兵頭新児の女災対策的読書

「女災」とは「女性災害」の略、女性がそのジェンダーを濫用することで男性が被る厄災を指します。

杉田水脈『「LGBT」支援の度が過ぎる』を読む

2018-08-17 23:25:36 | セクシャルマイノリティ


 杉田水脈氏の発言が炎上し続けています。
 いつも言うようにぼくは騒がれすぎると「何か、もういいや」という気になってしまい、結果、「祭り」に便乗して売名するというフットワークに欠けているのですが、ある意味でLGBT問題はフェミニズム問題よりも厄介なものを抱えています。いい機会だと思うので、ちょっと思うところを述べてみたいと思います。
 え~と、まあ、そんなわけでガンバって記事を書いていたのですが、その間にも、世間の目はあっと言う間に東京医大の入試問題の方にシフト。この記事もほぼ注目されずに終わるんだろうなあと思いながら、キーを叩く羽目に陥ってしまいましたが……。
 まず、『新潮45』の記事。騒いでいる連中のどれくらいがこれを読んでいるのかわかりませんが、ぼくは近所の図書館で通読しました。「最新号はコピーを採らせない」というイミフなルールがあったので、以下は記憶とメモに頼っての記述となるのですが、少なくともぼくが見る限り、記事自体はおかしなものではありませんでした。
 大雑把に言えば杉田氏の主張は、「日本はLGBTに厳しい国ではない。当事者の話を聞いた限りでは、親との葛藤こそが問題になっていることが多い様子だ。これは制度とは無関係だ。子育て支援、不妊治療への支援などは大義名分がある、しかしLGBTについては大義名分を見出しにくい(大意)」というものです。
 これはまさに一部の冷静な論者の指摘通り、「論点はLGBTと子供を産むカップルとを比較したところにある」といえます。本件に対する批判として、まず言われたのが「LGBTに生産性がないとは偏見だ、彼ら彼女らには優秀な者が多い、税金も納めている」といったことでしたが、そもそもそういう切り取り方をすべき議論では、これはないのです。
 しかしネット世論は(まあ、ぼくの目に入った限りでは)上のような主張が並び、それがひと落ち着きすると、「LGBTが優秀か無能かはどうでもいい、無能な者でも生きていく権利があるのだ」といった「反論」が目立つようになりました。こうなると無限に論点が明後日の方向に飛んでいくばかりで、溜め息が出るばかりです。
 少しまとめましょう。
 杉田氏の主張自体、実は具体的な法案などに言及したものではなく、漠然とLGBTへ援助金(というのがどういう名目でどれくらいあるのか、無知なぼくは知らないのですが)を出すくらいなら、少子化対策に投じた方が……と主張するものであり、逆に言うとやや曖昧さの残るせいで、受け手が自在に肯定も否定もできるようなものとは言えました。しかし「少子化対策に回した方がリターンがあっていいのでは」という一般論は、それなりに正論です。これは(杉田氏が考える少子化対策がいかなるものかにもよりますが)例えば「障害者支援も大事だけど、中間層の困ってるヤツを援助した方がリターンが大きく、結果、障害者を救うことにもつながらないか」、「女は男を養わないから、やっぱり男の無職を支援した方がよくないか」という、公に言うと大変に怒られてしまう正論と、基本は同じです。
 ところがそれに対する上に挙げたリアクションは、レベルが低いとしか言いようがない。まず、話がすり替わっていることが第一ですが、一度「いや、LGBTには優秀な者が多い」という根拠の不明な脊髄反射的ともいえる反応がまずあり、さらに「優秀でなくてもいいではないか」と杉田氏の議論を無化する、極端に言えば「みんな餓死する恐れもあるが仲良く貧しくなろう」という上野千鶴子師匠的ロジックに話を一段下げてしまっている点が「ダメだこりゃ」であるわけです。
 まず、差し詰め「LGBT優秀論」とでも称するべきロジックについて、ちょっと検討しましょう。これはぼくがよく言う90年代初期の「フェミバブル」の頃に囁かれた論法です。当時は各雑誌が盛んに「ゲイ特集」を組んでイキっていたという、今となっては信じがたい時代でした。そんな記事の一つに、「あなたのセクシュアリティは?」とYES/NOテストで判断する企画があったのですが(よくありますよね、矢印を選択して答えを導くヤツです)そこで、

Q.あなたの愛読書は? A.漫画→1.へ。 B.学術書、哲学書→2.へ。

1.あなたはヘテロセクシャル
2.あなたはゲイ

 みたいなのがあって、さすがに爆笑してしまいました。むろん、いくつかの選択の上でセクシュアリティは「判定」されるのですが、確か最後の問いがこの「愛読書」であった記憶があります。
 哲学書を読むとホモだそうです。東浩紀師匠がホモだということが、これで証明されました(……と特に何も考えずにギャグを書きましたが、よく考えれば師匠の師匠が(ry)。
 要するに「ホモは頭がいい」という設定だったのです、当時は。他にも「セクシャルマイノリティはお前らヘテロと違って自らのセクシャリティに自覚的で云々」みたいなバカみたいな論調も目立ちました。そんなの、今となっては「特撮オタクなので『仮面ライダー』の怪人の名前をいっぱい知っていてエラい」と言ってるのとどう違うのかよくわかりませんが、「ジェンダーフリー」などが持て囃されていた当時のことです、「セクシュアリティ」という「暗黒大陸(という表現がオーバーなら「新ネタ」程度の言い方ででいいのですが)」の前にぼくたちは畏怖の念を抱いて、あの人たちのことを「何か、エラい」と思い込まされていたのです。そうした論調がオワコン化したことは、いかにフェミのセクシュアリティに対する考察が表層的で薄っぺらであったかの証明になっているわけですが。
 上の杉田氏への反論の流れは、バブル期の「イキり」からやや平静さを取り戻しての差し詰め「天賦人権説の拡大解釈」とでも称するべき論調への回帰の様子であり、しかし、それすらもがもう完全に時代遅れで、杉田氏の発言が出てくるくらい世の中は切羽詰まっているのが本当のところである(上の「中間層救え論」の方が理があると思われる)、といった流れが、ここからは明らかになるように思えます。

