兵頭新児の女災対策的読書

「女災」とは「女性災害」の略、女性がそのジェンダーを濫用することで男性が被る厄災を指します。

セーラームーン世代の社会論Crystal

2017-09-15 23:29:29 | アニメ・コミック・ゲーム


 本稿は「セーラームーン世代の社会論」の続編です。
「次回へ続く」と言っておきながら、他の記事にかまけてすっかりうpするのを忘れておりました。
 そんなわけなので、前回記事を未読の方は、そちらの方から読んでいただくことを強く推奨します。

 以前、KTBアニキのご著書をご紹介した時のことをご記憶でしょうか。
 アニキは同書の中で「結婚はおわコンおわコン」と一億回くらい繰り返しているのですが、見ていくとどういうわけか、見合い文化や、長年連れ添った老夫婦を称揚する箇所に出食わします。
 どうもアニキは「ロマンティック・ラブ・イデオロギーの否定」というフェミニズムの主要な考えをご存知ではないらしく、ぼくはそれを根拠に、彼には(フェミニストの)バックはいないと想像しました。
 また、ぼくは以前、フェミニズムを「サイエントロジー」に準えました(正確にはeternalwindの指摘です)。それなりに勢力を持っているカルト組織なのですが、信者にすら知らされていない、「宇宙帝王がどうのこうの」という突拍子のないトンデモ教義が「密教」として存在し、ステージを昇り詰めた者だけが、その「密教」に触れることができる、というモノですね。
 フェミニズムについては、実はそのあまりにも奇矯かつ反社会的な「教え」は別に隠されているわけではなく、どこの図書館にでもある本の中に書かれているのですが、フェミニズムに絶対服従を誓っているはずのリベラル君たちはどういうわけか、そのフェミニズムの「密教」部分を知らない。多分、グルに図書館に行くことを禁じられているか、或いは字が読めないのだと思います。
 いずれもフェミニストが大好きなクセに、フェミニズムについての正確な知識に欠けている。それは彼らがフェミニストという「ママ」に萌えるためには、「フェミニストの真実の姿」が邪魔だから、と考える他はない。
 そして、稲田豊史師匠もまた彼らと同じ特徴を持っているのではないか……というのが、本書を読んでのぼくの感想です。

 第四章後半から、「母としてのセーラームーン」という節タイトルが付されるなどして、「セーラームーンの母性」を大いに礼賛する流れになります。
 この辺りからぼくは、薄氷を踏むような気持ちで本書を読み進めました。
 何しろ、「母性」「結婚」を弱者男性の一兆倍憎むのがフェミニストです。本書の姉妹編とも呼ぶべき『ドラdisり』――じゃなかった、何だったっけ、忘れちゃった――でもママが目を三角にして怒りそうな記述がぼくをはらはらさせましたが、本書では「セーラームーンの母性」がどのような評価を与えられているのか……いえ、考えるまでもないでしょう。「何も考えず称揚を続ける」に一京クリスタル。
 ぼくはそう予想し、その予想はまんまと的中しました。
 本作の主人公(つまり、セーラームーンの普段の姿)は月野うさぎという女子中学生ですが、『R』からはちびうさという、うさぎを小さくしたような少女が登場します。当初は謎の少女であったちびうさは、次第に「未来から来たうさぎの娘」との正体が明かされ、セーラーちびムーンへと変身し、ついにはうさぎとのダブル主役状態になり……とその物語上の比重を増していきます。
 これを師匠は

 そう考えると、『セーラームーン』の物語構造はなかなかに革新的だ。
(中略)
 その延長としての「結婚」を匂わせることはあっても、うさぎのように未来の夫、未来の娘がすぐ隣にいる状態でドラマが展開するのは珍しい。
(p144)


 と驚いて見せますが、当然、知識不足による誤謬です
 むしろ「女児向け」としては「娘を育てる」という要素が登場するのは鉄板と言っていいのですから。
『セラムン』後、『プリキュア』以前に放映された東映アニメ『おジャ魔女』シリーズもそうですし、リカちゃん人形もまた、ママや赤ん坊のキャラクターがセットになっていました。もっともリカちゃんの場合、赤ん坊はあくまで「妹」ではあるのですが。そしてまた、確かに、タキシード仮面というパパ役が設定されること自体は、そこそこ珍しいかも知れません(女児向け作品では父親なり、男子の影が薄いのがお約束です)。
 しかしこれは『セラムン』が当初から内包していた「女児向け」という要素と、「高学年向き」の大学生との恋愛、という要素が化学変化を起こして生じた、偶然の産物という見方をするのが正しいように思われます。
 いずれにせよこうした世代を繋いでいく要素は、女児向けのコンテンツの基本と言っていいように思います。『プリキュア』はたまに小学生戦士が加わるくらいでちびムーン的ポジションのキャラはいませんが、赤ん坊的なマスコットは常に出て来ますしね。
 そう、つまり『セラムン』は最初から答えていたのに、師匠だけが気づいていなかったのです。
 前回、師匠の『セラムン』は「老いに怯える成人女性」を敵としながら、実際にそうした年齢にさしかかった女性への答えを用意していなかった、との評に対し、ぼくが『セラムン』は明快に答えを提出している、師匠は理解できないだろうから、後に説明して差し上げると予告したことをご記憶でしょうか。
 上の構造が、その答えです。
 そう、次代を育てることで、自らの生命を繋いでいくことこそが、「母であるセーラームーン」の出した答えでした。
 こうなるとセーラームーンの敵の正体も明らかでしょう。
 そう、「男性」を、「結婚」を、「家庭」を何よりも憎む者たち。
 師匠のグルのガールフレンドたちを倒すために、セーラー戦士たちは出現したのです。
 しかしそれに気づかず、師匠はセーラームーンを礼賛し続けているのです。
 フェミニズムの「密教」をいまだ、知ることなく。

 何しろ師匠は月野うさぎに孤独な魂を救済されたセーラー戦士たち、という物語テーマについて、或いはまた、敵キャラクターをもその悪しき心性を「浄化」する展開が多いことについて、極めて熱の籠もったペンを走らせているのですから。
 いえ、それをぼくは、否定しようとは思いません。
 詳しい方は想像がおつきかと思いますが、ここで採り挙げられるのは劇場版『セーラームーンR』。本作は長きに渡る『セラムン』の歴史の中でも間違いなく最高傑作と言っていい出来であり、ここにおける師匠の熱い語りについて、(先のEDテーマへのリスペクト同様)ぼくは素直に賛同の意を表します。
 ……が、同時にここでぼくは二点、指摘しておかないわけにはいかないのです。
 師匠は劇中の名セリフ、

