兵頭新児の女災対策的読書

「女災」とは「女性災害」の略、女性がそのジェンダーを濫用することで男性が被る厄災を指します。

オカマがミスコンに出れない問題

2013-11-29 14:50:34 | セクシャルマイノリティ

 以下は今月の初め、ブロマガの方に書いた記事です。

 この後、ご当人はミスコンに出場できたとの話になったはずなのですが、その後どうなったのかはあんまり聞こえてきませんな。


*     *     *


 何度も書くことですが、近代社会におけるぼくたちの絶対的な価値観は「人権」であり、それは「平等」「差別されないこと」とほぼ等式で結べましょう。
 しかし、概念ではなく実体としての「点」というものがこの世のどこにもないように、「平等」というものはどこにもない。となると、どうしても「弱者」としての徴を社会的に認知されている者こそがある局面においては有利という、逆差別的な状況が生じます。
 神様以外がジャッジできないはずの「平等」を前提にしている時点で、「差別反対」は歪みが生じて当然ですし、往々にして「更なる弱者」に負担をおっ被せることを意味してしまいます。そんなことはない、とお思いになるでしょうか? ぼくがしつこく例に挙げている「プア・ファット・ホワイトマン」の概念を思い出してください。彼らは「強者」というタテマエの中の「弱者」だからこそ、慮られないのです。
 ぼくが「男性差別」というキャッチフレーズに疑問を覚えるのもそれ故で、男性は最初から圧倒的な「人権弱者」であり、「平等」という名のおまんじゅうにありつけるはずなど、最初からないのです。
 さて、この「平等」「人権」という価値観はそれ自体は否定することが難しく、ぼくたち「人権弱者」がこの社会で生きることはなかなかに辛い。時々「女災対策と称しているのなら解決法を論じよ」というリクエストがありますが、ぶっちゃけ「そんなこと、俺が知るか!」という返答ばかりをしてきました。元から無理ゲーなんだからそんなことを言われても、というのが正直なところです。
 しかし。
 ちょっと最近、敵の「人権強者」たちの城にも蟻の開けたほどの小さな穴が見えてきたな、と感じます。
 というわけで、今回は以下の事件をご紹介しましょう。


ripo0079氏、大阪府立大学のミスコン辞退を要求される


 何だか似たようなことで例年もめてる感じもするのですが、MtF(身体的には男性であるが性自認が女性の人)が大学のミスコンに出られず、ネットでぼやくという事件が起こったのです(以下、一部記述がツイッターで言ったことと被りますが、ご容赦を)。
 普通に考えれば彼らの言い分はただのわがままでしょう。
 セクシャルマイノリティたちが「国家」を相手に、例えば同性婚だの何だのを認めよと運動するのも、ぼくは積極的に応援したいとは思いません。彼らの多くは普段は婚姻制度、或いは国家そのものを否定的に見ているように思え、そうしたスタンス自体がダブルスタンダードに思えてしまうからです。が、同時にそうした訴えを受け止めること自体は国家の義務だろうし、また純粋にマイノリティ故に不当に不利益を被っているのであれば、それを訴えていくこと自体は当たり前ではあります。その意味でMtFが例えば「戸籍を女に書き換えさせよ」と訴えるのだとすれば、是非は置くとしても、国に文句を持っていくそのやり方自体は理解ができます。
 しかし、本件は(モンダイの大学は府立だったようですが)文化祭での学生主催のミスコンであると想像でき、そうした学生たちの楽しみの場に乱入して「闘争の場」にしてしまうナチュラルボーンテロリストな発想が、ぼくには理解できません。
 もし仮に「参加させてもらったけど、公正な審査の結果、全参加者から圧倒的な票差で最下位」となった場合、彼らがそれを甘受するのかというと、それは考えにくい。恐らく彼らは「セクマイへの偏見故にこうなったのだ」と自分たちの満足する結論が得られるまで暴れ続けるのではないでしょうか。
 このripooo79氏がどういう方かを、ぼくは知りません。ジェンダーの何やらかんやらで、「心は女なのに、男の身体を持って生まれてきてしまった」方なのかも知れません。しかしミスコンという「参加者の主観によって美人を選ぶ」という催しに出場することで自分の女性性を証明したいという発想自体、そうした「性同一性障害者の苦しみ」からはやや、距離があります。そこには美女として快哉を浴びたいという願望があるわけでしょう。しかし、そもそも「美女扱いを受ける女性」というのが女性の中でも稀少なのです。
 ところがまとめでは、ripooo79氏の賛同者たちが彼を被差別者として祭り上げ、世間のセクシャルマイノリティに対する理解のなさを嘆く声が並んでいます。ですが、申し訳ないけれどそうした物言い自体が、ぼくには「聖なるマイノリティがサベツを受けた」という物語に欲情し、涎を垂らしながら飛びついているように見えてしまい、「キモい」と感じてしまいます。
 賛同者の中には「普通の女性よりもripooo79氏の方が可愛い」といった発言をする方もいましたが、もし彼が周囲の人間も女だと思い込んでいるほどに見事な女装をしているのであれば(アニメではなく、現実でそうしたことがあるのかどうかは知りませんが*1)、そもそも問題なくミスコンに出られそうなものです。大学だと男性と知られているでしょうが、そこまでチェックのない緩いミスコンって探せばいくらもあるんじゃないでしょうか。そうした場に出て優勝なり準優勝なりまで行ったりしたら、ぼくはむしろ「なかなかやるな」と感心することでしょう。
 しかしわざわざ楽しみの場でもめごとを起こし、にもかかわらずその上でまだ尚、「コンテスト」という「みんな」の評価を仰ぐ催しに出ようという感覚が、ぼくには理解できません。「嫌われている金持ちがカネをちらつかせてみんなを誕生パーティに呼ぶ」的な、漫画的な光景がどうしても目に浮かびます。或いは「運営」が悪者で、「みんな」は彼を快哉を持って迎える、と彼らは思っているのでしょうか。
 いずれにせよ、伝わってくるのは自分のエゴを他人に強制したいという傲慢さばかりです。「美女としての扱いを受けたい」というところから出発してミスコンに応募し、予選落ちしたのを「私を美女扱いしない社会の方が間違っている」とのぼせ上がってしまったブス、の、更にタチの悪いバージョンにしか、ぼくには見えません。


 ぼくは今まで、セクシャルマイノリティに対してやたらと毒を吐いてきました。
 理由については、「彼らのロジックがフェミニズムの焼き直しだから」と説明してきたと思います。が、ここで表現を変えて言い直すならば、彼らセクシャルマイノリティは「政治的には女性」として扱われているから、ということなのです。
 そもそもがセクマイと言った時、同性愛者か性同一性障害者が大体は、想起される。スカトロマニアやペドファイルがそうした文脈で慮られるシーンというのは、ほとんどありません。何となれば、彼らは「名誉女性」ではないからです。
 同性愛者や性同一性障害者たちはフェミニズムによって、「ヘテロセクシズム社会の支配者たるシスヘテロ男性」という仮想敵を浮き上がらせることを目的として、ヘッドハンティングされてきた存在です。
 言ってみれば、女でもないのに「女属性」の中の最強の魔法を使える存在。
 皮肉にも遺伝子上は女ではないからこそ、彼らは女というカードを一番濫用することができるわけです。
 鯛の中でも一番美味しい部位を「
鯛の鯛」と呼ぶならば、彼らは「女の女」なのです。
 従来はホモが俎上に乗せられることが多かったけれども、これは(敢えて乱暴に断言するけれども)ホモとオカマがある種の同一視を受けていたからです。こうした論者は「ホモはオカマっぽいビジュアルをしているとは限らない」的な蘊蓄を垂れるのを好みますが、一方でフェミニズム界隈におけるホモの立ち位置は明らかに「名誉女性」としてのそれです。
 女性が男性に比べて弱者、との言説に説得力が失われるにつれ、フェミニズムは彼らセクマイの「弱者力」に頼らざるを得ない局面が増えてきました。そうした政治的な要請がまずあり、彼らが被差別者として「発見」されたという経緯だけは抑えておいた方がいいはずです。


