兵頭新児の女災対策的読書

「女災」とは「女性災害」の略、女性がそのジェンダーを濫用することで男性が被る厄災を指します。

風流間唯人の女災対策的読書・第15回「これからの男性学たちへ」

2020-11-28 18:35:04 | 弱者男性


風流間唯人の女災対策的読書・第15回「これからの男性学たちへ」


 今回はみんなの人気者、太田啓子師匠の著書『これからの男の子たちへ』をテキストにした、「男性学」についての動画です。
 などと書いていますが、この本、アマゾンでも一時期フェミ関連でも一位の売り上げになっていたりしたんですな。
 こういうものが平気で支持されるのがフェミ界隈であるとみなさん、よくお含み置きください。

 正直、youtuberとして収入を得る、などは夢のまた夢の状況ですが、YOUTUBEの方は登録していただく、高評価ボタンを押していただく、コメントをつけていただくことで再生数が上がるようです。
 どうぞよろしくお願いいたします。

バックラッシュ! なぜジェンダーフリーは叩かれたのか?(仏血義理編)

2020-11-21 19:16:16 | 弱者男性


※この記事は、およそ4分で読めます※

 ――さて、ここしばらく何度か、2012年当時のブログ記事の再掲を行ってきました。
SAVE JAMES」問題に関連して、十五年程前のフェミニストたちの「ジョン・マネーの尻尾切り」の実態についてご説明することを、意図したものでした。
今回は前回記事の次に書かれた記事、「2012年女災10大ニュース」の第3位、第4位がそれにかかわるトピックスについて充てられていたため、その部分を採録することにしましょう。
 大変短いものですが、当時のフェミニストたちの振る舞いの一端として、ご覧いただければ幸いです。

*     *     *



【第4位】ダイアモンド博士が親ジェンフリ派というウソがバレる
【第3位】フェミニストがマネーを参照していないというウソがバレる


 はい、4位と3位は同時にご紹介しましょう。
 もうこの一、二ヶ月この話題ばかりで皆さん、飽きていらっしゃるかと思います。
 詳しくご存じない方は、今までの記事をご覧になって下さい。



 が、小山エミ師匠と議論を重ねた『世界日報』の山本彰氏から面白い記事をご教示いただいたので、ここでは補足説明的にそれをご紹介することにしましょう。
 日本性教育協会というところの発行している『現代性教育月報』という月報があるのですが、これの2006年1月号にダイアモンド博士が寄稿をしているのです。
 ダイアモンド博士は

 この報告(引用者註・マネーの双子の症例)により、人は性心理的にジェンダー・レスの状態で生まれ、ジェンダーに特徴的だと思われるものはもっぱら養育によるものだというフェミニストの主張が生まれたのです。そしてフェミニストは、女性として扱われた男性が女性としてうまく適応できたのであれば、教育・就労・家庭内の関係性をはじめとする、あらゆる事柄について男女が平等に扱われるよう、子どもの教育のしかたを変え、女性に与えられている機会を改善していくべきだと主張しています。


 と、明らかにフェミニストが「双子の症例」を根拠にジェンダーレスを推進しようとしたのだとの見方をしています。
 もっともこの後、博士は

 しかし、だからといって、私が日本の伝統主義者の主張こそが正しく、フェミニストの主張はまったく間違っていると考えているかといえば、そうではありません。


 と続け、男/女性ジェンダーを身につけたい女/男性や同性愛者を尊重すべきだ、との考え方を示しています。全体的には、博士の主張は中立というか、一般論を述べるに留めている、という印象です。勘繰ることが許されるなら、日本の詳しい状況もわからないことだしという思惑も、イデオロギー闘争に巻き込まれても面倒だしというホンネも透けて見えそうです。
 それを、編集部が前書きを挿入することで何とか自分たち寄りの記事としての体裁を取り繕った、という印象です(事実、ダイアモンド博士の文章の前には博士が男女共同参画の理念に賛同しているのだ、と強弁する『朝日新聞』の記事の転載が挿入されるという、かなり作為的な記事構成になっています)。
 いずれにせよフェミニストたちの不誠実さを物語る上で、極めて重要な資料と言えましょう。


*     *     *


 ――以上です。
 ダイアモンド博士は「男/女性ジェンダーを身につけたい女/男性を尊重すべき」と言っていますが、繰り返す通り、これは極めて間尺を大きく取れる物言いであり、保守派の中でもこれに同意しない人物というのは、かなり例外的な存在と考えるしかない。
 フェミニズムはこうしたふわっとした(「男女平等」と同じく、そこだけ提示されれば、誰もが否定できない)言い方の裏に、自分たちの偏狭で過激なイデオロギーを押し隠し、実際には「オカマは自己申告で女湯に入れるようになるべき」といった、極めて非現実的な運動を推し進めようとしています。