「大丈夫よ、セーラームーンはみんなのママだもん」


 を引用するのですが、少なくともフェミニストは彼らのママではないということがまず一点。
 そして、実は師匠が劇場版『ドラえもん』の勇敢なのび太を「授業参観日だけ優等生を演じているだけなのだ」と一蹴して見せましたが、もしそれが正しいのであれば、うさぎちゃんもまた……ということが二点目です。
「うさぎの友情によって救われたセーラー戦士たち」とのモチーフは劇場版のみならず、テレビ放映版にも時おり姿を見せるものです。が、まあ、顕著なのはクソ真面目なガリ勉だったセーラーマーキュリーだけではないかなあ……とぼくは感じます。セーラージュピターもまた、初登場時は不良のようだと恐れられていたところをうさぎに声をかけられる、といったエピソードがありましたが、以降、それを引っ張るわけではない。
 セーラーマーズはうさぎと一番親しい間柄ではあれ、「それ以前は孤独」だったのか。セーラーヴィーナスはどうか。劇場版を観てもこの二人の「かつて、孤独だった」描写はいささか強引であったことは見て取れるはずです。
 これらはちょっとした瑕疵であり、娯楽作品としての『セラムン』の価値を損なうものではありません。しかし(何らかの政治的意図を持って)やたらと「セーラームーンの母性」を賛美されると、「良質な娯楽作品」であった本作までが、何やらうさんくさいものに見えてきます。
 というのも、上のような側面を全面的に否定する気はありませんが、仲間たちの関係性の中で、うさぎはどちらかと言えばスキルのある他の少女たちに比べてみそっかす、変身後も「守られるべき姫」としての側面の方がむしろ、強いように思われるからです。師匠は彼女を

 うさぎは楽天的で物怖じや人見知りをしない、“近所の世話焼きおばさん”気質だ。
(128p)


 と形容していますが、そしてこれもそれなりに当を得てはいるのですが、上に書いた劣等生的な部分を見ずにこうした点ばかりを強調するのは極めてアンフェアです。

 いえ、それに留まりません。
 ご覧になったことのない方には感覚が伝えにくいですが、『セラムン』というのは基本、こんなシビアなお話ではないのですから。セーラー戦士たちは放課後、ファミレスに集っては、地球の平和について(彼氏が欲しいというガールズトークの合間に)語りあいます。当時、『セラムン』評論で著名な志水一夫氏が彼女らについて「汗一つかかず正義を守る」とちくりと揶揄していた記憶があります。師匠はタキシード仮面について、「実はセーラームーンに依存している」などと腐していますが、実際はセーラームーンが危機に陥ると、タキシード仮面は率先して楯になるんですね。そして、肉弾戦を展開する(『セラムン』の女児向けリファインとも呼ぶべき)『プリキュア』の戦士たちとは異なり、ムーンは実質的には相手にエネルギーを照射してヒーリングするだけの、「キレイな戦い」しかしない。
 実のところ、『プリキュア』に慣れた後、『セラムン』を観るとかなり驚かされます。肉弾戦の有無もそうですが、先のガールズトークに見られる(今の感覚で言うと)ビッチぶりと、そして、戦いの「不真面目」さ。
 正直、ここについては当時の感覚を正確に把握していないと語ることは困難です。
 セーラー戦士たちのバトルを観返すと、極めてコント的であることに驚きます。これは『ゴレンジャー』に端を発する戦隊のバトルがコント的であること、そして(『ゴレンジャー』自体は74年の放映であり、源流はドリフなんじゃないかと思うんですが)それが80年代的ニヒリズムに源流を持つことを知らないと理解ができないのですが、ともあれそうしたバックボーンのせいもあって、実はセーラー戦士たちの戦いはかなり、コミカルなものであったのです。



