兵頭新児の女災対策的読書

「女災」とは「女性災害」の略、女性がそのジェンダーを濫用することで男性が被る厄災を指します。

週刊SPA! 6/29号

2010-06-24 00:50:57 | レビュー

 今週号(6月22日発売)です。
 一見して目を引くのは「[女性優遇社会]にマジギレする男たちの狂気」という過激な特集タイトルです。
 リードにも「怒りが高じて狂気さえ滲ませる男性の声を、30代女性記者が追った」とあり、また本文にも「そこで私、三十路ルーザー女記者が巷の男性を直撃。」と「男たちの狂気」「女性によって書かれた記事」といった側面がこれでもかと強調され、「あぁ、男たちの悲惨な状況を女が嘲笑うという、二十年前によくはやった手口による記事だな」と思いながら読み進めたのですが。


 ――この4ページに渡る特集記事、確かに最初の1ページ目は男性たちの嘆きに対し「三十路ルーザー記者」が茶化すようなツッコミを入れるという、昔懐かしい体裁が取られているのですが、読み進めるに従い、「三十路ルーザー記者」は次第に寡黙になっていきます
 3ページ目の、「彼女と二人でプリクラ写真を撮りに行っただけなのにもかかわらず、彼女がトイレに入ったがために痴漢扱いされ、学校にもそれが知れ渡ってしまった男子高校生」の話、「妻からのDVで頭を縫うも、DVシェルターは相談にも乗ってくれない」といった話題に到ると、「三十路ルーザー女性」もさすがに茶化すこともできず、ただ沈黙するのみになってしまいます。
 特集タイトルを見て腹を立てながら読んでいくと意外にいい記事で、肩透かしを食らわされたと言いますか、奇妙な読後感を味わわされました。


 当ブログでも紹介した『女性専用車両の社会学』『男性学の新展開』も実に奇妙な読後感の残る著作ではありましたが、この特集はそれらに近いと言いますか、正反対と言いますか、何とも不思議な後味を残します。
 上の二冊は、(詳しくはそれぞれのレビューを見ていただきたいのですが)要は「女性専用車両」や「オタク」、「労働者としての男性」などを取材し、ある種、男たちの惨状をこれでもかとレポートしながら、「結論」としては「社会は男性優位だ」「女性は差別されているのだ」と全くつじつまのあわない(しかし社会のコンセンサスには符合する)結論を取って付けるという、大変に奇怪な「学術書」でありました。

 要は「社会学」も「男性学」も「地球は平面なんだ、だからアポロは月へなんて行ってないんだ!」と言い立てるファンダメンタリストと全く同じだと言うことですね。

 ……いや、ファンダメンタリストたちが(いかに間違っていようと)実に熱心に自分たちの説を正当化するための理論を構築することを考えてみると、「理論」が全く抜け落ちている彼らのレベルは「水にありがとう」以下であると言うべきでしょうか。


 ひるがえって本書は想像するに、「男を嘲笑おう」という二十年前の企画の焼き直しでスタートしたものが、男性たちのあまりの悲惨さに、いつの間にやら着地点が変わってしまったと、そういう裏事情があったのではないでしょうか。
 実際、囲み記事は男性の窮乏がフラットに書かれていて好感が持てましたし、雑誌では特集タイトルや見出しなどを記事の執筆者とは違う人間が後から取って付け、当初の意図とはイメージが違ってしまうと言うことはよく聞きます(近いパターンで、まともな本がおかしな訳者のミスリードでトンデモ本に……なんてこともありますよね)。
 特集の最後には田嶋陽子先生が颯爽と登場するのですが、それが何となくちぐはぐな点も、そんな裏事情があったのからではと勘繰ってしまいたくなります。


