兵頭新児の女災対策的読書

「女災」とは「女性災害」の略、女性がそのジェンダーを濫用することで男性が被る厄災を指します。

実録日本のタブー 2010

2011-10-22 19:10:41 | アニメ・コミック・ゲーム

 

 日本というのは言霊の国であります。
 日本人というのはいまだ科学的思考というものを持つに至っていない野蛮人でありますゆえ、「呪術的思考」という前近代的な思考法に囚われております。そんな劣等人種である日本人には「攻撃呪文」が極めて有効である、ということは拙著でも指摘しました。
 さて、では果たしてそうした「攻撃呪文」の中でも一番に有効なものが何だかご存じでしょうか?
 それは「
正義の味方」です。
 もうね、自分の敵を倒すにはこれに限りますね、「正義の味方」。

「山田は正義の味方だからな~」
「山田って正義の味方なんだぜプゲラ」
「山田は自称・正義の味方」
「やだ、山田君って正義の味方なの?」「近寄らないようにしましょ~」

 いや、出る杭は打たれる日本のムラ社会にあって、本当に真剣に「俺は正義の味方だ」と自称するような人間はかなりレアだと思うのですが、何、別に相手が実際にそう自称している必要はないんです。
 ただ、山田君が我々と違う「考え」を唱えて譲らない。
 その「考え」が我々を傷つけた。
 そう感じたあなたは自由に山田君を「正義の味方」認定する権利があるんです。
 そして「正義の味方」認定を受けた山田君はまず間違いなく「悪の権化」として扱われ、あなたのクラスで村八分になることでしょう。
 日本というムラ社会に生を受けたことに喜びを感じる瞬間ですね。
 めでたしめでたし。
 そんなわけで、自らの「敵」を「正義の味方」に仕立て上げるのは政治闘争の初歩の初歩なんですね。
 いや、まあ、ぼくも相手を「正義の味方」と呼んでからかったことは幾度もありますし、あんまり偉そうなことも言えないのですけれども。

 

 ――とまあ、前振りはそのくらいにして、今回採り上げるのは『漫画実話ナックルズ 実録日本のタブー』です。
 おわかりの通り、粗悪な作りのコンビニ本。ぼくもこの種のものは嫌いで(何だか「書籍」に対する信仰心が沸いてこないんですよね)基本的には買わないのですが、ふたばちゃんねるで本書に「仮面ライダー陰謀論」とでも称するべきものが載っていると聞いて、興味を覚えて読んでみたわけです。

 

1

 

 

■字が読めないと思いますので、画像をクリックして読んで下さい。

 

 ここで扱われているのは『仮面ホッパー』とか『仮面●●ダー』などという形でぼかされてはいますが、明らかに『仮面ライダー』です。
 この誰もが知るヒーローが、統一教会の工作員だったというのです!
 大変です!! 何しろ『仮面ライダー』は最高視聴率35%を誇る大人気番組でした。日本人への影響力はフジテレビの何万倍でしょうか。シリーズはいまだ(原形を全く留めない形とは言え)続編が作られている長寿番組です。この四十年間の間に日本は統一教会員だらけに!!

 

 ――だがちょっと待って欲しい。『仮面ライダー』が統一教会の洗脳番組だということは確かなことなのだろうか。

 

 はい、『実話ナックルズ』に、間違ったことが書かれているはずがありません
 順序立てて根拠を見ていきましょう。

 

 1.上のリード文を見ても明らかなように、仮面ライダーは空手を使う。60年代、右翼の大物、笹川良一先生は反安保勢力に対抗するため空手を普及させた。空手とは、左翼ゲリラを倒すための技なのである!
 2.悪の秘密結社ショッカーは共産党がモデルである!
 3.仮面ライダー・本郷猛を演じる藤岡弘(漫画ではF岡弘と表現)は学会と関係が深い。当時無名だった藤岡が大抜擢されたのは、学会のバックアップのおかげだ!

