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兵頭新児の女災対策的読書

「女災」とは「女性災害」の略、女性がそのジェンダーを濫用することで男性が被る厄災を指します。

「ミソジニストよ、〈フェミニスト〉たれ:風流間唯人a.k.a.兵頭新児への挑戦状」を読む(その4)

2025-08-24 19:20:33 | 弱者男性


 またまたウィックジェイ氏から反論がありました。
 まあ、正直言うと(申し訳ないですが)あまりこっちはモチベが沸かないでおります。
 両者が全然噛みあわず、これ以上続けてもあまり意味がないなと感じているからです。
 が、このまま無視するわけにも行きません。逐次、反論を加えましょう。
 いつも通り、山本弘調(になっているのか?)です。
 では、そういうことで……。

 もっとも、そうは言っても今回のウィックジェイ氏の反論、前回同様専ら「伝統主義フェミ」についての、あまり反論になっていない反論ばかりで、前回も指摘した白饅頭の件(引いては左派に言論の自由がない件)、女が家庭に入りたがるのは政府の陰謀だという件、何とかポイントの件も、反論はなかった(「何とかポイント」という表現が不満だとのお気持ち表明はあった)。
 もっとも、「伝統主義フェミ」についても、似たようなものと言えば似たようなもの。


それを無視しているかのように私が「『伝統主義フェミニズム』という『存在しない概念』をでっちあげている」ように言いふらしています。


 先の記事でウィックジェイ氏は「伝統主義フェミ」という表現も語弊がある、と言っていたにもかかわらずぼくがその言葉を使い続けたことに対して、不満を述べているのだ。
 それに続き、敢えて言えば「家庭重視フェミ」とでも称するべきと言っているが、しかしぼくの文章の「伝統主義フェミ」を全て「家庭重視フェミ」に変えたところで、論旨は全然変わらない。
 何しろ彼自身がぼくが以下のように言っているのを、引用しているのだ。

「伝統主義フェミニズム」というものがもしあるとするならば、国が主婦を優遇していることをこそ、よしとするはずなのだから。


 ぼくは、ずっと「彼の言うフェミがフェミでも何でもないこと」をこそ、指摘している。
 しかし、それに対する反論もせず、ウィックジェイ氏は「兵頭は自分の記事を自分の好むように解釈してくれないぞ」と「指摘」しているだけなのである。
 その後、彼は伝統主義だか家族主義だか、どっちでもいいけど彼の脳内にしか住まわないフェミが「主婦の優遇に異を唱えたことがあるだろうか(いや、ない)」などと言っているのだから、むしろぼくの言うことを裏書きしてしまっている。
 ぼくは彼が愛する人を守るため、家族制だの主婦だのに親和性を持つ、ごく一般の女性をフェミニストだ、と強弁していることを批判してきたのだけれど、いまだ彼は、そこが理解できないままなのだ。

 次に彼は参政党の「高齢女性は子供が産めない」との発言をフェミが叩いた、しかし彼女らもまた「男が埋めるのウンコだけ」などと言っていた、つまり自分の妊孕性を肯定しているから、スタンスは同じだ、などと言い出す。フェミが参政党に批判的なのは、ただ党派性で保守を否定しているだけだ、というのが彼の考えだ(この人の文章は意図が取りにくいのだけれど、まあ、普通に読めばそういう解釈になると思う)。
 もちろん、そんなわけはない。妊孕性に縋るからこそ高齢出産の否定を受け容れがたいと考えた方が自然だ。しかし、彼にとっては自分の嫌いな者は保守派でなくてはならず、「ウンコだけ」の連中を保守派だと言い募っている。言うまでもなく、社民の福島瑞穂師匠も共産の吉良佳子師匠も保守なのだ。
 そして肝心の「事実婚」問題については以下のように言う。

ですからそもそもこのような「社会的営為としての結婚」も「肯定」・「否定」の二元論で捉えるべきではない話です。


 わけがわからない!
 当初、「フェミ(のほとんど)は社会的営為としての結婚を否定しない」と言っていたのは彼の方なのだから、今さらそんなことを言われても困る。批判に返せず主張を撤回した、と言われても仕方がないだろう。
 この後、「「事実婚という選択肢の存在」を暗示しているものは決して少なくな」い、などとも言っているが、暗示なんて言われても困るし、そもそもそんなのはぼくが既に「結婚率が高かった頃のフェミは次善の策として事実婚を選択していた」と書いている。本当に進退窮まって苦し紛れのことを言っている、としか言いようがない。
 ぼくは前回、以下のようにも書いた。

逆に言うとウィックジェイ氏の主張は「国家」はワルモノだが、ほとんどの市井の「男性」は善良であるとの前提の上でこそ成り立つ。しかしフェミがそんな考えを抱いているとは、とても思えない。


 それに対し、彼は驚くべきことに以下のように返している。

そんなこと言ったらフェミニズム以前の「結婚が当たり前だった時代」では、ほとんどの市井の「女性」は善良とされていたとでも言うのでしょうか。


 また全然、噛みあっていない(笑)。
 言うまでもなくぼくは「ウィックジェイ氏の妄想する、フェミの見解」を分析して見せたのだが、彼はそもそもそこを読解できず、どうもぼくの主張を「社会全般の通念」について語っているのだと思い込んでいるようだ。
 一体何をどのようにすればこのような誤読ができるのだろうか。

 次に第四波フェミニズム(柴田英里師匠)についても書かれているのだが、これもぼくの指摘と何ら噛みあっていない。
 時々、相手への反論に窮して、対話を止め、一人言を言い出す人がいるが、彼もそのフェイズに入っている。
 その証拠に、結局彼はぼくの指摘に何一つ反論を加えることのできないまま、以下のように言い出すのだ。

ここからはコメント欄に書かれたものの反論になりますが、私はここで敢えて「楽観的だ」というよりも「どうやって実現するつもりか?」という観点から反論していきたいと思います。


