兵頭新児の女災対策的読書

「女災」とは「女性災害」の略、女性がそのジェンダーを濫用することで男性が被る厄災を指します。

コビト

2017-04-28 19:35:43 | フェミニズム


 星新一については、前にも「宇宙の男たち」という作品についてご紹介しました。
 その知名度に反して真価が理解されているとは言い難い作家の、あまり知名度のない作品についてすくい上げることができたと思っております。
 それに比べ、本作は殊にネットの世界では有名な作なのですが……。



 ご存じない方は是非上をごらんになっていただきたいのですが、大体のあらすじを記しておくと、以下のような感じです。
 ネタバレされたくない方は、お読みにならないようにお願いします(なお、以降太字は小説の原文の引用部分です)。


 小さなサーカス小屋で、コビトのショーが行われていた。
 身長20cmほどの、本物のコビト。
 ショーと言っても曲芸をするでもなく、座長がただコビトをいじめるというだけの残忍なもの。
 すぐに問題になるが、座長はコビトを自分の所有物と言って譲らない。コビトもまた、ここで働かせてもらえなければ飢え死にだと状況を甘受している。
 人々はことを裁判に訴えた。
 しかし座長は孤軍奮闘、詭弁を弄し裁判費用を都合し、最終裁判所まで持ち込むが、当然そこでも敗訴。
 ついにコビトは我々と同じ人権、選挙権なども持った存在として認められた。 
 と、その次の瞬間、コビトが勝ち鬨を上げる。
「かつてなら力も武器もない我々は問答無用で一掃されていたことだろうが、時代は変わった」。
 各地で一斉におびただしい数のコビトが姿を現した。
 ここに至れれば、流血もなく合法的にコビトが地上を支配するのは、もはや時間の問題にすぎない。


 僅か5pの、ショートショートの中でも更に超短編。
 その中に極めて優れた寓意が圧縮されています。
 ネット上では外国人参政権に絡めて語られることが多く、上の動画もまた、保守派のグループによって作られています*1
 ――が。
 ぼくは最近、本作をトランプ現象と共に思い出したのです――と書くと、みなさんいかが思われるでしょうか。
 まずは、もうちょっと詳しく本作を分析していきましょう。
 星新一が本作にいかなる風刺意図を込めたかは、判然としません。
 そもそもが現在の視点からは「コビト」という言葉自体が「ヤバい」ものであり、ミゼットプロレスをつい、連想してしまいますが、本作が書かれたのは1968年。まだ「コビト」そのものにヤバさはなかったはずです*2
 設定に「コビト」が採用されたのは、言うまでもなく「弱者性」を表現するためと、ラストのどんでん返しで「わらわらと湧いて出てくる」場面を連想させたいがためでしょう。事実、コビトは前半ではオドオドとした卑屈な態度を取り続けますし、また、動画ではコビトがすごく可愛く描かれ、大変効果を上げています。
 逆に座長は実に憎々しげに描かれ、更にはコビトを助けようと奮闘する人々をト書きで「問題にすることで快感を味わう同好の士」、その活動を「だれもが、リンカーンや清水の次郎長、慈悲ぶかい王妃さまなどになったような気分になれる。」と極めて突き放して描いています。敢えて反感を覚えるような書き方をすることで、読者を逆にコビト側に肩入れするように、リードしているわけですね。
 これを外国人参政権そのものと結びつけることがどこまで妥当かはわかりませんが、「移民」の問題が描かれていると見ることは容易にできます。
 また、先にも書いたコビトの弱者性はまさに「女災」の理念と合致する、「被害者とされる者の発揮する加害者性」そのものでしょう。その意味で、この「コビト」を女性そのもののメタファーと見て取ることも、不可能ではありません。均等法前後のフェミバブルは、まさにぼくたちにとっっては「コビト」であったはずです。
 が、これは星新一作品全体に通底する特徴なのですが、あまりにもフラットでスペキュレイティブな作風が、すぐさま「○○が元ネタ」との「認定」をすることを拒絶するのです。
 例えばですが、このコビトは何故、地底からわらわらと出て来たのでしょうか。
 当時はSFブームの最盛期で、『ウルトラセブン』では毎週、いろいろな宇宙人が地球の侵略を目論んでいた頃です。ホンネを現したコビトがUFO――否、「空飛ぶ円盤」――を呼び、「我々は○○星人だ」と宣言するオチも、考えられたはずです。
 そう、或いは特撮オタクであればここで、「ノンマルトの使者」を思い出したかも知れません。これは『セブン』の中でも名作にして異色作と呼ばれる話で、「海底人のノンマルトが攻めてくるが、彼らは自分たちこそが原地球人で、今の地球人こそ自分たちを海底に追いやった侵略者だ」と主張する話です。
 これは(異説もありますが)どうしたって当時の「原日本人説」の影響を思わせます。「ノンマルト――」の脚本家とは別人ですが、『セブン』でも執筆していた佐々木守はホームドラマでも、また別な特撮作品『アイアンキング』でも「原日本人説」を扱っておりました。
 つまり、当時のそうした流れを鑑みるに、地底から現れた「コビト」はまた違ったニュアンスで解釈されていた可能性も大いにあるわけです。何しろ、星新一の祖父である人類学者・小金井良精がアイヌ人原日本人説を提唱していましたし、時代は下りますが『ズッコケ山賊修行中』でもまさに土ぐも一族が地底に潜んでいましたよね。

*1 ここでも外国人参政権に絡めた解釈がなされていますが、作品そのものは極めて原作に忠実に(言い回しなどは変えてはいるものの、イデオロギーにあわせた改変などはせず)映像化されています。
*2 本文中に「小人型チョコレート」という言葉が出て来ますが、当時はコビトチョコレートというブランドが存在しており、それが意識されていたことは想像に難くありません。


 ともあれ、そうした本作のフラットさ(換言するならば、どのようにも解釈しうる優れた寓話性)を確認した上で、もう一度、内容に検討を加えてみましょう。
 コビトは「かつてなら問答無用で一掃されていたろうから、時代が変わるまで長い時間雌伏していた」と語ります。
 つまり、何よりも「民主主義」こそが彼らの勝因であったのです。
 大体わかってきたのではないでしょうか。
 ここに着目した時、本作は「移民」の物語とも「女性」の物語とも(或いは「原日本人」の物語とも)取れると同時に、トランプ現象の話にもなり得るのです。
 本作において、確かにコビトは「敵」「異邦人」として描かれてはいます。
 が、そこにひとまず目をつぶれば、コビトは「男性」に見えてくるのではないでしょうか。
 ぼくたちは「コビト」です。「居ないことにされていた人々」です。
 リベラル寄りの人々は「女性」であるとか「セクシャルマイノリティ」であるとかを「居なかったことにされていた」と称し、そうした人たちを担ぐことが大好きですが、じつはそうした人たちは、「ずっといた」。
 オカマなどすらも別に、いないことにはされていませんでした。もちろん、一般的な社会で彼らが語られる文脈は、彼らにとっての望む形ではなかったにせよ。
 その、彼ら彼女らに付されていたネガティブなレッテルが「PC」という裏技で全部ポジティブなものにひっくり返った。それが、ここ数十年の動向であったはずです。
 フェミニストは「歴史」は英語で「history」、即ち「his story」だ、などと言います。近年、有村悠師匠が真顔でこう言っていた時は頭がクラクラしました
 が、それはそうではありません。
 ぼくたちはずっと、「心の参政権」を剥奪され続けて来たのですから。
 このことをファレルは

