにろくでなし師匠が大好きなんでしょうね(いや、理由はわかりきっているんですが)。

*1 「ズッコケ三人組シリーズ補遺」の『ズッコケ時間漂流記』の項など。
*2(https://twitter.com/6d745/status/764471138181263360
*3(https://twitter.com/6d745?visibility_check=true

ファクト9
その憎悪には、根拠がない


 大変残念な話ですが、彼ら彼女らの「愛」には一切、根拠がありませんでした。
 しかし更に哀しいことに、彼ら彼女らの「憎悪」にもまた、一切の根拠はないのです。
 秋山眞人という「超能力者」がいます。近年、テレビ番組で超能力者を「いじる」ことが定番になりましたが、その種の番組に出てはやたらと怒ってばかりいるというキャラのついた人です。超能力を馬鹿にする否定派(この人たちにもぼくはあまり好感が持てないのですが)に対して、「我々エスパーはずっとそうした偏見に晒されてきたんですよ!」と憤り、退席してしまう姿が印象的です。
 彼のそんな時の情念が、ぼくには非常にリアルに迫ってくるのです。
 いえ……それでは表現が不正確かも知れません。「その情念は非常にリアルだが、その根拠は非常にアンリアルだ。が、だからこそ余計にその情念にリアリティを感じてしまう」とでも言うべきでしょうか。
 フェミニストにもオカルト関係者にも、その深層心理には現世への深いルサンチマンが隠れていることでしょう。
 しかしそのルサンチマンは、例えば「愚かな世間の連中は、俺の才能を認めようとはしない!!」と憤るが別に「才能」など持っていないといった感じの、凡人の根拠のないものであるように、ぼくには見えます。
 例えばですが、クラスの中で自分の居場所が見つけられない中学生が、超能力者を自称して、注目を浴びるようになった、といったエピソードはかなり普遍的なモノなのではないでしょうか。近いことは伊集院光のラジオ番組、『深夜の馬鹿力』などでも時々話題に出ますし、秋山氏自身がユリ・ゲラー来日の際にスプーン曲げの能力に「開眼」したことに出自を持っています。
 そう、そんな超能力少年も当初は「クラスのみんなが冷たい」といったささやかな、しかしリアルなルサンチマンを根拠に超能力を「開眼」させたのかも知れません。ですが「超能力者」キャラを作ってしまうと自我が際限なく肥大化し、「異端者であるが故に言われない偏見と差別と迫害を受けてきた無辜の被害者であるエスパー」といった物語を紡ぎ出すようになる。だんだんと、膨れ上がったナルシシズムと憎悪とがわけのわからない方向へと、根拠のない噴出を始めてしまう。
「憎悪に満ちている」ことそれ自体を取り出してみるならば、ぼくはあまり、彼ら彼女らを嫌う気にはなれません。しかしながら実際には彼ら彼女らは自らの抱えている憎悪について驚くほど無自覚であり、自ら(の教祖)を女神のごとく慈悲深い人物だと露ほども疑わず、「愛を謳」い続ける。ぼくにとってはそこが何よりも不快であり、また危険であると思われるのです。

