兵頭新児の女災対策的読書

「女災」とは「女性災害」の略、女性がそのジェンダーを濫用することで男性が被る厄災を指します。

俺の妹がこんなに可愛いわけがない

2010-11-11 20:32:31 | アニメ・コミック・ゲーム

「女性様のミカタ」でいらっしゃるインテリ様たちが同時に「セクシャルマイノリティ様」のミカタをなさること、そして返す刀で男性という名の存在悪を徹底的根源的絶対的に否定する「正義のミカタ」でもあらせられることは、拙著にも書きました。
 彼らにとって何より肝要なのは「マイノリティ認定された人」、言い換えれば「正義であると既に社会的に認定され、その価値観の揺らぐことのない人」を絶対的聖者として崇め奉り伏し拝み、彼ら彼女らと利害を異にする者を徹底的根源的絶対的に殲滅するという、正義の遂行なのです。
 そして言うまでもないことですが、彼らは男性たちの中でも悪の権化であるオタクという存在を徹底的根源的絶対的に叩いて、ついでに小銭を稼ぐネタにすることで資本主義の手先を出し抜く正義の闘士でいらっしゃいます。
 いずれにせよオタクはいついかなる場合でも決して肯定してはならぬ絶対悪だ、と言うことですね。


 さて、ひるがえって本作です。
 本作の主人公・京介はごく普通の高校生男子。彼の妹・桐乃は容姿端麗、文武両道でモデルまでやっている超リア充の女子中学生なのですが、実は重度のオタク。モデルで稼いだ金をバンバンエロゲーにつぎ込んでいます。
 妹に嫌われ、交流のなかった主人公がふとしたきっかけで妹のオタク趣味を知り、それを理解すると共に彼女と交流を持っていく……というのが本作の主題です。
 桐乃ちゃんは自らのオタク趣味を公言できない、後ろめたいものと自覚しており、当初は兄にも隠し、バレてその助力を乞うようになってからも父に、親友にオタク趣味を悪し様に言われ、兄貴はそんな妹をかばってオタク趣味を理解してあげるよう、父や親友相手に奮闘します。
 即ち、丁度のび太がドラえもんに甘えることが『ドラえもん』最大の見せ場であるように、本作の最大の売りは「桐乃ちゃんが自らのオタク趣味を京介たちに理解してもらう過程」にあるのです。
 男性読者にとっては、自分に可愛いオタク趣味の妹がいたらなあという願望を充足できると共に、「恥ずかしいオタク趣味」を持っているのが妹であるというエクスキューズを用意してもらうことでワンクッション置いて話を見ることができるという、非常に高度な仕掛けになっているわけですね。これに近い構造を持った俺のプロットを没りやがった○○○ー○○○○や○○○○○○○○○ーの編集者は
チンパン脳なのでしょう、きっと。
 中でもアニメ版第5話「俺の妹の親友がこんなに××なわけがない」は圧巻です。ようやくオタ友だちを得ることができ、同人イベントを満喫する桐乃ちゃん。しかし折悪しくそこに学校の友人(言わば「リア充仲間」)あやせちゃんが通りかかります。
 せっかくできたオタ友だちを「知らないわ、あんなキモい連中」と呼んでまで秘密を隠し通そうとする桐乃ちゃんですが、あやせちゃんは執拗に追求。ついにペーパーバッグが破れ、中のお宝(同人誌)がこぼれ落ち、ショックを受けたあやせちゃんは絶交を言い渡してその場から去っていきます――。
 このあやせちゃんの桐乃ちゃんへの妙な(ヤンデレ的)追求ぶりは見ていて鬼気迫っており、ショックで京介に当たり散らす桐乃ちゃんの姿は見ていていたたまれません。
 作品世界では丁度、「オタクが少女にたいして起こした事件」が話題になっていたようで、それを根拠にあやせちゃんはオタクを「犯罪者予備軍」と難詰。京介は事件を調べ、ジャーナリストがフライングで事件と犯人のプレイしていた萌え系のゲームを強引に結びつけていたことをあやせちゃんに説明します。
 更に桐乃ちゃんも「あなたのこともオタク趣味のこともどちらも大事、どちらも捨てられない」とあやせちゃんを説得。桐乃ちゃんが「学内のスターである自分は決して本当の自分じゃない」とオタク文化への愛を吐露するところは非常に感動的です。ようやく二人が仲直りできたところで、大団円。
「マスコミのオタクバッシング」にたいする議論など、少々生硬さを感じさせなくもありませんが、それにしてもサブエピソードの、桐乃ちゃんから「キモい連中」と呼ばれながら、それでも桐乃ちゃんを理解してやろうとする友人たちの姿など、とにかく「わかっている人」じゃないとできない描写の連続で、単にオタクネタを日常に挟んだだけの(会話の中で「フラグが立った」と言うなど)従来の類似作からは一歩も二歩も抜きん出ています。


 ぼくが本作に感じたのは嬉しさと気恥ずかしさ、そして「とうとうここまで来たか」という感慨めいたものでした。
 というのも、元来、オタクの特性はその自己評価の低さにあったと、ぼくは考えるからです。
 いえ――自己評価、と書きましたが、自己評価=世間評価でしょう。
 オタクは自分たちが世間から白眼視されているからこそ、自己否定的であるわけです。
 80年代のアニメ誌(アニメ以外にオタク的メディアの存在しなかった当時、アニメ誌=オタク誌でした)では毎回オタクを揶揄するギャグが描かれ、オタクの「自己批判」の投書が並んでいました。こう書くと内省的で素晴らしいように思うかも知れませんが、その九割までは「
俺だけはオタクじゃない」という奇妙な自意識に支えられた、ただの現実逃避のためのものであったように思います。そう、「俺はオタクじゃない」は当時のオタクの合言葉だったのです。
 オタクが自分で自分を受けとめ(まあ、「萌えキャラ」に演じさせてはいるわけですが)「萌え文化が好きなんだ、文句あるか」と言いきるまでになった本作にぼくが感慨を抱く理由、おわかりいただけたでしょうか。