 そんなことは本編にまともに答えてからにしろ(笑)!!
 ここで引用されているのは、「フェミを潰せばどうにかなる」というぼくの基本スタンスなのだけれど、彼は「そもそも、フェミなど高齢者ばかりだから、何もしなくてももうちょっとしたらみんな死ぬ(大意)」と言い出し、以下のように続ける。

そうなったら生き残るのは「家庭を重視する側」です。


 じゃあそれでいいじゃん(笑)!!
 いや、もちろん、そんなはずはない。
 ここまで異常なまでのフェミブームが起きているのはそもそも、女性が(フェミニズムの成果として)結婚から遠ざけられたからなのだから、フェミニズム側は(彼の夢想する「家庭重視」ではなく)普通に結婚を憎む女をいくらでもスカウトして、教育して、学者としてのフェミに育て上げるルートを持っており、事実、若い連中はいくらでも育っている。
 しかしそれは措くとして、彼の主張の過ちは(フェミ様をお守りするために)「伝統主義フェミ」でも「家族重視フェミ」でも何でもいいけど、「普通の、女」を「非実在フェミ」に仕立て上げているところにある。
 ぼくの主張は要するにそんなのは「ただの、女」だ、そしてフェミを潰すことで、女を「ただの、女」に戻すべきだ、というものなのだけれど、彼はいまだ、両者のスタンスの違いについて、理解の端緒にすらついていなかったのだ。
 その後も、彼は以下のように続ける。

せめて「親世代の夫婦観に絶望している…すなわち親が離婚再婚を繰り返していたり、父親が一家の大黒柱と言えど長時間労働・休日出勤・出張・単身赴任ばかりで定年するまで父親の顔もほとんど見たことがないような人」にも分かるように説明してほしい


 離婚そのものがフェミの思想と親和性があることは、いくら何でも彼だって知っているはずで(つまり、フェミを潰せば離婚率が下がるのは自明なのだから)、そもそも前提がおかしいし、ここにはフェミ大好きさんの陥りがちな罠が隠れている。
 以前もぼくの「昭和回帰論」に噛みついて、「自分のおばがDVに遭っていたからダメだ」などと言い出した人がいた。
 ぼくは昭和が一切の問題がなく、全人類が幸福なパラダイスだった、と言っているわけではない。ただ、今よりマシでしょ、と言っているだけだ。
 そこを、昭和でも家族制でも結婚でもいいんだけど、そのネガティビティだけを持ち出して「定年するまで父親の顔もほとんど見たことがない」なんて極論を唱えるのは、もう頭が偏見で凝り固まっている証拠だ。
 これはそれこそバブルの頃にフェミがよくしていた「男社会批判」で、彼はその頃から頭が止まっているとしか思えない。それに昭和の時代は休日が少ないなど、労働時間は今より長かったけれど、今の方が短時間で成果を求められ、労働が高密度であるといったことも言われている。今の方がいいとは全然言えないのだ。
 ここは、ウィックジェイ氏に限らず、(或いは保守寄りの人でさえ)「フェミ教育」があまりに浸透し、そうした昭和なり家族制なりのネガティビティばかりが世に流布されており、それに瞞されきっているという面もあるかと思う。
 結局、最初から、彼は、家族制だけが憎く、それを認める者をこの世から排除するまで、止まらない人なのだ。実際、彼は「女性の妊孕性を深く憎む」と明言しており、何というか、一般的なアンチフェミとはまた違う感情的動機が、内在しているように思われる。

 今回の彼の「反論」は悪いけれども、今までで一番質の悪いものとしか言いようがない。
「対話」が成り立っておらず、先に書いたように単なる一人言以上のものではないからだ。いや、前回辺りからそれは顕著だったけれど、今回は一人言と言うより、ジャイアンリサイタルになってしまった。
 ぼくはずっと「彼はフェミではなく妊娠、結婚できる一般の女をこそ憎んでいるのだ」と指摘し続けてきたのだけれど、彼は今回、「お~れ~はジャイア~ン、フェミではなく妊娠、結婚できる一般の女をこそ憎んでいるぜ~」と歌い出してしまった。
 彼は敬愛するフェミ様を正当な批判から守る「人間の壁」として「ただの、女」を選んだ。一生結婚できなさそうな、そして結婚を否定しているフェミより、最初から彼は結婚、出産している彼女らの方が憎かったのだから。
 いや、彼が最初から「だからフェミ様は正しいのだ、悪いのは一般の女だ」と主張しているのなら、わかる。
 ところがコソクなのは、彼の文章を見ると「フェミニスト」という言葉をある時は明確に「学問、思想としてのフェミニズムを支持する学者や文化人」という意味で使っておきながら、ほとんどの場合では「普通の、女」を指す言葉として使っている点だ。フェミ様への批判を一般の女への攻撃へとすり替えるために。
 ここまでは表現の自由クラスタなどにもよくいるタイプなのだけれど(青識師匠など、ここしばらくの主張には賛成できる点が多いのだけれど、先日、やはり近いことを言っていた)、どうもウィックジェイ氏は天然なのではという気がする。
 それは恐らく「フェミ様は天地創造の神であらせられる」という左派の聖書の記述と、世間で(何なら左派界隈でも)のフェミの評判の悪さとのダブルバインドの末に、こうした二重話法(一つの言葉に相反する二種の概念を込めること)を獲得してしまったが故のことではないか。
 前にも書いたことがあるけれども、カルトの信者は一方では会社員など市井の人間としても暮らしている。そのため、認識がチャンネルするようになっており、彼ら彼女らの中では「1+1=5である。と共に1+1=2でもある」といった認識が生まれてしまっているのだ。
 そして、それを「敵を煙に巻く」「市井に紛れる」ために使っているならいいのだけれど、少なくとも彼の場合は、自身がそれに絡め取られ、言動がメチャクチャになってしまっているようにしか見えないのである。

「ミソジニストよ、〈フェミニスト〉たれ:風流間唯人a.k.a.兵頭新児への挑戦状」を読む(その3)

