兵頭新児の女災対策的読書

「女災」とは「女性災害」の略、女性がそのジェンダーを濫用することで男性が被る厄災を指します。

冬休み 男性学祭り!!(最終回.『広がるミサンドリー』)

2017-01-27 20:53:41 | 男性学



 長い間ご愛顧いただいた「男性学祭り!!」も今回が最終回となります。
 が! 実のところいまだ、『広がるミサンドリー』を読めておりません。先日、ようやっと三章までを読み終えたばかり。いつまで経っても終わりそうもないので、取り敢えず、この辺りで中間報告をしようと思った次第です。
 と言っても、正直現時点でのぼくの評価は、あまり高くありません。
 目次を見る限り以降の章も期待できないな……という印象なのですが、終章が「結論」となっており、ここで評価がひっくり返る可能性は大いにあります。
 今回はあくまでその前哨戦ということで、ご理解いただきたく存じます。

 ――本書を読んでいて思い出したのは、「男性差別告発本」(以降、「男性差別本」)です。
 具体的な書名を出すことは差し控えますが、ぼくが『女災』を出版する以前、「男性差別本」とでも称するべき書籍が五、六冊ほど出版されました。言うまでもなく学者や評論家などが出したものではありません。文章のプロではないと思しき方が、自費出版と思われる形で出したそうした書籍が、いくつかあったのです。
 ぼくとしては、その心意気を評価するにやぶさかではないのですが、内容は乱暴に言ってしまえば「○○は男性差別です、○○は男性差別です、○○も男性差別です、終わり」という感じで、あまり本として完成度が高い、批評性が獲得できているとは言い難いものがほとんどでした。指摘一つひとつは頷けるものが多いし、そもそも男性の窮状を表現しようとした時、既存のガクモンを援用すればフェミニズムの罠に絡め取られるし、何もない荒野に一から街を建設するが如き大事業が必要とされるのですから、そうそう辛辣に評しては悪いのですが。
 或いはここでドクさべを思い出してもいいかも知れません。「女性専用車両は男性差別です」という指摘自体は頷けるのですが、彼はそこで考えることを止めてしまい、そこに「一般女性への恫喝」というステキなトッピングを加わえ、全てを台無しにしてしまいました。

 本書もまた、上の「男性差別本」と、基本は変わりないように思います。
「日本語版への序文」では

イデオロギーフェミニズムは確かにこの問題(引用者註・男性問題)を悪化させはしたが、しかしこの問題の原因ではない。
(6p)


 とあります。ぼくはまずこれに賛同します。
「序論」とも言える第一章では、

ミソジニーのようにミサンドリーは文化的にプロパガンダされたヘイトだ。
(26p)


 とあります。
 以前にも「愛され格差」と表現したように、ぼくには男女のジェンダー差は超えがたいものであるように思えるのですが、とは言え、男性の株がここまで下がったのは近年のことであるのは事実で、一応、これにも首肯しておきましょう。
 もっとも上の文章の脚注で、著者は「ヘイト」は感情ではない、という摩訶不思議なことを言っています。これは恐らくフェミニズムが「ミソジニー」などといったフレーズを「攻撃呪文」として使う時になされる、「公共性のある表現は感情の発露であるに留まらず政治性を帯びる(ので、碧志摩メグは規制せよ)」というロジックの「パクリ」と思われ、だとするならば許容できません。が、この問題は七章で詳述するとの予告があるので、まずは置きましょう。
 以降も「男は男であるだけで断罪されなくてはならぬとされ、女は女というだけで救済されなくてはならないとされる(大意)(29p)」、「女はヒーローとして扱われ、男が肯定されるのは、改造され、去勢され、名誉女性になることによってのみのだ。男のための部屋は、この世にはない(大意)(30p)」などといった、非常に頷ける指摘が続きます。
 また、以下のような指摘もなされます。

ポピュラーカルチャーにおけるミサンドリックな芸術や作品は、政治的な主張を必ずしも意図しているわけではない。大部分のそれは、既に私たちの社会に根付いている偏見をただ単に反映しているだけにすぎない。
(30p)


 まさにその通りで、ここを忘れるとフェミニズムと同じ、「悪者がメディアを操り大衆を洗脳をしているのだ」という陰謀論に陥ることになります。彼女らが「カウンターとしてジェンダーフリー教育で子供たちを逆洗脳しよう」と企み、惨めな失敗を繰り返していることは、最近*1も述べたかと思います。
 以上、著者たちの視点は、是非は置くとして極めてラディカルで刺激的。
 ところが二章以降の言わば「本論」に入ると、申し訳ないですがいささか退屈なものになっていきます。そう、テレビのバラエティーショー、ドラマ、映画などを採り上げての「○○は男性差別です、○○は男性差別です、○○も男性差別です」攻撃が始まるのです。

*1 「冬休み 男性学祭り!!(その2.『男子問題の時代?』)


 第二章は「笑われる男性」。ここでは

第六六回アカデミー賞授与式でされた司会のウーピー・ゴールドバーグのお決まりのコメディには以下のジョークが含まれていた。「次に紹介するプレゼンテーターの一人はサルの心を持っていた男を映画で演じた女性です、私の経験ではそのような男は珍しくありません。」「ロレーナ・ボビット〔夫ジョンの男性器を切断した〕は、是非ボブ・ドールにもやってほしい。」
(54p)


 といった下品なジョークでいかに男性が笑われているかを紹介します(ボブ・ドールは共和党の政治家ですが、殊更にフェミに嫌われるような人なのか、調べてもよくわかりません)。
 第三章「男性への見下し」のリード文では

私は男性が嫌いというわけではない。単に女性の方が優れているというだけだ。[…]とても賢い私の友人が訪ねた(原文ママ)。「すごく優秀な男性だけしか女性に釣り合わないことに気付いていた?」その瞬間、頭の中で火花が走ったわ。
(85p)


 というアンナ・クィンドレン(『ニューヨークタイムズ』の記者)のインタビューを引用します。
 映画『シーセッド・ヒーセッド』には典型的な「男はダメだが女は進歩派」史観に基づいた男女が登場します。最終的にこの二人は結婚するが、男が結婚と共に性的自由を手放すのに比べ、女は何も手放しません。これはヒロインが一流の女性で、男の稼ぎに頼らなくていいため。著者はこの映画には男の求める性的自由は悪、女の求める経済的職業的自由は善である、との前提がある、と指摘します。
 確かに一つひとつは見ていてムカつくのですが、こんなのがずっと続くので読んでいていささか食傷気味になります。