 さて、ここで冒頭の話に戻りたいと思います。
 いったい、インテリ様たちはどうしてここまでオタクを憎悪するのでしょうか。
 それはオタクの属性が男性の中でも一番弱い者、であるからに他なりません。敵と戦う時は敵のウィークポイントを攻めるのは、戦術の基本ですよね。
「オタクへの憎悪」とは「成人男性がその期待された性役割を果たさないことへの差別である」と言った論調は時折聞かれるように思いますし、ぼくもそれに同意します。しかし少なくともオタクを悪しきものであると断ずる論者たちは、基本的には「だがオタクたちも凡百の男性たちと本質は変わらない」といった落としどころに持って行く傾向にあります(『男性学の新展開』参照)。
 何より、オタクをやっつけるインテリ様たちは、しかしオタク女子についての話になると必ず手のひらを返してちやほやし始め(そうしない者はぼくの知る限り一人もおりません。東浩紀「処女を求める男性なんてオタクだけ」と平野騒動に苦言(その2)参照)、もう、「オタクへの攻撃」=「男性への攻撃」であるということは火を見るよりも明らかなわけです(後、そもそも「オタク差別/男性差別」と言えばいいのですが、あまりその言葉は好きではありません。これについては長くなるので、また次回)。


 本作に関して、その意味では、主人公のオタクを美少女にしてしまったことは「一歩、退いている」という評価も可能でしょう。
 また、なまじ少女にしてしまったがため、未成年がエロゲーをプレイしているという事態にもなっています。桐乃ちゃんのオタク趣味が父親にバレ、京介が父親を説得する話があるのですが、当然、父親はそこを突いてきますし、ニコニコ動画でも本話が流されたことがありますが、父親の言葉にたいしては「正論だ」という反応が並んでいました。
 もう一つ、桐乃ちゃんの京介の扱いの非道さは半端なく、そこに不快感を表明する人もいるでしょう(兄貴が彼女の家に長居していると、桐乃ちゃんは留守の兄貴の部屋のドアを蹴りつけるなど、見ていると彼女の兄貴への嫌悪はツンデレでしかないとわかるのですが)。
 しかし、ぼくにとっては、それらはさほど気になることではありません。
 ぼくが気になるのは、「オタク」を「美少女」にする手法と、堺市立図書館におけるBL本騒動との近似性です。
 この事件はフェミニストが、「市立の図書館にエロ本を置け」とのどこからどう見ても狂っているとしか言えない主張を、「女性差別だ」とのワンワードで通してしまったというものです。
 全く、フェミニストたちはバカですねm9(^Д^)プゲラ

 ……しかし、とは言え、「フェミニズムのせいだ」と言おうとも、BLもオタク文化であり、また上野千鶴子センセイと並んで奇妙な陳情をした者たちの中にはオタクもおりました。
 フェミニズムはある種、女性のルサンチマンをエネルギーにして稼働する巨大ロボですが、一歩間違えばぼくたちオタクも彼女らのロボの搭乗者として選ばれてしまう危険性があるわけです。
 上にもご紹介したオタクの自己評価の低さを、ぼくは当時、決して快く思ってはいませんでした。
 とは言え、自らを「不当に迫害されているマイノリティ」と認識し、「一人称化」*1された自己憐憫の情をただ無反省に「チ/シキュウ化」*2して、「社会は私たちを認めるべき」という倒錯した信念を持ってしまった人々に比べれば、まだまともだったかも知れません。

 『ガンダム』シリーズにはロボット操縦の適正者を研究、時には非人道的な実験をも行う「ニュータイプ研究所」という機関が登場します。
 しかし、ぼくたちニュータイプは、断じて
戦争の道具ではないのです!!

 この非人道的なニュータイプ研の魔手に囚われないよう、ぼくたちも充分に注意しなければなりません。


 むろん、本作自体はニュータイプ研では、断じてありません。

 だって、桐乃ちゃんは「オタクを(オタクにとって都合のいい形で)理解してくれ」とか「そうしないやつは差別主義者だ」とか、そんなことを言っているわけではないのですから。

 ただ、彼女はあやせちゃんに「あなたのことが大切だから、仲直りしたい」と言っているだけなのですから。

 そもそも、上に書いたように美少女がオタクである、とすることで読者にたいしてワンクッション置いてあげるという本作の戦略は、作品として商品として全く正しいでしょう(もう一つ、ついでながら指摘しておくと、オタク女子の視点で見れば本作は、「素敵な兄貴が私のために奔走してくれる」という内容になるわけで、見れば見るほどうまい構造を考えたものだ、と唸らざるを得ません)。
 そんなことは充分に理解した上で、ぼくたちは桐乃ちゃんに倣い、「志高く、誇りを持って、18禁ゲームをプレイ」しましょう。
 ですが、同時にぼくたちは世間がそれにたいして必ずしもいい顔をしないことも知り、それをも受け容れていかなければ、ならないのです。


 次回!
 マイノリティがそんなに清らかなわけがない!


*1物事を感情的、精神的問題として捉えたがる、女性に多く見られる傾向。「他人の苦しみにシンパシーを感じる」など、よい方向で発揮されていればいいのですが、一歩間違えると「痴漢冤罪問題に取り組むなんて、女が嫌いなのね」というわけのわからないリクツを言い立てるようになってしまいます。
*2女性が世の中の問題を「一人称化」して捉え、そのリクツで社会に働きかけてしまい、その結果、社会が恐ろしい災いの危険性に晒されている状況。痴漢冤罪などまさしくその代表と言えるでしょう。




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ぼくと彼女の有意義な会話――北原みのりさんとの往復ツゥイート

2010-11-06 22:19:52 | 北原みのり

 堺市立図書館のBL本問題でフェミニスト、そして彼女らに唱和する人たちのエキセントリックさが浮き彫りになりました。
 もし日本が近代国家であれば、公共の施設で女子小学生にエロ本を貸し出すなど、考えられない話なのですが、この国は迷信の支配する中世の社会なのですから、仕方がありません。
 中世社会において、人の生来の「身分」は絶対です。
 あらかじめ生まれ持った「性別」が「正義」の側に属していれば、その人物は「正義」なのです。
 いかなる状況下に置かれようが、いかなる振る舞いをしようが、その「正義」が揺らぐことは絶対にありません。
 仮に、もしもの、ifの話ですが、一般的に「正義の味方」であると信じられている存在が悪いことをやっていて、しかしその悪行が映像に記録されていたとしたらどうでしょう。人間の心理として、ぼくたちはその事実を認めるのが恐ろしく、映像を葬ってしまうのではないか。万一、その映像がyoutubeなどに流出でもしたら、まず流出させた犯人捜しの方に躍起になってしまうのではないか……
あくまで想像ですが、そんなふうに思えます。