■少しはマジメに戦えと言いたい。

 つまり、『セラムン』は変身ヒーローのパロディとして誕生した。
「パロディ」であるが故に必然的に「コント」性を獲得したとも言えるが、いや、実のところ「元ネタ」である『ゴレンジャー』が元からコントであり、それを引き継いだという感が強い。それは時代背景故の必然とも言える。とは言え一番大きな理由は、やはり女児にシビアなバトルが期待されていなかったから、ということに尽きるのではないでしょうか(プリキュアは肉弾戦で戦う勇壮な戦士ですが、当然、女児の喜ぶ生活描写やモンスターのコミカルさは遵守されています)。
 ちなみにこれは余談ですが、217pではタキシード仮面は「滑稽」な存在であり、それが「茶化される」場面もあるとの指摘がなされています。それは全く、間違いではありません。しかし上の動画を見ればおわかりになるのではないでしょうか。そう、タキシード仮面が「滑稽」なのと同じくらいに、セーラー戦士たちもまた、「滑稽」であることに。だからこそ彼女らは愛すべき、実際に愛されたキャラなのです。それは丁度、のび太と同様に
 むろん、彼女らは最後の最後までおちゃらけているわけでは全くなく、「やる時はやる」のですが、それが皮肉にも日常描写との連続性を断ってしまうという事態を引き起こすこともありました。
 例えば、ファーストシリーズのクライマックスはどうだったでしょうか。
 ムーン以外のセーラー戦士たちは敵と戦い、一人、また一人と倒れていきます。
 何というか、『聖闘士星矢』みたいな感じです。
 実のところ、セーラームーンが敵に勝利した時点で奇跡が起こり、仲間たちは何ごともなかったように復活するのですが、この最終回が前後編であったがため(つまり、仲間が死んで前編が終わってしまう!)、女児たちがものすごいショックを受けたといいます。
 当たり前です。
 恐らくですが、女の子向け作品であるにもかかわらず、スタッフがつい男の子向けアクションを作っていた時の手癖を出してしまったのではないでしょうか。
 そのせいで言わば、女児向けアニメで描かれるべき日常の楽しさとバトルのシリアスさに齟齬が生じてしまった。その亀裂の大きさは残念ながら、劇場版と通常回ののび太の比ではなかった
「滑稽」さと言うことでいえば、忘れてはならないことがあります。
「原作」では二の線であるセーラーマーズがアニメでは二枚目半にされたことです。
 詳しくない方のためにご説明が必要となりましょうが、『セラムン』の「原作者」が若い女性であったことは、比較的有名かと思います。しかし、この「原作者」とアニメ側に確執めいたものがあるらしきことも、ファンの間では有名です。
 もちろん、そうした情報は明確に可視化される形で表に出てくることはありませんが、「原作者」が(先に挙げた『R』ではなく『S』の)劇場版の脚本を担当し、そのクオリティが低かったことに対しての苦言を書いたアニメスタッフのブログ記事がアップされていたことがあったはずです。
「原作」漫画の連載開始時期とアニメの放映開始時期を見ても、企画が同時進行していたことは、ほぼ、間違いがありません。また、本作の雛形となった漫画『コードネームはセーラーV』を見ると、言っては悪いのですが非常に拙い作で、『セラムン』のプロットや設定を本当に「原作者」が作ったかどうかは疑問が残る。この「原作者」は、東映にありがちな、実質的には「キャラデザ及びコミカライズ担当」というパターンだったのではないでしょうか。
 そして、先に書いたマーズは「ハイヒールでおしおきよ!」が決めゼリフの女王様的キャラで、男嫌い。「原作者」のトークを見ていくと、彼女のホンネをかなり表したキャラだと想像できます。いえ、他のセーラー戦士たちも「原作」版ではムーンのナイトという性格が強調されており、そこにはアニメ以上に百合的なムードが立ちこめています(「原作」ではセーラー戦士たちが「彼氏が欲しい」と漏らした後一転して、「私たち本当は姫にぞっこんで、男なんか目じゃない」と啖呵を切る、アニメへの「返歌」とも思えるシーンがありました)。
 即ち、「原作」版のセーラー戦士たちは女子校的厨二的ミサンドリーをこじらせた存在と言え、中でも「恐い」印象を与えるマーズは、前回もちょっと書いたように女児人気が最低でした。
 しかしそのマーズを、アニメスタッフたちは「気取ってはいるがドジで、本当は気のいい少女」としたのです。「男無用の勇ましい女」であるはずが、衛(後のムーンの彼氏)に横恋慕して周囲をうろちょろしてはドジを踏むという、かなり辛辣なギャグまでも演じさせられていました。ついには「アニメファン」という設定までが与えられてしまったのですが、これもどちらかと言えば格好が悪い感を出すためのものでした。こうした改変はキャラクターの魅力を引き出すためである、との旨が、当時のスタッフインタビューで語られています。
 もちろん、こうした流れについて、本書は一行たりと触れていません
 本書は専らアニメ版に限定して批評すると明言されており、「原作」を扱わなかったのでしょうが、それでもこのマーズの改変は、記しておくべきだったでしょう。「男性に依存しない、毅然とした少女」という師匠の淫夢を明快に否定したのは他ならぬ、このアニメ版マーズだったのですから。
 もう一つ触れておくべきことがあります。
『S』のクライマックスはどうだったでしょうか。
 病弱な少女・ほたるの中に眠る悪の戦士「セーラーサターン」。それが覚醒しては地球が滅びる。セーラームーンたちの先輩であるセーラーウラヌス、セーラーネプチューンは大の虫を生かすため、ほたるを殺すべきと主張。しかしうさぎたちは誰も犠牲にしない道を選ぶべきだと対立します。
 しかし!
 ここで普通ならば、うさぎたちの理想論が勝利するのが正しいエンタメであろうに、こともあろうに彼女らは、ほたるを救うために具体的な行動を起こさない。ウラヌスたちがほたるに危害を加えようとした時にだけ、場当たり的に理想論を吐くだけです。
 結果、ほたるは覚醒し、街は廃墟と化し、仲間の戦士たちも倒れるというのがクライマックスの展開です。
 ウラヌスが「全てはお前の甘さが引き起こしたことだ。これで満足か、セーラームーン!」と絶叫する中、ムーンは為す術なく立ち尽くすのみ。
 もっとも、その後はまた奇跡が起こり、事態はウヤムヤで収束するのですが――。
 この『S』のクライマックス、エンタメとしてはあまり評価できません。
 純粋に、(それこそ『エヴァ』のラストのように)話を上手くまとめられなかったが故のヤケクソの展開であったかのようにも見えます。しかし――いや、むしろだからこそ、ここにはスタッフたちの美少女戦士に対する悪意が透けても見えます。作品世界の綻びを、スタッフは悪意でもって意図的にクローズアップして見せた。その時のスタッフの声はきっと、ウラヌスの声と「完全に一致」していたのではないでしょうか。
 それはつまり、「女性性を放棄しないまま、しなやかに地球を守る」というフレコミの「母性の戦士セーラームーン」の「誰も犠牲にはしない」との言葉は、内実を伴わない甘言だ、と――。

 師匠の弱者男性への見ていて退いてしまうような憎悪について、ここしばらくずっとご紹介を続けてきました。前回も、本書にまでのび太をdisる箇所があることを、お伝えしました。
 本書のそうしたのび太disりコーナーの節タイトルに「運命の相手を“待っている”のは、のび太系男子」というものがありました。この種の「男の子は白馬に乗ったお姫さまを待ち望んでいるが、女の子たちはそんな男の子たちを見捨て、一人で旅立ったのだ」的な言説は、本当にバブル期によく見られたものです。というか、この文章自体が内田春菊師匠が出て来た時に大塚英志氏の書いた作品評を記憶で再現したものです。
 しかし、内田師匠の凋落ぶりは、言っては悪いですが本作の「原作者」である武内直子氏のそれと、かなり近い。
 そして――ここまでくれば、もうおわかりになるかと思います。師匠がここでも重大かつ悪辣な事実の隠蔽を行っていることに。
「待っている」のはむしろ、セーラームーンの方であった、ということです。
 何しろ師匠が否定してみせたEDテーマ、「プリンセス・ムーン」には「恋人が来るのを待っている」と歌われているのですから。
 公式設定で、うさぎの将来の夢は「お嫁さん」であるとされているのですから。
 そして、そうした事実を隠蔽してまでママのキスを待っているのは、のび太系男子ではなく師匠に代表されるリベラル君であった――どうやら、そんなオチがつきそうです。
「女の時代」のアイコンとして燦然と輝いていた『セーラームーン』、しかしその「原作者」はいささかその才能に疑問の残る、キツい言い方をすればお飾り。
 そして――実際の『セラムン』のクオリティを保っていたのは佐藤順一、幾原邦彦といったシリーズディレクター、当時まだ二十、三十代だった若い男性スタッフたちの働きによるものが大きかったように思われます。これはまた、「萌え」や「アキバ系」が先端文化として採り挙げられる時、決まってアイコンである二次元美少女やそれの模倣であるコスプレイヤーの少女たちが持ち出されるのに対し、実際の作り手たちの多くが男性であったこととパラレルでしょう。
 彼らはアニメのクオリティを上げると共に、セーラー戦士たちを「気取ったムカつく女」から「親しみやすい俗っぽさを持つ少女」にすることで、女児たちの支持を得たのでした。
 しかし、それは「生命懸けで何かをなす」こととは齟齬が生じる。だからこそ女児やセーラーウラヌスが泣き叫ぶ結果となったのです。
「女の時代」の寵児であったセーラームーンは、「ステキな美少年」――というには微妙かも知れませんが、事実、幾原はイケメンでした――にツッコミを受け、フェミニズムのウソの全てを暴き、その敗北を予言した――そんなところが実態だったようです。
 師匠は「原作者」のインタビューを引き、