 アペンディクス1「準ミサンドリック映画」では映画『ピアノ・レッスン』がやり玉に挙がります。
 しかし読む限り、他愛ない「悪い夫から逃げた女性が再婚して幸福になる物語」を、著者が大仰に糾弾しているようにしか見えません(むろん、大前提としてそれが「声なき女性の声を拾い上げた素晴らしい映画」と大仰に称揚されているからこそなのですが)。
「男が悪者になっている」映画は全部けしからぬ、ではフェミニストの「表現狩り」と同じですし、ましてや現実の世界でも、「男性が女性に暴力を振るう」ことがその逆よりも多いことは自明であり、そこに文句を言っても仕方がありません。かつて、漫画の少女キャラが少年キャラよりも背が低く描かれていることを差別であると言い立てたフェミニストがいるのですが、著者の口ぶりは何だかそれを思い出します。
 何より奇妙なのは、この映画のラストで、「悪い夫」にいじめられていたヒロインは「よき男性」と再婚し、幸福になるのです。レズになるのでもなく、一人で生きるでもなく。
 それにも関わらず、著者はここに噛みつき、「言い訳だ」とにじり寄ります! これは「フェミニズムの押しつけ」との追及をかわすために、言い訳として用意されたラストなのだそうです。
 そんなバカな。単に商業映画だからハッピーエンドにしただけでしょう(もっとも、この点も指摘されてはいます)。
 こうなると、「証拠がないことこそ悪者が証拠を隠した証拠」という陰謀論です。著者はもう、相手を追求するためにあるかどうかもわからない動機を勘繰る、フェミニストモードに入ってしまっているのです。
 本作は、ヒロインが二人の男性から求愛されるという、ただの、よくあるレディースコミックに過ぎません。もっとも最終的に彼女を娶るのが元使用人であり、最終的にマオリ族に溶け込んでいくというびっくりなオチは反レディコミ的ではあるのですが。よくわからないのはこの二人目の男性はヒロインの指を切り落としてしまうというとんでもないやつで、どう考えても正義のヒーローにやっつけられる以外のオチのつけようがないところを、何故かヒロインとハッピーエンドを迎えるのです。どうも西洋文明をドロップアウトすることで「贖罪」がなされるというのが本作の思想のようで、フェミと言うよりはまた何か別なPCのために作られた映画のように思われます。
 いずれにせよこの映画評については「差別ケシカラン」というPCの暴走にしか読めないし、本編にもまた、(概ね頷きながら読んだものの)その萌芽はあるように思われます。
 こうした「男性差別、男性差別」といった(ちょっと冷静さを欠く)連呼は「男性差別クラスタ」のリアクション、「男性差別本」のスタンスとも「完全に一致」しているのですが、もう一つ、ちょっと思い出したことがあります。
 随分昔、『君はペット』という少女漫画がドラマ化された時の、2ちゃんねる男女板の反応です。要するに女性がイケメン君をペットとして飼うという(漫画原作の)ドラマが放映されたことがあるのですね。
「けしからぬ、仮に男女を入れ替えた作品があったとしたら、それが許されると思うか」。
 確かにそれはごもっともです。
 ただ三点、指摘しておかねばならないのは、エロ漫画、エロゲで幼い女の子をペットにするような話は、いくらでもあるということ。しかし一応、男たちはそれを反社会的表現とわきまえ、「ポルノ」という枠に押し留め、「裏物」としてきたのです(オタクを殲滅するため、オタクの味方を自称してこれら裏物を表に出そうとする悪の組織が存在することについては、本稿ではひとまず置きます)。
 それに比べ、女たちは自らが加害者になることに全く内省がないので、こうしたものを地上波ゴールデン枠で流してしまう、そここそが問題なのではないか、というのが、まず一点。
 もう一点は、上の観点に対する反論。確かに男女のジェンダーを考えた際、女性が上のような(男性をペットとして飼う)ことはリアリティは低いので、男性向けのそれとは同一に語れない。事実、上の作品は(すんません、未見なのですが)恐らくポルノ的な表現はなされていないはずです。ある種のインモラルさを持つ作品でも、そうした女性向け作品の特質故、ある程度、「ゴールデンでも観れるモノになってしまう」、即ちここにも男女の非対称性が動かしがたく横たわっているのであり、何でもかんでも逆転させて「差別だ、さあどうだ」と言うだけではあまり効果がない。
 三点目として、しかし更に、女性には「被害者を装うことによる加害者性」というまた別な「加害者性」がある。そこをこそ自覚し、また批判されるべきであるということ。
 即ち、「男が悪者扱いされている、許せぬ」と言いたいのであれば、映画におけるその断罪があからさまに過度であるとか、女の加害者性(被害者に居直り、無責任なまま、罪が糾弾されない、或いはヒーロー役の男性が彼女の意を汲む形であからさまに過度な攻撃を悪役男性に向けるなど)をこそが糾弾されないとならないのではないか。
 ぼくが『ダンガンロンパ』*2や『ネットハイ』*3などを紹介してきたのは、これら作品がそうした批評性を持っていたからでした。想像ですが推理物という「犯人の心理を分析する」内容が「女災を考察する」ことに親和性があること、もう一つはゲーム業界は出版業界と違ってフェミによる「検閲」がなされていないことが、これら作品群が優れた批評性を獲得できた理由ではないでしょうか。
 しかし、残念なことですが、少なくとも本書の筆致を見るに、著者たちがその辺りについて考えを巡らしているとは、ぼくには思えませんでした。

*2 「これからは喪女がモテる? 『ダンガンロンパ』の先進性に学べ!
被害者性と加害者性の微妙な関係? 『スーパーダンガンロンパ2』の先進性に学べ!
今までの「オタク論」は過去のものと化す? 『ダンガンロンパ』の先進性に学べ!
これからの女子キャラクター造形はこうなる? 『ダンガンロンパ』の先進性に学べ!
弱者性と強者性は転倒する? 『絶対絶望少女』の先進性に学べ!
*3 「ネットハイ


 繰り返すように、ぼくは「男性差別」という言葉を好まない。それは、言ってみれば「男性差別」というワードそのものに「批評性の欠如」という欠陥が内包されているから、とでもいうことになるのです。
 見てきたように「男性差別本」やドクさべの敗因は「男性差別!」と叫んだ時点で、「何か、勝った」気になったところにあるとしか、言いようがないのですから。
 ならば、「ミサンドリー」という言葉はどうでしょう。
「ミソジニー」とは「女性差別」をただ単にカタカナにしてみただけの、粗雑な言葉です。そして「差別」よりもタチが悪い、「女性に対する嫌悪」という感情そのものを糾弾せよというおぞましさを含んだ言葉でもありました。
「ミサンドリー」もまた、それと同様であり、同じ轍を踏む可能性が大いにありましょう。本書のタイトルに「ミサンドリー」との言葉が使われ、副題に「男性差別」との言葉が使われているのは示唆的です。
 が、とはいえ、もう一つ、この言葉にはラディカルさが内包されているとも言えるのです。
 というのも、以前も指摘したように、「ミソジニー」が非実在、穏当に言っても局所的なのに対し、「ミサンドリー」は普遍だからです。
 もちろん、それならば同様に「女性差別」が非実在なのに対し、「男性差別」が普遍だからラディカルだぞ、とも言えるのですが、まあ、ぼくが「男性差別」という言葉を嫌うのは論者たちのその「普遍」に対する洞察の低さが原因とも言えましょう。
 それに比べ、「ミサンドリー」は話を感情の問題であるとしたという点では、明らかに一歩進んでいるのです。「男性差別」という言葉が男女の超えがたい「愛され格差」を勘定に入れていない言葉とするならば、「ミサンドリー」はそこに真っ向から切り込んだ言葉、と言えるわけですから。
(いえ、この非対称性を、「ミサンドリー」論者がどこまで理解しているかとなると、甚だしく疑問ですが……)
 本書について退屈だ退屈だと書きましたが、学術的な本である以上、ある意味「地味で退屈な調査結果の報告」という側面は避けられない。そういうことも大事ですから。
 それにまた、先にも述べた通り、「結論」では新たな視点による論理展開がなされている可能性は充分にある。
 ここしばらくあちこちで書いてきた文章と本稿で、ぼくの「ミサンドリー」という言葉に対するスタンスは大体、述べられたかと思います。
 後は、本書がそれを超える視点を提示してくれることを祈りつつ、四章以降に取り組んでいくことにしましょう。

冬休み 男性学祭り!!(その2.『男子問題の時代?』)

2017-01-21 14:16:10 | 男性学


 原田実師匠がピル師匠の、「碧志摩メグが規制されたきっかけは保守派の武田邦彦教授だ!」とのデマを真に受け、RTしているのを見て、「あぁ、リベしぐさは恐ろしいなあ」と実感する今日この頃、皆様におかれましてはいかがお過ごしでしょうか*0。
 今回は多賀太師匠の著作を採り挙げさせていただきます。見るとぼくの名前と著作もホンのちょっとだけやり玉に挙がっている本書、いかなる内容のものでしょうか……?

ゲンロンデンパ3 THE END OF フェミヶ丘学園 未来編

 ――ぼくは怒シンジ(声:緒方恵美)。元・超高校級の不運。
 フェミヶ丘学園の学園長・フェミクマ(声:TARAKO)に拉致され、ミサンドリアイ学園生活を強要された、生き残りの一人だ。
 ぼくたち超高校級の生徒たちをフェミ裁判で殺し続けた黒幕の正体は超高校級のフェミ・羅路府恵美子(らじふえみこ・声:豊口めぐみ)であった。
 羅路府を倒したぼくたちは、フェミヶ丘学園の卒業生で構成される「男性機関」に所属、フェミに崩壊させられた世界の再建に従事していた。そう、我らが男性機関は「絶望」そのものであるフェミに対抗する、「希望」の象徴だ。
 だが……再びフェミクマは姿を現した。ぼくたちは腕にバングルを填められ、またしてもデスゲームに参加させられる羽目に陥った。
 バングルには「NG行動」が設定され、それに反する行動を取った者は殺される。また、ぼくたちの中には「裏切り者」が紛れているため、仮に「NG行動」に反しなくとも、寝ている間に一人ひとり殺されていく。
「裏切り者」を見つけ出さない限り、ぼくたちは死を迎えることになってしまうのだ――。