【LGBT】自己申告で女湯に入れるよう政府に提言した日本学術会議の学者リストがこちら : フェミ松速報! femimatsu.com

(小山エミ師匠が、上の記事と同じことを主張していたことについては、過去記事にリンクがあるので、もう繰り返しません)
 これは表現の自由クラスタや彼らの女神であるネオリブがふわっとした「自由」、「多様性」といったスローガンを掲げ、「だから真のフェミは正しい」と強弁を続けていることと全く同じであることも、ここをお読みの方はご理解いただけているかと存じます。
 ともあれ、「顕教」としては薄っぺらで口当たりのいいことを吹聴しつつ、「密教」においてはおぞましい非人道的な正体を露わにする。それこそがフェミニズムの本質であることだけは、しっかりと認識しておかなくてはなりません。

バックラッシュ! なぜジェンダーフリーは叩かれたのか?(仁義なき戦い編)(再)

2020-11-14 21:24:19 | 弱者男性


 ※この記事は、およそ7分で読めます※

『Daily WiLL Online』様で書かせていただきました、「SAVE JAMES」問題についての記事、お読みいただけたでしょうか。
 まだの方はまずそちらを見ていただきたいと思いますが……。

9歳の少年を去勢⁉行き過ぎたLGBTはここまで来ている【兵頭新児】

 この問題に関連して、「ジョン・マネー問題」の復習の意味で、少し前にもニコブロの記事の再掲しました。
 そこで扱ったのは『バックラッシュ!』における小山エミ師匠の論文。
 今回はそれの続き、小山師匠についてのツッコミであります。
 さて、いかなるものとなりますか……。


*     *     *



 皆様、もういい加減飽きていらっしゃるでしょうが、この本についてです。
 今回、大変驚くべき事実が判明しました。
 ミルトン・ダイヤモンド博士が「ジェンダーフリー」に賛成していないということが、はっきりと実証されたのです。
「何をバカな」とおっしゃる?
 それではじっくり見ていきましょう。

 詳しくは前回前々回の記事を見ていただきたいのですが、本書において、またご自身のブログにおいて、小山エミ師匠はミルトン・ダイヤモンド博士と連絡を取り、彼はジェンダーフリー賛成派だ、との言質を得たとの報告をなさっています。
 事実、ダイヤモンド博士は一時期、ジョン・マネーのジェンダー論のウソを暴いた人物として、日本の保守派の反フェミニズム論に担ぎ出されていましたが、この辺りをきっかけに保守派も彼の名を出すことがなくなっていったように思います(と言うか、保守派のジェンダーフリー批判、フェミニズム批判自体が目立たなくなった感があります。ぼくが無知なだけで今もさかんになされているのかも知れませんが)。

 さて、実はその時のメールは、小山師匠ご自身がブログで紹介なさっています。
 正確には、保守派記者の山本彰氏がダイヤモンド博士にラブコールのメールを出し、博士が「ごめんなさい」メールを返した。
 その「ごめんなさい」メールを小山師匠が(博士の許可を得て)公表した、という経緯です。
 何しろ英文ですし、ぼくもその全文を細かく当たったわけではありません。
 しかし小山師匠自身がそのメールの解説をブログに上げていらっしゃいます(http://macska.org/article/111)(http://macska.org/article/112)ので、それを見ていくことにしましょう。

 まずは最初のエントリです。
 なるほど、文面を見れば確かにダイヤモンド博士は

基本的に、わたしはジェンダーフリーの考えを支持している。



 とおっしゃっている。小山師匠が文章を捏造していない限り、英文でも

Basically I do support gender-free ideas.



 と書かれています。
 何が「ダイヤモンドはジェンダーフリー派じゃない」だ!!
 はっきりとジェンフリ派だと明言しているじゃないか!!

