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兵頭新児の女災対策的読書

「女災」とは「女性災害」の略、女性がそのジェンダーを濫用することで男性が被る厄災を指します。

その時、ぼくたちの隣に二次元女子がいた

2025-04-20 20:00:21 | オタク論

 目下、『WiLL Online』様で例の札幌で起きた「女性を介抱しただけで逮捕された」事件について書いています。
 何と、早くもランキング一位を獲得していますが、どうぞ、より一層の応援のほどをよろしくお願いします!

 さて、今回はnoteでマガジンを作ったので、その宣伝です。
 興味のある方はリンクを辿ってみてください。


オタク文化とフェミニズム(その2)

2025-01-18 19:27:45 | オタク論

 

 さて、一階動画紹介を挟みましたが、前々回の続きです。
 未読の方は、まずそちらからお読みいただくことを、強く推奨します。

・何かルッキズムみたいなことが書いてある、本

 その前回の最後の辺りで全体に対する評は既にやっちゃったのですが、以降は個別に細かいツッコミどころを見ていきたいと思います。
 第8章は「娯楽と恥辱とルッキズム」と題され、「ルッキズム章」とでも評するべきもの。そう、前回にも述べたように田中師匠にはルッキズムに対する大いなるこだわりがあり、それ故に「女性が男性アイドルをまなざしていること」も問題化したいという気持ちは、確かにあったのでしょう。
 ところが本章において、師匠は延々「女は見た目で差別されてきた」という恨み節を炸裂させるのですが、驚くべきことにここでは男性アイドルのことも、それを「まなざしている」はずの女性ファンのことも、全く触れられていません!
 これは初出がアイドルと関係のないテーマで書かれたものだったがためと思われますが、ならそもそも本書に入れるべきではなかったでしょう。

 ぼくが前回、師匠がBL作家としての身バレについて難詰されても、悪びれずに本書を掲げるだろうと書いたのをご記憶でしょうか。
 その理由はもうおわかりかと思います。師匠は本書の中でそれ(女性の、男性への搾取)について考える素振りは見せているわけですから。
 もちろん、素振りは素振りに過ぎませんが、ぼくたちも「女だって男性性を搾取しているじゃないか」式の物言いをするのではなく、「見る/見られる」の男女の非対称性は普遍的であり、それ自体を否定すべきではない、と主張すべきなのです。
 例えば前回挙げた『セクシィ・ギャルの大研究』からして、上野師匠が「男のスケベ心を利用して、自らがまるでセクシィ・ギャルであるかのようにミスリードして、地位を得た」、「パパ活の書」に他ならないのだし、いかに田中師匠が「女性は男性アイドルをまなざしているぞ」とはしゃごうとも、女性が着飾る(つまりまなざされたいと考える)傾向は厳然としてある。
 確かに、「女性がイケメンをまなざすようになっている」というのもそれはそれで正しいのでしょうが、それが決定的な傾向かとなると、疑問です。例えば、バブル期はやはり似たような言説(女が男性化しているぞ!)が流行し、ジャニーズアイドルが脱いだりしたのですが、結局、男性ヌードは普遍化しませんでした。
 つまり、結局「男が女をまなざす」ことこそが普遍的であり、それは女も望んでいることで、別に「搾取」などではない。フェミがそもそも、根本から間違っていることを理解し、その言説の無意味さを説いていく必要があるわけです。