???「裏切り者の正体は自明だ!」
 そう言うのは男性機関副会長、そして元・超高校級の男性学者だった乙許斐方郎(おとこのみかたろう・声:森川智之)。
乙許斐「男性機関はラディカルフェミニズムの魔の手から人々を守る、人類の希望。しかしそんな中、ジェンダーフリーによる男性解放に反対している者がいる。そいつが裏切り者なのは、考えるまでもないことだ!」
 乙許斐がぼくを睨みつける。彼は反ジェンダーフリー派であるぼくを処刑せよとの、強硬派のトップなのだ。
シンジ「……………」
乙許斐「ジェンダーフリーに反対するということは男性差別を許容するということ。即ち、ラディカルフェミニズムの手先だ!!」
シンジ「それは違うよ!!
乙許斐「どこが違うんだ?」
シンジ「乙許斐さんの意見には、大きく言って二つの間違いがあります。ラディカルフェミニズムという言葉に対する認識と、そしてジェンダーフリーが男性差別を解消する思想だと信じている点」
乙許斐「何だと!?」
シンジ「ラディカルフェミニズムという言葉の誤認については、多くを繰り返す余裕がないけど*1、大ざっぱに言えば、ジェンダーフリーを推進しようとする思想、と言っていいんです。つまりぼくが反ジェンダーフリー派である限り、ラディカルフェミニストであるはずはないし、ジェンダーフリー派はむしろ、ラディフェミとこそ親和性があると言わざるを得ないんですよ!」
乙許斐「見ろ! ジェンダーフリーを否定する怒シンジ、やはりラディフェミの手先だ!」
シンジ「ひ……人の話は聞かないのか、この人……」
 ぼくはふと、手持ちの本を掲げて見せた。
シンジ「じゃあ、この本をテキストに説明しましょう。多賀太教授の著した『男子問題の時代?』です」
???「それは!?」
 横から弾んだ声を上げたのは、元・超高校級のジェンダーフリー論者・寺園田振子(じえんだふりこ・声:中原麻衣)。
振子「多賀太教授と言えば、教育社会学者よ! 間違ったことを言うわけがないわね!」
シンジ「それはどうだろう……例えば多賀は、欧米では学齢期の男児の『男性問題』こそが採り挙げられている、事実女子より男子の方が成績が悪い、と指摘する一方、日本では専ら青年期男子の『男性問題』ばかりが取り沙汰されると不思議がっているんだ」
振子「それのどこに問題があるわけ?」
シンジ「問題というか……要するに第1章におけるこの箇所は、近年の『男性学』を自称する書にお約束の、現代が女尊男卑であるとの世論への反論なんだけど、ここで多賀がしているのは、『それ故、日本の男性優位は揺らいでいないのだ(大意)』という奇妙奇天烈な主張なんだ(20p)」
振子「はぁ?」
シンジ「つまり海外と違い、青年期男子について騒ぐだけで、学童期の男子の問題が浮上していないのは日本が男性優位だから、という実に奇妙な主張。だったら海外は女性優位なのか、と聞きたくなるよね」
振子「そ……それは……」
シンジ「日本で専ら青年期の男子の『男性問題』ばかりが取り沙汰される理由、それは明白だ。要するに『男性問題』など、アカデミズム、ジャーナリズムはまともに相手にしていない。数少ない『男性問題』についての書は、彼らフェミニズムの使徒たちが『フェミニズムに逆らうな』『男性性を捨てよ』と若年男性に迫るだけのものだからだよ。
 それとは異なる実際の弱者男性の声は、表には出ず、ネットで見られるのみだ。多賀が兵頭新児の著作を否定的に採り挙げているけれど(15p)、逆に言えば彼の著作が、弱者男性の声が出版物として世に出た、数少ない例外だからだよ」
振子「そ……それは多賀教授があくまでネットのミソジナスな意見をよしとしないだけよ。それだけで彼を男性の敵だと断言できるの!?」
シンジ「男性の窮状を男性の自己責任である、とする論調を男性の敵であるとするならば、多賀は明らかに男性の敵だよ。
 23p以降では、男性の経済状況が悪化しているのは女のせいではない、男性側の支配の構造に変化があったのだ(大意)としているけれど、そこに『女は男を養わない』傾向への視点はない。この種の男性学者にありがちな(男性の味方という看板を背負ったが故の困難からの)社会のシステムに全てをおっ被せるやり方だよ。
 田中俊之氏の本にもあったけれど*2、第2章の「男はつらい?」の節ではNHKの番組での幸福度調査で男性の方が幸福を感じていないという調査を持ち出し、それに対して『経済的に優位にあるのは男で云々』と延々言い訳が続く。社会的に権力を握っているのだから不幸でもガマンしろ、と言いたいとしか思えないよ。
 第2章以降も多賀は男がつらいのは優位でいようとするのが悪いのだとのロジックを垂れ流し続ける。47pでは男性の自殺者、過労死者の圧倒的な比率を上げながら、これは男性支配社会から女性支配社会に移行したからではないとし、更にはこれを男の方が女より所得が多いことと表裏一体だと言い募る」
乙許斐「いや……ちょっと待て! 52pでは男性の方が女性よりも収入が多くとも、上昇の横ばい具合(上の世代と比較すれば、相対的に女性の方が稼いでいる)と扶養責任を求められる風潮から、不満を持つことは理があるとしているぞ!」
シンジ「でも、その後がよくないですよ。多賀は

 確かに、男性たちが経験するこうした剥奪感自体が、男性の特権意識と表裏一体のものであり、ある種の女性蔑視に基づくものであるともいえよう。
(同ページ)


 とまで言っている。まるで上野千鶴子のした主張のように、彼は男の生命には何の価値もないと言っているようにしか、ぼくには読めない。しかもその男の所得は、妻が管理しているというのに!」
振子「ま……待って。そうは言うけど、多賀教授は同ページでこうも言っているわ。

 しかし、個々の男性たちは、社会的真空のなかでそうした特権意識を勝手に作り上げているわけではない。右に述べたように、彼らの意識は、そうした「特権」の獲得を目指す競争から「降りさせない」ための男同士の相互監視にさらされるなかで形成されている。


 また、そうした空気の醸成に女性も一役買ってる、とも指摘しているの。
 更に76pで女性が上昇婚を望む傾向を、指摘してもいるじゃない」

 女性の場合、結婚した人の割合とその人の雇用上の地位との間に関連は見られなかったが、男性の場合、非正規雇用者で結婚した人の割合(12.1%)は正規雇用者で結婚した人の割合(24.0%)の約半分であり、年収が低いと結婚した割合も低い傾向が見られた。


シンジ「そう、ところどころに、客観的事実に基づいた、論理的な、頷ける指摘が挟み込まれるのが、こうした男性学者たちの著作の特徴だよ。そう考えると、彼ら自身はホンキで男性の味方たろうとしているのかも知れない
 しかし残念なことに、彼らは一方で、フェミニズムの盲信者としてのドグマをどうしても捨てようとしない。だからこそ彼らの主張は、支離滅裂の矛盾に満ちたものとならざるを得ないんだ。
 76pの指摘以降、多賀は『男性社会』がこうした『男性的な価値』に身を染めて成功した『名誉男性』的なキャリアウーマンを味方に引き入れることで男性的な社会を維持しているのだ、と続ける。
 つまりキャリアウーマンは男性的価値観という悪しきものに染められた被害者であり、行く行くは社会を女性的なモノへ変えようという、エコフェミ的な価値観を、彼は持っているんじゃないかと、想像できるんだ*3。男性学者というのは男らしさに非現実的な憎悪を抱く傾向が、大変に強いからね」
 第3章では労働問題について、以下のように述べている。

もっとも、前章でも確認し、本章でも後に示すように、女性は従来から、労働市場において男性よりも圧倒的に不利な立場に置かれており、現在でもその傾向に変わりはない。したがって、こうした女性の状況に目配りせず、男性の雇用状況の悪化だけをことさら取り立てて問題にすることには慎重でなければならない。
(62p)


 ぼくには何十年も前から、女性の雇用悪化だけがことさら取り立てて問題にされ続け、対策が取られている気がするけれど。
 もっとも、評価できることもある。3章の最後には、いまだ男に男らしさが求められている現状で男の子に『男らしさ』より『自分らしさ』だ、と説くことは彼を不利に追い込むことになりかねない、と秀逸な指摘がある(82-83p)」
乙許斐「な……何! 多賀はジェンダーフリーを否定しているのか!?」
シンジ「ここは重要な指摘です。ジェンダーフリーという机上の理念が、教育の現場でどこまで通用するかについて、多賀は疑問を呈しているんですから。ここを捉え損ねると、仕事のない弱者男性にただ、『働かなくてもいいじゃないか』と言い捨てるだけの、田中俊之レベル*4にまで落ちてしまいますよ」
乙許斐「許せぬ! 多賀は男の敵だ!!」
シンジ「心配する必要はありませんね。この問題は掘り下げられることなく、やはり『自分らしさが大切』みたいなことを言って、ささっと逃げるように章が終わっているんですから。自分にとって都合の悪いことは、目立たぬようちょろちょろっと書いて、ささっと逃げる、というのはフェミニズムの教科書のお約束です」
振子「じゃ……じゃあ、多賀教授は男の味方じゃないって、あなたは言うの?」
シンジ「そのことは第4章を見ればわかると思う。ここでは教育現場におけるジェンダー教育の方針について、“ジェンダー保守主義”と“ジェンダー平等主義”、“ジェンダー自由主義”の三つに分類がなされているんだ。
 ぼくが言うまでもなく想像がつくと思うけれども、まずこのジェンダー規範を尊重しようとする“ジェンダー保守主義”については、憲法に認められた男女平等に反すると一刀両断されているんだ(90p)」
乙許斐「当然だろう、ジェンダー保守派はジェンダーフリーを否定するんだからな」
シンジ「ジェンダーフリーが男女平等につながるというロジックには賛成できないし、多賀がマネーなどに言及することもなく、ジェンダーは社会的に作られたのだとの前提で論を進めていることも問題だと思うけれど、それはひとまず置きましょう。
 ここでは更に“異質平等論”という概念が提出されることになる。それはつまり、ジェンダー保守派の『男女の性差、性役割を認めた上での平等』、異質だが平等性が保たれているのだ、との論のこと。しかしそれはすぐに、『組織的意思決定権や経済力を得られるのは職業労働を通してなのだから、そちらに立つ男性の方が権力を持っているのだ(大意)』との反論で切って捨てられる(93p)。あくまで男女は全く同じでなければならない、女性は労働市場に身を投じなければならないとの、ドグマを主張し続けるんだ。
 職場ですらよほど偉くなければ我を通せない一介の労働者よりも、『一家の主』である主婦の方が『組織的意思決定権』も『経済力』も持っていると思うけれどもね」
振子「ちょっと待って。多賀教授は“ジェンダー保守主義”以外に、“ジェンダー平等主義”、“ジェンダー自由主義”という概念を持ち出しているって言ってたけど……それはどういうものなの?」
シンジ「ここからの多賀の議論は、実に奇妙なものになっていくんだ。まず、“ジェンダー平等主義”と“ジェンダー保守主義”の間には『男は仕事、女は家庭』といった性別役割分業の是非について、ある種の親和性が発生する、と説く。何故なら、上にある“異質平等論”、即ち双方異なりながらも対等である、との論法が可能であるからだ、ってね。しかしそこに、“ジェンダー自由主義”を導入すれば、保守主義の主張はあっさりと退けられてしまう」