 しかし、以上のようにフェミニストたちが自らの城に「二軍女性」として呼び寄せたMtFたちではありますが、ぼくたちはツイッター上でそうした人たちの暴走を、しばしば目撃するようになりました。
 上のまとめを見てもわかる通り、彼らは自分たちが正しいものと信じきって、自分たちのエゴが認められないとなるや「ミスマンココンテスト」などと口汚く罵ってみたり、「そもそもミスコンをやることが低劣だ」などと言ってみたりで、見ていて「厄介な人たちだなあ」という感が拭えません。
 コメント欄には、一転して彼らを冷ややかに見る批判的なものが目立ちます。
「論旨の前に下品すぎてまともに対応する気になれない」「ミスコンの理念は否定しておいてそれに出たがるMtFは擁護するとはどういうわけだ」といった感想が多いように思います。後者の疑問についても、彼らのヒステリックで幼稚な物言いを鑑みると、彼らの「ジェンダー規範」やら「ヘテロセクシズム社会」やらへの攻撃が、「自らが手に入れられなかったものに対するヤンデレ的粘着」であることが、見ている者にはもう、直感的にわかってしまうのです。それは丁度、フェミニストの結婚制度への硬直した態度がツンデレであるのと、全く同様に。
 更に言えば彼らの品性のなさ、また彼らが実は女性への羨望故の奥深い憎悪を秘めていることも、見ていくとわかってしまいます(これ、「ぼくたちの好きな性と文化の革命」でも述べた通りですね*2)。
 結局、オカマもフェミニストも「ヘテロセクシャル男性」を仮想敵に仕立て上げて共闘した。しかし、実は彼ら彼女らは「女性ジェンダー」という名の同じ宝物を手中にせんと狙っていた敵対者同士であった。そしてまた、フェミニストはタテマエとしては「女性ジェンダー」を否定していた。
 そのため、彼ら彼女らが共同戦線を張ること自体、実は理念上も情念上も、元から無理があったということです。


 保守派の人たちのフェミニズム批判を見ると、「彼女らは共産主義者の一バリアントだ」といった論調が多い。ぼくとしてはあまりピンと来ない視点ではあるものの、それはそれで間違ってはいない。マルクスのご威光が失墜して以降、左派たちはマイノリティ問題へと軸足を移していき、その一派がフェミニストたちであるということは言えるでしょう。
 が、彼ら彼女らが学ばなかったのは、弱者問題では今まで採用してきた「国家VS市民」という対立概念は成り立たない、マジョリティをマイノリティをいじめる悪者と認識するだけのモデルでは結局、支持は得られない、という考えれば当たり前なことです。
 本件でもMtFの出場を阻んだ「マジョリティ」を「トランスフォビア」と呼んでいた御仁がいました。
「ミソジニー」、「ホモフォビア」と、彼ら彼女らの戦略はひたすら「聖なる被害者である我々を受け容れない者は悪者なのだ」と繰り返すことですが、そんなやり方がいつまでも通用するはずが、ないわけです。
 少し前まではこうしたクレーマーたちは、アカデミズムなどの一種の閉鎖された村を居場所としていました。が、ネット時代になると誰もがそうした「村」でだけ通じていた言葉を世界に発信()できてしまいます。
 そこで生み出されるのは「周囲に笑われていることに気づかない大量の裸の王様」であり、彼らは笑われれば笑われるほど頑なになり、世間と解離し、引きこもっていくという負のスパイラルが待っているのではないでしょうか。
 実際、上に挙げたまとめ以外にもう一つ、同じ事件をまとめたものがあったのですが、そのまとめ人さんは異論を許さず、気に入らないコメントは削除し続け、とうとう限定公開にしてしまいました(マジョリティ側にはあれだけ俺たちの意見を受け容れよ、と言い続けていたというのに!)。


 今回の騒ぎを見ていて思い出した記事があります。
この本は怪しい!』という本の中で書かれた「暴走族本盛衰記」みたいな記事です。
 80年代、左翼の残党のような出版社が、何故か暴走族たちを「反体制の象徴」みたいな文脈で持ち上げて、さかんに暴走族本を出していたのです。それ自体はつまらない、DQNどもの写真集以上のものではなかったのですが、そこに
エログラビアに添えられるポエムの如く、編集者が「止められるか俺たちの暴走を」みたいなキャッチフレーズを添えて、盛んに出版していたわけです。
 今のオタク界もまあ、似たような図式ではありますが。
 しかしこれが売れたのです。暴走族にとってそれは「書店に並べられるプリクラ」であり、彼らは自分や先輩がピースサインしている写真が掲載された、そうした書籍をバンバン買っていったのです。むろん、添えられたオナニーポエムは、誰も読む者はいなかったでしょう。
 そして数年で、暴走族本は衰退しました。この記事のライターはそれを「暴走族は正体不明だからこそ不気味で恐いヤツらだった。暴走族本が出ることで彼らがただのチンピラでしかないことを暴露してしまった以上、それ以上の興味は誰も抱かなくなってしまったのだ」と分析しています。
 恐らくこれからセクマイ運動も、これと同じ運命を辿るのではないでしょうか。


■補遺■
*1当然ですがアニメや漫画に出てくる「男の娘」はみな女性を越えた美の持ち主です。が、更に言うと彼らが「男性のような攻撃性も、女性のような陰湿な性格も持たない、極めて穏健な性格」の主として描かれることが多いのは考えると結構皮肉です。
*2ぼくはここで蔦森師匠がホメオパシーにハマったのを皮肉り、


「悪い意味でのピュアさ」「選民思想」を持った師匠がオカルトへと足を踏み入れるのは、もう必然だったと言えるかも知れません。


 と書きました。
 が、これは「オカルト信奉者は悪人」と言っているようにも取れ、少し軽率でした。
 オカルト信奉者にはタチの悪い人が多いという印象を、ぼくも持ってはいるのですが、恐らく末端の「信者」は無害な人が多いのではないでしょうか。
 しばしばフェミニズムに親和的な人がオカルトに過剰な憎悪を燃やしているのを見ていて、ぼくはどうにも不思議な気がするのですが(彼らは女性が占い好きなことをどう考えているのだろう?)。


  

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これからは喪女がモテる? 『ダンガンロンパ』の先進性に学べ!

2013-11-15 17:46:33 | アニメ・コミック・ゲーム

 今回は『ダンガンロンパ』。
 ヒット数を稼ぐため、○○師匠を彷彿とさせるセンスのない週刊誌のリード文風タイトルをつけてみましたが、いかがでしょうか?
 一応表題を『ダンガンロンパ』としてはいるけれども、要は「萌えキャラ史」を概観し、その最先端に『ダンガンロンパ』の腐川冬子(や『わたモテ』のもこっちなど)を位置づけてみようという試みなので、話題としては前半には出てきません。
 以上、お含み置きください。


*     *     *


 もはや誰も使わなくなった言葉ですが、一時期よく「戦後強くなったのは女と靴下」なんてことが言われておりました。
 何しろ戦前は、強い国が弱い国を武力で制圧して子分にすることが(まあ、一応は)正義とされていたのですから、この時期に男性がどれほどの権力を持っていたか、恐らくぼくたちの想像力を遙かに超えるものだったでしょう。
 それが戦後否定され、男性性は価値を失い続けたわけです*1。
 もうちょっとスパンを縮めて考えれば、少なくとも日本においては高度経済成長期を終えた頃から、男というものが体面を失ったと言えるでしょうか。アニメや特撮のヒーローも、この時期から多少、屈折した性格を持つようになっていきました。
 何よりこの時期から、女性は絶対的な勝者であり、肯定される存在になっていったのです。例えば『ドラえもん』的な子供漫画で、基本女子は優等生に描かれますよね。
 それこそヒーローものであれば、恐らく戦前から女性は守られるべき、獲得されるべき価値ある存在として描かれていたと思うのですが、ここで述べているのはそうしたことではありません。日常的な作品で男性と女性とが相対する場合、男性が常に敗者として描かれるようになったのは戦後のことなのではないか、との仮説です(この辺はあくまで想像ですので、詳しい方がいたらご教示ください)。
 そうした「男の敗北」を体現したキャラクターとして、ぼくがイメージするのが、『スヌーピー』のチャーリー・ブラウンと、『じゃりン子チエ』のテツです。『スヌーピー』はアメリカの漫画ではありますが、恐らくベトナム戦争でミソをつけたアメリカの傷ついた男性性の陰を背負った漫画なんじゃないでしょうか……いや、これも想像ですが
 両作とも女性=勝者、男性=敗者という図式で物語が展開し、表向きは男性性を否定しつつ、しかし動物に理想の男性を演じさせるという随分と込み入った構造を持っています。
 ことに『チエ』では下層の男同士のダメな結びつきが繰り返し描かれ(そう、「ホモソーシャルな絆」など、実は弱者男性同士だからこそ成立するのだということは、フェミニストが「ホモソーシャル」という概念を捏造する以前に、この漫画が既に喝破していたのです)、また最下層の男であるテツが、最下層故に時折鋭い女性観を口にしたりもします。


