兵頭新児の女災対策的読書

「女災」とは「女性災害」の略、女性がそのジェンダーを濫用することで男性が被る厄災を指します。

瀬川深のホモソーシャル論が伊集院光並に面白い件

2014-09-26 17:29:20 | オタク論

 どうも、長らくブログを放置してしまいました。
 あまりネタもないのですが、月に一回くらいは更新しておかねば、とも思うので、もういい加減語り尽くしているはずの「ミソジニー」と「ホモソーシャル」について、またちょっと思うところを綴ってみたいと思います。
 それと、今更ですが前回記事「
これからの女子キャラクター造形はこうなる? 『ダンガンロンパ』の先進性に学べ!」について。
 最近また本も読まずに『ダンガンロンパ』をプレイしてしまったおかげで、罪木蜜柑について思うところができ、書き留めておきたい、と思いました。というわけで最後の方に彼女の項目を追加しましたので、ご興味のある方はご覧ください。

 さて、ぼくは以前、以下のようなことを言ったことがあります。


オタサー云々の話題について一言だけ。
「オタサー姫」「サークラ」といった一連の概念は「ホモソーシャル」への「返歌」だ。 だから、この概念は闇の組織に握りつぶされ、絶対に書籍などの表メディアで採り上げられることはない。


 しかし数日前、この予言に反し(?)、瀬川深という御仁が実に嬉しげにオタサーの姫についてつぶやいていました。


瀬川深 @segawashin     ?   9月9日   

この恐怖は皆様にもおすそ分けしておこう。要するにこれ、ホモソーシャルな世界をぶっ壊す最善手だよなぁとしみじみ感心しながら戦慄している。ミソジニー強い手合いほどコロッと逝くだろうなとも予想。

これであなたも、サークラになれる!! http://uzuramadoka.hatenablog.com/entry/2014/09/08/225010

https://twitter.com/segawashin/status/509137563840299008


 瀬川が何を言っているのか、よくわからないと思いますが、もちろんぼくもよくわかりません。
 わかりませんが、彼がとにもかくにも「ホモソーシャル」は悪いことなのでそれをつぶすことは絶対正義、との妄念に取り憑かれている、ということだけは確かなようです*1。
 冒頭に上げたぼくのつぶやきは、「フェミニストはオタサー姫について、積極的に言及するまい」との予言でした。何となればその存在そのものが、彼女らの振り回していた「ホモソーシャル」という概念を否定することになるからです。だってそうですよね、本当に「ホモソーシャリティ」というものがあるのであれば、オタサー姫はオタクサークルに入れない。オタサー姫がサークルクラッシュというミッションに成功したとしたら、それはそのサークルに
「ホモソーシャリティ」がなかったという証拠です。
 が、深川はそうした当たり前のリクツにすら思い至ることができず、実にあどけなく「対ホモソーシャル兵器」としての「オタサー姫」投入を進言しているのです。
 何というか「大量破壊兵器があるに決まっている!」と断言して敵陣に乗り込み、しかし予測と異なって相手がその兵器による反撃をしてこない、
でもまあ敵を殲滅できたからいーや、みたいな話です。

*1 ただ、彼がリンクしている女性ブロガーはサークラ姫を自称しており、確かに読んでいるとムカムカしてくるのですが、「自分もかつてはモテないデブスでした」などとも書いていて(好意的に解釈すれば、流行語であるサークラとの概念に乗っかって露悪的な表現をしているだけで)オタクになればモテるかも……と思ったブスが「婚活」してるだけ、とも取れます。


 一方、これに腹の虫の治まらないのが赤木智弘氏です。彼のつぶやきを見ていきましょう。


赤木智弘@アンナカアンナカ! @T_akagi     ?   9月9日   

この事例に対して「ホモソーシャル」とか「ミソジニー」と言っているのは、単なるオタクバッシング。「モテる男はミソジニーじゃないし、ホモソーシャルでもない」なんていうのは、その単語が女性都合でのみ使われていることを意味する。恥を知れ>RT
https://twitter.com/T_akagi/status/509249250778025984

赤木智弘@アンナカアンナカ! @T_akagi     ?   9月9日   

単なるサイコパス女が男をたぶらかしただけのことが「ホモソーシャルをぶっ壊す」だってさ。何いってんの、このクソガキが。幼稚園児並みの発想だな。
https://twitter.com/T_akagi/status/509249876870180864

 ま……まあ、ただの暴走族に「体制への反抗」を見て取って、暴走族写真集を作った左派寄り出版社とかありますし、それと似たようなものじゃ……。


赤木智弘@アンナカアンナカ! @T_akagi     ?   9月9日   

男が女性に優しくされて、それで告白することが「ミソジニー」とは、なんと腐った神経の人間なのか。気持ち悪いので予防原則的にブロックしよう。
https://twitter.com/T_akagi/status/509250347961835522