【メシウマ速報】兵頭新児、中一レベルの英語も読めずwwwwwwwwwww


 いやいや、そうでしょうか。
 前にも書いたようにそもそも「ジェンフリ」自体が向こうで浸透した言葉とは言い難い。
 一体、このgender-freeという言葉を、ダイヤモンド博士はどう捉えているのでしょうか?
 先に進みましょう。
 ダイヤモンド博士はこうおっしゃいます。

あなたに話した通り、わたしは人々はみんな可能な限り自分の望む通りに学び成長する広い機会を持つべきだと思っているよ。わたしはたしかに男性と女性は生物学的にやや違っていると思うけれど、どの個人がどういった教育や機会を活用できるかなんて誰にも分からないのだから、全ての人が同等の機会を与えられ、対等に扱われるべきだと信じている。それぞれの男性なり女性が個人として自分にふさわしい居場所を見つけられるチャンスを与えられるべきだ。


 これをして、小山師匠は

ここを読めばどう転んでもダイアモンド氏が保守派が望んでいたような「反ジェンダーフリー」「反フェミニズム」の立場を支持する論者でないのは明々白々だ。


 と勝ち鬨を上げられるのですが……果たして博士が支持した考え方を、一般的に見て「ジェンダーフリー」と呼べるでしょうか?
 いや、仮にここでダイヤモンド博士が定義づけたものを「ジェンダーフリー」とするならば、これに反対する保守派ってどれだけいるんでしょう?
 つまりここでダイヤモンド博士を「ジェンダーフリー支持者」とすると、日本の保守派のかなり大部分までが、やはり「ジェンダーフリー支持者」であるというフェミニストには絶対認めがたい事態に、どうしたってなってしまうわけですw
 ぼくは本稿の前回記事をニコブロで最初に書いた時、そこのコメント欄でまさにこのダイヤモンド博士の「ジェンダーフリー支持発言」について、

結局「ジェンダーフリー」の定義が千変万化しちゃってることと、「男女平等」という程度の意味あいだと強弁されちゃうと、言い返せなくなっちゃうことですね。


 と危惧しました。
 それがまんまと的中してしまっているように、ぼくには思われます。
(ただし後に述べるような理由で、山本氏が反対している男子生徒、女子生徒の呼称を「さん」で統一する問題について、ダイヤモンド博士は「いいじゃん」と肯定しているなど、当然両者のスタンスに違いは見られます)

 二つ目のエントリでは、小山師匠は「差異の政治学」が発表されたのが1997年であるから、上野師匠が「双子の症例」の失敗を知らなくても仕方ない、と居直っていますが、当ブログでも指摘した通り、2002年に出た単行本では訂正の機会があるのだから、これも無意味な言いがかりです(もっとも小山師匠が繰り返す通り、2002年版では「極めて消極的な訂正」と思しき記述が加筆されてはいます)。

 以下、山本氏へのツッコミが延々と続きます。
 その中には単純なミスの指摘など、恐らく正しいのだろうと思われる部分も多々あるのですが、まあそこはいいでしょう(ただしメールの中でダイヤモンド博士は「かつてアメリカでは台風に男性名がつけられていた」と言ってるんだけど……これ、「女性名」の間違いじゃないのか?)。
 見ていくと、小山師匠の文章は非常に不誠実に感じられます。
 例えば山本氏は、日本におけるジェンダーフリー教育の一例として、お役所主導で「ひな祭り」や「男児に男性的な名前」をつけることなどに異議を唱えるパンフレットを配っていたことを批判します。これに対して小山師匠は「押しつけ」ではなく「問題提起」だからいいじゃんと開き直り、ダイヤモンド博士の

男の子の祝日と女の子の祝日を対等に祝うことは、わたしから見れば害のない慣習だと思う。しかし、女の子の中には兜やその他男の子の祝日に関係したプレゼントを欲しがる人もいるだろうから、それは認めるべきだ。男の子が人形を欲しがった場合も、同じように認められるべきだ。


 とのコメントを「自分たちと同じスタンスである」と牽強付会します。
 山本氏含め、保守派の人に幼い娘さんがいるとして、『プリキュア』を見せていないとは、ぼくには思われないのですが。
(言っておきますが、面倒なので元のパンフなんて確認していませんよ。小山師匠の自己申告を読んでそれでもなお、小山師匠の言い分は極めて欺瞞があると、判断せざるを得ないのです)。

 エントリの後半では、ダイヤモンド博士が答えを濁している、との記述が多くなります。むしろ山本氏は後半でこそ、日本のヌエックや内閣府など行政側の組織がマネーの後天説に基づいたジェンダー観を持っていることについてなど、重要な質問を行っているのですが。
 ここはどうも、一度上野師匠を批判したことをフェミニストに騒がれて懲りたのか、日本の国まで敵に回したくないのか、(或いはまた単に長文メールに「三行で頼む」な気分になっていたのか)いささかダイヤモンド博士側も不誠実な対応のように思います。
 小山師匠が訳した一文が象徴的で、ダイヤモンド博士は