 

 該当記事における根拠らしきものは、大きく分けて上の三つでしょうか。
 いずれもなるほどと頷ける説ですね。
 まず1.から見ていきましょう。確かにライダーの必殺技は空手……はい?
 ――えぇと、失礼しました。
 ライダーの必殺技はライダーキックでした。

 

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■ライダーが空手で戦うことが「上からの絶対命令であった」と語られるが……スタッフも上司の言うことは聞けよ!!

 

 ライダーのアクションは空手と言うよりむしろ、当時ブームだったドラマ版『柔道一直線』の影響が大でした。殺陣師も同じでしたし、『柔道一直線』を見てみるとライダーの変身ポーズとしか思えない決めポーズが登場したりもします。もし本当に『ライダー』に空手の普及という目的があれば、もう少しライダーチョップが使われていてもよさそうなものです*1。

 

*1漫画に「ホッパーキック」「ホッパーチョップ」と書かれているところを見ると、少なくとも漫画家はこのロジックの無理矢理さに気づいていたようです。

 

 2.はどうでしょうか。
 みなさんご承知の通り、『仮面ライダー』原作者は石森章太郎先生。石森先生の描いた漫画『スカルマン』が『ライダー』の元になったことは有名な話です。スカルマンの戦う敵は公害を発生させ、テレビで低俗な番組を垂れ流す日本企業、そしてそれと癒着する日本政府――って思いっきり左派やん!!
 あ、いや、それはあくまでも漫画の話。
 テレビ版『ライダー』は原作者石森先生もさることながら、プロデューサー平山亨さんの意向が極めて強く反映されていました。そしてまた、平山さんの企画書を読むと「大戦時、日本に貢献できなかった父親の遺志を継いだ息子、本郷猛が自己犠牲の精神を発揮して云々」といった右寄りの内容が描かれています。
 なるほど、テレビ本編のショッカーを一見すればそこには共産主義の影が――って、大幹部ゾル大佐は思いっきりナチスルックやん!! ナレーションでも「ショッカー怪人製造のノウハウはナチスで開発された云々」言ってるやん!!
 まあ、この当時の悪者と言えば、何と言ってもナチスが定番でしたし。

 

 

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■ショッカーがナチスをイメージしていたことは自明だけれど、ただアメリカSFの「共産主義的な独裁国家」のイメージから間接的に影響を受けた面はあるかも。

 

 ただ、敢えて言えばショッカーの「アジト」がそこかしこにあるあのイメージ、あれは当時の過激派の「アジト」のイメージが投影されていたとは言えると思います。

 

 さて、お次は3.です。
 確かに藤岡弘に統一教会疑惑があったことは事実です。しかし確定情報はなく、あくまで噂話のレベル*2。
 また、そもそも当時の『仮面ライダー』は大した期待もされずひっそりと始まった番組でした。労組が強かった時代ですから、プロデューサーも労組の目をかいくぐって、山奥の掘っ立て小屋みたいなところで秘密で仕事をしていたと言います。そんな番組の主役が無名の新人なのは当たり前ですし、そもそも藤岡さんが抜擢される前は、主役は近藤正臣さんで内定していました。統一教会陰謀論には無理がありそうです。

 

*2ちなみにネットで調べていて同記事を採り扱ったブログに行き当たったのですが、荻上チキさんが「藤岡弘はジェンダーフリーを批判していた」と同記事に肯定的な書き込みをしていました。頭痛い……。

 

 ――以上、残念ながらこの陰謀論の信憑率は、限りなくゼロに近いと言わざるを得ません。てか、「ライダーが空手を使う」などと書かれた時点で、誰か突っ込む者はいなかったんでしょうか。
 が。
 この漫画は最後の1pで極めて唐突に、驚くべき展開を見せます。

 

 

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■さあみなさんもごいっしょに。「な、なんだってーーー!?」

 

 

7

 

 

 


■最後に挿入されたコラム。四十年ぶりに聞いた意見です。

 