・やたらと自己評価の高い女子の書いた、本


 ――さて、そのためにも、もうちょっと本書について、深く切り込んでいきましょう。
 実はぼくは時々思うのですが、女性のアイドルファンって、とんでもなく自己評価が高いんじゃないでしょうか。
 本書においても、まず「推し」という言葉が世を席巻していると滔々述べられていることを指摘しましたが、そこには「世間の注目を浴び(た気になっ)て有頂天になっている田中師匠の姿が、どうしたって思い浮かびます。彼女も、まなざされたいんでしょう。
 にもかかわらず、師匠は飽きもせず、繰り返し男女の「見る/見られる」の権力関係がどうのこうのと書きますが、そう言ったその直後、オリックスファンの女性が自らを「オリ姫」と呼ぶという豆知識を披露します(165~166p)。
 そこを読んで、ぼくはため息が出ました。
 アイドルファンの男性が自身を「○○王子」などと呼ぶことが想像できるでしょうか。
 つまりこの「姫」という表現が既に、女性が自ら、主体的に、「まなざされる」という女性ジェンダーを選び取り、あどけなくその快楽に酔っていることの証拠なのです。
 さらに言えば、「推し」という言葉が既に、女性のアイドル消費が女性ジェンダーから一歩も出ていないものであったとの「答え」を最初から提示していたのです。
 そう、「萌え」は「感情」を示す言葉ですが、「推し」は「行為」です。好きなアイドルを応援することですよね。能動的「主体」があるんです。
 こう言うと師匠たちは「女性が主体性を獲得し、云々」とドヤ顔になることでしょうが、ちょっと待ってください。これって要するに「旦那に弁当を作ってあげること」の代替行為なんですよ。
「萌え」オタにもまた、散財することを誇るような傾向が、ゼロではないかも知れません。が、「推し」にはそもそも、「貢ぐ」ことを誇るような心性が最初から内包されている。
 本書では「モンペ」という言葉が紹介されています(179p)。「モンスターペアレント」の略語ですが、しつこく「布教」活動をするファンが、自らをそう称することがあるそうなのです。
「自虐的、換言すれば自己相対的ではないか」と感心する人もいるかも知れませんが、さて、どうでしょうか。要するにアイドルファンが「モンペ」という時、アイドルを「息子」に準え、息子への愛情故に暴走する自身を、そのように形容している。ここからはどこか浮かれた感じを、ぼくは受けます。言い換えれば「モンスター」をつけて謙遜することで、彼女らは自身を(ある意味、傲慢にも)「アイドルの母」だと自称しているわけですね。
 前回、師匠が「推し活」を「労働力の搾取」とか何とか宣っているのをご紹介しましたが、芸能事務所にしてみれば「あんたらがやりたがるからやらせてあげてるのに、何を」といった気分かもしれません。
 そう、「推し活」とはケア労働であり、「女の悦び」の代替行為でした。
「萌え」にもモテない男の代償行為という面はあり、一般のアイドルファン女性を馬鹿にするつもりは、ぼくには毛頭ありません。しかしフェミニストがそうした本質に気づくことなく浮かれた書を著してしまうのは、果たしていかがなものでしょうか。
 ましてや、非婚化、少子化そのものがフェミニズムの「成果」であることを考えるならば……。
 アイドルファンとは、アイドルを「旦那」に、「息子」にしている存在です。
 そして、本書から立ち上がってくる彼女らの自己像は、「アイドルを応援し、キラキラ輝いているワタシ」というものです。
 おそらくアイドルが輝いている以上、応援している自分たちが輝いていないわけがない、というリクツなのでしょう。それは丁度、旦那の地位によって井戸端会議におけるヒエラルキーが決定されてしまう奥様方と、全く同様に。
 つまり、仮にアイドル愛好を「搾取」であるとしても、男女でその仕方は全然違う。
 先にアイドル愛好は搾取でないとしましたが、仮にですが男性のアイドルファンが女性アイドルのパンチラを盗撮したら、それは「搾取」と呼ばれるべきかは措くとして「悪いこと」でしょう。
 しかし女性というものは女性ジェンダーのネガティビティについて全くの無頓着で、男性アイドルに対して「「搾取」と呼ばれるべきかは措くとして「悪いこと」」をしたとしても、無自覚であることが多いのではないか……と思えます。
 アイドルに熱中することを代償行為と気づけず、軽率に輝かしい自己像を抱くこともまた、(自分や周囲を不幸にしかねないという意味で)「悪いこと」の範疇ではないでしょうか。

・ジャニーズ問題から目を背けている、本


 その証拠に――とつなげますが――第6章「ジャニーズ問題と私たち――性加害とファン文化の不幸な関係」を見ても、そこに「反省」はありません。
 そう、ジャニーズ問題について、こんなの六〇年代からずっと言われ続けてきたことで、多くの「ジャニオタ」も、知りながら素知らぬ顔でファンでいたのではないかと批判されました。事件が騒がれる前(といっても『文春』によってタレントたちの証言がとっくに出ている段階で)柴田英里師匠はジャニーズアイドルに軽薄に萌えながら、「噂は噂にすぎない」などと一蹴していました
 翻って田中師匠は「私たちのまなざしそのものが問題の本質を隠蔽させていたのではないか(大意・143p)」などと言うので、「あ、満更でもないな」と思っていたら、それ以降は延々芸能事務所やマスコミのあり方へのご意見が続きます。
 本当にちらっとだけ、ファンも悪いようなことも言っていますが、何かそれも、女性ファンを貶めていた世間が悪いみたいなハナシになっていきます(154p)。