ファクト10
彼ら彼女らの情緒的整合性には、極めて適った思想である


 いろいろと事例を挙げてきました。
 いずれも頭のクラクラするような「トンデモ」ぶりですが、それらは同時に哀しくもあります。ちょっと頭のいい人ならば彼ら彼女らの奇妙な主張の動機は、「ファクト9」で述べたようなものであると、窺い知れてしまうことでしょうから。
 彼ら彼女らは「ファクト1」で述べたように、論理と事実から完全に乖離している、いやむしろ乖離することそのものを目的として、「ファクト2」にあるような振る舞いに及んでいる。
「ファクト3」と「ファクト4」の相矛盾する特性も、「ファクト5」のような傾向も、彼らが論理や事実を否定し、自分がチートできる「異世界」に「転生」しているが故のことでした。
 3、4を見てわかるのは彼ら彼女らが「偉大なる者と、それに選ばれたワタシ」という物語を希求しているということです。ノストラダムスもフェミニストも「異世界」の中の偉大なる者であり、虚構の世界の住民票を手に入れるためには、そうした人たちの覚えをめでたくする必要があるわけですね。
 そして……それらの根底にあるのは「ファクト8」「ファクト9」で述べた心理状態です。
『トンデモ本の世界』で忘れられない図があります。広瀬謙次郎氏の『ヘンリー大王とヤマト救世主(メシヤ)』という本に出て来る、近未来の日本列島の地図。それは天変地異の挙げ句、伝説のムー大陸が浮かび上がり、日本とつながるとの予言に基づいたものでした。朝鮮、台湾、樺太、千島列島などもまた日本列島とつながり、みな日本の領土となる、という図です(樺太などは南北で両断され、癇性にも南だけが日本とつながります)。ちなみに欧米や中国大陸は海に沈むのだそうです(笑)。
 そして日本は宇宙人たちとの交流の中心地となり、「宇宙大陸ヤマト」と呼ばれるようになるのであった!!
 な、なんだってーーーーー!?
 レビュアーの藤倉珊氏が「著者がどういう願望を秘めているか、ひと目でわかる世界地図である。」と鋭く突っ込んでいたのが印象的です。
 そう、「トンデモ」は人間の心のうちに秘めた欲望の、忠実な反映でした。
 フェミニズムの主張もまた、ということは言うまでもないでしょう。彼ら彼女らの主張に事実や論理の反映があることは極めてまれですが、彼ら彼女らの「心的現実(要するに願望)」は常に非常に忠実に反映されている。多摩湖師匠の読んでいて赤面してしまうアジテーションはその好例であり、彼女らに対するリベラル君たちの、どう考えても正気を保っているとは思えない帰依もまた、そうです。
 多摩湖師匠は、「敢然とエスパー差別に立ち向かうエスパー」でした。もちろん、彼女の超能力が実在のものかについては、お察しなのですが。
 フェミニズムの描く、「男尊女卑社会」もまた、「エスパー差別が行われるディストピア」でした。言うまでもなく、エスパーが実在するかについては、お察しなのですが。
 彼ら彼女らの「心の目」には日本が先の地図のように朝鮮や台湾とつながって見えているのです。
 フェミニストたちは「ボクの望む未来」を予言してくれる女ノストラダムスであり、「愛を謳う」善なる宇宙人なのだ、といえます。
 一歩引いて見れば彼ら彼女らの描く未来図は現世を否定し、全てを破壊する種類のものなのですが、それに対する自覚は当然、ありません。
 彼ら彼女らはこれからも自らのエゴにも憎悪にも気づくことなく、自らこそがカタストロフを望み、引き起こそうとしている存在であることにも気づくことなく、自らをカタストロフ後の世界の救世主、「全ての人に優しい世界を作る運動」の主体であると信じ続けるのです。

トンデモフェミニズム本の世界

2017-11-18 02:13:59 | フェミニズム



フェミニズムをめぐる10のファクト


 さて、「トンデモフェミニズム」と書いたモノの、フェミニズム自体がトンデモなわけで、この言葉自体が「頭の頭痛が痛い」みたいなものなのですが、ここではトンデモ、つまり疑似科学などへの妄信と、フェミニズムへの盲信とを比較、それらの共通点を見ることで両者が同じ構造を持っていることを指摘していきたいと思います。本稿を読み終えた時、あなたはきっとフェミニズムがオカルトの一種であり、その中でも最も非論理的で非理性的で反社会的なモノであると理解していることでしょう。