*1フェミニズムの隆盛はその裏面であり、これはある種、失われた「男性性」を保存することで女性の被害者としてのアイデンティティを延命させようという、伝統芸能の保存運動であったとも言えます。


 

 さて、ここまでが前世紀までの状況の分析です。
 ですが、しかし、驚くべきことにこの数年、そうした作劇上のコンセンサス、言い換えれば「正義と悪の図式」が揺らぎつつある、パラダイムの転換が起きつつある、とぼくは感じるのです。
 さて、いささか先走りすぎました。
 ここでちょっとだけ簡単にまとめましょう。
 70年代に描かれた漫画を見れば女性は概ね、優等生として描かれてきた。
 80年代には男性性の失墜はいよいよ明らかになり、例えば『うる星やつら』の面堂終太郎といった、「二枚目ぶっているギャグキャラクター」が描かれ出した。
 バブル期、女性の力は更に強くなり、欲望の赴くがままに男性を搾取するピカレスク的女王様的な女性キャラクターが大流行し出した。これはまた、男性性を冷笑するニヒリズムの体現者として、80年代頃から萌芽はあったと言える。
 ……とまあ、簡単にまとめればそうなるのではないでしょうか。
 しかしゼロ年代には「萌え」が日本を席巻しました。
 ここで美少女はイコンとして大いにメディアを賑わせましたが、しかしそこで愛されたのはバブル期的な「男勝り」ヒロインではなく、キャラ的には「動」を引き受けつつも、最終的には「静」であるヤレヤレ系男性主人公に決定権を譲るハルヒ的ヒロイン像でした。
 80年代から90年代にかけては、明らかに超越的な美少女にユーザーであるオタク男子が理想の自分を仮託している構図が目立っていました。端的にはビキニ鎧を身にまとい、ライトセーバーを手にした「戦闘美少女」がその代表です*2。
 しかし90年代の半ばくらいからゼロ年代にかけて、そうした超越的美少女像というのはむしろ少数派になってしまった。これにはいろんな原因が考えられるでしょうが、一つにはエロゲのシステムがユーザーに対して、美少女と自分自身とを分ける客体化を促したのではないか……といった仮説も、確か以前語ったことがあると思います。
 そしてここしばらく、
女性性の「痛さ」にも容赦なくツッコミを入れていく作風が目立つようになってきた。それは恐らく『絶望先生』辺りに端を発し、ラノベのダメヒロインブーム(よく知らないけどちょっとそういう流れがある気がします)に続き、『私がモテないのはどう考えてもお前らが悪い!』で頂点に達した。
 そういう経緯ではないでしょうか。
「オタク女子」であり、「非モテ」。そうしたあからさまにマイナス属性を持つ女子が、ヒロインになり得る時代がやってきた。これはかなり革新的なことだと思うのです。


*2と同時に、当時のフェミニズムバブル、ヒョーロンカの先生方が異常に女性を持ち上げていたのもまた、当然これのバリアントでした。現在でもツイッター上の「毒舌な妹bot」にその残滓があると言えるのではないでしょうか。


 

 ――というわけで本来であれば、『わたモテ』を採り上げるべきなのですが、本稿ではちょっと、脇に置きます。
『ダンガンロンパ』の腐川冬子をこそ、採り上げてみたいと思うのです。
 奇しくもニコ生ではこの二作が続きの時間帯で配信され、コメント欄では腐川がもこっちと呼ばれたりもしていました。
 と言ってもこの『ダンガンロンパ』、ジャンルとしてはミステリであり、腐川への言及がそのまま壮大なネタバレになってしまいます。知りたくない方は、以下は読まれませんよう。
 さて、説明には結構骨が折れる作品なのですが、ひとまず腐川についてはウィキからコピペっておきましょう。


腐川 冬子(ふかわ とうこ)声 - 沢城みゆき
超高校級の「文学少女」。身長164cm。飛ぶ鳥を落とす勢いの若手女流作家で、自身の書いた恋愛小説が社会的大ヒットとなり、高校生ながら数々の文学賞を受賞し、ベストセラーを連発している。おさげ髪に眼鏡が特徴。服装は標準の長さのスカートの学生服を着ている(他の超高校級のメンバーの制服とは異なる)。
血が苦手で血を見ると気絶してしまう。純文学しか認めず、漫画やライトノベルなどは「読む価値なんてない」「不潔な使い捨て文化」として嫌っており、また自分がそうした性癖を持つと見られるのを嫌がる。そのため、山田とは極めて仲が悪い。
父親が一人で母親が二人という複雑な家庭環境に育ち、なおかつ過去の学生生活において悲惨な体験を重ねていることもあり、性格は不安定で悲観的な思考をしており、精神構造にとある深刻な問題を抱えている。発言は神経質で被害妄想が激しい。また被虐嗜好の傾向もあり、惚れ込んでいる十神白夜の命令ならば客観的に無茶なことでも実行しようとする。


 ――以上です(後、以下ではセリフなどを引用しますが、基本、記憶に頼っているので正確さには欠けることをご了承ください)。
「腐川冬子」で検索していただければわかりますが、お下げに眼鏡の地味な文系少女というそのルックスは、オタク文化では見慣れたものです。こうした「地味少女萌え」というのもまた、ゼロ年代頃から普遍的なものにはなっていたでしょう(元祖は唐沢なをき辺り?)。
 が、腐川はコミュ障でちょっと話しかけられただけで大袈裟に悲鳴を上げ、また被害妄想が激しく、何かと言えば「私がブスだからね」と勘繰り、優しくされれば「からかってるのね」と難癖をつける。ゲームにはギャルゲー的パートもあるのですが、そこでは親密度が増せばますほど、「私はあなたを許さないから……こんなに優しくするなんて、絶対に許さない!」などとこっちを詰ってきます。怒りの形相でこちらに指を突きつけてくるので好感度を下げてしまったのかとビビっていると、主人公が「よかった、喜んでくれたみたいだ」などと言っているのでようやっと好感度を上げたとわかる、という仕組みです。


 ――おいおい兵頭よ、知らないのか。それ、「ツンデレ」や!


 はいはい。
 何しろ実際、ゲーム中でも彼女のリアクションを評して主人公が「ツンデレな腐川さん」と言ったりもしています。
 ですが、ちょっと考えてください。
「ツンデレ」という時、一般的には「高飛車な美少女が素直になれず」といったものがイメージされるように思います。事実、この言葉が流行りだした時点では、確かにそれが一般的だったでしょう。例えば、ハルヒ的な生意気な少女が最終的にはヤレヤレ君に主導権を渡すという図式が、その典型例でした。
 この辺、上に例に挙げた80年代の面堂終太郎が「70年代的二枚目の裏読みキャラ」だったことを思わせます。「バブル期的強気少女の裏読みキャラ」として、まずツンデレは出てきました。
 が、昨今、ツンデレキャラは変容し、言わば腐川のようなバリアントが生まれてきたわけです。
 端的に表現すれば、高坂桐乃から黒猫への変貌。
 換言すれば、ツンデレからクーデレ、ヤンデレへの移行。
 分析すれば、「強気少女の、幼児的万能観故のツンデレ」から「ネガティブ喪女の、低い自己評価故のツンデレ」への転換です。
 この両者が絶対的に違うことは、キャラのヴィジュアルをイメージすれば一目瞭然ではないでしょうか。
 例えばハルヒが(チビのクセに)ふんぞり返って上から目線でものを言うキャラだとすれば、腐川は恨めしげにこっちを見上げてくるキャラです。
 上に挙げた「優しくしてくるなんて許せない」的逆ギレ発言なども含め、何だか『絶望先生』に出てきた「敗者の上から目線」という言葉を連想させるキャラです。つまり彼女はモテないからこそ男子に対して卑屈である一方で、場面によっては高圧的にもなってしまう、そうした難儀さを抱えたキャラのわけです。
 これはもこっちがリア充に対して上から目線の怨嗟の念を吐くのと同じであり、オタクの世間やアニメ作品に対する屈折した対応に似ているとも言える。考えてみれば、フェミニストの言動もまさにこれです。更に言えば『かってに改蔵』の名取羽美がいざとなると妙に気弱になることも、ちょっと連想してしまいます(←伏線)。