 しかも、アイドルの応援を軽蔑に値する文化であると断じ、ファンの女性を侮蔑し、ミソジニー(女性嫌悪)と結びつけた悪感情に満ちた言葉が、ファンコミュニティの外側から雨あられと飛んでくる。内情を知らぬ者たちに、別のファン文化と比較され、優劣を付けられもする。
(155p)

 何かよくわかりませんが、全て男のせいということになったみたいです。
 しかしね、そこまでアイドルファンをやってるだけで叩かれるのが本当なら、それについて検証する本を出しゃいいと思うんですけどね。
「別のファン文化と比較され、優劣を付けられ」るって、幼い少年たちがジャニーに受けてきたことを考えれば、どう考えても、どうでもいいような、鼻で笑い飛ばされるようなことでしかないし、こうした「被害感情」も責を人に押しつけるため、急遽発動したものじゃないでしょうか。
「ジャニオタ」の元ジャニーズの告発者への攻撃についてはさすがにスルーできなかったのか、ちらと触れてはいますが、自殺者を出したことについては言及がありません。結局、フェミは誰も少年への性的虐待について真摯に向きあうことはなかったわけです。

 この問題をジャニーズに特有のものとせずに日本社会に蔓延る普遍的な課題として捉えていくためには、エンターテイメント業界でこれまで浮かび上がってきた女性による性被害の訴えもまた過去にさかのぼって検証し直す必要がある。
(158p)

 あぁ、そうですか、よかったですね。

・何か「男の娘」とか書いてある、本

 ――さて、最後にちょっと、第9章についても触れておかねばなりません。
 オタクについての言及がほとんどない本書ですが、この章ではコスプレが、しかも「男の娘」についてが妙に子細に語られます。

 特に、若くてかわいくてきれいな女性キャラクターや萌え系の女性キャラクターのコスプレを男性がした場合、それは「コスプレ」であるのと同時に「男の娘」でもある。
(221p)

 えええええぇぇぇぇぇ~~~~~っっっっっ!!!!!?????
 何故!? どうして!?
 萌え系の二次元のキャラを「男の娘」と呼ぶのであって、そのコスプレはあくまで「男の娘」のコスプレ、です。

 異性愛の対象を自身の身体に憑依させるということよりも、むしろ、もっと直接的に「オンナノコ」になり、むしろ「異性」である男性たちに可愛がられたという受動的な欲求の発露である。
(同p)

 えええええぇぇぇぇぇ~~~~~っっっっっ!!!!!?????
 何故!? どうして!?
 根拠は一切、示されません。
 女子スペースに侵入し、性犯罪を繰り返すオカマが後を絶たないことを考えてもわかるように、「女性化願望」と「同性愛」の間には溝があるわけで、そこを単線的につなぐ師匠の考えは全く当を得ていないでしょう。
 ここでは「自分を男の娘だと思い込んでいる一般オカマ」についてひたすら書かれるばかりで、「男の娘」については全く言及がありません。例えばブリジット、例えば綾崎ハヤテ、例えばローラ・ローラなどについては、潔いほどに。本書のタイトルにオタクと冠されながら、最後までオタクについて全く書かれないことと、「完全に一致」して。
 これはそれこそ上にも挙げたブリジットが数年前、「トランスにさせられた」のと同様の、オタク文化のLGBTによる誤用であり曲解であり簒奪です。
 案の定、師匠はLGBTアライなのですが、それにしても一体何をどのようにすれば、ここまで卑劣で陰惨で残酷なことができるんでしょうか。

・何か自分語りで締められる、本

 女オタクの嗜好性は、規範的な女らしさとの切断の回路だ。しかし、同時にそれは、切断されたものとのオルタナティブな関係を再生する試みにもなりうる。
(227p)