 さて、以前にも書きましたとおり、ついついツイッターで北原みのりさんをフォローして、ついついそのツィートに返信してしまい、彼女としばし、議論(……?)をしました。
 正直、フェミニストと話が通じるとは思ってはおりませんでしたし、むしろ彼女がこれだけこちらと向きあって話してくださるとは予想しておらず、それは大変にありがたいことでした。ご本人は「誠意を持って話したつもり」とおっしゃっておいでで、その言葉に嘘はないでしょう。
 反論を受けて事実関係を歪めた返答をして、相手をブロックして逃走――というその振る舞いは何だか東浩紀センセイを彷彿とさせますが、しかしそうは言ってもこれだけおつきあいいただけたのですから、上等だと思います。
 さて、しかし残念なことに、両者の対話(……?)は残念ながら既に、外からは見えなくなっているようです(すみません、ツィッターのシステムに疎くて適切な表現ができません)。
 それももったいないので、ここに拾い上げておきたいと思います。
 ちなみに言うまでもないことですが、ツィッターは最新の発言が上にきますが、ここでは当然、下に行くに従って新しい発言となっています。
 また、自分側の誤字や誤表記は最低限の修正を施しています。


minorikitahara性犯罪の話をすると必ずと言っていいほど、”女に陥れられるかも”ということだけしか頭にないアホな男から、男も大変なんだ、とか言うコメントがくる。恥を知れって、思うよ。
3:34 AM Nov 1st webから


hyodoshinji@minorikitahara 「男も大変だ」と思います。「恥を知るべき」なのはあなたかと。
6:23 AM Nov 1st webから minorikitahara宛


minorikitahara痴漢冤罪という言葉が嫌いです。頭に痴漢をつけると、とたんに、女と男の闘いにはしゃぐ人が出てくるから。ただ、冤罪、でいいじゃない。そして、警察と闘ってくれよ、と思うわよ。
6:20 AM Nov 2nd TwitBirdから


hyodoshinji@minorikitahara 今まで「女と男の闘いにはしゃ」ぎ続けてきたのはあなた方かと。自分が不利になったとたんそれはあまりにも卑怯でしょう。
4:45 PM Nov 2nd webから minorikitahara宛


minorikitahara@hyodoshinjiえ!あなた方って、誰のことですか? あたしは、男女差別と戦ってきたけど、何が卑怯なんですか? 痴漢冤罪を男女の闘いにするのは不毛という意見の、どこが、卑怯か教えて。
6:29 PM Nov 2nd TwitBirdから hyodoshinji宛


hyodoshinji@minorikitahara 「痴漢」を男女の闘いにするのが卑怯でないのであれば、同時に「痴漢冤罪を男女の闘いにする」のも不毛でも卑怯でもありません。
10:59 PM Nov 2nd webから minorikitahara宛


minorikitahara痴漢冤罪といえば、あたしは、長崎満の顔が、忘れられません。痴漢冤罪被害者の会を立ち上げ、その後、電車の中で盗撮して捕まった男。 あたしは、長崎満と本を出し、講演会をしました。そのことをずっと悔やんでいて、一度目の裁判にも、二度目の裁判にも通いました。
6:44 PM Nov 2nd TwitBirdから


minorikitahara長崎満をサポートする発言を私は一度もしていないけれど、「痴漢えん罪」も「痴漢」も満員電車でおこるんだという「幻想」を産んでしまうような、そんな言説に力を貸してしまったんじゃないかと、そういう意味でずっと悔やんでいました。
6:58 PM Nov 2nd webから


minorikitahara初対面の時、彼から「痴漢えん罪被害者の会」の名刺をもらいました。カラーの顔写真入り。営業マンみたい、とうさんくさい顔をする私に彼は、「僕の母もフェミニストでしたよ。だから僕はフェミニストが好きなんです」とニコニコと話しかけてきて、気持ちが萎えたことを覚えてます。
7:03 PM Nov 2nd webから


minorikitaharaそれでも、私は彼と本を出し講演会を共にしました。痴漢えん罪被害者の声が大きくなると同時に、本当の被害者が声を出しにくくなってはまずいと思ったから、長崎満と同時にほえとかなきゃっ! と思ったからです。
7:05 PM Nov 2nd webから


minorikitaharaさらに、痴漢えん罪の映画や本の中に滲むミソジニーは許せないものがありました。痴漢えん罪被害者の中には被害者のことを「小娘」と称す者もいた。(引用者註・小泉知樹『彼女は嘘をついている』文藝春秋、2006のこと)メディアでも、男の社会的信用が失墜する重さばかりを取り上げ、知らぬ男に身体を利用される悔しさが無視されているように、あたしには見えました
7:11 PM Nov 2nd webから


hyodoshinji@minorikitahara ラジオでも近いことをおっしゃっていましたね。しかしぼくが同書を読んだ限り著者にミソジニーがあるとはどうしても思えませんでしたし、そもそも相手の女子高生を「小娘」と記述しているのは本文中二回だけでした。
10:44 PM Nov 2nd webから minorikitahara宛


minorikitahara被害者はどちらか、という話ではなく。性犯罪を本気で根絶するための道を、どのように探っていけるのか。という視線が、痴漢えん罪被害者たちを盛り上げる言説に、まったくもって感じられないことが不思議でした。だったら、痴漢えん罪とか言うな。ただえん罪と言え、と思いました。
7:15 PM Nov 2nd webから


hyodoshinji@minorikitaharaフェミニストは「根絶」という言葉を好んで使いますが、基本的に「根絶」は不可能です。しかし性犯罪は一件でも減らしたい。そのためには冤罪を誘うような捜査や裁判のあり方を変えていかねばならないのです。
10:46 PM Nov 2nd webから minorikitahara宛


minorikitaharaだらだらと書いていると、脳裏に焼き付いちまった長崎満の顔が迫ってきて息苦しいな。二度目に逮捕された時、長崎満は裁判所で、最後まで警察を批判していました。証拠がそろっていました。目撃者も何人もいました。それでも自分の罪には一切触れず、権力を批判する男。とても見苦しかったです。
7:21 PM Nov 2nd webから