 さて、しかし、それとは別に、指摘しておかなければならない点があります。
 というのも、この問題の部分の先を読み進めると、杉田氏は実に興味深いことを言っているからです。
「LGBとTとは別に扱うべき。Tは『病気』であり、性転換に保険が利くような援助は考え得る(大意)」。
 これ、記事も読まずに暴れていたリベ様からすると、かなり意外な主張なのではないでしょうか。しかし、意地悪なことを言うならば、だからこそ、ここを無化するためにこそ、彼ら彼女らはその手前に書かれた箇所に噛みついたのではないか……といった想像もつい、してしまいたくなるのです。
 何故か。上の指摘は、ある意味ではLGBTに対する痛烈な批判になり得ているからです。
 ホモはよく「ホモは病気ではないぞ、アメリカ精神医学会もそのように認定した」とドヤります。その精神医学会の判断の是非がどんなものか、ぼくにはわかりかねますが、そうするとLGBTから(唯一病者である)Tを外せとの主張も、一概に否定できなくなります。ましてやLGBは病気ですらないなら援助の要はない、少なくとも援助の形は違ってきてしかるべきだとの考え方ができるはずです。
 しかし、彼ら彼女らはそれを認めたくないのではないでしょうか。そもそもがLGBTという「括り」自体がある種の政治的意図をもってなされたものなのですから。
 これはいつも繰り返していることなので、ごく簡単にまとめます。上の「LGBT」に何故ペドファイルが入らないかとなるとそれは自明で、レズ、ホモ、バイ、オカマ、とこれらは政治的には「名誉女性」に位置する人々であり、言ってみれば「ヘテロセクシャル男性」を仮想的にするフェミニズムに色濃い影響を受けている人々が作り上げたカテゴリであると、ひとまず考えざるを得ないからです。
 杉田氏が怒りを買ったのはそうした(いささか恣意的な)団結に、彼女が水を差したからだとも考え得るわけです。
 また、これは以前も指摘しましたが*1、近年では「LGBT」のお尻に無限にアルファベットを続けていく傾向にあります。LGBTQ、LGBTIなどはまだいい方で、LGBTTQQIAAPとかLGBTTQQFAGPBDSMとか無限に長くなっていく傾向にあるようで、何が何やらわかりません。そもそもが、普通に「セクシャルマイノリティ」で総称すればいいであろうに、無理に延々延々つなげていく辺りが(上のペドファイルを加えない件とは全く逆に)彼ら彼女らが「多様性」というポリコレに自縄自縛になっている様が見て取れます。
 杉田氏は上のような(LGBTのケツにアルファベットが続いていく)傾向を引き、「さまざまな性的指向を認めれば、「兄弟婚を認めろ、親子婚を認めろ、それどころかペット婚や、機械と結婚させろという声も出てくるかもしれません」と主張したのですが、これに『朝日』が「噴飯物」と批判したのを受けて、とあるツイッタラーさんが「『何の問題が?』と言えないのか。」と評していました。ここに、LGBT問題の本質が非常に強く表れています。
 上にも書いた90年代のフェミバブル(同時にLGBTバブルでもあった時代)には「いろいろな人がいていいのだ」「いろいろなセクシュアリティがあっていいのだ」といった定型句が流行っていました。とあるオカマがそれを引き、「いていい」ではない、既に「いる」のだ、とドヤっていたことがあります。
 そりゃ、「いるのだ」と言われると否定はするのはなかなか厄介で、リベラルがLGBTを担ぎ出したがるのも彼ら彼女らが「先天的な本人の気質であり、本人の責でもないのに理不尽を強いられており、最大限尊重されるべき属性」とでもいった特徴を持っているからでしょう。ペドファイルを担ぎ出したがる人がもう無限回数繰り返し、耳にタコのできている「持って生まれたセクシュアリティを断罪するな」理論です。
 しかしやはり、「いていい」と「いるのだ」は別で、また「いていい」と「やっていい」は別です。上にあるように彼ら彼女らがその「性癖」を実行に移そうとしたら問題が出て来るのは自明で、例えばペドファイルは論外にせよ――いや、論外だと考えない人が存外にいるところがこの問題の厄介さですが――「機械婚」などにしても道徳上の問題はないからといって、実行に移せば、さらにそれを制度化せよなどと言い出せば周囲が混乱を来すのは必至です。そこを「それのどこが悪い」と居直る差し詰め「ウルトラ個人主義」とでも称するべきスタンスこそが、リベラルのお気に召したわけです。

*1「新春暴論2016――「性的少数者」としてのオタク」を読む


 さらに読み続けると、『朝日』で「高校生の一割がLGBT」との記事が掲載されたようで、そうしたことをやたら騒ぐ風潮への違和感も綴られています。そう、高校生など思春期の少年少女はまだ性的に未成熟で、同性愛的な感情を抱くことも普遍的だけれども、これは一過性のものであり、そこを「LGBTだ」と騒ぐのはどうかというわけです。これはフロイトなど持ち出さずとも経験則的に納得できる話で、思春期の子供を安易にLGBT扱いすることは同意できない。しかし、この地球を「異性愛強制(ヘテロセクシズム)社会」であると考えるLGBTにしてみれば、「子供たちをLGBTというあるべき姿に戻してあげなければ」という聖なる使命を持って子供の教育に力を入れている、ということになる。彼ら彼女らも口でそうは言わないでしょうが、上の「異性愛強制社会」という言葉を演繹していくと、そういう考えに到達せざるを得ません。
 また、オバマがトランスセクシャルがトイレや更衣室を自由に選べるようにするとの通達を出した(トランプが撤回)そうなのですが、これも混乱を来すとの指摘がなされています。
 ここもまた、なかなかLGBTの痛い点を突いているように思います。フェミニストが「オカマは女湯に入る権利があるのだ」と主張したことは幾度も繰り返し採り挙げていますが*2、それと同じ、「権力者層にいるワルモノが清浄なるLGBTをいじめているのだ」史観では彼ら彼女らの希望が適わぬことを、この例は極めて明快に示唆しているのです。近年彼ら彼女らは「Xトイレ(オカマ向けトイレ)を作れ」などと主張するようになってきました。そんなの、どんだけの予算を投じればいいのか。民主党が埋蔵金を見つけてくれるのを祈るばかりです。
 そして――そう考えると、やはり、本件が炎上してしまったことには大きな意味があると思わざるを得ません。杉田氏の記事の優れた点は、「当事者の話を聞いた限りでは、親との葛藤こそが問題になっていることが多い様子だ。これは制度とは無関係だ」との指摘をしている点です。杉田氏がどれだけ調べてこう書いているのかは何とも言えませんが、重要なのは「LGBTの主張が(為政者がワルモノであるのでは全くなく)極めて個人的な人間関係などの不遇感に根差している」とはっきりと指摘してしまっている点です。
 彼ら彼女らの不遇感は大変に辛いものだろうけれども、それは「ラスボス」の陰謀によるものではなかった。しかしそこを「ジェンダーフリー」によってぼくたちの性意識をリセットすれば、彼ら彼女らも救われるのだとの空手形を売りさばいたのがフェミニズムでした。ぼくが常に指摘するように、LGBTとフェミニズムは、極めて濃厚なつながりがあるのです。彼ら彼女らはフェミニズムというウルトラ陰謀論を援用し、「ホモが嫌われるのはキリスト教の陰謀」と言い募ってきました。「では、キリスト教がそこまで盛んではない日本にはホモ差別はないわけじゃないか」と反論したのが杉田氏だったわけですが、それでは彼ら彼女らは納得しない。ぼくは複数のLGBT論者が全く別のところで「日本のホモ差別は天皇制維持のため」と言っているのを読んだことがあります。つまり、これは「キリスト教」の代わりに雑に「天皇制」が代入されているだけの「何か、エラい人が悪い」論であり、言うまでもなく天皇制がいかなるホモ排除の陰謀を張り巡らしたかは、両者とも全く語っていませんでした
 杉田氏については、議員を辞めさせよう運動みたいなのが既に展開されています。議論をすり替え、曲解し、相手を潰すことで強制終了しようとする。フェミニストやその子分たちが無限回数繰り返してきたお得意の必殺技が、今回も炸裂しようとしているのです。彼ら彼女らの目的はもはや、「ホモに逆らうと潰される」という前例を作ることでしかないのでしょう。
 そうやって『ちび黒サンボ』も『オバケのQ太郎』も『ウルトラセブン』も潰されてきたわけですが、表現の自由クラスタの皆さんは何をやっていらっしゃるんでしょうね。