 本書の最終章である第十章の書き出しです。
 どう思われたでしょう。
 この十章では急に情緒的な自分語りが始まります。

 活字中毒でロジカルにしゃべる女の子が小・中学校の女子のグループに受け入れてもらうのは、極めて困難なことだった。本やマンガやアニメやロックやSFが好きで、解釈論ばかりを繰り広げ、あげく「結婚制度には反対」とか言っていた私は、今思い返すとあまり同級生ウケの良い子供ではなかった。
 ガキっぽい趣味の同年代の男の子たちには嫌われていたし、バレンタインの手作りチョコレートにおまじないをかけているような同年代の女の子たちにも、あまり好かれてはいなかった……と思う。
(同p)

 いかが思われたでしょうか、みなさん。
 オタクというのはナイーブで聡明な存在であり、気持ちはよくわかるし、自分も『エヴァ』を観ながら、似たようなことを考えていた気もします。
 あ、ロックとかSF趣味を誇らしげに開陳している辺りは赤面してしまいますが、それはまあ、世代的に仕方がないのだと、許してあげてください。
 ともあれ師匠は、そんな自分を、オタク趣味がいかに救ってくれたかという追想を始め、それそのものにはぼく自身も共感を覚えます。
 問題は、男の子たちをガキっぽいと貶め、また自分以外の女の子たちの恋愛脳を蔑む彼女が、本人が言うほどに「ロジカルにしゃべる」女の子だったら、こんな論理性に欠ける本を書いたりはしないのではないか、ということですが。
 つまり、田中師匠が自分の「非リア充」性の原因を自分の知性に求めているのに対し、いささかの疑念が湧かないではないわけです。
 冒頭の「女オタクの嗜好性は、規範的な女らしさとの切断の回路」というのは要するに「オタク女子は通常の女らしさを持っていない」との主張です。何しろBLなどは「男しかいない世界」ですから、何とはなしに騙される人もいるのですが、ここまであどけなくアイドル萌え話が開陳された後では、それを信じる気になれるでしょうか。
 続いて「切断されたものとのオルタナティブな関係を再生する試み」とあるのは、要するに「BLで女のいない世界を描くのもいいけど、三次元のアイドルに姫扱いされるのもいーな」という意味なのです。
 これは同時に、バレンタインの手作りチョコレートに夢中になっていた他の女子たちを見下しているように見えた師匠が、実は羨望していたのだ、ということでもあります。
 同章では十年ほど前に2.5次元の世界(要するに漫画などを原作とするミュージカル)にハマったことが書かれており、まあ、オタク趣味が普遍化したおかげでホストクラブに好みのイケメンが溢れるようになってよかったねと、いえ、「ホストクラブ」というのは言葉のアヤですが、要するに師匠はそういうことをおっしゃっているわけです。
 言うなら上野千鶴子師匠が結婚しながら「結婚制度は悪」と言っているようなもので、こちらとしては「完全敗北宣言だな」と思うのですが、おそらくご当人にその自覚はない。
 フェミニストは男が好きで好きでたまらない、フツーの愚かで可愛いオンナノコ(の、なれの果て)でした。
 だから、市場もまたその欲望を汲んで、ホスト――じゃなくて、何だ、その、イケメン君たちを用意してくれました。
 その快楽を存分に享受しながら、今日も彼女らは相も変わらず十年一日のフェミニズムを、念仏の如く唱え続けるのでした。
 めでたしめでたし。


山田太郎と岡田斗司夫とぼくらのオタク主義

2023-11-26 00:19:24 | オタク論

・山田編

 文部科学政務官の山田太郎が辞任しました。
 きっかけとなったのは不倫騒動で、オタク――というか、表現の自由クラスタ界隈も大騒ぎです。
 ぼく自身、不倫などというプライベートを大げさに騒ぎ立てること自体が馬鹿馬鹿しいとは思うものの、ご時世でバレたら一発アウトとわかりきった案件に対し、ガードが甘かったことは愚かとしか言えず、残念な気持ちでおります。
 ただ一方、山田師匠自身はピースボートのスタッフであった経歴があるなど、極左と言っていい御仁。表現の自由クラスタそのものが最初から左派であり(だからこそフェミニストたちと徹底して親和的だったわけで)、それは不思議ではないんですが、左派であるということは同時に(サブカル君のオタクへの執拗な嫌がらせを見ればわかるように)名物の内ゲバをオタクを巻き込んでやらかしてくれるということでもあります。