「女子の欲望すべて」。これほどまでに『セーラームーン』という作品の魅力をひと言で言い表した言葉はない。 それまで、「男性受け」を念頭に置いたお仕着せの「かわいい」をまとっていた女子たちが、「誰かがいいと思うもの」ではなく「私がいいと思うもの」に価値観をシフトさせた。それがコギャルであり、セーラームーンだった。
(175-176p)


 と語ります。
「男子の欲望」は全て否定する師匠が、どうして「女子の欲望」はここまで全肯定なのかと問いたくなりますが、「女は全て正しく男は全て間違っている」が師匠の所属する闇の結社のドグマなのだから、仕方がありません。
 それよりも気になるのが、ここでも師匠が事実をスルーしていることです。
『セラムン』は『ゴレンジャー』のパロディであり――そしてまた、オタク男子たちがOVAなどで描いていた「戦闘美少女」もののパロディでもありました。ようやっとアニメが若者文化として根づき、作り手にも若手が育ちつつあったこの頃、オタク男子の、オタク男子による、オタク男子のための「強い美少女が戦う」OVA(テレビメディアなどには乗らない、ビデオとして販売されるアニメ)が佃煮にするほど作られました。『セラムン』は明らかに、その延長線上に存在しているのです。
 以前、ぼくの周囲のオタク男子たちが、『セラムン』が女児向けであると理解できず、「オタク男子の欲望」をこそ受けて作られたものと頑なに信じ込んでいたことを、ご紹介しましたが、それにはそうした理由があったからなのです。そうそう、放映当時、テレ朝(キー局)の社員でも口の悪い者は、本作を「キャバクラアニメ」などと呼んでいたとも聞きます。
 そう、ぼくたちが女の子に「男性受け」を念頭に置いたお仕着せの「かわいい」をまとわせていたところに、セーラームーンは現れて、こう言ったのです。
それいいじゃん」と。
キミがいいと思うもの」を「私もいいと思ったよ」と。
 師匠だけが、それを理解できていません。
 そうして、『セーラームーン』は女児の快楽原則に従った、極めて良質なエンタメになったのです。
 決して、フェミニズムのプロパガンダやリベラル君に「ママのキス」を与えるために描かれたものではありません。
 だからこそその実態は、フェミニストやリベラル君たちの妄想からは、遠く遠く隔たっていた。
 そういうことだったのです。

腐女子の心理学(その2)

2017-09-09 03:56:10 | オタク論

 さて、前回の続きです。
 初めての方は前回記事の方から読んでいただくことを強く推奨します。
 前回は本書の前半部分といいますか、主に質問紙による調査について述べた部分を中心にご紹介しました。
 山岡師匠の論考は北田師匠の著作に比べ、遙かに冷静で豊富なデータを積み上げた上でなされていますが、とは言え、スタンス的には近いのではないか。北田師匠と山岡師匠は共に腐女子に恋い焦がれる恋敵であり、両者は単に右と左から腐女子の手を引っ張っていただけのところを、ぼくはイデオロギー闘争であると勘違いして、首を突っ込んでしまっただけのことではないか……そんな疑問を述べました。
 そしてその疑念は本書後半の「総合考察」と題された第12章から、一気にターボがかかるのです。
 何と228pでは悪名高い――スマン、考えると悪名高いのって俺の中でだけだったわ――「やおい論争」が持ち出されます。
 これは単純にホモが「腐女子キメェ」というだけの他愛ないもの。
 しかしあれだけ腐女子の味方として振る舞い続けてきた師匠のこと、颯爽たる反論を見せてくれる……と思いきや、師匠はホモに唱和し、腐女子を批判するのです!

 ゲイを許容しているつもりなのに、自分が好むBLでは嫌悪している。これも腐女子のジレンマである。
(230p)


 意味がわかりません。
 そもそも、「BLとリアルなホモとは一切関係ない」という優れた指摘をしてきたのは師匠であるはずなのに*1。「BLはホモを嫌悪する表現である」というのもわけがわかりませんが、ホモが禁忌であるが故に純愛のダシになっていることを、そのように解釈しているようです。BLでホモの禁忌性が描かれることなど、近年では少なくなっていると思うのですが。
 そう、師匠の腐女子への共感や誠意を疑うことはできません。ただ……考察に入るや師匠の所属する「闇の教団」の厳しい戒律が、師匠と腐女子の仲を裂いてしまうのです。
 それは以下のような記述にも現れています。

 前節で述べたように、男性に都合よく作られた性規範が、女性の性的娯楽享受の許容度を低く抑え込んできた。その男性中心の性規範は、女性作家が女性読者のために創ってきた性的娯楽であるBLにも組み込まれている。
(230p)



 師匠が言うにはそれは「BLの二重の安全装置」に組み込まれているのだそうです。
 それは一つには「BLがBLである限り、腐女子当人に実行不可能」というもの。
 もう一つは「愛がなければ性行為をしてはいけない」という規範であるといいます。

 女性にとっての実行不可能性と、愛の帰結としての性愛という二重の安全装置が組み込まれたBLは、女性が(男性に都合よく作られた)社会の性規範を逸脱することができないように造られた、安全なポルノグラフィである。
(230p)


 要するに、BLとは「女性にふしだらであって欲しくないという男の願いが生んだもの(実行不可能だから)」ということのようですが、むしろ男は女が「男同士に萌える」ことなど望まないでしょう。
 今まで稲田豊史師匠の『ドラえもん』、『セーラームーン』評に、「男性学」とやらに対し、ぼくたちは同じ気分を味わってきました*2。これらの著者たちは必死でオタクの、弱者男性の味方であると振る舞おうとしているが、スイッチが入ると「大首領様」の命令に逆らえなくなり、オタク文化を、弱者男性を叩き出すという、大変に奇妙な人々でした。
 そしてこの12章は実に奇怪なオチを迎えます。上の後、女性研究者である堀あきこ師匠の「BLは男同士の恋愛を描くことで対等な関係性を描写することを試みた云々(大意)」という言葉が引用されます。もちろんこれは上野千鶴子師匠が三十年ほど前に言っていた古拙なロジックであり、「責め/受け」の概念がそれを無効化した……ということはぼくが何度か指摘しています*3
 が、ここでは年長者や権力者を「受け」とすることで、権力構造をずらすことができるのだ、といった論法で、BLが権力構造から自由である、との主張がなされているようです。ぼくが知る限り、BLは権力者が弱者を責めるものが大多数だと思うのですが。
 そもそも、BLは男同士なのだから(実際には女性たちは「受け」へと感情移入しているのですが、この種の評論ではそうしたことを認めないものですし、山岡師匠もまたそうなのだから)権力構造がどうのこうの言われたって、それは男女の性規範とは関係のないもののはずです。
 しかしいずれにせよ、この言説は山岡師匠の「BLは男性に都合よく作られた」論とは噛みあいません。では、ここから堀師匠への批判が展開されるのかと思いきや、特に何も言わないままに章が終わっています