2025-07-26 20:06:57 | 弱者男性


 ――noteの方で、ウィックジェイ氏との論争が続いています。
 本稿自体はnoteの方では今月頭に投稿したもので、これ以降も延々やり取りが続いています。
 正直ウィックジェイ氏の方はこちらと対話できているとは言えず、こちらも閉口しているのですが、まあ、男性差別論者の陥りがちな罠を語るという意味もあると思うので、採録しています。
 また、今回も前回同様、山本弘文体を目指しています。
 では、そういうことで……。

 まず今回の反論は、ほとんど「フェミニストは結婚を肯定したか」問題について費やされているのだけれど、そこでウィックジェイ氏はこんなびっくりなことを言う。

そもそも「結婚制度を否定する」といっても、夫婦同姓原則などの「法的な結婚制度」を否定するのか、「社会的営為としての結婚制度」を否定するのかではかなり違います。前者の意味ではほぼ全てのフェミニストが「否定」しているわけですけれども、後者の意味で真に「否定」しているのはクィアフェミニストのさらに一部といったところです(彼女らの中にも「同性婚を実現する」だけのためにやっており、バイセクシャルやポリアモリー、パンセクシャルからの批判対象である「一夫一婦制」やフィクトセクシャルからの批判対象である「対人性愛主義」を事実上肯定している例は多い)。


 むしろクィアフェミニストなんて(彼が指摘する通り)同性婚が大好きなんだから、それこそが結婚を肯定する少数派(しかも同性婚だけ)なのではないだろうか。
「法的な結婚制度」と「社会的営為としての結婚制度」は違う、とは言いも言ったりで、確かにただ「結婚」と言った時、それは法制度を指すことが多いだろう。実際、思想上の理由から籍を入れない、と称するフェミも見たことがある。恐らく八〇年代くらいまでは事実婚を選ぶフェミも多かったのだろう。しかしそれは、社会全体に結婚しろ圧が高かったところが大きい。
 彼が言うようにほとんどのフェミが「社会的営為としての結婚」を肯定しているというのは本当だろうか(否定しているのは一部だと断言している限り、彼の主張はそうしたものだとしか言いようがあるまい)。
 読み進めると、彼は以下のようにも言っている。

前項で述べたように「社会的営為としての結婚制度」をしっかり否定している論客というのは実はそんなに多くありません。


 これは、悪いが詐術だと思う。
 先にも書いたように結婚とだけ書けば、それは通常、法的制度を指すだろう。そこを逆手にとって「実は社会的営為としての結婚は否定していなかったんだ」と強弁しているだけのようにしか、ぼくには読めない。
 そもそも医学的に定義づけられたわけでもない、「何かそう自称してる人がいる」だけの「フィクトセクシュアル」なんて単語を出している時点で怪しいんだよなあ。
 それとも「事実婚はOKだ」と明言しているフェミが大勢いるんだろうか。あくまでそうだと言うなら、著名なフェミの著作を明示して欲しい。
 例えばアンドレア・ドゥオーキンは「結婚制度は奴隷制度だ」と言ったわけだが、それが事実婚となったとたんに奴隷制度でなくなると考えていたのだろうか。もちろんそんなことはない。彼女は「あらゆるセックスはレイプだ」と言っていたのだから。そうでなければ大勢のフェミがポルノの撲滅を望むわけがない。
 逆に言うとウィックジェイ氏の主張は「国家」はワルモノだが、ほとんどの市井の「男性」は善良であるとの前提の上でこそ成り立つ。しかしフェミがそんな考えを抱いているとは、とても思えない。だからこそ第二波以降の、即ちほぼフェミの100%がジェンダーフリー推しであり、それは男性のジェンダー規範を全て書き換えたいと望むが故なのだ。恐らくだが彼の主張は、国家をこそ強く憎む左派故の、フェミに対する幻想から生じたものなのではないだろうか。
 何しろ彼はぼくの批判した上野千鶴子師匠の結婚までを擁護的に語っており、そりゃ、そこまでフェミがお好きなら、フェミの言もいいように取るだろうなあとしか言いようがない。
 ところが、フェミの主要な概念には(ぼくがよく指摘するところだが)「強制的異性愛」というものがある。「そもそもが、女は男のことなんか好きじゃなかったのに、男が女を支配するために異性愛を押しつけたのだ」というウルトラトンデモ理論だ。
 そして、誰もが一度は耳にしたことはあろう「ホモソーシャル」という理論も、前提にこの「強制的異性愛」がある。つまり、ここまで人口に膾炙するメジャーな概念は、このウルトラトンデモ理論を認めてこそ成り立つものなのだ。今日ではホモソーシャルという言葉自体が手前勝手にねじ曲げられて使われているが、そもそもこの概念には「結婚自体が男の陰謀」という妄想が前提されており、最初から「強制的異性愛」と近い概念なのだ。
 或いは、ウィックジェイ氏は反論するかも知れない。
「そんなわけはない! 仮にフェミがホモソーシャルという言葉を口にしたからといって、強制的異性愛の概念が前提視されていると知っているとは限らない。白饅頭がそうであるように、フェミがそこまで頭がいいわけがないではないか!」
 確かにぼくも実のところそう思う。この点について、著名な学者のフェミでも知らない人がいるんじゃないだろうか。
 しかし、「だから多くのフェミは強制的異性愛という概念に与しているわけではないのだ」などと言われても、困る。仮にそうであるなら、フェミが無知で無思慮であることの証明に他ならない。彼女らが「(社会的営為としてのものならば)結婚を積極的に肯定している」ということの証拠には、ならないのだ。というか、ほとんどのフェミはそんなムツカしいことは考えてない可能性が、一番高いんじゃないだろうか。
 それに第一、一万歩譲ってウィックジェイ氏の主張が正しいとしても、ほとんどのフェミが「法制度としての結婚」を否定しているのなら要するに、それは「伝統主義的フェミニズム」ではないってことだろう。「伝統主義フェミニズム」というものがもしあるとするならば、国が主婦を優遇していることをこそ、よしとするはずなのだから。