 例えば、昼間たかし師匠。ずっと当ニコブロをご覧いただいている方ならばご記憶かもしれません。『マンガ論争勃発』といったオタク関連、表現の自由関連の著作があり、「オタクはパブリックエネミーじゃなきゃダメだ!」とわけのわからないことを宣っていたことでおなじみの方ですね。

左翼の異常な粘着 または私は如何にしてオルグするのを止めてオタクを憎むようになったか(再)

 彼は本件に絡んで早速「“オタクを守る議員”は虚像だった…“不倫報道”の山田太郎政務官、取材を重ねた記者が明かす違和感」という奇妙な記事を書いておりました。

 とにかく昼間師匠は山田師匠がオタクを騙して取り入った極悪人であって欲しくてほしくてならないご様子なのですが、その根拠と言えるものが、同記事にはどこにもありません。せいぜいが事務所でも支持者であるオタクと会話がなかったとか、妻子がレイヤーで腐女子なのに政治活動にあまり参加してないとか、その程度。タイトルだけ先に決めて、それに敵う事実が見つからなかった系の記事、と言っていいでしょう。
 そもそも先の(ぼくが採り挙げた)記事を見れば、まさしく昼間師匠こそがオタクの味方を装って取り入ろうとしたが、うまくいかず逆ギレしている御仁であることは自明。まあ、ええ気なモンです。
 そもそもみなさんの方がよくご承知でしょうが、山田師匠、自民に移籍したとたん、とにもかくにもこの種の人たちに粘着されるようになっていたという経緯もあり、昼間師匠もまた、その一人なのでしょう。
 同記事は山田師匠に詳しい記者(という、週刊誌でありがちな実在の怪しい人物)の「オタクの味方だと思っていたのにパパ活をやっていたとは許せぬ(大意)」との声を挙げてもいますが、そもそも山田師匠が金銭の介在を否定していることに加え、それを知ってオタクが失意するという(昼間師匠の脳内には明確に結ばれた)ストーリーが、どうにもぼくには理解できません。
 これは岡田斗司夫氏の愛人問題を思い起こさせます。ぼくが「自分をオタクだと思い込んでいる一般リベ」と揶揄するような人たちはこの問題が発覚した当時、大はしゃぎで「おまいらオタクのボスだと思ってたヤツは非リアではなくリア充だった、重大なる裏切り行為だぞ」などと言っておりましたが、そもそも庵野秀明とか、オタクでも大物になればモテるのは当たり前のことだというのが、大方のオタクの最初からの認識だったでしょう。

 本件を、山田師匠は「こども家庭庁」の立役者なんだから、不倫は許されないだろう、といった論調で叩く人もおりました。
 確かにそれも理屈としてはわかります。不倫は家庭不和の原因になり得るわけで、規範たるべき人物がそれではどうなのだと。いやしかし、ではその意味で、最初から山田師匠は「こども家庭庁」にふさわしい人物だったのでしょうか。
 そもそもこの「こども家庭庁」、元は「こども庁」であったところが保守派という悪者の横やりで「家庭」のワードをねじ込まれたといった評され方をしてきました。そして山田師匠自身が運動家めいた人の口添えで「こども庁」という呼称にこだわっており、「家庭」を入れるのは不本意だったのです。

 ネーミングなどどうでもいい、と思う一方、ここには「家庭」そのものが「家父長制」を象徴する悪しきものだというフェミニズムのイデオロギーが、強烈に内包されているわけです。
 つまり山田師匠のイデオロギーからすれば不倫は家庭という牢獄を破壊する善きことであり、岡田氏の振る舞いもまた、というしかない。
 ところが左派というのは敵をつぶすためなら、信じてもいない規範を平然と持ち出すのですね。
 もう一つ、先の「山田師匠に詳しい記者」は「山田は『文春』に法的措置をちらつかせている、これまで表現の自由を訴えてきたくせに許せぬ(大意)」とも言っています。
 いや、山田師匠の言い分では『文春』の報道の不倫相手に金銭を与えたという部分は虚偽だというのですが。それともデマを流されても黙って耐えることが、表現の自由クラスタには求められるのでしょうか。表現の自由クラスタの女神は以前、児童レイプを擁護したこと(これはデマでも何でもない事実なのですが)を批判され、法的措置をちらつかせていましたが、アレはいいんでしょうか。単に仲間のやることは全部いいんですかね。