*1 本書30pでは学生や元学生である腐女子からの聞き取り調査を元に、「男性同性愛への興味」から腐女子になった者はいない、オタクコンテンツに登場するキャラへの興味が先行し、BLに至るとしていますし、第8章においても再三、「腐女子が好むのは現実のホモではない(大意)」と強調され、166pでは腐女子がホモビデオを見ることも、腐女子向けの実写作品もほとんどないことも指摘されています。
*2『ドラえもん』、『セーラームーン』の一連のトンデモ評論、「男性学」者のトンデモ本については以下を参照。
ドラがたり あんた藤子不二雄のなんなのさ
ドラがたり とよ史とフェミニン兵団
ドラがたり とよ史とチンの騎士
セーラームーン世代の社会論
ちなみに上の続編、「セーラームーン世代の社会論Crystal」についてはアップをすっかり忘れておりました。近日上げます。
冬休み 男性学祭り!!(その1.『非モテの品格』)
*3「リベラルたちの楽園と妄想の共同体――『社会にとって趣味とは何か』(その2)


 チンプンカンプンになりながらページをめくると、最終章である第13章「腐女子とオタクの未来に向けて」が控えています。
 その第1節は「少女マンガの呪い」。
 驚いたことに師匠は古典的少女マンガが、主人公の少女が少年から愛されることで自らに価値を見いだす構造を持っていることを(藤本由香里師匠の著作から引用して)指摘、それが「男性支配」であると説くのです。
 すごい!!
 いえ、つまりこれは山岡師匠が、大変に正直な人物であることを表しています。少女漫画評論というものは今まで、少女漫画の上に指摘されたような構造とフェミニズムとの矛盾をスルーして、何とかその両方に対し、諸手を挙げて絶賛せねばならないというムリゲーを強いられてきました。
 山岡師匠はそうした(論者たちの独り相撲によるケガで生じた)レッドオーシャンへと、のこのこと入っていった一般人です。裸の王様を見て、「あれ、裸?」と言っちゃった少年です。モンダイは、この少年もまた裸でおり、それについて自覚がないのでは、との疑問が湧くことですが……。
 山岡師匠は藤本師匠の

 少女たちは“性”を自らの体から切り離し、少年の体に仮託することで、“性”を自由に操ることに成功した。
(235p。あくまで藤本師匠の著作からの引用の孫引きです)


 といった論法に反論するかのように、「しかし愛という価値から逃れ得ていないではないか」と指摘します。
 それは、正しい。大変論理的です。
「BLは従来の男女のジェンダー規範、セクシュアリティ規範をなぞった、それに対し何ら脅威をもたらさない表現である。であるから、フェミニズム的に解釈すると、BLが女性差別男性支配の表現であるとするのは正しい。そう解釈する以外に、道はない」。
 師匠の主張をまとめれば、そういうことになるはずです。
 しかし、何しろ腐女子たちは同人誌を描いてまでBLを欲するのですから(儲かるのは一部で、彼女らのほとんどは赤字でしょう)、「腐女子の存在こそが、フェミニズムが間違っていたということを何よりも雄弁に語っている」。
 そのように論理は展開されなければならないはずです。
 が、驚いたことにここから師匠は、精神的に安定していない腐女子群は少女漫画に親しみ、「少女マンガの呪い」を受けたのだろうとするのです!
 腐女子の中の健康的な層は「少年漫画」を読んで育ったのだろうが、対人忌避の傾向など、問題を抱えた腐女子は恋愛強迫観念(恋愛しない人間には価値がない)を少女漫画によって植えつけられているのだと、師匠は(特に根拠なく)推測します!
 すごい!!
 疑問はいくつもありますが、まず「人に愛されることが第一義だ」との人間の根幹をなす欲望に基づく価値観が、そうそうフィクションの影響を受けるものでしょうか。同様に山岡師匠は(70年代の)少女漫画の編集者たちがほとんど男性であったと述べ、少女漫画そのものを男性の女性支配のツールであるかのごとく記述します。こうなると『レディース・コミックの女性学』*4と変わりません。
 第2節は何と「少女マンガの呪いを解く方法」。
 師匠はここで腐女子に対し、「世界とのつながりを取り戻そう」と説くのです。
「(恋人とつきあえば)少女マンガの呪いも解けていく(p244)」と師匠は語ります。
 そもそもが、恋愛至上主義こそがけしからぬというのが当初の主張であったのに、何故「男子とつきあおう」になるのかが今一わかりませんが、それに対する説明は、本書の中にはありません
「オタク男子とつきあえ」というのは「恋愛至上主義だけが悪で、現実の恋愛を知ればそうした観念論に振り回されることもなくなる」程度に理解すればいいのかも知れません。しかしそれでは「この世のジェンダー規範(恋愛もまた、その一環であることは自明です)は男たちが自分たちに都合よく作り出したものだ」という大前提が崩れてしまう。いずれにせよ矛盾しているのです。

*4 レディース・コミックは女性が結婚など、女性ジェンダーの旨味を十全に味わうメディアであり、フェミニストにとっては自分たちの主張の矛盾を暴露してしまう、極めて煙たい存在でした。『レディース・コミックの女性学』はレディコミブームの頃に出版された、フェミニストが「レディコミの編集者は男性だ、だから男性が自分たちの価値観を女性に押しつけているのだ!」と電波妄想を炸裂させるトンデモ本です。