minorikitahara女が嘘をついているというのなら、痴漢えん罪被害者も嘘をついている可能性だってある。女が男を陥れるというのなら、男が女を陥れることもある。だけど、そんなこと言い続け「嘘つきはどちら」という戦いは不毛すぎる。だからこそ、性犯罪を本気で憎み、根絶する姿勢を、大切にしたいの。
7:23 PM Nov 2nd webから


hyodoshinji@minorikitahara 違います。男も女も、人間は嘘をつく生き物なのです。それを不毛というならそもそも全てにをあきらめる他ないでしょう。
10:48 PM Nov 2nd webから minorikitahara宛


minorikitaharaで。ま、私は日々日々女たちにバイブを売り、男の性欲にあまりに寛大なこの国の男に、てめーらたいがいにしろよ、と吠え続ける所存なわけでございます。おしまい。
7:25 PM Nov 2nd webから


hyodoshinji@minorikitahara ちょっと前にあった図書館におけるBL本の騒動。あれを見ただけでも日本は男性の性欲よりも女性の性欲に何百倍も肝要な社会であることがわかりますねwおしまい。
10:49 PM Nov 2nd webから minorikitahara宛


minorikitahara@hyodoshinji 笑えます。お尻触ったのは二回だけ。だからたいしたことないよ!ってのと同じ理屈。あとミソジニーって感じる感性がないと感じられないものですよ。残念ながら。
3:32 PM Nov 3rd TwitBirdから hyodoshinji宛


hyodoshinji@minorikitahara ラジオであなたは「小娘という言葉をすごい使う」とおっしゃっておいででした。二回は「すごい」ではないかと。それとミソジニ。まさしくそうなんですよ。「感じる感性がないと感じられない」。つまり「言った者勝ち」なんですよね。まるでナントカ冤罪のように
11:25 PM Nov 3rd webから minorikitahara宛


minorikitahara@hyodoshinji 差別って、回数なんだね、あなたにとっては。感じない人にミソジニーはない。俺が感じなければ、それはないことと同じ。という人たちが、差別を見えなくし、その深刻を深めていくのよ。
7:17 PM Nov 4th TwitBirdから hyodoshinji宛


hyodoshinji@minorikitahara 「差別」が「回数」なのではないです。「回数」を水増しすることが「差別」なのです。「私が感じればそれはいかなることであろうと差別認定する」という人たちが差別を見えなくし、その深刻を深めていくのです。
約24時間前 webから minorikitahara宛


minorikitahara@hyodoshinji あー、差別じゃなくて、逆差別! ってやつに、ご興味があるんでしたね。噛み合わないですよ。あと、差別の水増ししたとは、考えてません。小娘、という言葉を複数使い方貶めた事実は事実ですから。
約23時間前 TwitBirdから hyodoshinji宛


hyodoshinji@minorikitahara なるほど、北原様的には一冊の本で二度「小娘」と記述があったことを「すごい(頻度)」と捉えたというわけですね。それはまあいいでしょう。
約23時間前 webから minorikitahara宛


hyodoshinji@minorikitahara 後、「逆差別」という表現にはあまり意味はないでしょう。「俺がミソジニーを感じなかったからミソジニーはないのだ」というのが傲慢なら、「私が感じたからあるのだ」というのもまた傲慢だ、というだけです。
約23時間前 webから minorikitahara宛


hyodoshinji@minorikitahara そして「あったのだ」というのであれば、そう主張する方が「どこをそう感じたのか」を表明すべきです。痴漢行為や大量破壊兵器と違って、証明は容易なのですし。
約23時間前 webから minorikitahara宛


minorikitahara@hyodoshinji まとめて返信。差別を訴えることにより、ある種の人々の既得権が奪われことを、「差別」とは名付けず考えたいと思います。私は傲慢な女だと自覚してますが、あなたが傲慢とは書いてません。痴漢えん罪キャンペーンのミソジニーについて、様々な媒体で表明してます。
約20時間前 webから hyodoshinji宛


hyodoshinji@minorikitahara 「差別を訴えることにより(以下略)」そんな考えは受け入れられないでしょう。差別者/被差別者というのは流動的多義的なものでその立場は入れ替わりうる。それをあなたは正当化しているだけです。被差別者なのだからといって何をしてもいいわけではありません。
約20時間前 webから minorikitahara宛


hyodoshinji@minorikitahara 「痴漢えん罪キャンペーンのミソジニーについて、様々な媒体で表明してます。」それらは全て、今回の発言と同じ瑕疵を持っていると考えます。
約20時間前 webから minorikitahara宛


このユーザー(北原みのり)があなた(兵頭新児)をブロックしたため、フォローすることができません


minorikitahara@hyodoshinji それは残念。でも、あなたを納得させる必要はないかな。「差別は容易に証明できる」との発言に新鮮を感じつつ、強姦裁判の理不尽を訴えたツイートが、あなたのような人を刺激し痴漢えん罪の話になっていく流れが、感慨深い。十分誠実に対応したつもり。これにて失礼。
約18時間前 webから hyodoshinji宛


hyodoshinji@minorikitahara「強姦裁判の理不尽を訴えたツイートが、あなたのような人を刺激し痴漢えん罪の話になっていく流れが、感慨深い。」あなたが痴漢冤罪の話をしていたので返信したわけですが。そうした客観的事実があなたの中で歪曲されていく流れが、感慨深い。
約16時間前 webから minorikitahara宛


hyodoshinjiパターン青消滅使徒は完全に沈黙しました
5分前 webから


 以上、両者の言葉が見事なまでに噛みあっていないことがわかりますw
 噛みあわないはずです、彼女の書き込みをまとめれば彼女は、


・性犯罪の根絶が最優先事項であり、それまでは男性が冤罪被害に遭うのはやむなし。
・女性は被差別者であり、その「地位」は揺らがない。同様に差別者である男性は何をされようと差別者。
・同様の理由から女性は任意に男性の言動を「ミソジニー」認定する権限を持つ。


 と考えているのだと判断せざるを得ません。
 彼女の最後の捨て台詞は、実はこちらをブロックしてからの発言なので、わざわざ彼女のページまで行かないと読めなかったんですが、どう好意的に解釈しても「客観的事実」をねじ曲げています(念押ししておきますが、「痴漢冤罪」騒ぎに物申していながら彼女は、平然と「事実関係」をねじ曲げられる人なのです)。