 ほ……ほら、「ミソジニー」って、最初っから「私に気に入らない男」以上の意味はありませんから、キモ男は呼吸をしていることそれ自体が「ミソジナスな行為」と見なされるんですよ……。


赤木智弘@アンナカアンナカ! @T_akagi     ?   9月9日   

ちょっとモテる男が、女性を弄んで「ちょっと優しくしたら、つけあがって告白しやがんのwww」とか書いて、それに対して「ミサンドリーが」とか書けんの?
https://twitter.com/T_akagi/status/509250715164766208

赤木智弘@アンナカアンナカ! @T_akagi     ?   9月9日   

そもそも「サークルクラッシャー」なんて、たいした問題ではない。趣味のサークルなんてもともとそんなに強固なつながりのある集団ではないし。女性が問題視する「ホモソーシャル」ってのは、そんなものを指す言葉ではないはずだが?
https://twitter.com/T_akagi/status/509252604698693632

赤木智弘@アンナカアンナカ! @T_akagi     ?   9月9日   

俺はサークルクラッシャーを問題視することに否定的。サークルなんて変遷する人間関係の1つに過ぎないんだから。ソーシャルというなら、もっと共同体としての強固さを持つ部分に踏み込めよ。そういう場ではサークルがクラッシュせずに、女のほうが悪者にされて追い出される。だから問題なんだよ。
https://twitter.com/T_akagi/status/509253172150276096

赤木智弘@アンナカアンナカ! @T_akagi     ?   9月9日   

俺がエセフェミが嫌いなのは、結局、女性が対峙せざるを得ない、自分の父親や夫、親類縁者という、強固なホモソーシャルを構成する人たちには従順に従いながら、その憂さを弱い立場の他者男性に押し付けて「女性が勝った!」とかやっていること。偽問題の自己満足で男女の分断ばかりをしている部分。
https://twitter.com/T_akagi/status/509254065537052672

赤木智弘@アンナカアンナカ! @T_akagi     ?   9月9日   

つか、あるオタクサークルがホモソーシャルだったとして、それが女性の人生に何か関係有るのか? ほっとけばいいだけだろ。
https://twitter.com/T_akagi/status/509254355405381632

赤木智弘@アンナカアンナカ! @T_akagi     ?   9月9日   

一方で、家父長制や会社での人事など、女性が避け得ない部分がホモソーシャルであることに関しては、それで女性が割を食うことになる。そっちを批判せずに、男性ばかりのオタクサークルを批判して、何の意味があるのか。
https://twitter.com/T_akagi/status/509254809124216832

 赤木氏の論調は、瀬川の「弱者男性」、「オタク」へのおぞましい憎悪への批判に始まりますが、最終的には「本来のフェミニズムにおけるホモソーシャル概念はそうしたものではない」、「敵は強者男性のはずだ」というものに帰着します。
 彼がここで(恐らく瀬川たちを指して)「エセフェミ」と呼んでいるのが象徴的で、彼にとっての「本来のホモソーシャル概念」は「真のフェミニストの唱えた正当性のあるロジック」なのでしょう。
 が、当然ながらぼくは、赤木氏の主張にも全面的な賛成をすることはできません。
 瀬川の主張は誰よりも饒舌に、「強者男性」も、それによる「ホモソーシャル」も、最初からなかったということを証明しているのではないでしょうか。
 
強者男性など、この世にはいません
 むろん男同士のヒエラルキーにおいて強弱はありますが、「全男性最強」の男性も結局はその力を自身の母親や妻や娘のために使うのですから、「全人類最強」は彼の母親や妻や娘になるのです。
 同様に、
「ホモソーシャル」などという概念も、最初から、ない
 もしあるとしたら、それは「上に書いたような女性ジェンダーを外れた生き方をする女性が、男性社会へと入っていく時に立ち現れる、ガラスの障壁」とでも称するべきものでしょう。
 つまり、そもそもフェミニズムの主張する「ホモソーシャリティ」は、女性が女性ジェンダーを保持した状態で男性に相対した時に発動するものでは、最初からないのです*2。
 しかしまず第一に、「そうしたルートを辿ろうとする女性」、即ちキャリア志向の女性が圧倒的少数派であること。
 第二に、均等法が通ってもう二十年以上経っていることが象徴するように、また上に「ガラスの障壁」と書いたように、あくまでそれは目に見えにくい慣例やムードと言った形で存在しているかも知れないが、あくまでシステム外のものであり、存在の証明は困難な(=あるぞと言い立てて男性を攻撃する冤罪が容易に成立する)種類のものであること。
 第三に、女性の社会進出のためにおびただしいコストが何十年とかけられ続けている、つまり対処が既になされていること。
 最後に、そもそも、何よりも、異分子が社会に入っていく時にある種の「障壁」があること自体は(善悪以前の問題としてある程度は)やむを得ない、また、例えばオカマが女性社会に入っていく時の、或いは男性が主夫となり、「公園デビュー」する時のことを考えた時、経験則的にそうした「レズソーシャルの壁」に比べ、「ホモソーシャルの壁」がことさらに悪質で堅牢であるとは、どうにも考えにくいこと。
 それらを勘案するに、結局、この「ホモソーシャル」というのがフェミニストがドヤ顔で振り回す必殺兵器としてはどうにもショボい、朝日の慰安婦問題に対して産経だって山田太郎と山口太郎を間違えて報じたぞと指摘するような(一例です。そういう事実はないと思います)無理やりさを感じないではおれないわけです。

