兵頭新児の女災対策的読書

「女災」とは「女性災害」の略、女性がそのジェンダーを濫用することで男性が被る厄災を指します。

強制的異性愛始末記

2021-03-20 18:44:56 | ホモソーシャル


・風流間唯人始末記

 みなさん、『Daily WiLL Online』様で書かせていただいた記事は読んでいただけたでしょうか。もう掲載から結構経ってしまいましたが、一時期ランキング1位だってこともある人気記事です。未見の方はどうぞお早めに!!
 また、風流間唯人の女災対策的読書はご覧いただけているでしょうか。

風流間唯人の女災対策的読書・第18回「強制異性愛社会――フェミニストがポルノを憎む本当の理由(わけ)」


 ――こう書くと宣伝ばかりしているようですが、今回の記事はこれらの取りこぼしネタというか、これらを補完するためのものなので仕方がありません。
 動画の方ではホモソーシャルについて、「同性同士でつるみたがる傾向は確かにあろうが、それ自体は当たり前だ」とし、また記事の方では「親しい関係性にはその裏面として排他性が生じるのは当たり前だ」としました。
 動画ではそれに続き、以下のように言っています。

しかしそれは類を以て集まるのが人間の性だ、そしてホモとヘテロでは好みの女の話をして盛り上がりにくい――というただそれだけのことだ。


 これそのものは全く正しいのですが、ただ、ちょっと説明不足かなとも感じ、そこを補足したいというのが今回の主なテーマです。
 確かに、同性愛者と異性愛者では「好みの性対象の話」をしにくい。
 しかし同時に記事の方にも書いたように、「ホモへの嫌悪感」というのもまた、普遍的であり、動画ではそこについて語っておらず、ちょっとそこから逃げたような物言いになってしまったなあ、と後から思いました。
 さて、その「ホモへの嫌悪感」ですが、しかしこれは「ホモセクシュアル」というよりは「男性の肉体性への嫌悪感」が本質だというのが正しいのではないでしょうか。

 ――いや、そんなんどっちでもいっしょだろう!

 う~ん、そうでしょうか。
 いえ、突き詰めれば同じかもしれませんが、ぼくがここでしたいのは「ホモフォビア」とやらいう感情は、要するに「女の肉体は性的だが、男の肉体は性的ではない」という、この世の「真理」に準じたものだという指摘です。

 ――待て、「真理」とは何だ兵頭。そうした世の男どもの頑迷な思い込みを打破したのが、フェミニズムの説く「強制的異性愛」の概念ではないか!

 はいはい、では動画でもご紹介した「強制的異性愛」の概念について、もう一度見てみましょう。

・リッチ始末記

 まずこの言葉の提唱者リッチ(厳密には先行する提唱者がいるようなのですが)の主張は「レズこそが原初のものである」とでもいったものでした。もう少し詳しく言うならば、「人は誰もが母親に育てられ、母親に懐くものなのだから、女の子にとっては同性愛の方が自然だ」といった感じでしょうか。
 これは(動画のコメントに「まるでポストモダンだ」と感想を書いてくれた方がいましたが、まさにその通りで)精神分析学的な、立証の難しい思弁的な立論ですが、実のところ、リクツとしてはそれなりにわかりやすいものではあります。
 時々引用しますが、これも精神分析学者のラカンは「異性愛とは女性に性的欲望を感じることだ」と指摘しているといいます。(男性誌の表紙が女性であると共に)女性誌の表紙が女性であることが象徴するように、女性にとっては自分の性的魅力で男性を惹きつけるこそが重要です。レディースコミックが「男性が女性に求愛する」というヘテロセクシャル男性向けのポルノとほぼ同じ構造を持っているのも、それ故です。昨今はイケメンを鑑賞したがる女性も多いですが、例えば女性向けの男性ヌード雑誌などというモノはさっぱり出てきません。
 逆に考えるなら、「女性もまた女性に性的欲望を感じているのだから、みんなレズ」と言ってしまえば、言えなくもない。
 精神分析ついでに申し上げると、フロイトはエディプスコンプレックスという概念を提唱しました。言ってみれば「男はみんなマザコンだ」という理論ですね。
 では女の子は、という段階になって、フロイトは「女の子はファザコンになるはずでは……」などと考えました(が、今一うまくまとめられませんでした)が、後に続く女性の研究家、例えばクラインなどは「いや、女の子はむしろ母親と自分とを同一化してるんじゃ? 男の子はある時期から同一化を止め、母親を対象として愛するようになるのでは?」と考えました。そもそもが「人間はまず自己愛から始まり、同性愛(学童期の子供の、性的な要素を含まない親友関係がこれに当たると考えられます)へと段階を経て異性愛へと「発達」していくのだとの説を唱えたのがフロイトなのだから、むしろその考えを演繹するならば、このクラインの考えの方が筋が通っているわけです。
(以上は大昔に勉強したことを記憶で書いているのですが、アウトラインは間違っていないはずです)
 つまり、リッチの唱える「女性もまた女性に性的欲望を感じているのだから、本来はレズが正常」という発想は、ある意味では正しい。しかしさらにその「女性の女性への性的欲望」は、それに先行する自己愛の一種であると考えた方が理解しやすい。だから女性は自己愛、同性愛的要素を温存させつつ、「異性愛」、つまり「男性に自らを欲望させる」段階へとステップアップしていくのだと、一応、そうした見方ができるわけです。
 つまり、リッチの主張は実際にレズの女性が少ないこと、また(ことにホモに比べ)レズへの嫌悪感が普遍的とは思えないことなどから容易に否定し得るものですが、「女性の肉体への欲望は男女とも普遍的」という点においては「正しい」のです。
 しかしそれを逆に言うと「男性の肉体への性的欲望」は極めて例外的ということにもなります。「ホモはキモい」という価値観は普遍的だ、と考えざるを得ない。いわばリッチの主張は「ホモフォビア」を「正しい」とするものなのですね。
 フェミニストがホモを政治利用しているのは周知ですが、本来、フェミニズムはミサンドリーそのものであって、ホモを好きなわけではないのです。その意味で「ホモだって男だ、だから嫌い」と明言している上野千鶴子師匠は正直だし、リッチもまた、近しいことを言っています。「レズはホモといっしょにされがちだが、男性であるホモと違って弱者だ。またホモは性対象を選ばない傾向があるが、レズは違う。(大意。88-89p)」と。
 端的にはリッチの主張は(レズ推しなのだから当たり前ですが)女性性は極めて優れた尊いものだ、ホモはしょせん男だから下等だ、とでもいったところにあるわけです。
 ただ、この箇所には後年に書かれた脚注で「ホモにも学ぶべき点はたくさんあると思ったよ」などと言い訳が書かれています。動画中でもリッチの論文には言い訳が多い、と指摘しましたが、「本音としてはホモなど嫌いだが、フェミ的にはホモと共闘するのが利口だと考え、言い訳を繰り返している」といったところが本当のところでしょう。
 さて、ここまでの流れをちょっとまとめましょう。
 リッチの主張はいずれにせよデタラメという他ないが、「女性の肉体性への欲望が性欲の本質」であるという意味では一応、正しい面もある、といった感じです。しかしこの考え方を根底に置くとするならば、フェミニストは間違っても「ホモフォビア」などという言葉でヘテロセクシャル男性を攻撃する資格などは、全くないのです。

・セジウィック始末記

 では、セジウィックについてはどうでしょうか。
「ホモソーシャル」という言葉を提唱した(これも厳密には先行した提唱者がいますが)彼女の著作、『男同士の絆』において語られているのは、家父長制は「ホモフォビア」と「ミソジニー」を前提する「ホモソーシャル」によって成り立っている、との主張です。
 もっともこれが「(結婚した、即ちヘテロセクシャルの)男は男同士でいい目ばかり見ている、女とホモを差別することでそれを成立させているのだ」というわけのわからない(何より前提が既に完全に間違っている)インネンをムツカシく言っただけのものであることは、ここをお読みの方はもう、おわかりでしょう。
 しかしヘンです。
 セジウィックは「強制的異性愛」の用語を使っており、またリッチの論文にも言及しており、「ホモソーシャル」という概念の立論の前提として「強制的異性愛」があるのは明らかです。
 が、「強制的異性愛」というのはあくまで「レズというよきものを男たちが弾圧したのだ」というものなのだから、ホモは関係ないのです。西欧社会では一応、「ヘテロセクシャルがホモを弾圧してますた」という歴史があったとは言えましょう。しかし少なくともホモソーシャルの概念は「男同士結託する必要があるが、同時に女と結婚する(ことで女を虐げる)必要があるので、ホモを差別する」といったものなので、リッチのロジックはそれの説明に使えるものでは、元々ない。
 セジウィックは間違った材料で、作れるはずのないものを作ってしまっているわけです。
 もっとも、同書を見て行くと、ヘテロ男同士のホモソーシャリティとホモの関係性とを同じだと言ったら、ヘテロの男側もホモも両方が嫌がるであろう、などと述べ、そして以下のように言っています。