 ちなみに田嶋先生は


 ゆえに、そのしわ寄せを受けた男性が自分より弱い存在、つまり女性に不満を抱いて叩く、という現象が誘発されてしまっているんです。


 と、おおせです。
 いかに男性が悲惨な目に遭っていようと、女性がそれより更なる弱者であるという「真理」は最初から決まっているのだから、こっちのせいにするな、というわけです。
 たまにフェミニズム系の人が「男性差別撤廃」などと口走ることがあるのですが、彼ら彼女らの「結論」は「男性差別の原因は男」ということに最初から決まっておりますので、少なくとも彼ら彼女らの言うことを真に受けている限り、男性が救われることは永久にありません(諸々の男性差別的法律を作り上げたのがフェミニストたちであることについても当然、ほっかむりです)。
 また彼女は女性専用車両やレディースデーに対しても「痴漢や女性の収入が少ないことが、即ち男が悪い」として、それに文句を言うことについては


 集団レイプと同じですよ、男気がない、恥を知りなさい!


 とまでおっしゃっています。
 何だか知りませんが、この地上から痴漢件数がゼロ件になるまで(仮に地球上の全男性を殲滅したところで、そうはなりはしないのですが)全ては男性の責任になってしまうようです。
 もっとも、この田嶋先生インタビューが最後に挿入されることで、却って男性たちの惨状は浮き彫りになっており、その意味で「
田嶋GJ」という感じもまた、しなくはないのですが。


ブログランキング【くつろぐ】 


にほんブログ村 本ブログへ 


人気ブログランキングへ


できそこないの男たち

2010-06-03 16:24:42 | レビュー

 拙著『ぼくたちの女災社会』に、いくつかの極めてヒステリックな反応があったことは、既に書いたとおりです。
 それらの反応はみな、どういうわけか「ぼくが書いてもいないこと」に対して難詰する内容であったということも、既に書きました(あの後また一件、似た例を見つけてしまいましたw)。
 とは言え女性、ことにフェミニストが拙著に過剰反応を示すこと(そしてまともな「反論」はなしえないこと)は想定の範囲内であり、それ自体は驚くに値しません。
 が、少し意外だったのはいわゆるフェミニストではないだろうと思われる男性の中に、拙著に対してヒステリックな反応を示してしまう人たちが存外にいたことです。彼らもきっと、普段は知的で教養に溢れる人たちなのだろうと思うのですが、こと女性の話になるといつもの平静さを失い、「女性は偉大だ、女性は男性よりエラいのだ」とナオン教々徒としての本性を剥き出しにしてしまうのです。
 普段は非常に頭のいい人が、性についての話題になると途端にうろたえてしまうのはよくあることであり、それはもう、仕方がないことなのでしょう。
 しかし、とは言え、それにしても、上のようなナオン教々徒がぼくの予想を遙かに超えて世にはびこっているのだとしたら、暗鬱たる気分にならざるを得ません。


 ……いえ。
 そんなことは最初からわかりきったことであり、単純にぼくの読みが甘すぎたということなのでしょう。
 でなければ、今回ご紹介するような本がベストセラーになるはずがないのですから。
 さて、ようやく本書についてです。ぼくもあれだけ騒がれているのだから何か目新しいことが書いてあるのかな、と思って読んでみたのですが、本書の内容は要するに


 男性は、生命の基本仕様である女性を作りかえて出来上がったものである。だから、ところどころに急場しのぎの、不細工な仕上がり具合になっているところがあると。


 という、いい加減聞き飽きた今更な一文に集約されます。
 上の一文は「即ち女から派生し、進化したのが男である」と言い換えても、その本質は同じです。しかしそのようなニュアンスでもって男女差を表現しては、大変に怒られてしまいます。だから福岡ハカセはそこに「寓意」を込めて、男性を「できそこない」「不細工」と貶めることに躍起になるのです。
 アリマキという昆虫は普段はメスだけの単性生殖を行い、年に一度、冬の来る前にのみオスを産み、有性生殖を行うそうです。
 ハカセは何をそんなにと思うほどアリマキに感情移入し、ひたすらにメスを称揚してみせます。


 母は自分にそっくりの美しい娘を産み、やがてその娘は成長すると女の子を産む。生命は上から下へまっすぐに伸びる縦糸のごとく、女性だけによって紡がれていた。それぞれの縦糸を担う女性は自分たちの姿かたちに尊厳と誇りを持っていた。