*2 ただし、一番最初にこの言葉を考え出したセジウィックの論理では、ホモソーシャリティは専ら「男女の三角関係」において成立するようです。しかしそれは結局、「女を男の共有財産と考えているのだ云々」といった妄想に帰着するので、逆にそうなると瀬川の過ちを見るまでもなく、「オタサー姫」という概念が成立し得ない。どっちに転んでも矛盾だらけの妄想社会学に過ぎなかったのです。


 さて、しかし、問題は瀬川です。
 彼は今までもオタクを「嬉々として弱者を差別している存在」であると、どう考えても無理やりな理由で断罪してきました。
 その意味で、上の発言は象徴的です。
 ぼくが最近の左派に対して繰り返し指摘しているように、彼もまた弱者を憎悪し、
弱者を殺す快感を得るため、弱者に悪者のレッテルを貼ることだけを考えている人物なのです。
 ぼくは今まで、「ホモソーシャル論とは、弱者男性の最後の食料である、冷蔵庫の中のタクアンの尻尾を収奪するためのロジック」と繰り返してきました*3。赤木氏の主張も、前半はそれに近いですね。
 つまり、「ホモソーシャル」という武器は「弱者と強者を自動的に識別し、弱者のみを殺すという能力を持った武器」であり、瀬川がそれを嬉しげに振り回していることは非常に象徴的に思われるのです。
 ぼくは「ホモソーシャル」、と言われる度に思い出すことがあります。
 今回はそれを思い返しつつ、瀬川の言動がどれだけ卑劣なものかを、確認していくことにしましょう。


*3 この辺は「神聖モテモテ王国」を参照


 さて、「ホモソーシャル」と言われる度に思い出すと書いたのは、伊集院光のラジオに出てきた、女子のことです。
 伊集院光は非リア、非モテ男子のカリスマ的な存在であり、伊集院本人も自らのラジオ番組(TBSラジオで放送されている『深夜の馬鹿力』)を「男子校」「工業」と表現しています。聴取率調査をやってみると女性の比率がゼロとの発言もありました……とは言っても、ぼくの周囲では結構女で聞いている人もいるんですけどね。
 もう一つ、余談になりますが伊集院はかなり女性に辛辣です。ラジオでは「非モテ」というスタンスから、女にばかり媚びるテレビメディアや「ブス」に対する罵詈雑言を繰り返します。しかし不思議なのですが、伊集院光を「ミソジニー」とする言説に、ぼくは今までお目にかかったことがありません。
 何故か。
 言うまでもなく
「ミソジニー」という言葉には「弱者男性」という意味しかなく、伊集院光は(仮に弱者男性のカリスマとして君臨していようと、タレントである本人はフェミニストたちにとっては)弱者男性ではないからです。

 閑話休題、「伊集院光のホモソーシャル」について、続けましょう。
 もう十年以上も前のことになりますが、当時、リスナー参加型企画として行われていた「快感 薬師丸ひろ子 チャン・リン・シャン」。これはリスナーの中から薬師丸ひろ子志望者を募り、クイズ形式で対戦させるという……えぇと、説明しづらいのですが、「芸能人選手権シリーズ」の一環であり、勝手に薬師丸ひろ子を自称するリスナーが妄言を吐き散らかすという……すみません、説明のしようのないコーナーです
 登場した「薬師丸ひろ子志望者」の多くは伊集院のラジオのヘビーリスナーであり、そのほとんどは若年層の男子だったのですが、一度だけ女子が出てきたことがあったのです。
 仮にNさんとしましょう、その女子がギャグを言ってみせる度、伊集院は「俺、何だか涙が出てきちゃったよ」とまで言って、大いに感激していました。
「何だお前、女の子のクセに、バーカ!」とのNさんに対する罵声も、ツンデレ的な喜びの表現でした。
 が……コーナーが進行するにつれ、何だか伊集院のテンションは落ちていき、最終的にはNさんはぱっとした成績を上げられないまま、伊集院の「女の子は不利だ」との声を背に、退場していきました。
詳しくは実際に聞いてみてください
 何しろ素人であるリスナーの参加する企画ですから、他にもギャグを外して気まずいムードになる参加者などは当然、いました。が、それにしてもNさんが登場する場面は、番組でも珍しい、妙なムードの流れた時間だったのです。
 もうおわかりかと思いますが、ここでぼくがしようとしているのは、いったんフェミニズム的文脈で語られる「ホモソーシャル」という概念を全否定した上での、「しかし確かに存在するホモソーシャリティ」の指摘なのです。