 また、痴漢冤罪の被害者たちを「ミソジニーに満ちていて許せない」と断言しておいて、「どこが満ちているのか説明しろ」と迫られると「『差別は容易に証明できる』との発言は新鮮」などと言って逃げるのはあまりにも卑劣でしょう。問題になっているのは一冊の本だというのに(それと、ぼくも冷静さをなくして指摘するのを忘れていますが、そもそも「小娘」呼ばわりされてる少女って、見る限りこの男性を故意に冤罪に陥れてるんですよね)。
 先日、ぼくはフェミニストたちについて、「『わたしたちは差別されてきたのだ』という感情があまりにも強くて、冷静な判断ができなくなっている」と形容しましたが、それはやや古い認識だったかも知れません。

「痴漢冤罪という表記をやめ、冤罪に統一しろ」と絶叫する北原みのりさんから感じられるのは、焦りの感情です。そもそも、「痴漢冤罪」を「冤罪」に変えたところで何かがどうなるわけでもないのですから。
 彼女の中にあるのは、「いついかなる場合でも女性は被害者なり」との固定観念を「うちゅうのほうそく」だと妄信していた、しかしこの女災社会において「うちゅうのほうそくがみだれる!」ことに由来する(無意識裏の)焦りの感情であるように思えます。
 その意味で『女ぎらい』が異様に古くさかったのは(痴漢冤罪はおろか、草食系男子も婚活も、一切話題に上らない!!)、上野センセイは北原さん以上に逃走本能が発達しているからなのかも知れません。その意味において、いまだ上野センセイは衰えていないのかも……と今更ながらに認識を改めねばとすら思います。
 しかし、とは言え、それでは彼女らがその焦りの原因を意識に登らせて、考えを改めるか……となると、それは疑問です。
 ぼくたちの棲むこの社会は、中世の身分制社会なのですから。
 そもそも、フェミニズムが没落したのは上に挙げた
グランドクロス現象によるところが大きいとは思います。
 しかし、とは言え、「うちゅうのほうそく」の乱れ、グランドクロス現象に一番大きな被害を受けたのはある意味フェミニストたちであり、一般ピープルたちは(下手をするとフェミニストたち以上に)「いついかなる場合でも女性は被害者なり」との法則性の中に安穏としています。
 だから一般ピープルのほとんどは今回の騒ぎをもし見物していても、「何か、男と女でもめてるな。女の味方をした方が得策だろうな」というバランス感覚を働かせるだけでしょう。
 それは丁度、
痴漢冤罪の被害者を集団で暴行した、大学生たちのように。



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今さら堺市立図書館BL本問題

2010-11-04 19:50:05 | アニメ・コミック・ゲーム

 旧聞に属しますが、堺市の市立図書にBL本が置かれ、ちょっとした騒ぎになったことがありました。
 少し調べてみたのですが、どうも市民からの苦情を受け、一時は廃棄処分にしようとしていたらしいのですが、我らが上野千鶴子大センセーをトップに頂く市民団体が騒いで、廃棄を差し止めさせたようです。
 彼女らの提出した「特定図書排除に関する住民監査請求書」から抜粋すると、


 堺市立図書館において、本年2008年7月頃、市民や市議らの強い要求を受けて、特定の図書が開架から排除され、廃棄処分されようとしている。しかし、それは許されない違法な行為であるから、速やかに当該排除、廃棄行為を中止しもしくは現状復帰すべきである。


 などと、大真面目に書かれています。
 正直、こんな大事件(?)に今更のように気づいて蒸し返すぼくも相当なトンチキですが、こんな明らかにコートムケーなタワゴトを批判しようともしなかった世間の方も、かなりのノータリン揃いでしょう。
 フェミニストたちもゲイも「オタクの自由を守る活動」をしている人たちも、一切の疑いなくBL本を図書館に置くのが正しいことだ、と絶叫しています。どうもBL本の排除は女性やホモへの差別というリクツのようですが、ならば百人が百人とも思いつくであろう「じゃあ、男性向けの萌えエロ漫画も図書館に置くべきなの?」という疑問には、答える意志はなさそうです(これはフェミニズムの物言いの全てにおいて当てはまるのですが、彼女らは「わたしたちは差別されてきたのだ」という怨嗟の念があまりにも強くて、あらゆる場合に冷静な判断ができなくなっているように思えます)。
 そういう人たちの主張する「表現の自由」って、信頼できます?


◆堺市図書排除問題で住民監査請求/上野千鶴子「日本中、どこで同じようなことがあっても、闘うだろう」
http://blog.goo.ne.jp/teramachi-t/e/ce5d38b68fa265aeb91fb6e3cf97ed3c
◆現代版・焚書する人たち/ 「図書館から不健全図書(BL等)を排除しよう!」 という人たち
http://blog.goo.ne.jp/teramachi-t/e/248497f9024264b314b9f0770f0ee6af
◆堺市の図書排除問題/第二次申し入れの賛同人の募集・明日まで/その他の各種情報
http://blog.goo.ne.jp/teramachi-t/e/d87d23bdaeb5285b31111bf04d96f962
BL(ボーイズラブ)系作品は有害なのか? <大阪府堺市の市立図書館がとった対応を巡って>
http://www.news.janjan.jp/living/0811/0811111248/1.php
カルトvsオタクのハルマゲドン/カマヤンの虚業日記
http://d.hatena.ne.jp/kamayan/20090414/1239646227