「ネトウヨが統一教会の工作員」との説は、いきなり挿入されるだけでもちろん根拠は一切書かれていません
 また最後のコラムも強烈です。書き手は「ヒーロー番組は戦うから好戦主義者を生む」などと言う、70年代のPTAしか言わなかったようなことを、今更主張したいようです。
 しかし見てきたようにその主張の論拠は、完全に電波(『ガンダム』に交渉ごとが一切描かれていなかったとは、初めて知りました)。
 この漫画のホスト役はヒーローの仮面を剥いでやったとばかりに、「ククク…これが「正義」の正体です!!」などと笑っています。
 しかしぼくには、自らの敵に「正義」という悪しきレッテルを貼ってドヤ顔の、メディアを使ってあくどく洗脳しようとしている、「また別な正義の味方」の正体が仄見えているように思えてならないのですが。

 

8

 


 




■なるほど。

 

 さて、長い長いマクラでしたが、今回はここからが本題です。
 ここまで引っ張って今更本題で恐縮です。
 先日、ネットで以下のようなAAを発見しましたw

 

 

 

Photo

 

 

 

 


■韓国系企業のCMがムカつく、みたいな書き込みに対するレスのようです。よくわからんけど。

 

 いや……ぼく、今まで政治的な発言って全然してないんですけどねw
 そもそもこの胸に書かれた雑誌も読んでませんし(『SAPIO』は女尊男卑特集を組んだ時に買ったことがあるのですが、他は買ったことすらないんじゃないでしょうか)。
 また「中古女」と叫ばせているところを見ると、いわゆる「非モテ論壇」の文脈でぼくの発言を解釈したいようです。中古云々といった発言も、ぼくはしたことがないんですけれども。
 まあ有村悠師匠しかり、ぼくを批判する人がぼくの著作や発言をちゃんと読んでいるということが、まずあまりないのですが。
 しかし、そもそも、それ以前にぼくみたいな無名な木っ端ライターを引っ張り出してこなければならないほど、「ネトウヨ認定業界」というのは人材不足なのでしょうか。
 とにかく彼ら彼女らには「我々と違う『考え』を唱えて我々を傷つけた者は『ネトウヨ』でなければならないのだ」と思い込まざるを得ない内的必要があるのですね。そうして、人は自分でも知らないうちに彼ら彼女らの「
思想地図」に勝手にランクインされてしまっている、というわけです。
 大変に、恐いですねw

 

 さて、とは言え、フェミニズムが左派寄りの思想であることは事実です。
 だからぼくの発言が左派寄りの方々の心を深く深く傷つけていることは、ぼくにだって容易に想像がつきます。
 それでは、「男性差別運動家」(あまり好きな言葉ではないけれども、他にいい言葉が思いつきません)は「右派」なのでしょうか。
 今回の本題は「男性差別運動」の政治的位置について、です。
 いえ、とは言え、上に「男性差別運動」と書きましたが、この言葉を「男性解放運動」と書き換えてみるならば、実はそれは既に「左派」の一派として組み込まれています。90年代にちょっとだけ「男性解放」「メンズリブ」というものが流行ったものの、彼らはフェミニズムを盲目的に受け容れることだけが目的化してしまった人々であった、ということはもう幾度も書きました。
 しかし昨今の「男性差別運動」において、彼らは目立つ存在ではありません。
 いえ、とは言え、ではフェミニズムに批判的な人々は必ず「右派」なのかとなると、それは疑問です。

 

 ぼくはmixiで随分と長らく、フェミニズムに批判的でありながら「左派」をもって任じている人々と議論を繰り返したことがあります。
 彼らは「男性差別的CMにクレームをつける、企業の担当者への個人攻撃も辞さない」などと左派の中でもかなり悪質なタカ派的発言を繰り返していました。ぼくは「行動する女たちの会」などはそうした強硬的な態度で支持を失ったのだと言ったのですが、彼らにとってフェミニズムが支持を失ったという実感はなく、彼女らの活動自体が左派の運動の輝かしい実績としてカウントされているご様子でした。
 ちなみに彼らは「ウヨフェミ」という「非実在フェミニズム」を仮想敵になさっていましたが、彼らに言わせると田嶋陽子先生もウヨフェミなのだそうです……頭痛い。

 