 女性と違って男性の連続体には、「男を愛する男」と「男の利益を促進する男」を直感的に結びつけるような力がないのだろうか。
(4p)

 とすると、現代社会では、女性のホモソーシャルな絆とホモセクシュアルな絆との間に比較的連続性があるのに対して、男性のホモソーシャルな絆とホモセクシュアルな絆とは完全に断絶しており、男の絆と女の絆は明らかに非対称的な姿を呈している、ということになる。
(6p)


 えぇと、わかりにくいかと思いますが、簡単に言えば「何で男って友情と恋愛を分けたがるんだろう」と言ってるんですね、これは。レズが自分の感覚が普通であると思い込んでおかしなことを言っているようにしか読めませんが、しかし、女性が男性に比べて比較的同性同士の肉体的な結びつき(例えば手をつなぐなど)に抵抗を覚えないのは事実であり、これはむしろ「女が自分主観で男の友情を見て首をひねっている」様と表現すべきかもしれません(実はこの人、『クローゼットの認識論』という著書においても似たようなことを延々クドクド書いています)。
 しかしその疑問も、上にも挙げたラカンの説を持ち出した時、たちまちに説明が可能になることは、もうおわかりでしょう。
 まとめると、セジウィックが指摘したように「男たちの関係性は分断されており、女たちの関係性は分断されていない」のだから、リッチの考えは完全に間違っている。だからリッチの考えを前提とした、「ホントはホモが普通なのに、それを弾圧して男たちに異性愛を強制しているのが現代社会である」という考えも、ましてやそれを演繹した「男がホモと女を搾取して利を得ている」とのホモソーシャルの理論も、最初から間違っていた。
 両者とも本当に何重にも何重にも、論理をこんがらがらせて間違ったことを言っているのです。

・バイセク始末記

 もう一つ、記事の方にも書きましたが、この「強制的異性愛」を演繹して「近代以前の人間は元々バイセクシャルであった」みたいな俗論が囁かれることがあります。例えば、村田沙耶香の小説『地球星人』ではセジウィックの説として、上のようなことが書かれているようです。
 しかし、これはまずリッチの主張と噛みあわないことはおわかりでしょう。彼女はレズ至上主義者ですから。
 では、セジウィックは本当にそんなことを言ったのでしょうか。
 恐らくこの「バイ普遍論」とも称するべき考えは、古代ギリシャの少年愛の風習を根拠にしているのではと思われます。事実、セジウィックも上述書でそれを持ち出し、「かつてはホモセクシャルとホモソーシャルが連続していた(=ホモを排除してなかった)」と述べています。
 しかし彼女は同時に「少年愛といっても基本妻帯者のやってることで、ヘテロセクシャルが根底にあるじゃん」とも述べているのです(ただ、この発言自体は、上の書を書いた後のもののようです)。これは筋の通った指摘であり、納得のできるものです。
 つまり、「かつて、バイセクシャルを基調とするジェンダーフリーでホモ差別も女性差別もない理想郷がありますた」といった世界観は、リッチもセジウィックも述べていたとは考えにくい。
 ただ、「強制的異性愛」といったフレーズに飛びついた者が、何とはなしにそうした世界観を夢想し、その「夢想」がいつの間にか「現実」であるかのように語られるようになった――と、そうした経緯があったのではないでしょうか。
 随分前に藤本由香里師匠の著作を採り挙げたことがありました*
 ここで師匠は少女漫画の中に登場する、異性愛者が見下される「完全両性愛社会」に快哉を叫んでおりました。しかし当たり前のことだけれども、その社会においてはホモも「女を愛さない」ことを馬鹿にされるようになるはず。レズもまた、です。
 この「バイ普遍論」は言うならばラカンの説くように、「普通に男が好きだが、アイドルや萌えキャラなどの女の子も好き」な、ヘテロセクシャルであるフェミニスト女性が、「ホモを嫌う一般的なヘテロ男性」へとマウントするという娯楽のために作られた幼稚な妄想なのではないでしょうか。

* 私の居場所はどこにあるの?(その2)

 ――さて、ではホモは本当に彼女らが主張するようなヘテロより優れたスーパー男性なのか。
 その辺りを明らかにするため、最後にちょっとだけ過激なことを書く必要が出て参りました。
 当noteの愛読者の方は大体おわかりでしょうが、ここから先は一応、大事を取ってnoteの方の課金コンテンツにしたいと思います……。

・ホモフォビア始末記

男性権力の神話 《男性差別》の可視化と撤廃のための学問(その2)

2014-07-12 15:23:29 | ホモソーシャル

 ――さて、前回記事はいかがだったでしょう。
 数々の引用に衝撃を受けていただきたいような、いや、それくらいのことは大前提として知っておいてもらわねば困るぞと言いたいような、複雑な気持ちで筆を進めておりました。
 今回は一歩進めて、「結論」と題されている最終章からの引用をすると共に、著者であるファレルのスタンスについて、考察を進めていきたいと思います。


 全ての男性に共通してある傷は、彼らの使い捨てという心理的傷だ。兵士として、働く者として、父親としての使い捨て。彼らが他の誰かを助けて生かすために殺して死ぬことで、愛されると信じているという心の傷だ。(p381)


 男性運動が効果的な貢献ができるかどうかは、全ての世界中の悪は男性の責任ではないことを説明する能力にかかっている。それは戦争の起因は男性ではなく、生き残るためだったこと。男性は彼ら自身の司令官になったことは一度もなかった、男性が司令官になったのは守れという命令のためだったこと。それを男性が守らなければ、もっと多くの権利を得るため誰もここにいることもできなかっただろうこと。(p382)


 フェミニズムは「全ては男性の責任である」との陰謀論ですが、それは一般的な人々の感覚とも、少なからず親和性がある。しかしそれも、「男は能動的に動くことが期待されるので同時に責任をも取らされているだけ」の話でした。
 確かに、「九条を掲げていれば誰も攻め込んでこない」が真であれば大変に望ましい話なのですが、やはり「能動的に動くこと」が必要とされる側面はどうしてもある。
 フェミニストたちがそうした考えを持たないのは、或いは彼ら彼女らがあちらから来た兵隊さんに殺されることなく、
チョコレートやチューインガムがもらえるという「自信」を持っているから、なのかも知れませんね。
 さて、ではそんな女災社会で、ぼくたちはどのように生きていけばいいのか。
 ファレルはどのように考えているのでしょう。
 実のところ本書を見る限り、ファレルもそこまで明確な指針を提示しているとは言い難いのですが。
 ですが一つに、ロバート・ブライという人物の提唱した「マイソポエティック(神話解釈)男性運動」というものが語られています。
 これは(あまり明確な説明がなされておらず、想像するしかないのですが)どうも推察するに、男性同士で集まり、感情を吐露しあうことで自らの欲求に気づき、ステージⅡ*の入り口に立とうとするエンパワメント運動めいたもののようです。


 これまでの社会において、男性は自分の心の感情を詰めた卵を全部、愛した女性が持つバスケットの中に入れて共有してきた。(中略)しかし、男性の週末はその代わりとなる感情の源を与えるので、男性は孤独を恐れずに、感じたことを主張できる勇気を得られる。(p390)


 これもどうやら、男性たちが週末をそうした男性解放運動に費やすことを現しているようです。
 さて、皆さん。
 彼らにぶつけるべきフレーズが何か、おわかりでしょうか?
 さあ、皆さん、ごいっしょに。


 ――ホモソーシャル!!