*2「オカマ」は女湯には入れるのか?
「オカマ」は女湯には入れるのか?Ⅱ


八田真行「女性を避け、社会とも断絶、米国の非モテが起こす「サイレントテロ」」を読む

2018-08-10 23:56:43 | 男性学
■基礎編


 さて、前回ご紹介した、八田師匠の記事の続編とも言うべきものを、今回は俎上に上げたいと思います。
 前回、「この続編では師匠の目論見が男性たちの苛烈な現実に脆くも崩れ去る……とでもいった想定外の展開を迎え」ると書きました。
 というのも続編においては、「インセル」を超える非モテ、「ミグタウ」について言及されるからなのです(以降、師匠の最初の記事は「インセル編」、今回お伝えする続編を「ミグタウ編」と呼称します)。
「ミグタウ編」のポイントを挙げると、以下のような感じでしょうか。

・反フェミニズムとしてメニズム(menism)、或いは筆者の観測範囲では、メンズ・ライツ(男性の権利)運動、あるいはメンズ・ライツ・アクティヴィズムの略でMRAと呼ばれるものがある。これらのコミュニティは男の世界、マノスフィア(manosphere)とも呼ばれる。
・彼らの用いる概念に「ブルーピル」、「レッドピル」というものがある。『マトリックス』からの引用で、前者を飲んでいる間は夢の中にいるが、後者を飲むと覚醒する。この世が女性支配社会であると気づいた我々はレッドピルを飲んだのだ、といったところ。ちなみにこの言葉を使った最初の人物はオルタナ右翼である。
・MGTOW(ミグタウ)とはMen Going Their Own Wayの略で我が道を行く男たち、といった意味。

 ちょっと長くなりますが、ミグタウについてさらに引用してみましょう。

MGTOWの基本は、女性と付き合うのはコスト的にもリスク的にも割が合わないという考え方だ。MGTOWにとって、女性は男性を食い物にする捕食者であり、男性の自己所有権を侵害する存在と見なされる。

ところで、MGTOWにはこじらせ具合に応じてレベル0からレベル4まであるという。

レベル0は、先に出てきたレッドピルを飲み、この世は女性に支配されている、という認識をとりあえず得たという段階である。

レベル1では、結婚のような女性との長期に渡る関係が棄却される。

レベル2では、女性との短期間の関係も排除される。

レベル3では、生活に必要な最低限の収入を得るための仕事を除き、社会と経済的な関係を絶つ。

レベル4では、そもそも社会との関係を絶つ。自殺も選択肢に含まれる。



 何しろこの世は女性支配社会なのだから、そこからの徹底した撤退こそがミグタウの本質なのです。

MGTOWを巡る議論を見ていると必ず出てくる話が、日本の影響である。筆者がMGTOWについて最初に目にしたとき、日本のherbivore menと似たものであるという説明があった。

herbivoreとは草食という意味で、ようするに「草食系男子」のことである。また、先に出てきたレベル4のMGTOWはGoing Monk(僧侶になる)とかGoing Ghost(幽霊になる)と呼ばれるが、Hikikomoriと呼ばれることも多い。



 ここから見えてくるのは、リベラル様たちが「インセル」という「してもよい、自分たちの快楽殺人のための弱者」を見つけ出したつもりが、よくよく見ると「ミグタウ」というする大義名分を見つけることのできない男性像こそが、むしろその本質であった、という皮肉なオチでした。
 そう、まさにタイトルが象徴するようにミグタウは(仮に女性に憎悪を抱いているとしても)そもそも女性から離れようというのがその本質なのですから。上にも「僧侶」、「絶食」としたように、もはや性的にも経済的にもほとんど息をひそめるようにして生きる、「ゴースト」とも言われるのが、彼らの本質なのですから。
「インセル編」における「インセルはピックアップアーティストと同じだ」論は、フェミニズム論者のよく使う、「どっちもモテたいと思っているから同罪」という呆れるほどに雑なロジックでしたが*1、実際のところ、男たちは既にそうした詭弁ですら叩けないほど、乾いた雑巾のような状態に陥ってしまっていたのでした。
 事実、「ミグタウ編」はボリューム的にも「インセル編」より少なく、師匠自身の主張もほとんど見られず、本当にただ事象を並べているのみです。ここには、弱者を「女を与えよと主張する女性差別主義者」であると強弁し、いたぶろうとしていた八田師匠が現実を見て、絶句している様子が見て取れます。言ってみれば師匠の、敗北の様子の実況中継なのです。何せ記事の最後は以下のような文句で締められているのですから。