 もう一つ、最近「女性専用車両反対運動」をなさっている方々と印象的な話しあいを持ちました。
 彼らは(男女共がある程度納得のいく、この問題の落としどころであると思われる)「女性車両と男性車両を完全に分ける」という案に対して「ジェンダーフリーに反する」と頑として受け容れず、また「ミスターコンテストや男性助産師がいないことは男性差別である」との主張の主でした。
 こうした、言わば「ジェンダーフリー」という理念をもってフェミニズムに意趣返ししてやろう、といった発想は、実は昨今のネットで度々目にします。
 が、彼らの本意がどういうものであるのか、ぼくには今一、理解がし難い。
 例えば「ジェンダーフリー」の無為さを説くためのアイロニー、一種の「ネタ」でそう主張しているのであれば、ぼくは彼らに快哉を叫びます。が、どうも見ていてそうではないように思われるのです。
 逆に、例えばですがオカマが自らの欲望を正当化しようと「スカートを履く男と女を同数にせよ」と主張しているのであれば、賛成は全くできないものの、その心情は大変によくわかる。が、彼らはそうでもなさそうなのです。彼らの中にミスターコンテストに出たい、助産師になりたいという欲求があるのかと言えば、とてもそうは思えないわけです。
 あくまでぼくの見た感じですが、どうも彼らは「ジェンダーフリー」を単なる「常識」として受け容れ、それを疑い得ない「前提」として出発している人々のようです(そしてまた、彼らの間ではマネーのジェンダー論が否定されていることについても、あまり知れ渡っていないようです)。
 そう考えると彼らはフェミニストたちへ二十年越しで返っていったブーメランであり、痛快ではあります。
 その意味で「フェミニズムと同じフィールドに立っている」という意味で彼らは(本人の政治的スタンスやフェミニズムに親和的かどうかは置くとして)左派的であり、フェミニズム的な方法論を受け継いだ運動であるとは言えます。
 こうした左派寄りの「男性差別運動家」は大変に増えていると、例えば2ちゃんねるの男女板などを見ても昨今、実感します。
 もっとも、そうしたフェミニズム(或いは、ジェンダーフリー)の影響下にある彼らの言動が男性に益するかとなると、それは疑問です。というのもミスターコンテストに出たい、助産師になりたいという「動機」が男性側に決定的に欠けているからです。彼らはぼくが懐疑的な「やられたらやり返す」式の、「さあ差別だぞ、どうだ」と指摘してみせれば何かが変わるはずだという「男性差別運動」と、同じ位置にいるように思います。

 

 さて、ではフェミニストたちが「ジェンダーフリーバッシング」「バックラッシュ」と言い立てていた、『諸君!』や『正論』系の文化人たちはどうでしょうか。
 彼らは取り敢えず「保守」「右派」であるとは言えましょう。
 しかし、では彼らが「男性差別運動家」か、となるとそこは微妙と言うしかありません。彼らは基本的に、「かつての、性役割分担」に肯定的であろうからです。
 お断りしておきますが、ぼくは「ジェンダーフリー」を否定しますし、逆に従来の「性役割」は一概に否定できないものだと思っています。ただ、そうした性役割はかつてより(女性差別的であるより遙かに)男性差別的であった、そしてそれが近年極限にまで達した、だから完全なリセット、デリートはできないまでも何とかもう少し緩やかなものにしていこう、女性に与えられている「フリー」の十分の一でもいいから、男性にも与えて欲しいと言っていこう、というのがぼくのスタンスです。
 その意味でぼくのスタンスが左派の主観からは保守的に見えてしまうのはわかるのですが、では『諸君!』的文化人がそうしたぼくのスタンスに親和的かというと、それは大変に疑問です。客観的に見て右派かと言うと、やはりそうは言えないでしょう。

 

 そもそも、大前提として、ごく当たり前の話ですが、「男性にも自由を、人権を」と唱える「男性差別運動」は、最初から「左翼性」を内包していると言えます。
 むしろ「男性=体制/女性=反体制」という幼稚なロジックを持ち出して男を仮想敵に仕立て上げることで成立した「フェミニズム」に対し、そうではなく男性にも「弱者性」はあるのだと異議の申し立てを始めたのが「男性差別運動」である以上、そこには自ずと左翼性、反体制性が内包されているわけです。
「男性差別運動」の是非は置くとしても、この点を踏まえることなく「男性差別運動」=「右派」の公式をもって攻撃を続ける人々は、大変に不誠実です。

 

 だが、ちょっと待って欲しい。
 男性は女性よりも遙かに優位に立ち、メリットを享受しているのにも関わらず、弱者面をするのは本末転倒も甚だしいのではないだろうか?