 事実、どうもこの運動はかつての「男性結社」を思わせます。
 この話題は、実のところ不勉強で今まで言及せずに来たのですが、中世ヨーロッパを発祥とするフリーメーソンのような「秘密結社」というのは、どうもそのようなものらしいのです。この種の結社の入社資格はキリスト教を信ずる成人男性とされ、察するにこれら組織の主旨は「仕事仲間とはまた別な、男同士の友だちと親交を深めよう」というもののようなのです。
 二十年ほど前、まだ「ホモソーシャル」という言葉が一般的でなかった頃、現代思想系の雑誌でフェミニストが「
男性結社はホモ」とひたすら書き殴っている電波妄想系の論文を読んで眩暈を覚えたことがあったのですが、今から思うとこれは「男性による秘密結社はホモソーシャルな存在である」と言いたかったのでしょう。その意味で、「フリーメーソンは世界征服を企む悪の組織」という陰謀論とフェミニズムとは、全く同質のものなのです。
 そしてまた「オタクサークル」もそうした、一種「男同士の秘密結社」であることは、論を待ちません。
 いつだったかぼくは「オタク」というものを「裸の男性性」と表現しました。ぎょっとされた方もいたかも知れませんが、「オタク」とは今まで「父親」「息子」「社員」といった社会的役割を「鎧」にしてきた男性の、その役割を剥ぎ取った、史上ぼくたちが初めて見る「裸の男性」である、オタクは史上初、「自分の好きなことを始めた男性」である、史上初、ステージⅡの世界への潜入を初めて成し得た男性である、といった意味の言葉だったのです。
 しかしそうした男性のあり方をフェミニズムが「ホモソーシャル」という言葉で苛烈に糾弾していることが示すように、女性は「自分への奉仕をしない男性」を、必ずしも好ましく思いません。
 そしてまたぼくが幾度も「ホモソーシャル」を「冷蔵庫の中の干からびたタクアンの尻尾」と形容してきたように、こうしたオタク文化もまた、一種、「性犯罪冤罪で全てを喪い、刑務所にぶち込まれた男が飯粒で何とか作りだしたサイコロ、そのサイコロを使った遊び」のようなもので、必ずしもそれだけでぼくたちを「リア充」化するものではありません。


*本書では「ステージⅠ/ステージⅡ」という言葉が繰り返されます。これはわかりやすく言い換えれば


 ステージⅠ=生存欲
 ステージⅡ=自己実現欲


 といったようなことです。


 さて、では他に何かいい手はないのでしょうか?
 これも想像ですが、(繰り返しますが、彼はあまり明瞭な言葉を述べていないのです)ファレルは恐らく「ジェンダーフリー」をもって、「男性解放」を成し遂げようとしているのではないか、と推察します。
 ぼくは「女災」という概念を提唱しました。それは、


 女性が被害者性を発揮することにより手にする加害者性/男性が加害者性を発揮することにより負わされてしまう被害者性


 と端的にまとめられますが、ファレルも当然、その程度のことは言っています。


 全ての性的な行動の判断における問題は、自身で判断を下すことに刺激を感じない人たちによって判断を下されるということだ。(中略)男性は、レイズ社がポテトチップスを意図したより食べ過ぎてしまったことで誰かに後から訴訟を起こされるように、女性に意図していたよりも多く彼女がセックスしてしまったことで後から訴えられている。(p318)


 わかりにくい文章ですが、要するに女は性的な場においては、相手に判断を任せておきながら後々全てをジャッジする権力を持っているぞ、ということです。
 そしてそうした男女ジェンダーの歪なあり方を、彼は「ジェンダーフリー」によって超克できると考えているフシがあります。「ジェンダーフリー」という言葉そのものは出てきませんが、本書の端々に例えば


必要なのは女性運動でも男性運動でもなく、ジェンダーを変化させる運動であったのに。(p46)


 などといった記述が見つかります。
 しかし今となっては、フェミニストたちが莫大な予算をぶんどって強行したジェンダーフリー運動の失敗は、明らかです。
 その失敗の理由についても、ぼくは今まで幾度も述べてきたかと思います。


 1.そもそも、「ジェンダーアイデンティティの獲得は後天的である」との学説が虚偽であったこと。
 2.「ジェンダーフリー」そのものが具体的ビジョンのまるで見えない、空理空論でしかなかったこと。
 3.いや、ビジョン以前にまず、フェミニスト自身が「ジェンダーフリー」を地に着いた問題としてリアルに捉えているとはとても思えなかったこと。
 4.何よりも、ファレルの書が余すことなく明らかにしたように、男性こそが生命に関わるような悲惨な「ジェンダー規範」に縛られた存在であったにもかかわらず、フェミニストがそれを全く見てこなかったこと。


 思いつくままに理由を挙げるとこんなところになるでしょうか。
 1.については長くなるので、『バックラッシュ』に関する一連の記事*を参照していただきたいのですが、一つだけ言っておくと、学説のウソがばれた時のフェミニストたちの対応が不誠実極まるものであったこともまた、この運動に対する不信感を募らせる結果となりました。
 2.と3.は被りますが、結局彼女らの目指す世界がどんなものか見えてこないこと、そしてまた、彼女らの方法論に説得力がないことです。例えば彼女らは、ジェンダーフリー教育で「男が青、女が赤とは限りません」などと説くだけでジェンダーフリー社会が到来すると思っているのでしょうか。どうにも彼女らは自分たちの感覚が世間一般の女性とずれているという自覚に乏しく、ちょっと言えばみんな自分たちに従ってくれると思い込んでいるフシがあります。
 いや、そんなこと以前にそもそも、ぼくにはフェミニストたち自身が「ジェンダーレス」を望んでいるとは全く思えないのです。彼女らが「社会進出」を志向する一方、主夫を養う気が全くないことが象徴するように、またBLがジェンダーの再生産であると指摘されるように、彼女らは都合のいい場面では「男らしさ」を自らのものにしたいと思っている一方、「女らしさ」の旨味を手放そうとしているようには、全く見えないわけです。


*バックラッシュ! なぜジェンダーフリーは叩かれたのか?
バックラッシュ! なぜジェンダーフリーは叩かれたのか?(その2)
バックラッシュ! なぜジェンダーフリーは叩かれたのか?(始末記)
バックラッシュ! なぜジェンダーフリーは叩かれたのか?(仁義なき戦い編)
2012年女災10大ニュース


 ――だがちょっと待って欲しい。フェミニストの「ジェンダーフリー」が欺瞞でしかなくとも、4.を鑑みるならば、「男性の視点をも取り入れた、真のジェンダーフリー」はあり得るはずではないか?


 或いは、ファレルの答えがまさにそうしたものかも知れません。
 彼は男女の能動/受動的ジェンダーについて、以下のようにも言っています。


 もしそれが機能的でないなら、より強い生物学的傾向はより強い変化が必要である。もし女性の受動性が生得的なものであると立証されたなら、それは、女性が自信を持って自己主張するトレーニングの必要性を増やすだろう。もし男性の攻撃性が根深いものなら、それは、男性が自信を持って自己主張するトレーニング(攻撃性のトレーニングではなく)の必要性を増加させるだろう。(p103)


 また彼は「男女平等憲法修正条項」というものを仮想し、こう言います。


その法律は、男性だけにいかに誤った行動をしないように講義するのではなく、女性にセックスについての主導権を握り、セックスを拒否されるリスクを負う平等な義務があることを教育するインセンティブを学校に与えるだろう。(p395)


ステージⅠではスーパーマンは外の世界で地震を調査し、彼の愛する女性の命が失われることを防ぐ。ステージⅡのスーパーマンは彼自身の内部の地震を見つけ、彼の愛する女性とコミュニケーションをする。(p386)