 それでは、一体全体、よりにもよって、何故そんな難儀なキャラが流行りつつあるのか。
 それは言うまでもなく、「現実をフィードバックしたから」です。
 繰り返しますが、ハルヒ的なツンデレキャラは、バブル期に流行った高飛車女に対する「裏読み」キャラです。
 しかし、そうこうするうちにも現実の女性たちは見る間にパワーを失っていきました。
 そうなってはもはや、そうしたキャラにはリアリティを持たせられなくなってきてしまう(事実、本作に出てくるセレスも高飛車キャラではあるのですが、いささか浮世離れしたアンリアルなキャラとして描かれました)。
 ある種、今の世の中で一番リアリティがあると言えるのが腐川であり、もこっちといったような喪女キャラである……。
 え?
 はい?
 すみません、もうちょっと大きなお声で……あぁ、はいはい。
 気になっていた方もいらっしゃるかと思います。
 彼女は「腐川」という名前のクセに、何でオタク文化を嫌っているのだ、と。
 もこっちはオタク女子なのに、腐川はオタク女子ではないのか、と。
 はいはい。
 ここでいよいよ大きなネタバレです。
 今まで説明してきた卑屈で抑圧的な喪女キャラ、腐川冬子。
 彼女は作中で驚くべき正体を現します。
 以下、pixiv大百科から一部、コピペることでご説明しましょう。


ジェノサイダー翔とは、スパイク・チュンソフトのゲーム『ダンガンロンパ』に登場するキャラクター。


主人公の苗木たちが学園に入学する前から世間を騒がしている連続殺人鬼。
被害者は主に10~20代の男性で共通しており、凶器の鋏で相手を滅多刺しにした上で磔にし、現場に被害者の血で「チミドロフィーバー」の血文字を残すなど、猟奇的な殺人方法を用いる。


ジェノサイダー翔の正体は、超高校級の文学少女・腐川冬子のもう一人の人格。
つまり、腐川冬子は二重人格なのである。


肩書きは超高校級の殺人鬼。
自作の鋏(マイ・ハサミ)を常備しており、殺人の際はこの鋏を使って犯行を行う。
普段の彼女からは想像できない不敵な笑みと異様なほど長い舌が特徴。


普段の根暗でネガティブな彼女とは対照的に、色んな意味で感情豊かでかなりハっちゃけた性格をしている。趣味嗜好も真逆で、純文学しか認めない腐川に対しジェノサイダー翔は自らを貴腐人と称するほどの腐女子で、発言もかなりギリギリなエログロ要素が含まれた台詞が多い。そのため両者共にお互いを毛嫌いしている。ただし、十神白夜に対して好意を抱いていることは共通している。
ちなみに、両者の人格は「知識は共有していても記憶は共有していない」らしい。


 ――何と言うんでしょうか、『ダンガンロンパ』の作品イメージを知らない方は、いきなりのぶっとんだ設定に、驚かれたのではないでしょうか。
 ぼくもアニメ版を見ていて驚きました。
 が、その驚きは設定の奇矯さに対してというよりは、ジェノサイダー翔の人格が発露することで、腐川のキャラクターが完成したように見えることに対して、そのキャラクターの完成度に対して、であったのです*3。
「どこがリアリティがあるのだ、メチャクチャ浮世離れしたキャラじゃないか」と思われた方もいるでしょうが、それはそうではない。この浮世離れした設定を導入することで、腐川のリアリティは完成しているのです。
 ジェノサイダー翔のはっちゃけたキャラは、腐川が普段、抑圧している部分が表出されたものです。
 だからこそ彼女は自身を「貴腐人まっしぐらの腐女子」と称するのです。
 彼女と同じオタクキャラ、山田君も萌えアニメにハマっていながら、「いや、ぼくはこれを萌えアニメとして見ているわけではない、その優れた作品性をこそ評価しており云々」と言い訳するシーンが登場します。オタクにありがちなポーズなのですが、当然、山田と仲良くなると、彼が件の萌えアニメの薄い本を作っているという事実が明らかになっていきます。
「腐川冬子とジェノサイダー翔」はその「オタクのポーズと、そのポーズの下の本音」を更に戯画化して描いたキャラでした。
 
 考えれば「超高校級の殺人鬼」という設定、「ジェノサイダー翔」「チミドロフィーバー」なんてネーミングセンスが厨二そのものです。恐らく彼女と黒猫は、趣味があうのではないでしょうか。
 実のところ、ジェノサイダー翔が作中で殺人を犯すシーンは、存在しません。
 それはむろん、直接にそれを描写してしまうとさすがに感情移入しにくいからでしょうし(コロシアイこそがテーマの作品とは言え、他のキャラたちが殺人を犯すのは基本的にやむにやまれぬ事情があってのことでした)、そもそも他のキャラたちもスイマーという設定でありながら水泳のシーンがないとか、同人作家という設定でありながら同人誌が出て来ないとかそんなのばっかりでしたし、それは作品の性質上、そうした描写がしにくかっただけのことかも知れません。
 しかし、ここで「ジェノサイダー翔」を、「
腐川の妄想上の自分」と考えると、非常にしっくり来るのです。つまり、腐川がノートに描いた「こうありたい自分設定」であると。
「萌える男子を殺す」というのはむろん、「男に求愛しまくることの象徴的表現」であり、それは腐女子が「好きな男子を紙の上で陵辱する」のと変わりありません。
彼女はゲラゲラ笑いながら(ことに主人公などの扱いやすい男性に対してはなれなれしく)下ネタを連発してくるのですが、これなど単なる「本性を現してセクハラしまくっている酔っ払いオヤジ」です。大体において「男勝りのきっぷのいい女」という自己イメージを持っている女性というのは、実際のところは品のないオヤジを更に品なくしたような存在ですが(学問上の地位を盾に男子学生をいじめるフェミニスト学者、ギョーカイの地位を盾に貧乏ライターをいじめるフェミニスト作家などを見ていると、それがわかるのではないでしょうか)要するにジェノサイダーはそれを「萌え化」したキャラであると言えるのです。
 そして――いきなりで恐縮ですが、こうした「女性の正体、本音を暴くこと」こそが萌えの、ツンデレの本質なのです。
 ぼくは
著作において、「ツンデレ」を凋落したバブル女の強がりを、オタクが愛を持って「美化」した姿だと表現しました。そしてまた、強がる女性の弱い「本音」をスカートめくりよろしく晒してしまったものであるとも。ツンがスカートでデレがパンツです。
 一方、スカートを履きながら、パンツを見られまいとすること(イケメンにだけ見せようとすること)こそが女性性の本質であることは、言うまでもありません。BLは「性的に欲望される私」を受けである男子に代行させることで、自身の身を安全圏に置く、言わば自分のパンツを受けの美少年に履かせるという、女性性の難儀さの表れでした*4。
男子のスカートめくりと女子のめくられまいとする丁々発止」を紙の上で行っているのが萌えであり、BLなのです。
 腐川さんというキャラは、「喪女が必死に隠しているパンツを盗み出して晒し者にした萌えオタどもの憎むべき犯行」という側面がある一方で、しかし、「そのオタはパンツにホンキで萌えてもいた」という両価性のあるキャラでした*5。
 お断りしておきますが、ぼくは「腐川さんはリアルに考えればブスな腐女子だが、そこを萌えキャラっぽく可愛く描いたのだ」などとつまらぬことを言っているわけではありません。
 難儀な女の「内面」を鋭くえぐり出し、その内面にまで萌えるというアクロバティックなことを実現してしまったのが、この腐川さんなのだ、と言っているのです。
 だからもしですが、この先日本が貧しくなり、女性が今にも増して不幸になったとすれば、それを全て男性のせいにする更なる支離滅裂なレトリック、超フェミニズムみたいなものが出てくることもあり得ましょう。
 その時、恐らくぼくたちは更に頭をひねってそうした女性たちを「萌え」化させていることでしょうが……しかしそろそろ手打ちにした方が、という気もするのです。
 オタクは、女の子の美化に努めてきた、一種の美化委員的です。
 そのオタクたちさえも、とうとうこんな形でしか、今の女性たちを描き出すことができなくなってしまいました。
 この辺りが潮時では……という気も、やはりしてしまうのです。


*3その驚きは当ブロマガの『夏休み千田有紀祭り(第二幕:ゲンロンデンパ さよなら絶望学問)』、『夏休み千田有紀祭り(第三幕:スーパーゲンロンデンパ2 希望の学説と絶望の方向性)』に如実に表れています。何しろ最初の作品を書いた時、ぼくは腐川さんの多重人格設定を知らずに「フェミ嫌いの腐女子」としたのですから。後半ではジェノサイダー翔に準えて「実はフェミニスト」としたのですが、悪くない翻案になっていると思います。
*4と、同時にフェミニズムもまた、「男女関係におけるネガティビティの全てが男のせいである」との強弁を弄することでブスがいい女になろうとする窮余の策、出来のよくないツンデレであることは、もはや詳述するまでもないでしょう。
*5本ゲームでは親しくなれば腐川さんのパンツをゲットできるのですが、そのパンツは「普段は不潔にしている腐川さんだが、たまたま洗い立てなので清潔であった」という実に難儀な説明が加えられています。


  

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ぼくたちの好きな性と文化の革命

2013-11-09 00:01:32 | オタク論

 

 少し前、蔦森樹師匠がホメオパシーの人になっていた件が、ごく一部の人々に反響を巻き起こしました。
 喩えるのならば下町の定食屋のテーブルに置かれたお冷やのコップの中で発生した嵐、とでもいった規模でしょうか。


 ――おい待て兵頭、そもそもホメオパシーって何だ?