なぜなら、「男は仕事、女は家庭」という規範は、それが対等な分業であろうが不平等な分業であろうが、性別によって個人の選択を規制しているという点ですでに問題だからである。
(101p)


乙許斐「なるほど、“ジェンダー自由主義”こそが正義というわけだな」
シンジ「残念ながら、話はもう少し複雑なんだ。多賀は“ジェンダー自由主義”は“自由”であるが故に伝統的ジェンダーロールを選択する自由をも認めねばならない、そこにジレンマがある、とするんだ」
乙許斐「……???」
振子「それは当たり前よね。例えばだけれど、女の子に自由にランドセルの色を選ばせたら、みな赤い色を選んだ……なんてことになったら、ジェンダーフリーに反して、大問題だもの!」
乙許斐「あ……そ、そうそう、そうだ! 確かにそんなのは憂慮すべき事態だ!!」
シンジ「ふたりとも全く、多賀そっくりですね……。

 しかし、自由を別の方向に求めたとたんに、ジェンダー自由主義の視点は、意外にもジェンダー保守主義を支える立場へと姿を変えることになる。
(105p)


 多賀はこんな悔しげな声を漏らし(本当に女性ジェンダーが女性に強制された不当なものであれば、そんなことになるはずがないと思うのだけれども)、そしてやむなしと言わんばかりに、ここでワイルドーカードを切ることになる」
乙許斐「ワイルドカード、だと……?」
シンジ「そう、“見えないカリキュラム”によって、今まで子供のジェンダー観は操作されていたのだ、と言い出すんです」
乙許斐「その“見えないカリキュラム”というのは?」
シンジ「国語科で採り上げられる作者や歴史で採り上げられる人物に圧倒的に男性が多いとかいう、言ったってしょうがない問題についてです。他はおなじみの女子だけが家庭科を習うことがどうの、名簿の男女別がどうのという話。もっともそれらも現在は相当に“改善”されているはずですけどね。
 ぼくには“ジェンダー平等主義”だの“ジェンダー自由主義”だのは言葉の遊びにしか見えないけど、問題なのはそうした言葉の遊びがただひたすら、“ジェンダー保守主義”とやらを切り捨てるためになされていること。ためにする議論としか、言いようがないことだよ。
 こうした彼らの“見えないカリキュラム”という見えないものに対する敵愾心が、ジェンダーフリー教育という莫大な血税を必要とする“見えるカリキュラム”を生んだんだ。そんな空理空論を続けた挙げ句、第5章ではついに学校でのジェンダーフリー授業の様子が描かれる。しかしここで、(先にも多少、言及のあった)机上論と現場との齟齬がいよいよ明らかになっていくんだ。
 具体的にはまさにさっき、振子さんが言ったことと同じだよ。ここでは『ぼくたちがこんなにジェンフリ教育をガンバってるのに、生徒たちは相変わらず男は黒、女は赤を選ぶ』と苦渋に満ちた記述が続く。
 読んでいて、あまりに馬鹿らしくも気の毒で、苦笑を漏らしてしまう箇所だ。もっとも、こんな偏向した教師の珍奇な試みにつきあわされる子供のことを考えた時、笑っていていいのかは疑問だけれどもね」
乙許斐「それのどこが悪い! 男性差別解消のためにはやむないコストだ!」
シンジ「以下のような記述を見ても、そう思うんですか?

 児童を社会化される存在としてとらえる立場に立てば、多くの児童は、小学生の時点ですでにある程度の「伝統的ジェンダー規範」を身につけており、それに沿った好みを形成していると考えられる。たとえば、先の三年生のあるクラスでは、黒いランドセルを使っている男子が、黒を買った理由として「赤より黒が好き」と答えていた。したがって、たとえ学校環境が完全にジェンダーに中立的であったとしても、児童たちが「伝統的ジェンダー規範」に沿って形成されている好みに従って「自分らしい」選択を行えば、それは結果的に「性別にとらわれた」選択と変わりがなくなってしまう。
 もちろん、L小学校では、こうした結果を「個性尊重」として放置しているわけではない。そうした「自分らしい」選択の背後にひそむ「性別へのとらわれ」に気づかせ、より「自分らしい」選択ができるよう児童に働きかけている。
(125p)


 こんな狂ったジェンダーフリーを、乙許斐さんは肯定するんですか?
 きっと彼らは男の子が赤いランドセルを選ぶまで、山小屋で『自己批判しろ!』と絶叫を続けた人々同様、糾弾会を続けるんでしょうね」
乙許斐「……………」
シンジ「一応、補足しておけば、読み進めると、男の子が黒いランドセルを選んだ選択を『本当の好みなのかジェンダー規範に則ったものか証明のしようがない』と一応、悩む素振りは見せている。さすがに、赤いランドセルを選べと無理強いまではできないしね。もっとも、フェミニズムによれば『セックスよりもジェンダーが先行する』はずなのに、その『ジェンダーに先行する、真の好み』というものがあるのだ、という多賀の前提が、ぼくには全く理解できないのだけれど」
振子「そ……それのどこが悪いって言うの!? ジェンダーフリー社会を現出させるためには、耐えねばならない痛みよ!!」
シンジ「男の子が黒いランドセルを選ぶことすらも延々と問題視する社会が、そんなにも理想的なものなの? そんな世界では男の子がヒーローに憧れることも、オタクが萌えアニメにはまることも、全てジェンダー規範に則った悪しき行動として、糾弾されることになるだろうね。それが、男性解放なの?
乙許斐「……………」
シンジ「もう一つ、補足しておこう。第6章では男女共学について延々と語られる。その中の「弱者支援としての別学」という節では、男性性に欠ける、いわゆる落ち零れの生徒たちへの指導が紹介されているんだ。彼らは一般的には女性的とされる職のスキルを学んでいる存在なのだけれども、そんな彼らに対し、『男なんだからしっかりしろ』といった男性性をくすぐる、男としてのプライドを尊重する指導が行われることもあるという」
乙許斐「許せん! 男性に対し、『男らしくしろ!』と言うなど、許し難い男性差別だ!!」
シンジ「多賀はこれについて、『現場でのやむない処置だ』と留保つきで肯定しているんだ。何だか、売買春を全否定していた者が障害者のためのソープという存在を知り、とたんにそこだけ賞賛してみせるような気持ち悪さ、卑しさを感じるけれども、同時にここは、多賀が一応の現実的なバランス感覚を持っていることの現れであるとも思う。
 教育現場では、彼らの妄念と現実とが、日夜火花を散らしているのだろうと思うと、ゾッとする話だけれどもね……」
乙許斐「……つまり、どういうことだ!?」
シンジ「ジェンダーフリーという机上の論理を現場で押しつけようとして、彼らは自縄自縛に陥っている、っていうことです。多賀が『多くの児童は、小学生の時点ですでにある程度の「伝統的ジェンダー規範」を身につけており』と言い立てているのが象徴的で、普通に考えれば未就学児童の段階から男の子は仮面ライダーなどのヒーローを、女の子はプリキュアなどのヒロインに憧れるのは自明であって*5、彼らのヴァーチャルなロジックをそこに押しつけるのは、洗脳以外の何物でもないんですよ!」
乙許斐「バカな……そんなバカなことがあるものか!!」
振子「まぁまぁ、まずは方郎が落ち着いてよ」
 ――振子が、何十本ものペットボトルを持って来て、一同に勧めた。
乙許斐「すまない」
 乙許斐は何気なくその中の一本を手に取り――。
乙許斐「―――――ッッ!?」
 ――乙許斐、死亡。
シンジ「こ……これは……!?」
振子「あらら~? 赤い午後の紅茶もあったのに、緑のお~いお茶なんか選んじゃったのね……」
シンジ「そんなカップ麺みたいな言い方しなくても……そうか、乙許斐さんのNG行動は『ジェンダー規範に則った色を選ぶ』だったんだ!!」
???「ひゃ~~~っはっはっはっはっはっはっはっは!!」
シンジ「フェミクマ!?」
フェミクマ「おわかりになったようですなあ、怒君? 今まで出落ちキャラとして死んでいったキャラたちもみな、ジェンダー規範に乗っ取った行動を取ってしまったがため、NGに抵触してしまったのです」
シンジ「何て卑劣な!!」
フェミクマ「ひゃっほう!!」