男性は彼ら自身の司令官になったことは一度もなかった、男性が司令官になったのは守れという命令のためだったこと。


 と評し、ぼくは男性心理の「三人称性」と形容しました。
 もっと言うと「選挙」だの何だの「政治」そのものが(ホントは違うんですが)天下国家を語る、男の「三人称性」を強化させるシステムに他ならなかったわけです。
 だが、しかし、にもかかわらず、あまりにも蔑ろにされ続けて来た「ホワイトトラッシュ」という名の「コビト」が初めて味方を得た、というのがトランプ現象だったはずです。
 そして言うまでもなく、日本においても近いことが起こっています。
 そう、オタクが権利意識に目覚めるなどの傾向です。
 ぼくたちはフェミニズムによって「家庭」も「男性としてのアイデンティティ」も奪われました。しかしだからこそ逆説的に、「正義のために」とか「貧しい人のために」ではなく、「俺のために」行動することに目覚めてしまいました。これもホワイトトラッシュ同様、全てを奪われたが故の立ち振る舞いでしょう。
 むろん、ぼくの「表現の自由クラスタ」の政治活動に対する評価は高くありません。彼らのボスがフェミニストの手先であることは、幾度も指摘してきました。本来であれば男性対女性、或いは人類対フェミニストという対立構造で捉えるべき問題を、彼らは非実在フェミニストを次々と生み出して、妄想社会学の世界に押し留め続けているのですから。
(トランプのやり方について、ぼくには興味も知識もありませんが、ホワイトトラッシュと移民の対立構造で事態を捉えていること、それ自体は正しいのではないでしょうか)
 だから、彼ら彼女らに乗っかっている限り、「オタク」という名の「コビト」の無血革命は成功することは、ないでしょう。
 ぼくたちが「コビト」になったということは、ぼくたちが「女性」であるとか「セクシャルマイノリティ」とかに対する後ろめたさを失ったことを意味します。
 ぼくは「表現の自由クラスタ」はフェミニズムをわかっていない、フェミニズムが「女性が男性に圧倒的絶対的に搾取されているのだ」との現状認識を大前提としていることを、彼らは全く理解していない、と指摘し続けて来ました。
 それは以前にも指摘した、「オタクをセクシャルマイノリティであると強弁し、失敗する姿」、或いは「ペドファイルをLGBTの仲間に入れてもらおうとして、失敗する姿」が象徴しています。彼らはフェミニズムの前提を取っ払ったがため、後ろめたさを持たない、フラットな人権観の主ですが(そしてここまでは正しいのですが)しかる後にフェミニズムにすがろうと考え、フェミニズムを妄信し続ける。その理由が、ぼくには全くわかりません。
 そもそも現実を見る能力が一切ない人たちなのだから、何ら不思議はないと考えるのが正しいのかも知れません。しかし敢えて理由を考えるならば、彼らが「上を見て、我々にパンを」方式の考え方しか教えられていないからかも知れません。自民党を倒せばオタク差別も男性差別もなくなるという摩訶不思議な考えは、「オタクセクマイ論」「ペドファイルLGBTに入れろ論」とワンセットですよね。
 ですが、それにしても、ほとほと、「表現の自由」という切り口を持ち出したことが、彼らの敗因であったと思います。
「俺のために」行動することを、彼らは肯定してしまったのですから。
 そうなっては彼ら彼女らのしがみついている旧時代の強者/弱者観が古びた者であるということが、明らかになってしまうのですから。
 しかし、いずれにせよ、先人であるフェミニストたちのようにこの国のリソースをを食いつぶすだけのやり方では、ジリ貧です。
 何となれば、ぼくたちは何億という数で多数決の勝利を収めた「コビト」、即ちマジョリティなのだから。
 敢えてここで、作品としての「コビト」の続編を考えるとしたら、コビトたちが国のリソースを食いつぶし、寄生主を巻き添えにして共倒れ……とそんなストーリーしか、浮かばないのです。


間違ったサブカルで「マウンティング」してくるすべてのクズどもに(その2)

2017-04-21 23:15:35 | 男性学


「ボクちんたち以外の誰かがボクちんたちの価値を認めてくれないとイヤなんでちゅ!」との不安から恐慌状態に陥り、「他者」を崇拝するカルトに帰依し、入信を拒む者をデマを流して貶め続けている皆さん、お心は安静でしょうか。
 前回に引き続き、そんな人たちのお友だちについてご紹介したいと思います。
 そんなわけで、初めての方は前回記事の方から読んでいただくことを強く推奨します。
 では、そういうことで。

*     *     *

ニューゲンロンデンパV3 みんなのマウントシアイ新学期
CHAPTER.6 さよならゲンロンデンパ

???「それは違うぞ!!
 ――黙り込んでしまった軽一に代わり、声を上げたのは超高校級のサブカルロボット・サーブ。
サーブ「ボクは今まで、ずっと“内なる声の導き”に従ってきました。その自分の今までの行いが間違っているとは、どうしても思えません。サブカルの全てがフィクションだとは、信じられません!」
サブクマ「でも、リベラルの後退と共に“サブカルしぐさ”さえもがおわコン化しつつある……というのは事実じゃないかなあ?」
サーブ「そ……そんな……サブカルのスタイルまでも否定しようと言うんですか!?」
苅須田「サブカルとリベラルはもちろん、イコールではないヨ。でもやはり、70年代サブカルチャーの流れを汲んでいたために、思想性をそれなりに強く受け継いでいたのサ。しかしそうした価値観は、台頭してきたオタク文化と齟齬を生じ始めた――本書ではサブカルとオタクの関係性については極めて饒舌だけど、サブカルと70年代サブカルチャーの関係性については全く言及がない。それは逆説的に、優光がその影響下にどっぷりと浴しているがため、そんな自分に無自覚であることの何よりの証明であるという気が、ぼくにはしたけどネ」
大多子「トランプ騒動の時の町山の馬脚は、『愛國戰隊大日本』騒動のリプレイと言えるよね。町山(ほとんどのメディアもそうだったけど)はトランプの当選の可能性から目を逸らし、妄想の世界に逃亡し、そしてトランプ批判のためにオタクをサンドバッグにする醜態すら見せた*1……」
サブクマ「ぶひゃひゃひゃひゃひゃ! わかりやすく最低な男ですなあ!!」
サーブ「そんなことはありません! そ……そうだ! あなたたちの発言にも大きな誤りがありますよ!」
大多子「へえ、どこに?」
サーブ「さっきからあなた方はサブカルがオタクを叩き続けて来たかのように語っていますが、それこそが嘘です!」
サブクマ「ま……町山がオタクを叩いている箇所を今、指摘されたというのに……?」
サーブ「そんなものはなかったって、本書にちゃんと書いてあるんですから。三章の『サブカルのオタクいじめはあった?』と題される節がそうです!!」
大多子「そう、書いてあるからこそ、サブカルのオタクいじめがあったと確信せざるを得ないんだよね」
サーブ「そんなバカな!!」
大多子「ここでは(たった)二つ(だけ)の伝聞が挙げられているけれど、一件目のオタクをいじめた人物はマニアックな映画を好んでいたわけでもないので、彼の基準ではサブカルではない、二件目はオタクの内輪揉めだろうとの指摘がなされているよ」
サーブ「そうです! 二件目はどう見ても、『エヴァ』マニアが『エヴァ』以外のアニメを好むオタクをいじめたという内ゲバにしか思えません!」
大多子「優光は以下のように言っているよね。

