兵頭新児の女災対策的読書

「女災」とは「女性災害」の略、女性がそのジェンダーを濫用することで男性が被る厄災を指します。

山田太郎と岡田斗司夫とぼくらのオタク主義

2023-11-26 00:19:24 | オタク論

・山田編

 文部科学政務官の山田太郎が辞任しました。
 きっかけとなったのは不倫騒動で、オタク――というか、表現の自由クラスタ界隈も大騒ぎです。
 ぼく自身、不倫などというプライベートを大げさに騒ぎ立てること自体が馬鹿馬鹿しいとは思うものの、ご時世でバレたら一発アウトとわかりきった案件に対し、ガードが甘かったことは愚かとしか言えず、残念な気持ちでおります。
 ただ一方、山田師匠自身はピースボートのスタッフであった経歴があるなど、極左と言っていい御仁。表現の自由クラスタそのものが最初から左派であり(だからこそフェミニストたちと徹底して親和的だったわけで)、それは不思議ではないんですが、左派であるということは同時に(サブカル君のオタクへの執拗な嫌がらせを見ればわかるように)名物の内ゲバをオタクを巻き込んでやらかしてくれるということでもあります。

 例えば、昼間たかし師匠。ずっと当ニコブロをご覧いただいている方ならばご記憶かもしれません。『マンガ論争勃発』といったオタク関連、表現の自由関連の著作があり、「オタクはパブリックエネミーじゃなきゃダメだ!」とわけのわからないことを宣っていたことでおなじみの方ですね。

左翼の異常な粘着 または私は如何にしてオルグするのを止めてオタクを憎むようになったか(再)

 彼は本件に絡んで早速「“オタクを守る議員”は虚像だった…“不倫報道”の山田太郎政務官、取材を重ねた記者が明かす違和感」という奇妙な記事を書いておりました。

 とにかく昼間師匠は山田師匠がオタクを騙して取り入った極悪人であって欲しくてほしくてならないご様子なのですが、その根拠と言えるものが、同記事にはどこにもありません。せいぜいが事務所でも支持者であるオタクと会話がなかったとか、妻子がレイヤーで腐女子なのに政治活動にあまり参加してないとか、その程度。タイトルだけ先に決めて、それに敵う事実が見つからなかった系の記事、と言っていいでしょう。
 そもそも先の(ぼくが採り挙げた)記事を見れば、まさしく昼間師匠こそがオタクの味方を装って取り入ろうとしたが、うまくいかず逆ギレしている御仁であることは自明。まあ、ええ気なモンです。
 そもそもみなさんの方がよくご承知でしょうが、山田師匠、自民に移籍したとたん、とにもかくにもこの種の人たちに粘着されるようになっていたという経緯もあり、昼間師匠もまた、その一人なのでしょう。
 同記事は山田師匠に詳しい記者(という、週刊誌でありがちな実在の怪しい人物)の「オタクの味方だと思っていたのにパパ活をやっていたとは許せぬ(大意)」との声を挙げてもいますが、そもそも山田師匠が金銭の介在を否定していることに加え、それを知ってオタクが失意するという(昼間師匠の脳内には明確に結ばれた)ストーリーが、どうにもぼくには理解できません。
 これは岡田斗司夫氏の愛人問題を思い起こさせます。ぼくが「自分をオタクだと思い込んでいる一般リベ」と揶揄するような人たちはこの問題が発覚した当時、大はしゃぎで「おまいらオタクのボスだと思ってたヤツは非リアではなくリア充だった、重大なる裏切り行為だぞ」などと言っておりましたが、そもそも庵野秀明とか、オタクでも大物になればモテるのは当たり前のことだというのが、大方のオタクの最初からの認識だったでしょう。

 本件を、山田師匠は「こども家庭庁」の立役者なんだから、不倫は許されないだろう、といった論調で叩く人もおりました。
 確かにそれも理屈としてはわかります。不倫は家庭不和の原因になり得るわけで、規範たるべき人物がそれではどうなのだと。いやしかし、ではその意味で、最初から山田師匠は「こども家庭庁」にふさわしい人物だったのでしょうか。
 そもそもこの「こども家庭庁」、元は「こども庁」であったところが保守派という悪者の横やりで「家庭」のワードをねじ込まれたといった評され方をしてきました。そして山田師匠自身が運動家めいた人の口添えで「こども庁」という呼称にこだわっており、「家庭」を入れるのは不本意だったのです。