しかし、フェミニストやジェンダー論者が一所懸命やろうとしてきた男性性の解体を、日本の影響を受けた、それも「反」フェミニズムが変な形で実現しつつあるというのは、なんとも皮肉なものではなかろうか。



 そして何より絶望的なのは、こうしたミグタウの在り方こそ、むしろ日本の非モテの在り方とぴたり重なるという点です。
 上に「草食系男子」との関連性について言及されていますが、むしろそれからの派生語、「絶食系男子」を想起せずにはおれません*2。「hikikomori」も日本由来ですし、「僧侶」「幽霊」といった概念は本田透氏の主張した「護身」の概念とやはり、「完全に一致」します。また、女性との関係にメリットがないとする説は、かつての2chのコピペ「結婚は一億円の無駄遣い」を想起させるものでしょう*3。
 そして、(引き籠もるとか死ぬとかには賛成できないものの)これらのロジックは正しいと、ひとまず評価せざるを得ない。

*1 以前、togetterでフェミニストが相手を「童貞」と罵ることを差別的だと批判され、「(その人物はともかくとして、ほとんどの)フェミニストは童貞を差別したりはしない、むしろそれを真っ先に批判したのがフェミニストだ」と反論している人がいました。尋ねてみると、「性行為を競う男性的価値観こそがけしからぬ」という論法を展開したのがフェミニズムである、との応えが返ってきて、ひっくり返ってしまいました。餓死寸前の人間に「カネより尊いものがある」と説いて、「人を貧しさから救った」とイキってるのといっしょです。こうした無意味な「ちゃぶ台返し」こそフェミニストの得意技です。
*2 また、この「草食系男子」そのものが、当初はフェミニスト女子、深澤真紀師匠が「フェミニンな今時の男子」というポジティブな筆致で描いたものが広がり、いつの間にか「男性性に欠けるだらしない男」というネガティブな像にすり替わった、という経緯を持っています。それは「インセル」という「虐殺用弱者」をよくよく見ると「ミグタウ」という「殺す口実の見つからない弱者」であったという、八田師匠の「オチ」を丁度逆にした形でした。
*3 以下です。
 ちなみに久し振りにこれを見直そうと検索したところ、(KTBアニキも引用していた、デタラメにまみれた)「女にとって結婚は二億の損」という記事ばかりがヒットして、頭がクラクラしました。

結婚を迷っている若き独身男性諸君、結婚ほど馬鹿馬鹿しいものはない。
今の20代、30代の女は「どうやって男にたかるか」を必死に考えている。
だまされるんじゃないぞ。

「男にとって結婚は1億円の無駄遣い」

実際は1億どころじゃ済まない。子供一人につき、4000万の出費。
(0~22歳までの養育費、教育費、その他雑費)。

男は結婚した瞬間に、30年間の強制労働が約束される。
男は結婚した瞬間にどんなにがんばって稼いでも、
自分で使える金額は1日数百円程度になる。
どうしても買い物がしたければ、妻に頭を下げて「お願い」する。
そして「無い袖は振れません」と、あっさり却下される。

稼ぎのほとんどを、ガキと女が「当たり前のように、何の感謝もなく」吸い尽くす。

昔と比べて家事は極めて軽労働になった。
ご飯=<昔>釜戸で1回1時間を1日3回→<今>電気炊飯器でスイッチ一つ。
洗濯=<昔>たらいと洗濯板ですべて手洗い→<今>全自動洗濯機でスイッチ一つ。
風呂=<昔>薪で炊くたので常時火加減が必要→<今>ガスまたは電気給湯器でスイッチ一つ。
買物=<昔>原則毎日→<今>冷蔵庫の普及でまとめ買い可。
にも拘らず、家事を面倒だという女が急増。そんな女の為に汗水垂らして働く男。

こっちは仕事で疲れて帰って来てるのにセックスだけは意欲的に求めて来る妻。
断わると愚痴。
美貌を維持する気ゼロでぶくぶく太るくせにセックスだけは意欲的に求めて来る妻。
断わると愚痴。
そのうち趣味や男に走って「亭主元気で留守がいい♪」とかほざき始め、
生活費だけ要求してくる妻。
こっちの浮気がバレると、待ってましたとばかりに離婚を申し立て、親権を欲し、慰謝料と財産の一部をふんだくりにかかる女。

昔は男にとって結婚も妻も「必要」だったかもしれない。
でも今は「人生の不良債権」にすぎない。
コンビニやインターネット、風俗関係も充実した今、男達よ、もう結婚しなくていいんだよ。



■追想編


 さて、前回記事では上の現象について、八田師匠が必死になってアメリカ人のクシャミの様子をレポートしているものの、日本では既に風邪が完治してしまっていた……と形容しました。この「完治」という言葉、何だか問題が解決したかのような印象を与えますが、もちろん日本でも非モテ問題が解決を見たわけではなく、むしろ悪化の一途をたどっています
 では何故、ここで「完治」などという言葉を使ったのか。
 ちょっと話が前後しますが、前回記事に書いたように、「インセル編」はニコ生の岡田斗司夫ゼミでも採り挙げられました。岡田氏の評は冷静で的確なものだと思うのですが、実のところ、大変残念なことに、ニコ生視聴者のコメントは(「俺たち」に近しい層であるはずにもかかわらず)インセルについて非常に冷淡でした。
 まあ、以下のような感じです。