 他の人から聞いた話は「自分もアニメや漫画好きなくせに『俺はサブカルでオタクでない』といってオタク差別から逃げ、一緒になってバカにしてきた」といった内容でした。(82p)


 これ、優光自身のことのようにしか思えないんだけど……何しろ彼は本書の中で、宮崎事件の時期は不当におたく呼ばわりされたと憤っていたのに(47p)、オタクが市民権を得た現在では自分はオタクだと感じているなどと言っているんだから(11p)。挙げ句、彼はこんなことも言っているわ」

 これは「自称・サブカルのイヤなオタクが、世間側にいるふりを装って他のオタクを攻撃してきた」という中森明夫に似た案件なのではないでしょうか?(83p)


サブクマ「サブカルを免責するために全てをオタクのせいにしている、という感想しか抱けませんなあ。そもそもこの人のサブカル定義が恣意的なモノなワケだし」
苅須田「アニメ好きなサブカルも大勢いる、と優光自身が言っているわけだから、この人物をサブカルでないと言うのはいささか恣意的だネ。サブカルは“スタイル”であるとの説を採るなら、他人(ことにオタク)を見下す傲慢な、“意識高いオタク”こそがサブカルであるとの定義も可能なように思うヨ、優光が『サブカルはリベラル』と主張しているようにネ」
サーブ「それは違うぞ!! サブカルとオタクの争いは、岡田斗司夫が捏造したモノなんです!! それは二章の『中森明夫と宮崎勤の“罪と罰”』で詳述されています!!」
苅須田「当人の二、三の見聞と主観とで全てが成り立っている本書の中で、唯一資料性のある箇所だネ。“オタク”という言葉そのものが、中森明夫が『漫画ブリッコ』という当時のオタク雑誌のコラムの中で差別的意図を持って作り出したモノだ、ということは有名だけど、本書ではその連載コラムの主旨が簡潔にまとめられているんだヨ」
サーブ「そうです。そして中森明夫はサブカルという言葉を初めて使い、サブカルを自称した人だけど、本当のサブカルではないから、サブカルに責任はないんですよ」
大多子「お……おう……
サブクマ「アッ、ハイ
苅須田「町山智浩や竹熊健太郎が『サブカルのオタク叩きはなかった』と主張しながら、同時に中森のオタクヘイト発言を持ち出していた(自分の主張を自分で否定して、しかしそのことに気づいていない)ことは兵頭が指摘していたネ*2
サブクマ「ありゃ、メチャクチャでしたな……」
苅須田「優光が兵頭の記事を読んだかは極めて疑わしいけど、時期的に見ても、それに対して言い訳するために大慌てで『中森は実はサブカルじゃなかったんだ』と尻尾切りをした……ように、ぼくには見えてしまうネ」
サーブ「そんなことはありません! 優光の中森評は、音楽についても若者描写も完全に外している人物、となっています。弁明のためではなく、純粋に中森をサブカルだと認めてないんですよ!」
大多子「いや……そりゃそうなんだろうけどね……」
苅須田「本書を見ても、サブカルが何かはわからない一方、実に熱心に『あいつはサブカルじゃない、こいつもサブカルじゃない』と文化人の非サブカル認定にばかり必死だよネ。これじゃ都合の悪い者を切り捨ててると言われても、仕方ないんじゃないかナ?」
サーブ「それは違うぞ!! サブカルとオタクの争いは、岡田斗司夫の意図的な分断工作なんです!!」
大多子「そう、本書の醜悪なところはそうやって中森の責を、実に卑劣にミスリードして岡田の責であるとねじ曲げているところね」
サーブ「ねじ曲げているですって?」
大多子「以下を見て」

 中森明夫が「おたく」という言葉に悪質な意味合いを込めて流通させ、さらに後にサブカルと名乗ったばかりに「サブカルがオタクを攻撃した!」というイメージができてしまい、「関係のない現代のサブカルが未だにその罪に問われるのは本当に迷惑な話です。
(中略)
オタクの友達が言ってましたが、「住民が放棄して廃墟と化していたサブカル村に新しい住民がやってきて生活しだしたら、旧住民に村を焼き討ちされたオタク村の人がやってきて、勘違いしたまま関係ない新住民に襲撃をかけているような状況」ですよ。(59p)


サブクマ「本当に責任逃れのためなら何でも言う、という印象ですなあ。邪気なく自らサブカル村を住み処にしたと吐露しておきながら、責任はないと言う。そこまで言うなら旧サブカル村と新サブカル村に文化的な関連性がないことを説明するべきだろうにね」
苅須田「兵頭は不完全ながら、サブカル(チャー)とオタク文化の断絶について説明しているけど、彼が説明責任を果たしているとは言い難いネ」
大多子「そして、それならばサブカルを“僭称”し、岡田斗司夫の“誤射”を誘った中森が全ての元凶なのかと思いきや、二人が二大戦犯だ、二人とも許せぬと絶叫する。
 呆れたことに、優光は別の章でこんなことを言っているわ。

そういった中、業界内での利権に絡む陣取りゲームのために岡田斗司夫がサブカルとオタクの分断工作を行います。(77p)

利権が絡んでいるだけに中森明夫よりも岡田斗司夫の方がたちが悪いです。(79p)


 そして幾度も幾度も執拗に執拗に繰り返されるこの“分断工作”の、“利権”の具体的な実態については、本書の最後までついぞ語られることがない。普通に考えて、単純にサブカル側がコンテンツを生み出せず、商業的な成功を収めることができなかったというだけのことだと思うんだけれど」
サブクマ「『最初におたくを差別した中森が一番悪い』というなら理解できるけど、どうして『岡田が一番悪い』なのかさっぱりわかりませんなあ」
苅須田「ただ、優光を擁護するわけではないけれど、ソースに乏しいのはここに限らず、本書全体の傾向だよネ。何しろ本書の“参考文献”はたった五つしかないんだしサ」
サーブ「お……岡田のせいです! 大体岡田のせいなんです!!」
大多子「サブカルとは全てを岡田のせいにして岡田が握っている(と彼らが夢想する)利権をモノにしようとしている人たち、或いは既にモノにした人たち、といった定義づけも可能かもね」  
サーブ「ち……違います! サブカルの定義は町山氏の編集してきたモノを指す言葉で――!!」
大多子「そこまで町山がサブカルの体現者なら、やはりサブカルはオタクへのレイシズムそのものと言えるわね。町山はトランプをdisりたい一心でトランプ支持者は萌えオタだと(根拠なく)わめき散らしていたもの」
サーブ「お……オタクがネトウヨなのは事実でしょう!?」
大多子「確かに事実ね、二、三の見聞で全てを決めることが許されるという優光メソッドを用いるならば。また、本書には『嫌オタク流』を扱った、『中原昌也と高橋ヨシキのオタク叩き』という節があるんだけど、何かと思って読んでみれば『二人はアニメ嫌いなだけで大概のサブカルもアニメ好きだから、サブカルもまたあの叩きの対象(被害者)の範疇に入る(大意)』というわけのわからないロジックを展開するのみ」
サブクマ「ぶひゃひゃひゃひゃひゃひゃ! みっともない言い訳もここに極まれりですなあ! あれだけ町山と関係が深い中原と高橋のやることを免責するとは!!」
苅須田「トランプ絡みの件、中原と高橋の件、いずれも兵頭が指摘しているネ*3。もちろんこれも偶然だと思うけど、優光が必死で言い訳本を執筆した直後、またしても町山が馬脚を顕し、兵頭のツッコミを受けた……タイミング的に、そう見えてしまうヨ」
サーブ「み……みなさんはそこまでサブカルを貶めて、何がしたいんです!? サブカル差別として、しかるべきところに訴えますよ!!
大多子「さ……サブカル側がオタクを貶めたことについてはスルーなんだ……?」
サーブ「ボクの“内なる声”が囁くんです。サブカルはオタク文化よりも優れていると……何しろ岡田はロックの素養がないんですから!」
大多子「あのさあ……あなたの言うその“内なる声”って、誰の声だと思う?」
サーブ「え? それは……つまり……」
サブクマ「はぁ~~い、ここでネタバレ!! 超高校級のサブカルロボット・サーブくんの聞いていた“内なる声”、それは“外の人の声”でしたあ!!」
サーブ「え? え……?」
大多子「前回挙げた優光の岡田あーみん評をもう一度見てみようか?」