 ネーミングなどどうでもいい、と思う一方、ここには「家庭」そのものが「家父長制」を象徴する悪しきものだというフェミニズムのイデオロギーが、強烈に内包されているわけです。
 つまり山田師匠のイデオロギーからすれば不倫は家庭という牢獄を破壊する善きことであり、岡田氏の振る舞いもまた、というしかない。
 ところが左派というのは敵をつぶすためなら、信じてもいない規範を平然と持ち出すのですね。
 もう一つ、先の「山田師匠に詳しい記者」は「山田は『文春』に法的措置をちらつかせている、これまで表現の自由を訴えてきたくせに許せぬ(大意)」とも言っています。
 いや、山田師匠の言い分では『文春』の報道の不倫相手に金銭を与えたという部分は虚偽だというのですが。それともデマを流されても黙って耐えることが、表現の自由クラスタには求められるのでしょうか。表現の自由クラスタの女神は以前、児童レイプを擁護したこと(これはデマでも何でもない事実なのですが)を批判され、法的措置をちらつかせていましたが、アレはいいんでしょうか。単に仲間のやることは全部いいんですかね。

・岡田編

 ――さて、本稿の目的は山田太郎炎上と岡田斗司夫バッシングとを比較し、共通点を指摘しようというところにあります。
 こっから先は岡田氏メインなので、山田炎上に釣られてきた方は、ここで引き返していただいて結構ですが、できればついでに見ていっていただくと、大変嬉しいです。
 一応、ここで読むのを止めようかと思った方のために、結論だけ先に書いておきますと、要するに以下のような感じです。

・左派はオタクを自分たちの子分であると信じている(もちろん、それは妄想なのですが)。
・山田も岡田もやはりその意味で、左派にとって「自分たちの子分であったのに、裏切った存在」である(もちろん、それは妄想なのですが)。
・左派にとっては保守派などより、子分だと思っていたのに意に沿わない者への怨嗟が何よりも強い。
・それ故、理屈をつけて燃やされている。

 ――まあ、こんな感じでしょうか。
 岡田氏はオタキングを名乗る通り、オタク文化の黎明期から、常にその中心で活動してきた人物。ニコニコ動画、YouTubeでは圧倒的な登録者を誇る動画配信者であると共に、一体全体どういうわけかここ数十年の「オタク界」では「絶対悪」として忌み嫌われ続けています。
 それには岡田氏の若い頃の毒舌ぶりなど、故なしともしない部分もあるのですが、岡田アンチの言い分を見ていくと、あまり理があるとは思えない。
 以下は「オタク界」における「岡田憎し」の世論が実のところ、今回の山田師匠炎上と同じ構造で作られてきたものであるとご説明するものです。

 さて、いつも言っていることですが、SF、サブカルといったオタクの先代文化は左派的価値観を極めて濃厚に持っていました。しかし学生運動の終焉の後、八〇年代に生まれたオタク文化には、イデオロギーというものはありませんでした。ところがその一方、当時のオタク文化はエロ漫画誌を主なプラットフォームにしていたがため左派に強く影響されてしまった、といったことが言えるわけです。
 この当時、岡田氏を初めとするオタク第一世代によって世に放たれた作品群があります。SF大会DAICONⅣにおいてガイナックスの母体と言えるDAICON FILMが発表したOPアニメーション、『帰ってきたウルトラマン』、『快傑のーてんき』、そして『愛國戰隊大日本』です。
 OPアニメには美少女キャラとメカと怪獣が次から次へと登場します。
『帰ってきたウルトラマン』は『シン・ゴジラ』の元ネタとも言えるシリアスストーリーが展開されるのですが、最後の最後に登場するウルトラマンを、どういうわけか庵野秀明がいつもの小汚いもじゃもじゃ頭の素顔で演じているという代物。
『快傑のーてんき』は『快傑ズバット』のパロディ。これはマニアに圧倒的支持を持つヒーロー役者宮内洋が主役で、徹底的にキザでクールなヒーロー像を演じた作品なのですが、それを武田康廣氏というまあ、岡田氏とあまり変わらないようなデブチンが主役で、元ネタそのままのキザを演じるわけで、もうそれだけで地獄のようにおかしいものになってしまうわけです。
 これら作品群に共通するのは「パロディ」であり、元の作品の「相対化」をテーマとしていること、とでも言えましょうか。
 OPアニメにおいて、怪獣やメカは何の必然性も意味もなく現れ、暴れ回り、また女の子にやっつけられます。そこではただ、描きたいから描くというオタクの欲望こそが優先されているんですね。一方、『ウルトラ』も『のーてんき』も徹底的にヒーローというものを茶化して見せている。
 そしてそれがある意味、一番透徹されているのが最後の『大日本』なのです。この『大日本』、いまでもYouTubeなどで観れるので、よければ一度観てみていただきたいのですが、要するに「もし右翼が戦隊作品を作ったら」といった馬鹿話から生まれたもので、北の大地からやってきた、五ヶ年計画で日本侵略を企む悪の組織レッドベアー団の魔手から日本を守るヒーローの物語。
 言うまでもなく右も左も笑い飛ばしたものであり、しかし洒落というものを解さぬサブカル連中――具体的にはロートルSFファン――から叩かれた、といったことを岡田氏自身、よく語っていました。何しろ文句をつけてきたのはソ連SF愛好団体「イスカーチェリ」。もう、この存在そのものが面白すぎてギャグなのかと思ってしまいます。
 ただ、それも別に間違いではないのでしょうが、実のところ近年、岡田氏はかなり意図的に上の世代の連中、つまりロートルSFマニアと言ってもいいのですが、ぼくの言い方に直すのであればサブカル連中、彼らを挑発する意図を持って本作をSF大会にぶつけたのでは……と思われる節があることが、明らかになっています。
 事実、上の人間たちは本作をホンキで右翼を礼賛した作品だと信じ込み、激怒しました。喧嘩をふっかけられた岡田氏は彼らを徹底的に洒落のわからぬアホ扱いし、痛快ではあるけれども、さすがにお相手が少々気の毒な気もします。