 はいはい、ごく簡単に申し上げますと、要するに「科学的根拠のないおまじない」です。
 ちなみに師匠は現在では「蔦森かおり」と名を変えているとのことで、その名前でググるとどうやらペーパーラジオニクスにもご執心の様子。「ラジオニクス」とはやはり「科学的根拠のない医療装置」を総称する言葉なのですが、「ペーパーラジオニクス」はその医療装置の回路図を絵に描くだけでも効果を発揮するのだ、との考え方であり、そもそもがガラクタでしかないものを紙に描いたからといって効を奏するはずもありません。やはり一種のおまじないで、発想の根底には「お札」のイメージがあるのかも知れません。


 ――いや……その前にその蔦森何ちゃらって何モンだよ?


 はいはい、ごく簡単に申し上げますと、要するに「90年代型ミサンドリー型メンズリブを唱えていた御仁」です。
 彼は男である自分に嫌気がさしてオカマになり、当時ちょっとだけはやったメンズリブ運動に身を投じ、トランスジェンダー(性別越境)を盛んに唱えていたのです。
 師匠のトランスジェンダーとしての処女作は『
男だってきれいになりたい』というもので、当時の男の子たちがおしゃれになった傾向を絶賛し、「女装したっていいじゃないか」と説く本でした。
 しかしこの本については、ぼくも当時読んでいて、実のところそれほどに悪い読後感は持ちませんでした。というのも、彼の眼差しはあくまで男の子への愛の籠もったものであり、


 女の子は“男並み”にしてもいいし“女並み”の逃げ道も持っている。


 だって産む産まないに関わらず、子供をつくる能力って女の誰にもあるんだからね。努力したり改造して能力持ったわけじゃないんだからね。
(中略)
そのあたりまえなことをこんなに強調して美しいものにして、あげくのはてに、ただのあたりまえの身体を持つ自分にうっとりして「女は、母は、特別な存在なのよ」って自覚するんだ。
(中略)
 やめてほしい!! 特に男の子のこと考えたら、今すぐにでもその口を永遠に閉じろ!!


 といった挑発的な言葉が並んでいます。
 今読み返してもちょっと驚くほどで、「いいこと言うなあ」と思うのですが、不思議なのはそこまで言っておきながら、師匠は結局、


 そこまで持ってきてくれたのはフェミニズム(女性運動)やった女の人の努力だから、男の子、そのことにありがとうって言っても、言いすぎたり媚びたりしてること、ないよ。


 などとフェミニズムへの感謝を要求し出すのです。「そこまで持ってきてくれたのは」というのは要するに過剰な(ものであると彼が考える)男らしさをフェミニズムが批判したこと、なのですが、いや、「過剰に男らしさは全て悪いことと決めつけた」のがフェミニズムでしょうに。
 事実、彼はこの数年後、『
はじめて語るメンズリブ批評』のまえがきで


 だがその一方では、ジェンダーの公正化への推進過程でフェミニズムの活動から「男であること」を糾弾され、男性という地位や名誉を損なわれた、「悪者にされた」という反発の動機からの、反フェミニズム的、もしくは反ジェンダーフリーの色合いの濃いものや、弱くなった「男らしさ」にかつを入れ、ジェンダーの不公正の解消を目指さずに「父権」を強めることで、男の立場を復権させようというものもある。
 それらの心の原動力は、「男らしくない」ことへの恐れではないかと思う。
「正しい男」は強く立派で尊敬を受けることが普通なはずだ、という呪文に逆に脅迫されている。編者としてそれらの存在があることを認めるが、これをメンズリブだと肯定する気持ちにはとうていなれない。リブではなく「男らしさの問題」そのものだと思う。


 などと書いています。
『男だって――』も見ていけばいわゆる古いタイプなマッチョ男性へは憎悪の感情をぶつけていますし、上の女性へのラディカルな批判は要するに「
オカマの、女への羨望故の憎悪」であるとわかります。
 となると男の子への愛に満ちた視線も実のところ、「男らしさを忌避する草食系男子」が最初から想定されているからこそだということは、明らかです。上でフェミニズムへの感謝を要求しているのもそういうことで、師匠の頭の中では最初っから「男の子たちは男らしさに疲弊している、そこから解放されて女の子みたいになりたいはずだ」との幼稚な思い込みでいっぱいなのでしょう(当時、男性がスカートを穿くファッションがちょっとだけはやっていたようでもあります)。
 そうなるともう、彼の男の子への愛も「ホモの上司が妙に優しくしてくる」のといっしょで、「こっちからするとノーサンキューな部分」にのみ注がれているということなのですな。
 結局、90年代型メンズリブとは、こうした男性への憎悪感情そのものでした。
 彼らにとってフェミニズムへの批判はハナから認めることはできず、「男らしさ」とは問答無用で悪なのです。
 このまえがきは


 そこで今回の編集では、メンズリブを、自分という「男性」以外のすベての他人の「性」(女性、同性愛男性・女性、インターセクシュアル、トランスジェンダー、トランスセクシュアルなどを含めた)にも、そして周縁に追いやられているすべての人にも、尊厳と公正を認めようと模索する、男性のための当事者運動と広義にとらえた


 と続きますが、「男性」運動を女性やセクシャルマイノリティのための運動であると解釈することのどこが「広義にとらえ」られているのかさっぱりわかりません。と言うか、そんなの「今回はトカゲもほ乳類であると広義にとらえた」と言っているようなものです。要するに彼にとってのメンズリブとは、「女性やセクシャルマイノリティへの謝罪と賠償」そのものなのでしょう。
 彼らのコミュニティではトランスセクシュアル、トランスジェンダーの人々を崇め奉り、トランスセクシュアル、トランスジェンダーの人々は女性ジェンダーを身につけた自分を誇示する、といった傾向が大変に強かったように思います。
 そこでこそ「俺たち選ばれし者だけが正しい男であり、他の男どもはクズだ」とのまさに醜い「マチズモ」が発露されているのですが、彼らはどういうわけか、そうした格好の悪い自分たちの振る舞いには驚くほどに無自覚です。
 何でも、師匠はオカマになる前にバイクについての著作があるそうで、ここからはマッチョな男がそんな自分から逃避するために、当時「ナウい思想」であるともてはやされたトランスジェンダーにハマった、といった構図が見えてきます。
 師匠の自伝的な著作『
男でもなく女でもなく』のラストではUFOを見てしまう下りがあり、当時は「あぁ、『まんが道』のラストといっしょで一種の象徴的表現なんだろうな」と思っていたのが、今にしてみれば何とも示唆的だなあと、思い返してみると感慨深いものがあります。「悪い意味でのピュアさ」「選民思想」を持った師匠がオカルトへと足を踏み入れるのは、もう必然だったと言えるかも知れません。


 さて、翻って昨今の「男性差別クラスタ」はどうでしょうか。
 彼らは(当たり前ですが)一枚岩ではなく、理論的支柱があるとは言い難いのですが、多くはこの時期の「メンズリブ」のリピートであるように、ぼくには思われます。
 彼らを分類すると、


 1.ドクター差別のように、「身体を動かすことで何となくキモチヨクなってしまう」体育会系タイプ
 2.「とにかく『女死ね!』と口走っていると何となくキモチヨクなってしまう」DQNタイプ
 3.「左派寄りのロジックをそらんじていると何となくキモチヨクなってしまう」亜インテリタイプ