サブカルというのは圧倒的な異端にあこがれ、それを消費するのだけど、自分自身は決してその領域に踏み込めない存在なのだから。(138p)


サーブ「そ……それが何か?」
サブクマ「その、反吐の出るような薄汚い性根がサブカルの本質ってことだよ!」
サーブ「そ……そんな非道い……」
サブクマ「非道いのは優光の方だよ! 自分は安全地帯にいながら、“外の人”に価値を求める! “内なる声”だと思い込んでいたのは実は外から入って来た、外の価値観だったというオチなんですな!」
苅須田「なるほど……『サブカルはなかった』というのは、サブカルが“他者志向”である、ということだネ。それがフェミニズムやセクシャルマイノリティの解放運動、人種問題など、常に“中央に対し、排斥された周縁の者をカウンターとしてぶつける”という左派の人権思想に近いこと、そしてまた男性の“三人称性”とも合致する、ということは兵頭が指摘しているヨ*4
サーブ「つ……つまりサブカルは弱者の味方だと言うことです! オタクとは違うんです! 訴えますよ!?」
大多子「そう、そういったスタイルがポリティカルコレクトと親和性が高かったわけよね、弱者に寄り添うワタシたちは正しい人間ですっていう」
サブクマ「でもそれって、宗教家が『神様が言ってるよ』『神様の言う通りだよ』と称しつつ、実のところ自分のエゴを神に代弁させているのといっしょだよね?」
サーブ「そ……そんなことは……!!」
大多子「他者指向なサブカルは、自らの内面のニーズに忠実なオタク文化とは、ベクトルが真逆だった……最初から、食いあわせが悪かったのよ」
サーブ「だ……だからサブカルはオタクよりはまだしもリベラルな存在で……」
 ――と、ずっと沈黙していた軽一が割って入った。
軽一「サーブくん、もう止めよう」
サーブ「え……?」
軽一「例えフィクションであっても、僕がサブカルから得た優越感は本物だ。ならば僕は、サブカルを否定するこの裁判を否定する!」
大多子「▂▅▇█▓▒░('ω')░▒▓█▇▅▂うわああああああああ」
サブクマ「反省はゼロですか……」
苅須田「ククク……先の“自らのエゴを神の声だと言い換える”との比喩でもわかる通り、他者指向である限り、人は平然と責任逃れをし続けるんだネ」

ノンストップ議論 開始!

軽一「…………………………」
サーブ「…………………………」

議論スクラム開始

町山君!「サブカルは警官に手加減してもらいつつ暴れる、学生運動家のようなものだったんだよ」
軽一「…………………………」
東君!「彼らがオタクを“オルグ”したがる理由も、今となっては明らかだね」
サーブ「…………………………」
宇野君!「そしてそのためには平然と嘘をつき、糾弾会で政敵を恫喝する……」
軽一「…………………………」
私が!「ホモという“他者”を政治的に利用しようとするサブカル、本当は“腐女子”が憎くてたまらないんでしょうね」
サーブ「…………………………」

サブクマ「どうしたの? 議論しろよ!!」
軽一「僕たちは、この裁判から降りる!」
大多子「だ……ダメだこりゃ……」
サーブ「ボクの武装で、三刈学園を破壊します!!」

GAME OVER
三刈学園の破壊を開始します


大多子「あぁ、何てこと……! でも、まあいいか。これでサブカルという間違ったマウンティングの権化がオタクに噛みついてくることもなくなるでしょ。私、オタク(コンテンツのオリジネータ)として、胸を張っていいよね……」

 大多子とサブクマ、ついでに苅須田、爆炎と爆煙の中に消える。
 全ては崩壊し、一同は全滅したかに見えたが――。

軽一「けほけほ……だ、大丈夫かい、サーブくん?」
サーブ「はい。軽一クンもご無事で?」
軽一「みんな死んでしまったけど、僕たちだけは生き残ったみたいだね……」
サーブ「はい。そのことには、何か意味があるに違いません! オタクは全滅してしまったけれど、学園の図書室だけは破壊せずに残しておきました!」
軽一「何で図書室なんか残したんすかね
サーブ「図書室にはオタクコンテンツがアーカイブされていましたから。この資産を利用して、ボクたちがサブカルを再興するためですよ!」
軽一「なるほど。これから頑張ろう!!」

ゲンロンデンパ END

*1「サブカルがまたオタクを攻撃してきた件  ――その2 オタク差別、男性差別許すまじ! でも…?」
*2 「「サブカルvsオタク」の争いは岡田斗司夫が悪いことにしないと、すごく怒られる件」
*3 トランプについては「サブカルがまたオタクを攻撃してきた件  ――その1 トランプを支持するオルタナ右翼とは?)」を参照。中原師匠と高橋師匠の件は*2を参照のこと。
 ちなみに町山師匠の「オルタナ右翼=アニオタ」発言は8月25日、本書の出版が11月2日。件の発言を扱う余裕はあるだろうし、扱うべきだと思うのですが、まあ、弁護しようがなかったのかも知れません。
*4 「他者指向云々」については*1を参照。「三人称性」については著書に書きました。

間違ったサブカルで「マウンティング」してくるすべてのクズどもに

2017-04-13 23:44:35 | 男性学


 シミルボンに再三のメールを送るも、何ら反応のなく、いまだ卑劣なデマが垂れ流されている今日この頃、みなさんいかがお過ごしでしょうか。
 さて、今回は前回のタイトルの「元ネタ」のレビューです。
 見ていて気づくのはリベラル君たちが既に、ファクトというものに一切の興味を失い、ただ自らの願望をファクトであると思い込むために、自分たちよりも目下の者を叩き続けるその醜さ。彼らは自らのイデオロギーを振りかざすために弱い者いじめをしているのでしょうか、それとも弱い者いじめをしなければ死ぬ、という事情がまずあって、イデオロギーのようなものがあるふりをしているのでしょうか……?
 本書を読んでいけば、何となくその辺に対する答えが見えてくるように思います。

*     *     *

ニューゲンロンデンパV3 みんなのマウントシアイ新学期
CHAPTER.6 さよならゲンロンデンパ


 ――僕は寒原軽一(さぶはらかるいち・声:林原めぐみ)。超高校級のサブカル。
 ふと気づくと三刈学園(さぶかるがくえん)へと編入させられ、マウントシアイ新学期を強要されてしまった。
 学園長を名乗るのは、右と左でオタクとサブカルに分かれたクマのぬいぐるみ、サブクマ(声:TARAKO)。
 しかし……最終章であるCHAPTER.6のサブカル裁判において、僕たちは驚くべき真実を知らされてしまった。仲間だと思っていた超高校級の喪女・紐手大多子(ひもておたこ・声:小松未可子)がいきなり、首謀者としての正体を現したのだ――。