少女マンガの呪いを解く方法」には奇妙な項があります。
萌えによるオタクの民主化」と題されたその項では、岡田斗司夫のオタク定義はエリーティズムだとの説が語られるのです。その根拠は岡田氏が『オタク学入門』などで「オタクになるには時間的、経済的、知的に極めて多くのエネルギーを投じなければならない(大意)」と語った、というだけのもの。それだけのことを取り出してエリーティズムだと決めつけるのって、どうなんでしょう。
 以降も岡田氏はガイナックスを追放されたという『噂の真相』レベルの話や、彼にはコンテンツを造る創作者になれなかったコンプレックスがあるといった話が続き、しかし「萌え」こそがその岡田氏のフェイズを超え、オタクを民主化させた功労者であると語られます。しかし残念なことに「萌え」がどうして民主的なのかについては、言及がありません(いえ、恐らくライト層も取っつきやすい、程度のことを言っているのでしょうが)。
 第一、この項の岡田氏批判が話の前後(「少女マンガの呪いを解く方法」)といかなる関わりがあるのかが、さっぱりわかりません
 岡田氏にクリエイターになれないコンプレックスがある、というのはネットでよく聞く風説です。ぼくが見る限り、これを流布させているのは左派寄りのオタク文化人の影響化にある人々です。山岡師匠の岡田評はこれと全く同じで、その影響を間違いなく受けています。
 ぼくは岡田氏の主張を「オタク≒鍛えられた消費者」論と表現してきました。どちらかと言えばクリエイターというエリートを想定し、階級を造ろうとしているのは左派寄りのオタク文化人であり、それに異を唱えるのが岡田氏で、むしろオタク文化人が彼(や大塚英志氏)を煙たがるのは彼らがオタク界を民主化しようとしたことが理由、とも言って来ました。
 もっとも、以上を裏読みすれば確かに「岡田はクリエイターに反感があるのだ」といった評も可能でしょう。しかし不思議なのはそうした主張をする連中は一体全体どうしたわけか、上にも書いた左派寄りのオタク文化人、つまり「別段、クリエイターじゃない人」がお好きなように見えることです。ブーメランという他はありません。以前にした、「サブカルはコンテンツを持たないが故にオタク業界の植民地化を企んでいる」との指摘と、これは全く同じですね*5
 そして残念なことですが、そうした人たちと同様、山岡師匠の腐女子への感情にこそ、ある種の傲慢さが見え隠れするのです。それは「耽美」という言葉に象徴されていると、ここまで来ればみなさんにもおわかりいただけるかと思います。
 他にも本書の端々には「オタク趣味が高じて制作者サイドに移った者は、すでにオタクとは呼ばない。(139p)」、「(引用者註・スポーツや芸術と異なり)しかし、アニメ、マンガ、ゲームなどのオタク趣味に対する熱中は、基本的にオタクたちを成長させたり、向上させたりはしない。(207p)」と、オタクからするとひっくり返りそうな記述が見られます。本当に細かい荒探しではあるのですが、山岡師匠は本当にオタク文化をリスペクトしているのか……との疑問が拭えないのです。
 つまり、師匠の「腐女子よ、現実の恋愛をせよ」はある種の正論ではある。
 正論ではあるが、そのウエメセぶりがやはり、例の「キモオタがサーフィンをやるCM」のような無神経さを、どこかオタクを利用しようとしているイヤらしさを匂わせている。
 それ以降、「多様な価値観を認めよう」的なことを滔々と書いて、本書は終わります。
 あとがきの最後の最後のフレーズを、以下に引用してみましょう。

 オタク諸君、腐女子諸君、現実とコネクトしよう。現実に一歩踏み出そう。その一歩から君の現実を変えていこう。君の現実を、君の人生を君自身の手に取り戻そう。君の人生を、君が楽しみながら生きていこう。夢の呪いに挑み、呪いを打ち破るのだ。

 Don't Dream It Be It 夢を見るんじゃない、夢になるんだ!
(Rocky Horror Picture Show) (ロッキー・ホラー・ショー)
(251p)


 余計なお世話です。
 実のところ、本書の言い分はある意味、「腐女子」を「オタク」に置換すると聞き飽きた、いや、懐かしくて涙が出るようなものになります。
「オタクたちよ、アニメDVDを捨てて町へ出よ」と。
 宮崎事件の頃、耳にタコができるほどに聞かされた話です。
 それに対し、ぼくたちは「余計なお世話だ」と言ってきました。
 ほとんどの腐女子もそれと同様に、「余計なお世話だ」と思うことでしょう。
 もちろん、ウザいながら、「男の子と恋愛しよう」そのものは正論ではあると思います。
 ここからは、ぼくがここしばらく強調している「悪の組織による、本田透の兵器利用」*6という方法論を、師匠が拒否した様が見て取れます。
 本田透氏は「俺たちオタクは真の愛を求め、二次元の世界に旅立った」と主張しました。これは三次元に愛がないことからの、窮余の策。萌えとは、愛を得られないことを悟った男の描いた、理想の女性の絵でした。
「悪の組織」の作戦はそれを曲解し、「弱者男性どもは二次元の世界に安住し、それで幸福だと言っているぞ」と主張し、ぼくたちへの援助物資を横からかすめ取るところにありました。
 北田暁大師匠のしたことは、その方法論を腐女子にも適用させたものと言えます。
 ツンデレ腐女子ちゃんが「三次元の男のことなんか興味ないんだから、ヘンな勘違いしないでよね!」と言ったのに乗じ、北田師匠は「彼女らは我が組織の目的(愛という概念の否定)のために生命を懸けてくれるのだ」と思い込み、腐女子たちを組織の兵士にしようとしました。
 しかし……山岡師匠は改造手術の途中で、腐女子があまりにも哀れになり、脳改造直前で「男の子と恋愛をしよう」とアドバイスをして、腐女子を逃がしてあげた……本書はその様子の実況中継だったように思えます。
 これはまた、時々指摘する、「フェミニズムの密教」を受け容れられなかった者の末路、と言えるかも知れません。「愛という概念を根源的に否定する」ことこそがフェミニズムの真の目的である。が、あまりにも反社会的なために普段はそれを隠している。それ故、「我こそはフェミニズムの真の理解者なり」と豪語して憚らないリベラル君たちはこの密教について全くの無知である*7
 山岡師匠はきっと、入信テストの土壇場になってフェミの密教に触れ、及び腰になった。本書はその様子の実況中継でもあったのではないでしょうか。
 だからこそ悪の組織の大幹部である北田師匠は、怒りを露わにしました。山岡師匠は肝心なところで組織を裏切ったのですから。
 では、山岡師匠は最後の最後で善に目覚め、仮面ライダーの仲間になったライダーマンなのでしょうか……?
 師匠の腐女子に対する視線は常に優しいものであり、何とかその理解者たらんとする意志に満ちたものです。そうした師匠の誠意については疑う余地はありませんが、それ自体は恐らく北田師匠も(少なくとも本人の主観の中では)同じでしょうし、北田師匠を見ればそうした心理が容易に「弱者、マイノリティと目される人物を自分の政治の道具にする」危険性をはらむことも伺い知れましょう。
 山岡師匠もまた北田師匠同様にその暗黒面に堕ちかけた。
 しかし、師匠は「闇の組織」の戒律を最後の最後で破ってしまった。そして、組織のアジトを脱出しようとして、地雷原を正面突破してしまった。
 そういうことだったのではないでしょうか。