 何しろ、上のブログの語るところによれば本作が最初に上映されたイベント、TOKON8は三十ヶ国のSF関係者から祝辞を贈られた国際的な大会であり、ナイーブになる気持ちもわからないでもありませんから。
 他にも岡田氏の著書『遺言』には(『大日本』とは直接関係がありませんが)鼻持ちならない上の世代の(そして東京の)SFファンに毒を吐く箇所が出てきます(上ののーてんきを演じた武田氏も同様の想いを吐露しています)。
 SF界でもっとも栄誉ある章で「星雲賞」というのがあるのですが、岡田氏たちはこの賞の候補作として『大日本』をぶつけ、『ブレードランナー』に大差をつけて得票数一位となりながら、無効になったと言います。
 岡田氏側も『大日本』に票集めをするために運動するなど、完全にフェアだったわけではないのですが、ともあれこの当時の岡田氏は上にいるSF連中に敵愾心を抱いており、要するにこれは世代間抗争といった側面が極めて濃厚でした。
 岡田氏は、サブカルという連邦に対して独立戦争を起こしたジオンだったのです。

 ついでなので「岡田アンチ」の言い分について、ここで少し検討しておきましょう。
 DAICON FILM時代は岡田氏側は金儲をしていてけしからぬという物言いが強くされておりました。これはまたコミケなどでも儲けを出す同人誌はけしからぬと言われていたことと全く根を一にしており、当時は(少なくともこの業界では)金儲けというものに対する拒否感がかなり強かったのです。それが、オタク文化が商売になったとたん、サブカル陣営は揉み手をして擦り寄ってきたのだから、全くもって恥知らずな話です。
 近年は例の愛人問題が騒がれることが多いのですが、山田師匠の件でも述べたようにリベラルがそれを言うのは、極めて滑稽です。ぼく自身は、これについては確かに誉められたことではないので、むしろ岡田氏には批判的なのですが。

 他にも、「クリエイターになれないコンプレックスがある」だの「オタク利権を独占している」だのといったことも、よく言われます。
 しかし前者は現実問題として、岡田氏がクリエイターとしての活動もしていることを思うと事実と反しているし、そもそもそのコンプレックスだって、あるに違いないとの思い込みの域を出ないでしょう。後者については商売敵に理不尽な言いがかりをつけているようにしか思えない(具体的にどのような形で排他的に独占しているのか、少なくともぼくはアンチが語っているところを観たことがありません)。
 サブカルがコンテンツを生み出せず、商業的にも成功できなかったことを考えるに、両者とも自分のコンプレックスを敵へとぶつけているだけにしか思えないんですね。
(他にもいくつかあるのですが、それはすみませんが、課金コンテンツの方で……)

 ことほどさように、サブカル連中はオタクを「自分たちのマスターベーションを手伝ってくれないから」という理由で、酸鼻を極めるバッシングをしていたわけです。
 ところが九〇年代、宮崎事件から一転してオタクは被差別者、被害者となり(それ以前、サブカル自身がオタクをバッシングしていたことは、ヒミツです)、『エヴァ』以降、そのコンテンツには市場的、文化的価値が認められ始めた。そのとたんにサブカルはオタクにひっくり返した手のひらで手もみをしながら擦り寄りだした。これもまた、いつも言っている通りです。
 しかし、彼らにとっては目の上のタンコブがいました。
 丁度当時、岡田氏はオタクの市民権を獲得するため、例えば『オタク学入門』といった本を出すなど盛んに活動していたのです。
 しかしオタクを自分たちの子分であると信じるサブカル君にとって、「オタクを差別から解放した救世主」は自分たちでなくてはなりませんでした(それ以前、サブカル自身がオタクをバッシングしていたことは、ヒミツです)。
 さらに言うならば、サブカル君にとっては岡田氏は自分たちに反旗を翻そうとした十年来の怨敵だったのだから、なおのこと彼からオタク利権を奪わなくてはなりませんでした。
 岡田さえ倒せば、オタクたちは俺たちサブカルのお稚児さんになる――それが彼らの妄念であり、ある意味、彼らは既に半分くらいそれを実現してしまったと言えるでしょう。