 フェミクマは一人、はしゃいでいる。
 フェミニズムと言う名の単なる洗脳により全世界を壊滅させ、まだなお飽きたらずに男性機関すらをも崩壊させんとして。
 ぼくたちは……「希望編」での力技な逆転劇に希望を託すしかなかった……。


*0 これはニコブロに発表した当時のトピックスなのですが……(https://twitter.com/gishigaku/status/798860757089718276)。
原田師匠は「ガンダム事変」でも加野瀬の肩を持った筋金入りの「トンデモさん」です。ピル様を崇拝するカルトたちはここまでデタラメを平然と行い続け、そんな連中が平然と出版業界で影響力を持ち続けてるんですから、怖いですね。
*1 詳しくは「重ねて、ラディカル/リベラルフェミニスト問題について」を参照。
*2 「男がつらいよ
*3 ニコブロの方でえりちかさんという方が本書を紹介して、

 管理職を目指す上昇志向の女性を「名誉男性」呼ばわりしているくだりを読んだときは一驚しました。


とおっしゃっていたのですが、それはこの部分を指すようです。
*4 「男が働かない、いいじゃないか!
*5 この種の話題に差しかかると、オタクでリベラル寄りの御仁が、嬉しげに「戦隊シリーズの影響で近年は」みたいなこと言い出すのですが、(何故そんなことを言いたいのか、さっぱりわからないんですが)、あまり意味がありません。
 単に学校では赤との対象で黒、ないし青が男の色と認識され、戦隊では赤やその他が男の色と認識されているというだけのことです。
 その意味で男の子たちが黒を選ぶ時も、赤を選ぶ時も、そこに付随する「男性性」という属性をもって選んでいるのだとすら言えましょう(これは女の子も同様です)。
 だから仮に学校のランドセルなどに赤、ピンクの二色しかなかったとしたら、男女で赤/ピンクときれいに別れることでしょう。


冬休み 男性学祭り!!(その1.『非モテの品格』)

2017-01-13 22:44:02 | 男性学


 前回記事で、去年は「男性学ブーム」の年であると指摘しました。
 そんなわけでこれから数回に渡り、「男性学祭り」を開催したいと思います。
 最初にお届けするのは杉田俊介師匠の著作。
 少し前、『シン・ゴジラ』を作っちゃいけなかった映画であると称し、Togetterでフルボッコにされた御仁です。要するに「政治家が格好よく描かれているからケチカラン」「巨災対が男ばかりでホモソーシャルだからケチカラン」みたいな(詳しくは忘れたけれど、多分そんな)ことを言っていた御仁ですね*1
 何しろ本書はタイトルが「非モテの品格」なのだからお察しです。
「品格を持ち、非モテでも女性様に逆らわずに生きていこう、さもなくば死ね」とのポリコレしぐさが炸裂するのだろうな……そう思いながらページをめくると。
 本文の最初のページで、読者は驚くべき記述にぶち当たるのです。
 冒頭でまず、真っ先に、自殺してしまった知人についての述懐がなされます。その知人は妻に浮気された挙げ句、離婚し、発達障害児を抱え、しかもその妻にはカネを無心され続けて、しかしついぞ妻を責めなかったと言います。


 その人が自ら命を絶ったときの、僕の周りの人々の反応――「男のプライドを捨てられたらよかったのに」「あの子だって、お父さんが生きていてくれることを臨んでいただろうにね」。
 僕は、あのときの、はらわたをえぐられるような違和感を、今でも忘れられない。
 そうじゃあないだろう。なんで、自ら命を絶ったときにまで、「男であること」を責められなきゃいけないんだ。
(中略)
 悔しかった。
 やりきれなかった。
(8-9p)


 上の文章での師匠の憤りを、ぼくは全面的に支持します。
 分けても、「男のプライドを捨てられたらよかったのに」という声が「男性性を責める言葉であり、残忍なものだ」とする認識は重要です。それって例えばですが、着物姿でノーパンの女性が火災から逃れようとする時、裾が捲れ上がるのを恥じらって転落死してしまった*2のを「女のプライドを捨てればよかったのに」と言っているようなものですよね。もちろん、一般論としてプライドを捨ててでも生きる道を選ぶことが望ましいとは、両ケース共に思いはするものの。
 男を女より上位にいるものであると思考停止し、そのネガティビティについては「既得権益を捨てないから反面給付としてついて回っているだけだ、ざまあみろ」と切り捨てるのがこれまでの「男性学」でした。しかし杉田師匠は「プライドで自己を守らざるを得ない」ほどに追い詰められている男性ジェンダーの行き詰まりに疑問の萌芽を感じた、女災理論へと一歩近づくことのできた人物なのです。
 何しろ師匠は

 悔しかった。
 やりきれなかった。


 とわざわざ改行を繰り返しています。
 これは枚数を稼いで原稿料を多く取ろうという計算などでは断じてなく、彼の中の憤りを表現したいがためのものであるのです。
 読み進めると、本書には自身の子供が男の子でなければいい、男の子に産むなんて申し訳ない、とまで語る箇所があります。

 男なんてかわいそうだ、自分みたいに鬱屈し、悶々とする人生を送るなんて、気の毒だ。くだらない能力や権威の競いあいや、男としての自尊心に苦しめられるに違いない。どうしてもそうとしか思えなかった。
(p45)


 このページの次には近しい述懐がなされる福満しげゆき氏の漫画が引用され、いかに男性のミサンドリーが激しいかを強調します。
 福満氏のイラストはカバーにも登場しますが、これは田中俊之師匠の手法を真似た、漫画家の人気にあやかろうという計算などでは断じてなく、彼の中の悲しみを表現したいがためのものであるのです。
 いずれにせよ自身のミサンドリーを自覚し、内省する「男性学」者を、ぼくは初めて見ました。
「ルサンチマンは疚しい良心である」とのニーチェの説を引用し、男女平等を唱える男性にこそ女性にモテないルサンチマンが潜んでいる(マッチョな男性という悪者をやっつけたいという情念に取り憑かれている)と指摘するのも秀逸です(112p)。今までもしつこくご紹介してきた「男性学」者の、例えば田中俊之師匠の著作から滲み出てくるのは、自分以外の男性への昏くおぞましい憎悪ばかりでしたから。

*1「 『シン・ゴジラ』は一番作っちゃいけない作品だったのでは
*2 白木屋の大火災。今では都市伝説とされることが多いのですが、ネットでぱらぱら見た限り、「転落死した女性はいない」「転落死した女性はいたが恥じらい故かは疑問」と根本的なところですら説が分かれており、本当のところがどうだったのかよくわかりません。



 ――ただし。
 最初の引用に(中略)とありますが、実はそこには以下のような文章が挿入されています。

その人たちの見かけは優しい同情は、たとえば、男に逃げられ経済状況から中絶を選んだ女の子に対して、「何も子どもを殺すことはなかったよね」と外野から同情するような振る舞いと、何が違うのだろうか。
(9p)


 う~ん、それって最初の男性の件と比較する例としては、どうなんでしょう。
 まず、現行では中絶そのものが法的に認められ、現実にバンバン行われているのですから、ぼくは上の女の子を責める気にはなれません。
 しかし、それと先の男性の例とでは全然違うでしょう。
 子供が障害を負っていることはまあ、男女差とは関わらない部分なので見逃してあげましょう。
 ですが、妻が男と逃げ、しかもそのクセに金を無心に来るという状況を男女逆転してみたら、当然、男の方が何倍も苛烈なバッシングを受けるはずで、それを考えてみれば、男の窮状は伺い知れるはずです。
 しかし何と言っても、一番違うのは師匠がまさに指摘しているように、「男のプライドを捨てられたらよかったのに」という声の残忍さ、「男であること」を責められることの理不尽さでしょう。女性はそんな風には言われないのですから。繰り返しますが、現状の男性の立場は、女性が恥じらいで焼け死んだのをバカにされるのと、同じような状況にあると言えるわけです。
 い……いえ、そうは言っても師匠は男性性のネガティビティに目を向けようという、希有な視点をお持ちの方です。気を取り直して続きを読むことにしましょう。