「何故伊集院がNさんとのギャグをうまく広げられなかったか」
→「ホモソーシャル」


 それ自体は、正しい。
 しかし、ではここで伊集院を断罪すべきか、擁護すべきかとなると、やはりどう考えても「そういう善悪の問題ではない」という結論に達するしかない。
 上に書いた通り、Nさんが登場した時の伊集院は、大変に感激していました。それがだんだんと白けムードになっていく。これは比喩的に言えば、例えば


「ディープなガンダムオタクの男子のクラスに、やはりディープなガンダム女子が転校してくる」
→「意気投合し、仲よくなる二人」
→「しかし男女のジェンダーギャップから、だんだんと溝ができるように」


 とでもいったストーリィーに置換が可能でしょう。
 例えばですが、ここで「男子がファースト至上主義者であったが、女子は『SEED』ファンであった」とかであれば、それは善悪の問題ではなく、シュミの問題と言うしかない。しかしNさんはディープなリスナーであることに間違いはなく(何しろネタ投稿者としても活躍していましたから)、そういう事情でもなさそうです。
 Nさんと話すうち、伊集院は自らの心情を的確に「女の子と話すとドギマギしてしまう」「俺は心の童貞だ」と表現していました。
 これが仮にですが萌え作品であるなら、或いはまた伊集院がよく例に出す『BOYS BE…』なら、「いつも男友だち同士みたいにざっくばらんにつきあっていたN子……でもそんなN子がふと見せた、女らしい仕草に……」といった展開にもなるのでしょうが、言わばこの時の伊集院は、そのネガティブ面に陥ってしまった。
 正直、ラジオを聞いていて何故伊集院はもう少しうまく立ち回れないのか、せっかく出てくれた女子が可哀想だと、ぼくは感じました。
 しかし同時に、リスナーの方はおわかりかと思いますが伊集院のラジオは下ネタ全開の、それも必ずしもエロネタのみならず、モテない男が集まってわびしさを確認するような、ある種の閉鎖性のあるものです。そこに女子が入っていくこと自体、かなりハードルが高いことは自明です。喪女同士がグチをこぼしあう女子会に男子を迎え入れる度量のある女子は、かなり少数でしょう。その意味で、上に「伊集院リスナーの女子も多い」と書きましたが、そうした女子たちには伊集院のギャグを楽しむ一方、どこか男の弱味を覗き見ることに喜びを見出しているのではないか……という感じも、少しします(これはぼくの直感で、説明はしにくいのですが……)。
 じゃあ、「入って来たNが悪い」のかと言うと、むろん責任は彼女を迎え入れた伊集院にあるわけだし、じゃあ「最初から女人禁制にしろ」と言われると、それもまた微妙です。一つの案ではあるけれども、やはりその場その場で伊集院が判断し、「行けるかな」と思った女子には参加してもらう、くらいが現実的な落としどころだし、しかし上の例のようにうまくいかないことだってあるよな、としか、言いようがないわけです。

 疲れたのでそろそろ結論にします。
 瀬川の愚かな言動は、少し前に
加野瀬未友が「兵頭はガンダムファンに女子が少ないと言ったぞ」とデマを飛ばした事例、またそれ以前に起こった『パシリム』騒動(実はぼくは『パシリム』について全く知らず、この騒動には参加できなかったのですが、これについては新田五郎氏のブログが参考になるかと思います)と全く同じ構造であることは、言うまでもないでしょう。
 それは、企業社会など公正であることが求められる社会に適用することすら、さしたる根拠があるとも思えないフェミニズムの「男性破壊兵器」を、何ら関係もないシュミの分野にまでポリティカルコレクトを持ち込むことで、弱者の殺戮を楽しみたいとの惛い情念に根差した愚行でした。
 もはや彼ら彼女らは、何らビジョンを持たない大量破壊兵器での殺戮だけを目的とした存在、にまで堕してしまっているわけです。

 

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デコまん

2014-09-19 20:03:03 | アニメ・コミック・ゲーム

 どうも、お久し振りです。
 随分と当ブロマガを放置し続けてしまいました。
 別に理由はなく、単に仕事が忙しかっただけなのですが。
 ここ二ヶ月近くずっと忙しく、おかげで「ろくでなし子事変」についてもあまり詳しくチェックすることができませんでした。
 が、せっかく彼女の主著『デコまん』も買っちゃったことですし、落ち着いた今、ざっと事態を顧みてみたいと思います。
 ちなみにこの『デコまん』の概要だけをざっと知りたい方は、真ん中の「――さて、随分と話が前後してしまいましたが、ようやっと『デコまん』です。」以降から読んでいただければいいかと存じます。