 ――と、いよいよ話がアブない領域に入って参りました。
 九〇年代からゼロ年代に至るオタク界の秘史については、有料コンテンツにさせていただきます。
 まあ、実際にはほとんど、調べればわかるようなことでしかないのですが、以下をお読みになりたい方は、下の文字をクリックしてnoteに飛んでください。

・X編


BL大戦

2022-12-03 19:56:40 | オタク論

※さて、BL、腐女子について今まで書いてきたことについて、マガジンにまとめました。上の画像をクリックすると有料部分に飛べますが、本来はマガジンのガイド記事的なモノなので、お買い求めいただく際はマガジンの方を買っていただくことをお勧めします。※

「BL大戦」。
 何が「大戦」なのか。
 言うまでもなく「腐女子」「BL」という存在を巡ってフェミニスト、LGBT、表現の自由クラスタ、アンチフェミと各勢力がひしめきあい争いあっている辺りが『スーパーロボット大戦』っぽいので大戦なのです。
 ここしばらくの「BL大戦」の中心人物は星崎レオ師匠ということになりましょうが、ぼくはあまり彼女を叩く気になれない。それは彼女が(BL作家としては人気なのかも知れませんが)別にフェミ的主張を以前からしていた人物というわけではなく、その意味では「一般人」でしかないからです。
 まあ、その辺についての考察はおいおいしていくとして、ここでは数年前の「BL大戦」について振り返ってみましょう。
 そう、北田暁大師匠と山岡重行氏のバトルです。
 北田師匠は『社会にとって趣味とは何か』において「腐女子は先進的なフェミニズムの闘士だが、オタク男子はネトウヨ」と(極めて脆弱な根拠で)決めつけ、腐女子の#KuTooName(靴舐め)の限りを尽くすと共に、先行する山岡氏の『腐女子の心理学』では腐女子に「オタク男子とつきあえ」などとアドバイスがなされていたぞと血涙を迸らせ、怒り狂っておりました。

 それらについての詳細、また最後の方は今回の「BL大戦」、つまり星崎師匠の騒ぎについても論じております。ご興味のある方は上の画像をクリックして、noteの方に飛んでみてください――。


風流間唯人の女災対策的読書・第24回「オタクVSサブカル最終解答」

2021-08-28 20:24:22 | オタク論



 どうも、ブログの更新が滞っております。
 このところ、さすがに『Daily WiLL Online』様での執筆に忙しく、ブログ(ニコブロやnote)には採録記事ばかりが載ることになっており、さすがにそれはこちらに反映させる必要もあるまいと思っておりました。
 が、ここしばらく小山田圭吾問題について、動画を作り、また『Daily WiLL Online』様でも書かせていただいたことを忘れておりましたので、取り敢えず今回はそのご報告となります。

風流間唯人の女災対策的読書・第24回「オタクVSサブカル最終解答」


小山田氏「いじめ問題」はオタクを下に見る「男性フェミ」と同じ構図
小山田圭吾氏問題にみる、リベラル・文化人の無茶な「自己正当化」論
「共同教育」理念に見える左派&リベラルの病根


 ともあれこれらを見ていただければ、サブカル君たちの格好よさを堪能できることは間違いなし!

「サブカルの逆襲」と「萌えの死」(後編)

2021-05-15 19:47:14 | オタク論


 しばし更新を忘れておりましたが、続きです。
 未読の方は前回記事と、それとできれば『Daily WiLL Online』様の記事を読んでからご覧いただくことを推奨します。

・三流劇画の逆襲

 さて、問題となっている『嫌オタク流』ですが、出版は2006年。まさにオタク文化最盛期と言っていい時期に出された本です。
 その意味で同書は見事なまでにオタクに敗北を喫したサブカルの、見ていて気の毒になってくるような半狂乱の逆切れの書、と評する以外に手はありません。しかし、もし仮に同書をサブカルからのオタクへの宣戦布告の書と捉えるならば、十五年経った今となって、僅かばかり、それが実現している……とも思えるのです
『WiLL』様の記事において、ぼくは三流劇画は廃れ、世は萌え全盛であると書きました。もちろんそれはそれで一面の真実ですが、近年、ぼくはずっと「オタク衰退論」を語っています。そこには「三流劇画の逆襲」が絡んでいるのではないか……と思えるのです。
 ということで以下はぶっちゃけ、昨今のオタク界隈への不満をぶちまける内容です。或いは、自分が好ましいと思っている作品や表現を貶されたと感じることもあり得ます(基本、固有名詞は出しませんが……)申し訳ないとは思うのですが、そこをお含み置いた上でお読みいただけると幸いです。
 また、さすがに自分の身近の話題でちょっと書きづらいものもあります。その辺は「脚注」というテイにして課金コンテンツにしました。具体的な事例がないと納得できない、という方はご覧になってみてください。