 男たちには、たくさんの社会的な既得権がある、無数の上げ底がある。ごちゃごちゃ言い訳するのではなく、そのことを、しっかりと自覚して欲しい。加害者である自分たちの精神と生活習慣を変えてほしい。優しく葛藤するふりや自己反省のポーズなんて、もういらない。
(18p)


 れれっ!?
「優しく葛藤するふり」というのは師匠の振る舞いを指すべき言葉ではないでしょうか。あ、「自己反省のポーズ」を見せている素振りはありませんでしたが……。
 しかしいずれにせよ、こうした言葉を浴びせる必要性があるのは、師匠を含むリベラル男性だけのような気が、ぼくにはします。
 それ以降も師匠は男性の自殺者が女性の二倍であるなどのデータを提示した直後、「日本人男性たちの様々な優位は依然として揺らいでいない。」などと言い出すのですから(32p)、お察しです。
 フェミニズムとは、「男性の生命は女性のそれよりも価値が低い」との前提を導入することで成立している思想ですが、どうやら師匠もまた、その思想の影響を極めて強く受けている人のようです。
 本書には「男性には圧倒的に自身を語る言葉がない」との極めて秀逸な指摘があるのですが、本書自身がそれを身をもって証明し、また「言葉を語ろうとした男性」を殴りにかかるスタイルを取るという、実に奇妙なことになっているのです。
 ぼくは今までも他の「男性学」者の著作を紹介し、「評価できる主張もしているのに、その主張とフェミニズムとが絶望的な齟齬を来していることに、彼らが気づかない理由がさっぱりわからない」といった評をしてきたかと思いますが、そうした「男性学」者の中でも、杉田師匠はその分裂が一番著しい方ではないでしょうか。
 上にあるようにミサンドリーに疑問を突きつけながら、別のページではフェミニストたちの口調そのままに男性を絶対悪と規定し、男性を憎悪し、男性に男性性を捨てよと迫っているのですから、何が何やらさっぱりわかりません。
 何だか、キカイダー*3が五分ごとにギルの笛の音が聞こえたり聞こえなくなったりで、正義になったり悪になったりを繰り返すコントでも見ている気分にさせられます
 以降も赤木智弘氏の「弱者男性は弱者女性より弱い(大意)」という指摘を「ミソジニー」の一言で切って捨て、よりにもよって「男の方が正社員が多い、男が優位だ(大意)」などと続ける無能無策ぶり(73p-)。赤木氏の主張は「専業主夫になれる男の数は限られている」というものなのだから、噛みあってないどころの話ではありません。
 こうした「あるものが見えず、ないものが見える」のはフェミニスト(やリベラル)共通の特徴です。前回もそれを戯画化して描いてみましたし、実例を何度もお伝えしているかと思いますし、実際にそうした場に立ち会い、唖然となさった方も多いのではないでしょうか。
 それ以降もDVは男らしさにこだわるが故の病とか、もう耳にタコができたどうでもいい話のオンパレード。
 ところがページをめくると何だかナルシーな述懐と共に、「自分がモテなくて辛いと零すとたちまち『女性に身勝手な要求をしているからだ』『男性権力だ』『ミソジニーだ』などと叩かれてしまう(大意)」などと平然と言い出すのだから、びっくりです(114p)。
「あるものが見えず、ないものが見える」ために、ブーメランに気づくことが、一生ない。
 他者に対しては男性の優位性について説き、反省しろと高圧的に繰り返しながら、師匠は返す刀の峰で、自分の辛い辛い半生についておセンチな述懐を重ねます。この種の「男性学」者は「カムアウトはよいこと」という信念をお持ちで(今まで男性は感情を顕わにしてこなかった、というリクツが前提されており)、自らのルサンチマンを自己憐憫に満ちた筆致でお書きになるのが常です。田中師匠の著作にも、そういう箇所がありましたよね*4
 師匠も男性に必要なのは自分の殻に閉じこもる「内省」ではなく「開かれた問い直し」だとして(p123)、まあ、何か、自分のルサンチマンとかコンプレックスとかを実に饒舌に語り続けます。
 しかしその結果、出てくる結論は「男らしくない男である自分を受け容れよ(大意)」といった、観念的でふわっとした精神論(134p)。
 そう言われたところで、受け容れたら仕事に就けるわけでも、彼女ができるわけでもないのは自明のことです。黒屋ぶるー氏が

弱者は男性性から降りれば救われる、みたいな事は言ってたが、その「救い」ってのが「家庭を作らず女を欲しがらず独りで生きていけ」という、出家して俗世から離れるのと大差ないものでしかなく、最早宗教の管轄であって社会運動、政治運動の存在価値を自ら否定するものだったんだからもうね…



 と言っていましたが*5、本件もそれが完全に当てはまります。
 杉田師匠はご高説賜っているワリに嫁も子供もいらっしゃるのですが、本書もやはり、フレンチとウナギを食いながらの低成長礼賛にしか、ぼくには見えません。
 また、ここでは引きこもりが負け組であるが故にかえってプライドから一発逆転を狙ってしまう転倒について書かれており、それはまさにその通りなのですが、そんなの、高齢未婚女性もいっしょのはずで、要するにプライドなんて男も女も持っているものであり、「マチズモに囚われた愚かな男」だけが一方的に存在しているわけでは全くない、そこが師匠にはおわかりにならないのです。
 左派の地に足のつかない空論は、時に「人権ポエム」といった揶揄をされますが、本書の妙に情緒的な記述もまたそれに近く、第二章の補論辺りになると、とうとうホンモノのポエムと化してしまいます。

 誰からも構われないからこそ、誰からも愛されずに孤独だからこそ、誇り高く生きていく。気高く生きていく。
 誰も傷つけずに。優しく。
 不要な自己卑下もせずに。
 自分の体も大切にして。
 どうか、君自身を嫌悪したり、自信を失ったり、自らを傷つけたり、殺したりすることがないように。
 いつか、ゆっくりと、この世界は変わっていくはずだ、もっとずっと優しくなっていくはずだ、と信じて。
(151p)

 僕はそれを祈っている。
 その日は来る。きっと来る。
 そんなふうに祈っている。
(152p)



 本当に、比喩でも揶揄でも何でもなく単なるポエムです。
 結局、杉田師匠は「フェミニズムは正義」と脳に刷り込みを受けてしまい、その後で我に目覚めてしまったがため、一歩も動けなくなってしまった人なのです。
 先のキカイダーの比喩に立ち戻れば、師匠はものすごいポンコツな良心回路しか与えられなかったロボット、なのです(漫画版のゴールデンバットがそうしたキャラですが、このゴールデンバットがそれ故にか、実に饒舌に詭弁を弄して自らの行動を正当化する自己愛的なインテリキャラだったのは何だか示唆的です)。
 それは恐竜の化石を見つけて「神様が動物を作った時の失敗作だ」と言っている中世の人のようでもありますし、溶鉱炉を親だと刷り込まれ(そんなことが可能かは知りませんが)、溶けた鉄の中に自ら飛び込んでいく雛のようでもあります。
 なるほど師匠にしてみれば、確かに進退窮まって「祈」る以外のことをやりようがないなあ、としか言いようがありません。できれば祈りだけにして、新書など出さずに済ませていただければ、世に害毒を流すことも少なかったかと思うのですが……。

*3 悪の組織「ダーク」にさらわれ、破壊工作用アンドロイドを作らされていた光明寺博士がダークを倒すため、「良心回路」を内蔵して製作した正義のロボット。ただし、ダークの首領、プロフェッサーギルが超音波笛で指令を発すると、笛の音と良心回路の相矛盾する命令に葛藤し、悩み苦しみます。
*4 『〈40男〉はなぜ嫌われるか
*5 (https://twitter.com/kuroya_blue/status/796367472270176256