 

 ――はぁ、そうスか。
 そこまで優位でメリットを享受している男が、何で女よりも遙かに多く仕事上の事故や過労死や突発的な事故で殺され、そしてまた自殺しているのでしょうね。ホームレスの圧倒的多数が男性であることも、比較的よく指摘されることです。この辺りのことは拙著で詳述しているので、詳しくは繰り返しません。
 しかし、そこまで男性が優位にあるのだと言い立てている割に、何故ネットにおける「男性差別運動」批判は「モテない男のひがみ」という嘲笑に溢れているのでしょうか。何故、オタクこそがミソジニストなのだと、彼ら彼女らはあんなにも嬉しげに繰り返すのでしょうかね。男とは圧倒的な権力で女性の人権を踏みにじり、性的搾取するモンスターだったのではなかったでしょうか?
 これは「ネトウヨ」が実社会に影響力を持たない弱者であるとしたり、或いはオタクであるとしたりするメンタリティと全く同じです。とにかく左派もフェミニストたちも「我々の敵は弱者だ」と言い立てるのが大好きですね。
 彼らの言動は、自分たちが既得権益を得た強者であり、その権力の保持のために弱者を虐げることにためらいはないのだと誇らしげに宣言しているのと、何ら変わりありません。
 そこまではっきりと宣言しておきながら、彼ら彼女らは驚くべきことに自らの振る舞いを省みることもしないまま、「私は弱者だ/弱者の味方だ」という醜い思考停止に陥ったままでいるのです。
 ここにぼくたちは貴重な教訓を得ることができたわけです。
 つまり、人は
「弱い者を守る」フリをする時、誰よりも邪悪になれるのだ、と。

 

 随分と長いものになってしまいました。
 手短に、まとめましょう。
 以上のように「男性差別運動」はかなり左派寄りの運動と言えます。
 フェミニズムに批判的な層すらも、その何割かは左派寄りです。
 フェミニズムにも左派にも懐疑的な層は、それらに比べれば相対的に保守派ですが、それでも政治的な意味あいでの右派の「天皇制」や「国際政治」などに対するスタンスにことさら関係があるとは思われない。ぼくも基本的にそうした問題については無知で無関心です。

 それを右派だと言い立てる左派は、「右派が弱者だと思いたい」「フェミニズム様に逆らった者は全て右派というワルモノなのだ」という情念に根拠づけられていると思われるのです。

 

 それと更に、表題の『日本のタブー』に立ち返って、補足をいくつか。
 今回は「仮面ライダー陰謀論」を説いた一つの記事だけを採り上げましたが、他の記事を見てみれば逆に右寄りの陰謀論、或いは単なるヨタ話でしかない都市伝説、或いは全く逆にまっとうなルポに近いものまで玉石混淆と言えます。
 そこがコンビニ本らしい節操のなさとも言えますし、別に陰謀論にハマるのは左派に限るわけではないことの一例とも言えます。
 それともう一つ、いいことをお教えして差し上げましょう。
 本記事の書き手の切望も虚しく、『仮面ライダー』が実は左派寄りヒーローであるということは、バレてしまいました。事実、ライダーはショッカーの存在を警察にも秘密にしたまま、何の後ろ盾もなく単身戦います。
 一方、『秘密戦隊ゴレンジャー』は国際秘密防衛機構イーグルに属する特別部隊という明らかな公務員、右寄りヒーローです。
 しかし。
 劇場作品『ジャッカー電撃隊VSゴレンジャー』では仮面ライダーV3や仮面ライダーアマゾン、そしてキカイダーまでもが、ゴレンジャーたちと共に(直接の共闘はしないものの、同じ世界観で)地球の平和を守るために悪の軍団と戦いを続けていることが語られています。
 何故だか、おわかりになるでしょうか。
 正義には、右も左もないから、なのです。


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アンアンのセックスできれいになれた?