・岡田編

 ――さて、本稿の目的は山田太郎炎上と岡田斗司夫バッシングとを比較し、共通点を指摘しようというところにあります。
 こっから先は岡田氏メインなので、山田炎上に釣られてきた方は、ここで引き返していただいて結構ですが、できればついでに見ていっていただくと、大変嬉しいです。
 一応、ここで読むのを止めようかと思った方のために、結論だけ先に書いておきますと、要するに以下のような感じです。

・左派はオタクを自分たちの子分であると信じている(もちろん、それは妄想なのですが)。
・山田も岡田もやはりその意味で、左派にとって「自分たちの子分であったのに、裏切った存在」である(もちろん、それは妄想なのですが)。
・左派にとっては保守派などより、子分だと思っていたのに意に沿わない者への怨嗟が何よりも強い。
・それ故、理屈をつけて燃やされている。

 ――まあ、こんな感じでしょうか。
 岡田氏はオタキングを名乗る通り、オタク文化の黎明期から、常にその中心で活動してきた人物。ニコニコ動画、YouTubeでは圧倒的な登録者を誇る動画配信者であると共に、一体全体どういうわけかここ数十年の「オタク界」では「絶対悪」として忌み嫌われ続けています。
 それには岡田氏の若い頃の毒舌ぶりなど、故なしともしない部分もあるのですが、岡田アンチの言い分を見ていくと、あまり理があるとは思えない。
 以下は「オタク界」における「岡田憎し」の世論が実のところ、今回の山田師匠炎上と同じ構造で作られてきたものであるとご説明するものです。

 さて、いつも言っていることですが、SF、サブカルといったオタクの先代文化は左派的価値観を極めて濃厚に持っていました。しかし学生運動の終焉の後、八〇年代に生まれたオタク文化には、イデオロギーというものはありませんでした。ところがその一方、当時のオタク文化はエロ漫画誌を主なプラットフォームにしていたがため左派に強く影響されてしまった、といったことが言えるわけです。
 この当時、岡田氏を初めとするオタク第一世代によって世に放たれた作品群があります。SF大会DAICONⅣにおいてガイナックスの母体と言えるDAICON FILMが発表したOPアニメーション、『帰ってきたウルトラマン』、『快傑のーてんき』、そして『愛國戰隊大日本』です。
 OPアニメには美少女キャラとメカと怪獣が次から次へと登場します。
『帰ってきたウルトラマン』は『シン・ゴジラ』の元ネタとも言えるシリアスストーリーが展開されるのですが、最後の最後に登場するウルトラマンを、どういうわけか庵野秀明がいつもの小汚いもじゃもじゃ頭の素顔で演じているという代物。
『快傑のーてんき』は『快傑ズバット』のパロディ。これはマニアに圧倒的支持を持つヒーロー役者宮内洋が主役で、徹底的にキザでクールなヒーロー像を演じた作品なのですが、それを武田康廣氏というまあ、岡田氏とあまり変わらないようなデブチンが主役で、元ネタそのままのキザを演じるわけで、もうそれだけで地獄のようにおかしいものになってしまうわけです。
 これら作品群に共通するのは「パロディ」であり、元の作品の「相対化」をテーマとしていること、とでも言えましょうか。
 OPアニメにおいて、怪獣やメカは何の必然性も意味もなく現れ、暴れ回り、また女の子にやっつけられます。そこではただ、描きたいから描くというオタクの欲望こそが優先されているんですね。一方、『ウルトラ』も『のーてんき』も徹底的にヒーローというものを茶化して見せている。
 そしてそれがある意味、一番透徹されているのが最後の『大日本』なのです。この『大日本』、いまでもYouTubeなどで観れるので、よければ一度観てみていただきたいのですが、要するに「もし右翼が戦隊作品を作ったら」といった馬鹿話から生まれたもので、北の大地からやってきた、五ヶ年計画で日本侵略を企む悪の組織レッドベアー団の魔手から日本を守るヒーローの物語。
 言うまでもなく右も左も笑い飛ばしたものであり、しかし洒落というものを解さぬサブカル連中――具体的にはロートルSFファン――から叩かれた、といったことを岡田氏自身、よく語っていました。何しろ文句をつけてきたのはソ連SF愛好団体「イスカーチェリ」。もう、この存在そのものが面白すぎてギャグなのかと思ってしまいます。
 ただ、それも別に間違いではないのでしょうが、実のところ近年、岡田氏はかなり意図的に上の世代の連中、つまりロートルSFマニアと言ってもいいのですが、ぼくの言い方に直すのであればサブカル連中、彼らを挑発する意図を持って本作をSF大会にぶつけたのでは……と思われる節があることが、明らかになっています。
 事実、上の人間たちは本作をホンキで右翼を礼賛した作品だと信じ込み、激怒しました。喧嘩をふっかけられた岡田氏は彼らを徹底的に洒落のわからぬアホ扱いし、痛快ではあるけれども、さすがにお相手が少々気の毒な気もします。