 さて、ぼくは前回、以下のように言った。

以降、彼の主張はフェミ内部で伝統主義的フェミニズムの勢力が強まっているといったものになるが、もちろん根拠は一つとして示されない。彼はそれが本になっていると言うが、そもそも論としてこの人の記事には、フェミの著書など一冊も出てこない。


 それに対する反論として、ウィックジェイ氏はどういうわけか「第四波フェミニズム」とやらを持ち出す。

そして今日のフェミニズムは「第4波フェミニズム」と呼ばれています…つまり既に「第3波フェミニズムとも一線を画すフェミニズムの在り方」としてフェミニズム界隈・業界からも捉えられているわけです。


 嘘である。
 確かに近年、この第四波という言葉をよく聞くようになった。「SNSを中心に活動するフェミです」と。
 しかし第四波にことさら、今までのフェミと一線を画する部分などない。ところが彼は、こう続ける。

ですから今の「第4波フェミニズム」の動きは本質的に「書籍主体」ではないのですが、確かにいくつか「書籍化」されたものもあり、あえて挙げるとするならば、次のような本があります。


 そして、例示するのが……。



 ぎゃははははははははははは!!
『だんなデスノート』って、フェミによって書かれたものだったんだ!!
 彼にはその辺の主婦の投稿を集めた本が、フェミ本として認識されているのだ。なるほど、そりゃあ「従来のフェミと一線を画してる」だろう。何しろ書いたのはフェミじゃないんだから。
 いや、フェミ大好き左派って常にこうなのだ、学問上のフェミニズムとは何ら関係ない著書や、フェミでも何でもない人物を持ち出しては話を誤魔化してしまう。前回述べた「ウヨフェミ」もそうで、ドゥオーキンは国家によるポルノの規制をよしとするからウヨフェミだと言う人もいるが、そうなると近年の行政に入り込んだフェミは全員「ウヨフェミ」になってしまう。
 この著作は結婚制度に乗っかっているのだから伝統主義フェミニズム(先に書いたようにそんなものはないのだが)の本なのだ、というのが彼の言い分だが、そうなれば既婚者全員が「伝統的フェミニスト」になってしまう。
 また、上には「第四波は書籍主体ではない」とあるが、それはおかしい。フェミは年間一〇兆の予算を湯水のごとく使っており、ゴミクズのような本を毎日のように出版している。第四波フェミニズムに実態があるなら、本が出ていないわけがないのだ(後述するが、敢えて言えば第四波を代表する書籍ってロクサーヌ・ゲイ辺りじゃないかなあ。この人は学者ではないし、ゴミレベルでは『だんなデスノート』とさほど変わらないとは言え)。
 またもう一冊、太田啓子『これからの男の子たちへ』も「主婦の立場からのフェミニズム」とされているが、いくら何でもメチャクチャすぎる。これが「伝統主義フェミ」なら話題の「息子をフランスへ送り返した弁護士」も「伝統主義フェミ」だろう。
(もう一冊、洋書が例示されているが、それはモルモン教の教徒の「主婦系トラッドワイフインフルエンサー」とのことで、フェミとは関係なかろう)。
 ここまで来ればウィックジェイ氏の振る舞いは、ぼくが前回言った通り、「フェミではない者を指し、『ヤツこそがフェミだ、撃て!』と騒いでいるだけ」だということは明らかだ。
 何のために?
 もちろん、フェミ様をお守りするために、だ。

 もう一つ、ちょっと余談になるが、素朴に疑問に思ったことがある。
 第四波フェミニズムというのは多分、十年前くらいから言われ出したことだ。当初の定義は上に書いたように「ネットで活動します」というだけのもので、その意味ではまさに「ツイフェミ」とイコールで結んでしまっていいような存在だ。
 ならばフェミ様をお守りするためにも、「第四波」を悪としてスケープゴートにする作戦は有効では?
 かつて、ホントはリベフェミをスケープゴートにしなきゃいけなかったのに作戦指令書を読み間違えてラディフェミをワルモノにしてしまった過ちは、もう二度と繰り返すな!
 いや――ぼくの目には今回のウィックジェイ氏の言もまた、フライングではないかと思われるのだ。
 というのも、ここ二、三年、表現の自由クラスタのこよなく敬愛する「真のフェミ」であらせられる柴田英里様が、やたらとこの「第四波」を推しているのだ。彼女がおっしゃるに「第四波」の特徴はネットで活動していることに加え、インターセクショナリティを主眼とするのだ、というもの。
 インターセクショナリティというのは「包括姓」とでもいった意味で、要するに他のマイノリティとも手を組みますよ、みたいなことなのだが、フェミとLGBTの関係性が深いのは昔からだし、ブラックフェミニズムみたいなことも昔から言われているし、少なくとも日本のフェミは昭和の時代、障害者運動と関係が深かった。つまり思想としての「新ネタ」がどこにあるのかわからず、柴田師匠が何故この概念を振り回したいのか、よくわからない。
 となると、「今までのフェミとは異なるフェミニズム」という(偽の)看板を掲げることこそが、師匠の目的なのではないだろうか。フェミニズムの害悪性はもう、深く知られてしまった。いかに主婦をフェミ呼ばわりしようとごまかせるものではない。インターセクショナリティというのは単に流行の言葉だから言ってみただけであり、ポリコレの潮流に乗っかりたいというのもあろうが、対外的にはTERFと一線を画したい、との思惑もあるんではないだろうか。
 つまり、「フェミ延命作戦」遂行中のウィックジェイ氏と柴田師匠、目的は同じでも手法が異なり、対立的になってしまっているのだ。
 ちなみに先に第四波の代表としてロクサーヌ・ゲイを出したが、まさにこの人は黒人フェミなのだ。著作にもバカみたいなことしか書かれていないのだが。

 さて、今回のウィックジェイ氏の反論、主な部分は以上で、白饅頭の件(引いては左派に言論の自由がない件)、女が家庭に入りたがるのは政府の陰謀ではないという件、何とかポイントの件も、反論はなかった。まあ、言い返すこともできなかったのだろう。
 それどころか今回の彼の弁は「一般的な主婦こそが悪だ」という信念に貫かれており、ぼくが前回した指摘を肯定する形になっている(もちろん、その是非については、対立しているのだが)。
 最後に、「女性から女の妊孕性を奪う」という彼のビジョンについて、ぼくは反社会的だと指摘したが、それに対して短い返答があった。