ここ米国でも日本でもフェミニストたちが双子の症例をどのように利用しているのかわたしには全く検討も付かないよ。


 と答えています。何だかやっぱり、イデオロギー闘争に巻き込まれてイヤになっている、という感じが、しないでもありません。

 小山師匠の言う「ダイヤモンド博士の、親ジェンダーフリー発言」、いかが感じられたでしょうか。
 極めて象徴的なことですが、(上の画像にはありませんが)『バックラッシュ!』の帯には「男女平等で何が悪い!」と大書されていました。
 繰り返しになりますが、保守派もほとんどは「男女平等は悪だ」などとは言わないことでしょう。ただ、「ジェンダーフリー」と「男女平等」は違うぞ、と言っているだけです。
 しかしその両者を混同し、「こいつらは男女平等に異を唱えるレイシストだ!!」と叫ぶことで、一体どれだけの発言を沈黙させることができるのか……こうしてアメリカの大科学者の対応を見るに、フェミニストたちがいかなる手法で自分たちの主張を通してきたかが今回、仄見えているのではないでしょうか?


*     *     *



 以上です。
 繰り返す通り、小山師匠は(そしてフェミニストやその手先である表現の自由クラスタは)全く信頼のおけない人物ですが、今回の「欺瞞」は比較的わかりやすいものだったのではないでしょうか。それは即ち、「ジェンダーフリー」の意味するところを、自分の都合にあわせてすり替えている、というものです。

バックラッシュ! なぜジェンダーフリーは叩かれたのか?(始末記)(再)

2020-11-07 23:49:14 | 弱者男性


 ※この記事は、およそ5分で読めます※

 ここしばらく『BEASTARS』を扱っていましたが、本来「SAVE JAMES」問題にまつわる記事の(ニコブロからの)再掲をもう少し続けるつもりでした。
「SAVE JAMES」問題についてご存じない方は、まず『Daily WiLL Online』様に書かせていただいた記事を見ていただきたいと思いますが……。

9歳の少年を去勢⁉行き過ぎたLGBTはここまで来ている【兵頭新児】

 この問題に関連して、「ジョン・マネー問題」の復習の意味で、少し前にもニコブロの記事の再掲しました。
 ここで扱ったのは『バックラッシュ!』における小山エミ師匠の論文。
 しかし同時期に、小山師匠とはツイッター上で長い長いやり取りを続けており、今回はそれについてです。
 では、そういうことで……。

*     *     *


 しつこいようですが、この本についてです。
 前回の件については、小山エミ師匠とツイッター上で長い長い議論になってしまいました。
 それら議論は以下のリンクで読むことができます。

ジョン・マネーの「双子の症例」の否定は、フェミニズム理論の否定にもつながるか?
上野千鶴子師匠は「双子の症例」を否定したか?

 一つ目は小山師匠のお友だちがまとめてくださったものです。
 小山師匠のお友だちは、

「ボク、全然知識が無いから詳しく説明してよ!」
「英語は読めないふぇぇぇぇぇん(><)」

「上野千鶴子は欺瞞が多いので、上野千鶴子が紹介するマネーの業績全部が欺瞞?」
「嘆き」


 などと下品な見出しをつけることで相手を貶めるのみならず、

「マネーのトランスセクシュアル研究はジェンダーフリー教育などで利用すべきか?」


 など、どう考えても議論と関係ない見出しをつけてもいます。
 フェミニストへの信頼感が、いや増しますね。
 二つ目はその後のやりとりをぼくがまとめたものです。
 ぼくの方も下品な見出しをつけてバランスを取ろうとしたのですが、情けないことにやり方がわかりませんでした
 結局、議論としてはぼくの方が(ちょっと本業が忙しくて……)放り出してしまった形になり、悔いの残るものになりましたが、それだけではあんまり中途半端なので、ここでちょっとまとめめいたことでも書いておこうかと思います。

 さて、小山師匠とぼくとの論点は、「マネーの『双子の症例』は前世紀末に否定された。それ以降、果たして上野千鶴子師匠はそれを正しいものとして引用し続けたか、否か」という点についてでした。
 前回のブログ記事で、ぼくは上野師匠の著作『差異の政治学』を調べ、「上野千鶴子師匠はそれを正しいものとして引用し続けた」と結論しました。
 ところが、小山師匠の意見では、「それは違う」という。
 両者の争点をでき得る限り価値中立的にまとめるなら、

兵頭:確かに上野師匠の著作に「双子の症例」についての言及はない。しかし「マネーがジェンダーアイデンティティは後天的に決定されることを実証した(大意)」と言っているではないか。これは「双子の症例」を論拠にしている証拠だ。