ファクト1
都合の悪いファクトは目に入れない


 初っ端からナンですが、これは前回(『トンデモ本の世界F』、及び『トンデモ本の世界G』。以降、『F』、『G』と略記)に詳しく述べました。
 フェミニストは自らの過ちを絶対に認めないし、自分にとって都合の悪いファクトを絶対に認めません。そもそもフェミニズムそのものが最初から間違っており、しかしながらそれを認めることができないのですから、後はファクトを否定していくより仕方がないのです。
『トンデモ本の世界』では清家新一という人物について一項が割かれ、解説されています。UFOを製作しようとしているトンデモ科学者なのですが、京大の学園祭で講演をしたことがあります。「学園祭での講演で、京大が招いたわけではない」とあるので、恐らくサークルから面白半分に招かれたのでしょう。
 しかしそこで彼は、受講者に矛盾を突かれても、平然と講義を続けたと言います。

 すべてこの調子である。答えられない質問が来ると、急に黒板に公式を書き始め、まったく関係のないことを喋り始めるのだ。わざとごまかしている様子はなく、天然のパフォーマンスであるらしい。
(293p)


 これはまた、「終末予言」を唱える人たちにも同じことが言えましょう。『トンデモ本の世界』には「富士皇朝」についてもレポートがありました。オウム事件に掻き消された感もありますが、復古主義を唱え、ホンキで政府転覆を企んでいた危険な団体です。この会の構成員も「1994年6月24日、東京に大地震が起こる」との教祖の予言を信じ、それに乗じたクーデターを企んでいました。が、当然、地震などは起こらずとんだ肩すかし。しかし教祖の「自分は予言をカタカナによって発したのに、信者たちがそれをひらがなで発音し、伝えたがため、予言が成就しなかった」という声明に、信者たちは納得していたといいます(いや、読んでるあなたも意味がわからないでしょうが、ぼくだって書いていてわかりません。ただ、彼らはそれで納得したのです)。
『トンデモ大予言の後始末』は2000年に出されたノストラダムス騒動について書かれた本ですが、ここにも予言が外れた研究家が、何ら反省のなかった様子が繰り返し書かれています。
 フェミニストもこれと同様です。彼ら彼女らが数分前に言ったことを平然と翻し、ログが残っているのにそれを全く気にする様子もなく勝ち誇っている、自分の言ったことをその場で明確に否定する証拠を提出されても、過ちを認めることなく話題を変えるのみ……といった様を、ぼくたちは無限回数目にしてきました*1
 彼ら彼女らの脳には、同じメーカーで作られたファイアーウォールが入れられているとしか、考えようがありません。

*1 本当に枚挙に暇がないのですが、ここでは小山エミ師匠の「自分の言ったことを直後に翻し、しかし自覚が全くない」という驚くべき振る舞いを挙げておきましょう。
「オカマ」は女湯には入れるのか?
「オカマ」は女湯には入れるのか?Ⅱ


ファクト2
夥しい虚構の体系を築き上げている


 と学会の誇るデバンカー(オカルト解明家)、皆神龍太郎さんは『トンデモUFO入門』で以下のように述べています。

 僕がUFOを面白いと感じるのは、たとえばロズウェル事件なんか、ものすごくたくさんの証言やデータがあって、内容的にはガチガチに固まっているわけ。それらを読めば、UFOは墜落していて、宇宙人の死体がどこかに隠されているとしか思えない。でも、「なんかヘンだな」と思う小さな穴を見つけて、それに指を突っ込んで徐々に拡げていってみたら、最後には全部が嘘と勘違いだらけの瓦礫の山に変わっていってしまった。まったくの虚構の上に、巨大な帝国が築かれていただけ、ということが一望に見渡せるわけなんだ。これがなかなか気持ちいいんですよ。
(215-216p)