正直「それが何か?」としか。こういうことは新しい技術が出てきた時、あるいはそれが市井に普及しそうになった時にヘンな評論家からよく言われることです。古くは「ゲーム脳」・「ゲーム依存症」だの言われたし、マスメディアオールドメディアも「やはりSNSを活用していったほうがいいのではないか」みたいな機運が高まるまでは、自分達の覇権が失われてしまうことを恐れて「ネット文化」を事あるごとに潰しにかかっていたのはあなたもご存知ですよね。


 うわああああああ!!
 この人の頭の中は、どうなってるんだ!?
 こんな雑な立論をされたって、このリクツでは「新しい技術は何でも正しい」ということにしかならない。ならば核兵器も善きものなのだからバンバン爆発させよう、ということになってしまう。
 ぼくのした、「ファシズムだよ、それは」との指摘には返答がなかったが、内容はむしろそれを認め、居直るかのようなものだ。
 結局、彼は「女一般(いや、社会一般)」を憎悪し、それを根源から崩壊させることを善だと考えているのだ。
 確かにぼくも『だんなデスノート』が好ましいと考えているわけではないが、その辺のバカ女のガス抜きになっているだけまだしもマシだと思う。逆に言えばそれを許すと同時に「カミさんぽっくり教」(というのを、昔ビートたけしが提唱していた)をも許すことが、健全な社会だろう。しかし後者が許されないのは、別に『だんなデスノート』を買って読んでいるバカ女のせいではない。そう、ウィックジェイ氏がこよなく愛する人たちこそが、その原因なのだ。
 彼女らはそれ以上に、核兵器なんかよりも遙かにおぞましい「新技術」だと、ぼくは思う。
 そしてこうなれば彼が彼女らを偏愛する理由も、もう明らかだ。
 この世を刷新する、「大量破壊兵器」としてのフェミが、彼には、否、彼らにはどうしても必要だったのだ。
 今までぼくは彼を(いや、彼らを)シャア・アズナブルに準えてきた。
 だがそんな生やさしいものではなかった。
 彼らはクラックス・ドゥガチ、だったのだ。
 ということで彼の名台詞で、本稿を締めたい。

「そうだとも! 人工子宮? 第四波フェミニズム!? そんなものは言葉の飾りだ!」
「ワシが真に願ってやまぬものはただ一つ!! 紅蓮の炎に焼かれて消える地球そのものだ!!」


風流間唯人の女災対策的読書・第71回 高橋留美子の誇り高き敗北――男の子たちは、女の子と対等になりたかった

2025-07-20 19:56:20 | 弱者男性
風流間唯人の女災対策的読書・第71回 高橋留美子の誇り高き敗北――男の子たちは、女の子と対等になりたかった


 いわゆるリベラルと称する連中は「弱者男性」に対し、「弱者故にマチズモにしがみついているのだ」と信じて疑いません。「オタクはか弱い少女をレイプするコンテンツが大好きだ」と(デマを根拠に)絶叫することで食べている者もいます。
 しかし果たして、それは正しいのでしょうか。
 オタクコンテンツは何物でもない男の子たちが等身大の自分の願望を発露させた、「裸の男性性」とでも称すべきものです。それを黎明期にまで遡り、彼らがウソにまみれていることを確認しましょう。


「フェミニズムでは救われない男たちのための男性学」定点観測  第8回分

2025-06-29 20:15:23 | 弱者男性


 男性ヘイトの旗手、藤田直哉師匠の記事がのレビューです。
 もっとも数日前、第九回が発表されているのですが、それには手が回りません(というか一読して今までのものといっしょなので、あまり語ることもありません)。今回は第八回です。

「20:80の法則」「負の性欲」「暴力性モテ」を検証する - 晶文社スクラップブック
s-scrap.com


 なるべく簡単に……と思っていたのですが、長くなってしまいました。師匠の文章は煩瑣で難渋で雑然としており、『ハルヒ』くらいに順序の混乱が見られ、『ハルヒ』くらい内容の繰り返しが多く、読んでいて頭がおかしくなりそうで、もう書かれた順番通りにツッコんでいくしかないのです。


 さて、そう言いつつもまず最初に。
 この種の「弱者男性憎悪クラスタ」とでも「男性学クラスタ」とでも「フェミの走狗」とでも称するべき人たち、具体的には白饅頭、ベンジャミン・クリッツァー、橘玲などに対し、ぼくがここしばらくずっと言っていることがありました。
 何だか彼等の間で進化心理学とやらが爆発的ブームを起こしていて、例えば男女の性差などについて肯定的に述べる傾向が大になっている。それそのものは結構だが、ならばフェミニズムなど虚妄の極みとするしかないはずなのにもかかわらず、何故だかそこは見えていない。
 要するに正義側と悪側にリモコンで操作され、立ち往生している鉄人28号のような様相を呈している、という感じなのですね。

 例えば今回の記事で藤田師匠は「80:20の法則」、「負の性欲」、「暴力性モテ」、「ただしイケメンに限る」などの、言うならアンフェ論壇における論理を俎上に載せます。
「80:20の法則」というのは、女は上位二割の男のことしか見えていない、そうした男のみを求めるというもので、師匠はこれを進化心理学的に見て女はよい遺伝子を求める傾向があるからと(そしてまたそうした実験結果もあるからと)、正しいとして首肯するのです。その意味で、「ただしイケメンに限る」もある程度の真実との評価を下しています。
 もっともそれに続き、「負の性欲」についてのデマを、相変わらず飛ばしているのには頭を抱えました。
 師匠にとって「負の性欲」とはただ「女性が性的魅力のない男性に好意を抱かれることに強い嫌悪を抱くこと」であると認識されています。こんなの、「万有引力の法則」を「ニュートンが木からリンゴが落ちるのを見て、不思議に思ったこと」と説明するようなものです。この概念の真意は、出てきた当初から、非常にわかりやすく説明されているのですが、フェミ界隈の人はそれを、絶対に理解しようとはしません。
 少々余談になりますが、考えてみてください、例えば子供に対して「万有引力」を上のように説明したとしたら、しかる後、「エーテル理論」を吹き込むことが容易になるのです。エーテル理論というのは自然科学が発達する以前の考えで、宇宙にはエーテルという物質が満ちており、リンゴが落ちるのもエーテルに流されている(木の葉が水に流されるようなもの)と説明するものです。即ち、科学を教えているフリをして、オカルトを刷り込むことが可能なわけです。