■詳しくは(http://www.nicovideo.jp/watch/1531734128)を。有料ですが。

 インセルたちは自らを革命家であるとイキり、リベラル様は彼らをおどろおどろしく描写し、社会不安を煽り、本を売ろうとしていますが、実のところその両者とも目論見が外れるということがもう、「日本での社会実験」により答えが出ているのでした。
 そう、彼らの未来は以下のようなものに終わるのです。
 1.今さらであり、「またか」とだけ言われる
 2.「みっともない」と嘲笑される
 3.萌えアニメを見ろと強弁される
 この3.までを、ぼくたちは既に通過しています。
 つまり、ぶっちゃけ、「非モテ」問題は既に日本では「消費され、飽きられ、沈静化して、ニヒリズムを持って迎えられている」のです。上に書いた「完治」は即ち、そういうことです。
 仮にですがもし今、本田透が復活しても、恐らくはこれらのようなリアクションを持って迎えられてしまうのではないでしょうか。
 それは、何故か。
 一例ですが、「ミソジニー」という言葉が鍵なのではないでしょうか。
 ここしばらく、ツイッターでリベラル寄りの御仁が「十年前まではリベラルが表現の自由を守っていたんだ」と主張しているのを、立て続けに目撃しました。いえ、二、三人が言っていたのを見ただけなのですが、何だか申しあわせたようで、笑ってしまいました。もちろん、フェミニストなど左派はずっと表現の自由を脅かし続けて来たというのが本当のところなのですが、例えば「ミソジニー」といった言葉を振りかざしてのフェミニストの大暴れは、かなり近年のことです。
「セクハラ」は男性からの女性への働きかけを任意で有罪化することの可能な「攻撃呪文」でしたが、「ミソジニー」は直接の働きかけのみならず、発言をも「女性差別」として攻撃することを可能にした新たな呪文です。いえ、「セクハラ」も充分、発言そのものに対応した呪文ではありましたが、例えばネット上の不特定な「女性」についての発言、或いは萌えキャラといった非実在女性を巡る事象すらもジャッジできるという点において、「ミソジニー」は新たな効果を持った攻撃呪文であると言えました。
 つまり、上のリベラル様の言は「丁度十年ほど前に、ミソジニーという攻撃呪文がフェミの口に膾炙してきた」ことを意味しているのではないでしょうか。
 そして、この「ミソジニー」という言葉は――いかなる学術的バックがあるのか、どういう経緯で広まったのか、いまだわからないのですが――本来の語義としては、単純に「女嫌い」、「女性憎悪」以上の意味はないはずなのですが、どこかに「モテたいくせに、モテないから逆切れで」という意味あいが含意されています。否、そもそも恐らく学術用語でも何でもないこの言葉をフェミニストが多用するうち、「実は彼らは女にモテたいのだ」とのフェミニスト自身の被愛妄想の照り返しを包含し、いつしかそのような「フェミ妄想用語」としてのニュアンスを持つに至った、とでも考えるのが正解ではないでしょうか。そうした「ニュアンス」がリベラル君などのインテリ層に共有されるにつれ、「弱者男性」側にも照射されるようになった、という経緯ではないかと思われるのです。それはつまり、ぼくたちが「男性の主張は許されず、全てが女性によって代弁される」という前回にもご紹介した、この社会のルールを遵守したことの結果でした。
 そんな折に、秋葉テロ事件が起きた。
『電波男』にケンケンガクガクしていたお歴々も、その辺で「やっぱり非モテは悪者扱いにした方が」というムードになる。或いは、この事件自体が前にも書いたように「非モテ問題」から「格差問題」へと話をすり替える機能を持っていたかもしれません。「非モテ」を「ロスジェネ」みたいな文脈で扱いたい者は、大喜びでそっちの「切り口」へと飛びついたことでしょう。それはつまり、「非モテ問題」を語り出すとフェミニズムの責任を問わざるを得ず、進退に窮していた者たちの、「何か、格差問題だから、悪いのは阿部さんとかだよ」との見事な問題のすり替えでした。まあ、当時の総理は福田さんでしたがこの後、政権が交代していることは直接の関係がないとはいえ、象徴的ではあります。
 そもそもが『電波男』は自分を客体視する冷静さ、知性を持っていました。まあ、正直、非モテ論壇はそうとは言い難い人が多かった印象ではありますが、逆に言えばここでようやっとぼくたちは「言説」という武器を手に入れることに成功したのです。そこを秋葉テロは(ドクさべ同様)幼稚なテロリズムへと後退させてしまった。同時に「ミソジニー」という言葉が貼りつけられ、非モテは一機に陳腐化してしまいました。
『電波男』など、確かに女性に対する辛辣な側面もあったとはいえ、基本は「女性を得られないことに耐えていこう」とする極めて理知的な書で、これを「ミソジニー」とするのはどう考えても当たらないと思うのですが、そうした細かいことは斟酌されないままに、「しょせん、モテたいヤツのひがみだ」とただ嘲笑することがポリコレになった。いや、「モテたい者のひがみ」も何も、同書はそこを自覚し、認めた上でそれを超克しようという提案だったのですが、そうしたムツカシいことは忘れ去られ、電波男はただ、打ち捨てられました。

■未来編

 先に上げた岡田斗司夫ゼミのコメントを見ると、それはまざまざと伝わってきます。そこに溢れているのはドクさべを見た時と同じ、「コイツとだけはいっしょにされたくない」という畏れの感情です。
 そしてまた、「自分をオタクだと思い込んでいる一般リベ」はこれに乗じ、「本田透の再利用」を図りました。本田氏の本意は「愛を求め、しかしそれが得られないとなった時、萌えにより自らを慰めつつ、凛と立つ」ことの勧めでありました。更に言えば彼の主張は「テロに走らないための戒め、ストッパーとしての萌えを大事にしよう」というものでもあります。ちなみにこれ、時々kinokoの言葉であるように書いていたのですが、最近、その時の記録を読み返し、ぼく自身から出た言葉であることに気づきました
 しかし、本田氏はその存在を抹消されました。本当の事情はぼくには知り得ませんが、彼の後期の作からはバッシングを受け、ウンザリしている様子が見て取れます。
 そして本田氏を殺した者たちは、本田氏の精神性を全て踏みにじった上で、その死体をゾンビとして蘇らせ、フェミニスト様への生け贄に捧げたのです。詳しくは以前の記事を読んでいただきたいところですが、(本田氏の、オタクの内面を一切無視した上での)「オタクは二次元で充足しております、フェミニスト様には逆らいません」発言ですね*4。それは同時に、「男が心を持つことなど許されていない」というこの地球の掟への、彼らの高らかな恭順の誓いでもありました。
 まとめましょう。
 当記事の前半で書かれたのは、八田師匠の敗北の様子でした。
「インセルは悪者だ」と嬉々として語っていた師匠が、実はミグタウという存在を知り、振り上げた拳の降ろしどころに困っておたおたしている場面のご報告でした。
「やった、俺たちの勝利だ!!」
 いえ、それが残念なことに、全く違うのです。
 後半でご説明したのは、「俺たちが既に、前から、ミグタっていた」事実についてであります。そして、そんな俺たちを指さし、自分をオタクだと思い込んでいる一般リベが、フェミに「オタクはjpgで満足してございます」と報告をした事実についてでした。恐らくフェミ経由でそのことは阿部さんにも伝えられ、阿部さんが捻出しようとしていた「非モテ援助金」は「何か、フェミと自分をオタクだと思い込んでいる一般リベのおやつ代」に化ける。
 それともう一つ。
 純朴に敗北宣言までをも記事にした八田師匠はある意味、誠実な方です。
 しかしおやつを食べておなかいっぱいになった彼ら彼女らは「ミグタウ」でしかないぼくたちを「インセル」であると強弁し、するという振る舞いに、これから出るのでは――否、既にそれはあちこちで現実化しているのではないでしょうか――。

*4 敵の死体を兵器利用するなんて、ゾンビマスターみたいで格好いいね!
京都地下鉄の萌えキャラにクレームをつけたのはフェミ…じゃなくて“まなざし村”!?