 正直、この「地震」という比喩がどこから出てきたのかわかりませんが、本書を読んでいくと1993年という冷戦終結直後に出された本であるが故の、ある種の楽天性のようなものを感じないでもないのです。
 しかしこの「地震」というフレーズが今となっては予言めいていることが象徴するように、今のぼくたちはまさに「地震が起きたため、男だけが調査に行かされている状況」を生きているのです。
 つまり、「男性の解放をも念頭に入れた、真のジェンダーフリー」を考えるならば、それこそえふいちの作業員が男女同数になるくらいを目指さないと、どうしたってリクツにあわない。
 しかしそれは、可能なことでしょうか。
「真のジェンダーフリー教育」でそうした能動性のある女性を増やせばいいのでしょうか。女性が泣こうがわめこうが、アファーマティブアクションでえふいちに送り込めばいいのでしょうか。
 いずれにせよ、現実性があるとは思えません。
 結局、男性の過酷な状況を見据えれば見据えるほど、「真の男女平等」を素描するとなると、「ジェンダーフリー」などと口走っている人々がショック死するようなビジョンしか、描くことはできないのです。
 バブル期、フェミニズムに影響を受けた一部論者たちは「男たちよ、鎧を捨てよ」と脳天気なことを言いました。
 しかし男が女に倣い、鎧を捨て始めたら、誰が地震の調査に行くのでしょう。
 ファレルは


 男性運動はおそらく多くの運動の中で最も長きにわたるものになるだろう、なぜならそれは単に黒人やヒスパニックの人たちを既存のシステムに融和させることを提案するのではなく、システムそのものに革命的移行を与えることを提案するからだ。それは「保護される女性」と「保護者としての男性」を終わらせる。(p397)


 と語ります。
 この「長きにわたる」との予測は大いに賛成ですが、それは同時に、「男女のジェンダーをそのような状態に持って行くには、どうすればいいのか」という方法論も、「そのような状態になった社会とはいかなるものなのか」というビジョンもまだなく、そもそもその前段階として現状を認識することすら、ぼくたちはまだおぼつかない、ということでもあります(何しろ現状を認識するためにはフェミニズムによって行われた「現状修正」を正さねばなりません!)。
 つまり「真のジェンダーフリーによって、男性を解放する」という発想は、純粋な理念としては大いに賛成できるものの、しかしその「真のジェンダーフリー」とは一体どのようなものなのか、その像は、今のところSTAP細胞の一億倍くらい、結ぶことが難しいのです。
 にもかかわらず、翻ってみるにジェンダーフリー論者たちがそうした困難さに気づいているとは、とてもとても信じられない。
 本書の最後は「訳者あとがき」で締められています。
 そこには


それ(引用者註・ファレルの考え)には長年のフェミニズム活動の経験が役立っている。男女平等運動に与し、リベラルであったからこそ(つまり人種差別反対運動にも協力的)、男性差別というものをフラットな視点でとらえることができたのだ。(p408)


 と書かれていますが、フェミニズムが反面教師以上のものにならないことは、明らかでしょう。
 しかし一体全体どういうわけかどうしたことか、リベラル寄りの人たちの中には「男性差別」と詠唱しつつ、何とかフェミニズムを延命させたいと考えている人々が一定層、いらっしゃいます。
 このあとがきには


 (引用者註・ファレル氏のスタンスは)性役割の維持を目指し、フェミニストに反発する保守派と一八〇度立場が違う。(p404)


 (引用者註・この書について)フェミニストはどのような態度をとるだろうか? おそらく本当に男女平等を目指し、人が本人の生まれつきの性別によって得も損もしない社会の実現が目標である、そのようなフェミニストは男性差別の解消にも協力してくれるだろう。(p406)


 とファレルの主張とは一八〇度違ったことが書かれています(ただし、このあとがきもフェミニズムに全く問題がないと言っているわけではなく、またファレルも匂わす程度ではありますが、理解あるフェミニストの存在を示唆してもいます)。
 ぼくがジェンダーフリー論者に対して感じる違和は、彼らのどう考えても非現実的という他ない、フェミニストへの傾倒、過大評価です。
 フェミニストのジェンダーフリーは無惨としか言いようのない失敗を呈したと同時に、そもそも男性側の悲惨な状況は、全く勘定に入ってはいなかった。何よりフェミニストたちの正気とは思えない男性憎悪の念を見れば、彼女らが男性を救うことは、宇宙人がUFOに乗って救いに来てくれることの一億倍くらい、想像しにくいことです。
 今回、ぼく以外に本書のレビューしている人はいないかと調べてみると、後藤和智が


本書は「女性よりも男性のほうが差別されている」と主張しているものではなく、それぞれの性に対してそれぞれ違った差別と抑圧の構造が存在すること、そして「女性」に対して過度にそれが重視されてきたことを問題視し、「男性」についても同様に見るべきだ、というのが趣旨と言える。


 などととんでもないことを書いており、腰を抜かしそうになりました。
 もうこうなると、単純にこの種の人たちは自らの願望が現実を超克してしまって目の前に書かれていることも全く見えないのだ、と考えた方がいいのかも知れません。
 ちなみに上の文章は


そして性別以外の社会的要因などにも目を向け、真の意味でのジェンダー解放のために何が必要かと言うことを述べている点では有益だろう(本書はどちらかと言えばジェンダーフリーを志向していると言える)。


 と続いており、後藤のスタンスは明らかです。
 彼らのフェミニストを信仰する心理がいかなるものなのか、ぼくには見当もつきません。既存の社会システムへの憎悪が先行しているのか、或いは「あのキビしいフェミニスト様がボクにだけは優しくしてくれた」といった宗教体験に根差しているのか、いずれにせよ「選ばれし者」にしか理解の及ばない世界であることだけは、確かでしょう。


 ――少し寄り道が過ぎました。
 いろいろ書きましたが、しかしぼくはファレルを「ジェンダーフリー論者」として糾弾しようとしているわけではないのです。
 確かにファレルは(後藤の指摘通り)ジェンダーフリー的なスタンスを取っているようにも見えるのですが、同時に上に引用した言葉は長い長い大著の中からようやっと見つけてきたモノであり、全体を見渡してみれば殊更にジェンダーフリー推しであるという印象は受けません。そもそも、これは1.で書いた「ジェンダーアイデンティティ後天論」が覆されていない年代に書かれたものです。
 また、「マイソポエティック(神話解釈)男性運動」では「男性に感情の吐露をさせること」が説かれており、それは従来のジェンダーフリー論者の言うような、「女性に倣う」ことを志向するものではあります。しかし先に九条を比喩に出したように、むしろファレルのスタンスは「男も女に倣いマチズモを捨てること」ではなく「女も男に倣い積極性を身につけること」であるように思われます。女性側に男性を倣えとするスタンスは、フェミニズムとは完全に一線を画するものです。
 彼の「夫の代わりとしての政府」との指摘(前回記事参照)もまた、家族解体を志向するジェンダーフリー論者の主張とは、親和性が低いでしょう。
 ただ、いずれにせよ本書はデータ中心であり、ファレルの真意は掴みかねるとも、またファレル自身が適切な戦略を打ち出しかねているとも(そしてまたそこを逆手に取って
ファレルの主張をねじ曲げようとする論者がいるとも)言えるのです。


 最後にちょっとだけぼくのスタンスを書いておきましょう。
 ぼくが言っているのはジェンダーフリー論者の主張が許容しにくいと言うことで、ジェンダーフリーを全否定しているわけではありません。「女性に倣う」ジェンダーフリーもまた、全否定はしません。
 日本には「マイソポエティック(神話解釈)男性運動」の代わりに「オタクサークル」があり、ぼくたちは近いことを知らず知らずのうちに実践している。しかしそうした草食化的な男性解放のあり方は、フェミニストを含めた女性の側こそが否定するものであり、女性の方こそが変わらねば「やむを得ず選択された、窮余の策」に留まる、そして果たして女性が変わることを期待できるのだろうか、というのがぼくの考えです。
 だから結局、「地震への調査」の任務から、ぼくたちが解かれることは期待しにくい。
 ファレルの「地震」の例えは非常に象徴的なもので、震災後、自衛官が婚活パーティなどで人気、といった話も伝え聞きます。
 日本は恐らく「ステージⅠ」に逆戻りしつつある。
 こうなると未来は、それ故、男が(今に比べればまだ多少はマシな程度に)復権する、という展開になるのかも知れません。そしてそれは、赤木智弘氏の「希望は、戦争。」という言葉が象徴するように、「それでも今よりはいい」と言わざるを得ません。
 しかしながら、それは同時に男性がファレルが再三強調するように
「使い捨ての性」であることの証明に他ならないわけです。
 ぼくとしてはせめて、「ステージⅠ」におけるアドバンテージをキープしつつ、将来また「ステージⅡ」に至った時も多少は女性に言うことを利いてもらえるよう、いろいろと準備をしておこうくらいの提言しかできないのです。
 それはステージⅠ的生き方をしつつもステージⅡ的なオタライフをも充実させる、ジェンダーレスどころか超両性具有的生き方となりましょうか。