 まあ、そうした「悪の組織の作戦」についての説明はひとまず措いて、先を続けましょう。
 ともあれ僅かと言えど上の概念を認めてしまえば、フェミニズムはもう木っ端微塵に吹き飛ぶことは自明です。
 事実師匠も以下のように続けています。

 女性にこのような性質がある以上、繁殖戦略=モテようとするため、男性は「強者」「格上」になろうとする。(中略)これが、前回論じた「競争」を生み、「男性性」の構築に関連していることは明らかであろうと思う。それは、男女の繁殖戦略の「共進化」によって生まれてきたという側面がある。


 そう、フェミ共が「有害な男性性」とほざくものも、元を正せば女が強い男を求めるからであり、女に責任がないとは言えないのだと、師匠は続けます。
 まさにおっしゃる通り。ぼくが十五年前に既に言っていたことですが、ともあれこれで師匠はフェミから卒業できるはずです。
 おめでとう! おめでとう! おめでとう!
 フェミに、さようなら。アンフェに、ありがとう。
 そして全てのリベラルに、おめでとう。

しかし、それで女性を責めたり、見下したり、操作し詐欺的に搾取したり、フェミニズム・リベラリズムを否定するような方向を主張するところが間違っているのではないかと思われる。


 れれっ!?
 何でそうなるんでしょう?
 アンフェが何もしてない女性に殴りかかっているのなら問題でしょうが、おかしな意見を述べる女性やフェミ、フェミの走狗として長年男性を攻撃し続けて来たリベラルが批判されるのは当たり前でしょう。
「操作し詐欺的に搾取したり」というのは(師匠がアンフェと一体だと深く信じる)恋愛工学クラスタのことを指しているのですが、それですら性行為を強制したりといったことは(ぼくも詳しくは知らないのですが)していないはずで、ぶっちゃけそっちについては女性が自衛するしかない。しかしそれはフェミ的には絶対にあってはならないことなのです。女性が素っ裸で闊歩しても襲われない世界を作れというのがフェミなのですから。

 さて、ところが「産業構造と恋愛・性愛・結婚の変化」という節からは話ががらりと変わります。
 要するに(面倒なので思い切りはしょりますが)「一夫一婦制は決して普遍的じゃないんだよ~ん、昔はフリーセックスだったんだよ~ん」という内容です。
 ……否、師匠はここで驚くべき裏技を繰り出します。

形式的には一夫一婦制が維持されている国の多くでも、実質的に富裕層は一夫多妻制になっている。ここで「一夫多妻」とは、時間差で結婚したり、妾や愛人を持ったり、性風俗、パパ活、売春などを利用することを指して言っている。


 既に日本も一夫多妻制の社会になっていたんだよ!
 な……何だってーーーーーー!?
 往年の宮台真司師匠などを見てもわかるように、フリーセックスを称揚するのは左派のお約束です(ならば今のフェミがポルノなどに噛みつくことを藤田師匠がどう考えているか疑問が湧きますが、きっと何も考えてません)。
 愛人だ買春だは一夫一婦制の陰としてずっと存在していたわけで、それを今さらドヤ顔で持ち出されても困るのですが、師匠にとって、現代の日本の状況は以下のようなものとして認識されています。

「一夫多妻制が広まると売春婦への需要が増し、サービスの値段はつり上がっていきます。すると結婚しているよりも売春婦になった方がよいと考える女性が増えます」(p150)。そして男が余る。それが、日本でも起こっている現状ではないかと思われる。


(括弧内はレナ・エドランドとイブリン・コーンの著作からの引用らしいのですが、呆れたことに書名は書かれていません)

男があぶれる理由は、「男性間の不平等」、つまり格差拡大なのだ。


 とも指摘され、それ自体は正しいでしょうが、ならば女性差別など嘘だったわけで、アンチフェミの言い分が正しいじゃないかと思っていると、師匠もまた、「女性はむしろ一夫一婦を望むことが多」いと正しく認識しています。
 じゃあ、今の状況は誰も得をしないじゃん!
 更に師匠は、高学歴高収入の女たちは(男たちは女たちに対し、そうしたスペックを求めないがため)低学歴定収入の女たちとも争わねばならない、努力の甲斐のない戦いを強いられている、とも指摘します。ここまで来ればフェミが女性の社会進出をさせたことが全て悪いとなるはずなのですが、どういうわけか師匠はここで話をすり替えます。

カジュアルセックスを好む男性たちにいいようにされ傷つけられる女性が増大し、その憎悪や怨嗟がネットに溢れることを帰結する。そしてそれが「男性」一般と混同されることで、その恩恵を受けていない下位の者が、してもいないことを非難され傷つき苦しむことになる。


 女が上層男子にされたことの責を下層男子に負わせるという、ネットで常に見る光景を正しく指摘しています(ただし「上層男子の責を下層男子に押しつける」光景はお馴染みでも、「実際に上層男子に傷つけられた怨嗟を吐く女性」というのを、ぼくは見たことがありません。あるのは萌えキャラに文句をつける女か、本当にあったか疑わしい、或いはそもそもどこがセクハラなのか理解できないセクハラに憤る女性の声ばかりなのですが、師匠は自説のため、前提の事実を捏造しているのです)。

 更に文章は以下のように続いているのですが、本当でしょうかね。

そこで「上昇婚」をせず、学歴や収入などで自分に劣る男性とパートナーになるケースが増えているという。


 そうした革命的変化が起きているとのことで、もし本当なら全ての問題が解決し、めでたしめでたしなのですが……どういうわけか、それに続けて師匠はマリナ・アドシェイドの『セックスと恋愛の経済学』を引用します。

こうした貧しい男たちを宥めるためには単婚を法制化した方が有利なのです」(p143)


 れれっ!?