 ちょっと前、古いエロ漫画家さんの単行本を見かけました。
 多分90年代初期から活躍していた人ではないでしょうか。
 当時は「萌え漫画」全盛期。いえ、当然当時に萌えという言葉はありません。いわゆるアニメタッチのオタク世代によるニューウェーブ(というのもまた、80年代の匂いのする恥ずかしい言葉だ!)のエロ漫画、当時はロリコン漫画と呼ばれていたのですが、ともあれ、そうした当時の業界で活躍していた人物です。
 ところが、その人の絵は当時は当然、アニメ的な(今でいう)萌え絵だったはずなのですが、近年出たと思しきその単行本に描かれていた女性は、何というんでしょうか……申し訳ありませんが、本当に比喩でも何でもなく化け物のようにしか見えないもの。顔もおっぱいもただ、醜悪奇怪な、嫌悪感のみを催させることを目的として描かれているとしか、どうしても思えないものだったのです。もしこのおねーちゃんに迫ってこられたら、ぼくは腰を抜かして失禁することでしょう。
 70年代のエロ漫画はこうした絵で描かれる、いわゆる「三流劇画」というものがメインであり、80年以降、「ロリコン漫画」に駆逐されたのですが、この漫画家さん、考えると本来はその三流劇画畑の人だったのかもしれません。そして三十年間、生活のために忸怩たる思いでオタク向けの漫画を描き続け、そしてようやく雌伏の時を経て今、本来自分が描きたかった漫画を描き始めた……のでしょうか。
 敵ながらあっぱれというか、開いた口が塞がらなというか。
 で、ですが、こういう絵が、最近増えています。ぼくは普段、エロゲのシナリオライターをやっているのですが、本当に「え?」と我が目を疑うような絵が増えました*1
 これらの中には顔だけは何とか「萌え絵」だけど、身体の描き方の方法論は(方法論なんて高尚なものがあちらさんにあるのかは知りませんが)三流劇画に近い、といったものもあります。実際、常軌を逸して巨乳とかデブとかのエロ絵、最近多いですよね。
「萌え絵」というのは言ってみれば、三次元の女という生き物とは全く別個な価値を持つ存在を、二次元世界に新たに作り上げたものなのですが、「三流劇画」はあくまで「参照すべき三次元の女体」を想起させる触媒として、そこにある。おそらく「萌えオタ」は「萌え絵」に直接に欲望を抱いているが、三流劇画的な描画法で描かれた絵は、直接に欲望の対象となってはいない。バランスを逸した極端な「巨乳」を描くことで、「参照すべき三次元の巨乳」を「想起」させるというのが、その方法論だと思われます。前回、谷岡ヤスジの名前を挙げましたが、言ってみればそれとそれほど変わらないのです。
 絵のタッチだけでなく描画法についても同じことが言えましょう。近年の流行である「アヘ顔」、「ひょっとこフェラ」(もう、こう書くだけで脳が穢れると感じるほどに、大嫌いなのですが)も、おそらくオタク側から出てきた表現ではない。「萌え絵」を読み解くだけのリテラシーがない(細かい表情の違いなどわからない)者に向けた、過剰で極端なだけの表現なのではないかと思います。
「絵だけは一応、萌え絵」だけどストーリーが、世界観がもう勘弁、といった作品も増えています。やれ和服を着た未亡人だの中年男性とパパ活をやっている女子高生だの、もう頼むので許してくれとしか*2
 いえ、逆に言えば「和服の未亡人」の登場する「萌え」作品もあり得るとは思います。例えば『めぞん一刻』。高橋留美子が「萌え」かとなると微妙ですが、ともあれオタク文化黎明期に登場したこの作品は、言わば「未亡人下宿」という古典的ポルノ的設定のパロディとも言えました。そうした従来の性愛感から一歩引いてみせる振る舞いにこそ「萌え」が宿るのであって、そうした感性が、上に挙げたような作品にはない。要するにそうしたモノを作っている連中は、絵師だけ萌え絵師だが、他の、例えばシナリオなどを作っている連中のセンスは非オタなわけです。
「エロゲ」でのお約束とも言えたオタクネタギャグなど、もう五年くらい書いていません。正直、ユーザー層がどんな人たちなのかさっぱりわからないけれど、そんなものに笑ってくれる人たちでないことだけは明白だからです。
 いえ、今年の初め、本当にちょっとだけお手伝いしたゲームは最初からオタクネタ全開のものだったので、こっちも久し振りにそうしたネタをぶっこむことができて、本当に書いていてほっとしました。願わくば、そういう作品ばかり書いて食っていければ言うことはないんですが……。