 何しろ、上のブログの語るところによれば本作が最初に上映されたイベント、TOKON8は三十ヶ国のSF関係者から祝辞を贈られた国際的な大会であり、ナイーブになる気持ちもわからないでもありませんから。
 他にも岡田氏の著書『遺言』には(『大日本』とは直接関係がありませんが)鼻持ちならない上の世代の(そして東京の)SFファンに毒を吐く箇所が出てきます(上ののーてんきを演じた武田氏も同様の想いを吐露しています)。
 SF界でもっとも栄誉ある章で「星雲賞」というのがあるのですが、岡田氏たちはこの賞の候補作として『大日本』をぶつけ、『ブレードランナー』に大差をつけて得票数一位となりながら、無効になったと言います。
 岡田氏側も『大日本』に票集めをするために運動するなど、完全にフェアだったわけではないのですが、ともあれこの当時の岡田氏は上にいるSF連中に敵愾心を抱いており、要するにこれは世代間抗争といった側面が極めて濃厚でした。
 岡田氏は、サブカルという連邦に対して独立戦争を起こしたジオンだったのです。

 ついでなので「岡田アンチ」の言い分について、ここで少し検討しておきましょう。
 DAICON FILM時代は岡田氏側は金儲をしていてけしからぬという物言いが強くされておりました。これはまたコミケなどでも儲けを出す同人誌はけしからぬと言われていたことと全く根を一にしており、当時は(少なくともこの業界では)金儲けというものに対する拒否感がかなり強かったのです。それが、オタク文化が商売になったとたん、サブカル陣営は揉み手をして擦り寄ってきたのだから、全くもって恥知らずな話です。
 近年は例の愛人問題が騒がれることが多いのですが、山田師匠の件でも述べたようにリベラルがそれを言うのは、極めて滑稽です。ぼく自身は、これについては確かに誉められたことではないので、むしろ岡田氏には批判的なのですが。

 他にも、「クリエイターになれないコンプレックスがある」だの「オタク利権を独占している」だのといったことも、よく言われます。
 しかし前者は現実問題として、岡田氏がクリエイターとしての活動もしていることを思うと事実と反しているし、そもそもそのコンプレックスだって、あるに違いないとの思い込みの域を出ないでしょう。後者については商売敵に理不尽な言いがかりをつけているようにしか思えない(具体的にどのような形で排他的に独占しているのか、少なくともぼくはアンチが語っているところを観たことがありません)。
 サブカルがコンテンツを生み出せず、商業的にも成功できなかったことを考えるに、両者とも自分のコンプレックスを敵へとぶつけているだけにしか思えないんですね。
(他にもいくつかあるのですが、それはすみませんが、課金コンテンツの方で……)