小山:いや、違う。マネーは「双子の症例」とはまた別な、性同一性障害者の臨床例などからそのようなケースを見出した。上野本で述べられているのはそれらの例についてだ。


 といったことになるでしょうか。
 確かに、上野師匠の本はやや曖昧な記述ではあるものの、確かにそのように読めなくはありません。「双子の症例」が否定されたことについても明示されてはいないものの、それを指し示したらしき記述もあります。また、『バックラッシュ!』におけるインタビューも、小山師匠の解釈の妥当性を揺らがせるものではありません。

 ただ、とは言え、ぼくには疑問が残りました。
 結局、「性同一性障害者の症例」を一般的なものとして敷延できるのか。前回にも書いた通り、「性同一性障害者のジェンダーは男脳/女脳という先天的な要因に左右されている」と考えた方がいいのではないか、と思えるのです。
 しかし小山師匠は(やや、言葉としては曖昧に思えましたが)取り敢えず、性同一性障害者の症例を敷延することに問題はない、という立場のようです。
 正直、疑問ではあるものの、ぼくもその辺りについてどう考えるのが妥当なのか判断し兼ねます。
 この辺り、ちゃんと調べてみようとも思ったのですが、なかなか時間も取りにくいので一応、ペンディングにしておこうかと思います。

 一方、「とは言え、前世紀まではフェミニストが『双子の症例』を大いに論拠にしていた」こと、「上野師匠は置くとしても今世紀に至ってもいまだそれを続けているフェミニストだっている」こと、この二点は動かしがたい事実であるように思います。
(この二点については、残念ながらお答えをいただけませんでしたが……
 以上のような理由から、上野師匠の例を除き、やはりぼくは前回の記事について訂正の必要を覚えないのですが、いかがでしょうか。

*     *     *


 ――以上です。
 さすがにぼくも時間を無限に取れるわけではないので、再掲に当たり、モンダイの『性の政治学』やTogetterについて読み返してはいません。しかし本稿を見る限り、上野師匠は極めて曖昧な記述しかしておらず、小山師匠はそれを理由に「或いは双子の症例以外の話をしている可能性だってあるじゃないか」と言っているだけに読めます。
 別に本人が言ってもいないのに、「或いはこれこれかもしれないじゃないか」と不自然極まりない家庭を持ち出し、以降はそれが「事実」であるかのように振る舞う。
 これはフェミニストを擁護する表現の自由クラスタが非常にしばしば取る論法です。
 また、マネーは「性同一性障害者の臨床例などからそのようなケースを見出した」とありますが、これって単純に「外性器は男だが、アイデンティティーは女」といった「性同一性障害者」がいましたよ、というだけの話ではないでしょうか(そもそも性同一性障害者というのは最初からそういうものです)。
 そして、これは毎回書くことですが、小山師匠は自分自身の発言すらも、自由自在に捻じ曲げる「歴史修正」を得意とする方です*
 果たして、小山師匠の言うことにどれだけ正当性があるか……それはご覧いただいた方の判断に委ねたいと思います。

*以下を参照。
「オカマ」は女湯には入れるのか?
「オカマ」は女湯には入れるのか?Ⅱ

「漫画『BEASTARS』から読み取る、女性に内在するフェミニズム的性向」を読む(その4)

2020-11-01 14:20:57 | 弱者男性

 動画、サブチャンネルにもうpしましたので、まだの方はどうぞ。

風流間唯人の女災対策的読書・第14回「のび太=インセル論」


 さて、今回はそんなこんなでちょっと延び延びになっておりました『BEASTARS』の記事の第四回です。

※この記事は、およそ11分で読めます※

 ――というわけで、続きです。
 匿名用アカウント氏の『BEASTARS』評の感想であり、まずは本ブログ前回前々回前々々回、及び匿名氏のnoteを読んでいただくことを推奨します。
 さらに、そもそもの『BEASTARS』も読んでいただくのがベストなのですが、ぼく自身、先日ようやっと第二部とも言える十一巻までを読んだばかりで、本稿もあくまで匿名氏の批評を根底に置いたものなので……。