 さて、では目下のところ、この図書館ではBL本をどのように扱っているのか。
「まだ撤去していないのでは」とPONさんにご教示いただき、ちょっと電凸してみました。
 電話に出られた男性は、まず、BLという区分けはしていないとおっしゃっていました。今時男性向けのラノベでも過激なものはありますし、それは当然のことです。
 それらの図書(大ざっぱにライトノベルと言っていいでしょうか)は購入時にイラストをチェックして、過激なものの購入は控える方針でやっていらっしゃるそうです。本来は文字を重視すべき気もしますが、なかなかそこまではやれないのでしょう。
 しかし、既に購入してしまったものについては?
 何しろこの図書館は既にBL本を購入してしまっています(その冊数、5499冊、購入額は
366万8883円也、と言います)。
 それらの本は現状では一応、閉架状態になっている(つまり、利用者の目に触れない書庫に入れており、借りたい人のリクエストに応じて取ってくる)、という状態になっているとのことです。
 しかし、子供さんがもし、リクエストをしたら?
 担当者さんは「たいていは成人が借りる」「もし子供が借りにきたら配慮は必要と考えている」と言葉を濁していらっしゃいましたが、やや突っ込んで尋ねると、「今のところ、年齢制限はしていない」との答えが返ってきました。
 今まで「子供が借りにきた」という報告が上がってきたことはない、とのお話でしたが、正直、では事件から一年ほど経った今に到るまで、「子供が借りたケースは皆無」かとなると、それはちょっと考えにくいように思います(相当数が借りられていると言いますし)。
 一方、どうも「貸し出しに年齢制限を作る」というのが図書館の建前としてやりにくいことのようで、こういう、「理念とゲンバの事情の齟齬」というのはどこでもあることですし、この年配であろう担当者さんには同情しなくもありません。
 とは言え、記録は残るんだし、いろいろ言われないうちに対策を立てるべきだと思うのですが。あくまで想像ですがBL本の購入もまた現場での貸し出しも、おそらくは腐女子の司書さんが確信犯でやっていらっしゃるのではないでしょうか。
 仮にこれが男性向けのエロ本だったらどう考えても騒ぎはこんなものでは収まらなかったでしょうし、女性向けだから大目に見られていたことは、疑いようがないでしょう。それを「女性への差別だ」と言い立てるフェミニスト(や、それに唱和する者)たちはやはり、いい気なものだと言う他ありません。


 実はこれに近しい事態って、幾度も起こっています。
 古くは地方自治体がO-157にたいする子供向けの啓蒙ゲームの製作をアダルトゲームのメーカーに発注したとして、騒ぎになったことがありました。これについては『封印作品の謎』で詳しい顛末が語られています。
 最近では「さくらんぼ小学校」の騒ぎが記憶に新しいですよね。同人ゲームメーカーと同名の小学校が開校されそうになり、問題になった事件です。
 この時の同人サークル側の対応は非常に大人で好感の持てるものであり、裏腹に学校側の対応があたふたしたみっともないものであったため、前者は大いに株を上げ、後者はバッシングを受けました。
 しかし、とは言え、(本ブログでもこのメーカーのゲームを採り上げたことがあり、ネガティブなことを書くのは心苦しいのですが)この件でことさらにオタク側を正義の側、被害者の側にばかり置くのもどうかと、ぼくは感じます。

 例の「追突されたようなものだ」発言*1も、ぼくたちの視点からは「追突してきたのはそっちだろう」という話になりますが、学校側の視点から見るとどうでしょう。果たして「小学校」という名を冠したアダルトメーカーが存在し、しかもその内容が小学生とやりまくるものっであった、そんな反社会的なメーカーがおおっぴらに存在していたという事態が、果たして一般の、おそらくはネットにも疎いおっさんに、想像がついたでしょうか。
 おそらくオタクだと想像できる批判者の言葉に、「さくらんぼと言えば年若い少女の性的なメタファだって言うことは当たり前だ」といったものがありましたが、少女そのものが性的であること、いや、小学生の少女を性的な目で見ているというぼくたちの振る舞いこそが反社会的であるのですから、それこそレイプしておいて「女が俺を誘ったのだ」というのに近い暴論です。
 市長の「こちら側が改名すれば相手の存在を許すことになる」との発言*2も、不快なものであったかも知れませんが、とは言え、小学生とやりまくるゲームを、教職者が「でも、
非実在少年だから問題ないネ♪」と理解してみせたら、そちらの方が問題でしょう。仮に教師がこのメーカーのゲームをやっていたことがニュースになったとしたら、みなさん、大はしゃぎで教師を叩くのではないでしょうか。
 むろん、ぼくの本意はことさらにこの学校の肩を持つところにはありませんし、結局、校名を変更することになったようですが、それも妥当な措置だとは思います。
 ぼくが言おうとしているのは、単純に「この種のものは裏文化であり、不快感を示す人が大勢いることは当たり前だよね」と言うことです。ネットは裏か表かと言われると、既に即断できないところにきていますし、件のサークルの対応には非があるとは思いませんが。


*1小学校の存在する市の市長は校名変更の会見後に、「交通事故に例えるなら、(向こうから)ぶつかって来たような感じだ」と所感を述べ、ネットにおいて「順序から言えばぶつかったのはお前だろう」といった声が聞かれることになりました。
*2当初、市長は「校名を変えればアダルトの世界を正当化することになる」と発言して、校名は変更しない方針を示していました。


 そもそもが80年代末に起こった成人コミック騒動も、「子供向けにしか見えない絵にもかかわらず、エロ漫画であった」ことが問題の発端でした。むろん、ぼくたちは別に「規制を逃れるため」子供向けっぽい絵を描いていたわけではなく、あくまでも「そういう絵が好きだった」だけに過ぎません。しかし(この騒ぎそのものはいろいろ問題含みであったとは言え)「エロ漫画がエロ本扱い」を受けること自体は、当たり前のことです。
 BL本も商売としてみれば「エロ本コードをつけずに売れるのでおいしい」といった側面があります(腐女子と想像できるブログでアダルト扱いを受けたら
BLは絶滅する、と主張しているのがありましたが、そんなわきゃありません)。おそらく、「規制」によっていっぺんにメシの種のなくなってしまう「隙間産業」の人々もいるかとは思います。
 ていうか、俺か。
 確か、文章は基本アダルト指定を受けないと思うので。
 そうした人々はそうした人々で文句を陳情していくべきではありますが、それは上の「図書館では貸し出し制限をしにくい」というのと同じ次元での、「忖度すべき、ゲンバの事情」であって、別に「表現の自由」といった高尚な問題では、全くありません。
 そしてまた、それと全く同じ理由で、これらは「オタク差別」といった高尚な問題では、全くありません。


 つまり、それこそ二十年前の成年コミック騒動の頃ならともかく、既に社会の一大勢力になってしまったオタク文化は、闇雲に権利を叫ぶのでなく「いかに、その反社会性を世間と折りあっていくか」という戦略が求められていると言うことですね。
 そこでただ被害者意識に振り回されて権利を振り回しているだけでは、図書館に怒鳴り込んだあの人たちの二の舞になってしまうのではないでしょうか。
 ですから、やはりここはやはりあの人たちと歩調を合わせることには慎重であるべきです。
 少なくとも「
萌えフォビア」とかいう言葉を使うと、後々恥をかくことになるかも……という気はします。もしぼくたちオタクがあの人たちの甘えきったロジックを間借りしてしまったとしたら、容易には後戻りが聞かなくなりそうですから。
 というところで、長くなりそうですので続きは次のエントリで。