大多子「は~~~~い! びっくりした~~!? サブカルエリートを育成する三刈学園。それは実は完全な虚構。“ギフテッド”、“超高校級”というアンタたちの“キャラ設定”も嘘。“自分をサブカルだと思い込んでいる一般人”であるところのアンタたちの右往左往する姿は、超高校級のサブカルロボット・サーブ(声:柿原徹也)のテレビカメラで中継され、視聴者たちから生温かい目で見られていたのでした!
 うぅん、それだけじゃない。そもそも“サブカル”という概念自体が存在しない、虚構のものだったのでした~~~~!!」
軽一「それは違うぞ!!
大多子「どこが違うのかなぁ~~?」
軽一「これだ……! ロマン優光『間違ったサブカルで「マウンティング」してくるすべてのクズどもに』。本書が各所で話題になっていること、それ自体がこの世にサブカルが存在している動かぬ証拠だと言えると思うんだ」
大多子「それはどうかなあ? その本を読むと、何がサブカルかがわかるのかな?」
軽一「そ……それは……」
???「クックックックック……」
 と、話に加わってきたのは軍服に口元を隠した不気味な男。超高校級のオタク史家・苅須田桑椎郎(かるすたくわしいろう・声:鈴村健一)。
苅須田「仮にサブカルについて知識のない者が本書を読んだとして、サブカルとは何ぞやという疑問に答えが出されることはないだろうネ。もちろん、サブカルそのものの定義づけが困難であるのは万人が認めるところだろうけれども、ともあれ著者の優光のサブカル定義は、以下のようなものだヨ」


「町山智浩が編集者として扱ってきたもの、そしてそこから派生してきたもの/その愛好者」(17p)
「その中で岡田斗司夫が自分たちのものであると主張しなかったもの」(24p)



大多子「ま、万人が納得するような定義づけは困難だから、『自分の定義ではこうだ』と言われちゃそれまでだけど、優光にとってのサブカルってひたすら“90年代文化”なのよねー。兵頭新児があくまでオタク文化に先行するロック文化、ヒッピームーブメントなど70年代型の文化がサブカルだとした*1のとは真逆だよ」
苅須田「本書ではみうらじゅんもまた、メジャーであるからサブカルではないのだと断言されているけれども、それも彼が80年代を背負っている人だからかも知れないネ」
軽一「ちょ……ちょっと待ってよ。つまり、定義づけが恣意的だとの反論だよね? でも君たちが言うように、優光は文中でそれを認めた上で自分なりの定義をしたのだと断っている。それのどこが悪いの?」
大多子「別に、そこを問題視しているわけじゃないわ。私が言っているのは、『サブカルとは何ぞ』という問いを立てた時、普通なら文化ジャンルとしての区分けを期待するんじゃないかってこと。オタク文化については比較的説明が容易よね、漫画、アニメ、ゲームなど。でも、それではサブカル的コンテンツとは何か、本書で語られていたかしら……?」
軽一「そ……それは……」
苅須田「ほとんどゼロと言ってよかったよネ。“町山が編集したもの”と言っているけどその定義だと、サブカルは単なる町山ファンクラブでしかないし、それは町山が“クリエイトしたもの”ですらない。例外的に語られるのが岡田あーみんの漫画だけれども、そこでもその漫画そのものがサブカルだとは言っていない。むしろ、


(引用者註・岡田は異端そのものだが、しかし)サブカルというのは圧倒的な異端にあこがれ、それを消費するのだけど、自分自身は決してその領域に踏み込めない存在なのだから。(138p)