八田真行「凶悪犯罪続発!アメリカを蝕む「非モテの過激化」という大問題」を読む

2018-08-03 23:39:10 | 男性学
■基本編

 さて、ツイッターなどでもちょっと話題になったので、既にご存知の方も多いかと思いますが、今回のテーマは「インセル」についてです。
 まだご存じない方のために、表題記事のリード文を引用してみましょう。

アメリカで、「インセル」と呼ばれる一部の「非モテ」が過激化し、テロ事件を起こして社会問題となっている。興味深いのは、そんな彼らのなかにはトランプ支持者が多いということ。彼らのコンプレックスに満ちたメンタルや、「インセル 」という集団の由来を注意深く探っていくと、トランプを生んだアメリカという国の一側面が浮かび上がってくる。


 以上、当ブログの愛読者の方はこれだけでもうお察しかとは思いますが、もうちょっとだけポイントを挙げてみましょう。

・インセル(Incel)というのはInvoluntary celibateの略で、「非自発的禁欲」。つきあう相手がいないので、不本意ながら性的に禁欲を強いられている者のこと。
・彼らの敵は「チャド」や「ステイシー」。これはつきあう相手に不自由しない、モテるイケメン、及び美女のことで、(恐らく前者については)学歴や経済力、社会的地位の高さも加味された概念である。また、そこまでの勝ち組ではなくとも交際相手を持つ者はノーマルならぬ「ノーミー」と呼び、敵視している。
・また、こうしたインセルのひとり、エリオット・ロジャーは女性たちへの復讐を謳い、大量殺人を敢行した。インセルたちは彼を「最高紳士」と称し、崇めている。

 ――以上のような感じでしょうか。
 皆さん、いかなる感想をお持ちでしょう。
 当ブログにご来場いただく方なら、苛立ちとムカつきをお感じかと思います。ぼくも読んでまず、そうした感情を抱きました。ずっとフェミニストたちの珍奇行動珍奇論理にツッコミを入れるという作業を行っていたところに、久々に「攻め」に来られて若干、面食らってもいます。
 しかしよく考えてみると、この記事には既視感を思えずにはおれないのです。
 第一に、日本では十年程前まで、ネット上に「非モテ論壇」というものがありました。端的には、インセルは「アメリカの非モテ論壇」と言ってしまっていいのです。彼らの主張を見ていけば、更になじみ深さを感じます。チャドだステイシーだという物言いはどうしたって、「リア充爆発しろ」というちょっと前の流行語を想起せずにはおれません。
 第二に、「社会的に不遇な男性のテロ」すらも、ぼくたちは既にいくつも実例を見聞しているのです。宅間でありネオ麦茶であり加藤であり、東海道新幹線刃物男であり……これらの人々は既に「無敵の人」といった言葉で、表現されるようになっています。
 つまり、そもそもぼくたちは似た現象を、とっくに通過してきているのです。ぼくたちが風邪を完治したころ、ようやくアメリカさんもクシャミを始めたと、ただそれだけのことなのです。
 敢えて言えば、ぼくたちはテロる前に自殺してしまうケースがほとんどであるため、日本ではアメリカほどに問題が可視化されなかった*1。また、上にも挙げた日本での類似の事件の場合、非モテの犯罪という側面を(マスコミが)あまりストレートに推した印象がない。いや、むしろそこを当初は積極的に推していた加藤の事件ですら、すぐに「派遣の起こした格差犯罪」といったものになっていった感触がある。これはモテ以上に、今の日本の男性がパンにもこと欠く有様になったせいでしょう。
 また、本件からは容易にドクさべが連想されますが、あの、バカ丸出しの彼ですら「男性差別」というロジックを持ち出している。日本人の方がわずかばかり頭がよく、「女にモテたい!!」とストレートに叫ぶことにためらいを覚える人種であった、ということが言えようかと思います。もちろんこの「頭のよさ」は「自らの感情をストレートに発露させることができない」という欠点でもあるのですが。
 ――以上、「■基本編」と題したように、件の記事を要約すると共に、常識的な(先に書いたぼく自身のスタンスから離れ、できるかぎり中立的に見た)記事の感想を述べてみました。

*1 もっとも、ではアメリカではこれらの事件が本当に多いのかとなると、ぼくもわかりません。記事は「続発」と煽っていますが、件の記事に挙げられた例は「元祖」と呼ぶべきエリオット・ロジャーの引き起こした2014年の事件を含め、四件。四年で四件というのが大きいのかどうか、何とも言えませんが、アメリカではそれ以上に圧倒的な殺人事件、レイプが起きていることを鑑みてみるべきでしょう。