 

ブログランキング【くつろぐ】 

  

にほんブログ村 本ブログへ 

 

人気ブログランキングへ 


友達がいないということ

2011-07-07 02:33:34 | ホモソーシャル

 

 小谷野敦博士というのは、ぼくにとって不思議な立ち位置の人です。
もてない男』の著者であり、言ってみれば『電波男』のご先祖様のような人。フェミニズムにも辛辣な批評を加えており、その意味でぼくも基本的には「俺らの味方!」という親しみを感じています。
 が、正直著書についてはちょっと……という印象を持つことがあるのです。上の『もてない男』からして(すみません、発刊当時に読んだ記憶で書きますが)要は「前近代では恋愛なんてそんな普遍的なモンじゃなかったんだから、恋愛至上主義なんて間違ってんじゃん」みたいな、何かそんな内容でした。
 でも、そんなこと言われたところで、モテたいと思っていた男がはたと膝を打って「そうか! ボクは近代的恋愛至上主義に洗脳されていて、モテたいと思うこと自体が間違いだったんだ!!」などと納得するとはとても思えません。
 翻って『電波男』の本田透さんは「恋愛資本主義」という、言わば女性優位の恋愛を批判、真の恋愛は二次元にこそあるのだと主張したという点で、小谷野博士とは立場が決定的に異なります。
 逆に小谷野博士の方も『帰ってきたもてない男』では本田さんを批判して「恋愛の呪縛に囚われたままだ」などとおっしゃっていました。事実、博士は『もてない男』の後に出された『恋愛の超克』においては、「恋愛結婚はもう古い、これからは友愛結婚だ(大意)」などと主張していたのです。しかし、その肝心の「友愛結婚」とは具体的にどういうものなのか、ということについてはちゃんとした説明があったとは言い難かったように記憶しています。
 こういう「○○は近代になって体制に作られた歴史の浅いものなのだから、否定してしまってよい」という論法に、ぼくは随分前からうさんくさいものを感じていました。そんなの、ジジイが「ワシの若い頃にはネットなんてものはなかった」と言っているのと同じ。「でも今は必需品じゃん」と思うだけのことです(本当にネットの害悪を説きたいのであれば、昔のことなど引きあいに出さずに批判すればいいのです)。
 てか、そうした論法に対しては小谷野博士ご自身も石原千秋さんが「つくられた系」と揶揄していることを引用して、批判なさっていたはずなのですが。

 

 さて、いささか前置きが長すぎました。
 今回は小谷野博士の新刊、『友達がいないということ』について、です。
 一冊の新書の、一部だけを採り上げてのレビューになってしまい恐縮なのですが、第三章「友達関係はホモソーシャル」を読んで、ぼくはどうにも奇妙な印象を持ちました。
 上に「フェミニズムを批判」と書いたくらいですから、小谷野博士がホモソーシャルに言及したら、いかにフェミニストたちをやっつけてくれるか、どうしたって期待してしまいます。ところが本書で書かれた「ホモソーシャル論」はと言えば、

 

 セジウィックは、フェミニズムの立場から、ホモセクシャル(男女問わず)はいいもの、ホモソーシャルは悪いもの、として記述しようとしている。ところが、『男同士の絆』は、ディケンズなど英文学の論文集なのだが、次第に、ホモソーシャルとホモセクシャルというのは、そんなにはっきり区別できるものなのか、曖昧になっていき、何より、ホモセクシャルの男には、女性嫌悪者が多いという事実が明らかになってきて、結局、ホモソーシャルとホモセクシャルというのは、そうはっきり区別できるものではない、ということになった。

 

 

 と言ったものです。
 何だか、後半の文章がものすごくヘンです。
「ホモソーシャルとホモセクシャルというのは、そんなにはっきり区別できるものなのか/ではない」と一文の中で繰り返されているのは、きっと博士の中
ものすごく大事なことなのでついつい二度言っちゃったのでしょうが、「ホモに女嫌いが多いと言うこと」と、「ホモソーシャルとホモセクシャルというのは、そんなにはっきり区別できるものではない」の間には何ら論理的なつながりはありません。
(もし、小谷野博士がフェミニストの「ヘテロ男性はみな女嫌いである」との説を心の底から受け容れて、支持しているのであればつながるのですが、或いはそうなのでしょうか?)
 この後も文章は「フェミニストが同性愛者解放運動と手を組もうとしたが、ホモは歴史的に認められてきたことが多く、レズは貶められてきたことが多いこと、またホモには女嫌いが多いことがわかって、その企ては頓挫した(大意)」などと続きます……ってまた大事なことを二度言ってるやん!

 

 ともあれ、博士の指摘にはフェミニストの教条主義への、極めて重要な批判が込められています。
 フェミニストはホモと連帯しようと、とにもかくにもホモを素晴らしい高貴なものであるとして称揚する傾向にあります。
 ここでフェミニストたちが「公共の図書館にBL本を置かないのはホモへの差別である」と言い募った、例の事件を思い出してみるべきかも知れません。彼女らにとってホモは政治闘争のための「兵器」なのです。
 しかしそれだけではありません。彼女らのホモのいやらしい持ち上げぶりの裏には、ホモへの「上から目線」が、当然あります。
 まだBLというものが市民権を得ていなかった頃の少女漫画には、ホモネタを振りつつ女性キャラに「オエッ」とえずかせるといったシーンが登場したりしたものです。

 また、少女漫画には(むろん、「美しいオカマ」も登場しますが、その一方で)往々にして「醜いオカマ」が登場します。川原泉先生(ぼくも大好きな漫画家さんなのですが)の『メイプル戦記』は、「女ばかりの野球チーム」のお話なのですが、キャッチャーだけはオカマが担当しています。劇中に彼が「醜いオカマ」である己を嘆くシーンがあるのですが、描き手には悪意がなくとも、ここには「健常者が障害者を"哀れむ"」的な無邪気な傲慢さがつきまとうように思うわけです。
 ホモやオカマはフェミニストにとっての「人権兵器」であると同時に、ブスにとっての「自分よりも更にブスな、しかし荷物持ちやボディーガードとして重宝する、有能な子分」でもあるのですね。
 いささか余談めきますが、更に言えばフェミニストたちは「女同士の絆」を「シスターフッド」「レズビアン連続体」などといって神聖視します。何で男同士の友情は「ホモソーシャル」という悪しきものであるのに女同士の友情は大絶賛なのかさっぱりわかりませんが、女性性なるものは全て善だというのが彼女たちの大前提なのですから、そこは考えても仕方のないことなのでしょう。レズビアン連続体とは「性的な関係だけでなく、母娘関係、女同士の友情、さらに政治的連帯まで含む、広い意味での女同士の親密な関係を指す」ものだそうで(『ラディカルに語れば…―上野千鶴子対談集』)、普通に友情と呼べばいいものをどうしてわざわざレズ呼ばわりなのか、全く理解ができません。

 

 小谷野博士はそれに対して「ホモは正義、ヘテロ男性は悪だなんてあんまりにも単純な善悪二元論じゃないか」とツッコミを加えているわけですね。ホモを「我々女性と同様、性的弱者だからイイモノだ」とするフェミニストたちの短絡を批判している点については、大いに頷けます。
 更に博士の言は「ホモには女嫌いが多いのに、ヘテロ男性だけを女嫌い扱いかよ、勝手じゃねえか」と続いているわけです。
 ただ、傍から見ているとホモに女嫌いが多いことなんて、最初っからわかりきったことじゃん、と思ってしまいます。本当に博士の書いたような経緯があったのでしょうか。想像するに、フェミニスト村、ジェンダー村で象徴的な事件があったのでしょうが……。
(博士はこの後、上野千鶴子キョージュの件について言及していますが、キョージュはフェミニズムの中でも例外的なホモ嫌いですし)

 