 アリマキにここまでの萌えを託した文章を、ぼくはいまだかつて読んだことがありません。
 周知の通り、自然科学とは目の前にある客観的事実に主観的な「寓意」を恣意的に見て取り、更に政治的な色彩をまとわせる学問であります。自然科学の一部門である生物学が動物さんを擬人化し、そこに「寓意」を読み取るのは当たり前のことなのです。イソップが自然科学の開祖とされているのはそのためです。
 さて、ならばどうしてここまでも美しい「百合萌え」の世界に、男などという美しくもないできそこないの存在が生まれてきてしまったのでしょうか。
 アリマキのような弱い生き物は数で勝負する必要がある、だから普段は「量産型」をクローンとして産み出し、環境が厳しい時にはそれに耐え得るパワーアップを期して、有性生殖でDNAを混ぜあわせて「新製品の開発」を行うわけですね(これはハカセの本においても同様の説明がなされています)。
 ガンダム的に解釈すると「そういや大体量産型って弱いよな」「新型って強いよな」ということになるでしょうか。「男の役割は窮地におけるブレイクスルーである、即ち男の方がエラいのだ」と考えることもできそうです。
 しかしそれを口にしては、大変に怒られてしまいます。
 また、「男というのは本来少数派でいい、そいつが多数の女と生殖するのが正しい」という生物学的な本質から考えると(いや、これはハカセがそう言っているだけでフィッシャーの原理では否定されているのですが)「なるほど、ハーレム漫画は正しいんだね」という気がしますが、生物学者たちは何故かその種の「擬人化」には極めて消極的です。
 それをすると大変に怒られてしまうからです。
 自然科学者にとって何より大事なのは「政治的見極め」なのです。
 極めて周到に政治的配慮のなされた本書が、ベストセラーになるのは当然ですね。
 確か「本屋が選ぶ今年の新書ベストテン」みたいな本でも、本書は一位になっておりました。本書が「俗に徹して売り上げを伸ばした」などという志の低い商品ではなく、知的エリートたる「本読み」たちの厳しい批評眼を潜り抜けた極めて優良な名著であることは、疑うべくもありません(とは言え、その本での得票数って七票とか、そんな数だったんですよね。今から考えると随分奇妙だけど、ぼくの記憶違いでしょうか……?)。
 事実、AMAZONのレビューにおいても、
本書の「美しい文章」に対しての惜しみない賞賛の声がひたすらに並べられておりました。美文家のイソップを祖とする学問の要諦が、文章の美しさにあるのは自明の理です。


 ――さて、ここまで自然科学を貶めておいてナンですが、福岡ハカセは決して、正統派の科学者というわけではありません。ライアル・ワトソンをリスペクトしていたり、専門分野においても初歩的なミスをしていたりと、「トンデモ」方面の人と言っていいようです。
 この点については「liber studiorum」が参考になります(「大人の事情?」「福岡ハカセの恥ずかしい間違い」など)。また、ぼくが上に書いた「言い方次第で男がエラいとも女がエラいとも言えるじゃん!」論は「第二の性(1)」において更に詳しいツッコミがなされています。ぼくが書いてみせたような「男の方がエラい」論がかつてはギャグとしてではなくマジで語られ、フェミニストのボーヴォワールがそれに対して反論するという一幕もあったそうです。


 が。
 上のブログを見ていて、某自称アルファブロガー(笑)様も福岡ハカセ大絶賛のレビューを書いておいでだということに、気づいてしまいましたw
 んもう、二度と関わるまいと思ってたのにぃ。
 読んでいくと、あぁ、あぁ、何たること、自称アルファブロガー(笑)様もハカセの美文(笑)を誉めちぎっておいででした。


 男女は、同権ではない。
 女性の方が、上なのだ。


 などと誇らしげに絶叫していらっしゃいます。
 彼らが本気で、心底からそれを信じているのであれば、論理的帰結として「ならばフェミニストの言っていることは全て嘘ではないか」とか「ならば弱者たる男性をいたわるべきなのではないか」とかいったハナシに、どうしてもならざるを得ないはずなのですが、絶叫することの快感に耽溺する彼らが自らの考えを発展させたことは、今までただの一度もありません。
 そんな彼らに対し、例のブログでは