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チェリーボーイの味方・上野千鶴子の“恋愛講座”

2010-11-03 18:44:38 | レビュー

・女の子を誘うことはゲームだと割り切って、とにかく十本だけ電話をかけまくってみてください。十本電話をすれば、必ず一人は応じてくれます。私が保証します(笑)。
・女友達は恋人の在庫と心得るべし、です。
・相手に五センチ近づいても逃げないか、なんていう確認をしながら、女の子に一歩一歩近づく努力をしてみることです。そのうえで、強引に一気に迫るというのも男の子の技術ですから、それをためらってはいけません。


 おお、なるほど!
 実にタメになります。メモメモ!
 ――と、ことほど左様に、バブル期の日本では恋愛マニュアル誌というモノが流行っておりました。拙著にも書いたように、当時はそんな雑誌の中、「毎号毎号違った女どもが座談会を開いては口々に好き勝手なことをわめき散ら」していたのです。
 あ、今はお座敷がかからなくなって、自主的に「女子会」を開いて「
ガールズトーク」にいそしんでいらっしゃるようです。乙カレー。
 さて、それではこの数々の卓見が並ぶ「恋愛講座」、いったい誰の筆によるモノなのでしょうか?


 はい、上野千鶴子大センセーでした。
 別冊宝島『女がわからない!』の中に書かれた、「チェリーボーイの味方・上野千鶴子の“恋愛講座”」からの抜粋です*1。この別宝というのも、いかにも当時(1990)の浮っついた空気を象徴するかのようですね。いえ、このムック自体は大変面白いものだったのですが。
 ぼくにとっての上野センセイというのはこうした
イケイケギャル(笑)的、オヤジギャル(笑)的キャラづけの先生というイメージが強く、上の記事でも(一方では「性の多様化」みたいなことも言っているものの)


 女の子は、自分から努力もしないで待っているだけですから、こんなに楽で横着なことはありません。


 などと結構さばけたことも言っており、当時のぼくは彼女のそんな面をある程度、評価してもいました。
 ただ、ところが、この先生はいざ『現代思想』にお呼ばれすると、「美人コンテストなど、奴隷が綿摘み競争をやっているようなもの」などと言い出してしまうのです。その二枚舌ぶりを知るに及んで、当時のぼくは大変に驚いたというか、混乱しました。
 そもそも彼女が世に出たきっかけは『
セクシィ・ギャルの大研究』(1982)という、当時よく読まれていたカッパ・サイエンスという新書のレーベルから本を出版したことでした。内容は(二十年前くらいに読んだのをうろ覚えで書きますが)要するに肌も露わなセクシィ・ギャルの広告写真をいっぱい並べ立てて男の目を惹き、しかる後、「こんなの女性差別だ!」と言い立てるというだけの、他愛のないものです。
 言わばこのデビュー当時は彼女にとって、(まあお他所から「セクシィ・ギャル」の写真を引っ張ってきてのこととは言え)性的な言説を語ることで男性たちからちやほやされる、そして同時にフェミニズム的な主張をして、そんな自分たちに寄ってくる男性たちをやっつけるという、彼女の中の女性としての欲求とフェミニストとしての欲求がバランスよく適えられていた、非常に幸福な時期だったのでしょう。
 しかし上の記事に象徴される時期は、一方では華々しい「女の時代」であり、「フェミニズムバブル」でもあったのですが、その一方では「行動する女たちの会」などがまさしく広告写真などにたいして「女性差別」であると噛みつき、世間の反感と失笑を買っていた頃でもありました(事実、同会はこの数年後に解散したように思います)。
 機を見るに敏なセンセイはそうした時代の趨勢を感じ取り、生き残りのために大衆の耳に快い言葉を語る仕事も(しかも結構楽しそうに)こなしていたのでしょう。むろん、『現代思想』では本来の主張をするわけですが、どうせ両誌の読者層なんて全然被りませんし
 いずれにせよ、当時はアッシー君だミツグ君だと言われていた時代です。オンナノコに翻弄されて途方に暮れている童貞クンに上から目線でご高説賜う上野センセイの筆致は、これ以上ないくらいに輝いていました。
 その意味で、上野センセイの二枚舌は必ずしも彼女の特異なキャラクターに帰せられるべきものではなく、ある意味、フェミニズムが根源的に持っている矛盾(「男が困っている、ざまあみろ」という心情と、「いや、しかしまだ女は差別されているのだ」と怨み節を語らざるを得ないという営業上の事情)を考えればむしろ必然的なものであるように、ぼくには思えます。