 なんて言う始末だヨ。これも詳述されているわけじゃなく、ここでいきなり持ち出されてきた定義だけどネ」
サブクマ「ひゃっひゃっひゃ! まるでストーカーとか覗き野郎みたいですなあ! “異端に共感する”とか称しつつ、自分は常に安全地帯で覗いているだけ!」
軽一「そ……それのどこに問題が……?」
大多子「問題も何も、それが答えよ」
軽一「え?」
大多子「オタクと言う時、それは“人”を指している。言ってみれば人種を指す用語よね。オタクが好むコンテンツは普通、オタク文化と呼ばれる。それに対し、サブカルと言う時、恐らくほとんどの人がコンテンツを指す言葉と思うんじゃないかしら」
軽一「そ……それはまあ……」
大多子「しかし本書ではサブカルコンテンツがほとんど出てこない。サブカルと言う時、ただサブカル文化人の名前のみが出てくる。挙げ句に上のようなストーカー宣言」
軽一「だ……だから、それの何が問題なんだよ?」
大多子「サブカルコンテンツなどというものは実は、ない。サブカルというのは徹頭徹尾人種を指す言葉だってことよ」
苅須田「それはよく言われる、『サブカルはサブカルが好きなのではなくサブカルを好きな自分が好きなのだ』といった評とも相通じてるよネ。また、サブカルとオタクの争いでよく言われる『サブカルが『エヴァ』目当てに入ってきた』といった見方とも一致しているヨ。更に言えば、サブカルが岡田斗司夫を敵視するきっかけとなった(と、一部では言われている)、『オタク学入門』における『サブカルはアメリカ文化の猿マネ』という指摘とも符合しているネ」
大多子「オタクが“人”を指す、サブカルが“コンテンツ”を指す言葉であるはずなのに、実際には逆。オタクはコンテンツが認められ、サブカルにはコンテンツがない――それが私の『サブカルは虚構』という言葉の意味だよ」
軽一「サブカルは虚構……?」
苅須田「そう考えた時、兵頭と岡田、そして優光のロジックのアウフヘーベンが可能になるネ。兵頭や岡田が念頭に置いているであろう70年代文化なりロック文化なりを略称ではないサブカルチャーと位置づけ、それらに独自のアプローチで接している90年代に活動した人たちがサブカルである、と」
サブクマ「うぷぷぷぷ! つまりサブカルってのは実体を持たない幽霊、他人に取り憑いて他人のおこぼれに与るウイルスや寄生虫みたいな存在ってことだよ!!」
苅須田「そこまでは言わなくても、サブカルがコンテンツへの“アプローチ法”、“スタイル”であるということは言えそうだヨ」
軽一「仮にそうだとして……それのどこが悪いって言うの?」
大多子「それ自体は悪くも何ともないわ。でも、それがサブカルの嫌われる原因じゃないかなーって。オタク文化を楽しむまでならいいけど、サブカル流をオタクにまで押しつけようとするんだから。
『間違ったサブカルで「マウンティング」してくる――』はまさそうしたサブカルの欠点を看破した、極めて優れた自己省察的なタイトルよ……惜しむらくは本文はそうじゃないことだけど」
サブクマ「本文では、それについて必死で責任転嫁し、醜悪奇怪な言い訳が繰り返されるばかりでしたなあ!」
軽一「そんな……!」
サブクマ「この本、タイトル以外も章タイトル、節タイトルを見ていると頷けるんですな。『サブカルおじさんの害』とか『なぜサブカルは自分はオタクだと言いたがるのか』とか。私見だけどこの著者、編集者の作った目次案に従って、自分でもよくわかんないままに筆を進めてたんじゃないかなあ……」
軽一「本当にこの本を読んだの!? もし読んでいたら、そんなことは言えないはずだよ。本書は町山氏をこそサブカルの祖としながら、その町山氏への極めて忌憚ない批判がなされているんだ」
大多子「へえ、『町山が水道橋とイチャイチャイチャイチャしている、ボクの愛する町山さんを取るな! 町山さんとチューをするのは俺だ!!』と延々延々ジェラシーを爆発させているだけの、┌(┌^o^)┐ホモォ...な内容(p105、p146)が!?」
軽一「それはお前が腐女子だから、歪んだ見方をしているだけじゃないか! 優光は町山氏が水道橋氏と組むと羽目を外してしまう傾向がある、“若者だから許される悪ふざけを、若者を押しのけてやっている老人”だと批判しているんだ!」
大多子「そう、サブカルには新しい人材の流入が全くない、サブカル全体が高圧的な態度を取る老害になりつつあるとの批判は当を得ていると思うわ。そうした点は、本書の大変に評価できる点ね。でも、本書はその全体が主観的情緒的ゴシップ記事的筆致に貫かれていて、特に町山×水道橋批判はどう見ても恋の鞘当てにしか見えないわね。薄い本が厚くなりそうよ!」
サブクマ「もちろん、腐女子以外から見ればキモい中年男性のキモい嫉妬でしかないんですけどね! いやあ、本当にキモ過ぎますわ、これ!!」
軽一「それは違うぞ!!
大多子「何が違うのかな?」
軽一「そんな言い方はゲイへの差別だ! すべきじゃないよ!!」
大多子「はあ? 確かにリベラル的な考えを妄信するサブカルらしい意見ね。本書でも町山が水道橋との仲のよさを『俺たちホモ関係!』とアピールしているのに、差別だと苦言を呈しているよね。でも同時に、この二人がキスをしたりしているのをキモいと腐してもいる。こうした言動に矛盾を感じずにいる優光の感受性が、私には理解できないわ。町山と水道橋の仲に嫉妬する余りとはいえね」
軽一「優光はちゃんと、いちゃいちゃすることは悪くないが、好意を持ってない者が見たらキモく感じるのだ、と留保をつけているよ!」
大多子「それは好意のない同性同士のいちゃいちゃはキモいってことでしょ? 不誠実な言い逃れだよ」
サブクマ「リベラルの人権派ごっこが、いかにデタラメかがよくわかりますなあ!」
大多子「他にも本書ではサブカルのホモソーシャリティ、ミソジニーを批判する箇所がある(p123)。いちいち『オタクよりはマシだ』と見苦しい言い訳をしつつだけどね」
軽一「で……でも、内省があるだけマシじゃないか!」
大多子「そうかな? この薄っぺらな内省や上の世代への批判は、サブカルの特徴をよく表していると思うわ」
軽一「というと?」
大多子「優光は無批判に、いいことであるようにサブカルを『オタクに比べればリベラルな感じのする』と評している(p124)。でもそのリベラル的価値観は、もはや古びたものであるということ。本書を読む限りサブカルとは沈没しつつあるリベラル船に乗ったまま、あたふたしてる存在にしか見えないってことだよ」
苅須田「それはまさに兵頭の指摘した、左派SF団体が『愛國戰隊大日本』に文句をつけた件*2と相似形だネ」
大多子「優光の町山批判にもそれは見て取れるよね。彼は町山の反原発デモがみっともなかったと批判しているの(p143)。その詳細、自分がどう感じたかについて『前著で書いたので敢えて書きません』と書いた数行後に延々延々、ダラダラダラダラ不満を述べ始めるのが奇観だけど」
サブクマ「ま、デモ自体を非常に格好の悪い、時代遅れなものだというのは一般的な感覚だと思うよ。この恨み言は中学生時代は格好いいと思っていたお兄ちゃんが実はダメダメだったことに対する愛憎を処理できてないって感じだけどね。リベラルがダサいものになっていったことを肌で感じつつ、今更離脱もできず、グダグダグチを垂れながら、『でも悪いのはボクじゃない』って言ってるだけなんですな」
大多子「そう、本書を読んでいて感じるのはお兄ちゃんへの愛憎、濃厚なホモ臭だよ」
軽一「え……?」
大多子「アナタたちサブカル側のレトリックを用いれば“ホモソーシャル”ということになるのかしら」
軽一「そ……それはお前が腐女子だから――!!」
大多子「それはどうかなあ?」
 ――と、大多子の姿が一転、メガネのとっちゃん坊やに変わった。
町山智浩「それは違うよ!! サブカルの本質が“ホモソーシャル”そのものだったんだ。それは優光の著作が何よりも雄弁に物語っているじゃないか」
軽一「そ……それは……って、な……何でお前が町山氏になるんだよ!?」
 ――と、町山が一転、また大多子に……。
大多子「コスプレだよ。コスプレはオタク女子の嗜みでしょ?」
 ――と、今度は岡田斗司夫よりは多少マシな程度のデブに……。
東浩紀「そう、サブカルはコンテンツではなく、データベースを消費するのみの動物化した消費者に過ぎなかった……そしてそんな彼らのホモソシアルなスタイルそのものだったんだよ!」
宇野常寛「兵頭が指摘する通り、ホモソーシャリティそのものが悪だとは言わない。しかしオタクをホモソーシャルだ、ミソジナスだと言い募り、酸鼻を極めるバッシングを執拗に繰り返しておきながら、自分たちこそがホモソーシャリティそのものだというのはいただけないな」
宮台真司「本書の第四章が『カリスマはいなくなった』であるのが象徴的だね。コンテンツではなくカリスマを頂点とするヒエラルキーがサブカルの本質。まさにオタク文化とは相容れない存在だ」
高橋ヨシキ「サブカルって元々そうじゃん。自分たちの方がマッチョなクセに、keyのゲームは障害者をレイプするモノだ、などとデマを撒き散らしたりしてな」
加野瀬未友「それも、自分の子分を手先に使ってね。自分自身の作り上げた人工事実を信じ込み、息を吸って吐くようにデマを垂れ流し、オタクを攻撃する……」
中原昌也「ぎゃーっはっはっはっはっは! それがサブカルか! クールすぎんよ、おい!!」
津田大介「サブカルのホモソーシャリティは、70年代的な若者文化が源流にあるからだろう。あの頃は、アニキに憧れて格好いい若者文化を嗜むことが、少年の成長にシンクロしていた。時代の流れに乗れなかったサブカルは、いまだそれを引きずっていると言えるかも知れないね」
有村悠「彼らはオタクが子供文化に引き籠もっていることが許せなかったんだね。『俺のお稚児さんにならぬとは許せん!』と。本書には岡田斗司夫が利権のため、サブカルとオタクの分断工作を行ったのだと書き立てられているけれど、見事なブーメランだな」
荻上チキ「見ていて奇妙なのは、分断工作をしているのはどう見ても優光自身だということだよ。彼は実に熱心に『○○はサブカルじゃない、××はサブカルじゃない』と繰り返すんだから」
竹熊健太郎「彼の非サブカル認定を読んでいて、例のシーンを思い出したよ。


「男の子もイヤ、パパもママもイヤ、みんな嫌なの。誰も私のこと守ってくれないの。いっしょにいてくれないの。だから一人で生きるの。でもイヤなの。つらいの。一人はイヤ! 一人はイヤ! 一人はイヤ……!!」