 

 ――さて、本件において一番問題になったのはろくでなし師匠が北原みのり師匠のお仲間であった、ということでしょうか。
 北原師匠の問題点については、ぼくも今まで繰り返し述べてきました*。
 が、それに加え(フェミニスト擁護派にとっては)タイミングの悪いことに、彼女はつい最近もいわゆる「ロリ系」の表現、それも漫画やゲームなど二次元の表現に対しても規制をよしとするような論調の
記事を執筆していたのです。
 その直後に件の事件があったがため、オタク側からはブーメランだと嘲笑されることになったわけですね。
 一方、表現の自由を旗頭に掲げると共にフェミニストにもゴマをすらなければならないオタク界のトップたちは進退窮まり、ろくでなし師匠の味方をし(山口貴士弁護士はカンパを募り、師匠を釈放するよう働きかけていました)、一方ではオタクに向けて苦しい言い訳をしていた――まあ、本件のポイントを押さえるとすれば、そんなところになるかと思います。
 一体、こうしたリベラルたちのフェミストへの信仰心は、何に根ざしたものなのでしょうか。
 例えば少し前に
ご紹介した『男性権力の神話』。
 あれの訳者が「ファレルの功績にはフェミニズム活動の経験が役立っている」「フェミニストは男性差別の解消にも協力してくれる」などと、自分の訳した本を1ページでも読んでいれば口が裂けても出て来ないようなことを平然と口にしているのを見て、唖然とした人も多いでしょう。
 後藤和智もまた、レビューと称して「本書は女性よりも男性のほうが差別されていると主張しているものではない」などと
デマを撒き散らしておりました。
 彼らがもしフェミニストの味方を持って任ずるのであれば、万難を排してもファレルを暗殺すべきだと思うのですが。
 恐らく彼らはウソをついている自覚はなく、天然なのでしょう。彼らの脳内がどうなっているのか、考えれば考えるほど、こちらの頭がおかしくなりそうになります。
 そしてまた、実は「ろくでなし子事変」においても、これらに非常に近い事態を、ぼくは何度も目撃することになりました。
 つまり、「表現の自由クラスタ」たちの言動です。
 例えば『
マンガはなぜ規制されるのか』の著書である長岡義幸師匠はツイッターで「フェミニスト団体である行動する女たちの会は、かつて有害コミック騒動の時もオタク側と連帯し、国家による規制は望ましくないとの意見で一致した」とドヤっていましたが(そしてまた彼女らがそう考えていること自体は恐らく事実かと思いますが)、同団体はテレビCMなどに女性サベツだと因縁をつけては中止に追い込み続けた悪名高い団体です。そんな団体と「連帯」しているぞと誇らしげな人たちが「表現の自由」を守るのだといくら主張したところで、それはキバヤシさんの「人類は滅亡する」発言の一万倍くらい、信頼ができないでしょう。
 しかしそれだけではありません。本件では――というか、ここしばらく度々――「フェミニストは我々の味方だ」といったデマを拡散させ、ぼくに対しては半狂乱で罵詈雑言を並べ立てている人物が、別の場ではフェミニストに噛みついている、といった場面を度々目にしたのです。
 その時になされるフェミニズム批判はなかなか筋が通っていることも多く、彼らは自分たちの矛盾を脳内でどのように整理しているのか、その度にこちらの頭がおかしくなりそうになりました。
 以上のような、フェミニストたちに(想像するに、複雑な愛憎半ばの感情を抱き)辛辣に反論しているにもかかわらず、「外部」の者がフェミを責めるととたんにヒステリックにその相手を攻撃し出す人々のことを、ぼくは「フェミニストストーカー」、略して「フェミスト君」と呼びたいと思います。
 本稿のテーマはこうした「フェミスト君」のメンタリティを探ろう、というところにあります(すんません、『デコまん』については後半まで待って下さい)。


*女ぎらい――ニッポンのミソジニー
女ぎらい――ニッポンのミソジニー(その2)
ぼくと彼女の有意義な会話――北原みのりさんとの往復ツゥイート
アンアンのセックスできれいになれた?
秋だ一番北原みのり祭!!