*5「敵の死体を兵器利用するなんて、ゾンビマスターみたいで格好いいね!
*6「千葉市の男性保育士問題
*7「間違った「サブカル」でマウンティングしてくる全てのクズどもに」。この書もまた、岡田氏を罵り倒しつつ、その根拠を一切述べないというトンデモ本でした。


腐女子の心理学

2017-09-01 08:50:14 | オタク論


 ここしばらく、ずっと北田暁大師匠の『社会にとって趣味とは何か』について見てきました*1
 数回に渡り、M1さんのレビューやコメントも採録しましたが、それによって北田師匠が腐女子像を自分たちの政治的要請によってねじ曲げ、更に自らのそうした意図と相対する著作である『腐女子の心理学』に攻撃を加えていたことが、より明らかになったように思います。
 腐女子に対し、「男無用のフェミニズムの闘士」であってほしいと強く願う北田師匠にしてみれば、腐女子に対して「オタク男子とつきあえよ」と説く『腐女子の心理学』が許せなかったのです。「ボクの彼女さんになるはずの腐女子タンに手を出すな!!」と。そんなわけで、ぼくは件の『腐女子の心理学』について、「全面賛成ではないものの、北田師匠のわけのわからないリクツによって攻撃を受けた可哀想な書」といった感じで評していました。
 が、それは北田師匠の著作だけを読んでの、あくまで北田師匠のバイアスのかかった批評を手がかりにしたレビューでしかなかったわけです。
 ならば実際にこちらの方も読んでおこう……と思い立ったのですが。
 えぇ~と、そういうわけで今回は山岡重行師匠の『腐女子の心理学』についてのレビューを書かせていただきます――あぁ、前回は「山岡氏」だったのに「師匠」って言っちゃってるよ!
 すみません、そういうわけでM1さんがご覧になったらあまり愉快ではないレビューになるかも知れませんが……。

*1 北田師匠の著作については
リベラルたちの楽園と妄想の共同体――『社会にとって趣味とは何か』
リベラルたちの楽園と妄想の共同体――『社会にとって趣味とは何か』(その2)
 を参照。
 M1さんのレビュー、レビューへのコメント、またM1さんの本書へのレビューはそれぞれ
この本に腐女子を語る資格なし 最終版――『社会にとって趣味とは何か』レビュー
『社会にとって趣味とは何か』コメント欄
社会学者の地雷原を正面突破する研究書!――『腐女子の心理学』レビュー
 を参照。


 まず、最初に言っておきますと山岡師匠は長年に渡り、質問紙で腐女子についての調査を行っています。言っては悪いけれども、別な調査の使い回しで腐女子を語ろうとした北田師匠とは、最初から勝負になっていません。
 山岡師匠は「オタク度尺度」「腐女子度尺度」を設定、調査対象の学生たちを「一般群」「オタク群」「腐女子群」「耽美群」の四群に分けます。「オタク尺度も腐女子尺度も低い」のが一般、「オタク尺度が高く腐女子尺度が低い」のがオタク、「両方とも高い」のが腐女子というわけです。「耽美群」は「オタク尺度は低く、腐女子尺度が高い」人たちですが、普通に考えればわかるようにそうした層はごく少数で毎回、「分析から除外する」とされています。
 さて……ところが、ここで大きな問題があります。
 この調査、何と男女の区別がほとんどなされていません
「オタク群」にはオタク男子と腐女子要素のないオタク女子が混在していると想像でき、それをごっちゃにしたまま話が進んでいきます。

「美少年キャラが好きである」の得点が4以上だったのは、腐女子群では52.8%に対して、オタク群では28.2%だった。
(33-34p)


 などと書かれているのですが、「当たり前やろ」という感じです(「腐女子群」の中にも腐男子と思しき男性が含まれるようですが、ほぼ無視していい数字のようです)。
 第3章「オタクや腐女子の外見は「残念」なのか?」では調査対象のファッションイメージを調べるため、ギャル系、ゴスロリ系などと共にオタク系のファッションを写真で提示し、感想を選ばせるという調査が行われています*2。が、ここでも調査対象は男女混合。女子には「自分がするファッションに近い/遠い」ものを、男子には「親しみを感じる/感じないファッション」を選ばせるという手法を採っており、「何じゃそりゃ」としか言いようがありません。せめてこの調査だけでも男女を分けるべきでは……いや、全てにおいて分けるのが当たり前だと思うのですが……。
 申し訳ないですが、この時点でぼくは「四コマ漫画のオチ」のごとくひっくり返ってしまいました。何というか、いくら何でも、それはちょっとないと思います。本稿もこれをオチにして終わってもいいくらいなのですが……。

*2 しかし、「オタク系」などというファッションは存在しないし(何しろ山岡師匠自身がそう述べている!)せめて、そのファッションの写真を本の方にも載せてくれないと、読む側は何とも判断しがたいと思うのですが。

 もちろん、本書は「ちゃんと腐女子を調査するという目的意識を持った調査」を行っている時点で、北田師匠の著作よりは格段に優れていると思います。
 しかし、では、山岡師匠が「政治的意図のない、フラットな意識で調査」しているかとなると、そこは疑問です。M1さんに対して心苦しいですが、実のところ、本書を読んでいてぼくは師匠に「結局はジェンダー論かよ」と言いたくなってしまったのです。
 それは例えば、以下のような論調が象徴しています。

 アダルトビデオなどのポルノグラフィは、ほとんどが男性向けに製造された製品である。つまり男性は、女性より性を娯楽として楽しむことが許容されているのである。
(中略)
 しかし女性向けに性的サービスを提供する風俗店は、繁華街を歩いていても目にすることはない。
(101-102p)


 こうしたことが腐女子をして、自らを「性的少数者」であると位置づけていることの原因であるぞ、というわけです*3。他の箇所でも

 人前での男性の猥談は、バカで下品な男たちという評価を招く。しかし人前での女性の猥談は異常者という評価を招いてしまうのである。
(51p)


 と書かれているのですが、その直前で

 公衆の面前で性的な話をする者は逸脱者とみなされる。
(51p)