・萌え・イズ・デッド

 ――そう、今のそうしたエロゲをプレイしているのはオタクではない。上に「ユーザーがどんな人なのかさっぱりわからない」と書きましたが、やっぱり年寄りなんじゃないでしょうかね*3。頼むからAVを観ててくれ……と思うのですが、やっぱりかつては三流劇画が好きだったような人がやってるんでしょうね。
 以上はかなり憶測を含むし、「萌えの衰退」の原因はただ「三流劇画の侵略」に一元化できるものではないでしょうが、ここでポイントをまとめてみましょう。
 一つは、萌えの先代、つまり三流劇画が復権してきたこと。
 二つ目は、三流劇画とはカウンターカルチャーであるということ。
 そう考えるならば、今の状況は「サブカルの逆襲」とまとめられるのではないでしょうか。
 もう少し話を広げれば、これにはもう一つ、「左派的価値観」が浸透することで、オタクが殺された、という側面もあるように思います。
『ネットハイ』動画で述べましたが、にサブカル、ないし左派寄りのオタク業界人はとにもかくにもオタクに対して「閉鎖的だ、閉鎖的だ」と病人のうわ言のように繰り返していました*4

風流間唯人の女災対策的読書・第19回『ネットハイ』


 彼らはオタクたちが自分たちの政治理念、価値観を受け継ぎ、SEALD'Sのようになることを望んでいるのです。
 閉鎖的でけしからんというお説教は、その意味でオタク界のトランプが作った塀の破壊運動でした。彼らはオタクのA.T.フィールドを打ち破ってやったぞとドヤ顔でしたが、結果、『ドラえもん』も『エヴァ』もマイルドヤンキー向けになり、萌えは破壊されることになった*5
『嫌オタク流』はおそらく、『電波男』のヒットに脅威を感じて出された本でした。『電波男』は「萌え」を愛を復興するための表現である、と説く本であり、今や女性ジェンダーを素直に描いているのが萌え表現くらいしかないことを考えてみれば、まさに正鵠を射ていたという他はありません。
 しかし、暴力と憎悪を標榜する左派は、絶対に「萌え」を許すことができなかった。
 フェミやサブカルがオタクを叩いたのはそれ故であり、そして事実、彼ら彼女らの願いは叶いつつある。
 まさに今、彼ら彼女らは勝利しつつあるのです。

*5 『ドラえもん』については「『STAND BY ME ドラえもん2』――ドラえもん謀殺!そして男性否定妄想へ」を参照。『エヴァ』については動画「ミソジニーとミサンドリー――呉座氏に差別されたと主張するフェミが心酔する男性根絶協会とは?」でちょっとだけ触れました。

風流間唯人の女災対策的読書・第20回「ミソジニーとミサンドリー」


 ――さて、というわけで以下は「脚注」というテイでの、気に入らん表現への罵倒大会となります。
 興味のある方は(https://note.com/hyodoshinji/n/n93047f50325f#KLqkA)へ飛んで、課金していただければご覧になれます。
 今も萌えキャラは街に溢れていますが、しかしエロに関しては結構おかしなことになっているのではないでしょうか……。

「「オタク」であり「フェミニスト」でもある私が、日々感じている葛藤」を読む

2020-07-22 20:22:15 | オタク論


※この記事は、およそ9分(課金コンテンツ含めると12分)で読めます※

 ――さて、前回前々回と何やかやで青識稿ばかりをやり玉に挙げてしまいました。しかしことの発端は「オタクであり、フェミニストでもある」と自称する中村香住師匠の書いた記事にありました。ことが前後しましたが、そんなわけですから最後に、中村稿にも軽くツッコミを入れておきましょう。