 

 彼らフェミスト君の多くはリベラル派です。上の『男性権力――』の訳者もファレルの功績に対し「リベラルであったからこそ成し得た」「フェミニストに反発する保守派と一八〇度立場が違う」などと繰り返していました。ファレルがフェミニスト出身なのは事実ですが、フェミニズムをここまで批判した著作に対して、訳した当人が一字一句たりと理解が及んでいないというのはいささか衝撃的です。
 恐らくですが(もう確認するのも面倒なので想像で書きますが)ぼくは今までもフェミスト君たちについて、幾度も言及してきたはずです。
 その時のぼくの分析は多分、以下の二種に別れていたのではないでしょうか。


 1.フェミスト君たちはフェミニズムに対する信仰心に取り憑かれているがため、ただひたすら「フェミニズムは正義なのだから、ボクちんの気持ちもわかってくれるはずなんだ!!」との素朴な妄想に囚われ、現実が見えていない。

 2.フェミスト君たちは、もうさすがにフェミはダメだと気づいていて、しかし仲間であるがため、かばわざるを得ないだけなのではないか。


 この二つの考えは互いに矛盾していますが、いや、実はこの二つのスタンスがフェミスト君の脳内では融合している、と考えるのがより実態に近いのではないか……という気がします。一方で「ママなんか嫌いだ!」と手足をじたばたさせている子供が他人から「お前の母ちゃんブスだよな」と言われたら「ママの悪口を言うな!!」と言い出すことは想像に難くなく、この二種の感情は彼らの中で矛盾なく同居しているのでしょう。
 目に見えるフェミニストたちの姿は、確かに愚かだ。しかしこの広い世界中にはボクちんのことをわかってくれる運命のフェミニストがいるはず。
「ラディカルフェミニズム」についての苦しいデマからは、そうした彼らの願望が透けて見えます*。
 その意味でフェミスト君たちの振る舞いは「ポルノを肯定するフェミニスト、即ちリベラルフェミニスト」という非実在の概念を仮想し、「ポルノを否定するフェミニスト、即ちラディカルフェミニスト」へと噛みついている、という一種の脳内恋愛、及びシャドーボクシングであると考えることができます。
 そもそも、フェミニズムがある種の地位を築き上げてしまった以上、近い場にいる彼らにとってはつるむメリットがあるはずです。前にも書いたように目下、リベラル、左派はかなり追いつめられているようですから、自分たちの陣地を守るためにも、フェミという大ネタを逃したくない、という計算もあるのではないでしょうか(いや、フェミを切り捨てた方が大衆に理解されるようになるのではないか、というアドバイスは彼らの耳には入らないようです)。
 フェミニズムが思想的におわコンだと知りつつも、いや、まだ「生き」だと詐称することである種の利益を得る。これはおじいちゃんが死んでいるのに届け出をしないことで利を得るのと、同じシステムなのではないか……と想像できます。
 しかしフェミスト君は、そうした「利得」を冷静に計算しているだけのみならず、やはりフェミニズムの味方をしたい、という情緒的動機をも、同時に持ちあわせているようです。
 というのは、目下、オタク界のトップたちは「オタク文化を守る」と称して運動を続けていますが、実際のところ、彼らはオタクが大嫌いだから、です。
 いや……むろん、ぼくは彼らの一人ひとりを知っているわけではないのですが、彼らの「オタクはネトウヨ」的な罵詈雑言を見る限り、彼らがオタクのことを好きだとは、ぼくにはどうにも思えないのです。東浩紀師匠や宇野常寛師匠がフェミ的なレトリックでオタク文化をdisっていることを、ぼくたちはここで思い出してみるべきでしょう。
 自分を「表現の自由」を守る勇者だともって任じている彼らが、自分が正義の戦いによって守るのがキモオタであるとすると、あまりにもモチベーションが湧かない。
 しかしそこでもし、彼らが守るのがフェミニストであるならば?
「女性という弱者」との看板を背負った彼女らならば、彼らも心安らかに「マイノリティ憑依」が可能なのではないでしょうか。
 ぶっちゃければ、フェミスト君たちはやはり、(高貴な我々の言うことを聞かぬネトウヨであるところの)オタクなどよりも(つるむことで正義の味方という地位を担保できる)フェミニストの方が好きだ、ということですね。ここでは
中川右介師匠が『ドラえもん』よりもフェミニズムが好きであったことを、思い出してもいいかも知れません。
 大衆の心はもうフェミニズムから離反しているのに、メディア側に携わる人間だけは「違う、フェミを批判するのはネトウヨのミソジニストだ、それ以外の人々は我々の仲間であり、彼女らの理解者だ」との妄想から逃れられずにいる、という図式はオタク界に限らず、広く一般的な社会にも見られるところです。

 

* この「ラディカル/リベラルフェミニスト」という二元論のウソについては「2012年女災10大ニュース」の第2位を参照。
ただし、この種の議論の時、彼らが決まって名前を出すストロッセンについては確かに、正々堂々とポルノを擁護しているフェミニストではあるようです(いまだちゃんと調べてないので、これについては保留)。
しかし、いずれにせよでは日本のフェミニストにストロッセンと同じスタンスを表明している者がいるのかとなると、(彼らのガールフレンドである上野千鶴子師匠、藤本由香里師匠など含め)否としか言いようがないのです。