・兵頭、十一巻まで読んだってよ

 はい、みなさん、褒めてください。
 ワタクシこと兵頭新児、本作を第二部とも言うべき十一巻まで読破しました。
 何というか、本作をこの七巻から十一巻だけ読んでいたら、ぼくもそんなに悪い読後感を抱かなかったのではと思います。勝手な想像ですが、本作の人気がブレイクしたのはこの辺りではないでしょうか。
 要するにこの第二部(ウィキでは「食殺事件篇」と呼称)では作品冒頭で起きた食殺事件、つまり肉食獣が草食獣のテムを食い殺した事件について蒸し返され、レゴシがその犯人と対決。サブエピソードとしてルイがシシ組を離反し、日常世界に帰ってくる(=レゴシと和解する)ところまでが描かれます。
 あくまで漫画として、悪をやっつけるヒーローとしてのレゴシの活躍として読め、楽しめるものになっています。
 ただ……以上の誉め言葉は、ある意味、作品の欠点ともなっています。
 ハルとの恋愛こそが第一部(一巻から六巻)までのメインテーマであったはずが、この辺りになるとハルの出番はめっきり減り、恋愛関係も描かれなくなります。一方、上に「蒸し返した」と書いたように、今さらのように一番初めに起きた食殺事件がよいしょとばかりに引っ張り出されてくるのです。そのきっかけが奇妙な蛇のキャラクターで(こいつだけどういうわけか動物そのままの体形を保っている)、その蛇も意味ありげに出て来て、その後全く出てこない。もう一つ美形のヒツジのキャラが出てくるのですが、コイツも意味ありげに出て来て話に絡んで来ない。正直、かなり行き当たりばったりに描かれている印象です。
 それを言えばそもそも、この食殺事件の扱い自体が、(かつて、この世界の警察がどうなっているのか判然としないと指摘したように)曖昧です。
 レゴシの行動原理は基本、ハルとの恋愛、ハルを一度襲ってしまったことへの贖罪であったはずが、第二部では食殺犯をやっつけることにすり替わっています。これはもちろん、「肉食獣としての原罪へのけじめ」ということでつながってはいるのですが、それにしても「何でハルちゃん出てこないの?」という疑念は拭い切れません。いや、その方が面白いと思えるのが辛いところですが、こうなるとムカつく不人気キャラのハルを編集者が「しばらく出すな」と指導したといった憶測も、成り立たなくはありません(ファースト『ガンダム』のシャアも上層部に嫌われ、しばし左遷の憂き目にあっており、近い状況があった気もします)。

・犯人、あっさりわかったってよ

 さて、食殺事件に戻りましょう。
 レゴシは捜査の末、演劇部のクマ、リズが犯人であると割り出し、睨みあいになります。
 ここに先のヒツジが出て来て、場を混ぜっ返すようなことを言います*1「聞いちゃった。でもぼくを殺せば同じ場で食殺が二度も起きたことになる、さすがに警察も本腰を入れる、一発で犯人がわかるよ」。
 警察があったのかよ!!
 てか「本腰入れず」捜査をしていたのかよ!!
 本腰なら一発なのかよ!!
 もうメチャクチャ。
 事実、レゴシもあっさり犯人を割り出していますし。一方、レゴシも周囲から警察に任せれば、と繰り返され、「自分が納得いかないから」とそれを拒みます。しかし被害者のテムは一応、彼の知りあいかもしれないが、それにしてももしテムに遺族がいるなら「死んだ人間をお前のマスターベーションに使うんじゃねえ」と言いたくもなるでしょう。これ、シンプルに「親友を殺されたかたき討ち」といった図式にでもした方がよかった気もします(この第二部だけで語るなら、その意味で「女」がいない世界とした方が、すっきりする気すらします)。
 また、このリズが食殺事件を起こしたことが友情の行き過ぎみたいに描写され、正直戸惑います。ヘタにいい話にしようとして意味不明になったとも思えるけれども、作者が暴走してBLをやりだしただけという気もします。リズはテムと友人だったのですが、食い殺した瞬間を、友情の結実した瞬間であるかのように捉えているのです。
 前回、この七巻でレゴシが「ロリコン」と呼ばれるシーンがある、と書きました。
 これは女性のメタファーとして草食獣(ウサギなどの小動物)を持ち出すことで、性関係の責任の全てを男性へと「丸投げ」する、女性の不誠実な詐術である、とも述べました。
 そしてこれはまた、時々フェミニストが「ペドファイル(の、子供への性加害)」を批判するフリをして、男性全体の女性との性交渉そのものを全否定しようとしている様子*2とも「完全に一致」していると言えましょう。
 ハルは、「フェミニスト」でした。
 しかしこのリズはそれと正反対に、「ペドファイル」なのです。
 当noteをずっとご覧いただいている方にはおわかりでしょうが、ぼくはペドファイルには否定的です。否、ペドファイルそのものは正義でも悪でもないでしょうが、彼らを「ホモ同様の清浄なる被差別者様」へと位置づけようとするリベラルには徹底して否定的です。また、ペドファイルの全員ではなくとも、ある割合で児童ポルノや子供とのセックスを肯定する層がおり、それももちろん、首肯できません。
 いずれも自分の「権利」や「自由」のためならば他人の権利や自由を侵害することにためらいのない「リベラル」であり、彼ら彼女ら(フェミニストと表現の自由クラスタ)の争いは、恋人同士の痴話ゲンカに過ぎない……ぼくはずっとそう言ってきました。
 そう、本作でもまたその痴話ゲンカが繰り返されているのです。
 リズは「ぼくは唯一草食獣との友情を築き上げた肉食獣だ、テムを同意の上で食べたのだ」と言い出します。本当にぼくの指摘するペドファイルと「完全に一致」するのです
 もっとも、最終決戦時には「ぼくたちに友情がなかったなんて、うすうす気づいていた」と告白もするのですが。リズは相手と親友になりたかったが、それが叶わなかった。最終決戦にはルイも駆けつけるのですが(ここはまた複雑なので後述)そのルイとレゴシの「絆」を見てリズは「こんなにも友情とは命懸けのものなのか」と思い至り、敗れていきます。
 何というか、先の「ペド悪者論」の視点で見れば、これはペドが改心するいい話、とも言えなくもありません。
 しかし草食獣は「幼女」のメタファーではなく、あくまで「女性」のメタファーとされており、そここそが本作の欺瞞なのです。だって草食獣も知性は肉食獣と同等だし、身体能力の差はあれ、それは文明を持つ動物たちの世界では絶対ではないのだから。