 福岡やdankogaiが、嬉々として男の弱さを説く態度の裏には、男の優位を疑わないマッチョな姿が透けて見える。


 と極めて手厳しい指摘がなされていますが、さて、それはどうかと、ぼく自身は思います。
 こうしたナオン教々徒たちの嬉々とした男性バッシングからぼくが感じるのは、むしろ男全体の優位ではなく他の男たちに対しての自分自身の優位性のアピールだからです。或いは、「他の男たちへのヘイト」と言ってもいいでしょうか*1。
 上に書いたように、彼らが「男をいたわろう」と主張しないのは、彼らが「男の優位を疑っていない」からこそだという推論も、確かに可能でしょう。しかし本当に男の優位を疑っていないのであれば、何故ことさら「男は弱者だ」と口走る必要があるのでしょう? 普通に「女は差別されている、男女平等を目指そう」と主張すればいいだけのハナシです。
 どのみち彼らの主張には矛盾があり、「欺瞞」があるか「愚鈍」であるかのどちらかであることは間違いないわけですが、ぼくは恐らく前者なのではないか、と考えます。
 少なくとも現代社会において、男性を称揚すること、女性を非難することは「政治的に正しくないこと」として厳格に禁止されています。政治的センスに秀でた彼らが女性におもねようとするのは必然なのです。一部のフェミニストに唱和して、正気とは思えない男性への「ヘイトスピーチ」を繰り返す男性が少なからず存在することは、拙著に書いたとおりです。
 彼らは(自分たちのしている主張とはまた違った文脈で)女性が強者であり男性が弱者であるという事実に気づいているのでしょう。故に、自らも勝ち組である女性軍へ入りたいと熱望しているのです。それで「女性軍への手土産」として、「男性軍のエラい人の生首」の代わりのつもりで、「女性強い論」を語っているわけなのでしょう。
 その意味でぼくは彼らに対して好感を持つことはできませんが、同時に痛々しいものをも、感じずにはおれません。
 2008年3月、埼玉県三郷市で「二十歳前半から育児に追われていたので、一人の女として自由になりたい」と称する母親が子供三人を放置し、二男を死なせたという事件が起こりました。
 置き去りにされた長男である六歳の少年は一人で幼い妹と弟の面倒をみる羽目に陥り、その挙げ句に弟を餓死させてしまったのですが、彼は「本当に全部ボクが悪い」と母親をかばう供述をしたと伝えられています。
 責任の全てを引っ被ろうとしているこの少年に対して、
非常に失礼な話になりますが、ぼくにはどうしても、彼らがこの六歳児に被って見えて仕方がないのです。

 あくまで仮定の話ですが、この少年がもし「お母さんも、そしてボクも悪くない。悪いのは弟だ」と、一番弱い者に責任を押しつけることで母親を免責しようとしたとしたら。
 その振る舞いは、ママの愛を得るために「自分よりも弱い男」に罪を被せようとしている一連の人々と、寸分も違うことはありません。


*1「生命の理解、そして「理解」の理解。」の「福岡伸一氏:「できそこないの男はいばるな」」に書かれていたのですが、福岡ハカセは日経のインタビューを受けて、


「本書で書きたかったことの核心は『いばるな男!』ということです」


 とおっしゃっていたそうです。
 それを受けてブロガーさんは


「生物的にできそこないなら、いばってはいけない」
 という考え方は非常に、非常に危険な考え方ではないでしょうか?


 とおっしゃっていますがまさしくそのとおりで、この論法が成り立つなら「障害者は健常者より下だ!」という理屈だってとおりますよね。

 つまり本書は、仮に科学知識がゼロであろうと良識を持った人間であれば「?」と感じて当然のものであり、にもかかわらず文化人センセイまでもがこぞってこんな本を絶賛している今の日本は完全に狂っているということなのです。いやまあ小飼弾は元々おかしいのでしょうが。


ブログランキング【くつろぐ】 


にほんブログ村 本ブログへ


人気ブログランキングへ