 彼の心情は、そんなところだろうね。まさに“Eの呪い”だよ」
斎藤環「自分たちが新たなコンテンツを生み出せなかったからサブカルが衰退したということには目を伏せて、『俺たちに股を開かなかったオタクが悪い』と言われてもね。萌えなど、オタク文化が子供文化からのスピンオフということは精神分析的にも自明だけれども、それってアニキが不甲斐ないからじゃ……」
原田実「そう、サブカルはなかった。あったのは“サブカルしぐさ”だけ。なるほど、サブカルが『オタクは死んだ、オタクは死んだ』と繰り返すのは一種の“偽史”への情熱なんだね。何しろ自分たちは『最初からいなかった』んだから」
後藤和智「サブカルは最初から、間違った若者論によるマウンティングでしかなかったんだ」
町山智浩「そう、サブカルはなかったんだ。フィクションの存在だったんだよ」
軽一「そんなバカな……!」
大多子「ぜーんぶ、フィクションなんだよ。ぜーんぶ、嘘なんだよ。
 今までサブカルがやってきたことは、何もかもぜーんぶ……“嘘”! なんだよ!!」
軽一「それじゃあ……亜仁木田クンが僕に託した……想いも……?」
 ――超高校級の兄貴・亜仁木田保茂郎(あにきだほもろう・声:木村良平)はマウントシアイを阻止しようとして、結果的にクロとなり、散っていった人物。軽一の兄貴分として、今までずっと彼の心の支えとなっていた男だ。
軽一「ラブアパートで僕に優しくしてくれた亜仁木田クン……それも全部嘘だったって言うの!?」

 BAD END

 後編を読みますか? 読む 読まない

■補遺■
 え~と、いらっしゃらないと思いますが、もし後半の文化人連中の名前で検索していらっしゃった方がいたとしたら、一言説明しておきます。これは某ゲームの「悪のボスが今までの善玉キャラに次々変身して(勝手なことをしゃべって)いく」というシーンのパロディなので、余り深く考えないでください。

*1 「サブカルvsオタク」の争いは岡田斗司夫が悪いことにしないと、すごく怒られる件
*2 同上

間違ったフェミニズムで「マウンティング」してくるすべてのリベどもに

2017-04-07 20:33:54 | 男性学


 市川大河という何だかよくわからない御仁がいます。
 グラサンにハゲにヒゲという893紛いの、オタクとは180°違うルックスをツイッターアイコンにして睨みを利かせていらっしゃるのですが、どうも特撮やロボットものがお好きでいらっしゃるらしい。度々問題を起こしておいでらしく、2chにウォッチスレなどを立てられている御仁なのですが、例の「ガンダム事変」*1の時にぼくに噛みついてきて、それ以降もことある毎にそれを蒸し返しておいでのご様子です。
 先日、この大河アニキはシミルボンの『機動戦士ガンダムを読む』第3回でぼくをやり玉に挙げていらっしゃいました。

 数年前Twitterで、『ぼくたちの女災社会』等の著書を持つ兵頭新児氏が、「『ガンダム』って何となく女性ファン少なそうな気がするけどな。シャアなんか明らかに市川治の系譜を狙ってたはずだが。とは言え、やはりその市川治でもわかるように腐女子が「男の世界に乱入してきた存在」であることには原理的に変わりようがない」とツイートし、『機動戦士ガンダム(以下『ガンダム』)』(1979年)ブームを直撃で体験した筆者などの身からすれば、考えられないレベルの歴史修正主義的な見解を披露して、大炎上したという案件があった。


「『ガンダム』って何となく女性ファン少なそうな気がするけどな。」という発言を「考えられないレベルの歴史修正主義的な見解を披露し」たと評しておいでですが、いかがでしょうか。
 仮にぼくが「昨日は何となく雨だった気がするけどな。」と発言したとして、それが勘違いで実際には晴れであったとしても、「歴史修正主義」とは呼びませんよね。「何となく」「気がする」と言ったくらいでそんな風に糾弾されるなんて、恐ろしい話です。ヘイトスピーチ規制法成立後の世界では、こういうことが通用してしまうのですね。
 まさかとは思いますがこの人たち、別の場所では「表現の自由」などと口走っていらっしゃらないでしょうなあ(……って、当時も書いたな、このツッコミ)。
 そう、通常の感受性を持っていたら絶対におかしいと感じる、論理的な整合性の完全に破綻した文章。これは、加野瀬未友が「市川治」「何となく」「気がする」といった諸要素をカットして表題にしたのに対し、アニキはそこをカットしなかったがために生じた珍事です。まあ、カットしなかっただけ正々堂々としているとも言えますが、そのために万人の前で彼らの異常性が露呈される結果となってしまいました。
 ただし、加野瀬も表題(リード文)でミスリードを誘っていただけで、ツイートそのものは「市川治」「何となく」「気がする」といった発言を含むものもそのまま、アップしていました。やはり彼ら、最初から何も考えていなかっただけかも知れません。それで騙される人々(例:鋼鉄サンボ、新井博之助、原田実)の知的能力が心配になって来ますが。
「自分の気に入らぬ発言は絶対に許してはならないのだ」と絶叫を続ける彼らですが、その一方、その反論として出してくるのは決まって「自分にはファンの女友だちがいた」という超主観的なものなのも奇妙です。彼らの青春時代と、それに対する彼らの想いが窺い知れ、胸に熱いものが込み上げますね

*1「ガンダム事変」についてはもう、蒸し返すのもイヤなんですが、絡んでくるのだから仕方がありません。
 ぼくが「『ガンダム』はロマンロボ(市川治さんの出演する諸作品)に比べると何となく女性ファンが少ない気がする」とツイッターでつぶやいたところ、サブカルライターの加野瀬未友がtogetterに「市川治」「何となく」「気がする」を抜いた形のリード文でミスリードさせ、子分たちを焚きつけて狂ったようにこちらを叩いてきた、という事件です。
 詳しくは以下を参照。
『ガンダム』ファンの女子は少ない気がすると言っただけで政治的論争に組み込まれちゃった件
「1stガンダムに女性ファンは少なかったと主張する兵頭新児氏とそれに対する反応」というデマまとめについて
「ホモソーシャル」というヘンな概念にしがみつく人たち


 さて、上の記事は最近のものなのですが、これをきっかけに、しばらく前にもアニキによる誹謗中傷が同じくシミルボンで記事にされていたことに気づきました。
既に30年前に「となり」じゃなくて真正面にいた801ちゃん」がそれです。
 ちょっと長くなりますが、引用してみましょう。

そもそもが、「腐女子という生き物」は、兵頭新児氏がどんなに頑張って、陰謀論でアニメファン歴史を上書きしようとしても、コミケ創設の前から、アニメファンの最前線で、『海のトリトン』(1972年)とかのファンクラブを支え築いたり、『機動戦士ガンダム』(1979年)だって、正直アレを、男子小学生と思春期男子が支えてたという根拠は、ガンプラの売り上げでしか証明できないわけで、当時から「ガルマ×シャア」だの、801カップリングが、同人誌どころか月刊『OUT』とか月刊『ふぁんろ~ど』等の読者投稿やパロディ漫画で、盛り上がるだけ盛り上がってきたわけであって、アニメオタク市場の歴史は、腐女子と共にありという歴史は書き換えられないでしょ? としか言いようがないのである。