*1 女性読者対策の人気取りキャラという印象で、「役割の与えられていない狛枝」という感じです。狛枝は『スーパーダンガンロンパ2』に出てきた、緒方恵美が担当した美形キャラ。いかにも腐女子が「きゃー」というようなキャラですが、正義と悪を掻き回す第三勢力とでもいった機能をもってストーリーに絡んで、名キャラとなったのですが……。
*2 以下などですね。
春一番 日本一の認知の歪み祭り! 「小児性愛」という病――それは愛ではない
春一番 日本一の認知の歪み祭り! 「小児性愛」という病――それは愛ではない(その2)


・ルイ、シシ組辞めるってよ

 さて、ちょっとルイに戻りましょう。
 レゴシはルイに決闘の立会人になって欲しいと望み、そしてこの決闘中、危機を迎えたレゴシはリズを凌駕するパワーを得るため、ルイの足を食います。これは同時に、ルイの足に打たれた、ルイが食肉として裏市で売られていた時代の刻印を消すという意味もあるのですが……。
 ぼくは第一回でこのシーンについての匿名氏の批評を、(漫画の方を読みもせず

 上の「草食系エリート男子」であるルイにしてもそうで、匿名氏は彼を、「形として男性として描いてるだけで、実質的には女性なのだ」とでもいった解釈をしているように思えますが、果たしてどうなのかなあと。