2011-10-12 16:18:49 | レビュー




 いや、北原みのり師匠がこんなにもメジャーになるとは、世の中わからないものです。
 今が旬の「フェミ芸人」と言えば、上野千鶴子師匠でも田嶋陽子師匠でもなく、ぶっちぎりでみのり師匠でしょう。
 師匠がメジャーになった直接の原因については取り敢えず、ここでは語りません。
 ただ、永らくインディーズとしてやってきた師匠のエッジな(笑)芸が一般ピープルにはきつかったという面もあると考えると、今回の騒ぎはお互い不幸な出会いを果たしたな、という感じがしないでもありません。

 ……要はフェミニストがいかに今まで蛸壺で守られていたか、ということなんですけれどもね(ボソ



 




■師匠の「エッジ」な芸の一例



 



 さて、今回ご紹介するのもそんな師匠の「エッジ」な仕事の一つ。女性誌『an・an』の歴史を振り返ることで日本の女性のセックス観の経緯を語ったものです。
 が、ぼくは本書を一読して、とある本を思い起こさずにはおれませんでした。
 1988年、実に今から二十三年前に出版された、『クロワッサン症候群』です。
 70年代の日本では女性誌『クロワッサン』が女性の社会進出、自立を煽りまくっていました。80年代に至り、それを真に受けた大勢の女性たちが婚期を逃したまま取り返しのつかない状況におかれている――と女性ライターが涙目で語ったのがこの本です。女性たちの婚期を遅らせるだけ遅らせておいて、この当時(つまり80年代後半)、『クロワッサン』はいけしゃあしゃあと「保守化」して、「今夜のお総菜」みたいな特集を組む雑誌になりやがった、許せん、みたいな内容でした。
(いえ、著者自身はフェミニストではなく、むしろフェミニストたちの「煽り」を冷静に批判的に分析しているので、「涙目」「許せん」というのはウソですが)
 1998年には『クロワッサン症候群その後』という続編も出され、正編に登場した女性たちへの追跡調査が行われています。そこでは十年馬齢を重ねていまだ結婚できない女性たちが正編以上に黒化、闇化、「オニババ」化して、世間への怨み節を語っておりました。
 それから更に十三年。
 全く同様な内容を女性誌『an・an』を素材に、「フェミ史観」からリライトした本。
 それが本書です。
 そう、フェミニスト村の住人たちは自分たちの利権を守るため、八十年代末というバブル手前に既になされていた『――症候群』の警告を無視し、或いは封殺し、女尊男卑を力業で推し進め、この日本に取り返しのつかないだけの不幸を「拡散」させました。
 その結果が婚活ブームであり草食系男子であり痴漢冤罪といった、数々の女災です。
 そして自分たちの企ての全てが失敗した後で、全てが「メルトダウン」して手遅れになった後で、自らに責任があるとは夢にも考えないフェミニストがルサンチマンで泣き叫んでいる。
 それが、本書です。
『クロワッサン』がゴリ押ししたのは(『――症候群』を見る限りは)そうした中でも「女性の社会進出」だったのですが、『an・an』がゴリ押ししたのは(本書を見る限りは)「女性の性の解放」と言えるでしょうか。
 本書は七章によって成り立っているのですが、



 



 第1章:70年代
 第2章:80年代
 第3章:90年代前半
 第4章:90年代半ば
 第5章:90年代後半
 第6章:ゼロ年代
 第7章:現在



 