 ロズウェル事件というのは1947年、UFOが墜落し、米軍がそれを回収したとされる事件です。が、そのUFOは単なる米軍の気球でした。実のところすぐにオチがついて忘れ去られていたのが、80年代になってから「俺は宇宙人の死体を見た」などと言い出す人物が現れ、蒸し返された事件なのですが、そうした証言者たちはとても信頼の置けない人物ばかり。何しろUFOの墜落地点自体が、この人たちの証言のおかげであちこち複数に渡る結果になってしまいました。
 彼らは実に熱心に証拠を「捏造」します。そして「信者」同士でその「証拠」を引用しあいます。元はチラシの裏にマジックで書いたような「政府文書」でも、そうする内に「何か、みんな言ってるし」「いろんな本に書いてあったし」と嘘が信憑性を帯びてくることになるのです。
 こうした嘘にはまた、もう一つの傾向があります。
 ジョージ・アダムスキーをご存じでしょうか。いわゆる「アダムスキー型のUFO」に乗った金星人と友だちになったと自称し、その金星人の説く「宇宙哲学」を広め、教祖的存在に収まった人物です。が、彼はかつて(UFOと遭遇するよりずっと前に)SF小説を書いており、その内容が金星人との遭遇や、その金星人が語る「宇宙哲学」とそっくりだったのです。
 普通はここで「ははーん」となるところでしょうが、アダムスキーは「そのSF小説は幽体離脱してUFOに乗った時の体験を書いたものだ、と説明しました。仮に幽体離脱を信じるにせよ、「では何故、その時は小説という形で発表し、二度目は実体験であると称したのか」、「一度幽体離脱して経験したのとそっくりな経験を、もう一度繰り返すのって何かヘンじゃないか」などいくつも疑問が湧き上がってしまいますが、信者たちは納得したようです。この種のオカルトを体験したと称する人物は、疑問点を突っ込まれては言い訳を繰り返すというのが常なのですが、その言い訳は「一応、その場の対処療法的な説明はなされているが、一歩引いて見ると不自然極まりない」という特徴があるようです。それはつまり、目的が既に「本当にUFOに乗ったのか」という疑問を究明することではなく、「UFOに乗った」という大前提を守ることにすり替わってしまっているからでしょう。
 フェミニストの主張もまた、これと同じです。「嘘に嘘を重ねるためわけのわからないモノになっていくが、本人たちだけは自分のついた嘘を信じ込んでいる」という彼ら彼女らの奇態はネットを見ているだけで明らかです。
 彼ら彼女らは今まで、「ラディカル/リベラルフェミニズム」についてのデマ、「ツイフェミ」「まなざし村」などといった(無意味な)用語の捏造を続けて来ました。多摩湖師匠は最近、「ネオリブ」という概念を提唱しています*2。本人の弁によればフェミニズムに失望し、見切りをつけ、新たな運動を始めるのだということですが……その言は幼稚な自己肯定感に酔ったポエムというべきもので、「ネオリブとは要するに何なのか、フェミニズムとどう違うのか」は、見事なほどに一切伝わってきません。
「ネオリブ」をウィキで検索してみてください。「中ピ連」の項目に飛ばされます。「中ピ連」といえば70年代に活動していた「ウーマンリブ」団体であり、「ネオリブ」とは彼女らが出していた機関誌の名前。つまり「ネオリブ」という名前自体が遙かな昔に既に使われていたものなのですが、更に「ノート」*3や「削除依頼」*4を見ていくと興味深い事実がわかります。どうもごく少数の「信者」が多摩湖師匠のつぶやきを根拠に新たに「ネオリブ」という項目を作ったものの、根拠薄弱として削除されてしまったらしい。ハクをつけようとして小山エミ師匠のコメントにもリンクしたものの、「関係ないだろ」とツッコミを受けてしまった痕跡もあります。
 そう、ことほどさように「嘘も百回つけば本当になる」がUFO信者、そしてフェミ信者のやり方です。
 フェミニズムは、虚構の上に築かれた、巨大な帝国だったのです。