 と言っているのだから、わけがわかりません。上の「逸脱者とみなされる」は文脈からするに、男女問わず、であるはずです。恐らく、「公衆の面前」と「人前」に微妙なニュアンスの違いを込めているのでしょうが……。
 つまりフェミニズム的な「女性は抑圧されている」論を、山岡師匠もまた内面化しているのです。
 が、これは極めておかしいと言わざるを得ない。女性の猥談に対する許容度が低いのは、「女性が守られているから」です。男性への性被害と女性への性被害が共に同じ重さで憤られる世界が来れば、女性と男性の猥談も、同じ重みを持って迎えられることでしょう。
 そもそもBLが生まれたこと自体が「抑圧などなかった」証拠でもあるし、レディースコミックだって生まれて三十年くらい経っているのだから、今更という他ありません(本書、最後までレディースコミックという言葉すら出て来なかったんじゃないかなあ……)。
 BLやレディースコミックは抑圧を打ち破った革新的表現である、と解釈する方法もありますが、そうなると(後述される)「BLは男性社会の価値を温存している」との説との整合性が取れなくなる。どっちにせよ矛盾しているのです。
 また、ちょっと上級者向けの話ですが、そもそも女向けのポルノなんて、更に以前から存在しています。ワイドショーや女性週刊誌の芸能人スキャンダルがそれですね。そのことは「腐女子は関係性に萌える」と繰り返されている本書の論理を演繹すれば実のところ、わかることなのです。事実、腐女子が実に熱心に同人誌を発行し、即売会に出るのは、「今週のアニメの○○クンと××クンの怪しいシーン(大体は共に敵と戦ったとか、そんなの)」についての妄想を描き、仲間たちと共有したいからであって、本質はワイドショーなんですね。
 そう、BLは男たちの女への抑圧など、最初からなかったことの証明でした。

*3 ちなみに腐女子が自らを「性的少数者」だと位置づけているという指摘は、溝口彰子師匠のものです。細かい話ですが、ここは腐女子が自らを「異端者」と位置づけていることを、フェミニストである溝口師匠が「性的少数者」と位置づけたのだ、と読み替えたのではないでしょうか。溝口師匠の著作は未読なので、これはまあ、あくまでゲスの勘繰りですが。


 師匠は腐女子を、一般のオタクよりも更なるマイノリティであると考えているようです。
 その例として、腐女子はオタクよりリーダーシップを取ることが少ないとの調査結果を挙げるのですが(140p)、繰り返すようにオタク群は男子が多いと想像できるのだから、どうしようもありません。腐女子の方がオタクより自己否定的、他者否定的であり、親密性回避の傾向、親と葛藤する傾向があるともされますが(第7章)、これも同様に、ジェンダー差(これは必ずしも女性の方が自己否定的ということではなく、女性の方がそうしたことに敏感であり、そうした感じ方を表に出したがる、ということです)が大きいはずです。
 本書は学術書であり、あくまで学生に対する調査と、それを元にした考察という、妥当かどうかは置くとしても手続きとしては「科学的」とされる形を踏まえた記述が続きます。
 が、本書が特徴的なのは、それらの合間にインターミッションが挟まれていることです。
 ここで師匠はやたらサブカルチャーについて語るのです。そこにあるのはハイカルチャーvsサブカルチャーという素朴な対立構造を前提とした、「マイノリティを抑圧する、排除の論理をやっつけろ!」とでもいったような世界観です。
 それは「オタクは市民権を得たが、腐女子はその代わりに否定的イメージを一身に背負ったマイノリティだ(大意)」と主張する「社会的マイノリティとしての腐女子の心理学的研究(161p)」や、ハイカルチャーとサブカルチャーの対立構造について熱心に語る「趣味と幸福感」(213p)、そしてまたサブカルチャーへのシンパシーを吐露する「「自分たちだけが正しい」と主張する人たち」(233p)にも現れています。
 実のところ本書の序章で、師匠はやたらと腐女子とサブカル(師匠は「サブカルチャー」としか言っていないのですが、敢えてぼくの感覚で「サブカル」と称します)とを結びつけようとしているのです。「少女マンガとグラムロック」「耽美派少女はサブカルチャーを漂う」「パンク・ニューウェーブからヴィジュアル系ロックへ」「耽美派からアニメファンへの勢力移行」といった項タイトルを見ていくだけで、何とはなしに師匠の世界観が見えてくるのではないでしょうか。それは「BLは元はサブカルの範疇であったが、後にオタク文化に取り込まれた史観」とでも言うべきものです(もちろん、項タイトルなどは編集者が考えることも多いわけで、本書もそうである可能性はあります。しかしこの項タイトルが内容を正確に反映しているとの判断から、例として挙げてみました)。
 先に「耽美群」という言葉を紹介しました。調査の度に毎回毎回、天丼として「耽美群は極めて少数なので除外した」と書かれることも述べました。
 ぼくの感覚ではBLは言うまでもなくオタク文化の一カテゴリーなのだから、「耽美群」は何かのバグとも言うべき例外だと思われるのですが、師匠の中では「オタク文化に足を踏み入れない、サブカルとしての腐女子が存在するのだ」とでもいった解釈が成り立っているのではないでしょうか。だからこそ「耽美」というネーミングを、(実際にはどんな人々か判然とせず、ホントに耽美かどうかわからないのに!)師匠は与えてしまっているのです。
 師匠は腐女子に過度に夢を見て、それ故に「俺の妹になれ」と腐女子を口説こうとしている人のように、ぼくには思われるのです。
 その意味で北田、山岡両師匠とも、根本的な部分では変わらないとも言えますし、告ハラなんて概念が持ち出されている昨今、二人ともタイーホされてしまうのではないかと思うと、心配で夜も眠れません。
 ちなみに「腐女子はオタクより以上のマイノリティ」というロジックのどこまでが正しいか、ぼくには疑問です。むしろ北田師匠を見てもわかるように*4オタク女子=腐女子といった見方が昨今では普通でしょうから、腐女子ではないオタク女子こそマイノリティという考え方も成り立つし、またオタク男子がBLを憎むという側面もあるだろうけど、それも当たり前と言えば当たり前、むしろそのわりに寛容だと見るべきだと、ぼくは考えますから。
 いずれにせよ、師匠のスタンスはある意味では「オタクを抑圧する自民党をやっつけろ!」と言っている人たちに近いと言えば近く、これをして師匠を「オタクの味方」とするか、「オタクを勧誘しようとしている、悪の組織のスカウトマン」とするかは解釈が分かれるところでしょう。
 では、そのどちらがより師匠の実態に近いのか……そこを次回はもう少し詳しく見ていくことにしましょう。


*4「リベラルたちの楽園と妄想の共同体――『社会にとって趣味とは何か』