 というよくわからないというかわかりやすいというか、とにもかくにも90年代に的を絞った構成。みのり師匠にとっての『an・an』黄金期は(70年代*1もそうなのですが、それ以上に)とにもかくにも90年代にあったことがわかります。
 ここで繰り返し採り上げられているのは、「セックスで、きれいになる」特集。当時も画期的な特集として、あちこちで騒がれたものです。
「女にだって性欲がある」と、(これも当時話題になった)本木雅弘さんのヌード写真に大フィーバーしてみせたり、黒木香さんへのインタビューをしきりに「
ガールズトーク」と称してみせたりするみのり師匠の姿には思わず苦笑が零れます。
 特集の引用文に並ぶのは、「女からセックスを誘うのはもう当たり前の傾向に」などといった空疎な文字。この時期はしきりに「女の時代」と称され、あちこちで「女が元気/男が元気ない」と病人のうわごとのごとく繰り返されていました。「積極的な女がカッコいい!!」といった惹句が雑誌に踊っていたのです*2。
 しかし不況の到来と共に、それらは雲散霧消しました。
 あれから二十年、いまだ女性たちは草食系男子に苛ついているという体たらく。
 男性ヌードが定着しなかったことが象徴するように、彼女がはしゃげばはしゃぐほど、当時の女性誌の「無理をしていた」感が露わになります。事実、師匠自身が「結果的に、女性向けエロバブルは短いものだった。」と認めています。



 



 90年代半ばを過ぎる頃からレディコミは激減していき、2000年を迎える前には、ほぼ姿が消えた。女性向けアダルト誌もほとんど廃刊した。



 



 その原因を師匠は不況に求め、更には「女の仕事」同様、「男に元気がある時だけ、お裾分けされ」たものなのだと言い立てます。
 いや……女性が消費の中心扱いを受けているのは当時からずっと変わりのないことですし、BLの隆盛ぶりを見てもニーズさえあれば消えるわけないと思うんですが……。



 またそれは、上のリンクを見てもわかるように、『クロワッサン』や『an・an』がいまだつぶれもせず発行されている現状からも明らかです。この出版不況、雑誌が全然売れない中にあって、女性向けの雑誌というのは何故かずっと出続けているヒット商品なのですね。その中で廃刊してしまったものはやはりニーズがなかったと考えるべきでしょう。



 それはまさしく、論壇誌や討論番組におけるフェミニストの席と全く同様に。



 そもそも何でそんなことまで「男が与えてくれなかったから悪いんだ」になるんでしょう? 或いは彼女の考えるフェミニズムとは「ただあんぐりと口を開けていたら男がぼた餅を落としてくれるべき」というものなのでしょうか?
「女の時代」も「女のエロ」も「女の仕事」同様、「男に元気がある時だけ、お裾分けされ」たものでしかなかった。フェミニストが必死で音頭を取ったものの、「
びっくりするくらい誰も乗ってこなかった」のが実情だった、というわけです。



 



*1師匠がドラッグ全肯定の反体制カルチャー礼賛を続ける第1章はぼくにとってかなり衝撃的であり、また師匠の「アナーキー」さはこの辺りを元ネタにしているなとも感じるのですが、今回はひとまず置きましょう。
*2本書でも言及されていますが『東京ラブストーリー』において鈴木保奈美さんが「セックスしよう!」と言ったことが、当時の女性誌では「女性の積極化の象徴」として延々と延々と、下手をすると十年くらいはコピー&ペーストされ続けていたことを思い出します。それはつまり鈴木保奈美さん(が、ドラマのセリフとして言った虚構のセリフ)以外、女性は誰一人としてそんなことは言っていなかった、ということでもあるのですが。
 ジュリアナ東京、『ジョアンナの愛し方』……全てはうたかたの夢のごとし。いえ、心ある女性にとっては「黒歴史」でしょうか。



 



 第5章以降、即ち90年代後半以降はひたすら、『an・an』が保守化したこと――セックスに愛を介入させること――への怨み節になります。
 いかにもな可愛い女による「愛」に満ちた彼との性体験などの記事が掲載される『an・an』を、師匠はまるで親でも殺されたかのごとく苛烈に告発します。ゼロ年代の『an・an』では「彼氏に奉仕するセックスマニュアル」的な特集が増えていきますが(彼氏をフェラチオしてあげよう! など)、それを見て真っ赤になって憤死せんばかりの師匠の姿は、読んでいてこっちがはらはらします。
 そしてそれはどういうわけかいつの間にか、「ぷちナショナリズム」だの小泉人気だの社会の「右傾化」とやらへの批判へとスライドしていきます。よくわからないのですが師匠にとっては
「恋愛」と口にした途端、そいつはネトウヨなのかも知れません。
「愛」を謳うことが既に保守化であり、それが我慢ならないのだというみのり師匠。
 どうしても、男に心を開くことができないみのり師匠。
 他人事ながら、
他人事じゃないながら、大変に可哀想です。
 今回、師匠について調べていて巨大掲示板の(かなり昔の)書き込みが見つかりました。