 と評しました。
 しかしいざ読んでみるとこれは全くの勘違い、正しい評をしているのは匿名氏の方でした。
 繰り返す通り、「食殺事件篇」では専ら男性キャラばかりが活躍する。先にはハルが人気がなかったせいではと想像しましたが、事実関係はどうあれ、「食殺事件篇」に突入すると共に、本作は「BL漫画」となったのです。
 この決戦の前、ルイは決闘の立ちあいを許さないシシ組と決別するのですが、ここでルイは部下のライオンを一人殺してまで堅気に戻るのです(その部下も「組を辞めるなら俺を殺して行け」とルイを食い殺そうとして、また別な部下がルイを守るためにそいつを射殺する、という経緯であり、別にルイが手を下したわけではないのですが)。
 正直、この下りは見ていてよくわかりません。シシ組もちょっとした外出くらい許可してやれよという感じですし。
 このクライマックスでルイは「俺は肉食獣が好きだ」と言うのです。「肉体が強いから懐が深く仲間思い、肉に飢えているからいつもどこか苦しげだ」。
 正直よくわからないのですが、この言葉は「女性からの、男性性への称賛」のように、ぼくには思えます。
 ルイは「お姫さま」だったんじゃないでしょうか。
 草食動物というクリーンなボスがいるおかげでシシ組のしのぎがしやすくなったとの、裏社会なりの政治も描かれるんですが、言ってみりゃ「君がいるだけで場が明るくなる」として皆から愛されるお姫さまだったんじゃないですかね。
 ルイの「肉食獣が好き」発言は別に性的な意味ではないでしょう。力を持ち、それ故責任を負おうとする肉食獣の生き方に敬意を払うというようなことであったかと思います。
 ライオンたちがボスであるルイに奉仕するのもまあ、性的な感情を持っているものとして描いているわけではないでしょうが、それこそ腐女子が男たちの性的ではない友情に「萌え」るように、やはりそこに性的なものを見る作者の視点が、どこかに隠れているような気がします。
 そして、ハーレムで女として愛されたルイは、真実の愛に気づき、本当の恋人であるレゴシの下へと戻ったと考えると、わざわざシシ組から抜け出す辻褄があうのです。
 問題のルイの脚を食うシーン。
 これはリクツの上では「レゴシが肉を食うことでパワーアップ」というまあ、『ドラクエ』の薬草とか『マリオ』のキノコみたいな扱いですが、これを「戦地に赴く男、その男に身体を許す女」の図に置き換えてみるとどうでしょうか。男は今まで怯えていたにもかかわらず「君のためなら死ねる」とばかり、覚悟を決める。
 そうした暗喩に描き手が自覚的だったかは判然としません。
 しかし(意識的にか、人気などに影響されての路線変更故か)「男の世界のことです」な話になってしまったとたん、本作ではルイが「受け」になってしまったのです。
 実のところ、彼は本作で一番女性ジェンダーを満喫している存在です。
 言わば、ハルの代役。
 作者の「本音」を司る存在となったのです。
 ルイはレゴシの牙に、呪いが解かれたと語ります。
 ルイは自分は弱くていいと、女の悦びを受け容れた存在なのです。
 だから彼は肉食獣への愛を吐露し、食べられたいと願ったのです。強さに責任を持つ肉食獣には自分の肉体を捧げる責任というか義務がある、と知ったのです。
 本作はBLでした。
 腐女子がBLを描くのは、レイプされるほどに、男性に性的に求められたいが、レイプの痛みを引き受けたくないので、男に代行させているから、です。
 その欲望の前にリズは負けました。
 リズは「自分に恋い焦がれてレイプせよ。そして、さらなる強者である騎士にぶち殺されよ」とのフェミニズムに殺された「弱者男性」でした。
 何しろこの世界においてクマは「力抑制剤」というものを(重篤な副作用と引き換えに)飲み、ネコを被らねば生きていけない存在なのですから!
 レゴシはまあ、一応の勝ち組と言いますか、「女とやれた」存在でした(だって肉を食えましたから)。
 だが、ルイに半ば強要されてその足を食う瞬間も、彼は「食肉に正当化は許されない、だから俺はルイ先輩の足を食いたいという自分の意志で食います」と叫ぶのです。
「俺たちの間に合意なんてない。女性様であるあなたは、いついかなる時もこの合意をひるがえし、俺をレイプ犯として処刑する権利を持ちます」。
 レゴシはそう絶叫しながら、性関係を持ったのです(ただし男と)。
 後、犯人の唾液を入手するため、暗闇で自分を襲撃した犯人とディープキスもしています。
 後、ルイに立会人を頼むため、裏市に女装して赴きます。
 ゆかいなまんがだね!
 この「食殺事件篇」の冒頭で、レゴシは「草食獣が俺たち肉食獣と親しくしてくれるだけでありがたいことだ、その恩に報いねば」と口走ります。彼の恋愛は仲間たちから「信仰」に近いと評され、本人も「それが正しい形だ」と言うのです。つまり「人間の」男は信仰するように女に接しよというのが、作者の道徳律なのです。
 先にも述べたように、ルイとレゴシの絆に、リズはこんなにも友情とは命懸けなのかと感じ、食殺した友人も自分と共にいた時は命懸けだったのかと思い至ります。
 アホか。
 どう考えても肉食獣の方が命懸けだろ。
 テムという別にどうでもいいキャラのため、レゴシは「何か、命懸け」させられてるんだぞ。
 結局、ルイの足を食ったとして警察に連れてかれるんだぞ(本当、ラストに取ってつけたように警察が出てきます)。
 その「本来の動機」であったはずのハルは家族と紅白見てるんだぞ。
 これ、本当です。
 この決闘は大晦日であり、ハルが紅白を見る様が描かれます。
 腐女子が、自分の性欲を少年に仮託し、おっさんにレイプさせるように、板垣師匠は「全てを男性に仮託」して、自らの願望を、描ききったのです。

 ――さて、こんなところです。
 実は今回は本作の女性陣について語るつもりが、繰り返す通り彼女らの出番がなく、こんなことになってしまいました。
 最低、もう一回、続きを書きたいのですが、次はちょっと間が空くかもしれません。