*2「ネオリブの産声
*3「ノート:ネオ・リブ
*4「削除依頼/ネオ・リブ


ファクト3
往々にして、他のトンデモさんへの反論は当を得ている


 近年の、(少なくともネット世論における)フェミニズムの評判は、「地に落ちた」との表現がぴったり来ます。何しろ、ぼくが「オタク界のトップ」と呼ぶような連中までフェミニストを批判するツイートをしていたりします。名前を挙げることは控えますが、お堅い職業に就いて、表現の自由を守ると称する運動に関わっている人物までが「フェミニスト」を主語にした批判ツイートをしていたのは、さすがに驚きでした。
 が、ぼくは常に彼らに対して否定的です。それは言うまでもなく、彼らの「フェミニズム批判」とやらが「フェミニズムがポルノを攻撃する」点にのみ動機づけられた他愛ないものであり、フェミニズムの全体性を批判する視点を持ち得てはいないからです。彼らはまなざし村、ツイフェミといった言葉を捏造することに実に熱心で、ここにフェミニストを延命させるという秘められた目的があることは、自明だからです。上の人物もまた、裏ではフェミニストの悪事を隠蔽するための陰湿な脅迫活動に従事しておいででいらっしゃいます。この辺りは何度も書いているので、細かいことは省略しましょう。
 ただ、しかし、それにしても。
 見ていて彼らの「フェミ批判」、そしてまた彼らの持ち上げる「真のフェミ」の発言などは、それ自体は頷けることが多い(ただしこれは、ただ単に観念的なキレイゴトを並べているだけだからという側面も、当然あります)。
 そしてこれはそのまま、トンデモさんの特徴でもあるのです。
 前回(『G』)でも指摘した通り、トンデモ本シリーズを読んでいると、山本師匠は本当に幾度も幾度も「トンデモさんは自分に当てはまる言葉で相手を批判する」と繰り返しています。が、これは逆に言うと彼らが「普段は知的だが、ある一点にだけは平静さを失っている」ということでもあるのです。
 武田了円というお坊さんがいます。彼の著作は『トンデモ本の世界』、『トンデモ本の逆襲』の二冊に渡りされており、そこにはお札(日本で使われている普通の紙幣)に悪魔の顔や性的なシンボルが描かれており、そのサブリミナル効果で日本人は洗脳されている、そしてその黒幕はニャントロ星人だ、といったとんでもない主張がなされています。しかし、彼はそこまでぶっとんだ主張をしながら、アダムスキーなど他の宇宙人実在論者たちの話は否定するのです。山本師匠も(武田氏をこき下ろしつつも)その箇所については「この分析はなかなか鋭い」「同感!」と賛意を示しています。
 また、ノストラダムス研究家同士も、予言詩の解釈について争ったりします(確かと学会の本で、テレビ番組でそのような事態が起こったことを面白おかしく描写していたものがあったはずなのですが、今回は発見できませんでした)。
 もっとも、これについては不思議がることではありません。武田氏は「宇宙人悪者派」なのだから、「宇宙人救世主説」を唱えているアダムスキーなどとソリが悪いのは当たり前。ノストラダムス研究家にしてもバイブルの盲信者が、互いに相手のバイブル解釈を巡って罵りあっているだけで、当たり前すぎるほど当たり前な光景でしょう。
 そしてそれはポルノ反対派のフェミニストと、ポルノ容認派を自称するフェミニストが争うのと全く同じです。一歩引いて見れば同じ穴のムジナの、ちょっとした立場の違いによる「コップの中での大バトル」にすぎないのですが、渦中にいるものはついつい、争いが大きなモノであるかのように錯覚してしまっているというだけのことなのです。