 



みのりタンは、性の自己決定権を過剰に意識していて、セックスを男女共同のものと思えなくなってしまってるメンヘラだよ。
セックスの決定権が男性に握られていると強迫観念にさいなまれている人さ。
だから、「女の決定としてのセックス」という側面しか眼中にないよ。



 



 恐らく師匠への評価で、これ以上に当を得たものは他にないのではないでしょうか。
 結局、かつての『an・an』に書かれていた「レズってみよう」も「男犯したい」も(痛い腐女子がよく言いますよね、そういうこと)、みなブス同士の「彼氏作らない同盟」で交わされた
ガールズトーク(爆笑)に過ぎなかったわけですね。
 だから師匠は『an・an』が一足先に彼氏を作ってしまい、「彼氏とのツーショット写真」を誇らしげに見せびらかしてきたことが許せない。
 気持ちは大変よくわかります。
 リア充「
メルトスルー」しろっっ!!
 つまり――女性のマジョリティが彼氏を作れば作るほど、師匠たちフェミニストは不幸になる。女性のマジョリティ層の代弁者とは決して言えない師匠たちは、昏い情念を燃え滾らせて「つぶやき」を繰り返す。
 それはいかに支離滅裂で不当なものであろうと、師匠たちの「社会的地位」と、そして女性独特の圧倒的情念に満ちたその文章そのものの迫力でもって他者の心を動かし、大メディアの力をもってしきりに「リツイート」されて、ある程度の力を持ってしまう。
 そうして、女性たちは(男性たちをも巻き込んで)いよいよ「メルトアウト」していくのでした。
 おしまい。





☆補遺☆
 スペシャルボーナスです。
 本書のあとがきでは「原発事故」が「男性」とパラレルに語られます。
 東電のトップが男性で占められている限り、今回の事故は「男の責任」なのです。こうした幼稚なロジックはフェミニストにとっては極めて普通のものです。
 で、その311の震災絡みでもう一つ、あとがきでは興味深いエピソードが語られていました。震災当日、例の辻元清美議員の「バイブ写真」についての問いあわせの電話を受けた、というのです。
 事実関係を問いただす年配の男性に対して、師匠は「
聞いてくる内容もくだらなければ、日本が大変な状況に陥っている今、こんな電話をしてくる神経もどうかしている。と切って捨て、電話中切れてしまった時の様子を



「だから何? だから何? だから何なんだあっ!!!!!!」
 叫んだ。叫んだ。叫んで電話を切った。責任者を出せだって、ばっかじゃない? バイブ握ってたからなんだっての? ばっかじゃない? ぜいぜいした。



 と圧倒的な筆致で綴っていらっしゃいます。
 こうしたヒステリックさは本書の――否、北原師匠の言動の全体を貫くもので、女性の豊かな感性というのは芸術として結実すれば素晴らしいのですが……どうにも師匠の場合はそれが悪い方向に転んでいるように思われます。
「バイブ写真」については「明らかに陳腐な合成写真だった。」と断言していらっしゃいます。







 今でも「バイブ 辻元清美」で検索すると出てくるので、気になる方はご確認いただきたいと思います。
 確かに言われると顔の辺り、ちょっと合成っぽい気もするのですが、しかし辻元議員がバイブにサインを入れて売ったことは事実です。そもそも、本書の第6章ではその下りが何ら問題のない
微笑ましいこととして、それを叩いた週刊誌が大変な悪者であるとして、明確に言及されているのです。
 にもかかわらず、そこをスルーして相手が悪いように言うのはあまりにもアンフェアでしょう。
 こうした「おしり丸出しの隠れたフリ」という奇行はフェミニストが往々にして見せるもので、彼女らが自分の言動の矛盾や破綻に気づいていないご様子らしいことには理解に苦しむというか、いい気なものだというか、コメントに困るというか、いろいろとここには書けないようなことを考えずにはおれません。





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