 しかし、そうしたフェミニストたちの「ホモの政治利用」に釘を刺しておきながら、小谷野博士は何故か、一体どうしたことかこれ以降、古典に描かれた男性同士の友情をピックアップしては「この関係は同性愛的」と称するという、それこそセジウィックの『男同士の絆』と同じようなことを始めてしまうのです。
 例えば「世界の文学は同性愛から始まった」という節タイトルがあるので読んでみると、文学に描かれる友情を「同性愛的だ」とか言っているだけだったりします。そんなの、「兵頭新児はキムタクである」という節タイトルで引っ張っておいて、本文を読んでみると「兵頭新児もキムタクも目玉が二つあるところが共通点だ」と書いてあった、みたいなモンです。
 いえ、「俺はキムタクだ」と主張することは兵頭新児にとっては益があり、それ自体は(正しくなくとも)犯行の動機は明白です。しかし「友情」と「ホモ」とを同列にして一体、博士に何の益があるのか、それがさっぱりわからないのです。そうまでして古典に描かれた男性同士の友情を「ホモである」と強弁して、はて、それで博士が何をしたいのか、困ったことにぼくにはそれが少しも見えてこないのです。

 そもそも小谷野博士のご専門は日本古典であり、無知なぼくにとってはそこが取っつきにくいところなのですが、もはやこうなると博士のやっていることはフェミニストたち、そして腐女子たちと同じです。
 いや。
 しつこく「わからないわからない」と繰り返してきましたが、ちょっと白々しかったかも知れませんね。
 オタクにとって、ある意味で小谷野博士の振る舞いは身につまされる部分もあるのではないでしょうか。
 オタク男子というのはオタク女子とおしゃべりしていて、ついついリップサービスで彼女らのBL談義に乗ってしまったりします。何とか共通の話題を見つけようと、ついつい「原作版『仮面ライダー』の本郷猛と一文字隼人って妖しいよね」とか「満賀道雄と才野茂って妖しいよね」とか、言ってしまったりします。むろん、そのカップリングでは腐女子も喜びませんが。
 そしてまた言ってしまった後、「あぁ、俺は女に媚びようと何てことを」と内心忸怩たる思いに囚われたりします。
 そう考えると博士のBLトークの本質も見えてきそうです。
 つまりそれと全く同様な、リップサービス、ということです。
 言い過ぎでしょうか?
 しかし同性愛を友情の上位概念であると位置づけているのは、何も腐女子ばかりではありません。上にも書いた通り、昨今のインテリ層はフェミニズムを真に受けて、「同性愛は友情の上位概念である」との意味不明な妄想を抱いているのです。
 当たり前ですが、友情と同性愛は全く別物です。ただ、「同性愛」で頭がいっぱいのフェミニストや腐女子が「友情」を目撃すると、それを「同性愛」と誤認してしまうという、ただそれだけのことです。
 男の友情というものに性的、ホモ的要素が潜在していること自体は、多くの男性も殊更異論のないところだと思います。しかし「友情」と「同性愛」の違いである相手の肉体への欲望の有無というものが極めて大きなものであるため、ぼくたち男性にとって両者の差異はあまりにも自明です。
 しかし自分自身の感受性や思考よりもご本に書いてある「正しいこと」を優先させるインテリたちには、それがわかりません。

 彼らは往々にして「ゲイを差別するどころか、ゲイに寄り添い、その感性を理解できる最先端な自分」を押し売りしようと、得意げにホモトークをしたがるのです。それはまるで、腐女子に媚びようとしているオタク男子の如くに。
 もちろん、小谷野博士は上に「俺らの味方」と書いた通り、決してフェミニズムに親和的な考え方を持っている方ではありません。ですから、「ホモを持ち上げることで利を得よう」などという政治的な計算を彼がしているというのは、大変に考えにくいことです。
 しかし、それでも、ついつい、(ぼくが想像するに半ば無意識に)博士もインテリ層にとってお約束となっている言説のテンプレートに、陥ってしまった。
 それは丁度、博士が「つくられた系」を批判しつつ、『もてない男』ではそれと同じ論調に陥ってしまったのと、同様に。
 それが真相ではないでしょうか。
 学問の本質は思考停止です。
「ホモソーシャル」などという(無意味な)「学術用語」を一つでっち上げただけで、何となく何かがわかった気になって、そこで考えることを止めてしまう。
 理系の学問の場合は定理だ法則だといったところで幾度も追試がなされたりするのですが、文系の学問の場合、言い切っちゃったらそれまでの世界だったりします。
 そうした学問の罠に小谷野博士もまた、引っかかってしまった、ということではないでしょうか。


ブログランキング【くつろぐ】 

にほんブログ村 本ブログへ 

人気ブログランキングへ


爆笑問題のニッポンの教養――女と男“仁義なき戦い”

2011-06-10 02:18:39 | ホモソーシャル

  二十年ほど前、バブル経済華やかなりし頃、日本がフェミニズムブームにあったことは幾度も書きました。当時のフェミニストたちはミスコンテストやポルノなどに対して「女性差別だ」と噛みつき、ウザがられ、次第にメディアの表舞台から姿を消して行政に擦り寄るようになっていきました。
 そうしたミスコンテスト反対運動の中には、中年フェミニストがレオタードを着てジャズを踊りながらデモをするといった、笑うに笑えないものもあったそうです(ぼくは見たことはないのですが、雑誌で誰かが書いていました)。
 一方、一時期『TVタックル』によく出ていたフェミニストの田嶋陽子センセイ。彼女もメディア露出が高かった頃にCMキャラクターとして起用され、確かチャイナドレスの裾から脚をチラチラ見せていたことがありました。『タックル』でも、斜のかかったプロモーションビデオ風の映像を録られていたことがありましたし(拙い表現しかできず恐縮です、アイドルを録るような演出で画を録られていたことがある、ということです)。
 さて、今回の表題である『
爆笑問題のニッポンの教養』、昨日放送のFILE147:「女と男“仁義なき戦い”」においても、上の二例に負けないグロ画像が放映されました。上野千鶴子センセイのセーラー服姿です*1。
 いや、国営放送は結構です。これが民放なら、間違いなく画面はNICE BOAT状態だったことでしょう。


*1すみません、正確にはセーラー服だったかどうだったか忘れてしまいました。AKB48とかが着てそうなチェックの制服です。


 あぁ、テレビは怖いな、と思いました。
 思えばフェミニズムの失墜には、田嶋先生のテレビでの言動が大いに貢献していることと思います。
 むろん、田嶋センセイの(そしてその他全てのフェミニストたちの)言動は全て支離滅裂のデタラメです。しかし、テレビメディアはその支離滅裂さを論理ではなく感覚で、日本国民に悟らせてしまいました。嫌な言い方ですが、仮に田嶋先生がもしも美少女であったなら、主張そのものが同じでも視聴者の捉え方は全く違っていたはずで、やはり論理以前のイメージで人を裁いてしまうテレビメディアというのは(優れた面もあるものの)やっぱり怖いな、と思い知らされたわけです。
 田嶋センセイのグロCMについても、大竹まことさんが「言行不一致じゃないか」と批判するのを、司会の女性(阿川佐和子さん?)が「現場で頼まれて断れなかったんじゃないか」と弁護していたのを思い出します。
「上野センセイも拒否れよ、そんな格好」と思わずにはおれません。
 が、センセイ方の本心を勘繰るのもナンですが、彼女らきっと、満更でもなかったのではないでしょうか。
「そんなバカな」と思われるでしょうか?
 しかしそもそも上野センセイ、マスコミの取材の前には念入りにお化粧なさっているそうですし。
 それに時々、女流文化人がとんでもないグロ画像を流出させ、ぼくたちを驚かせることって、ないでしょうか。
 すみません、「ないでしょうか」と言っておいて、ぼくもそれらの具体例をそれほど多く知っているわけではないのですが、しかし頭の中の記憶を思い起こしてみる限り、それらグロ画像は大体、大物写真家によって撮影され、モデルとなった女流文化人は何を担保にした自信か、自らのグロ画像を誇らしげに発表しているように思われます*2