 と、大まかに分ければこのように分類できるように思います。
(右派のアンチフェミ派もいますが、あんまり「男性差別云々」は言わない気がします。ぼくが知らないだけかも知れませんが)
 結局、ネット上などでも(一応の意味の持った)言葉を発し続けているのはこの3.ということになるでしょうか。
 彼らのキーワードは察するに「弱者男性」ということになるように思います。
「弱者男性は女性より不利だぞ」というのがその主訴のようで、労働・経済問題が根底にある、タイムリーといえばタイムリーだけれども、ぼくからするとあんまり興味の持てない問いかけであるように思えます。90年代であれば「ジェンダー」という「ナウい思想」にハマっていたであろう御仁が、今では「労働問題」という「ナウいトピック」にハマっているだけなのでは、とぼくには思えるのです。
 実はここしばらく、こうした人たち幾人かと少し話をして、そして残念ながら残念であったというオチがつき、togetterにまとめるという機会を持ちました。
 以下はそれを下敷きに書いていくことにします。最低限の説明はしますが、興味を持たれた方は「
「我こそはオタクなり」と絶叫する人たち」をご覧になってみてください。
 例えばsyuu_chanという人物。彼は「男性全体が女性に不利益を押しつけている」との声に対して


何が『男性社会』だよ、バカ。ちゃんと『新自由主義の勝ち組とゴリ保守の爺婆が共謀して作ってる社会』と書け。弱者男性もその『男性社会』の共謀者だというのか、ふざけんな。
https://twitter.com/syuu_chan/status/376178880723165184


 とおっしゃっているのですが*1本人はジェンダーフリー論者。
 そして本業はエロゲのシナリオライターでいらっしゃるにもかかわらずどういうわけか、


 おたくが綺麗な統制社会を目指すなら、俺はおたくで無くてもいい。むしろおたくを殺す側に回ってやる。俺はおたく文化が守れればそれでいいんで、綺麗な統制社会を目指すようなクソ人種なんか守る気はない。殺せ。
https://twitter.com/syuu_chan/status/375092499317944320


 とまで言うほどの、重篤なオタク憎悪に取り憑かれた御仁なのです。
 こんなの、「チョンは皆殺しにせよ!」と絶叫する在特会と全く変わらないでしょう。
 そもそもこの、「おたくがきれいな統制社会を目指す」という前提が既に理解不能なのですが、彼の中のオタクへの殺戮したいほどの憎悪を正当化するためには、
「おたくはそうでなければならない」のでしょう。
 ぼくがtogetterにまとめた後も、ご本人は確信犯で特に弁明する必要も感じていらっしゃらないご様子。
 こういう人が「弱者男性云々」と口走るのだから、恐れ入ります。

*1彼は「いつから男女って階級闘争になってる?」とも言いますが、いや、それはフェミが出てきてからですって。

こうして見るとsyuu_chanの言い分は「フェミニストどもは正義である我々と連帯し、何とか山荘の時みたいに我々ににぎりめしを作り、我々に回され、人民の子を産め!!」と言ったものなのかも知れません(あんまりマジに取らないように)。


 もう一人、BeMIX93という人物。彼もまた「表現の自由クラスタ」であると同時に「男性差別クラスタ」ですが、syuu_chanに唱和し、


前RT2つ オタクでありながらネトウヨ…ていうか自民党信者ってのはオタクと認めたくないけどな。嫌いな言葉だけど、「オタクの風上にも置けない」って奴だよ。国による統制とか規制とかを望んでいる、またはオタク文化より自分のメンツを優先している時点で2次元への愛に欠けているから。


 とまで言うほどに偏向した思想の主です。
 彼は


上野千鶴子さんについては、以前はともかく、今は私は表現規制やポルノ規制に反対しているという一点のみを評価し、それ以外はまったく評価しておりません。


 と自称しますが、ぼくが上野師匠が売買春を全否定していること(売買春を否定してポルノは肯定というのはおかしいでしょう)を指摘しても、その矛盾には気づかず、こちらを罵倒し、或いは恫喝してくるのみ(彼の幼稚すぎる対応は大いに笑えるので、是非togetterの方をご覧になってみてください)。
 いや、確かに彼は「ジェンダーフリーの押しつけ」を腐すようなつぶやきをしていたこともあり、それなりにフェミニズムに対する懐疑精神を持っていることは恐らく、嘘ではないでしょう。
 が、それにもかかわらず上野師匠の矛盾を全力でスルーするというのは、平仄にあわない。
 こうして見るとsyuu_chanもBeMIX93も蔦森師匠同様、「悪い意味でのピュアさ」「選民思想」を持った、オカルトへと片足を突っ込んだ御仁であることがわかります。


 あくまで想像ですが、BeMIX93の矛盾した振る舞いは、結構大きな意味を持っているように思います。
 実はここしばらく、「ツイッターでフェミニストに対して批判的なことを言っている人たちがいたので、調子に乗って唱和したらいきなり叱られたでござる」という機会を何度か持ちました。
 蔦森師匠を思い出してください。
 もしぼくが彼の『男だって――』を読み、「我が意を得たり」とばかりにフェミニズムを批判した内容の手紙を彼に書き送っていたらやはり、同じような事態が起こることが想像できるのではないでしょうか。
 彼らの、フェミニズムに対するツンデレ的ヤンデレ的感情の本質は、一体何なのか。
 ぼくは度々、「女災」の原因はフェミニストそれ自体ではない、と書いてきました。フェミニズムそれ自体をラスボスであると考えるのは適切ではないと。
 しかし、それはこう言い換えられるかも知れません。


「ラスボスは、フェミニズムに心惹かれてしまうぼくたちの弱さそのものである」。


 少し先走りました。
 順を追って説明します。
 彼らの幼稚で不可解な言動の原因は、どこにあるのでしょう。
 考えればそれほど難しいことではありません。
 左派である彼らにしてみると、フェミニストは仲間内でそれなりの勢力と権力を持っている一派です。それに対して胡散臭いものを感じてはいても、真っ正面から否定するのは憚られる。
 結果、彼らが「男性差別云々」などと主張する時はどうにも不自然な論理展開を辿らざるを得ない。
 ゴッドマンに出てくる怪獣が貴重なセットを壊さないように大暴れしている*1ような、そんな何かに遠慮した暴れ方しかできない。
 BeMIX93は上野師匠について「表現規制やポルノ規制に反対しているという一点のみを評価し」ている、と表明していますが、その「反対している」というポーズに欺瞞があるのだというぼくの指摘を受け容れることができずにいるのだから、それは嘘としか言いようがない。むしろ、「何とか上野師匠をアリにするため」に「いや、上野師匠は問題もあるが、それでもポルノ規制には反対しているのだ」という幻想にしがみつこうとしている、と考えた方が理屈にあう。
 想像するに蔦森師匠は「意識の上でも親フェミ派」、BeMIX93は「意識の上では反フェミ派」といった違いはあるのでしょうが、両者とも実はフェミニストに頭が上がらない事情を抱えているわけです。
 彼のブログを見ると反ポルノ派を批判し、


「子供に性的欲求を抱くこと自体が許せない」、「ポルノは女性蔑視である」(ラディカル・フェミニズム)、
(中略)
…元になる思想は様々ですが、共通しているのは「自分たちの思想を国民全員に強制したい」という強い欲求があることです。


 と書かれていますが(自分たちの思想をオタク全員に強制したいという強い欲求があるのは彼自身の方であるように思うのですが)、この「ラディカルフェミニズム悪者論」こそが、何とかフェミニズムの一部だけでも延命させたい「表現の自由クラスタ」がでっち上げたデマであるようにも思えます*2。

*1『行け!ゴッドマン』。低予算のため、怪獣は貴重なセットを壊さないよう細心の注意を払って暴れ回るという、妙な番組でした。
*2そもそも上野千鶴子師匠自身がラディカルフェミニストであるのを、昨今、「表現の自由クラスタ」は間違った認識の下、(或いは意図的にデマを流し)上野師匠はオタクの味方、ラディカルフェミニストこそが敵だ、と実に奇妙なプロパガンダを繰り返しています。これについては「2012年女災10大ニュース」の第2位を参照。

 ――さて、何だか疲れたのでそろそろまとめに入ります。
 togetterの方でもさんざん左派を腐していますが、しかし「左派」を「反体制」と考えるならば、それそのものは否定するべきものではないでしょう。労組が反原発運動とかやってないで駆け込んでくる失業者の雇用について真摯に取り組んでいるのであれば、それは存在価値があるはずです。
 が、こと「女災」問題についてはこうした「左派」的なスタンスには賛成できない。
 何故か。
 少なくとも彼ら「男性差別クラスタ」を見ている限り、「弱者男性」というカテゴリを作り上げ、「弱者仲間」でつるんでフェミニストたちが「体制」とやらからかすめ取ったおまんじゅうを更にかすめ取ろう、或いは彼女らに手もみをすることでご相伴にあずかろう、といったことしか考えていないからです。
 そしてその時には必ず、彼ら自称「弱者男性」よりも弱い者が仮想的な悪者にされ、スケープゴートになるのです。蔦森師匠の不可解極まる「メンズリブ」の定義、そしてsyuu_chanやBeMIXの半狂乱のオタクへの憎悪がどういう理由によるものかを考えた時、それは明らかになるでしょう。
 上に、「ラスボスは、フェミニズムに心惹かれてしまうぼくたちの弱さそのものである」と書きました。
 しかしそれを更に言い換えれば、

「ラスボスは、差別と言うお題目を唱えればいいことがあると考えるぼくたちの弱さそのものである」。


 となるのかも知れません。
 ぼくたちは恐らく、「サベツ利権」にはあずかれないし、あずかるべきでもない。
 万が一、あずかれる時は恐らく、蔦森師匠が言ったように、「サベツ界の先輩」であるフェミニストたちにカステラを届ける羽目に陥る。
 しかしカステラを贈って彼女らのご相伴にあずかっても、それって実は税金だし、その税金はぼくたちの稼いだお金から出ている。
 だとしたらやっぱりそれって、ムダじゃあないでしょうか?