・新婦は病める時も健やかなる時もジェンフリを信じることを誓いますか

 もっとも、中村師匠の欺瞞については既にそれなりに書いています。
 が、以前予告した点についてはまだ解説をしていません。
 師匠がポルノの規制について、

一律の法規制を求める人は少なくとも現代では多くない。


 と述べていることについて、突っ込んでおきましょう。
 これは確かに、例えば上野千鶴子師匠も一応、表現の自由クラスタとのデートの場でそのように発言していました*1し、青識が絶賛する牟田和恵師もまた、同種のことを言っていました*2
 とはいっても、上野師匠は自らの法規制をよしとしないスタンスを「フェミの中では珍しい」と言っていましたし、果たして「多くない」というのが本当なのかは、ぼくにはわかりません。大体フェミの言葉なんて瞬間瞬間で変幻自在、千変万化するもので、信頼など置けませんしね。
 牟田和匠の言い分は「国家は信用ならんから、こんな重大なことの舵取りを任せるわけにはいかん」というものなのですが、そもそも多くのフェミが既に行政に入り込み、ジェンダーフリーの推進やらセクハラ関連などの法の改悪やらを積極的に行っているのだから、法規制にナイーブなフェミが多数派とは思えません(こうした事実について、表現の自由クラスタは驚くほど関心なさげです)。
 しかし、法規制をこそ一番の論点にしそうな青識は、前回も書いたようにこの箇所を丸っとスルーしています。それは何故か。
 ……いえ、前回はつい手癖で「摩訶不思議」などと形容してしまいましたが、よく考えると大して不思議ではありませんでした。
 というのも、近年の「ツイフェミ」による萌えキャラバッシングは基本、法規制を求める運動にまではなりませんでしたから。例えば彼女らが政治家にロビイングするなどといったことは、なかったはずです(もしあったらご教示ください)。
 逆に言えば、中村師匠の言い訳は「法を変えようとは言ってないんだからいいじゃん」というものでしかありませんが、当然、いいわけはありません。
 青識は中村師匠が「ツイフェミ」たちが萌えキャラに文句をつけてきた事実をスルーしていることが不誠実だと批判しましたが、実のところ師匠はそうした「ツイフェミ」たちの振る舞いを、別に悪いことであるなどと思ってもいないことでしょう。
 前回もご説明したように「ラディカルフェミニズム」とは、「法律をいろいろいじったけど、自分たちの思い通りにならなかった。だったら人の意識そのものを作り替えよう」というおぞましい思想です(表現の自由クラスタの流布した「ポルノを憎むフェミ」という定義は間違いだとは言い切れないけれども、極めて不充分な、歪んだものです)。そしてジェンダーフリーを称揚する現代のフェミニストは、中村師匠を含め、全員がラディカルフェミニストなのです。
 この中村師匠の論文はサブタイトルが「エンパワメントと消費の狭間で」というものであり、これは師匠のスタンスを極めて的確に表現しています。
 師匠は

まず、こうしたコンテンツが資本主義下におけるビジネスとして成り立っている以上、コンテンツを享受する消費者は「まなざす側」であり、コンテンツを提供する女性演者や女性キャラクターは「まなざされる側」、つまり「客体」であるという非対称性が生まれる。この時点で、女性のある種の「客体化」であるという批判は免れない。


 などと言っており、そもそもが「萌え」の第一義を問題であるとしているのです。
 師匠はさらに以下のように続けます。

しかし、「消費」自体をやめることはできないとしても、少しでも「まし」な消費の仕方を考えられないだろうか。


「お前は何を言っているんだ」と尋ねたいところですが、ここまでで明らかになったように、そもそも師匠は「萌えは悪」と考えているのだから、「何とか萌えを悔い改めさせよう」との発想に至るのは、全くもって、何ら不思議ではないのです。
 むしろ、にもかかわらず師匠が

つまり、私の考えではジェンダー平等の実現を求めることに賛同することと、女性演者や女性キャラクターがメインとして登場するコンテンツを一般の人よりも高い熱量をもって愛好し、追いかけることは必ずしも矛盾しないし、私は事実としてそれを両方やってきたということだ。


 つまりは、「私はオタクとフェミニストとを両立させているのだ」などと清々しく断言することの方が、了解不能なのです。

*1 上野千鶴子さんインタビュー@韓国・IF
*2実践するフェミニズム――【悲報】テラケイが表現規制に賛成だった件


・暖かな客体を築くことを誓います

 もっとも、これについても一応説明(言い訳)めいたことがなされてはいます。

しかし私は、社会の女性に対する抑圧のなかをくぐり抜けて彼女たちがどうにか工夫して生み出した、時に力強く時に繊細なさまざまな種類の女性性表象やそれを用いた表現に、同じ女性としてもエンパワーされることがある。