*2近い事例については『まれに見るバカ女』所収の内池久貴さん「ルンルン時代の林真理子が脱いだ理由」が参考になります。


「男をバッタバッタと叩き斬る」といった芸風でメディアにもてはやされる女流作家を見ていると、どうも彼女らの中では出版社やメディア業界そのものが男性の代償になっているような節があります。内田春菊センセイとか、そうですよね。
 大物写真家による「キミのヌードを撮影したい」とのオファーは、彼女ら女流文化人たちの耳には超イケメンの甘い囁きのように聞こえていることでしょう。モテない男からは想像のつきにくい世界ですし、そもそも彼女らを口説こうという気持ち自体が沸かない以上、いずれにせよ想像を超えた世界の話ではあるのですが、しかしそれにしても彼ら写真家、テレビスタッフは一体誰得を狙ってあのようなグロ画像を世に垂れ流すのでしょうか。
 それとも「批評」なのでしょうか。
 即ち、勇ましいフェミニストたちが実のところ田舎の女子中学生よりも落としやすい、「古鉄の女」でしかない、という。


 さて、何だか勢いに任せて長文を書き連ねてしまいましたが、番組をご覧になっていない方には何が何やらわからないことでしょう。以下、簡単に番組についてご紹介します。と言っても、視聴しながら取っていたメモを元にしての文章になりますので、細かい点で放送とは異なっているかも知れませんが、その辺りはご容赦ください。
 番組自体は、タイトルからも自明なように爆笑問題の冠番組です。
 番組開始早々、ふたりが秋葉原のメイドカフェに出かけていき、「カクテルしゃかしゃか♪」みたいな恥ずかしいパフォーマンスを見物させられます。爆笑のふたりも、もう慣れているのか平然とサービスを享受していました。

http://pinafore.jp/←ここですね。見せられているぼくも辛かったけど、メイドさんたちも辛かったことでしょう
 と、そこへ上に書いたようにアイドル風のコスプレをした上野センセイが登場。女らしい格好をすれば世間は「女」と認める。ジェンダーとはフィクションなのだ、とのおなじみの説法を開始します。
 しかしオカマやオバさんたちが可愛らしい格好をしたところで、AKB48のように扱ってもらえるのかというと、それはそうではない。画面に立ち現れた上野センセイのグロ画像は百万遍の言葉よりも明瞭に、センセイの机上の空論が誤りであることを視聴者に直感的に悟らせてしまう。
 映像は、テレビは残酷です。


 さて、番組は最後まで、このメイドカフェを舞台として続けられます(女性学の大家に最新風俗を斬ってもらおう……という趣向なのでしょう)。
 太田さんはメイドカフェの本質を「処女性」であると喝破します。まあ、あのメイドさんたちが処女っぽいとは思えないんですが、なかなか切り込んだ言葉です。
 上野センセイは「男にとっての自分を脅かさない、従順な女」をカリカチュアしたのがメイドカフェであると指摘。「処女を好む男はプライドがもろい、不安が強い」とご高説を賜ります。
 そりゃ、そうです。おっしゃっていることに、間違いはありません。
 ですが重要なのは「男の処女性へのこだわりは女の童貞への嫌悪と全く同じ、同じ構造の鏡像」ということなのです。今更こんなこと、言わせないでください、恥ずかしい。
 続けてセンセイは「男は女ではなく男にこそ認めてもらいたいのだ」とのホモソーシャル論をここでも繰り返します。
 そこに流れるBGMは『あしたのジョー』のOP。
 ここで視聴者は理屈ではなく感覚で、上野センセイのロジックが「古い」ものであることを悟ってしまいます。むろん、スタッフたちは意図していないでしょう。浅はかで天然なスタッフたちが、何も考えずにBGMをセレクトしただけでしょう。しかしその「浅はか」で「天然」な演出が誰よりも鋭く、上野センセイの古さを「批評」しています。
 怖い。テレビは怖いです。
 センセイはその次に、2008年に起きた秋葉原無差別殺傷事件を話題にします。
 彼女は事件の犯人が彼女を欲しがっていたことに言及。そう、あの犯人は男に認めてもらうことでも社会に認めてもらうことでもなく、女に認めてもらうことで自らのアイデンティティを保とうとした人物でした。おやおやご自分のロジックを一分後には平然と翻して、ご本人はそれに気づいてもいません。
 東浩紀センセイがアニメを語れば語るほど
ポストモダン理論の過ちが顕わになっていくのと、全く同じ構図です。
 後は男の子たちに対して、「女の子と人間関係を構築せよ」「生身の女の子とつきあって欲しい」とお説教。『女ぎらい』では生身の女性に振り向かないオタクたちに対して「無害な存在」と肯定的に評価なさっていたはずなのですが。


 さて、番組の真ん中辺りから、爆笑のふたりの逆襲が始まります。
「この四十年間で女は変わった。男は追いついていない」との上野センセイの言葉に、田中さんは「ジャニーズ人気などを見れば、女も変わってない」と切り返します。
 上野センセイの「我々はルール(ジェンダー)に縛られているのだ」との説に、ふたりは「縛られているのではない、楽しんでいるのだ」と反論します。「メイドカフェを楽しむことも人間らしさのひとつではないか」。メイドカフェで楽しむのはゴメンこうむるとの個人的見解は置くとして、至極もっともな意見です。
 田中さんは「女にモテる男のタイプはいっしょだ、男だって傷ついている」とも言います。男が女を差別していると言うが、同じジェンダーのルールの上で、男だってワリを食っているのだ、ということですね。
 太田さんはかなり上野センセイに対して怒っているご様子で、対応もだんだんとぞんざいになっていきます。
太田「『キミ可愛いね』はセクハラなのか?」
上野「望んでない場合はセクハラだ」
太田「そんなこと言い出したら何も交流できない」
 といったやり取りの後、太田さんは「そもそも生きていく上での苦しみがなくなるわけがない、それは誰のせいでもない」と主張します。
「お笑いというのはあらゆる存在を嗤うものだ。嗤っていいのだ。それによって人を傷つけることもあるが、それを恐れていたら何もできない」。
(これは要するに、お笑いが「ブス」を笑いものにしたからといって、それを「セクハラ」扱いされてはたまらない、といった文脈での発言かと思われます)

 ただ、いかにも太田さんらしい考えではありますが、これはぼくたちの陥ってしまいがちな「おゲージツ偉い論」で、全面的に首肯するのはちょっと、留保しておきたいとは思いますが。
 最後は少し太田さんも折れ、番組としてはまあ、何とかまとまって終わるのですが、彼はかなり上野センセイにお腹立ちのご様子でした。
 一方、恐らく上野センセイも納得はなさっていないでしょう。どっかの雑誌で「あのふたりは家父長制に縛られたままだ、ジェンダー構造をわかっていない」的な怨み節が読めるかも知れません。


 ここで簡単に視聴後の感想を申し上げれば、太田さんの態度、そして上野センセイが太田さんのトークに切り返せず、目を白黒させる様は見ていて痛快ではありました。
 が、(こういう言い方は「爆問もまあまあやるね、しかし俺に言わせればちょっとね」的な傲慢さが滲み出て恐縮ですが)上の「おゲージツ偉い論」が象徴するように、また、メイドカフェを全面肯定してみせたことが象徴するように、ある種、爆笑のふたりは「ジェンダー全肯定」という立場になってしまっています。
 いえ、30分番組の限界でもあるし、上野センセイに対する態度として、ムリもない(ぼくでも同じ立場ならああ言わざるを得ない)部分もありますけれど。
 が、それは上に「怨み節」と書いたように、上野センセイからは「強者の論理」と映ってしまうわけです。「わかっていない」と。
 ぼくはそれを受け容れた上で、「しかし上野センセイもわかっていない」と思うわけです。
「男女のジェンダーをある程度受け容れた上で、できる範囲で地ならしをしていく」というのがぼくのスタンスであることは、当ブログをお読みの方にはおわかりいただけていることと思います。
 そして今の世の中、もっぱら女性ジェンダーばかりが優位で男性ジェンダーが劣位に置かれているということも、みなさんもうおわかりだと思います。
 しかし、どういうわけか、信じがたいことに、そうした「男性の劣位性/女性の優位性」をフェミニストばかりではなく、一般の女性たちも驚くほどに理解がない。
 そのことのひとつの象徴が、冒頭でややしつこく描写した「上野センセイのグロ画像」だと思うのです。