 さて、ポエムを吟じてご機嫌になったしかる後には、第三章「男のケアと子育てについて」が控えています。
 この最終章は(介護職をやっていた自身の経験から)何か、介護の現場でこそ「新しい男性性」の構築が可能ではないかとか言いながら、どうでもいい話がダラダラ続きます。自閉症の青年がドングリをくれて、彼がドングリを貨幣だと思っているらしいの何のという話とか。何かと思えばどうも障害者に教えられた、的な話がしたいご様子なのですが、何を教えられたのかが、ぼくの頭が悪いのか、どうにも伝わってきません。
 他にも若く、中性的な外見をした重度障害者の男性と添い寝してドキドキしたの、赤ん坊である息子に乳首を吸われてドキドキしたのと繰り返し、どうも性の揺らぎみたいなことが言いたいご様子なのですが、ぼくのポリコレセンスが低いのか、「そうですか」以上の感想がありません。
 後は「自分の子供の存在が自分の頑張るエナジーだ」とか何とか、そんな話。どうでもいいけどそれ、昭和のお父さんに一番言われてるから。
 見ていてこの三章はそれまでと全然噛みあっていません。こうした本はあちこちの雑誌で書き散らした記事を強引にまとめて作られることがあり、その弊害が現れたとも取れますが、ぼくの目からは師匠が(ミサンドリーという問題点に着目したところまでは立派だったものの)結局は男性問題に対して何ら語る言葉を持っていないことを露呈させてしまったことの証明のように、見えてしまいます。
 上の「障害者に教えられた」的な話、正直退屈極まりないですが、左派の中には障害者を「我々の上位に位置する者」と信じきっている人々がおり、これはジェンダー論者がホモを崇拝する心理と、実は一切変わるところがありません。
 そしてこれはまた、ぼくが「サブカル君は他者志向だ」と指摘した*6ことと「完全に一致」していることが、ここまで見てくるとおわかりになるのではないでしょうか。
 そうそう、サブカル君たちもまた、都合のいい時は「俺たちもオタクだ」と称し、「オタクは左派だ」と主張しながら、しかしその数分後にはオタクを蔑み、「オタクはネトウヨだ」と言い出す、「あるものが見えず、ないものが見える」というリベラル回路の持ち主でした。
 男性の他者志向性、自己疎外性に気づいた杉田師匠。
 そしてまた、見ている限り、確かに師匠の筆致からは、(他の「男性学」者と異なり)男性への憎悪はあまり感じ取れません。こうした師匠のスタンスは(本書でも名前の出る)森岡正博師匠に近く、まあ、田中師匠よりはマシだとは、思います。
 しかし杉田師匠の「リベラル回路」にインプットされた「ポリコレしぐさ」は彼の中に生まれた疑問を突きつめることを許さない。結果、「何か、障害者を適当に称揚して、お茶を濁した(他者志向に逃げた)」ように、ぼくには思われました。
 それは丁度、ギルの笛の音に負けてしまったキカイダーのように。
 実はキカイダーもギルの笛の音と良心回路に葛藤し、ついには笛の音に負けて光明寺博士を襲ってしまう、というお話がありました。キカイダーはその後、「自責の念」に駆られ、何と「失語」してしまう(!)のです。
 が、師匠の場合はそれとは裏腹に、超絶キモポエムを書くという大技が繰り出されました*7
 そのポエムが、男性の苦しみを増幅させるということには、気づくことができないままに。
 最後に師匠の、冒頭の自殺者に捧げられたポエムを引用してみましょう。

 もちろん、死者はもう語らない。何一つ。
 シングルファーザーのあの人の本心は、誰にもわからない。
(34p)


 もちろん、この人の本心はぼくにもわかりませんが、少しでもホンネを吐露すれば「女性に身勝手な要求をしているからだ」「男性権力だ」「ミソジニーだ」などと言い出す杉田師匠には、間違っても弱音など吐けなかっただろうな、ということだけはわかります。
 そして、死者が語らぬのをいいことに、今日も男性学の研究家たちは自殺者の屍肉を食らって肥え太り、新書を書き飛ばして小銭を稼ぎ続けています。

*6 「サブカルがまたオタクを攻撃してきた件  ――その2 オタク差別、男性差別許すまじ! でも…?
*7 実は上の「失語」という言葉は本書で何度も繰り返されます。「男たちよ、悩め」とでもいったニュアンスで「失語すべき」などと書かれているのですが、ぼくとしてはむしろ杉田師匠の「饒舌」さに、圧倒されっぱなしでした。


■オマケ■

 実は本書とパオロ・マッツァリーノの新刊を同時に一日で読了し、地獄のような気分に陥ったまま今回のレビューをしたためました。
 パオロ氏については左派寄りではあるものの、ずっと好きな作家さんだったのですが、正直3.11以降、「ちょっと……」という感じになり、大変残念なのですが今回の新刊で「取り返しのつかないこと」になっておりました。
 オマケ程度にそちらのレビューも……と思っていたのですが力尽きたので、今回はパスしますが、どうもトランプ以後の世界では、彼も「軽やかなトリックスター」から単なる「顔真っ赤おじさん」と化しそうで、何だか切ないものがあります。

2016年女災10大ニュース

2017-01-06 22:04:31 | 時評

 みなさん、年の瀬押し迫る今日この頃、いかがお過ごしでしょうか。
 波瀾万丈の2017年も早くも六日を過ぎ、残すところ後、僅か十二ヶ月足らず(ry
 というわけで恒例の10大ニュースです。もっとも、一般的なトピックスはあまり扱いません。
 あくまでぼくの目に止まった、ぼくが重要であると感じたネタが採り挙げられることになるのは、例年通りであります。

【第10位】日本死ねブーム

 はい、第十位はこれです。
 確か、最初は年度初頭にとあるブロガーさんが書いたフレーズ、「保育園落ちた、日本死ね」が話題になり、そしてまた年末、流行語大賞で蒸し返された、という経緯じゃなかったでしょうか。
 そもそも保育園自体が増やされている、また育児施設が足りないと行っているのは都心のパワーカップルだけではないか、などといった疑問*1を全てスルーして、左派の人々が全力でこの「流行語」を支持している様が、大変に奇観でした。
 もちろん左派思想とフェミニズムは完全にイコールではないし、あまり「左派ガーーーー!!!」みたいなことは言いたくないのですが、本件は近年、いよいよ左派が依って立つ根拠を失い、フェミニズムという今にも沈みそうな小舟にたかっているということの、一つの例ではないでしょうか。彼ら彼女らの姿は見ていて気の毒であると共に、いよいよ船の沈むことが確定した時、ものすごい逆切れを始めそうだとの予兆も感じさせ、何だかきな臭いですね。

*1 詳しくは「なぜ保育園を増やしても子供の数は増えないのか ~少子化問題の本当の原因~」などを参照してください。


【第9位】『シン・ゴジラ』ブーム
【第8位】『君の名は』ブーム


 これらについてはASREAD様で詳しく書かせていただきました*2。
 基本的には両者とも、大衆が一般的な男女ジェンダーに基づいた物語を求めていたことの証明である、とまとめてしまうことができるかと思います。その意味でぼくは『シン・ゴジラ』は『シン・レッドマン』、『君の名は』は『シン・トリプルファイター』である、と論じました。
 もっともそれ故、『君の名は』はロマンチック・ラブ・イデオロギーに忠実な、ある意味では「萌え」以前の物語となってしまっています。
 岡田斗司夫氏は「萌え」の本質を「男女平等」であると喝破しました。ロマンチック・ラブ・イデオロギー(という名の、リアル世界のルール)は「女の子をゲットするために、男の子は犠牲を払う必要があるのだ」という「女尊男卑」だから、というわけです。
 基本、良作とも極めて優れた作品であり、またヒットは大変喜ばしいこととは言え、『君の名は』の成功により、閉塞感の漂うオタク業界が「萌え」を捨て、ロマンチック・ラブ・イデオロギーに回帰するのでは……と考えると、ちょっとぼくとしては不安です。

*2 以下がASREAD様の当該記事へのリンクと、取りこぼした所見です。
http://ch.nicovideo.jp/hyodoshinji/blomaga/ar1135329
http://ch.nicovideo.jp/hyodoshinji/blomaga/ar1088024


【第7位】ヒラリー終了
【第6位】町山師匠終了



 これも「左派が云々」といった類の話題ではあるのですが。
 まず、ヒラリー。何しろ政治に興味が無く、この人がガチガチのフェミニストだということ自体を、ぼくは知りませんでした。しかし今回の大統領選でトランプを支持した比率は、男性よりも女性の方が高かったとのこと。左派もフェミニズムも、完全にご神体にしていたはずの女性から見捨てられているということです。
 この大統領選における町山師匠の立ち振る舞いも、いささかお粗末なものであったことは、これもASREAD様の記事に書きました*3。ここで師匠はオタクを悪役に仕立て上げ、映画に対する女優さんが美人じゃないというブーイングを「女性差別」であると言い立て、左派がオタクの、「表現の自由」の敵であるという事実を誰の目にも明らかにしました。
 が、この後の師匠は「大麻を吸えばアニメキャラが動いて見える云々」といったツイートをして、また批判を浴びておりました。「ピンチになって慌ててオタクに媚びを売っている」ようにも、「自分がオタクから反感を買ったとは夢にも思わず、いまだオタクは格好いい俺様に憧れているのだという妄想に浸り続けている」ようにも思え、心配になってくるのですが、いずれにせよ見ていて気の毒であると共に、いよいよ船の沈むことが確定した時、ものすごい逆切れを始めそうだとの予兆も感じさせ、何だかきな臭いですね。

*3 「サブカルがまたオタクを攻撃してきた件  ――その1 トランプを支持するオルタナ右翼とは?