■応用編

 さて、ここからは件の記事に対する「ぼくのスタンス」からの意見を真っ向からぶつけてみたいと思います。
 上に書いたリード文を見てもわかる通り、八田師匠は彼ら「インセル」をトランプ支持者、反フェミニストと関連性があるのだと指摘しています。もっとも、それは当たり前としか言えず*2、また当初(本論の半ば辺りまで)は比較的中立的な書き方がなされ、師匠の「本性」はまだ見えません。
 しかし本論は、中盤辺りから奇怪な主張を始めるのです。
「インセルは、ピックアップアーティストと同じなり」。
 何を言っているのかわからないと思います。
 もちろんぼくにもわかりませんが、このピックアップアーティストとは言ってみれば「ナンパ師」のような存在であるそうです。
 そんな馬鹿な! そもそもインセルはチャドを何よりも憎んでいるではないか!!
 読んでいくとアメリカには、どうもただのナンパ師というよりは「ナンパ術の一流派」として「ピックアップアーティスト運動」と称されるものがある、ということのよう。そしてまたこれの参加者の多くはコミュ障である。まあ、要するにこの運動に参加する者はモテというよりは非モテであり、むしろチャドよりインセルに近い存在である、ということのようです。日本で言えば恋愛工学のようなものなのでしょうか、よく知りませんが。
「インセルの源流はピックアップアーティストである」というのは八田師匠自身ではなく、アメリカの反レイシズムNGOの主張のようなのですが、しかし本論を見る限り、直接の関連があるというわけではなく、「タイプが似ている」というだけのことのようです。「泥棒を捕まえたら貧乏だったから、貧乏人はみな泥棒だ」と言っているのと全く同じ、暴論です。日本で言えば「オタクは全員ペド犯罪者」くらいの偏見ですね。
 もう一つ、このナンパ術の極意はある種、女性の心理を操り、ゲームとして女性を口説くことであるらしく(師匠はこの運動を自己啓発運動に近いものだと説明しているのですが、それはこの運動がある種の女性観を学ぶという性格を持っているからなのでしょう)、そこには女性嫌悪があってけしからぬそうですが、「だから、インセルも同じ女性観を持っているに決まっているのだ!!」と言われても、困ってしまいます。
 当ブログをご愛読の方はおわかりでしょうが、この種の(フェミニズムを援用した)ロジックは、いわゆる普通の男女ジェンダーを基準とする者を、全員――否、その中から自分の嫌いな者たちだけを恣意的にセレクトして――悪者呼ばわりすることのできる、万能理論です。
 そもそもナンパ術がハウツーに特化していけばいくほどゲーム的になるのは当たり前と言えば当たり前だし、そしてまたそのナンパ理論に文句があるのであれば、「自分より上の男性」に性的魅力を感じる女性の「ジェンダー規範」とやらにまず、文句をつけていただくのが順序というものでしょう。ぼくもいわゆる「ナンパの達人」的な人物に話を聞いた時、「口説き文句など言わずとも、顎を突き出して相手を見下ろすだけで女はこちらについてくる」と豪語されたことがあります。
 結局、こうした女性観は「ある種の真実」と言わざるを得ない。もちろんインセルやピックアップアーティスト運動がそれをあまりにも極端に認識している、との可能性はあるでしょう。しかしどっちにせよそれを全否定しようとする師匠たちの方はより偏向しているのではないでしょうか。
 即ち、件の記事はいまだ天動説を唱えるマイノリティである八田師匠が、世間一般の中から弱者をセレクトし、「ネトウヨは地動説支持だ、貧乏人は地動説支持だ」と泣き叫んでいるだけのものなのです。
 件の記事の後半で、八田師匠はさらに不可思議な主張を展開します。
 後半では延々とトランプ批判(否、トランプ支持者批判)が繰り広げられるのですが、彼はそこでこんなことを言うのです。

さて、トランプ支持層はバラバラと言ったが、彼らに全く共通項がないのかと言えばそうでもない。一つの切り口は、「相対的剥奪」(relative deprivation)ではないかと思う。最近のカリフォルニア大学の研究者による研究で、トランプ支持者の特徴の一つとして挙げられていた。
(中略)
ようするに、昇進の有無そのものや絶対的な格差よりも、主観的には「当然」昇進すべきだったのに、実際にはなぜか昇進できなかった、というような相対的な不遇のほうが、深い不満をもたらすのである。



 トランプ支持者と同様、インセルは、「女性は、当然得られるはずのものであったにもかかわらず、得られなかったから許せぬと憤っている存在だ」というのです。
 はて、どういうことでしょう?
 少なくともぼくたちの先代は結婚することが「当然」でした。アメリカの状況は知りませんが、まあ、ぼくたちとそこまで変わっていないはずです。となると、「彼女」を「当然得られるはずのもの」と認識することがそこまでおかしなこととも思えない。しかし、そんな彼らの認識を、八田師匠は絶対に許せぬ不道徳な考えであるかのように言い募ります。オタクの自己承認欲求を満たす作であるから『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』が許せぬと絶叫していたペトロニウス師匠*3を思い出します。

この「当然」には、本来自分が得られるはずだったものを(多くの場合自分よりも劣っているとみなす相手に)不当に奪われた、という感覚も含まれる。

「当然」握るはずだったアメリカという国の主導権を黒人やヒスパニックに奪われる白人、中国やメキシコに仕事を奪われて「当然」得られるはずだった経済的果実を得られなくなった中流層、移民対策や社会保障のせいで「当然」得られるはずだった金を税金として持って行かれる富裕層。



 あー、はいはい。
「自分よりも劣っているとみなす相手」であろうとなかろうと、人間が得られるべきゲインを得られなかった時、不当に感じるのは当然です。上のロジックは富裕層を想定することで誤魔化していますが、実際には下流に転落した中流層にすら、師匠は「不満を感じるとは生意気な!」と言っているも同然なのです。
 彼ら、ホワイトトラッシュやインセルにとって有色人種や女性が「自分よりも劣っているとみなす相手」なのかどうかは疑わしく、むしろ師匠のロジックの正当化のために持ち出された仮定であるようにぼくには思われるのですが、一つだけ言えるのは、「自分よりも劣っているとみなす相手」に「死ね」と言っているのは師匠ではないでしょうか。
 八田師匠はトランプが大統領になったことが悔しくて腹立たしくてならない。
 ならば彼が何故支持を受けたかを考えればいいのに、師匠はそれができない。彼の支持層をあげつらい、「こんな、俺よりも下のヤツのせいで!! 俺の子分となって反トランプ運動の兵隊となるべきなのに、こいつらのせいで!! 貧乏人のくせに!! モテないくせに!!」と絶叫を続けるのみ。
 そう、八田師匠はフレンチとメロンを食べながら下々の者は脱成長せよと絶叫する内田樹師匠の、牛丼の安さは日本型福祉だから若者は幸福であると絶叫する古市憲寿師匠の、オタクはリア充だ、リア充だからリア充なのだと絶叫する海燕師匠の、自分は勝ち逃げしておいてみなで貧しくなろうと絶叫する上野千鶴子師匠のお友だちでした。
 自分たちは十全にゲインを得ておきながら、弱い者に対しては、人間が本来持っている、当然の欲望を全否定する。
 それこそが彼ら彼女らの目的でした。前回記事で指摘したように、彼女らが弱者男性のフェミ批判を「女を宛がえと要求しているのだ」と曲解せずにはおれないのも、それが理由でした。
 フェミニストは、そしてフェミニズムを支持するリベラルは、そうした欲望を否定することを目的とした、「比喩でも何でもない、本物の悪魔」だったのです。
 実は本論は、ニコ生で岡田斗司夫氏も採り挙げていたのですが*4、そこでの彼の評価は、「こうしたものは嫌いなものにレッテルを貼ることを目的としたものであり、あまり好きになれない」といったものでした。岡田氏にここまで言われているのに、オタク左派の連中はいったい、何をやっているのでしょうね。