 とあるフェミニストと話していて、こんな話を聞かされたことがあります。
「AVスカウトマンは性的虐待を受けた女性を見抜き、彼女らをモデルとしてスカウトするのだ」。
 ぼくには、それが事実だかどうだかわかりません
。そもそも町を歩いている女性を見ただけで、性的虐待を受けたかどうか判断できるものなのでしょうか(その女性によれば「判断できる」のだそうです)。
 しかし、彼女の言葉をできる限り肯定的に受け取るのであれば、以下のような「解釈」ができるかと思います。
・性的虐待と言っても、その程度はいろいろある。幼児期のレイプといった重篤なものもあれば、電車の中でいやらしい目で見られた、といった軽いものもある。
・性的虐待を受けた女性は、往々にして自己否定的な、陰鬱な態度を取ってしまう(或いは裏腹に過度に性的な態度を取る)。それは見れば大体わかる。
・そうしたおとなしそうな(或いは過度に派手な格好をした)女性を見て、スカウトマンは「あの女ならやれる!」と判断して、声をかける。
 まあ、かなり拡大解釈ではありますが、こうして見れば彼女の言うことも、一理くらいはあるように思います。良心的なAVメーカーがほとんどだと思いたいところですが、かなり悪質なメーカー、スカウトマンもあるでしょうし。
 しかし同時に、そこまで拡大解釈が許されるのであれば、「自主的に、自らの意志で天職と信じてAV女優をやっている女性」に対して同様の意味づけを行うことも、可能ではある。

 このエピソードは、まさしく「男性から求められる私」という物語を欲する女性が、「しかし、悪いのは私を求めた男性だ」という落としどころをかなりムリヤリに捏造していることの一例でもあります。本当に上の女性の言うことが100%真実であるのならば別ですが、そもそもそのAVスカウトが明らかな騙し討ちをしていない限りは、女性の方も自分を律して判断すべきでしょう。
 そしてそれは、もうおわかりかと思いますが、大物写真家に「求められた」ことで自らのグロ画像を邪気なく晒す女流文化人、そして結構ノリノリでコスプレをしてしまう上野センセイの姿と全く、同じです。
 上野センセイがもし、最初から最後までメイドカフェを完全否定していたのであれば、(賛成はできないけれど)その思想は一貫していると言えます。それは即ち、冒頭の例に喩えればミスコンテストは女性差別であるとして、
レオタードを着ずにデモをする立場でしょうか。

 しかしノリノリでコスプレをして、にもかかわらず邪気なく男を批判してみせる彼女は、あまりにも自分が見えていません。
 これを男女を逆転して喩えるとするならば、メイドカフェでメイドさんのスカートを覗いて大喜びしながら、一方で「最近の女はふしだらだ」とホンキで憤ってみせるオッサン、みたいなものでしょうか(恐らく彼女らの脳内にはそうしたオッサンが今も生き生きと生息しているのでしょうが、現実世界では既に、絶滅寸前です)。
 こうした女性たちの、自らの業、彼女らの業界の言葉で言えば「女性ジェンダー」に対する無自覚さ、無反省さこそが、「女災」の原因であることは、もうみなさんもおわかりでしょう。
 ぼくは
拙著で今の女性たちを「フェミニズムによって女性性の発揮を阻害された、言わばメイドカフェの店員になり損ねたメイドカフェ難民である」と表現しました。
 しかしそのフェミニズムのドンですら、実はメイドカフェ店員になりたがっていたという事実。いいえ、「メイドカフェ店員になりたいけれど、突っ張ってみせる」ほどの
ツンを見せず、だらしなくデレてしまう軟弱者であった事実。
 ぼくたちの言葉は、それを批判するのに全く追いついていない。

 ところがそれを、テレビメディアはまさしくぼくたちに「直感的」にわからせてしまった。

 やはりテレビは怖ろしい、と言わざるを得ません。


ブログランキング【くつろぐ】 

にほんブログ村 本ブログへ 

人気ブログランキングへ


男おひとりさま道

2010-02-06 19:59:59 | ホモソーシャル

 日垣隆さんが「週刊現代」で上野千鶴子先生の「おひとりさま」論を「無知と偏見に満ちた」「単細胞的男性蔑視論」と斬って捨てていたのがちょっと意外でした。というのも、日垣さんは比較的フェミニスト(イデオロギーとしてのそれではなく「女を大切にする男」の意)だという印象があったからです。
 いわゆる世間一般の「女性はいたわろう」というコンセンサスに乗っかる形で世に浸透したフェミニズムですが、しかしそういったフェミニスト(イデオロギーとしてのそれではなく「女を大切にする男」の意)たちもいざフェミニスト(「女を大切にする男」の意ではなくイデオロギーとしてのそれ)たちの著作を一読すれば、そのおかしさには違和を感じずにはおかない、ということなのでしょう。
 さて、ぼくは本書の前作である『
おひとりさまの老後』を自著において、「多くの女性たちを「ゆりかごから墓場まで」自分たちの陣地に引きずり込み、不幸にすることには、見事に成功した」「フェミニズムの勝利宣言の書」と表現しました。
 となればその次に彼女が敵陣への攻撃を仕掛けてくることは、容易に想像できたことです。では、果たして男性への攻撃たる本書の内容はどのようなものだったでしょうか。
 結論から言ってしまうと、上野さんの「攻撃」は見事に的を外してしまっているように、ぼくには思われました。
 本書の論旨は要するに

・「結婚するな。婚活中の高齢男おひとりさま、あきらめろ」
・「女は友人を大勢持って幸福なおひとりさまライフを満喫している。孤独な男おひとりさま、せいぜい女たちに学べm9(^Д^)プゲラ」

 この二点に集約できるかと思います。
 とは言え、フェミニストがとにもかくにも結婚や家族をおぞましいものとして退けたがるのは当たり前のことなので、そこは今更です。
 また、フェミニストたちは女同士のつながりを、「シスターフッド」「レズビアン共同体」などと称してとかく清く気高く尊いものであると持ち上げる傾向があります。一方(本書にも書かれていることですが)男同士のつながりは全て「会社社会の中だけで通用する偽物」であると短絡的に断ずる傾向があり、それらはホモソーシャルなけしからぬものであるそうです。どうしてそこまでけしからんのかは、読んでいてわかった試しがありませんが。
 確かに、「男より女の方がつるみたがるよな」というイメージはぼくにもあります。でもそれは逆に言えば女よりも男の方が孤独にも強い(或いは好む)ということであり、しかし上野さんがそういった男女の「性差」についてどこまで自覚的かが、ぼくには極めて疑問です。
 更に言えば上野さんのこの主張は『
「女縁」が世の中を変える』という著書があることが示すように、かねてよりなされてきたものです。

 が、「会社人間で他に人脈や楽しみのない男」という男性観自体が、日垣さんに指摘されるまでもなく古過ぎるものであり、オタク世代の男からすれば鼻で笑うしかないような代物でしかありません。
 そして読み進めるに従い、上野さんが主張する尊い女同士の友情にすら、疑問を抱かざるを得なくなってくるのです。
 上野さんは他の著者の「無二の親友より10人の“ユル友”」という言葉を紹介します。


 しょっちゅう食事やお酒をともにする友人には、思想信条についての議論はふっかけないほうがいいし、まったり時間を過ごしたい相手に知的刺激を求めるのは、おかどちがい。

 思えば、魂の友だっていつかは先立つ。その親友を失ったからといって、だれかがそのひとの代わりを務めてくれるわけではない。


 だから家族や親友などといったかけがえのない関係など要らない、というのが上野さんの主張なのです!
 ――清く気高く尊いものであるらしい女と女の「レズビアン共同体」の実質は、厨房のつるみみたいなもののようです。
 彼女たちの使う「ホモソーシャル」という(全く理解不能な)用語のでどころは『
男同士の絆』という著作なのですが、イギリス文学オタクの腐女子が文学作品の男性キャラを取り挙げては「○○クンは受けよ~~~!!」と萌えまくってるような本です。そう考えるとこの「ホモソーシャル」という「攻撃呪文」の本質も見えてきそうな気がします。
 即ち、五秒おきにケータイを確認しなければいじめにあう「友だち地獄」レベルの「レズビアン共同体」しか持ち得なかった人々の、男同士の友情への羨望なのではないか、と。


ブログランキング【くつろぐ】 


にほんブログ村 本ブログへ


人気ブログランキングへ