 

 ――さて、随分と話が前後してしまいましたが、ようやっと『デコまん』です。
 いや……世間がろくでなし師匠の話題で盛り上がっている渦中に、ついつい買ってしまったのですが、ぶっちゃけると大したことはないです。
 要するに『本当にあった○○な話』系の雑誌に連載された師匠のエッセイ漫画の単行本化。この種の女性漫画家のダラダラしゃべりが面白かった試しって、ありませんもんね。
 一応、テーマとしては彼女の持ちネタであるところの「デコまん」に絞られているのですが、ここで要約してしまうと、以下のような具合です。


・彼氏(ミュージシャン志望のヒモ予備軍)に性器の形が変だと言われコンプレックスに。
・そのため、性器の整形手術をした。
・しかし彼氏はセックスの時も、綺麗になった性器に気づかない。
・知人の一言がヒントになって、自分の性器を型取りしたアートを発明した。
北原みのり師匠がそれにいたく感激して、仲良しに。
・以降、マスコミを巻き込んで地味~に活動。


 大陰唇を切り取った様がモツみたいだみたいな話、俺、忙しいせいで松屋でプレミア牛丼食いながら読んじゃいましたよ。
 読んでいると(雑誌連載という事情もありましょうが)同じ話題の繰り返しで、その辺カットしたらページ数は半分に収まるんじゃないかという勢い。ただでも薄い内容が輪をかけて水増しされている、という仕掛けです。
 何しろチェ・ゲバラの似顔絵をバックに自らの活動を革命と自画自賛する(一応、北原師匠に誉められているというシーンではありますが……)場面も二度繰り返されているのですが、恐らくこのゲバラの絵は切り貼りの使い回しです。
 そしてまた、見ていてちょっと辟易としてしまうのが、何と言いますか彼女の構ってちゃん体質。それが言い過ぎなら、目立ちたがり精神です。
 女性器の手術後は、女性器のお披露目会のごときパーティーを催す。その一年後も(一周年記念と言うことなのか)またパーティー。見るとこの人、パーディーばかりしてはギョーカイ人が参加したぞ、また一方では「デコまん」がメディアで騒がれているぞと自慢ばかりしています(今読んでいる森○○子の日記本が丁度こんな感じです)。読まされる方は退屈の一語なのですが。
 そして、お話が急展開するのが、彼女がやはり北原みのり師匠の集まりに出かけていき、師匠に「デコまん」を絶賛される下りから。本書の後半は北原師匠との出会いに多くが割かれており、ろくでなし師匠の奇行に方向性を与えたのが彼女であることが伺えます。
 ろくでなし師匠は北原師匠のラブアンドピースクラブのサイトにもコラムの連載枠を持っているのですが、そこでもやはり、自分の「デコまん」の写真が北原師匠に絶賛された時のことが
書かれています


ほんの記念写真のつもりでしたが、たまたまラブピースクラブのワークショップで北原みのりさんにお会いした時にお見せしたところ、みのりさんに「すごーい!」と褒めていただいたのが運のつき。
わたしは驚きと嬉しさで一杯になりました。
それまでは、まんこの型をデコったと言うと、大体バカにされるか苦笑いで終わるので。

 

あまり褒められた経験のない人間は、ちょっと褒められるとものすごく頑張るものです。
わたしは俄然ヤル気になり、たくさんのデコまんを作るようになりました。


 北原師匠との出会いは「性器にコンプレックスを持っていたが、実はそれは間違っていた、ありのままがよかったのだ」と気づくきっかけのように書かれています。
 それは「男性に傷つけられた女性がフェミニズムによって救済される」ストーリーにも、「男に振られたブスが何かレズっぽいことを始めた」話にも見えます。いや、どっちもほとんどいっしょですし、重要なのは彼女は勝手に傷ついただけで、傷つけた男性はどこにもいないということなのですが(だってことのきっかけは単に「せっかく性器を整形したのにセックスの相手の男性はそれに気づきもしなかった」というそれだけのことですものね)。
 さて、ここでずっと当ブログをご愛読いただいている方は、ふと思い出したのではないでしょうか。
 そう、
以前採り上げた上野千鶴子師匠の著作、『女遊び』です。
 この本は表紙はろくでなし師匠と同様に女性器を花に見立てた「フェミアート」が飾り、まえがきは「おまんこがいっぱい」と題され、以降もちんちんまんこちんちんまんことひたすら繰り返される、まあ
幼稚園児には快哉をもって迎えられるであろう著作です。
 そう、この種の「フェミアート」、「女性器を表に出すことで女性の解放が成し遂げられる」との妄想はフェミニズムにとって大昔から言われていた(いえ、昔にこそ言われていた既に古びた)ものだったのです。
 いずれにせよ上野師匠からしてかつては、こうした「性をあからさまに語る女性=エロ女」という文脈でオヤジに媚びを売り、名を成したという歴史があり、ある意味ではろくでなし師匠もそれと同じとも、或いはたまたま同じことを天然でやっていた彼女を見つけた北原師匠が懐かし企画としてプロデュースしたとも言える、まあかつてのフェミの焼き直しなわけです。
 