 

 

 

 

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LOVE男

2013-11-01 18:55:47 | アニメ・コミック・ゲーム

 考えるとこれ、四月頃に書いたものなのですが、まだこっちにはうpしておりませんでした。ひとまず、消化しておこうということで……。


 *     *     *


 二十年以上前に描かれた漫画なのですが、ぼくは先日、初めて読みました。
 読んで、驚きました。
 この人の主張は、『
電波男』と同じなんですよ。
 いや、全く同じではないけれども、かなり被る部分があるんです。
 単行本としては『ヨシイエ童話』という形で出ているのですが、『LOVE男』編が始まる五巻が出たのは1992年。バブルの真っ最中に本作の著者、業田良家さんはたった一人で「恋愛至上主義」と戦っていたのです(ウィキで見ると厳密には91年までがバブルのようなのですが、同時にこの頃はそうした残り香が色濃く残ってもおりました)。
 以下、駆け足であらすじをご紹介しますが、あくまでこれがバブル最盛期に描かれたお話であることを念頭にお読みいただければ幸いです。


 主人公の大学生、ラブオは当時の典型的な男性像っぽいチャラ男です。そんな彼がやはりクソビッチ真理子にあっさりふられ、「真の愛が欲しい」と切望したところから物語は始まります。
 そんなラブオの下に現れた、「
LOVE男」のメッセンジャーと名乗る怪人。彼は「LOVE男がお前を後継者として選んだ、ミッションを果たしていけばお前もLOVE男になれる」と称し、ラブオは半信半疑のままそれに振り回されることに。
 そこに絡んでくるのがアパートの隣人、沼津。彼は三十過ぎの典型的なブサメンで、野暮の極みの田舎者、しかし非常に誠実な人間として描かれます。
 そして更に現れた考古学者はかつての日本に「人格者文明」なる超古代文明が存在したと唱え、その文明は「
勇気男」、「真実男」など十三人の賢人(極上人格者)が治めていたユートピアであり、LOVE男もそうした賢人の一人であったと言います。
 一方、その考古学者には孫娘のみさおがおり、彼女は「美人だが、清楚で普段は眼鏡をかけていて野暮ったく見られている」というオタク好みとも、古典的少女漫画的とも言える設定。みさおは見た目は悪いが誠実で心優しい沼津にぞっこん(どういうわけか彼女には沼津が二枚目に見えているらしい)。沼津もまた彼女を愛しますが、何しろ朴念仁のため、全くアプローチができない。そこにつけ込んだラブオが小狡い手でみさおの気を引こうとするのに、読んでいる側が苛つき続ける、というのが前半のストーリーです。


 さて、いかが思われたでしょうか。
 何しろ当時はヘラヘラとした恋愛至上主義の時代でした。
 読んでいる側も、「誠意を持った沼津が愛を勝ち取る」というクライマックスを思い浮かべるのではないでしょうか。
 さて、ここから先は大幅なネタバレが開始されます。
 もしオチなどを知りたくない方は、以降は読まれませんよう。


 ――中盤ではまるで沼津が主役であるかのように彼とみさおの関係が描かれ、二人はついに恋人同士になるのですが……何か急に、沼津は冷めてしまい、みさおを捨ててしまいます。


 れれっ!?
 と思われたのではないでしょうか?
 ぼくもそう思いました。


 そこへ新キャラとして沼津の父親が出現、彼をペルーに連れ出します。当時紛争地帯であった場へ、国際的大問題を解決するために。
 実は沼津の父は「勇気男」でした。そう、彼もまた極上人格者の末裔であり、息子を後継者にしようとしていたのです。
 そこで極上人格者たちの会議の様子も描かれます。
友情男」、「倫理男」、「誠実男」、多くの賢人たちが死んだり行方不明になったりしているという非常事態、そこにとうとう「LOVE男」がその姿を見せます。彼は「今のままでは人類の文明は行き詰まる、それを阻止するには我々の正体を明かし、現代人に警告を与えるしかない」と説きます(ちなみに「LOVE男」は業田作品にスターシステム的に登場する「源さん」。他の作品でも人間の良心を象徴するような超越的キャラとして、この源さんが多く登場しています)。
 さて、LOVE男が語るには、古代の人格者文明は「愛こそすべて教」という恐るべき邪教に滅ぼされてしまった(この宗教のため、「恋愛をしていない者は半人前と見なされるようになった」という描写が笑ってしまいます)。しかし今の文明はそれよりも深刻な事態を迎えている。「愛こそすべて教」に加え蔓延する「商品としての愛」によって、ぼくたちの文明は滅びを迎えようとしているのです。
 極上人格者が十三人おり、一人ひとりが様々な徳性を象徴することが端的に表すように、愛という徳性だけが特化されている今の状態ではダメだ、というのがLOVE男の主張です。
 同時にラブオの身辺では母も姉も「真の愛を見つける」と称して家を出て行き、姉が「統一愛教」に入信し、集団結婚式を挙げる様も(イメージシーンとして一コマだけですが)描写されます。丁度この頃、統一教会が問題になっておりました。
 それらと平行して、LOVE男の言葉が続きます。愛がもてはやされるほど、人はどこにもない、いや自分の中にしかない「真の愛」などというものを求めるようになる。そうした幻の「真の愛」を求めれば求めるほど、人は逆説的に愛を失ってしまう。なるほど!


 ――ただ、やはりちょっとぼくは、上の沼津とみさおの下りに疑問を感じました。
 浮ついた愛を否定することが本作のテーマと言うことは、ここまでくればわかることです。しかしそれが語られる前(LOVE男登場前)には、二人の恋愛がこれでもかと描写されていました。
 みさおにふられたと誤解し、廃人同然になるほどであった沼津が、自分を求めて半狂乱になっているみさおを捨てて海外に旅立つのは、どうかなと思わざるを得ません。
 それに、トップの表紙を見ればおわかりになるかと思いますが、沼津は『ちびまる子ちゃん』で言えば永沢とかブー太郎とか、その辺りのご面相です。性別を逆にしてみぎわさんが花輪君をふるところを想像してみたら……やっぱり娯楽作品としてちょっとなと思うでしょう?
 例えばですが、ヒーロー物で最終回、悪のラスボスに「人類は地球環境を汚すから、滅ぼしてやるのだ」「真の悪は人類に潜む闘争本能だ」などと語られ、ヒーローの信じていた「正義」が揺らぐ、みたいな展開がよくあります。しかしそれでもヒーロー本人の善性が否定されるというのは例外的であり、本作の展開をヒーロー物に例えるならば仮面ライダーが実は悪意の主であるとされ、最後に善に目覚めたライダーがショッカー側についてしまうような、ちょっと感情移入のしにくいものです。


 ――だがちょっと待って欲しい。その感想自体、兵頭が実は「恋愛至上主義」の罠に絡め取られているからこそではないのか?