【第5位】男性差別ブーム
【第4位】男性学ブーム



 すんません、いよいよ強引になって参りました。
 四位の「男性学ブーム」についてはおわかりかと思います。
 一昨年も本ブログでは「男性学祭り」を開催し、「騙されるなかれ」との警告を発しました*4。
 実はニコブロの方では去年も開催したのですが、こちらの方ではまだ反映していません(早急にしますので待って)。
 が、一昨年は田中俊之師匠の大活躍と、かつてのメンズリブについてのみ語っていたのに比べ、去年は田中師匠以外の著作が目立ったことが、採り挙げた書籍からもおわかりになるかと思います。即ち、「男性学ブーム」にそれなりに広がりがあったのでは……と思われるのです。
 五位の「男性差別ブーム」、そんなことはなかったぞと言われるとまさにその通りで、ぶっちゃけネタがなかったがためのでっち上げなのですが、例えば以下のようなニュースはどうでしょう。

3人に1人が「男性差別」感じていることが判明 「女性専用車両」や「レディースデー」に不公平感を抱く人も

 ニコニコニュースで採り挙げられたものです。
 まあ、正直内容としては今更な感じではあるんですが、一般的なニュースサイトで、しかもイデオロギー色のないこのようなニュースが採り挙げられたこと自体は、それなりに価値があると思います。
 また同様に、去年は(想像するに先行する「男性学」と称する書籍のブームに影響を受けて)女性の書き手による「男性の辛さ」を語る書籍が何冊か出されました。

海原純子『男はなぜこんなに苦しいのか
奥田祥子『男という名の絶望 病としての夫・父・息子


 まあ、ぼくは『こんなに苦しいのか』と、奥田さんが大分前に出した『男はつらいらしい』を読んだだけで(奥田さんは一昨年も『男性漂流』というのを出されていました)、これらはあくまで女性が男性に取材したルポタージュ以上のものではなく(つまり、批評性という点において特筆すべき点はなく)正直、ぼくからするとあまり語ることはないのですが、これらは同時にフェミニズムやその下部組織たる男性学界隈の影響の希薄な、バイアスの比較的ないモノが多かったように思います。
 恐らくこれからもしばらくはフェミニストの使徒である「男性学」者か、そうでなくとも女性の書き手によってしか、男性についての本は書くことが許されない状態が続きましょう。
 いずれにせよ、こうした声はフェミニズムに回収され、抹殺されるというのが今までの流れであり、今回もまたそうなって行く可能性は充分にあります。
 ですが、ホンの僅かな可能性もあるのでは……みたいな期待で、一応本件を五位としてランキングさせた次第です。

*4 一昨年のものは「夏休み男性学祭り」。去年のものは「秋だ一番! 男性学祭り!!」。読みたい方はすみませんが、これらワードでググってみてください。

【第3位】ツイッターレディース、まなざし村ブーム
【第2位】リベフェミブーム



 はい、三位、二位とも「非実在なもの」に対するブーム、一種の「怪獣ブーム」とでも言えましょうか。
「表現の自由クラスタ」の流布させ続けているラディカル/リベラルフェミニズムについてのウソについては、多くを繰り返しません*5。彼らがまた、それと類似の「フェミニズムの延命策」として、「ツイフェミ」だけが悪者で「真のフェミ」という名の正義の味方が他にいるのだ、とのデマを流していることについても、繰り返し述べています。
 が、上の「まなざし村」は恐らく一昨年の年末頃、そして「ツイッターレディース」については去年になって言われ出したことなので、ここにランクインさせました。
「まなざし村」については以前の記事を見てもらうとして*6、「ツイッターレディース」について。
 実はぼくは具体的な「ツイレディ」について多くを知りません(追っかけている人たちに聞けばいい話なんですが……)。しかし「キンタマつぶし云々」であるとか「ジャップオス」であるとか、並外れて口汚く男性への憎悪が度を超している人たちを、そのように呼んでいるようです(商業誌で「男は死に見あうだけのメリットを得ている」「男は産業廃棄物」などと絶叫する「プロフェミ」の方が遙かに並外れて口汚く男性への憎悪が度を超しているように思うのですが……)。
 ぼくも一度絡まれたことがあり、恐らくこの人たちが「ツイレディ」なのかなと思われる共通項が何となくわかったのですが、彼女らには「アカウントは数ヶ月前に作られたもの」「フォロワー数などはごく僅か」といった特徴があるようです。あくまで想像ですが、これはフェミたちの「毒吐き垢」なんじゃないでしょうか。
 そしてまた、去年は「リベフェミ」ブームでもありました。
 そう、「表現の自由」クラスタは「リベフェミ」としてピルつき師匠を神であるかのごとく持ち上げているのですね。何しろ、原田実師匠すらもが彼女のデマを信じ、RTしていたのですから。実のところピル師匠についてはかつての(70年代頃の)ウーマンリブの事情について詳しかったり、業界で古株なのかな、と思えることがあります。その意味では、彼女は世代的に「リベフェミ」であると言えなくもないかも知れません。また、彼女の主な主張はピルについてのもので、となると彼女を「ピルにまつわる法整備を目指しているフェミニスト」と解釈した時、彼女を「リベフェミ」と呼ぶことは不可能ではありません。
 しかし、それだけでは、「表現の自由クラスタ」が彼女を殊更に持ち上げる理由が理解できません。彼女はものすごい限定的な主張をしているだけの、しかも社会的影響力のほとんどない人なのですから、彼女を持ち上げれば持ち上げるほど、「彼女以外、持ち上げるべきフェミがいない」ことがバレてしまう。
 また、そもそも、彼女はおっぱい募金に反対しており、またバッドフェミニストについても肯定的なことを言っておりました。「表現の自由クラスタ」は「リベフェミ」という言葉を意図的に「エロに寛容なフェミ」という意味にねじ曲げ、またピル師匠自身、そのイメージ戦略に乗っかっていますが、別に彼女はエロに寛容でも何でもなかったわけです。そうした人物を、「我らオタクの味方」と御輿に担ぎたい人たちの気持ちが、ぼくには全くわかりません。
 ぼくは彼女を、「テレビ番組に面白半分に採り上げられた田舎のラーメン屋」に例えてきました。事実、多摩湖師匠(最近目立ちませんが、持ち上げられているもう一人の「リベフェミ」です)が「これからリベフェミの時代が来る」的なツイートをしていたのを見たことがあります。
 しかし……言うまでもなくテレビ局の扱いというのは面白半分なもので、ラーメン屋は使い捨てにされる運命にあるのです。
 ぼくが彼女らの運命を案じる理由。それは、「表現の自由クラスタ」には他にも身近に「プロフェミ」がいるにもかかわらず、彼女らを「真のフェミ」であるとして担がないことが、極めて不自然だからです。
 著作がいくつもあり、学会や出版界での実績があり、オタク界に地位と影響力を持つ大勢のフェミニストたち。そんな彼女らの名前が「表現の自由クラスタ」の口に上ることがなく、翻って田舎のラーメン屋特集ばかりしている理由とは?
 そしてこれは、仮定に仮定を積み重ねた推論ですが、「ツイレディ」とやらがここ数ヶ月でいきなり「爆誕」した事実。それらはどう符合するのでしょう?
 一昨年、オタク界でそれなりの地位を持つ腐女子フェミニスト、柏崎玲於奈師匠がエロフィギアを批判して、「オタクの敵」として集中砲火を浴びました。
 誰かが、この悲劇を二度と繰り返すまいとして、策を講じた――といった空想を、ついしてしまいたくなるのです。

*5 「重ねて、ラディカル/リベラルフェミニスト問題について
*6 「まなざし村という言葉を使いたがる人たちをまなざしてみる
京都地下鉄の萌えキャラにクレームをつけたのはフェミ…じゃなくて“まなざし村”!?


【第1位】ミサンドリーブーム

 一位はこれです。
 前回述べた通り、世間で使われている「ミサンドリー」という言葉を調べていった時、そのほとんどは「男性差別」の言い換え、程度のものでしかないと思います。それは丁度、「ミソジニー」が「女性差別」の言い換えでしかないという、世にもお粗末な単語であるのと同様に。
 しかし「ミソジニー」という言葉にはある種の新しさがありました。それはフェミニストがこの言葉を発する時、例外なく「ワタシを、ワタシの望む形で愛さない男」という意味でのみ使っているということです。即ち、「ミソジニー」という言葉はフェミニズムが被愛妄想そのものであり、全男性が自分の欲望を満たすためのみに存在しているのだという妄想であるという事実を、どんな馬鹿にでも理解できるよう提示して見せてくれる役割を果たしたわけです。
 それと同時に、「ミサンドリー」という言葉は、元から男性と女性に「愛され格差」があるのだとの事実を指摘する意味たり得るわけです*7。
「ミサンドリー」とは「ツイレディ」とやらの特徴ではなく、フェミニスト全体の特徴であること、否、フェミニストのみならずリベラル君全体の特徴であること――いえ、それも正確ではないでしょう、彼ら彼女らフェミニスト、リベラル君はミサンドリーに取り憑かれた人々ではありますが、そこまで重篤ではなくとも、全男性、全女性が患っている普遍的な病であること。
 それをまず、認識するきっかけになるとすれば、この「ミサンドリー」ブームには決して少なくない価値があると言えるわけです。

*7 詳しくは「秋だ一番! 男性学祭り!!(最終回.『広がるミサンドリー』)
サブカルがまたオタクを攻撃してきた件  ――その2 オタク差別、男性差別許すまじ! でも…?