 ことほどさように、サブカル連中はオタクを「自分たちのマスターベーションを手伝ってくれないから」という理由で、酸鼻を極めるバッシングをしていたわけです。
 ところが九〇年代、宮崎事件から一転してオタクは被差別者、被害者となり(それ以前、サブカル自身がオタクをバッシングしていたことは、ヒミツです)、『エヴァ』以降、そのコンテンツには市場的、文化的価値が認められ始めた。そのとたんにサブカルはオタクにひっくり返した手のひらで手もみをしながら擦り寄りだした。これもまた、いつも言っている通りです。
 しかし、彼らにとっては目の上のタンコブがいました。
 丁度当時、岡田氏はオタクの市民権を獲得するため、例えば『オタク学入門』といった本を出すなど盛んに活動していたのです。
 しかしオタクを自分たちの子分であると信じるサブカル君にとって、「オタクを差別から解放した救世主」は自分たちでなくてはなりませんでした(それ以前、サブカル自身がオタクをバッシングしていたことは、ヒミツです)。
 さらに言うならば、サブカル君にとっては岡田氏は自分たちに反旗を翻そうとした十年来の怨敵だったのだから、なおのこと彼からオタク利権を奪わなくてはなりませんでした。
 岡田さえ倒せば、オタクたちは俺たちサブカルのお稚児さんになる――それが彼らの妄念であり、ある意味、彼らは既に半分くらいそれを実現してしまったと言えるでしょう。

 ――と、いよいよ話がアブない領域に入って参りました。
 九〇年代からゼロ年代に至るオタク界の秘史については、有料コンテンツにさせていただきます。
 まあ、実際にはほとんど、調べればわかるようなことでしかないのですが、以下をお読みになりたい方は、下の文字をクリックしてnoteに飛んでください。

・X編


BL大戦

2022-12-03 19:56:40 | オタク論

※さて、BL、腐女子について今まで書いてきたことについて、マガジンにまとめました。上の画像をクリックすると有料部分に飛べますが、本来はマガジンのガイド記事的なモノなので、お買い求めいただく際はマガジンの方を買っていただくことをお勧めします。※

「BL大戦」。
 何が「大戦」なのか。
 言うまでもなく「腐女子」「BL」という存在を巡ってフェミニスト、LGBT、表現の自由クラスタ、アンチフェミと各勢力がひしめきあい争いあっている辺りが『スーパーロボット大戦』っぽいので大戦なのです。
 ここしばらくの「BL大戦」の中心人物は星崎レオ師匠ということになりましょうが、ぼくはあまり彼女を叩く気になれない。それは彼女が(BL作家としては人気なのかも知れませんが)別にフェミ的主張を以前からしていた人物というわけではなく、その意味では「一般人」でしかないからです。
 まあ、その辺についての考察はおいおいしていくとして、ここでは数年前の「BL大戦」について振り返ってみましょう。
 そう、北田暁大師匠と山岡重行氏のバトルです。
 北田師匠は『社会にとって趣味とは何か』において「腐女子は先進的なフェミニズムの闘士だが、オタク男子はネトウヨ」と(極めて脆弱な根拠で)決めつけ、腐女子の#KuTooName(靴舐め)の限りを尽くすと共に、先行する山岡氏の『腐女子の心理学』では腐女子に「オタク男子とつきあえ」などとアドバイスがなされていたぞと血涙を迸らせ、怒り狂っておりました。

 それらについての詳細、また最後の方は今回の「BL大戦」、つまり星崎師匠の騒ぎについても論じております。ご興味のある方は上の画像をクリックして、noteの方に飛んでみてください――。


風流間唯人の女災対策的読書・第24回「オタクVSサブカル最終解答」

2021-08-28 20:24:22 | オタク論



 どうも、ブログの更新が滞っております。
 このところ、さすがに『Daily WiLL Online』様での執筆に忙しく、ブログ(ニコブロやnote)には採録記事ばかりが載ることになっており、さすがにそれはこちらに反映させる必要もあるまいと思っておりました。
 が、ここしばらく小山田圭吾問題について、動画を作り、また『Daily WiLL Online』様でも書かせていただいたことを忘れておりましたので、取り敢えず今回はそのご報告となります。

風流間唯人の女災対策的読書・第24回「オタクVSサブカル最終解答」


小山田氏「いじめ問題」はオタクを下に見る「男性フェミ」と同じ構図
小山田圭吾氏問題にみる、リベラル・文化人の無茶な「自己正当化」論
「共同教育」理念に見える左派&リベラルの病根


 ともあれこれらを見ていただければ、サブカル君たちの格好よさを堪能できることは間違いなし!