「一夫一婦制にすることによって最下段の最も貧しい男は幸せになります。女性が結婚したければ彼とくっつく以外になくなるからです。一方、彼女はできればもっと豊かな男の妻になりたいのはやまやまなので不幸になります」(p147)。


 あれあれ、先には「女は一夫一婦制を望む」と書いていたのに、もう忘れたようです。
 そもそも女ってそんなに売春婦やいただき女子になりたいんですかね(それらの中のアルファに憧れるということはありましょうが、それはあくまで一握りです)。
 そんなのに比べ、男に生活を保障され、家庭という「領地」を与えられる主婦にこそ、女性が憧れてきたことは、データからも明らかです。

 これまでは女性にそれを強いてきた。そして、そこから女性を解放してきたのが、フェミニズムの歴史である。


 はい、フェミとは女性を結婚から解放して売春婦や愛人にしてあげた、正義の味方だったのでした~~!!
 もちろん当noteをずっとお読みの方は、「確かにフェミは主婦をつぶそうとしている」ことをご理解いただいているでしょうし、また左方面のお歴々は後半の「売春婦や愛人」の辺りを見てえびす顔になっていらっしゃるでしょうが。
 ともあれ、師匠には現代の日本がフェミニストの御心に敵った素晴らしい社会であると認識されており、「しかしそれに不満を抱く弱者男性どもがテロを起こしかねない、困ったね」というのがこの連載を貫く問題意識だったのでした。

 さて、また話がコロッと変わります。

デートで奢るか奢らないか、サイゼリアでいいかどうかも、セックスを巡るコストが男性にとって増大していることの不満、エロティック・キャピタルの領域において男女が平等ではないことが不可視化されていることに対する平等要求だと言って良い。そのことは、真剣に考える価値があるのではないだろうか。


 要は男が男女不平等(女性の方が有利であること)について怒っているのは当然だとの指摘で、これまた頷くしかないもの。
 ところが以降、本稿には「ダークな性格」という概念が導入されます。何のことはない、利己的で搾取的な人物を指す言葉ですが、まあ、「サイコパス」とでも理解していいかと思います。事実、この概念を説明する中に「サイコパシー」との言葉も登場します(「サイコパス」と「サイコパシー」とがどう違うのかは本稿にも説明がないし、面倒なので調べません)。
 もっとも女にも(いただき女子など)ダークな性格なものはおり、要するに「悪いのは一部の『ダークな性格』の者だけだよ~ん、弱者男性諸君は間違えちゃいけないよ~ん」というのが師匠の主張。もちろん正論であり、その「ダークな性格」な者の中にフェミもカウントするんであれば、もっと尊敬するのですが……。
 いえ、師匠はここで驚くべきことに「草津のケース」を挙げているのです。それにもかかわらず「フェミに逆らうことはまかりならん」などとほざける師匠の感性が、ぼくには理解できません。

 ――さて、次にまた話が「暴力性モテ」は本当か、との議題に戻ります。

 これは真実だろうか? 「バカ」と見下すミソジニーは賛同しないが、悲しいことに、バスによると、どうもこれは真実の一端を捉えているようだ。それを「悪い男」パラドックスと呼ぶ。


 はぁ!?
 要するに師匠がミソジニーとして退けようとしている者が正しい、ってことです。
「バカ」と呼ぶかどうかはマナーとか人格の問題で、認識は正しいとするしかないでしょう。
 ちなみにバスとは『有害な男性のふるまい』の著者、デヴィッド・M・バスのことで、以降も同書を引用し、「暴力性モテ」が真であることが述べられます。一方、そうした(恋愛工学的)行為を繰り返す男は、女を機械のような存在として見下しがちいなるのだとも。こうなるとどう考えても弱者男性に罪はないはずで、師匠も「弱者男性」や「オタク」は性加害を犯さないと太鼓判を押しています(もっとも師匠の中では「恋愛工学クラスタ」≒「弱者男性」と認識されているはずで、本稿でもそこをつなげようとして、うっかり忘れたのかも知れませんが……)。
 が、本稿の真価が発揮されるのはここからで、これに続き、師匠は「要するに『ダークな性格』の強者男性が男女共の敵なのだから、強者男性に立ち向かえ」との結論をとってつけます。
 いや、「性加害」を犯した男は悪いでしょうが、同時に「草津のケース」を見ても冤罪という名の「性加害」を犯す女もいることは否定できない。また、繰り返すように恋愛工学的な方法論は褒められたものでなくとも強制はないのだ(ろう)から、仮に女が内省するでもなく弱者男性にその責を押しつけているのだとしたら(そうしているのだと師匠も言っているのだから)そりゃ女は最低ってことになりますって。

 まとめです。師匠は以下のように言います。

 ネット上のミソジニックな怒りの中には、置き去りにされ、見捨てられた感覚があることが多い。


 笑ってしまうのはそれに以下のように続くことです。

そして、女性が男性を粗末に扱うなら女性は相手にせず二次元美少女を愛する、などと言う滑稽に見える意見は、後者なのだと理解すれば腑に落ちる。


 そうなんだw
 二次元美少女って、単に三次元の女を恫喝するためだけに作られた存在だったんですねw ぼくたちは「本当は女が欲しくてならず、女に振り向いて欲しくて二次元美少女に萌えるフリをしている」だけだったんだよ!!
 な……何だってーーーーーー!?
 本稿の最大の特徴は、藤田師匠の恣意的な結論につなげるため、前提となる認識が極めて歪んでいるところにあります。このつまらぬ言いがかりも、近年のアンチフェミが元はと言えば萌えキャラのキャンセルへの抵抗から広がったものであることを、隠蔽しようという意図があるのではないかと想像したくなります。