 何を言っているのかおわかりでしょうか。
「萌え」の中でも女性演者がガンバって演じているものはエラい、そうしたものは自分にとって快い、と言っているのです。
(しかし、師匠の言は演者に限られ、女性の、そして男性の絵師やストーリーテラーに目が行っていないのが、どうにも不思議です。ぶっちゃけ、アイドル(声優)が好きなだけでアニメや漫画などはあまり好きじゃないのかも……という気がしてしまうのですが)
 そもそも、「萌え」の中でもどのようなものに師匠がエンパワー()されているのか、具体的な例が一切書かれていないので想像する他はないのですが、師匠は1991年生。『プリキュア』が始まった頃、13歳です(さらに言うと最初期の『プリキュア』は『セーラームーン』同様、少々年長の視聴者を想定していました)。
 つまり上の仮定をいったん忘れるならば、師匠は『プリキュア』辺りのファンではないかと推測できる。
 前回もちょっとだけ『セラムン』に言及しましたが、近年(と言っても『セラムン』自体が三十年前の作品ですが)のフェミは「萌え」要素のあるオタクコンテンツであっても、女性向けである場合、肯定的な傾向にあります。
 表現の自由クラスタもまた、そうしたフェミニストを自分たちの女神として崇拝する傾向にあります。
 恐らく彼女らは「萌え」要素がある場合でも、そのコンテンツが自分に向けられて作られている、と感じた場合、肯定的に見るのではないでしょうか。
 とはいっても、今回の中村師匠の言を見れば明らかなように、フェミニストとしての彼女らは「萌えアニメ」の「萌え」部分を、肯定的に見ているわけではないのです。
 セーラームーンがミニスカートを翻しながら戦う様をぼくたちが視聴するのは、(青識のレトリックではなく、「女性を客体的に見る」という意味において)明らかに「性的消費」ですし、『プリキュア』はまだ性的要素が抑えられているものの、主人公の多くはピンク色のコスチュームに身をまとい、タイトルからしてもわかるように何より「可愛い」ことを主眼に置いています*3
 師匠の筆致(何か、女の子同士で切磋琢磨するようなアニメにエンパワーされるんだそうな)から推測するに、師匠はセーラームーンやプリキュアたちが勇ましく戦うことを、よしとしているのだと思われます。仮に師匠のお好みのコンテンツが『アイマス』だったとしても、単にアイドルのコンサートだとしてもそれは大差ないはずで、まあ、何か歌のレッスンとかをガンバってる様にエンパワー()されているのでしょう。
 しかし、では、もしプリキュアが「可愛く」なかったら、正直師匠はそれを好んだか……となると、それは疑問としか言いようがありません(海外のフェミは筋肉がついてて唇のぶっとい、キモい女性を称揚する傾向にありますが、これはあからさまにPCを先行させたものでしょう)。
 つまり、師匠はリクツの上では「女の子の能動性が素晴らしい」などと言いつつ、実際には萌え的な部分、即ち「従来的な女性ジェンダーを踏襲した部分」にこそ惹かれている。だって「萌え」は女性の「まなざされ」性、大事な部分をミニスカで際立たせる客体性をこそ、本質としているのですから。
 そこを師匠は、「戦う」という要素を混ぜ込むことで誤魔化しているだけなのではないでしょうか。もちろん、「戦う」を「歌のレッスンをガンバる」に置き換えてもこれは同じです。
 言ってみればBLがキャラの性別をかりそめに男性にすることで、女性が自分自身の欲望を直視せずに済むよう設計されたコンテンツであるように。
 そう、少なくとも彼女らにとっての『セラムン』はBLなのです。

*3 自分たちの嗜好に対するもう一つの言い訳として、上に書いたような若手のフェミニストたちはセーラームーンは「まなざされている(客体的)」のではなく「まなざさせている(主体的)」のだ、みたいなことを言ったりもしますが、それは常に両価性(どっちとも取れる曖昧さ)をはらんだものであり、自分の好きなキャラや作品だけを任意にそのように認定するだけなのだから、詭弁という他はないでしょう。

・末永いお幸せをお祈りします

「萌え」を愛しつつ、それは聖書の教えに背くことだと気づき、必死で教会で懺悔を繰り返す中村師匠。   
 聖書を拡大解釈することで、「萌え」をも愛してもいいのだと思い込む青識。
 まことにお似合いの二人という他、ありません。
 青識稿の最後は、以下のように締められています。

 しかし、いずれ、オタクとフェミニストとの対立構造を解消する方法について、正面から議論を交わしてみたいと私は思う。私もまた、この対立は超克可能なものだと信じるがゆえである。


 何か北田師匠みたいですね。
 数ヶ月後には青識が中村師匠をトークイベントという名のデートへと誘い、そこで「フェミ様、オタク文化を何とか見逃してくだせえ」と土下座外交を繰り返し、しかし後日中村師匠がブログでグチグチと文句を書き連ね、にもかかわらずまた青識がnoteで「みなさん、フェミを信じましょう、対話をしましょう」と泣きわめく……といった展開が待っているのではないでしょうか。
 青識は「超克可能と信じる。」と言っていますが、そう、まさに超克可能でしょう。
 それは、フェミニズムによる萌えの殲滅という形をもって実現するはずです。
 それについては、またnoteの課金部分で述べています。
 それほど大したことではないのですが、ここまでの展開に興味を持っていただけた方は、ご購入いただけると幸いです。