*1ただし、「チェリーボーイの味方」といったタイトルをつけたのは編集者のようで、本人は心外らしいことをどこかで漏らしていましたが。


 さて、今までのエントリにおいて、ぼくは「ミソジニー」という言葉を、ただ「女性差別」という言葉を言い換えただけの、「おニューの古着」に過ぎないと説明してきました。
 しかし、こうしてみると上野センセイは大昔から、「ジャーナリスティックに時流に乗った仕事をこなす」脳と「古拙で頑迷なフェミニズムを主張する」脳を分化させ、場に応じてごく自然に使い分けていらっしゃったのだということがわかります*2。
「ミソジニー」という言葉はそれらのノウハウを生かし、古色蒼然としたフェミニズムのロジックをジャーナリスティックな格好いい、目新しい横文字に言い換えることで人口に膾炙させる、彼女の手口の総決算とすら言えるかも知れません(「ミソジニー」という言葉を日本に持ち込んだのが彼女かどうかは、知りませんが)。
 そして、これはあくまでぼくの想像ではありますが、上に書いた90年代初期の上野センセイの「さばけ」ぶりが、「行動する女たちの会」の失墜を鑑みての政治的戦略であったとするならば。
 ぼくたちはもう少し冷静に、センセイについて考えてみなくてはなりません。
女ぎらい』を読むと、上野センセイは妙に萌えヲタに理解がある素振りを見せています。
 現実の子供に危害を加えるペドファイルにたいしては厳しく糾弾しつつも、萌えヲタは彼らとは別だとして比較的肯定的に語る部分については、ぼくも大いに賛同できます。「非実在青少年」専門の萌えヲタというのは、センセイにとっては安全な、好ましい男性ということになるのかも知れません(もっとも「実在青少年」に興味のある男性にとっては、許容できない考えになってしまいますが)。
 とは言え、センセイのリクツからはどうしたってポルノは絶対悪にしかならないはずです。男性タレントの「女性を守りたい」という発言すら絶対に許すことのできない「女性差別」発言であると言い立てるセンセイが、児童ポルノ法に反対してみせていることは、前にも書いたようにやはり、不思議だと言わざるを得ません。
 むろん、この点についてもしセンセイに問いただせば、「ポルノをよしとはしないが、法で規制することは更に好ましくない」といった模範解答が返ってくるかも、知れません。
 いえ、もし彼女がそこまでラディカルに語れば、むしろぼくは彼女のその正々堂々としたスタンスそのものには、好感を持つと思います。
 しかしぼくがどうしても理解できないのは、児童ポルノ法に反対している人々が、往々にしてフェミニズムに親和的な言動を繰り返すことです。
 むろんフェミニズムは「左翼」であり、反対運動をするのも「左翼」である以上、両者に親和性があるのは当たり前といえば、当たり前です。が、しかし、性表現の規制に反対する人々がフェミニズムに全く無批判でいるとしたら、それはまるで神の手を持つ外科医が確かなメスさばきで執刀しつつ、しかし細菌というものの存在を知らず、術中、全く消毒していない、というような状況に近いでしょう。
 昨今、ネット上などにおいては「ラディカル・フェミニズム」と「リベラル・フェミニズム」との違いを強調したがる人の姿が目につきます。後者は性表現などに寛容な、好ましい、正しいフェミニズムである、との主張が多いように思います。
 また、「ウヨフェミ(=右翼フェミニズム)」などという「非実在フェミニズム」を持ち出すことで、いわゆる普通のフェミニズムへの攻撃をかわそうとする論調も、度々目にします。
 ぼくはその両者とネット上で話したことがあるのですが、いずれもその主張は支離滅裂で、全く要領を得ないものでした。
 ウィキペディアで「フェミニズム」の項を見ても、


 フェミニズムは、近年、リベラル・フェミニズムと、ラディカル・フェミニズムとが対立している。フェミニズムの思想は多様であり、一本の思想と考えることはできない。


 ラディカル・フェミニズムをフェミニズム全体を代表するものとして一般化するのは間違いである。リベラル・フェミニズム勢力のように女性が楽しめるような非暴力的なポルノを肯定する勢力もある。


 などと、かなり作為的な記述がなされています。
 むろん、フェミニスト同士というのは大変に仲が悪いわけであり、この対立を強調する筆致は、必ずしも対外的な意図にばかりよるものとは言えないかも知れません。
 また、リベラル・フェミニズムが「表現の自由」を重視する人々であるというのもおそらく、嘘ではないとは思います。
 しかしぼくたちは、あれほど「さばけて」いるかに見える上野センセイが一皮めくれば田嶋センセイもびっくりの男性への怨念と憎悪にまみれていることを知りました。あれほどチェリーボーイの味方だと言っていたのに、『女ぎらい』を読むと「非モテ論壇」にたいして、「男ばっかり性的弱者を名乗りやがって、女を無視するとは許せない(大意)」という相も変わらず幼稚園児レベルの理論でバッサリです。
 にもかかわらずぼくたちは今、非常に無思慮なことに、フェミニストたちと歩みを共にしようとしつつあります。丁度東浩紀センセイが「ホモソーシャル」という「攻撃呪文」を
意味もわからないままに唱え続けるように、「フェミニストは味方だ」と盲目的に考える者が増えているように感じます。それにたいしての疑問の声は、呪文を唱える声のあまりの大音量に掻き消され、どこからも聞こえてはきません。
 上にリベラル・フェミニストは「非暴力的なポルノ」であれば認める、とあります。
 かつてフェミニストたちは「ポルノ」に変わる新たな性表現として「エロチカ(笑)」という概念を提唱していました。上野センセイも「わたしたち女性は女性差別であるポルノを認めない。しかしエロチカであれば楽しむことができる」などと大真面目におっしゃっていたのです。その意味で「非暴力的なポルノ≒エロチカ」と考えて、まず間違いないかと思います。
 では、その「エロチカ」とやらはいったい具体的にどんなものかとなると、さっぱりわかりません。そもそもが「従来の男性性/女性性」を一切認めない先生方が、いったいいかなるポルノであればお認めになるというのでしょう。てか、当時から上野センセイが『風と木の詩』を大絶賛なさっていたことを考えると、まあ何となく見当はつきますが。
 ぼくたちはずっと、思考を停止したままフェミニストたちにはいはいと頭を垂れ続けてきました。その結果が、BLは強制的に公共の図書館に置かれ、男性向けの性表現はバッシングをされ続けるというこの奇妙な社会であることは、もう間違いがないわけです*3。
 いかにフェミニストたちが「表現の自由」を絶叫しようとも、彼女らと歩調を合わせることについて、ぼくたちはやはり、もう少し慎重であるべきでしょう。


*2『男おひとりさま道』など、その意味では上野センセイにとっては「別宝」の記事くらい、男性に「サービス」して書かれた本である、ということなのかも知れません。
 また、センセイがその場その場でかなり言うことが違う場当たり的、もう少し言葉を選べば多重人格的なキャラクターであると言うことは、昔から小浜逸郎さんや大塚英志さんから指摘されています。
*3これについては長くなりそうですので、次のエントリで。


●付記●


よせばいいのについついツィッターで北原みのりセンセのつぶやきに噛みついてしまいました。果たしてどうなりますやら。



●付記● (2016/01/24)


『女ぎらい』を再びレビューしたついでに、五年ぶりの付記をつけさせていただきます。 本稿における「ラディカル/リベラルフェミニズム」についての論考はネットで流布しているデマを信じていた時期の、正確さに欠けるものです。 リベラルフェミニズムというのは端的には「既に滅びたフェミニズム」であり、現行のフェミニストはほぼ全員がラディカルフェミニストです。 そこを、フェミニストはポルノを容認しているのだと強弁したい人々が、ミスリードを誘うために、言葉の定義をねじ曲げた、と言うのが実情です。詳しくは「重ねて、ラディカル/リベラルフェミニスト問題について」などを参照のこと。

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