 最後は「ダークな性格」の者を救おう、じゃなきゃ戦争が起こるよ~ん、みたいなハナシになりますが、まあその辺はパス(イーロン回を思い出せばまあ、お察しですよね)。
 かなり文字数の割かれている「ダークな性格」は要するに「男女共に悪質なヤツっているよね」と言っているだけで、もう、何も言っていないのといっしょ。ぶっちゃけ「有害な男性性」に言及した、つまりジェンダーに即したダークさがあると指摘したフェミの方がなんぼかマシです(フェミの問題は「有害な女性性」が「ない」との通念を利用して社会を破壊してきたことでした)。
 逆に言えばこれは、現状でフェミを正当化するには「フェミ以前」に戻る以外に手はない、ということでもあるのですが。
 また、そもそも、許より、一体に、藤田師匠の問題点は、ただひたすらに「非モテ」に拘泥し、近年の「女性に近づくのは危険」とのアンチフェミの論調から、全力で目を逸らしている点にあります。
 先にも端々で指摘したように、師匠は最初からしつらえられた結論(フェミは正しい)へと持っていくために、前提となる事実をあちこちで捻じ曲げているのです。
 相も変わらず、弱者男性が「女をあてがえ論」を主張しているとの(今までに実例が一つとして発見されたことのない)前提を自明視しているところからも、それは窺えますね。
 師匠たちは進化心理学を援用し、性差を認めるなど、確かにアップデートの気配も見られます。が、そんな撤退戦にあたふたしている間にもアンチフェミばかりか世論も、とっくに次のステージへと移っているのでした。
 めでたしめでたし。

「フェミニズムでは救われない男たちのための男性学」定点観測 第7回分

2025-06-08 20:51:55 | 弱者男性

 

 ここしばらく続けている、「弱者男性論論」についてです。
 男性ヘイト記事の騎手、藤田直哉師匠が連載の、第七回について。
 もっともnoteでは再新聞の第八回についての記事も挙げられているので、興味のある方はそちらもご覧ください。
 このサイト、最新記事を大変見つけにくい上にリンクも間違いだらけで、何とかして欲しいんですが……。
 ちなみに本稿、Xでちょっと書いたものをリライトしたもので、内容はその時とほぼ、同じです。
 それでは、そういうことで――。

 結論から書けば、相も変わらず「暴力性=有毒な男らしさ」は悪いで~ちゅ、というだけの幼稚極まる内容です。
 今回テーマとなっている『アドレセンス』はぼくが出させていただいた『ABEMAプライム』でも扱われた、「マノスフィア」をテーマとしたドラマです。
 マノスフィアというのは別にそうした組織があるわけではなく、欧米のSNSにおける、弱者男性のコミュを指す言葉。主人公の少年はそこに入り浸り、ガールフレンドを殺してしまうと言う、まあ、お察しな内容なのですが……。
 ただ藤田師匠はこれに対し、主人公の父親が男の暴力性に対峙し、それに抵抗してきた人物であることがドラマ内で描写されていること(ところが裏腹にドラマの感想でそれに言及している者が少ないこと)を指摘しています。確かにそこだけ見ればドラマに誠実に対処しようとしているかのように一見、見えるのですが……。
 ところがそこまでしておきながら結局は「暴力性=有毒な男らしさ」は悪いで~ちゅ、と関西芸人の一発ギャグのように「同じオチ」繰り返すばかり。
 途中までは真剣に考えるが、そこで脳がフリーズし、再起動してまた聖書の記述を朗読している、といった案配。
 これはベンジャミン・クリッツァー、白饅頭、橘玲各師匠が同様のテーマを語り、途中までは進化心理学の類を振り回して「性差は存在する」と語りながら、いきなり「フェミ様は正しいで~ちゅ」とそれまでと打って変わった結論をとってつけるという奇観と「完全に一致」しているのです。

 本稿の後半はかなり男性性について共感的に捉えているようなことが書かれ、そこはそれなりに賛同できるのですが、ならばフェミが間違っていたという結論にしかならないはずであるところを、何か「(男を)変えていかなければならない(大意)」とかほざいて終わり。

 マノスフィアについてもマチズモの牙城と決めつけ、「彼らは何故男らしさにこだわるのか」と首を捻る。
 ぼくも海外事情については知識がなく、その真偽を云々する材料を持たないのですが、十中八九、左派の妄想でしょう(理由は後ほど)。
 まあ、「第一次産業っぽいのが衰退したせいで男の価値が減じた、それは近代社会の必然」みたいな分析は正しいと思うのですが、「なら男らしさにこだわるのは正しいじゃん」という感想しか出てきません。
 だが、彼の入信するカルトにとり、「男らしさ」は絶対悪なのだから、そんな考えに至ろうハズもないわけなんですね。
大体、あそこまで「弱者男性問題」は「非モテ問題」でなきゃいけなかったのに、いきなり「労働問題が云々」と述べ出すのは何故か、さっぱりわかりません。
(もちろん女が労働の場に進出する一方、男を養わないという問題からは、全力で目を伏せ続けています)

 第一、マノスフィアというのは基本、SNSで展開しているはず。つまり夥しいテキストの蓄積があるはずなのです。ところが藤田師匠は教祖様たちのありがたいお言葉は嬉しげに引用するのですが、マノスフィアの声について一切、伝えようとしません。これは本連載が一貫して採用している方法論です。相手を見ず、ただ相手に向けて銃撃を続けるというのが、師匠の方法論です。
 さらに言えば藤田師匠のみならず、上に挙げた「弱者男性を語る左派」は全員、弱者男性の論調を歪め、そのソースを提示しないという悪質極まる手法でプロパガンダを今まで繰り返し続けてきました(詳細は以下の動画を)。
 上にマノスフィアについての師匠の言は「十中八九妄想だろう」と書いた理由はそれで、今まで嘘を重ねてきたのだから、上の瞬間だけ正しいことを言っているとは、到底考えられないということなのです。