以前ご紹介した、ぼくのぼくたちの女災社会">著作をねじ曲げて記事を書いた田岡尼師匠もろくでなし師匠を擁護し、そうした「フェミアート」を紹介する記事を書いており、この人もまたそうした古くさいフェミニズムの信奉者であることが伺えます。
 いずれにせよ、ここで留意すべきなのは彼女らが好んで口にする「女のための表現」「女の自立」といった惹句とは裏腹に、彼女らが性的な手段でマスメディアに売り込んでいる場面を見れば見るほど、端からは「この人たちは男に構われたいんだなあ」と感じられてしまう、ということです。
 そうした確信は、本書の前半部分を読み返すことでいよいよ強まります。
 上では敢えて伏せておりましたが、前半部分の要約を以下にまとめてみましょう。


・幼少期、優等生で美人の姉に比べ、眼鏡ブスで劣等感に苛まれた。
・そのため漫画の世界に没頭、「
眼鏡ッ娘が実は美人」というストーリーをひたすら描く。
・ところが大学でアニメ漫画研究会に入るや、オタクにチヤホヤされるように。
・彼氏(アニ研ではないらしい)との初体験の時、剛毛がコンプレックスで性毛をそっていたことが変だと言われ、トラウマに。
・アニ研の先輩に誘われ、部屋に。先輩がコンドームを買いに走っている間に見たエロDVDで女優の性毛が薄いことを知り、トラウマがぶり返してその場から逃げ出す
・そして、先に書いたミュージシャン志望のヒモとの関係へ。


 いや~~、清々しいほどのクズっぷりっスねーwwwwwww
 まあ、大学時代の先輩がDVDを持っているなど時期的にあわないので、かなりフィクションが混入しているとは想像できますが(恐らく「オタク野郎とベッドインしかけるが、逃げ出す」というのは女性読者にとって快哉を叫ぶべきシーンでしょうから、この辺りはかなり作っていることでしょう)。
 ともあれ、ここでろくでなし師匠がオタサーの姫であったという過去が明らかになりました(それすらもウソという可能性もゼロではないとは言え)。
 しかしこうして見ていくと、師匠のやっていること、昔からずっと変わりませんよね。オタサーでチヤホヤされているシーンでも師匠は「私はアイドル!」と絶叫し、観客の快哉を浴びている自己像を描いていますが、後半の「デコまん」活動をしているシーンでもやはり同様なアイドルとしての自己像が登場してきます。
 実はフェミニストそのものが、「オタサーの姫」であると考えると、どうでしょう。全てがすとんと胸に落ちるのではないでしょうか。
 長岡師匠が挙げたものとはまた違うはずですが、ぼくも昔は「オタクの表現を守る」と称する人々の集会を見に行くという経験を何度かしました。そうした集まりでは決まって「女性からのご意見」とばかりにご招待したフェミニストの意見を拝聴し、
男性陣が「タジタジになる」一幕があり、その度にキモいなー、と思っておりました。
「オタサーの姫」型フェミニストとフェミスト君。
 自分の口を吐いて出る言葉と自分の中にある欲求に、絶望的な乖離がある(ことに絶望的に自覚のない)者同士。考えてみればこれほどにお似合いのカップルは他にありません。
 本件は、オタクをダシにしたチンポ騎士団たるリベラル男性とフェミニストたちとの蜜月が、当のオタクによって危機にさらされた過程そのものでした。それはまた、偏向した信念を抱いた者同士の、閉鎖的な場所でのみ通用する関係性が、開かれた場に出ることで、一挙にその虚偽性を露呈させてしまった、ということでもあります。
 先日、理化学研究所の笹井副センター長が自殺したとの報がありました。彼から小保方さんに宛てられた遺書には「STAP細胞を必ず再現してください」と書かれていたともあります。
 こうした話題について、限られた情報で勘繰るのは不謹慎なのですが、しかしそれでもいろんな推察がつい、頭を過ぎります。
 これは或いは、彼の中の「学者としての実証性を求める心」と「小保方さん萌えの心」に折りあいがつかなくなり、その果ての自殺――といったストーリーだったのではないか、と。
 フェミスト君たちにはくれぐれも、本件を他山の石として精進されんことを、祈るものであります。

 

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