 はい。
 そこは別に否定しません。
 しかしそこは後で語るとして、もうちょっとお話におつきあいください。
 結局、ぼくが納得しにくかったのは沼津とみさおの「愛」が浮ついたニセ物、いや、そこまでは言わずとも、未成熟なものであった、といったような説明がなされていない点にあります。
 もっとも、みさおは諦めきれずに沼津を追い、最終的に沼津も彼女を受け容れる、という展開は用意されています。が、正直その描写も(これは単純にぼくの理解力不足である可能性が大ですが)ちょっと納得しづらい。
 ぼくはこの漫画を見ていて、島本和彦さんを思い出しました。
 島本さんの「硬派」な価値観は漫画にも横溢してはいますが、彼のラジオを聞いていると、それはよりストレートに感じられます。恋愛や女性、エロといったものに対して妙に潔癖である点。またそれと同時に、「わたくしごと」ばかりに邁進する昨今の漫画作品に対する深い怒り。一方、男性性に対する深いこだわり。「新劇場版はシンジが大義のために戦う話にすべき」みたいな主張を、彼はよくしています。
 その辺のオタが言えば「マチズモ!」「ホモソーシャル!」と叩かれるようなことなのですが、オタク文化人、フェミニスト腐女子が彼を批判したのを耳にしたことは、不思議なことに一度もありません。まあ彼ら彼女らが権威主義的で、弱者にしか牙を剥かないのはお約束ですが。
 閑話休題。
 ご存じの方も多いでしょうが、業田さんはむしろ政治漫画で知られた漫画家であり、その立場は保守寄りと言えます。
 その意味で沼津が「勇気男」の後継者であり、そんな彼を「勇気」を持って追いかけたみさおだけが、劇中唯一「愛」を成就させるというのは象徴的と言えば、あまりに象徴的です。本作は「愛」と「勇気」という概念を対決させ、二人だけの間で閉じてしまう「恋愛」よりは、より多くの人々を救う「勇気」をこそ上位に置いた作品である、とも言えましょう*。


 *しかし沼津の目的がペルーの人々の救出であることを考えると、彼は「勇気」男ではなく「正義」男とした方が、という気もしますし(ちなみに劇中、「正義」男は既に死んだと説明されています)、また、「急に愛が醒める」というよりはペルーの現状を知り、みさおを置いてでも駆けつけずにおれなくなった……という展開であった方が、という気もします。


 いずれにせよ、本作はスケールの大きい、素晴らしい作品です。
 それに間違いはないのですが、それでもぼくは、勝手に愛から冷めてみさおを一方的に捨て、紛争地帯で人々を救うことの方が意味があると「大義名分」を掲げる沼津に、感情移入しにくいのです。
 先に、古代文明では「愛こそすべて教」のせいで「恋愛をしていない者は半人前と見なされるようになった」という描写について指摘しました。ここなど今の「非モテ」論などを思わせなくもありません。
 とは言え、今の非モテ論は要するに

 1.女が悪い。
 2.社会が悪い。しかしぼくたちが女にモテるようになることはないので、二次元に引きこもれ。(本田透型)
 3.女に疑問を持つことも、リア充を妬むこともまかりならん。とにもかくにも現状で幸福を感じよ。(海燕型)

 に分けられ、結局、いずれも恋愛や女性そのものの価値には疑問を感じていないフシがあります。
 1.は(正直この1.型の論者の典型例をぼくは知らないのですが)恐らく「モテたい」という心情は否定していない。
 2.は三次元の女を捨て、二次元へと旅立っただけで、「恋愛」そのものの価値は最大限に認めている。
 3.はお前たちは「モテ」を諦念せよという考え方ですが、その本意は「女性を傷つけてはならぬ」というところにあり、「女性とリア充様の恋愛」をむしろ温存する方向にあります。
 つまり、こうした非モテ論は徹底的に「わたくしごと」の追求をまず、前提として是としており、しかし『LOVE男』は島本和彦ばりの男気で、それに対して「もっと大きなことに目覚めよ」と言ったのです。何だか、全ての魔法少女や人々を救うために「希望」そのものになったまどかちゃんを思わせないでもありません。
 しかしぼくはその一方で、「今時の若いヤツがわたくしごとにばかり拘泥する傾向」を一概に否定できないものを感じるのです。
 それこそ『エヴァ』が象徴するように、ぼくたちは「正義」を、「大きな物語」を喪失しました。米ソの冷戦構造が崩れたからでしょうし、景気が悪くて先行きが見えないからでもあるでしょう。『ガンダム』などのリアルロボットが「正義」に疑問を呈し続けたからでもあるでしょう。
 しかし、理由はどうあれ、今のオタク文化がそうした「正義の戦い」を放棄し、専ら「美少女たちとのハーレム」を志向していることには、やはりそれなりの必然性があるはずです。
ポリアンナ』の原作小説には、「ご近所の教会の人々が、国中で話題になっている紛争地帯だか何だかの難民を救う運動には夢中になっているが、足下にいる身近なスラム街の子供たちには手を差し伸べようとしない」といったエピソードが出てきます。
 こうした心性、つまり「近しい隣人の困窮に目が行かず、テレビに出ていたわかりやすい弱者に目が行く傾向」みたいなものに対して、「○○症候群」みたいに端的にまとめた言葉が何かあった気がするのだけれど、すみません、どうも思い出せません。ともあれ、ペルーに出かけていく沼津の姿も、ぼくにはこうした「遠視眼症候群(と、ひとまず言っておきます)」に見えてしまうのです*。
 そうした心性には「悪気はないんだろうけれども、わかりやすい、いい人になりたいんだろうな」と傍目からは何とはなしにそのいやらしさが察せられてしまう欺瞞がつきまといます。
 それは例えば、「どうせ俺、男だし」「まあ、オカマなんて私の近所にはいないでしょ」との気楽さから、軽薄に(しかし本人は100%善意で)「オカマは可哀想なマイノリティだ、彼らのケンリを認めよ! それには
オカマに女湯に入る権利を認めよ!!」と、言ってしまうような。
 それならばやはり、ぼくたちは「勇気男」(でも「正義男」でもいいのですが)になろうと一足飛びに考えることなく、ひとまずLOVE男に弟子入りを考えるべきではないか。
 衣食足りて礼節を知るの言葉通り、自らがある程度満ち足りることでしか、先へは進めないのだから。
 以降、クライマックスを全部書いてしまうことにしましょう。繰り返しますが、
本当に最後の最後まで書きますので、知りたくない方はここでストップしてください。


*1ここ、読者の方からディケンズの「望遠鏡的博愛主義」という言葉をご教示いただきました。ぼくがディケンズなど読んでいるわけはないのですが、どこかで聞きかじっていたようです。


 LOVE男は愛に悩む人々(全員男)一人ひとりと語りあい、示唆を与えます。
 何しろ当時は男性が女性にアッシー君、ミツグ君として奴隷のごとく扱われることが普通とされていた時代です(フェミニズムがもっとも栄えたのがこの時代である、ということが、その思想としてのダメさを端的に物語っています)。LOVE男の言葉に目覚めた男たちがすっきりした顔で彼女の呼び出し用のポケベルを捨てていく様は、見ていて笑みがこぼれます。
 そしてラブオは、作品冒頭で自分の下に現れたLOVE男のメッセンジャーが実は自分より先に例の真理子にふられていた男だと知り、自らもメッセンジャーになることにします。LOVE男は後継者候補として、自らの弟子として何人ものメッセンジャーを育てていたのです。ラストは「街では最近メッセンジャーが増えてきた」ことが描写されると共に、相変わらず男たちを次々と乗り換えている真理子の下へ、ラブオがメッセンジャーとして現れるところで終わっています。


 ――正直、クライマックスは難解で意図は読みづらいのですが、(復縁するかなどはさておき)元・恋人と共にエゴイスティックな「真の愛」を捨て、「成熟した愛情」を持てる人間への成長をしていこう、というようなことなのでしょう。
 ここでは「愛の犠牲者」は常に男として描かれ、女性は「エゴイスティックな真の愛」とやらを振り回すダメな連中として描かれていることに気づきます(唯一の例外が先の沼津×みさおでした)。当時としては、いえ、今もですが当時は更に輪をかけて、「愛憎劇の悪役が女性」というのはリアリティがありました。上に書いたアッシー君、ミツグ君といった言葉が溢れていた時期ですから。
 この真理子も「真の愛」を探して、次々と男を乗り換えている人物として描かれています。それは、ぶっちゃければ「無私の愛でワタシを絶対的幸福に導いてくれる人」という、それこそ神様ででもなければできないようなミッションをクリアできる男性を求めての、終わらない男性遍歴とも言えましょう。それは彼女の「ネガ」であるフェミニストたちが、丁度、男たちに「コイツはダメ、アイツもダメ」とダメ出しをし続ける姿と全く、同じに。
 そこへラブオは、言ってみれば「身勝手なアスカに『気持ち悪い』と言いつつも、同時に『また会いたいと思った』と声をかけるシンジ君」として最後に姿を現したと言えるのではないでしょうか。


 さて、調べてみると大変残念なことに、本作は絶版になっています。
 確かに、バブル期に描かれた描写は今から見ると古い部分もないではないのですが、それでも充分に現代でも通用する、大人のための童話であると言うことができるかと思います。
 
拙著と共に、再版希望のリクエストをしていただければ幸いです。


  

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