*2 八田師匠はピックアップアーティストに熱心なトランプ支持者がいるぞとブチ切れていますが、トランプがホワイトトラッシュを救うことをスタンスにしている以上、それは当たり前ですし(そもそも彼が大統領だというのは彼の支持者が多かったということですし)、フェミニズムを積極的に支持する人というのが現代では少数派ということも、師匠にはおわかりにならないのでしょう。
*3「俺の妹がこんなに可愛いわけがない」
*4 #239裏 岡田斗司夫ゼミ(4.21)


■総括編

「マリッジカウンセラー」というのがあります。
 要するに夫婦間の揉めごとを仲裁するのが専門のカウンセラー。
 星新一のアメリカ漫画を紹介したエッセイ『進化した猿たち』では、このマリッジカウンセラーを題材にした漫画に一章が割かれているのですが、その一つにこんなのがありました。夫同伴でやってきた夫人がカウンセラーに延々延々としゃべり、やっと一息ついて曰く。
「以上が私の言い分です。これから夫の言い分を、私が説明しますわ」。
 ――何というか、この「しますわ」という女言葉、今となっては漫画でもお目にかかれず、まさに隔世の感という感じです。しかし、そこまで「女性の女性ジェンダーからの解放」が進んだ今でも、この漫画の面白さは全く損なわれることなく、ぼくたちに伝わってくる。「女性の女性ジェンダーの恣意的運用」はこの頃も今も一切、変わっていないことがよくわかります。
 さて、この漫画を何故、ご紹介したか。
 それはこの漫画が、「ぼくたちの社会」の戯画だからです。
 前回、「男性学」の書である『男性問題から見る現代日本社会』をご紹介しました。同書の主張を一言で表せば、「女性の言い分を、今までご紹介してきました。ついてはこれから、男性側の言い分を、私たち(女性)が説明しましょう」とでもいったものでありました。
 いえ……ややこしいのは、あの本の著者の多くが男性であった点なのですが。
 しかし「男性学」とやらいうガクモンは、ただひたすらにフェミニズムに平身低頭することだけが男の性役割である、と説くものです。即ち、あの本の著者である男性たちは、実際には女性であるフェミニストたちの代弁者に他なりません。
 同書は「(女より)男が損だ」という「ネットに溢れる弱者男性たちの声」をすくい取るという、ある意味、希有なことを目的とした本でした。
 しかしそのすくい取り方自体が、既に男性側からなされている指摘(フェミニズムの欺瞞、例えば女性が男性を養わない以上、女性の社会進出に旨味はないことなど)を全てスルーすることで成り立っているという、言わば「男性側の声に反論するフリをして、実のところ男性側の声を聞いてすらいない」という偏向しきったものでした。そして、そうしたフェミニズムへの批判を全てスルーした後、ひらすらフェミに平身低頭せよと高説がなり立てる――それは上のマリッジカウンセラーを訪れた夫人と、何ら変わるところがありません。
 ここには「男性学」の不誠実さ、「フェミニズム」の思想的ダメさ以上に、重要なポイントが隠れています。
 それは「この世は、先の漫画のマリッジカウンセリングルーム同様、女性だけがしゃべることを許されたしゃべり場である」との事実です。
 これはある意味では、男性ジェンダーに深く根差した、解決しがたい問題でもあります。
 ぼくは拙著で、男性は三人称性の、女性は一人称性の主であると形容し、ワレン・ファレルは「男性は彼ら自身の司令官になったことは一度もなかった」と指摘しました。これはまた植木不等式氏による『うるさい日本の私』のレビューにあった「男は私的な怒りを発することを許容されない」との指摘とも重なります。
 そして、そうした「ぼくたちの社会のお約束」がインセルを生み出したのです。
 ちょっと前、ドクさべを批判した記事でも書きましたが*5、男は自らの感情を発露することが許されないため、それを抑圧し、蓄積していく。追い込まれ追い込まれ行き場を失った者が、アメリカだと逆切れを起こしてテロに出て、日本だと自殺する。男性の自殺率の高さは、そこが原因でした。
 当記事を読む限り、ぼくはインセルをあまり評価できません。
 しかしそれはあくまで当記事を読む限りであり、それは丁度「夫人が代弁した亭主の言い分」以上のモノではありません。前回記事にも書きましたよね。町山智浩師匠が「メニニズム」について書いていましたが(これもまたインセルとほぼ同じと考えられているものですが)それがどこまでアテになるか疑問であると。
 もちろん、ぼくもここでちょっと手間をかけてインセル自身の発信している情報に触れればいいわけですが(youtubeなどで発言しているようです)、仮にぼくがそれをしてここでご紹介しても、それが「表の社会」に採り挙げられるかとなると、はなはだ疑問としか言いようがない。
 つまり男は、その「男性ジェンダー」の罠に縛られ、自らの声を上げない。仮に例外的に上がった声があっても、世間の方がそれを許さない。その合わせ技で、ぼくたちはただ「悪」として断罪されるしか、なくなっているわけです。
 ――といった辺りがまあ、インセルについてのぼくの私見ということになりますが……さて、実のところ八田師匠の記事には続編とも言うべきものがあります。
 さんざっぱら腐した師匠ですが、何というか、この続編では師匠の目論見が男性たちの苛烈な現実に脆くも崩れ去る……とでもいった想定外の展開を迎えます。
 今回敢えてほとんど言及しなかった本田透――即ち、アメリカの先を行く日本人男性の到達し得た最先端の見識――についての話題も交え、更なる地平へと、あなたをご招待することができるかと思います。

*5 ドクター差別と選ばれし者が(晒し者として)選ばれた件