 う~ん、ぼくが「腐女子などこの世に存在しない」とでも言ったのであれば、大河アニキの主張も理を持つのですが、当然、そんな事実はありません。
 一体、アニキのぼくに対する認知の歪みと憎悪は、何に端を発するものなのでしょうか。
 実は今日、ツイッターで興味深いつぶやきを見つけました。
『アニメック』というアニメ雑誌の画像なのですが、1980年6月号とのことで、長浜忠夫監督のインタビュー記事です。





 長浜監督は『コンバトラーV』、『ボルテスV』、『闘将ダイモス』といったロボットアニメの総監督です。これら諸作品は上にも述べたように敵として美形キャラが登場し、声をあてたのが人気声優である市川治さんだったこともあり、女性ファンを多く獲得したことで知られ、「ロマンロボ」と呼ばれたりもします。
『ガンダム』のシャアはこうした市川さんの美形キャラの流れを汲んでいるけど、これらに比べ、殊更女性ファンが多い感じはしない、というのがぼくの感想だったのだから、加野瀬も大河アニキも最初っからこっちの発言を掴み損ねているわけです。
(加野瀬がぼくに最初に絡んだ時、ぼくが最初から市川治さんの名前を出していたことを見落とし、ぼくがこうした流れを知らないものと決め込んでいたことが実に象徴的です)
 さて、少し長浜監督の発言を引用していきましょう。

長浜 そうです。一番良くない見方として、たとえば前の作品ですと、ハイネルが出て来て喜ぶ人がいますよね。すると周囲が冷やかし役をやって「キャ~あなたのハイネル様が出てるわよ~ッ」「イヤ~ン」てなことをやっている。まあこういう見方もあるんでしょうけど、ストーリーは心に残らないですからね。これが極端になると「私のリヒテル様をなぜ殺した!」なんて抗議が来ます。


 かなりお怒りのご様子ですね。このハイネル、リヒテルはそれぞれ『ボルテス』、『ダイモス』に登場し、市川治さんが演じた敵の美形キャラです。この引用箇所の前には、当時放映中であった自身の監督作品、『ダルタニアス』のワンシーンを女性ファンから「おかしくて笑っちゃった」と言われたことにいたくご立腹でいらっしゃった様子が書かれています。
 ちなみに『ダルタニアス』においても市川治さんが敵キャラを演じたのですが、美形と言うよりはヒゲのオッサンになっていまいました。これについて、「美形を出すことに嫌気が差したのだろう」と感想を漏らしていた方もいらっしゃいました。
 ただ、ここで敢えてこの女の子たちの弁護をするならば、この当時はこの種のシリアスな作品をからかうことが盛んであり、オタク文化のある意味では主流であったのです。
『うる星やつら』はそうしたニヒリズムを前面に押し出した作品と言えますが、いわゆる二次創作、当時「アニパロ」と呼ばれていた(アニメパロディの略)一群の作品は「元ネタをおちょくる」という性質が強く、また、その描き手はまさに大河アニキが真っ赤になって主張するように女の子たちがメインでありました。
 ただ、こうした腐女子どもが全て「本質がわかっていない」かとなると、そうとばかりも言えないのでは、と思います。事実、先のインタビューでも長浜監督が女性の作った硬派な評論同人誌を採り挙げ、べた褒めしています。
 アレ? アニキは「男が評論同人誌を作る傾向にあること」を強調し、disっていたような……?
 まあいいでしょう。
 パロディって、少なくともオタクにとっては「反体制」ではなくむしろ「愛」なんですね。正直、ヒーローものをからかうような女性ファンの手つきに対して、ぼくも不快になることは度々ありますが、それは「気難しいお父さんが食事を、入浴をしている時だけ無防備なのに、じゃれついている」的なもので、悪意はないわけです。

 さて……大河アニキ、今どんな気持ち?
 今、ここを読んでいるアニキは顔を真っ赤にして、怒っておいでだと、ぼくは想像します。
 何故か。
 上のアニキの記事をもう一度見てください。
 アニキは文脈に何ら関係なくぼくの著作のタイトルを名指ししています。加野瀬もこれと同様の振る舞いに出ておりましたが、彼らはこのタイトルを表示した段階で、ぼくを論破した気になれるというスキルをお持ちでいらっしゃるのです。何となれば女性に対してはいかなる批判も許されないというのが、彼らの価値観なのですから。
 随分久し振りに蒸し返しますが、以前、東浩紀師匠がBLに対して「男のホモソーシャリティを風刺した表現」というびっくり仰天な解釈を施して、失笑を買ったことがありました*2。
 リベラル君たちがとにもかくにもフェミニズムに平身低頭するのは、それにより「自分以外の男たち」に対し、アドバンテージを得ることができるという勘違いを端に発しています。そう、それはアニキの文章を見るとよくわかりますね。「男よりも先へ行っている女性、その女性を理解する自分」という彼の自意識は、「(自分には)彼女さん(がいた)」と繰り返す切ない文章から溢れ出しています(彼らが目下のオタク文化に憎悪を抱く傾向にあるのは、そうした当時の幻想が打ち砕かれたからでした)。
「ガンダム事変」の本質は、彼らが正義になるために、「女性を理解しない悪者」を必要とした、ということでした。
 必要だが、非実在だった、ということでした。
 それでも必要なので、従軍慰安婦くらいに痴漢冤罪くらいにムリヤリに捏造した、ということでした。
 そういうことだったのです。
 東師匠がそうであったように、彼らの頭の中は女性を「兵器利用」することでいっぱいでした。
『ダイモス』では民間のロボであるダイモスを接収しようとする、防衛軍のタカ派軍人が悪役として登場しますが、彼らのやろうとしていることもこれと同じだったのです。
「ボクたちの代わりに、おにゃのこたちにボクたちの嫌いなおじさんたちをやっつけてもらおう」が彼らのホンネでした。多分、戦闘美少女物のアニメを見て現実と虚構を混同してしまったのだと思います。
 しかし、腐女子たちは別に、男を風刺する意図など持ってはいませんでした。
 男をからかっているようにも見えますが、それは彼女らの好きな、萌えキャラに対してのみの感情で、リベラル君たちの大嫌いなおじさんたちをからかおうとは、してくれませんでした。
 上に「気難しいお父さん」と書きましたが、むしろ腐女子たちは男性キャラをそのような位置に見ていることが多いわけです。『なぜ、腐女子は男尊女卑なのか?』という(腐女子による)本があったのですが(いえ、未読なのですが)このタイトルはなかなかことの本質を捉えています。

 敵に対しては「歴史修正主義」といった虚偽のレッテルを貼りながら、シミルボンというネットマガジンを利用して、歴史の修正を続ける大河アニキ
 しかし、以上のことからもわかるようにそれは、「彼らの村では何ら疑うことなく正義とされている」振る舞いでした。
 いくら何でも……と思い、シミルボンさんには以上の経緯を(できるだけ冷静に)お伝えし、記事について再考をお願いしたのですが、今のところ、お返事はいただけておりません。
 これからも彼らはサンドバッグを求め、捏造と誹謗と恫喝と歴史修正とデマの拡散の限りを尽くすのでしょう。
 めでたしめでたし。

*2「東浩紀「処女を求める男性なんてオタクだけ」と平野騒動に苦言(その2)」


■補遺■

 結局、シミルボンには三回に渡ってメールを出したのですが、現時点で全くのノーリアクションです。
 まあ、正常な読解力があればまずあの文、載せませんしなあ……。