ファクト4
互いに矛盾しあう説を両方信じる


 そしてまた、彼ら彼女らはこうした矛盾に満ちた精神状態に陥ることがあります。
 これは「ファクト3」に真っ向から相反する現象に見えて、実は全く同じ理由によるものであるといえます。
 近年、エマ・ワトソンがフェミニズム批判めいた発言をして話題になりました。この時のフェミ信者たちのリアクションは、大変におかしなものでした*5。ワトソンの舌鋒鋭いフェミ批判に対し一体全体どういうわけか、「このような発言をする者がいるから、フェミはやはり正しかったのだ」とのアクロバティックな解釈をしてしまったのです。
「そうだ、これだからフェミはダメだ」と肯定するなら、或いは「ワトソンの発言は不当だ、何となればフェミは正しいのだから」と否定するなら、(全体としての整合性は置くとして、その場の)辻褄はあっています。しかし彼らの言い分をそのまま解釈すると「エマも、従来のフェミも両方とも正しい」とのおかしな理屈になってしまいます。いえ、彼ら彼女らはこう指摘されても、それのどこがおかしいのかすら、理解がおぼつかないことでしょう。
 しかし、これはトンデモさんにも見られる傾向です。
 例えば『週刊現代』。『トンデモ大予言の後始末』によれば、当時の編集者さんの中にトンデモさんがいたらしく、98年から99年にかけてやたらとノストラダムス特集を組んでいたのです。が、誌上に登場した「ノストラダムス研究家」は多数に渡りましたが、1999年7の月に何が起こるのかについては、みんな言うことがバラバラ。地震や洪水、火山の噴火、隕石、宇宙人の侵略、ユーゴ紛争の激化、グランドクロスによる異常現象。一体どれがホントの「恐怖の大王」なんだ!?
「真に信ずる研究家」の言だけを掲載すればいい話なのに、何故こんな百花繚乱の様相を呈してしまうのか。誌面にバラエティを持たせるため? ならばお馴染みの肯定派否定派のバトルにすればいい。ノストラダムス自身は信じているが、いずれの解釈が正しいかは決めかねているから? それもおかしい。「ノストラダムスの予言が信じるに足る」と考えるには既に当たった予言があるという前提があるはずであり、その当たった予言を解釈した者だけを信じればいいはずです。
 ならばやはり、編集者は互いに相矛盾する予言をいずれも信じている……ということになってしまいます。
 結局、ノストラダムス研究家が予言を外しても「今度こそ当てよう」と懲りずにまたノストラダムスの本を開くのと同様で、(また、先のアダムスキーの言い訳と同じで)彼らは「何か、とにかくノストラダムスは正しい」という大前提を守ることだけが目的化していて、その内実は実のところ、どうでもいいのでしょう。それは「エマ・ワトソンを称揚するフェミ信者」の心性と「完全に一致」しています。

*5「エマ・ワトソンのHeForShe国連演説と弱者男性論について(CDBさんVS青識亜論 +借金玉さん)


ファクト5
自分が依って立っているはずのものについての知識が皆無

 フェミ信者がフェミニズムに対する知識を全く持っていないことは、前回お伝えした(『F』)山本師匠の発言からもわかります。
 そしてこれがトンデモさんにも共通の特徴であることは、山本師匠が繰り返し述べています。彼は「UFOビリーバーは無知だ、UFO事件として大変有名な○○事件も知らない」といったことをよく書いています。もっとも、何しろ博学な山本師匠のことですから、彼の挙げる「○○事件」については、困ったことにそれなりのUFOマニアのつもりのぼくも知らないことが大半なのですが……。
 ただし、これについてはちょっと違うな、と思う部分もあります。「UFOビリーバー」は、例えばアダムスキーならアダムスキーだけが正しいとして、他のUFO事件は嘘であるとしていることが多い。となると山本師匠の言は宗教学者がキリスト教の(熱心な、しかし末端の)信者に「お前は宗教が好きなくせに仏教のこれこれの説話も知らないのか」と言いがかりをつけているのと同じです。
 ただ、更に言えば「フェミ信者」の多くは例えば素朴なピル神の信者であったり、或いは彼らに影響を与えている左派言論人がフェミ信者であるから、それを鵜呑みにしているだけであったりするのが実情です。だからぼくが山本師匠を「フェミについて知らないのか」と詰るのもまた、宗教学者がキリスト教の(熱心な、しかし末端の)信者に「お前は宗教が好きなくせに仏教のこれこれの説話も知らないのか」と言いがかりをつけているのと同じなのかも知れません。

 ――さて、10のうち、ようやっと五つまでをご紹介しましたが、ここまででそこそこページを消費してしまいました。
 残りの五つはまた来週と言うことで……。